高田浩運
表示
| 高田浩運 たかた こううん | |
|---|---|
| 生年月日 | 1914年2月4日 |
| 出生地 | 熊本県玉名市 |
| 没年月日 | 1977年7月17日(63歳没) |
| 死没地 |
東京都目黒区 (東京国立医療センター) |
| 出身校 | 東京帝国大学 |
| 前職 | 厚生省事務次官 |
| 所属政党 | 自由民主党 |
| 称号 |
従三位 勲二等旭日重光章 |
| 選挙区 | 熊本県選挙区 |
| 当選回数 | 2回 |
| 在任期間 | 1968年7月8日 - 1977年7月17日 |
高田 浩運(たかた こううん、1914年2月4日 - 1977年7月17日)は、日本の政治家、厚生官僚。位階は従三位。勲等は勲二等。参議院議員(2期)。
経歴
[編集]1914年(大正3年)熊本県玉名市生まれ。熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、1936年(昭和11年)、東京帝国大学卒業後、内務省に入省する。1937年(昭和12年)に香川県警警務課長。
1941年(昭和16年)に厚生省に配転され、1945年(昭和20年)より同省庶務課長、1955年(昭和30年)より医務局次長、1956年(昭和31年)より児童局長、1960年(昭和35年) より官房長、1962年(昭和37年)4月より保険局長を経て、同年7月社会保険庁長官に就任。1963年(昭和38年) に厚生事務次官となる。
1965年(昭和40年)2月、事務次官を退き厚生省を退官。同年7月の第7回参議院議員通常選挙に熊本地方区(改選数2)から 自由民主党公認で立候補するも、3位で次点となる。その後、1968年(昭和43年)第8回参議院議員通常選挙に再び熊本地方区から立候補しトップ当選。1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙でも再選する。
しかし、2期目途中の1976年暮れに病に倒れて療養していたが、議員在職中の1977年(昭和52年)7月17日、転移性肝腫瘍のため東京国立医療センターで死去した[1]。63歳没。同月22日、特旨を以て位四級を追陞され、死没日付をもって従五位勲五等から従三位勲二等に叙され、旭日重光章を追贈された[2]。哀悼演説は同月30日、参議院本会議で上田哲により行われた。
高田の死去に伴う欠員補充の補欠選挙は同年9月4日に執行され、自民党公認の田代由紀男が当選し、議席を継承している。
元秘書
[編集]- 島津勇典(玉名市長)
脚注
[編集]- ^ 第81回国会 参議院 本会議 第3号 昭和52年7月30日
- ^ 『官報』第15162号13-14頁 昭和52年7月26日号
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 柳田桃太郎 |
1972年 - 1973年 |
次代 寺本広作 |