江本孟紀

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江本 孟紀
高知ファイティングドッグス 総監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県高知市
生年月日 (1947-07-22) 1947年7月22日(69歳)
身長
体重
188 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1970年 ドラフト外
初出場 1971年4月11日
最終出場 1981年8月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
日本の旗 日本の政治家
江本孟紀
えもと たけのり
生年月日 (1947-07-22) 1947年7月22日(69歳)
出生地 高知県香美郡土佐山田町(現:香美市
所属政党 スポーツ平和党→)
自由の会→)
フロムファイブ→)
民政党→)
民主党→)
国民新党

選挙区 比例区
当選回数 2回
在任期間 1992年7月27日 - 2004年1月13日
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江本 孟紀(えもと たけのり、1947年7月22日 - )は、高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)生まれ、同県高知市出身の元プロ野球選手投手)。

現役引退後は野球解説者野球評論家政治家タレント俳優実業家として活動している。元民主党高知県連顧問、元スポーツ平和党副代表、元参議院議員(2期)(スポーツ平和党→自由の会フロムファイブ民政党→民主党)。

株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督。

居住地[編集]

現在は東京都港区白金在住。

経歴[編集]

高校・大学時代[編集]

警官の実父の転勤に伴い小学校時代は転校を数回経験したが、野球に打ち込んだ。高知商ではエースとして1964年の秋季四国大会決勝に進出、小坂敏彦のいた高松商を降し優勝を飾る。1965年春の選抜への出場を決めたが、部員が不祥事を起こしたため辞退。同年夏の高知大会も出場停止処分によって参加できなかった[1]

その後、第1回プロ野球ドラフト会議西鉄ライオンズから4位指名を受けるが、元々大学進学希望だったため入団を拒否し、法政大学経営学部へ進学した。この時の西鉄1位指名が同じ高校で同級生の浜村孝であったため、4番で投手の自分が4位指名で、3番打者の浜村が1位指名であることに納得できなかった、とされているが江本はこれを否定している[2]。大学時代は1年生の春からベンチ入りするも、監督の松永玲一の方針に合わず幾度となく反発、最終シーズンはベンチ入りからも外れ、半ば退部状態となった(後に松永とは和解する)。東京六大学リーグ戦通算14試合に登板し6勝1敗、防御率2.35、39奪三振[3]。法大の1年先輩には「法政三羽ガラス」の田淵幸一山本浩司富田勝、同期には東京六大学リーグ戦で史上最多の通算48勝を挙げた山中正竹をはじめ、黒田正宏堀井和人らがいる[要出典]

社会人野球からプロ野球へ[編集]

大学でのプレー後、社会人野球熊谷組へ進む。第41回都市対抗野球大会に出場。在職中には、公共事業の入札に参加した事もあった(『おれ、紆球曲球』より)。1970年ドラフト外東映フライヤーズに入団。初年度の1971年は中継ぎしか出番がなく1勝もできなかったが、同年オフに南海ホークス監督の野村克也が才能を見抜き、佐野嘉幸と共に、高橋博士との交換トレードで入団わずか1年で移籍する。江本は「東映よりは全然よかった。東映は恐ろしかったもん。張本さんにさんに大杉さん。南海は門田とか黒田とか、堀井とか同級生がいっぱいいたし。全然違和感がなかった。」と語っている[4]

期待の証として野村に背番号16を与えられた。移籍後の初挨拶のとき、いきなり野村に「おまえには10勝以上してもらうからな」と言われて驚愕するも感激。「プロでまだ1勝も出来ないでいた自分にこんな期待をかけてくれるなんて」と思ったが、実は野村のこの一言は、負けん気の強い江本の性格を知り抜いての策だった。野村のこの一言に発奮した江本は移籍初年度の1972年に背番号と同じ16勝を記録し、一躍ホークスのエースになった。先発・中継・リリーフを無難にこなし、1973年には前期最高勝率及びプレーオフ進出に貢献、プレーオフ第5戦9回2死に一打同点の場面で阪急の代打本塁打世界記録保持者、高井保弘を迎えたところで救援、見事空振り三振にとって胴上げ投手となった。しかし、それまで抑えの切り札佐藤道郎が投げており、江本は急遽登板で調整も全くしておらず、審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと後に著書で述べている。江本は「野村さんがいなかったら今の自分は完全に存在していない」と常々語っている[5]

1974年にはオールスターゲームへの出場を果たして第2戦に先発。阪神タイガース江夏豊と投げ合い、翌1975年オフに両投手はトレードされた(ホークスからは島野育夫長谷川勉池内豊。阪神からは望月充を加えた4対2の交換トレード)。その際、江本を格下に見ていた江夏との間で激しい舌戦を交わしているが、後に和解し、1993年に江夏が覚せい剤取締法違反で逮捕された際には、江本も法廷で情状陳述を行い[6]、服役中も度々刑務所に面会に訪れて[要出典]江夏をサポートするという間柄になった。

ホークス時代に「ノムさん(野村克也)のリードのせいで打たれた試合で腹が立ったのでベンチでノムさんをヤジった」とのエピソードがある。ベンチで誰も止められないほど荒れ狂う江本を止めたのはコーチの古葉竹識の「おい、やめとけよ」の一言だったという。一見すると温厚で紳士然としている古葉のドスの効いた一言に江本は我にかえるほどの恐怖感をおぼえたという[7]

阪神移籍後初のキャンプでは甘いマスクで女性ファンの人気を集め、キャンプ地は押すな押すなの盛況となった。阪神ではエースとして活躍するも、1978年オフに起きた江川事件で巨人からトレード移籍してきた小林繁にナンバーワンエースの座を奪われる(小林が移籍した1979年、小林は22勝、江本は12勝だった)。練習は手抜きの名人だったという。その後、監督の中西太の起用に不満を募らせ、先発で登板した1981年8月26日の対ヤクルトスワローズ戦(甲子園球場)の8回表途中に交代を命じられると、新聞記者などを前にベンチ裏で「ベンチがアホやから野球がでけへん」と発言(後述)。この発言が「監督批判」というニュアンスで翌日のスポーツ紙を賑わせたことから、「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪したうえで、同年限りでの現役引退を表明した[8]

なお、阪神への移籍後は、南海時代に野村が禁じていた口ひげをトレードマークのように生やしていた。その一方で、クラウンライターライオンズから大型トレードで移籍した1979年から正捕手を務めた若菜嘉晴と共に、絶えず黒い交際を噂されていた。しかし実際には、阪神で選手会長を務めたこともあるほど、選手からの人望があった。酒も飲まず、かなりの読書家であり、根は真面目であったという[要出典]

タレント活動から政界へ[編集]

1982年に発売された著書『プロ野球を10倍楽しく見る方法』が200万部を超えるベストセラーとなった。1982年からはフジテレビニッポン放送野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家の傍ら、タレント活動も行い、映画、ドラマ、バラエティ出演、歌手デビュー、週刊誌コラム、コメンテーターなど、1989年からは三田寛子とフジテレビ系ドキュメンタリー番組『なんてったって好奇心』の司会(三代目)を務める[9]

その後政界入りし、1992年7月の第16回参議院議員通常選挙スポーツ平和党より参議院比例代表選出で出馬し、初当選する。1995年、党の副代表を辞任、離党して無所属になる。その後、自由連合無所属の会に短期間在籍(当時の無所属の会は院内会派で、政党化は1998年)。総理大臣指名選挙で支持した橋本龍太郎総裁を務める自民党入党も検討したが、細川護熙らと1997年12月26日、フロムファイブ、1998年の1月23日民政党、4月27日民主党の結成に参加。長嶋茂雄読売巨人軍監督の支援も受けて1998年7月の第18回参議院議員通常選挙に、民主党より比例代表選出で再選。1999年8月12日成立の通信傍受法案など組織犯罪対策三法案では、反対の党議に従わず退席した。2001年1月から8月にかけて(第151回・152回国会)参議院内閣委員会委員長。[10]

2004年に民主党を離党し、大阪府知事選に立候補。自身最後の政治活動として表明し、選挙に臨んだが、当時知事であった太田房江に完敗。その後も自身が代表の政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」は現在も大阪府知事候補としての総務大臣届出資金管理団体として存続している。また、法大の同窓で1992年参院初当選同期の平野貞夫小沢一郎ら政治家や言論人などとも交流が続いている[要出典]

世界各国での活動[編集]

2004年10月、アメリカ合衆国独立リーグであるノーザンリーグに加盟を予定していたカルガリー・フォースの特別顧問(スペシャルアドバイザー)に就任することを発表した。同球団は日本人の三沢博明と樋口直人の出資によるもので、彼らの依頼を受けた形だった。就任会見の席で2006年度からの日本独立リーグの設立構想を明かし、設立後はこちらもコミッショナーに就任することが予定されていた[11]。しかし、カルガリー・フォースは進展がなかったことから、三沢と樋口は同年12月にリーグから運営権を剥奪されて頓挫(地元の経営者が引き継ぎ、カルガリー・ヴァイパーズとなる)。それに連動する予定だった日本独立リーグも事実上頓挫した状態になっている[要出典]

その後、2005年4月にアメリカ独立リーグのゴールデンベースボールリーグのバイスコミッショナーに就任し、このシーズンのみ同リーグに参加したジャパン・サムライ・ベアーズにも人脈面などで援助した。ジャパン・サムライ・ベアーズがシーズン後に日本でクラブチームなどと試合を行った際には監督を務めた。同年11月にはジャパン・サムライ・ベアーズは日本のクラブチームである京都ファイアーバーズとして再発足することとなり、監督兼主催者となる。この京都ファイアーバーズには上記の樋口直人も代表者として名を連ねている[12]

2005年堀江貴文率いるライブドアによるニッポン放送の株式所得問題が起こった際、「ニッポン放送をホリエモンが買収するようなことがあれば、同局の解説から撤退する」ことを示唆する発言が行われた[13]

2007年7月24日にタイ王国ナショナルベースボールチームの総監督に就任。この年11月に台湾・台中で行われた第24回アジア野球選手権大会に出場したが、予選リーグ敗退に終わった[14]

2010年代の活動[編集]

2010年度から法政大学で非常勤講師を務める[15]

2010年5月、参議院選挙国民新党公認の比例代表候補として立候補することを発表[16]。6月、大相撲木瀬親方が土俵下の「維持員席」(いわゆる「砂かぶり」の席)を暴力団組長に手配していたとされる問題に関連して、2009年9月の大相撲秋場所4日目に、砂かぶり席で江本が暴力団組長2人と言葉を交わしながら相撲観戦しているところをNHK中継カメラに捉えられていたことが報じられた。これについて江本は「議員になった暁には、この問題を文部科学省の委員会にかけて、相撲協会の正常化を訴える」などと釈明した[17]。7月、参議院選挙落選。選択的夫婦別姓制度導入に反対していた[要出典]

2015年10月26日、来シーズンから四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグスで総監督(現場指揮をおこなう監督とは別)に就任することが決定した[18]

現役からの引退をめぐるエピソード[編集]

江本の阪神退団・現役引退のきっかけになったとされる「ベンチがアホやから野球がでけへん」という発言をめぐっては、以下のような周囲の証言があり、それらにともなって江本自身の発言にも変遷が見られる。

江本は1981年8月26日のヤクルト戦に先発で登板すると、7回表まで3安打1失点と好投。しかし、阪神の3点リードで迎えた8回表に、3連打で2点を失う。なおも2死2塁で、8番打者の水谷新太郎に同点打を許したあげく、首脳陣から交代を命じられた。この交代に納得の行かない江本は、マウンドを降りた直後に一塁側のベンチに向かってグラブを投げ付けると、球場の2階にあった選手用のロッカールームに向かった[19]

サンケイスポーツ』への入社3年目に阪神担当記者として上記の発言に接した田所龍一は、産経新聞大阪本社の運動部長に就任した2009年に、同紙の署名記事で一部始終を回顧。降板直後の江本の発言を取りにベンチ裏へ向かったところ、通路からロッカールームへ向かって田所の視界から消えたところで江本が「アホやから」発言を大声で叫んだという。その発言を田所から聞いたサンケイほか各紙のキャップ記者が江本へ囲み取材を行い発言の真意を質したところ、発言を「独り言」や「愚痴」ではなく「公式発言」として認めたことを明かした。また、江本が阪神を退団した翌日に、田所が江本の自宅を訪れたところ「アホやのう、お前がまだ通路の入り口で立っとると思ったから、わざと聞こえるように言うたんや。お前のせいで辞めたんやない。気にするな」と慰められたことも紹介した[20][21]

当時『サンテレビボックス席』で阪神戦中継の実況を担当していた西澤暲フリーアナウンサー)は、西澤が阪神戦の実況を離れた後の2014年に著した『阪神戦・実況32年。』(講談社[22]で、江本発言に触れている。西澤は当日、翌日の実況に向けて、発言の当日に取材を兼ねて甲子園球場の放送ブースでこの試合を観戦していた。ところが、マウンドを降りた後の江本の様子にただならぬ気配を感じたことから、ロッカールームに向かう階段の踊り場で待機。やがて、スポーツ紙の阪神担当記者と共に姿を現した江本に向けて、顔なじみのよしみで「エモ、お疲れさん」と声を掛けた。西澤によれば、この直後に江本が「ベンチがアホやから、やってられませんわ」と言い放ったため、「若い記者のいる前でそんなことを言うな」とたしなめながらしばらく2人だけでやり取りを続けたという[22]

江本自身の発言を見ると、引退直後の1982年に刊行した『プロ野球を10倍楽しく見る方法』では、「ベンチがアホやから野球がでけへん」という発言を「ぼくの発言じゃない」と明確に否定していた[23]。その後も複数の著書において「そういうセリフは何も言っていない」[24]と否定したり、「人に言わせると……」という表現で間接的に否定[25]していた。

しかし、上記の田所と西澤の証言が出た後の2014年には、自ら行った発言であることを認め、その背景を以下のように述べている。当時監督だった中西太とは1979年キャンプでの練習中、打撃コーチの中西が狭いスペースで打撃練習を始めさせ、打球が別の練習をしている選手に当たるという事件があり、「私は選手会長だったから、中西さんに文句を言った。それだけならまだよかったんですが、のらりくらりとした中西さんの態度に腹が立ち、熱くなってタバコまで投げつけてしまった。以来、犬猿の仲でした。そんな中西さんが翌年から監督になったものだからシーズン中、先発だリリーフだとめちゃくちゃな起用されてきた。そんな伏線があった上で迎えたのが8月26日のヤクルト戦でした。あの発言は、積もり積もった恨みに対するものだったんです。議員をやったり、指導者をやったりして、自分も人に何かを伝える側に立った時、ふと中西さんの気持ちが分かるようになったんです。人間は立場によって言いたくないことも言わなければならない。私のように生意気な選手には、中西さんは厳しく接するしかなかった。そうしなければ監督としての威厳が保てなくなり、チームは機能しなくなっていたでしょう。」と述べている[26]

プレースタイル[編集]

通算24ボーク日本プロ野球記録。1973年のシーズン10ボークも、2003年に広島東洋カープクリス・ブロックに抜かれるまで日本記録であった。記録の背景にはパ・リーグが1973年から1974年の2年間、ボークの宣告を極端に強化したことが大きく影響している[要出典]

王貞治が現役時代に苦手としていた投手であり、通算対戦打率は約1割と、50打席以上の対戦がある投手の中では1位。被本塁打はわずかに1本。これは満塁本塁打で、いつもと違う攻めを試した結果であったという(自著『おれ、紆球曲球』)。

球速は高校時代は150km/hを超えていたと自称するが、プロ入り後すぐに速球派から技巧派へ転向、コントロール中心型のピッチャーであった(自著『プロ野球を20倍楽しむ方法』)。しかし変化球を多数種類おぼえるタイプではなく、同じカーブ・フォークでも幾種類かのカーブ、フォークを使い分けるというピッチングをしていた。変化球に関しては「エモ・ボール(魔球)はフォークのスッポ抜け」(前著)、「フォークボールは高校時代から得意にしていた」「エモ・ボールは一種の都市伝説のようなもので、実際には投げていない」(自著『プロ野球 勝てる監督・使える選手』)、「ストレートとカーブしか投げられなかった」(近藤唯之『引退そのドラマ』)といった具合に、微妙に発言の内容を変えている。

高橋慶彦の連続試合安打を阻止した投手である(1979年)。実は高橋は日本記録を更新した試合で負傷して長期離脱を余儀なくされており、復帰戦で対決した江本は「ボールに目が慣れていない」と判断、速球で押し通す配球で無安打に抑え込んだという(近藤唯之『運命を変えた一球』)。また『FNS27時間テレビ2011』では偶然にも高橋の話題になり、高橋を敬遠との指示を受け4球も投げるのが面倒だから1球(死球)で済ませたことがあると語っていた(直後に冗談ですと言ったので真偽は不明)。高橋の前に連続試合安打(32試合)の記録を持っていた長池徳士を抑えたのも江本である(高橋慶彦談)[27]

投手としては打撃が良く、通算7本塁打を記録している。本塁打を打った試合でロッテ監督の金田正一から野次られたことがあり、後に金田自身の実績を逆手に取って反論し金田をしどろもどろにさせたことがある[28]。もちろん金田はベンチで感情にまかせて江本を野次っただけのことで、金田自身は「一流投手は打者としても一流」と主張し、その主張通り投手としての本塁打日本記録保持者である。

人物[編集]

愛称は「エモやん」。

1980年代は、巨人・阪神・西武のような人気球団や、大御所に関して否定的な意見を口にすることが多かった。またホークス在籍時代、野村から叩き込まれた「シンキング・ベースボール(考える野球)」が自分の野球観の基本だとしており、自分を見出してくれた野村に野球人として最大の尊敬を向けているが、1990年代に上昇の一途をたどった野村人気の頃には、メディアの前では距離を置いた立場に立つことが多く、2000年代に入ってからは「ノムさんは本当にすごいのか?」と題した本を出版、「ヤクルト時代は並以下の成績」などと評している[7]

一方で野村の美談を披露したり、「僕や江夏さんくらいしか言えないから」などといった、言い過ぎていることを示唆するようなフォローを入れることも多い。野村は練習嫌いで喧嘩っ早い江本にずいぶん手を焼いたといい、江夏豊、江本、門田博光の三人を、「自分の南海監督時代の三悪人」と評しているが、この「三悪人」は、「頭のいいヤンチャ坊主選手」という意味であり、野村は必ずしも悪い意味で使っていない。その後野村は著書で「この三悪人に監督として鍛えられたおかげで、他のチームで少々クセのある選手がいても全然平気になったよ。山﨑武司なんてあの三人に比べたら、フーン、くらいのレベル」と言っている[29]

同様に「オレ流スタイル」で脚光を浴び、各方面からの支持者も多い落合博満に対しても、公然と落合の態度や手腕を否定する発言を繰り返している。「(落合が中日監督をしている8年間の間に)1回しか直接取材をしていない」と公言し、雑誌EX大衆2009年9月号などで森祇晶原辰徳を理想の監督だと述べ、「巨人が巨大戦力なら中日も巨大戦力」「完全日本一を3度達成している原監督を評価しないマスコミはおかしい」などといった意見を述べている。逆に選手時代は人気の高かった原よりも、日の目が当たらなかった落合を高く評価していた。

江川卓を批判することも多い。江川は法政大学野球部の後輩に当たるが、著書の中でもともと2部の学部に入学し、後に1部の学部に転籍したことを挙げて「法政大学のOBとは認めない」と記すなど度々批判している。ただし1981年に成績第1位の江川ではなく第2位の西本聖沢村賞を受賞した事に対しては「おかしい」[30]等と、している。

趣味はバロック音楽鑑賞。好きな歌手は、親友でもあった大塚博堂。知人を介して知り合い、大塚の生前に、新宿ロフトで一緒にコンサートをしたこともある[31]。また、大塚のメモリアルイベントに、何回か出演している[32]

プロ野球における成績詳細[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1971 東映 26 4 0 0 0 0 4 -- -- .000 267 60.2 61 4 35 1 0 29 5 0 34 34 5.04 1.58
1972 南海 38 32 14 1 0 16 13 -- -- .552 1014 237.1 205 15 118 4 9 115 7 0 95 80 3.03 1.36
1973 34 30 12 5 0 12 14 -- -- .462 889 217.1 167 17 85 2 11 95 5 10 75 66 2.73 1.16
1974 34 33 9 0 0 13 12 0 -- .520 921 216.2 185 19 111 1 14 116 5 3 94 76 3.16 1.37
1975 31 27 13 3 0 11 14 0 -- .440 878 207.0 185 18 78 0 5 109 3 0 94 68 2.96 1.22
1976 阪神 38 36 8 2 2 15 9 0 -- .625 1009 239.2 239 27 66 1 9 115 4 3 107 100 3.76 1.27
1977 36 33 10 3 0 11 14 1 -- .440 952 223.2 202 21 92 1 11 129 4 2 98 92 3.70 1.31
1978 56 10 2 0 0 11 13 11 -- .458 644 150.2 124 16 70 5 9 103 9 2 63 52 3.11 1.29
1979 47 24 5 3 0 12 12 6 -- .500 784 178.2 181 21 67 4 16 141 5 2 93 87 4.38 1.39
1980 31 26 4 0 0 8 15 0 -- .348 704 160.0 168 28 64 6 9 108 5 2 93 85 4.78 1.45
1981 24 12 1 0 0 4 6 1 -- .400 377 87.0 77 11 36 8 4 70 1 0 39 34 3.52 1.30
通算:11年 395 267 78 17 2 113 126 19 -- .473 8439 1978.2 1794 197 822 33 97 1130 53 24 885 774 3.52 1.32
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000投球回:1976年5月26日、対中日ドラゴンズ7回戦(阪神甲子園球場)、6回表2死目に達成
  • 1500投球回:1978年7月28日、対読売ジャイアンツ15回戦(阪神甲子園球場)、9回表2死目に達成
  • 100勝:1978年9月18日、対広島東洋カープ22回戦(阪神甲子園球場)、9回2失点完投勝利 ※史上75人目
  • 1000奪三振:1980年6月8日、対広島東洋カープ7回戦(阪神甲子園球場)、5回表に衣笠祥雄から ※史上59人目

背番号[編集]

  • 49 (1971年)
  • 16 (1972年 - 1975年)
  • 29 (1976年 - 1981年)

背番号について江本は「東映時代は四苦八苦(49)、ホークスに行って色男(16)、阪神ではニクイ奴(29)」とコメントしている。

関連情報[編集]

著書[編集]

他多数

出演[編集]

レギュラー
映画・ドラマ
過去の出演番組
CM出演

ディスコグラフィー[編集]

  • あぶさん台詞水島新司)c/w 暖炉(1973年)
  • 恋する御堂筋(1979年)入江マチ子とデュエット
  • 霜降り橋まで(1980年)
  • アカシヤの面影(1982年)
  • あなたまかせの夜(1983年)
  • 素敵なジェラシー(1987年、アルバム)

脚注[編集]

  1. ^ 森岡浩 『プロ野球人名事典 2003』 日外アソシエーツ2003年、92 - 93頁。ISBN 4816917713
  2. ^ 『証言 プロ野球ドラフト会議50年』 別冊宝島編集部 総編集、宝島社2015年、47頁。ISBN 978-4800247674
  3. ^ 『法政大学野球部 六大学最多優勝校のプライド』 ベースボール・マガジン社〈B・B MOOK 1165 東京六大学野球連盟結成90周年シリーズ 4〉、2015年、15頁。ISBN 978-4-583-62256-9
  4. ^ 『南海ホークス栄光の歴史 1938-1988』 ベースボール・マガジン社2012年、34頁。ISBN 9784583618876
  5. ^ 『日本プロ野球 トレード大鑑 2004』 ベースボールマガジン社〈B.B.MOOK スポーツシリーズ〉、2004年、48 - 49頁。ISBN 4583612508
  6. ^ 「江」が付く投手はみんな無頼派!?江夏と江本の大型トレード”. MEN人 (2013年8月25日). 2016年1月24日閲覧。
  7. ^ a b 江本孟紀 「第2章 監督としての野村監督」『野村克也解体新書 ノムさんは本当にスゴイのか?』 無双舎、2011年ISBN 9784864084741
  8. ^ 江本孟紀「ベンチがアホやから」発言の翌日に…”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 2016年10月31日閲覧。
  9. ^ TVでた蔵 江本孟紀”. ワイヤーアクション (2012年2月4日). 2016年1月24日閲覧。
  10. ^ [1][リンク切れ] [2][リンク切れ] 国会会議録検索システム、2013年5月10日閲覧
  11. ^ 2005年10月26日 日刊スポーツ 6面 など
  12. ^ 京都ファイアーバーズ・ベースボークラブ・京丹後市 連携・協力に関する包括協力協定を締結 江本孟紀氏 来丹スケジュール (PDF)” (2006年2月7日). 2016年1月24日閲覧。
  13. ^ 2005年3月18日 日刊スポーツ 社会面
  14. ^ 2007年11月30日 日刊スポーツ 6面
  15. ^ 江本先生、法大で初講義「スポーツと政治」[リンク切れ] サンケイスポーツ
  16. ^ “江本氏、国民新党から立候補”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2010年5月26日). オリジナル2010年5月29日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100529180049/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100526/stt1005261633011-n1.htm 2016年10月31日閲覧。 
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  19. ^ 1981年8月27日 日刊スポーツ 2面
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  21. ^ “「ベンチがアホやから」エモはわざと聞こえるように言った”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2011年12月13日). オリジナル2011年12月13日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111213104358/http://sankei.jp.msn.com/west/west_sports/news/111213/wsp11121311010001-n1.htm 2014年5月30日閲覧。 
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  23. ^ 江本孟紀 『プロ野球を10倍楽しく見る方法』 ベストセラーズ1982年、194頁。ISBN 4584004676
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  25. ^ 江本孟紀 『プロ野球 天国・地獄のウラ勝負! ストーブリーグ情報局』 勁文社1989年、177頁。ISBN 4766911024
  26. ^ 「江本孟紀(野球解説者)から中西太へ 「ベンチがアホ」発言 いまからでも謝りたい」、『週刊現代』、講談社、2014年4月19日、 188頁。
  27. ^ 東京スポーツ、2013年1月31日『第16回、赤ヘル機動力野球の申し子 高橋慶彦 赤い疾風伝説』
  28. ^ 江本孟紀 『プロ野球を20倍楽しむ方法』 ベストセラーズ、1982年、125 - 127頁。ISBN 4584004773
  29. ^ 野村克也 「人格—人間的成長なくして技術的進歩なし」『この一球 野村克也の人生論』 海竜社2012年ISBN 9784759312324
  30. ^ 10倍楽しく見る方法 1982, pp. 195 - 197
  31. ^ 博堂は風になった―大塚博堂その短すぎた音楽人生(吟遊社 大塚俊英・著)「博堂 触れ合いの人びと」の章より
  32. ^ hakudo大塚博堂倶楽部通信57”. まぐまぐ (2007年1月5日). 2016年1月24日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]