塚田十一郎
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塚田 十一郎 つかだ じゅういちろう | |
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生年月日 | 1904年2月9日 |
出生地 |
![]() (のち高田市、現上越市) |
没年月日 | 1997年5月23日(93歳没) |
出身校 | 旧制東京商科大学(一橋大学の前身) |
前職 |
旧制東京外国語学校助教授 鹿島組監査役 |
所属政党 |
(日本自由党[1]→) (民主自由党→) (自由党→) (自由民主党→) (無所属→) 自由民主党 |
称号 | 勲一等旭日大綬章 |
親族 |
塚田徹(元衆議院議員) 塚田一郎(五男、元参議院議員)[2] |
選挙区 | 新潟県選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 |
1968年7月8日 - 1974年7月7日 1976年12月12日 - 1983年7月9日 |
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内閣 | 第5次吉田内閣 |
在任期間 | 1953年5月21日 - 1954年12月10日 |
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内閣 | 第5次吉田内閣 |
在任期間 | 1953年5月21日 - 1954年12月10日 |
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内閣 | 第5次吉田内閣 |
在任期間 | 1953年5月21日 - 1954年12月10日 |
選挙区 |
(旧新潟2区→) 旧新潟4区(中選挙区) |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1946年4月11日 - 1961年11月 |
その他の職歴 | |
![]() (1961年12月10日 - 1966年3月28日) |
塚田 十一郎(つかだ じゅういちろう[3][4]、1904年(明治37年)2月9日 – 1997年(平成9年)5月23日[5])は、日本の弁護士、政治家(参議院議員[5]、衆議院議員[5])。郵政大臣、新潟県知事などを歴任した。
来歴・人物[編集]
現在の新潟県上越市に、農業・塚田亀之助の六男として生まれる。新潟県立高田中学校(現在の同県立高田高等学校)を経て1928年、東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業[6]。昭和金融恐慌後の不況により就職活動は難航、やがて伝をたどって小橋一太(元文部大臣)の居候兼書生となる。1931年、小橋の紹介により東京外国語学校の事務局に入る。生徒課の窓口業務を担当していた頃、社用による外国語原書の翻訳依頼に訪れていた鹿島組の鹿島守之助と知り合い、人物を認められる。その後助教授となり、民法などを講義していた。
長崎高商事務官に転じていた1938年、鹿島守之助のスカウトにより鹿島組に入社。監査役を務めた。戦後間もない頃、ある人物の紹介で田中角栄に会って意気投合する。1946年、第22回衆議院議員総選挙に日本自由党公認で旧新潟2区より出馬し、当選する[1]。以後連続8回当選。
大蔵政務次官、衆院予算委員長などを務め、1953年5月、第5次吉田内閣にて郵政大臣兼自治庁長官兼行政管理庁長官として入閣を果たす。この時、吉田茂が塚田と灘尾弘吉の何れを入閣させるべきかと大野伴睦に相談した際、官僚嫌いの大野が灘尾入閣に強く反対して塚田を推したという一幕があり、これを機に大野派入りする。しかし大野側近の神田博と感情的な対立が生じ、大野とも距離が生じる。すると今度は旧緒方竹虎派の番頭格であった石井光次郎に接近し、石井を次期総理総裁候補として売り出すのに一役買った(「石井派」という言葉を初めて使ったのは塚田だといわれている[7])。その甲斐があってか、石井と石橋湛山との2位・3位連合が成功して石橋政権が発足すると、塚田は政務調査会長として党三役入りするが、あえなく2ヶ月で政権は瓦解。
1961年、新潟県知事選に当選[4]。1963年に高度成長産業誘致を主眼とした「新潟県総合開発計画」を策定、新潟東港建設や、江戸時代からの悲願であった信濃川の関屋分水事業を推進した。1965年、再選されるが、自民党所属県会議員らへの贈賄(20万円中元事件)が発覚し、翌1966年3月に辞任する。
その後再び国政の場に転身し、1968年より参議院議員に計3回当選した。1974年、勲一等旭日大綬章受章。1997年5月23日に死去。93歳没。
エピソード[編集]
- 1964年の新潟地震の時、塚田は東京に出張していた。上越新幹線もない時代(開業はこの20年後)で長時間を掛けてやっとの思いで新潟入りした塚田は作業着のまま被災者の避難所へ向かい「こんなことになってしまって…ほんとうに…」とだけ言うと絶句し、やがてすすり泣いた。その姿にもらい泣きをした被災者も多かったという。
- 信濃川の関屋分水路開削工事を進めるために、関屋地区に在った旧新潟競馬場の廃止と豊栄町(当時。のちに豊栄市を経て現新潟市北区)への新築移転に関わった経緯もあり、事業完成後の競馬場跡地の一角に設置された関分公園に建立された「新潟競馬場跡の碑」の揮毫を行っている[8]。
- 夫人の事業失敗などで20数億円の負債をかかえる[4]。住所は新潟市旭町通り二番町[4]。
家族・親族[編集]
- 塚田家
- 先妻 - 1966年死去[9]。
- 後妻・常喜 - 新潟県北部の山村出身[9]。上京してバーやクラブに勤めたのち新潟に戻ると、東京仕込みの洒落た会話や服の着こなしが、地元の政財界人に大いに受けた[9]。最盛期には9軒のバーやクラブを経営し、新潟市内の1等地にビルを建設[9]。さらには銀座のクラブにまで手を伸ばす[9]。そして、1961年に新潟県知事に当選した十一郎と、不倫関係になり、1963年には一郎参議院議員が生まれた[9]。当時はまだ十一郎には妻子がいた[9]。1966年に先妻が他界すると常喜は晴れて十一郎の正妻になった[9]。やがて常喜の水商売のほうも傾き、夫婦が抱えた借金は20億円にも膨らんだといわれた[9]。それ以後金に困った常喜は誰彼かまわず借金をするようになり「被害総額は1億円を超えるのではないか」と被害者の1人が話している[9]。
- 息子
脚注[編集]
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覽 第22回』新潟県631頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月7日閲覧。
- ^ a b プロフィール塚田一郎公式サイト。2021年1月13日閲覧。
- ^ 歴代議員一覧(50音順):資料集:参議院
- ^ a b c d 『政治家人名事典』337頁。
- ^ a b c 塚田 十一郎とはコトバンク。2019年5月1日閲覧。
- ^ 『東京商科大学一覧 昭和3年度』第十 学士試験合格者及卒業者姓名271頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月25日閲覧。
- ^ 渡邉恒雄著『派閥-保守党の解剖』(弘文堂、1958年)144ページ
- ^ 新潟競馬場跡の碑 新潟市公式サイト『ニイガタカラ.net』
- ^ a b c d e f g h i j 忖度辞任・塚田一郎議員の破天荒母に借金問題 「最後は息子が払います」が決まり文句週刊新潮 2019年4月18日号掲載、デイリー新潮公式サイト。2021年1月13日閲覧。
参考文献[編集]
- 『東京商科大学一覧 昭和3年度』丸善、1927年。
- 『衆議院議員総選挙一覽 第22回』衆議院事務局、1950年。
- 『政治家人名事典』日外アソシエーツ、1990年。
公職 | ||
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先代: 北村一男 |
![]() 第3代:1961年 - 1966年 |
次代: 亘四郎 |
先代: 高瀬荘太郎 |
![]() 第5代:1953年 - 1954年 |
次代: 武知勇記 |
先代: 本多市郎 |
![]() 第3代:1953年 - 1954年 |
次代: 西田隆男 |
先代: 本多市郎 |
![]() 第11代:1953年 - 1954年 |
次代: 西田隆男 |
議会 | ||
先代: 増原恵吉 |
![]() 1977年 - 1978年 |
次代: 桧垣徳太郎 |
先代: 小坂善太郎 |
![]() 1951年 - 1952年 |
次代: 太田正孝 |
党職 | ||
先代: 水田三喜男 |
自由民主党政務調査会長 第2代:1956年 - 1957年 |
次代: 三木武夫 |
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