深谷隆司

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深谷 隆司
ふかや たかし
生年月日 (1935-09-29) 1935年9月29日(88歳)
出生地 日本の旗 東京府東京市浅草区
(現・東京都台東区浅草
出身校 早稲田大学法学部卒業
所属政党自由民主党→)
無所属→)
自由民主党(旧渡辺派山崎派
称号 旭日大綬章
公式サイト 深谷隆司の言いたい放題

内閣 小渕第2次改造内閣
第1次森内閣
在任期間 1999年10月5日 - 2000年7月4日

内閣 村山改造内閣
在任期間 1995年8月8日 - 1996年1月11日

日本の旗 第52代 郵政大臣
内閣 第2次海部内閣
在任期間 1990年2月28日 - 1990年12月28日

選挙区旧東京8区→)
比例東京ブロック→)
東京2区
当選回数 9回
在任期間 1972年12月10日 - 1976年12月9日
1979年10月7日 - 2000年6月2日
2005年9月11日 - 2009年7月21日

選挙区 台東区選挙区
当選回数 1回
在任期間 1969年 - 1972年

その他の職歴
台東区議会議員
1963年 - 1965年
第39代 自由民主党総務会長
(総裁:小渕恵三
1998年 - 1999年
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深谷 隆司(ふかや たかし、1935年9月29日 - )は、日本政治家。TOKYO自民党政経塾塾長。

衆議院議員(9期)、郵政大臣第52代)、自治大臣第47代)・国家公安委員会委員長第57代)、通商産業大臣(第6263代)、自由民主党総務会長(第39代)等を歴任した。

来歴・人物[編集]

東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に生まれ、のちに旧満州ハルピンへ一家で移住する。第二次世界大戦敗戦後、日本へ引き揚げ、台東区立田中小学校内に設けられた都営住宅(引揚者住宅)で育つ[2]1954年に19歳で東京都立江北高等学校を卒業し、1956年に21歳で早稲田大学法学部に入学、1960年に早稲田大学法学部を卒業する。1963年台東区議会議員選挙へ立候補して初当選する。1965年に1期目途中で台東区議を辞職する。1969年の東京都議会議員選挙台東区選挙区から立候補して当選し、自由民主党に所属した。

1972年に都議会議員を辞職し、第33回衆議院議員総選挙保守無所属旧東京8区(定数3)から立候補して当選する。当選同期に小泉純一郎加藤紘一山崎拓石原慎太郎村岡兼造保岡興治瓦力三塚博越智通雄野田毅らがいる。のちに自民党に復党し、1976年第34回衆議院議員総選挙で自民党公認で再選をめざしたが、ロッキード事件のあおりを受け次点で落選した。1979年第35回衆議院議員総選挙旧東京8区で、得票数1位で当選する。1980年労働政務次官1982年総理府総務副長官1990年第2次海部内閣郵政大臣で初入閣した。

1993年細川内閣が成立して自民党は結党以来初めて野党に転落した。意気消沈する自民党議員が多かった中で深谷は予算委員会筆頭理事に就き、同じく理事の野中広務と予算委員会で細川内閣を追及する。野中と深谷はそれぞれ野党自民党の都議と府議で、革新首長[3]と激しく対決した経験がある[4]1994年5月23日の質疑で、創価学会名誉会長の池田大作ローマ法王に宛てた親書が、連立与党である公明党を通じ、首相の羽田孜イタリアを訪問した際に羽田によりバチカンに渡された疑惑を追及した。

1995年村山改造内閣自治大臣国家公安委員会委員長で2回目の入閣となる。小選挙区比例代表並立制導入後初の1996年第41回衆議院議員総選挙は、東京2区旧民主党鳩山邦夫に敗れ重複立候補した比例東京ブロックで復活した。

1998年自由民主党総務会長として初めて党三役入りした。1999年に東京2区選出の鳩山邦夫が東京都知事選挙へ立候補を表明して衆議院議員を辞職する。深谷は補欠選挙へ立候補を模索するも断念した。鳩山は石原慎太郎に敗れて次点で落選した。10月に小渕再改造内閣通商産業大臣に就く。2000年第42回衆議院議員総選挙は、東京2区で民主党中山義活に敗れて比例復活ならず、現職閣僚ながら落選した。投票日翌日からパリで開かれるOECDの閣僚理事会へ出席を急遽取り止め、経済企画庁長官堺屋太一のみが出席した。2003年第43回衆議院議員総選挙でも落選し、東洋大学大学院経済学研究科で客員教授を務める。

2005年第44回衆議院議員総選挙郵政民営化に関して、自民党の郵政相経験者である野田聖子自見庄三郎八代英太らが反対を唱えて離党する中、早々に賛意を表明し東京2区から自民党公認で立候補する。民主党の中山義活に比例復活を許さない大差で当選し、5年ぶりに国政へ復帰する。自民党の内規は、小選挙区で2回連続で敗退して比例復活出来なかった候補者は公認を認めないが、特例で立候補が認められた。

2007年第21回参議院議員通常選挙東京都選挙区から出馬した保坂三蔵の選挙対策本部長を務め、保坂は次点で落選した。2008年自由民主党総裁選挙で、石原伸晃の推薦人代表を務め[5]、石原は5人中4位で落選する。

2009年第45回衆議院議員総選挙は、東京2区で中山義活に敗れて落選する。自民党は73歳以上の候補者の比例区重複立候補を認めておらず、比例復活も実現しなかった[6]

2012年6月22日に、党公認の条件である支部長選任の年齢制限に抵触することから、次期総選挙は立候補せずに引退を表明した。深谷は「潮時だ。なすべきことをなした後は自ら身を引き、次の世代に渡すことが天の道だ」と述べた[7]

エピソード[編集]

受賞・栄典等[編集]

  • 2005年 - 政経文化人画人展芸術議員連盟会長賞
  • 2006年 - 衆議院議員在職25年表彰
  • 2007年 - 政経文化人画人展国際芸術文化振興会副会長賞
  • 2010年 - 旭日大綬章[10]

著書[編集]

  • 「時代に挑む-与党から野党へ、そして与党へ-」東都書房、1996年9月。
  • 「大臣日記」角川書店、1991年12月。
  • 「ちょっとアメリカ急ぎヨーロッパ-代議士の妻・聞き書き亭主のヨーロッパ便り-」朝日出版社、1989年1月。(共著)深谷慶子。
  • 「深谷隆司のさわやかトーク-あなたとこんにちわPart2-」サンケイ出版、1983年3月。
  • 「~江戸っ子議員世界を往く~世界のきょうと明日」行政通信社、1971年。
  • 「あなたとこんにちは-下町議員の一口評論-」行政通信社、1974年。
  • 「保革逆転-チリ軍事クーデターの意味するもの-」浪曼、1974年。

所属していた団体・議員連盟[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 衆議院. “議員氏名の正確な表記”. 2024年3月27日閲覧。
  2. ^ 子供たちを翻弄した戦争 上野駅地下道にあふれた孤児”. 産経新聞 (2023年8月15日). 2023年9月8日閲覧。
  3. ^ 蜷川虎三京都府知事美濃部亮吉東京都知事
  4. ^ 『野中広務回顧録』(岩波現代文庫、142ページ)2018年
  5. ^ “総裁候補の推薦人名簿 自民党”. 共同通信社. 47NEWS. (2008年9月10日). https://web.archive.org/web/20130702205740/http://www.47news.jp/CN/200809/CN2008091001000300.html 2015年4月15日閲覧。 
  6. ^ 【速報】東京2区で自民・深谷氏が落選確実 産経新聞 2009年12月31日
  7. ^ “深谷元通産相が引退表明 「次の世代に渡すのが天の道」”. 産経新聞. (2012年6月22日). https://web.archive.org/web/20120622175716/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120622/stt12062222200010-n1.htm 2012年6月24日閲覧。 
  8. ^ 『大相撲中継』2018年2月17日号 p.99
  9. ^ 第907回「老害山崎らを除名せよ」”. 深谷隆司の言いたい放題 (2021年10月30日). 2022年12月18日閲覧。
  10. ^ 秋の叙勲4173人 桐花大綬章に扇元参院議長”. 日本経済新聞 (2010年11月3日). 2023年4月8日閲覧。

参考文献[編集]

  • 山口朝雄「深谷隆司・全人像」行研出版局、1997年12月。

外部リンク[編集]

議会
先代
丹羽雄哉
日本の旗 衆議院国家基本政策委員長
第8代:2006年
次代
衛藤征士郎
先代
上原康助
日本の旗 衆議院予算委員長
1996年 - 1997年
次代
松永光
先代
宮崎茂一
日本の旗 衆議院逓信委員長
1986年 - 1987年
次代
塚原俊平
公職
先代
与謝野馨
日本の旗 通商産業大臣
第62・63代:1999年 - 2000年
次代
平沼赳夫
先代
野中広務
日本の旗 自治大臣
第47代:1995年 - 1996年
次代
倉田寛之
先代
野中広務
日本の旗 国家公安委員会委員長
第57代:1995年 - 1996年
次代
倉田寛之
先代
大石千八
日本の旗 郵政大臣
第52代:1990年
次代
関谷勝嗣
党職
先代
森喜朗
自由民主党総務会長
第39代 : 1998年 - 1999年
次代
池田行彦
先代
浜田幸一
自由民主党青年局長
第11代 : 1976年 - 1977年
次代
中山正暉