安倍晋太郎

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安倍 晋太郎
あべ しんたろう
Shintarō Abe with his oldest son Hironobu in 1956.jpg
長男の寛信と、1956年(昭和31年)。
生年月日 1924年4月29日
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市
没年月日 (1991-05-15) 1991年5月15日(67歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都文京区
出身校 東京大学法学部政治学科卒業
前職 毎日新聞記者
内閣総理大臣秘書官
所属政党 自由民主党清和会
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
衆議院永年在職議員
法学士(東京大学・1949年
配偶者 安倍洋子(岸信介長女)
親族 大伯父・安倍慎太郎
父・安倍寛(衆議院議員)
異父弟・西村正雄(みずほホールディングス会長)
岳父・岸信介(内閣総理大臣)
次男・安倍晋三(内閣総理大臣)
三男・岸信夫(衆議院議員)

日本の旗 第112-113代 外務大臣
内閣 第1次中曽根内閣
第2次中曽根内閣
第2次中曽根第1次改造内閣
第2次中曽根第2次改造内閣
在任期間 1982年11月27日 - 1986年7月22日

内閣 鈴木善幸改造内閣
在任期間 1981年11月30日 - 1982年11月27日

内閣 福田赳夫改造内閣
在任期間 1977年11月28日 - 1978年12月7日

日本の旗 第46代 農林大臣
選挙区 三木内閣
在任期間 1974年12月9日 - 1976年9月15日

選挙区 旧山口1区
当選回数 11回(途中1回の落選を挟む)
在任期間 1958年5月23日 - 1963年10月23日
1967年1月29日 - 1991年5月15日
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安倍 晋太郎(あべ しんたろう、1924年大正13年)4月29日 - 1991年平成3年)5月15日)は、日本政治家衆議院議員農林大臣官房長官通産大臣外務大臣自民党国対委員長自民党政調会長自民党総務会長自民党幹事長を歴任。

衆議院議員安倍寛の長男。岳父に内閣総理大臣岸信介、義理の叔父は内閣総理大臣佐藤栄作、次男は内閣総理大臣安倍晋三である。政界のプリンスと呼ばれ、竹下登宮澤喜一と並びニューリーダーの一人に数えられて将来を嘱望された。後に派閥の領袖となり、総理総裁を確実視されるまでに至ったがそれを目前にして病死し、悲運のプリンスと呼ばれた。

来歴・人物[編集]

生い立ち[編集]

政治家・安倍寛、静子夫妻の長男として東京に生まれる。寛とは、誕生日が同じである。生後間もなく郷里の山口に戻り幼少期を過ごす。山口県大津郡日置村(後に油谷町に分割→現長門市)の安倍家は、江戸時代大庄屋をつとめ、醤油醸造業を営み、やがて大津郡きっての名家として知られるようになり[1]、明治以降は晋太郎の大伯父安倍慎太郎や父安倍寛が地元の名士として山口県議会議員や衆議院議員を務めるようになった家柄である[2]

晋太郎が生まれて80日後に両親が離婚した[3]

学生時代[編集]

旧制山口中学校(現・山口県立山口高等学校)に進学[4]。母親の再婚を知り、上京して居所を探すも、再会は叶わなかった。

一年間浪人した後、1943年(昭和18年)に第六高等学校岡山市)に入学。翌年9月、わずか1年半[注釈 1]で繰り上げ卒業となり東京帝国大学法学部に進んだ。同時に海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊[5]

太平洋戦争終結後、改称された東京大学法学部に復学、1949年(昭和24年)に卒業して毎日新聞社に入社。その間1946年(昭和21年)1月29日父寛が心臓麻痺で倒れ、翌年には“育ての親”ともいえる大伯母ヨシが死去した[5]

政治家として[編集]

1951年(昭和26年)、岸信介の長女・洋子と結婚し、1956年(昭和31年)、岸が石橋湛山内閣外相として入閣したのを機に毎日新聞を退職し、外務大臣秘書官となって岸に仕えた。岸内閣が成立すると、内閣総理大臣秘書官に就任。外相秘書官になった頃から、総選挙に出馬を考えていたが、岸も岸の実弟の佐藤栄作も時期尚早と反対する中、「岸に迷惑がかかるなら、妻を離縁してでも」と決意し、1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に、郷里の旧山口1区[注釈 2]から自民党公認も得て出馬、2位で初当選する(この時の総選挙では佐藤派の竹下登、金丸信が初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった)。特に同年齢の竹下とは衆院本会議場の議席でも最前列から2列目の隣同士だった[6]。議場の最後列に座っている吉田茂元首相、大野伴睦副総裁、益谷秀次前衆院議長らを振り返りながら「おれたちはあと何年かかったら、あそこに座れるようになるんだろうか」と話し合った仲でもあった。このころの安倍について金丸は後に「安倍ちゃんとはよく飲んだ。新聞記者特有の臭みがない、いい奴だった」と述べている[6]

岸信介首相は総選挙勝利の余勢を駆って警察官職務執行法(警職法)改正案を国会に提出した。安倍は岸首相の側近である川島正次郎幹事長に呼び出された[6]。そこには赤城宗徳椎名悦三郎ら岸派幹部が揃っており、川島らは警職法改正案の国会提出に消極的だった[6]。「戦前の治安維持法と受け取られ、うまくない。誰も言えんので、君からオヤジ(岸)に進言してくれんか」。安倍も新聞記者のカンで「警職法は危ない」と思ったので、岸首相に「得意とする経済問題で勝負した方が良いのではないか」と意見具申した。岸は「経済問題などは誰でもやれる。外交・治安は総理の責任だ。オレが自らのリーダーシップで(警職法案を)出すんだ」と言って、安倍の進言を受け入れなかった[6]。警職法問題は岸政権の最初の大きな躓きになった[6]

昭和35年6月、岸内閣は安保騒動で退陣した。この間、安倍は日米安保条約改定に命を賭けた岸首相を身内として懸命に支え続け、後継首相には池田勇人が選出された[6]。池田首相は同年10月、衆院を解散した。「総理の娘婿」の看板がなくなった安倍は2回目の選挙で苦戦したが、6万8218票を獲得して第4位に滑り込み、前回落選した社会党左派の細迫兼光がトップで返り咲き、2、3位は自民党の田中龍夫周東英雄で、民主社会党に移った今澄勇は次点で泣いた[6]

安倍は自民党政調会では農林部会に属して地道に農政の勉強に励んだ。また、当選2回目になると外交副部会長、国防副部会長となり、外交・安保問題も手掛けた。昭和37年11月、岸派「十日会」が分裂した。岸は十日会をいったん解散し、福田赳夫を後継者とする新たな組織を立ち上げようとした。これに川島正次郎、赤城宗徳、椎名悦三郎らが反対し、岸派は岸・福田派と川島派に分かれることになった。安倍は岸・福田派に属した。川島派は池田首相に接近して主流派となり、岸・福田派は佐藤栄作の擁立をめざし、池田首相を批判して反主流派になった[6]

昭和37年の人事で川島から安倍に電話で運輸政務次官になるよう連絡が入り、親分の福田赳夫も熱心にこの人事を受けるよう勧めたが、しかし、安倍は「若手の中心になって、佐藤政権をつくろうとしている時に、池田内閣の誘惑に乗ることはできない」ときっぱり断った[6]

1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙では落選し、落選の要因として選挙地盤が固まっていない安倍にとって、池田政権下で岸・福田派が反主流派に回り、無役だったことが大きく響いた[6]。最下位当選だった前回選挙より約4000票も得票を減らした。支持母体流動化など選挙区の情勢から政界への復帰が危ぶまれていたが、岸の娘婿になって以来、順風満帆だった安倍の政治家人生は大きな試練を迎えた。安倍は浪人中、ほとんど地元に張り付き、選挙区中を歩き回った。後に安倍は「落選中の3年3カ月の苦しみ、これが今日の私をあらしめたと思っている。それまでは根性が座っていなかったんだ。この間に自分を見つめ直し、一生政治家として国のために働くという決意を固めた」と述べている[6]。二回連続落選しては復活の目途が立たなくなるため、義父である岸信介元首相および叔父である佐藤栄作首相二人から異例の仲介が為され、同選挙区選出議員で地盤も重なる、吉田茂直系の大物議員周東英雄の後援会長を務めていた山口県水産業会の重鎮、藤本万次郎を後援会長に迎えることによって1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で衆議院議員に返り咲いた。このため、周東が政界引退する遠因となった。以降、安倍は死去するまではすべてトップ当選を飾り、地盤は次男の安倍晋三へと引き継がれた。

選挙区後援会の集会に於いては、「藤本万次郎さんは私にとってかけがえのない恩人であります」との一節を必ず演説に盛り込み、「郷土に恩を返す為にも、日本の舵取りを目指す所存であります」と締めるのが常であった。本籍地熊毛郡田布施町の岸と対岸の熊毛郡上関町祝島出身の藤本は、共に幼少時は「熊毛の神童」とうたわれ交流があったが、長じて二歳年上の岸に藤本が畏敬の念を持つ事となり、この交誼が期せずも岸の娘婿となった安倍の将来に関わることとなった。岸、佐藤、安倍はこの功績に報いるため、1968年(昭和43年)の第8回参議院議員通常選挙では、藤本に山口選挙区から自由民主党公認で出馬を要請したが、藤本は辞退した。

その後の参議院山口県選挙区は、勇退予定であった二木謙吾参議院議員を引き続き務めることとなり、1974年(昭和49年)も再出馬。1980年(昭和55年)の第12回参議院議員通常選挙では、安倍が推し藤本万次郎が後援会長を務める江島淳に地盤を禅譲する事となったが、1987年(昭和62年)二期目途中の江島の死去により、7月12日補選で二木の子息である二木秀夫に地盤は戻り、1998年平成10年)の第18回参議院議員通常選挙では二木の地盤は後継者合志栄一へ引き継がれるも落選、無所属の松岡満寿男が当選する。2004年(平成16年)の第20回参議院議員通常選挙では、安倍の実子で岸家へ養子へ入った岸信夫が当選した。この議席には、岸信夫の衆議院鞍替えによる2013年(平成25年)の参議院山口県選挙区補欠選挙で江島淳の子息である元下関市市長の江島潔が就くこととなった。

自民党では、岸派とそれを継承した福田派に所属し、派閥領袖であった福田赳夫を支え、田中派との党内抗争「角福戦争」を争った。安倍は岸の全面的支援を背景として、福田派における世代交代の旗手と位置づけられていった。

昭和47年7月の「ポスト佐藤」を争う自民党総裁選では本命視された福田赳夫が田中角栄の金権攻勢に追い詰められていた[6]。安倍は「佐藤総理が福田さんに禅譲することはない。田中角さんはもう動いている。うちも多数派工作を積極的にやるべきだ」と主張した。安倍はすぐに実行に移った[6]加藤六月塩川正十郎森喜朗ら派内の若手を集めて他派議員との接触を指示し、自ら切り込み隊長役を買って出た[6]。しかし、福田は佐藤の調整に期待して積極的に動こうとせず、田中に敗れ、再び福田派は反主流派に回った[6]

行政面では、自民党農林・外交・国防各部会の副部会長、農林政務次官を務めるなど、農政を得意としながら外交などでも研鑽を積む。衆議院大蔵委員長を経て1974年(昭和49年)。 昭和49年7月の参院選は政局の大きな転機になった[6]副総理環境庁長官三木武夫蔵相の福田赳夫も金権主義的な田中首相の政治手法に批判を強めていた[6]。選挙中、三木副総理は山口県油谷町の父安倍寛の墓参に訪れ、安倍夫妻もこれに同行した。三木と寛は昭和12年初当選の同期で、2人とも政友会、民政党の既成政党とは一線を画して無所属、昭和17年の翼賛選挙でも2人は反東条の立場から非推薦で出馬して勝ち抜いた間柄だった[6]。三木が寛の墓参をしたのは、すでに「福田派のプリンス」と呼ばれていた安倍を通じて、三木派と福田派の「反田中」連合を結成しようという、三木は安倍に「参院選が終わったら副総理を辞めるつもりだ。福田派と協力して田中政権を倒したい」と打ち明けた[6]。安倍は三木の話を正確に福田に伝え、参院選直後に三木は副総理・環境庁長官の辞表を田中首相に突きつけ、これに呼応して福田も蔵相の辞表を提出し、田中首相は窮地に陥った[6]。安倍は福田派、三木派中曽根派の中堅・若手を中心に「党再建議員連盟」を結成して座長となり、田中政権に揺さぶりをかけ、福田派の当選4回以下の議員約20人を行動部隊に仕立て、その行動隊長格になった[6]

田中首相は退陣に追い込まれ、後継首相の調整を椎名悦三郎副総裁に委ねた。椎名は福田赳夫、三木武夫、大平正芳中曽根康弘の実力者と相次いで会談した。大平は総裁選実施を主張したが、三木と福田は話し合い決着を求め、総裁選が実施されるならボイコットする構えを見せた。安倍は密かに中曽根と連絡をとり、福田・中曽根連合の「上州新党」の結成の可能性を話し合っていた。椎名は後継総裁に三木を指名し、福田は椎名裁定を受け入れ、自民党は分裂を回避して昭和49年12月9日、三木内閣が発足した[6]

安倍は三木武夫内閣において農林大臣として初入閣[6]。。田中角栄前首相が逮捕されると自民党を二分する「三木おろし」が吹き荒れた。三木降ろしは田中、大平両派が中心となったが、福田派も「総選挙前に体制を一新すべきだ」と主張してこれに加わった。安倍は三木首相に義理があったが、領袖の福田の判断に黙々と従った。昭和51年末に戦後初めての任期満了選挙が行われ、選挙後、福田赳夫が首相に選出された。以後、1976年(昭和51年)に自民党国会対策委員長を務め、衆院議運委員長は安倍と仲のいい金丸で、保利茂衆院議長の下で、金丸、竹下、安倍らが「保利学校」を形成し、与野党伯仲状況の困難な国会運営に協力してあたった[6]

1977年(昭和52年)、福田改造内閣内閣官房長官となり、日中平和友好条約締結などに関与[7]。「福田は2年、次は大平」という「大福密約」説が政界に流れた。安倍はこうした密約説を打ち消すため「衆院を解散して安定多数を取り戻すべきである」と福田首相に進言し、福田も解散を企図した。「たとえ密約があったとしても、それは園田が関与したことであって、自分たちはあずかり知らない。政治を私議することは許されない」というのが安倍の立場であった[6]

しかし、大平幹事長が強く解散に反対し、密約の「立会人」と噂された保利衆院議長も「解散権の乱用は慎むべきだ」とする議長見解をまとめて解散の動きを強く牽制した。金丸信防衛庁長官が解散反対を公言する[8]などして解散は頓挫。福田政権は衆院解散に踏み切れず、同年暮れの総裁選で福田首相、大平幹事長、中曽根、河本敏夫の4人が立候補した。大平は田中派の全面支援を受け、予備選は現職の福田有利と見られていたが、ふたを開けてみると大平が圧勝した[6]。大平陣営は田中派の竹下全国組織委員長が党員名簿を持ち出し、これを元に全国の党員に徹底的なローラー作戦を展開した。敗れた福田は本選出馬を断念し、田中・大平連合軍の物量作戦に屈した形になった。福田内閣は退陣する[6]。この総裁選で福田派の大幹部だった園田直は大平を支持して派閥を離脱し、総裁選後、福田派は安倍を代表世話人に選んで体制の立て直しを図った。安倍は名実ともに「福田派のプリンス」になった[6]

1979年(昭和54年)から1981年(昭和56年)まで大平総裁の下で政調会長を務めるが、福田派が大平と対立する中で、それぞれ籍をおく執行部と福田派の板ばさみになる。ハプニング解散の際には、政調会長と党執行部の一員でありながら内閣不信任決議採決直前に福田派議員によって議場から連れ出される一幕もあった。

政調会長退任直後に鈴木善幸内閣通商産業大臣に就任。この時期までに内閣・党の要職を次々と歴任し、総裁候補としての地歩を固めたが、当時の派閥会長であった福田が政局の節目で再登板に意欲を示したため派閥の継承は遅れる形になった。安倍は派内の若手から支持を得ていたものの、長老たちを掌握しきれていなかったのである。

1982年(昭和57年)、鈴木善幸の首相退陣表明後、田中派の支援する総裁候補中曽根康弘に対抗すべく、福田は安倍の総裁選出馬への支持を表明。総裁予備選開催に必要な4人の立候補者を出した上で河本敏夫を総理総裁とする反田中派政権を樹立する目論見[注釈 3]であったが、安倍への党員の支持が伸び悩み、泡沫候補と思われていた中川一郎にも脅かされ最下位に転落する可能性も見えた。岸は最悪の場合、安倍の将来に関わると考え、立候補取りやめを要求したが容れられなかった。予備選の結果は3位だったが、中曽根が過半数を大きく上回る得票で1位につけたため、河本以下の候補は本選挙を辞退し、ここに福田派の目論見も潰えた。

中曽根は安倍に閣僚人事の相談をするなど、安倍重視の姿勢を見せる。中曽根康弘内閣では外務大臣として入閣し、連続4期務めた。安倍は必ずしも国際派というわけでもないが、義父・岸信介の米国人脈を生かし、韓国などアジア諸国との外交にも尽力したこともあり、マスメディアなどでは「外交の安倍」という評価を受けるようになった。一方でパフォーマンスに長けた中曽根の陰に隠れ、外相としても新機軸を打ち出せずに終わったとも言われ、ポスト中曽根を目指して打ち出した政策である「グローバル・ニューディール」も、国民世論の理解を得たとは言い難かった。また、長きに渡って激務である外相を任されたことが、寿命を縮めた面も否めない。

1986年(昭和61年)、衆参同日選挙となった第38回衆議院議員総選挙で自民党が大勝し、第3次中曽根内閣で、安倍は党総務会長に就任。同時に派閥会長の座も禅譲された。中曽根の総裁任期満了により、後継総裁候補として安倍、竹下、宮沢が出馬する。3人で予備選は回避され、国会議員による本選挙は10月20日と決まった[9]

3人は話し合い決着をめざして精力的に会談を続けた。中曽根首相は話し合いがつかなければ自ら裁定を下す意向を示していた。安倍は白紙で中曽根裁定に委ねることには懐疑的だった[9]。白紙で委ねれば数(竹下は新派閥「経世会」の結成し衆参両院議員113人に総裁候補を総裁候補を持たない河本派(約30人)の支持も取り付け、一方安倍派は83人だった。)竹下が有利になると見ていた[9]。また昭和62年8月7日、安倍の岳父・岸信介が91歳で死去し、中曽根首相に強い影響力を持っていた岸が総裁選の直前に死去したことも安倍には不利になった[9]

安倍にチャンスがあるとすれば盟友関係にある竹下との話し合いで「安竹一本化」を図ることであった。「安竹一本化」の成否を賭けた安倍と竹下の会談は総裁選前日の10月19日昼前から赤坂プリンスホテルの一室で始まった。安倍にはニューリーダー戦線でトップを走り続けてきたという自負があった。竹下には率直に「今回は先にやらせてほしい」と迫った[9]。竹下にも苦心して最大派閥を作り上げた自負があった。「自分には派閥もあるし、他派閥からの支持もある。自分の都合だけでは降りられない」。安倍の猛攻を竹下はのらりくらりとかわした。安竹会談は8時間に及んだが、話の中身はほとんど堂々巡りであった。竹下の粘り腰に安倍は根負けして中曽根裁定に委ねることに同意した[9]

結局、中曽根は竹下を後継総裁に指名した(中曽根裁定[9]。この際竹下が自分を総裁にするのに協力すれば次は安倍に譲ると禅譲を持ちかけたという説もあるが、当時彼の秘書であった次男の晋三ら関係者は否定している。安倍派の幹部の中には「安竹提携よりも宮沢派と提携して最大派閥の竹下派に対抗した方がチャンスがある。このままでは竹下派にだまされる。安倍会長は甘い」と指摘する声もあった[9]。しかし、安倍は「甘いと言われてもいい。おれは竹下を裏切らない」と断言し、安竹提携路線を変えようとはしなかった[9]。後継総裁を逃したことで、当時安倍派の中堅議員だった小泉純一郎が激怒し、他の議員たちの前で安倍を叱咤したという。裁定が出て私邸に引き揚げる車中で安倍は秘書の晋三に「仕方ないな」と言葉少なにつぶやいた[9]。私邸には大勢の安倍派幹部が押しかけたが、安倍は悔しさをかみ殺し「みんなにせっかく期待してもらってすまなかったが、今回はこれでいいんだ」と淡々と話した[9]

1987年(昭和62年)に竹下内閣が成立し、安倍は自民党幹事長に就任。消費税導入などで国会対策の先頭に立ち、「ポスト竹下」の最有力候補として自他共に認める存在であった。竹下の後見役である金丸は「次は安倍ちゃんで間違いない」と公言してはばからなかった[9]。それが政界の常識でもあった[9]

発病・死去[編集]

1988年(昭和63年)、自身の秘書がリクルートコスモス(現「コスモスイニシア」)の非公開株を譲り受けていたためリクルート事件に巻き込まれたが、その最中に膵臓癌が判明し、緊急入院を余儀なくされた(当時は、リクルート事件のほとぼりを冷ますための避難入院と見る政治評論家もいた)。竹下退陣直前の4月19日、腹部に激痛を訴えて順天堂病院に入院した[9]。「総胆管結石」との診断が公表され、5月15日に手術をした[9]

竹下首相の後継は本来なら安倍のはずだったが、リクルート事件の道義的責任を問われ、謹慎せざるをえない立場だった[9]。しかも体調を崩して入院していた。後継問題で竹下は入院中の安倍と緊密に連絡をとった。竹下は宮沢派の長老・伊東正義総務会長に後継を要請した[9]。安倍も伊東に引き受けるよう促した[9]。しかし、伊東は派閥の解消などを訴えて後継引き受けを拒否した[9]。代わって竹下は中曽根派幹部の宇野宗佑外相を担ぎ出した[9]。宇野は竹下、安倍と同期当選で一回落選した安倍より当選回数が多い。「宇野なら時計の針が前に進むことにはならない」という竹下独特の安倍への配慮だった[9]。安倍も宇野に同意した。宇野には福田赳夫、鈴木善幸らが強い難色を示したが、竹下はそうした反対を押し切った[9]。7月25日に順天堂病院を退院したが、体調は安定せず、引き続きリクルート事件で謹慎生活を余儀なくされた。宇野内閣は7月23日の参院選で惨敗し、わずか2カ月で退陣に追い込まれた。宇野の後継には竹下派が中心となり、安倍も了解して河本派の海部俊樹が担ぎ出された[9]

1990年(平成2年)1月には自民党代表団を率いてソビエト連邦を訪問。冷戦の終結を見越して北方領土問題の解決、平和条約締結に強い意欲を示し、総理・総裁就任に向けて、全国各地で安倍派の新人議員を擁立し、同年2月に行われた第39回衆議院議員総選挙では安倍は幹事長時代から発掘に努めていた新人候補を大量に擁立し、その応援にヘリコプターを駆使して全国を飛び回った[9]。選挙の結果、安倍は山口県第1区で11回目の当選を最高点で飾った[9]。自派から若手議員を大量(22人)に当選させた[注釈 4]。同年6月に日米安保条約改定30周年記念式典出席のため、政府特使として訪米した[9]。記念式典の昼食会でスピーチし、日米親善交流基金の創設を提唱した[9]ジョージ・H・W・ブッシュ大統領、ダン・クエール副大統領、ジェイムズ・ベイカー国務長官ディック・チェイニー国防長官らと相次いで会談し、シュルツ前国務長官とも旧交を温めた。岳父・岸の功績である日米安保改定の30周年式典出席が安倍の最後の外遊になった[9]。8月に病状が悪化し入院。9月に予定されていた訪ソを断念したが、病身を押してソ連邦初代大統領ミハイル・ゴルバチョフの来日に尽力した。

1990年(平成2年)9月に発熱を起こし、順天堂病院に再入院した。再入院した。この際に次男の晋三から「です」と告げられた時、「ああ、やっぱりそうか」と反応しただけだったという[10]。安倍は淡々と自分の運命を受け入れ、晋三によると「全然しょげることはなかった」という。「おれは負けない。どんな治療法でもいい。探してこい」と言い、闘志は失わなかった。

安倍は10月に箱根で開いた清和会の研修会に洋子夫人の反対を押し切って出席した。「おれが元気な姿を見せないと清和会のみんなが心配するじゃないか。みんなのために頑張るのが政治家の宿命なんだ」。同年11月30日、安倍はいったん退院して帰宅した[9]。翌平成3年1月、食欲不振で体力が低下し、1月19日に三たび順天堂病院に入院した。この時は点滴治療で一度は持ち直すかに見えた[9]。安倍は自分の最期を悟ったのか、長年地元秘書として仕えた奥田斉に「残念だな、こんなことになって。まだ、やることがたくさんあるのになあ」と珍しく弱音を口にした[9]。同年4月、ゴルバチョフ大統領がソ連最高首脳として初めて日本を訪れた。ゴルバチョフ訪日は安倍がお膳立てした成果だった[9]。安倍は病院から抜け出して衆院議長公邸で開かれた歓迎会に出席し、ゴルバチョフと握手を交わした[9]。これが安倍の最後の晴れ舞台となった[9]

1991年(平成3年)5月15日、入院先の東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した。67歳没[9]

年譜[編集]

吉田松陰記念館の安倍晋太郎人形[編集]

地元・山口県萩市松陰神社境内にある吉田松陰記念館には、山口県出身の歴代総理大臣の蝋人形が展示されている。1985年、将来の「安倍総理誕生」を見越して、安倍の蝋人形が作られ展示された。他の歴代総理大臣の近くに並べられた等身大の安倍の蝋人形は、ひときわ背が高く目立っていた。安倍が総理大臣になった暁には、一つ前に山口県から選出された佐藤栄作の隣に移す手筈であったが、総理にならないまま安倍は他界した。記念館では、歴代総理と安倍の蝋人形を並べて展示するわけにはいかず、脚部を改造し椅子に座る姿に変えた上で「郷土の政治家」として片隅に展示することになった。なお、同館では山口県出身[注釈 5]の総理大臣である菅直人の蝋人形は何故か展示していない。

韓国や統一教会との関係[編集]

義父・岸信介は「国際勝共連合」・「統一教会」(世界基督教統一神霊協会)と友好的な協力関係を持っていたが、晋太郎も同じく、関連が深いとの見方がたびたび取り沙汰されていた。「自民党内部の統一教会シンパとしてさかんに議員に統一教会員を秘書として紹介し、セミナーへの勧誘をしていた[11]」と言われており、1999年には『週刊現代』が統一教会と国会議員の繋がりを暴いた記事で「安倍晋太郎氏がセミナー等への勧誘を行っていた」と報じた(参考:スクープ! 公安の極秘資料入手現職国会議員128人の「勝共連合・統一教会」関係度リスト(週刊現代, 99年2月27日号) 阿修羅掲示板より記事原文画像[11])。事実、統一教会は晋太郎を総理大臣にするべく応援[注釈 6]してきており、当時、竹下を後継指名した中曽根を強く非難していた。

2006年には、息子の晋三(当時は官房長官)が「統一教会」の関連団体天宙平和連合のイベントに祝電を寄せたことが報道され、岸信介、安倍晋太郎の代からの深い関係があるのではと見られ波紋を呼んだ。この件に関し晋三は、「秘書が行った行為で、誤解を招く行為であった」という旨のコメントをした。[12]

晋太郎は当時反共独裁体制だった韓国政界と太いパイプを持っていたので、親韓派と言われることが多い。晋太郎の福岡事務所が入っていたビルはパチンコ事業で成功を収めた在日コリアンの実業家の経営する本社のビルであり、1980年代末には、その実業家との癒着に疑惑がもたれたこともあった[13]

系譜[編集]

山口県大津郡日置村(後に油谷町に分割、現:長門市)の安倍家は、江戸時代には地元の大庄屋を務め、醤油醸造を営み、やがて大津郡きっての名家と知られるようになった家柄である[1]明治時代になると安倍慎太郎が地元の名士として山口県議会議員になった。彼は「安倍家中興の祖」と呼ばれる。慎太郎は地元の名門椋木家から婿養子彪助を迎え入れ、その子である安倍寛は山口県議会議員を経て、1937年(昭和12年)に衆議院議員に当選して中央政界へ進出、以降安倍家は政治家一家となる[14]。寛は1942年(昭和17年)の翼賛選挙大政翼賛会の推薦なしで当選を果たした議員の一人として知られる。その息子が安倍晋太郎であった[2]

安倍家のルーツについては、共同通信社出身のジャーナリスト古沢襄によれば、安倍晋太郎自身が奥州安倍氏であり、安倍宗任の末裔にあたると語っていたという。安倍宗任は1051年前九年の役にて源頼義源義家率いる源氏に破れ、大宰府に配流された陸奥国豪族である。『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』216-217頁に「家系図をひもとくと安倍家は、鎌倉時代以前の奥州征伐などで名高い阿倍比羅夫、前九年の役の安倍貞任にまで繋がる歴史ある名門である」とある。安倍家の元家政婦は東北地方に飛び、奥州安倍氏の関係地と言われた岩手県など地域の市町村役場などを丹念に回りながら、各地に古くから伝わる家系図を調べ歩き、その結果、油谷町に住み着いた一族が宗任の流れをくむ者たちであること、青森県五所川原の石搭山荒覇吐(あらはばき)神社に始祖である宗任が眠っているらしいことを調べ上げたという。元家政婦からの報告を聞いた晋太郎は昭和62年(1987年)7月末、出馬表明した総裁選の全国遊説の折、妻洋子と晋三夫妻を伴い同神社に出向き、参拝した。なお案内役を兼ねて晋太郎たちに同行したのが画家の岡本太郎であり、岡本もまた安倍一族の流れをくむ一人として、自らのルーツに関心を持って調べたことがあったという[15]。だが、この石搭山荒覇吐神社は偽書東日流外三郡誌』に基づいて、同書の「発見者」・和田喜八郎が昭和55年(1980年)に創建した神社であり、同社所蔵の安倍頼時の遺骨と称する物は後に鑑定の結果、クジラの骨の化石と判明した[16]平成元年(1989年)に発刊された『安倍一族』(盛岡タイムス社編纂)という一冊に晋太郎は『わが祖は「宗任」』と題する、次の序文を寄せている。「宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら華咲かしてゆく精進を続けられたら、と願うことしきりです」[1]。但し、晋太郎にとり宗任は女系の祖先にあたり、父系は平氏の平知貞の系譜をひき、平家滅亡により源氏による迫害を恐れ女系の安倍姓を称したという。

政治家としての評価[編集]

[9]

日本経済新聞・特別編集委員・安藤俊裕は安倍を政治家として珍しいほどけれん味がなく、真っすぐなタイプだった。小手先を弄することを嫌い、他人との信義を重んじ、正攻法を好んだ。しばしば「人が良すぎる」「人間が甘い」などと言われたが、バランス感覚に優れ、人間的な安定感があった。「床の間を背に座るのが似合う男」とも言われ、リーダーとして天性の素養が備わっていた。安倍は外交面、特に日米関係の緊密化と日ソ関係の打開に大きな功績を残した。安保改定30周年の際に提唱した日米親善交流基金は安倍の有力な側近だった加藤六月政調会長や竹下元首相の尽力で安倍の存命中に実現した。政府が500億円出資して「安倍基金」ができ、これを運営する日米センターが発足した。センターの事業として安倍の名を冠した「安倍フェローシップ」が設けられた。安倍フェローシップは日米の研究者に多くの恩恵をもたらした。その一人とされる浜田宏一エール大学名誉教授は現在、安倍内閣内閣官房参与として「アベノミクス」を支えるブレーンになっている。

家族 親族[編集]

安倍家[編集]

(山口県長門市東京都

参考文献[編集]

  • 秦郁彦 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会、2002年
  • 野上忠興 『気骨 安倍晋三のDNA講談社2004年
  • 山際澄夫『安倍晋三物語』恒文社21、2003年9月。ISBN 978-4770411020
  • 神一行『閨閥-特権階級の盛衰の系譜』角川書店〈角川文庫〉、2002年3月、改訂新版、62、212-228頁。ISBN 978-4043533060
  • 野上忠興『安倍晋三 沈黙の仮面 ―その血脈と生い立ちの秘密―』小学館、2015年11月12日。ISBN 978-4093884471

演じた俳優[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 旧制高等学校の課程は3年であった。
  2. ^ なお、岸信介と佐藤栄作はともに、旧山口2区
  3. ^ 党所属国会議員による本選挙だけでは中曽根を支持する田中派・鈴木派・中曽根派の主流三派の優位を動かせなかったが、1978年(昭和53年)の総裁選で予備選の結果を受けて福田が本選挙辞退に追い込まれた前例があった。河本、あるいは安倍・中川を含む非主流派候補の得票が中曽根を上回れば政局で優位に立てるという思惑があった。
  4. ^ この時当選した1年生議員に福田康夫石原伸晃河村建夫松岡利勝などがいる
  5. ^ 選挙区は中選挙区時代は旧東京7区、小選挙区時代は東京18区及び比例東京ブロックで、山口県に関係する選挙区及び比例代表からは立候補をしていない。
  6. ^ 「統一教会」の教祖、文鮮明は「日本の今度の選挙だけでも、私たちが推してあげたのが百八議席当選した。」、「派閥で見れば、中曽根派は六十二議席にもなって、安倍派は八十三議席。私が全部そういうふうに作ってあげた。」と述べている(韓国の『統一教会』機関紙『統一世界』1990年4月号)

出典[編集]

  1. ^ a b c 野上忠興 2004, p. 44.
  2. ^ a b 山際澄夫 2003, p. 116-118.
  3. ^ 神一行 2002, p. 217.
  4. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
  5. ^ a b 神一行 2002, p. 218.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 福田派の若手エースに 「悲運のプリンス」安倍晋太郎(2) 政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕”. 日本経済新聞 電子版 (2013年6月16日). 2019年10月5日閲覧。
  7. ^ 日中の架け橋 在日華人の広場父の志を継いで日中友好を”. 日本新華僑報 (2012年11月29日). 2016年7月19日閲覧。
  8. ^ 衆議院会議録情報 第084回国会 内閣委員会 第22号 1978年6月6日 衆議院内閣委員会議事録
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj 無情の中曽根裁定、病に倒れる 「悲運のプリンス」安倍晋太郎(4) 政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕”. 日本経済新聞 電子版 (2013年6月16日). 2019年10月5日閲覧。
  10. ^ 『気骨 安倍晋三のDNA』 169頁
  11. ^ a b 『週刊現代』(1999年2月27日号)」
  12. ^ 統一教会系集会に祝電 「担当者注意」と安倍長官
  13. ^ 自民党新総裁・安倍晋三氏ってどんな人?
  14. ^ 神一行 2002, p. 216-217.
  15. ^ 野上忠興 2004, pp. 41-44.
  16. ^ 斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』
  17. ^ AERA NO.35「安倍家三代 世襲の果てに」
  18. ^ AERA NO.35「安倍家三代 世襲の果てに」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代:
櫻内義雄
日本の旗 外務大臣
第112・113代:1982年 - 1986年
次代:
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先代:
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日本の旗 通商産業大臣
第42代:1981年 - 1982年
次代:
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次代:
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