浜田幸一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
日本の旗 日本の政治家
浜田 幸一
はまだ こういち
浜田幸一
画像募集中
生年月日 (1928-09-05) 1928年9月5日
出生地 日本の旗 日本 千葉県君津郡青堀町
没年月日 (2012-08-05) 2012年8月5日(満83歳没)
死没地 日本の旗 日本 千葉県富津市
出身校 日本大学農獣医学部拓殖学科中退
前職 青年団員
所属政党 自由民主党
子女 浜田靖一

選挙区 旧千葉3区
当選回数 7回
在任期間 1969年12月28日 - 1993年6月18日
テンプレートを表示

浜田 幸一(はまだ こういち、1928年昭和3年)9月5日 - 2012年平成24年)8月5日)は、日本政治家タレント株式会社YAMATO名誉顧問[1]

自由民主党衆議院議員として通算7回の当選に及び、衆議院予算委員長自由民主党広報委員長、自由民主党副幹事長などを歴任したが、閣僚経験は得られないまま1993年(平成5年)に政界を引退した。

ハマコー」の愛称で知られ、また、「国会の暴れん坊」「政界の暴れん坊」の異名をもつ。政界引退後は「政治活動家」と自称していたほか、テレビ番組 『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日)では、「悪党党幹事長」を名乗っていた。

来歴・人物[編集]

少年期[編集]

千葉県君津郡青堀町(現・富津市)出身。実家は大地主で、父・甚三郎は町助役を務めるほどの名士だったにもかかわらず、大政翼賛会の役員でもあったこともあって戦後、戦犯者に指定され公職追放[2]、その後博打にのめり込み破産。母が引くリヤカーの後押しをしながら、幸一少年は「負けてたまるか、負けて。父が失ったものを、自分一代で取り返してみせる」と強く決心したという[3]

1941年(昭和16年)に月謝免除の特待生として旧制千葉県立木更津中学校(現:千葉県立木更津高等学校)に入学。ちょうど大東亜戦争が勃発した時期であったことから、2年に上がった頃から学徒動員で板金工として第2海軍航空廠に奉職し、飛行機の翼を作るなどしていた[4]

中学3年のときに土浦海軍航空隊に赴き、海軍飛行予科練習生の試験を受けるも、年齢的にまだ早いとのことで不合格となった。このことについて、「もし合格していたら戦後まで生きてはいなかっただろう」と回想している[5]

1945年(昭和20年)には朝鮮出身の同級生とともに学校推薦で9月1日付で南満州鉄道に入ることが決まったものの、出発直前に終戦となって立ち消え、動員先の第2海軍航空廠で玉音放送を聴いた。ちょうどこの頃に兄が戦病死[6]

それから日本大学農獣医学部拓植学科(現:生物資源科学部国際地域開発学科)に入学したが、翌1946年(昭和21年)まで芸者遊びや喧嘩に明け暮れる日々を送った[7]。しかし、本人曰く「合格した確かな記憶が無く、籍があったかどうかも不確かだった。学歴詐称を疑われる恐れもあったので、大学の同窓会の誘いも丁重にお断りしていた」と言う。ただ、大学生時代に応援団の活動はしていた。東京の高田馬場に下宿していた当時、いつも連れ立っていた同郷の先輩に早稲田大学の学生が居たことから、早大に自然と出入りするようにもなり、早大の応援団に交じって東京六大学の応援活動をしていた[8]

青年団活動を行っており、竹下登野中広務と知り合う[9]。君津郡連合青年団長、千葉県連合青年団長、日本青年団協議会顧問を務めた。

政治活動[編集]

富津町議会議員・千葉県議会議員を経て、2度目の挑戦となった1969年(昭和44年)の衆議院議員選挙自由民主党から旧千葉3区で初当選し、川島派に加わった。以後、通算当選7回(当選同期に小沢一郎羽田孜梶山静六奥田敬和渡部恒三綿貫民輔塩崎潤森喜朗村田敬次郎松永光江藤隆美など)。

1973年(昭和48年)には中川一郎渡辺美智雄石原慎太郎らと共に自民党の派閥横断的な政策集団である青嵐会を結成、マスコミ対応の事務総長を務めた。この頃から武闘派議員としても有名になり、数々の逸話を残す。農林水産政務次官・防衛政務次官・衆議院建設委員長・予算委員長などを歴任したが、予算委員長は「宮本顕治人殺し」発言で辞任を余儀なくされた(後述)。

1990年(平成2年)の総選挙の際に暴漢に襲われて失語症の傾向が出たため、1993年(平成5年)7月に息子である浜田靖一に地盤を譲り、政界を引退した。当選7回を数えたが、国務大臣への就任は1度も無かった。

この間、勲2等の叙勲、国会議員表彰、共に辞退している[10]

政界引退後[編集]

議員引退後の1993年(平成5年)12月に著書『日本をダメにした九人の政治家』(講談社)を出版し、1995年(平成7年)4月までに発行部数168万部のミリオンセラーとなった。同著では自分自身をその中の1人として自省している。またタレント活動を活発化させ、数多のバラエティ番組に登場。1994年(平成6年)には連続テレビドラマ『お玉・幸造夫婦です』で、八千草薫と夫婦役を演じた。その他にも主に政治を話題としたバラエティ番組に出演し、歯に衣着せぬキャラクターには一定の人気があった。

2007年(平成19年)の第21回参議院議員通常選挙では自由民主党の選挙用テレビコマーシャルに出演。

2010年(平成22年)1月21日、アメーバブログにてオフィシャルブログを開設した。同年1月25日にはTwitterのアカウントを取得した。

2010年(平成22年)8月10日、借金の担保として差し出したアドバンスト・メディアの株券800株を勝手に売却し、融資元の会社に2億円の損害を与えたとして、千葉県警察捜査2課などに背任罪で逮捕され、千葉地方検察庁は8月31日に、千葉地方裁判所へ起訴した[11]

しかしその後、認知症が進むなど訴訟能力に疑問が生じたため、公判は停止された[12]。2012年(平成24年)8月5日、急性心不全のため富津市大堀の自宅で死去した[13][14][15]。83歳没。背任罪の公判は、被告人たる浜田本人が死亡したことで、8月8日刑事訴訟法の規定により公訴棄却が決定し終結した[12]

逸話[編集]

「元ヤクザ」[編集]

テレビ等のメディアにおいて「千葉でヤクザをしていた」と公言。自身の著書[要出典]において、第二次世界大戦後、法律の枠外に置かれた在日朝鮮人の不良行為に対して我慢ならず現場を見つけては撃退していたと語っている。

傷害事件を起こすなどし、以後、さまざまな非行を重ねて「木更津ダニ」(「町のダニ」とも)の悪名をとった。TVタックルでは、富津のダニと言っていた。この渾名は当時(1951年(昭和26年))の地元の新聞記事でも用いられている。24歳のころケンカに巻き込まれ、相手を刺してしまい、『日雇い人夫浜田幸一』の見出しで報じられた。この時、浜田の母が、木更津で最も有名な弁護士を雇い息子を助けた。

自ら「尊敬する人物」と公言してはばからないのが熱海の暴力団稲川会初代会長の稲川聖城であった。上記の事件で懲役1年の実刑判決を受け、刑務所へ服役、出所してみると所属していたヤクザ組織は稲川組に吸収されていた。1950年代半ば、所属する組の親分が死んだため稲川に相談したところ、別の道を考えたほうがよいと言われ、政治に関心があると答えると、児玉誉士夫に紹介してくれた。後年『新潮45』の企画にてビートたけしと対談した稲川は、「あれでいいところもあるから監督(たけしのこと。「芸人ビートたけし」としては五寸の挨拶は許されないため、「映画監督北野武」として処遇)も面倒みてください」と浜田を気遣っていた。

児玉邸に2、3年住み込み下働きを務め、その後約10年間小佐野の経営する国際興業で不動産取引の勉強をした。児玉とかつて所属していた組に援助され、富津町議会議員から千葉県議会議員になった。公費では運転手は付かないため、そのあいだ浜田は移動用の車と運転手の面倒をみてもらった。この運転手が後のバーニングプロダクション社長・周防郁雄である。1969年(昭和44年)に衆議院議員選挙に挑戦して初当選した。国会議員になってからは児玉と小佐野賢治に加え笹川良一町井久之が後援者に加わったとされる。当選後ある議員[誰?]に「あいつはヤクザじゃないか」と罵られた時、「自分は確かに、かつて一時期そういう時代もあった。それを否定しない。その過去を責められたら素直に認める。しかし、それをもって私の存在自体を否定したり、また再びチャレンジ(=再チャレンジ)できないような社会をつくってはいけない」と述べている。

政治学者の高畠通敏は、1980年代半ばのフィールドワークにおいて、当初はヤクザ上がりの政治家だと思っていたところ、「地元では、浜幸を"現役"ヤクザの一員として誰も怪しまない」ことに驚いたという[16]

ハマコーの武功[編集]

1979年(昭和54年)に、自民党史上最大の危機と言われた四十日抗争で、党内の反主流派が築いたバリケードを強行突破。両院議員総会の開催を導いた。

当日、大平正芳と面会した際、大平に「浜田君、(この騒ぎ)何とかならんかね」と言われ、「わかりました」と返答し党本部ロビーへ向うと反主流派がバリケードを築いていた。党の備品である椅子や机でバリケードを築いた反主流派に対して自分の私的所有物でもない物品でバリケードを築いたことに怒りを爆発させる。

バリケードを一人で破壊する姿はテレビでよく流される。この時に、「いいか、断っとくけどなー。かわいい子供達の時代のために自民党があるっちゅうことを忘れるな!お前らのためにだけ自民党があるんじゃないぞ!」という演説を張る[17]。実際は、浜田がバリケードを突破するところではなく、主流派が部屋に乗り込んだ際に破られていたバリケードを片付けている最中の姿であった。しかしこの場面はテレビで何百回と繰り返し放送されたため、浜田がバリケードを築き、騒ぎながら椅子や机を投げ飛ばしていると勘違いされている。

浜田は前日にテレビ各局に「明日、やるからな」と電話をかけた上でのことだったが、「NHKに出ると必ずこの時の映像が流れる」と本人も苦笑していた。 浜田本人は“片付け”をしたと何度も著書内などで記述。バリケードを片付けて帰ってきた浜田に、大平は笑顔で「ご苦労さん」と言ってくれたと言う。

ラスベガス事件[編集]

1980年(昭和55年)3月6日に発覚した。1973年(昭和48年)11月に「ラスベガスカジノで、当時の為替レートに換算して4億6000万円程度を一晩ですってしまった」事件である。

当然そんな大金を浜田が用意できるわけはなく、当時浜田が不動産関係で世話になっていた小佐野賢治が代わりに用立てて支払った。ところが、その金が実はロッキードから小佐野に流れた金であるとのアメリカ合衆国議会での証言が、アメリカ合衆国で行われ大騒ぎになった。浜田も言うとおり、ロッキード事件とは直接関係はなかった。しかし、ロッキード事件渦中の小佐野から大金を用立てされている繋がりや、当時の外国為替法に違反し届け出無しで外国に日本円を持ち出して両替した事実(発覚時は公訴時効が成立)なども報じられ、また法律で国民に賭博を禁じている立場の与党国会議員が、脱法的に海外で賭博を行ったことへの道義的非難も受ける。野党も「浜田問題」を与党追及の柱に掲げたため、まずは党の国民運動本部長を辞任、ついで議員辞職を余儀なくされ、さらにこの年に行われた総選挙へ自民党の公認が得られなかった。自ら出馬を見送り収入の無くなった浜田は小佐野の不動産会社で真面目に働き、土地の売買等を通じて数年かけて借金を全額小佐野に返済したと語っている。

なぜ4億6000万円という金額になったのか、一体何をしたのかを、テレビ番組で平沢勝栄に問われ、「一度失敗すると500万失くす」ゲーム(バカラ)で損失が膨らんだと答えた。また、当時のことを振り返り、「ラスベガス大学に留学していた」と自嘲し、笑いをさそうことがある。

現地の日本向け旅行会社では、ツアーガイドが浜田が大損をしたホテル(サンズホテル英語版)の前で「あれがかのハマコーさんが4億5000万円をすったホテルです」とアナウンスをしていた。本人もこの事をネタにしている。

法相殴打事件[編集]

1984年(昭和59年)9月19日に、自由民主党本部が新左翼中核派に放火され炎上した。浜田はいち早く駆けつけ消火にあたった。そこへ当時の法務大臣であった住栄作が酔っ払った状態で現れ、「マッチポンプな真似しやがって」と発言した。それに怒りを感じた浜田は、住を殴りつけてしまった。後に住は発言が不適当だったことを認め、浜田に謝罪した[18]

1984年(昭和59年)9月20日に、日本テレビのワイドショーにおいて、浜田は「(自民党本部放火事件の)責任はだれにあるというかというと、泳がしていた我々にあると思いますよ。『中核派』を泳がしていた。やっぱり法律違反で破壊するものを泳がした。そういう一つの政策の誤りがあるんじゃないですか」と「過激派の泳がせ政策」を認めている[19]

1984年(昭和59年)11月27日には、中核派によって木更津市の事務所に時限爆弾を仕掛けられるなど、激しい攻撃も受けた。

「宮本顕治人殺し」発言[編集]

1988年(昭和63年)2月6日、衆議院予算委員会で質疑に立った日本共産党正森成二議員が、「過激派への政府の対応は、泳がせ政策ではないか」との趣旨の発言をし、竹下登首相が「泳がせ政策などをとったことはない」と答弁したことに対し、正森が「浜田委員長も過去、ワイドショーで共産党と同じ意見を述べていた」と発言した(参照:#法相殴打事件)。

これに対して、当時の衆院予算委員長だった浜田は、「我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました」と発言した。正森は激昂したが、このとき浜田は正森の言う「泳がせ政策」発言を肯定したため、正森は対決を避け、他の質問に移った。

その後終了間際、正森が円ドル為替問題の質疑中であったが、唐突に浜田が、

昭和八年十二月二十四日宮本顕治ほか数名により、当時の財政部長小畑達夫を股間に……針金で絞め、リンチで殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね。

私が言っているのは、ミヤザワケンジ君(宮本顕治の誤り)が人を殺したと言っただけじゃないですか。

と発言(日本共産党スパイ査問事件を指す)。正森が発言の撤回を求めて抗議し、委員会室は一時騒然となった。

NHK総合テレビで、この国会中継の審議の模様が生放送されており、自分の意見と共産党の意見は違うと印象づけるための、中継放送の終了時間を逆算した確信的発言であると浜田本人は述べている。

この時、浜田を予算委員長に推薦した金丸信の妻・悦子は「バカ!あんたなんか死んじゃえばいいんだ」と号泣した。浜田は、自分の首と議事録削除阻止を狙っていたが、結局予算委員長を辞任した。NHKはこの模様を時間の関係上途中で打ち切って「大草原の小さな家」を再放送したことに対し、NHKには苦情の電話が殺到した。

後に、正森議員と国会議事堂の廊下ですれ違った際に「俺の首を獲りやがって」と発言したが、目は笑っていたという。

第112回国会 予算委員会 第7号(63. 2. 6)議事録

メディア出演[編集]

議員引退後はタレント活動を活発化させ、数多のバラエティ番組に出演。連続ドラマ『お玉・幸造夫婦です』では、その素人演技と内容の突飛さ(元相撲取りという設定)が失笑を買い、今もスカパー!で再放送されるほどのカルト的な人気作品となった。この頃には「かわいい」として、女子高生からの人気をも集めた[20]

その他[編集]

  • その強面からは意外だが本人曰く「下戸」だと言う。これは息子の靖一も同様らしい。
  • 歌好きであり、自作の『お母さんの歌』を、涙を流しつつよく歌っていたことがあった[21]。また本項の「音楽」の節にあるように、曲を出したり、作詞提供、台詞入れでも活動していた。特に印象にある歌手として、ディック・ミネ田端義夫を挙げていた[22]
  • 時代劇好きでもあった。理由は「今の時代の中で失われつつある正義感というものがはっきり表現されている」からで、好きな俳優に松平健高橋英樹を挙げていた[23]
  • 野球も好きであり、兄も野球の投手をしていたことで、その相手として捕手役を務めたことがその始まりであった。高校野球を見るのも好きで、千葉県大会で観た習志野高校時代の掛布雅之のバッティングが印象に残ったことで、知り合いの巨人のスカウトに掛布を推薦したことがあった[24]
  • 選挙区で、浜田の出身地である富津市の二代目市長だった白井長治は、ハマコー嫌いで知られていた。県連会長や自治体の首長が議員よりチカラを持っているのが珍しくない関東地方で、白井の豪腕ぶりも有名だった。講談社月刊誌「現代」(1981年2月号)の取材で、白井はラーメンの汁がついたワイシャツのままインタビューを受けている。記者が「浜田さんは何で選挙に強いんですか?」と聞くと、白井は「コレに決まってんだろう」と、太い親指と人差し指で輪を作ってみせた。「議員も議員なら市長も市長だ」とこのインタビューはまとめている。
  • 選挙の際の自己紹介は、「浜」で働き、「田」で働き、「幸」せ、「一」番であった。人心掌握術には卓越したものがあった。選挙カーで地元を回っているとき、田んぼで農作業をしている有権者が手を振ってくれている姿を確認すれば、車を停めてスーツと革靴のまま田んぼに入って行き、泥だらけのその手を両手で握りしめ相手を感動させる、といった逸話が伝わっている。そのために同じスーツを何着も持っていて、車に常備していたらしい。
  • 千葉県議会議員時代に小佐野賢治と出会い、以後は不動産取引で大もうけした。昭和44年の衆議院議員選挙で初当選した時、出馬当初はほとんど泡沫候補扱いされていたが、大規模災害時には大雨などにも関わらず、浜田一人で各家庭にろうそくを配るなど、日頃の行動が実を結んだ当選である、と自称している。
  • 当時、田中角栄が属していた佐藤栄作周山会入りを希望するも、同期当選の佐藤派議員数名から「ヤクザのハマコーが佐藤派に入るのなら、派閥から出て行く」という声が上がり、断念。角栄の命を受けて、川島正次郎の許に身を寄せる。川島と角栄の他、中川一郎、金丸信に師事した。
  • 元々青嵐会は、田中角栄内閣による中国共産党一党独裁国家である中華人民共和国との間の所謂「日中国交正常化」に伴う、同国と対立している中華民国との国交断絶に反発した若手議員による政策集団、という色彩が濃厚であったが、浜田はその中でも特に強硬な親中華民国、反中華人民共和国派議員であった。後の福田赳夫内閣における日中平和友好条約承認審議を巡って、青嵐会の取った抵抗は本会議の欠席であった。しかし浜田と中山正暉だけはあえて出席し、反対票を投じている。この時浜田は「青嵐会が中華民国に対して、信義を重んじる世界の人々に対して、公約を実行できなかったことを顔向けできないことだと思っている」と語った。
  • さらに青嵐会は田中に対する反発から、昭和49年の参議院議員選挙において、既に自民現職が2人もいる北海道選挙区(定数4)に「青嵐会公認」と称し無所属の高橋辰夫を立てる。この時浜田も高橋の応援に駆けつけている。高橋は落選したものの意外に票を取り、結果現職2人も共倒れとなった。非公認候補の擁立、応援はれっきとした党規違反であり、ましてや北海道の全議席を失なった責任は重大であった。しかし浜田含む青嵐会への処分は不問とされた。
  • 自著『弾丸なき抗争』で、「田中角栄三木武夫福田赳夫の3人の権力亡者は今すぐ死ね」と言い切っている。田中は、その出版記念パーティーで「浜田君に死んじゃえと言われた田中角栄です」と挨拶して、会場の爆笑を誘った。しかし、浜田本人はカーテンの陰で終始かなりムッとしていた、という。
  • 竹下登が、衆議院予算委員会英語を引用して「There is no rule without exceptions.(例外のない規則はない)」と答弁したところ、予算委員長の浜田は「総理、ここは日本国会ですから、日本語で答弁してください」と注意した。
  • 新人議員のころ、国会内で英字新聞を読んでいた人物に対し、「日本の国会議員なら日本語の新聞を読みなさい」と言った。するとその人物は「英語かぶれ」で有名な宮澤喜一だった。議員歴、年齢共に先輩である宮澤に対し、さすがの浜田も恐縮していると、宮澤は「国会議員なんだから、浜田さんも英字新聞くらいお読みなさい」(英語の理解と広い国際視野の獲得せよという意味合いの激励と見られる)と返した。この言葉に浜田は「自分では勉強できないと思ったので息子(靖一)を留学させて、勉強させた。」と語る。上記のように他国に対し、強硬な主張をすることが多い浜田だが、このエピソードは好意的に語ることが多い。
  • 三木武夫に向かって「話し方やら性格やら、私は三木さん、あなたが大嫌いだ」と、言ったという話も残っている。三木おろしの最中の自民党両院議員総会では、「誰が辞めさせるといったって、本人が辞める気にならなけりゃ辞め(させ)られない。だから中曽根(康弘)幹事長は偉いと言ってるんだ。嫌がる人をようやく辞めさせる気になったんだから!」と演説、壇上の三木は腕を組んで険しい表情のままであった。
  • 森喜朗の政治姿勢を厳しく批判することが多く、テレビタックルでは、内閣総理大臣だった森のことを「あんなの」と呼び、共演者の笑いを誘った。また、自民党の幹事長会に出た現職首相の森に「森、てめぇこのやろうぶっ飛ばすぞ」と言い、それを止めに入った古賀誠幹事長に「調子にのってんじゃねえぞ」と言った。森は苦笑いをしていた。
  • 東京湾アクアライン建設の立役者。神奈川県川崎市千葉県木更津市をつなぐ高速道路の建設を推進した。建設費は1kmあたり1,000億円で、僅か15km程の道路で建設費用が約1兆5,000億円も掛かったという。川崎市から海ほたるパーキングエリアまでは海中道路で、海ほたるPAから木更津市は海上道路となる。アクアラインの通行料4,000円が高いことや、通行する自動車数が予測よりも少なく、赤字となっており、国会などでも問題となった。この点を指摘されると「私の責任です」と言い、続けて「あと100年後したら、必ずこの事業の意義が分かる時がくる」と述べた。
  • 自らの過去の行動を顧みて、息子だけは立派に育てて社会に恩返しをするとの信念から、息子・浜田靖一を幼少の頃から渡辺美智雄の家に預ける。1993年7月、靖一に地盤を譲り政界引退。羽田孜から新党への誘いを受けていたが、これを固辞。本人は後年インタビューで「二世議員なんてもってのほかだと思っていたから、息子が政治家を目指すにしても地盤を継がせる気はなかった。でも自分の意に沿わない後継者が選ばれるのは嫌でしょうと説得された」と語っている。靖一の選挙に応援することはほとんどなかったが、平成21年の衆議院総選挙で自民党候補が軒並み苦戦し、防衛大臣の職にあった靖一は地元で十分な運動が出来なく、落選のピンチに陥った際には、息子の応援演説に立ち、木更津駅前でながらに土下座し「どうか、どうか、靖一を勝たせてやって下さい」 と叫んだ[25]
  • 衆議院予算委員会において、日本社会党安宅常彦に対し「黙れ!強姦野郎!」「強姦をやるのとはわけが違うんだぞ!」と、野次を飛ばし問題となった。しかし結果的に浜田自身は何の処分も受けず、逆に安宅の方が、次期総選挙で党公認を貰えず引退に追い込まれている。
  • 1989年(平成元年)の日本社会党のマドンナブーム直後に「社会党は北朝鮮から金を貰っている」と発言した。
  • 1993年(平成5年)の政治改革関連法案の是非を決める総務会で、ピケを張り開会を妨害しようとする若手議員に対し、わざと躓き「人殺しが」と絶叫するシーンは、今でもテレビ番組でよく放映されている。
  • 1996年(平成8年)開催予定だった世界都市博覧会については、中止反対の立場だった。理由には「参加予定だった世界各国の信頼を傷付けかねない」「尽力してきた関係者、ボランティアとして参加予定だった皆さんに申し開きが付かない」「会場跡地を、災害に備えて備蓄施設に再利用出来るはずとその活用法に期待していた」と言うことを挙げていた[26]
  • 過去の経歴や、その口の悪さのために、知名度が高く政治家歴が長かったものの、国務大臣に就くことはなかった。四十日抗争の後に、大平正芳から入閣を打診され、一度は受諾したものの、そのことを田中角栄に報告すると「そんなつまらないのやらずに内閣官房副長官をやれ。官房長官が死んだら格上げで内閣官房長官になれるぞ」と言われたため、田中が手配してくれるものと思って、先の閣僚ポストを断った。しかし田中は手配してくれておらず、浜田は閣僚ポストを逃すことになった。また、安倍晋太郎から「浜ちゃんを使えるのは俺しかいないから」「自分が首相になったら、国務大臣に登用する」と言われていたが、結局安倍は内閣総理大臣の地位を目前にして、この世を去ることになった。ただし浜田本人は「自分を使いこなせる総理大臣がなかなかいなかった」「もし大臣になっていたら、自民党はもっと早く潰れていただろう」と語っている。
  • 最晩年は、たびたび私服姿で船橋駅周辺や、津田沼駅周辺をブラつく姿が目撃されていた。趣味として囲碁を嗜んでおり、津田沼囲碁クラブ[27]千葉工業大学向いのモリシアビルディング7F)の常連となっていた。
  • ブログTwitterに挑戦したり、iPhoneを購入するなど、最先端技術やトレンドに対する関心が強い[28]。自由民主党本部が、第22回参議院議員通常選挙立候補予定者を対象とした『ツイッター講座』を開催したと知ると、「あえて言おう、遅すぎる!!」[29]と苦言を呈し「すぐやれ!! みんなやれ!! なう!!」[29]と叱咤している。
  • 読売新聞』の「編集手帳」で、その死を悼んで「独自の愛嬌と浪花節の男っぽさが親しまれもした。2人いれば迷惑だし、5人いたら組織がもたないが、1人もいないとそれでさびしい。そういうタイプの人」と、掲載された[30]
  • 田中角栄にお金を貰ったことがある、という事実をテレビ放送で自ら発言し、はっきり認めていた。
  • 金丸信の家にいつも下足番として鈴木宗男と居ており、左足を浜田が、右足を鈴木が金丸の靴を履かせていた[31]

発言[編集]

郵政民営化
2005年(平成17年)の郵政民営化騒動の際、小泉純一郎首相が衆議院解散を示唆し始めたころ、民営化反対の自民党議員たちに対し、「(衆議院の)解散もいやだ、自民党にも残りたい、では筋が通らない」と述べていた。
天国と地獄のアクアライン構想
2009年、今やりたいことについてという問いに「父はおそらく地獄にいるが、母は天国へいると思う。天国と地獄を結ぶアクアラインはまだ出来ていないと聞いている。母の肩を叩くために、今度生まれてきたら天国と地獄をつなぐアクアラインを造りたい。通行料はただにしたい」と発言した[32][33]
後期高齢者医療制度
2008年(平成20年)には、同年6月8日投開票の沖縄県議会選挙に合わせた自民党のテレビコマーシャルに出演、自らも対象(79歳)となっている後期高齢者医療制度についてアピールした[34]

語録[編集]

  • 自民党が滅んだら日本も終わり」[35]
  • 「日米安保なくして日本の存続はない」[36]
  • 「これから大増税時代が来る」[要出典]
  • 「いいか、断っとくけどな。かわいい子供たちの時代のために、自民党があるっちゅうことを忘れるな!お前らのためだけに自民党があるんじゃないぞ!!」- 自民党四十日抗争の際、自民党本部に築かれたバリケードを片付けていた際に発言[17]
  • 「平和は願っているだけではやってこない。平和を得るためには自ら果たさなければならない義務がある」[10]
  • 「大体日本の全体が非核三原則だって寝ぼけた事言っているから間違ってるんだよ」 - 昭和61年11月、衆議院予算委員会で当時社会民主連合所属の菅直人が質疑した事に対する野次[要出典]
  • 「支持したのは今日までだ!明日からは違うぞ!」- 昭和47年6月、長期に渡り政権を維持し続けた佐藤栄作元内閣総理大臣に向けて[37]
  • 「黙れ、強姦野郎!!」- 昭和53年2月衆議院予算委員会にて。社会党の安宅常彦への野次[37]
  • 「日本も核を持つべきだ。」[37]
  • 「あんたのやり方が気に入らないんだ。一体、いつからそんなに偉くなったんだ!」- 平成5年、当時自民党幹事長だった梶山静六の肩をつかみ、戦いを挑んだ際の発言[37]
  • 「今か、今かと地震に怯えながら暮らすのは、頭のいい人のすることではない。しかし、いつ地震が来ても大丈夫なように、心のモノを備えておくことは大切なことだ。」- 平成7年、阪神淡路大震災を受けての発言[37]
  • 「選挙に行きたくなければ行かなきゃいい。でも選挙に行かない日本人は日本人ではない。」[37]
  • 「日本はアメリカの植民地である。アメリカがいいと言わなきゃ、何一つできやしないんだ。」[37]
  • 「大臣室へ入っていく姿で将来がわかる。」[37]
  • 「あれは小沢一郎からきたカネだ!!」- 平成19年1月、民主党代議士会における菅直人代表代行(当時)の演説[注釈 1]を受けての発言[37]
  • 「三人以上の子供を産まない女性は、国家にとって必要じゃない。」[37]
  • オバマは合気道だ!」[37]
  • 「自分を育ててくれた両親を、誰よりも大事にする青年になってください。」- 平成22年、東京大学学園祭で行った講演での発言[37]
  • 「自民党は長い政権与党であった間に、自由経済を規制する法律を作り過ぎた結果、日本は社会主義経済になってしまった」[38]
  • 「今の日本の各政党はバラバラ。自民党は『自眠党』、民主党は『眠主党』、共産党は『恐惨党』、社会民主党は『斜壊眠主党』だ」[39]

家族[編集]

実弟の浜田正雄は京葉銀行頭取を務めた。息子の浜田靖一は後継者として衆議院議員となり、麻生内閣では防衛大臣に就任した。

著書[編集]

  • 弾丸なき抗争―権謀術数に生きる男の戦い(1983年1月)  ISBN 4584005028
  • 不肖ハマコーがゆく―一所懸命に闘い、一所懸命に死ぬ(1989年7月) ISBN 4890367691
  • 実力者に問う!!―これからの日本をどうする(1990年11月) ISBN 4062051877
  • 日本をダメにした九人の政治家(1993年12月) ISBN 406206779X
  • 永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史(1994年2月) ISBN 406256033X
  • ハマコーの世の中間違っとる(1994年4月) ISBN 4643940352
  • ハマコーの証人諫問―国民のために代表質問いたします(1994年7月) ISBN 4334970907
  • ハマコーの何度言ったらわかるんだ!(1995年5月) ISBN 4643950382
  • たまには誉めてやる これからの18人―ハマコーの政治家“私”観(1995年6月) ISBN 4331504921
  • ハマコーの非常事態宣言(1995年7月) ISBN 4391117622
  • 新版 日本をダメにした九人の政治家(1995年10月) ISBN 4062561190
  • みっともない「生き方」はするな!―ハマコー、この“破天荒人生”に知恵あり(1996年3月) ISBN 4837916317
  • 予言集(1996年6月) ISBN 4643960590
  • 石原慎太郎くんへキミは「NO」と言えない(1999年6月) ISBN 482110671X
  • 日本を救う9人の政治家とバカ1人(2001年7月) ISBN 4575292524
  • お願いだから、わかって下さい。国会というところ…(2002年4月) ISBN 4591072118
  • ハマコーだう!ツイッターの言葉力(2010年6月) ISBN 9784062162661
  • YUIGON 〜もはや最期だ。すべてを明かそう。(2011年5月、ポプラ社) ISBN 9784591124468

論文[編集]

出演番組[編集]

ドラマ[編集]

バラエティなど[編集]

出演CM[編集]

  • 道三めん 新生タイプ すごいやつ
  • サッポロビール サッポロ生黒ラベル(2002年)
  • 自由民主党 長寿医療制度編(2007年)

音楽[編集]

出典・注釈[編集]

出典[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 名誉顧問になった だう!|浜田幸一オフィシャルブログ「このままじゃいかんのだよ!!」[リンク切れ]
  2. ^ 『ハマコーだう!ツイッターの言葉力』154ページ
  3. ^ グレートマザー物語[リンク切れ]
  4. ^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.86-87 〔ISBN 406256033x
  5. ^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.88-89 〔ISBN 406256033x
  6. ^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.90,92 〔ISBN 406256033x
  7. ^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.95 〔ISBN 406256033x
  8. ^ 『予言集』183-185ページ
  9. ^ 魚住昭『野中広務 差別と権力』講談社
  10. ^ a b 月刊THEMIS 2001年6月号 98ページ
  11. ^ “背任事件で浜田幸一容疑者を起訴” (日本語). 読売新聞. (2010年8月31日). http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100831-OYT1T00956.htm 2010年8月31日閲覧。 [リンク切れ]
  12. ^ a b “浜田元議員死去で背任罪の公訴棄却 千葉地裁”. 産経新聞. (2012年8月8日). http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120808/trl12080820190007-n1.htm 2012年8月14日閲覧。 [リンク切れ]
  13. ^ “浜田幸一元衆院議員が死去=「ハマコー」「暴れん坊」の異名” (日本語). 時事通信. (2012年8月5日). http://mainichi.jp/select/news/20120806k0000m040023000c.html 2012年8月5日閲覧。 [リンク切れ]
  14. ^ 「国会の暴れん坊」 「ハマコー」こと浜田幸一氏が死去 産経新聞2012年8月5日閲覧[リンク切れ]
  15. ^ ハマコーこと浜田幸一さん死去 ゲンダイネット2012年8月5日閲覧[リンク切れ]
  16. ^ 高畠通敏『地方の王国』岩波同時代ライブラリー、1997年、69頁
  17. ^ a b 『YUIGON 〜もはや最期だ。すべてを明かそう。』61ページ
  18. ^ 1984年9月21日 中日新聞 23面
  19. ^ 『浜田幸一物語 最強暴れん坊伝説』(中大輔・原作、木村シュウジ・作画 竹書房)201ページ、及び『YUIGON 〜もはや最期だ。すべてを明かそう。』75ページ
  20. ^ 『何の因果で』 P.19 - ナンシー関 [ISBN 4041986052]
  21. ^ 政界の暴れん坊・浜田幸一氏 最期は静かに”. 日刊スポーツ (2012年8月6日). 2014年7月23日閲覧。
  22. ^ 『予言集』108-109ページ
  23. ^ 『予言集』219-220ページ
  24. ^ 『予言集』57-58ページ
  25. ^ 読売新聞2009年8月25日
  26. ^ 『予言集』80-83ページ
  27. ^ 津田沼囲碁公式ホームページ
  28. ^ 「『つぶやきは秘書のやったことです』――81歳『ハマコー』ツイッター大人気」『「つぶやきは秘書のやったことです」 81歳「ハマコー」ツイッター大人気 (1/2) : J-CASTニュースジェイ・キャスト、2010年(平成22年)2月9日。
  29. ^ a b 浜田幸一『Twitter / 浜田幸一: 先週、自民党次期参院選候補者対象に、第一回ツイッター ...』2010年2月9日。
  30. ^ 『読売新聞』2012年8月7日(火)朝刊
  31. ^ CGS「じっくり学ぼう!日本近現代史」第6部第1話 暗愚の帝王!鈴木善幸【CGS 倉山満】
  32. ^ 「面白いオジサンだった」 ハマコーさんを偲んで。有吉弘行がバラエティ番組で共演した思い出を語る。”. エンタがビタミン♪ (2012年8月6日). 2014年7月22日閲覧。
  33. ^ 『YUIGON 〜もはや最期だ。すべてを明かそう。』127ページ
  34. ^ 自民党CM「長寿医療制度編」~医療制度を語る。浜田幸一79歳~ - YouTube・LDPChannel
  35. ^ 新潮45 2008年11月号 43ページ
  36. ^ 『予言集』321ページ
  37. ^ a b c d e f g h i j k l 『YUIGON 〜もはや最期だ。すべてを明かそう。』160-183ページ『ハマコー語録』の節。
  38. ^ 週刊現代 2003年10月11日号 35ページ
  39. ^ 週刊ポスト 2002年5月10日号 59ページ

注釈[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 菅直人が「浜田さんが予算委員長時代、10万円分の商品券を配っていた」と発言したのを受けて、浜田が鳩山由紀夫に電話し「あの菅君の発言は民主党の統一見解か?」と言うことを問い質すつもりで「あれは商品券ではなく現金だ」と言い、更にこう発言した(『YUIGON』177ページに記述)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

メールマガジン
FACE BOOK
公職
先代:
中村弘海
日本の旗 防衛政務次官
1976年 - 1977年
次代:
竹中修一
先代:
江藤隆美柴立芳文
日本の旗 農林水産政務次官
江藤隆美と共同
1975年 - 1976年
次代:
山崎平八郎片山正英
議会
先代:
砂田重民
日本の旗 衆議院予算委員長
1987年 - 1988年
次代:
奥田敬和
先代:
松永光
日本の旗 衆議院建設委員長
1983年 - 1984年
次代:
保岡興治
党職
先代:
西岡武夫
自由民主党青年局長
1972年 - 1976年
次代:
深谷隆司