石井光次郎

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石井 光次郎
いしい みつじろう
Mitsujiro Ishii.jpg
1960年頃
生年月日 1889年8月18日
出生地 福岡県久留米市
没年月日 (1981-09-20) 1981年9月20日(92歳没)
出身校 神戸高等商業学校(現・神戸大学
東京高等商業学校専攻部(現・一橋大学
前職 朝日新聞社専務取締役
朝日放送代表取締役社長
日本体育協会会長
日本ゴルフ協会会長
日本相撲協会横綱審議委員
所属政党 日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
福岡県久留米市名誉市民
配偶者 妻・石井久子
親族 長男・石井公一郎
次女・石井好子

日本の旗 第54代 衆議院議長
在任期間 1967年2月15日 - 1969年7月16日

日本の旗 第21代 法務大臣
内閣 第1次佐藤第1次改造内閣
第1次佐藤第2次改造内閣
在任期間 1965年6月3日 - 1966年12月3日

内閣 第1次池田内閣
在任期間 1960年7月19日 - 1960年12月8日

内閣 第1次岸内閣改造内閣
在任期間 1957年7月10日 - 1958年6月12日

選挙区 福岡県第3区
当選回数 11回
在任期間 1946年4月11日 - 1972年11月13日

その他の職歴
日本の旗 第15-16代 運輸大臣
1952年10月30日 - 1954年12月10日
日本の旗 第29代 商工大臣
1947年1月31日 - 1947年5月24日
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石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年(明治22年)8月18日 - 1981年(昭和56年)9月20日)は、日本政治家衆議院議長(第54代)、副総理法務大臣通商産業大臣行政管理庁長官北海道開発庁長官運輸大臣朝日放送社長、商工大臣を歴任。久留米市名誉市民。

来歴・人物[編集]

福岡県久留米市出身。久留米商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て、1914年(大正3年)東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部を卒業する。

1913年(大正2年)に高等文官試験に合格し、東京高商専攻部卒業後に警視庁警部台湾総督府秘書課長兼外事課長などを経て1922年(大正11年)に朝日新聞社入社。同社専務取締役などを務めた後、1946年(昭和21年)に鳩山一郎日本自由党から衆議院議員に初当選(当選同期に小坂善太郎二階堂進江崎真澄小沢佐重喜水田三喜男村上勇原健三郎川崎秀二早川崇中野四郎など)。1947年(昭和22年)に商工大臣に就任するが、大臣就任中に公職追放を受ける。1950年(昭和25年)に追放解除となり、1951年(昭和26年)には朝日放送社長に就任。政界にも復帰して、1953年(昭和28年)に第5次吉田内閣運輸大臣に就任。吉田内閣の総辞職後、総裁に就任した緒方竹虎によって、自由党幹事長に任命されるが、直後の第27回衆議院議員総選挙では大敗した。1955年(昭和30年)、緒方・大野伴睦ら自由党幹部と共に保守合同により自民党に参加する。

1956年(昭和31年)に緒方が急死すると派閥を引き継ぎ総裁選に出馬するなど、自民党中間派閥・石井派の領袖として影響力を持った。だが石井の生真面目さとクリーンな政治信条から、派閥子分の入閣を強く働きかけることなどは一切なかったという。勢い、自身の出世・地盤強化にも淡白であった。鳩山政権の後継を争った自民党総裁選では2位・3位連合の奇策により石橋湛山を統一候補として岸信介を破り、石橋内閣成立の立役者となるも、岸派が主張した「党内融和のために決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見に譲歩し、副総理就任を辞退した。その後、思いもよらぬ石橋の急病入院による退陣で、後継総裁の座は副総理格として入閣していた岸に奪われることになった。

岸首相の退陣後には、笠信太郎(朝日新聞論説主幹)が、石井をその後継首相に据えようと、宮沢喜一を介して池田勇人に要求している[1]

その後、1960年(昭和35年)に第1次池田内閣通産大臣1965年(昭和40年)には第1次佐藤内閣第1次改造内閣法務大臣と、重量級の要職を経た。

この間周囲から推される形で、1960年(昭和35年)にも、自民党総裁選挙に立候補したが敗北。1967年(昭和42年)には衆議院議長に就任した。1969年7月の衆議院本会議で自民党が健康保険法の改正にあたり、起立採決で強行突破を計って大混乱した責任を取り議長を辞任した[2]。議長辞任後は自民党顧問となる。1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙に出馬せず政界引退。

引退する者や派閥離脱者が出ても、無理して新人を増やすこともしなかったため、石井派は選挙の都度勢力を減らしていったが、側近の坂田道太田中伊三次中垣國男灘尾弘吉長谷川峻らが損得抜きで最後まで石井を支え続けた。晩年は岸信介らとともに親台湾派の長老として党で重きをなし、同じ親台湾派の福田赳夫を一貫して支持した。

神戸高等商業学校東京高等商業学校専攻部在学中は相撲選手として活躍。1928年(昭和3年)、朝日新聞勤務時代に合気道創始者植芝盛平に入門、朝日新聞社内に合気道を広めた[3]1949年(昭和24年)に日本ゴルフ協会会長に就任。第8代日本体育協会会長を1962年(昭和37年)11月から1975年(昭和50年)3月まで務めた。在任期間の間に1964年(昭和39年)開催の東京オリンピック、1967年(昭和42年)開催の東京ユニバーシアード、1972年(昭和47年)開催の札幌オリンピックと国際大会を成功させた。会長退任後は名誉会長に就任した。横綱審議委員会委員長なども務めた。

1981年(昭和56年)9月20日、心不全のため死去[4]。享年93(満92歳没)。

栄典[編集]

家族[編集]

妻の久子は、立憲政友会総裁や逓信大臣等を歴任した久原房之助の長女。4人の子があり、次女はシャンソン歌手・エッセイストの石井好子。長男の石井公一郎ブリヂストンサイクルの元社長で、現在は日本会議副会長。次男の石井大二郎は昭和海運元会長。

長女・京(元・ピアニスト)の夫はフランス文学者朝吹三吉、その妹はフランソワーズ・サガンの翻訳(友人でもある)などで著名なエッセイスト朝吹登水子で、石井好子とは姉妹同然の仲であった。詩人フランス文学者朝吹亮二は朝吹三吉の次男で光次郎の孫、小説家で第144回芥川龍之介賞を受賞した朝吹真理子は朝吹亮二の娘で、光次郎の曾孫。

エピソード[編集]

1964年の東京オリンピック当時、日本体育協会会長を務めていた石井は、代々木オリンピックプールに掲揚されていたオリンピック旗を譲り受けると、「私が持っているよりも、若い人たちの励みにしたい」と考え、母校の久留米市立久留米商業高等学校に寄贈した[5][6]。この五輪旗は久留米市立久留米商業高等学校の金庫に厳重に保管され、一回り小さいレプリカ旗を複製して校内に展示されている[5]

脚注[編集]

  1. ^ 「近聞遠見」岩見隆夫 毎日新聞2009年9月2日閲覧
  2. ^ 森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十四章 (PDF)”. 2013年8月17日閲覧。
  3. ^ 植芝吉祥丸著・植芝守央監修 『合気道開祖 植芝盛平伝』 出版芸術社、1999年(平成11年)、ISBN 4882931680、306頁。合気ニュース編集部編 『武田惣角と大東流合気柔術 改訂版』 合気ニュース、2002年(平成14年)、ISBN 4900586692、116頁-118頁。
  4. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)3頁
  5. ^ a b 東京五輪旗 久商同窓会大阪支部ブログ 2013-09-28
  6. ^ 半世紀前の五輪旗と共に (PDF) 広報くるめ 第1335号(2013年10月15日)

参考文献[編集]

  • 『追悼石井光次郎』 石井久子編、1982年 私家版
  • 『回想八十八年』、『思い出の記』 カルチャー出版、1976年 政界引退に伴い刊行
  • 私の履歴書 第45集』日本経済新聞社、1972年に所収。
  • 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、42頁)

外部リンク[編集]


議会
先代:
綾部健太郎
日本の旗 衆議院議長
第54代:1967年 - 1969年
次代:
松田竹千代
公職
先代:
高橋等
日本の旗 法務大臣
第21代:1965年 - 1966年
次代:
田中伊三次
先代:
池田勇人
日本の旗 通商産業大臣
第20代:1960年
次代:
椎名悦三郎
先代:
鹿島守之助
日本の旗 北海道開発庁長官
第15代:1957年 - 1958年
次代:
山口喜久一郎
先代:
重光葵
日本の旗 国務大臣副総理
1957年 - 1958年
次代:
益谷秀次
先代:
村上義一
日本の旗 運輸大臣
第15・16代:1952年 - 1954年
次代:
三木武夫
先代:
星島二郎
日本の旗 商工大臣
第29代:1947年
次代:
水谷長三郎
党職
先代:
緒方竹虎
水曜会会長
第2代 : 1956年 - 1972年
次代:
消滅
先代:
益谷秀次
結党
自由民主党総務会長
第6代 : 1959年 - 1960年
初代:1955年 - 1956年
次代:
保利茂
砂田重政
その他の役職
先代:
津島寿一
日本体育協会会長
第8代 : 1962年 - 1975年
次代:
河野謙三