都倉俊一

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都倉 俊一
出生名 都倉 俊一
別名 シュン・トクラ (Shun Tokura)
生誕 1948年6月21日(68歳)
出身地 日本の旗 日本 東京都
学歴 学習院大学卒業
ジャンル ポピュラー音楽
職業 作曲家編曲家
活動期間 1969年 - 現在
共同作業者 阿久悠
千家和也
和田アキ子
山本リンダ
山口百恵
ピンク・レディー ほか
公式サイト 都倉俊一 オフィシャルホームページ

都倉 俊一(とくら しゅんいち、1948年6月21日 - )は、日本作曲家東京都出身。シュン・トクラ名義でも活動している。

来歴・人物[編集]

4歳のころからバイオリンを習う。父都倉栄二外交官であったことから、小学生時代・高校時代をドイツで過ごし、そこで音楽の基礎を学んだ。学習院中等科の同級生に元総務大臣鳩山邦夫、東京大学名誉教授の能見善久シティバンク銀行会長の長門正貢、元朝日新聞編集委員の萩谷順などがいる[1]学習院大学時代には、フォーク・グループ「ザ・パニック・メン」にヴォーカリストとして参加、1968年にレコード・デビューを果たす。大学2年生の時から作曲家活動を始め、デビュー作は中山千夏の「あなたの心に」(1969年)。

1970年代にはピンク・レディー山口百恵などアイドルの曲を手がけヒットを連発。この頃、NHKの歌番組『レッツゴーヤング』、日本テレビのコメディ番組『ぎんぎら!ボンボン!』の司会や、オーディション番組『スター誕生!』などの審査員も務めた。

かつてはプレーボーイとして知られ、1974年には歌手・女優の大信田礼子と結婚するも、都倉自身が家庭において異常とも言えるほどのマザコンぶりを発揮したために愛想を尽かされ1978年に離婚(TVで大信田が証言)。

かつては鈴木雄大南野陽子を擁した芸能プロダクション「株式会社エスワン・カンパニー」を経営していたが、1989年に南野が独立した後、倒産。南野とは独立時に確執があったと一部で報道された。

プブとごんのすけと言う名のゴールデン・レトリバーを飼っている。2006年に再婚。Jリーガーの都倉賢は甥。パイロットの資格を持っている。

1983年から音楽活動の拠点をロサンゼルスに移し、ミュージカルの制作も手がける傍ら、日本音楽著作権協会理事を務め、2010年8月12日より船村徹の後を受けて会長に就任した[2](2016年3月退任)。

ニコニコ動画の「ニコ生☆生うたオーディション」にて審査委員長を務める。

2012年には新国立競技場の有識者会議メンバー(スポーツWG座長)、および国際デザインコンペの審査委員を務めた[3]

2015年3月23日付けで横綱審議委員会の委員に就任した。

提供曲[編集]

あ行[編集]

か行[編集]

さ行[編集]

た行[編集]

な行[編集]

は行[編集]

ま行[編集]

や行[編集]

ら行以降[編集]

その他[編集]

ミュージカル[編集]

  • 黒い服の女(1991年、東京・パルコ劇場、プロデュース)
  • AN INSPECTOR CALLS(1994年、ロンドン・アートスフィア劇場、総合監修)
  • OUT OF THE BLUE(1994年、ロンドン・シャフツベリー劇場、制作総指揮)

歌手としての作品[編集]

シングル[編集]

  • 想い出の小径(ザ・パニック・メン)1968年9月 A面はザ・ロック・キャンディーズ「どこかに幸せが」
  • 雨あがり c/w 古い椅子と少女(ジュリアンズ)1969年5月
  • 停車場で… c/w 目の中の海(ジュリアンズ)1970年2月
  • 希望という名のこの道 c/w 希望という名のこの道(英語)
  • この部屋 c/w アンド・ラブ・ウィル・グロウ
  • 砂時計 c/w ソネット 1976年
  • メッセージ c/w 感情旅行 1976年

アルバム[編集]

  • 『This is my song 都倉俊一の世界』13曲中11曲は英語詞。
  • 『都倉俊一 青春の世界』非売品
  • 『抱擁』1976年

著書[編集]

  • 『わんぱくサムの二都物語』講談社 1982
  • 『暮らしに生きる音楽』富山県教育委員会 精神開発叢書 1985
  • 『都倉俊一 私の日本人論』曜曜社出版 1987
  • 『あの時、マイソングユアソング』新潮社 2008

編共著[編集]

脚註[編集]

関連項目[編集]

  • 若子内悦郎 「ウインズ」(現存するウインズとは無関係)として都倉と活動したメンバーの一人。

外部リンク[編集]