池田勇人

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日本の旗 日本の政治家
池田 勇人
いけだ はやと
Hayato Ikeda 1962.jpg
生年月日 1899年12月3日
出生地 日本の旗 日本 広島県豊田郡吉名村
没年月日 1965年8月13日(満65歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都
出身校 京都帝国大学法学部(現・京都大学
前職 大蔵省官僚・事務次官
所属政党 民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 正二位
大勲位菊花大綬章
法学士(京都帝国大学)
親族 広沢真臣義祖父
廣澤金次郎岳父
池田行彦娘婿
寺田稔義孫
サイン IkedaH kao.png

日本の旗 第58-60代 内閣総理大臣
内閣 第1次池田内閣
第2次池田内閣
第2次池田第1次改造内閣
第2次池田第2次改造内閣
第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
第3次池田改造内閣
在任期間 1960年7月19日 - 1964年11月9日
天皇 昭和天皇

内閣 第2次岸改造内閣
在任期間 1959年6月18日 - 1960年7月19日

日本の旗 国務大臣(無任所)
内閣 第2次岸内閣
在任期間 1958年6月12日 - 1958年12月31日

日本の旗 第61-62代 大蔵大臣
内閣 石橋内閣
第1次岸内閣
在任期間 1956年12月23日 - 1957年7月10日

日本の旗 第7代 通商産業大臣
第3代 経済審議庁長官(兼任)
内閣 第4次吉田内閣
在任期間 1952年10月30日 - 1952年11月29日

その他の職歴
日本の旗 第55代 大蔵大臣
(1949年2月16日 - 1952年10月30日)
日本の旗 第2代 通商産業大臣
1950年2月17日 - 1950年4月11日
日本の旗 衆議院議員
(1949年1月23日 - 1965年8月13日)
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池田 勇人(いけだ はやと、1899年明治32年)12月3日 - 1965年昭和40年)8月13日)は、日本大蔵官僚政治家位階正二位勲等大勲位

大蔵次官衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第556162代)、通商産業大臣(第2719代)、経済審議庁長官第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第585960代)などを歴任した。

概説[編集]

大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂右腕として頭角をあらわし、吉田内閣の外交安全保障経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。19世紀生まれの最後の首相である。

首相としては所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした政治家である[1][2][3]

生涯[編集]

生い立ち[編集]

広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)に父・池田吾一郎、母・うめの七人兄弟の末っ子として生まれた[4][5]。父は酒造り煉瓦の製造、塩浜の経営、郵便局長などをやり有為転変もあった[4][6]。生家が造り酒屋というのは、当時の政界進出者の一典型で、地元では素封家ということになる[7]

学生時代[編集]

旧制忠海中学校旧制第五高等学校を経て京都帝国大学法学部卒業[8]

忠海中学の1年先輩にニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝がおり、池田は寮で竹鶴のふとんの上げ下ろしなどもした。池田と竹鶴の親交は池田が亡くなるまで続き、池田が総理大臣になっても「日本にも美味しいウイスキーがある」と言って、外国の高官に竹鶴のウイスキーを薦めるほど、生涯変わらない友人だった[9][注釈 1]

一高受験の際、名古屋の下宿で偶然に佐藤栄作(のちの首相)と同じ宿に泊まり合わせた[注釈 2]。池田は忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日5人は酒を飲み、大騒ぎして別れた[10]

大蔵省時代[編集]

挫折と生命の危機を乗り越え[編集]

京都帝国大学法学部卒業後の1925年、同郷の政友会代議士望月圭介の推薦を受け大蔵省へ入省[11]。入省同期に山際正道植木庚子郎などがいる[11][12]

入省後は地方を廻り1927年、函館税務署長に任命される直前に望月の秘書だった宮澤裕に勧められ維新元勲広沢真臣の孫直子と結婚する[11]媒酌は時の大蔵大臣・井上準之助[13]1929年から宇都宮税務署長を務めるが落葉状天疱瘡を発症したため、大蔵省を休職する。病気はなかなか治らず一転し池田は人生の難局に直面した[11]。当時この病気は不治の病といわれたほどの難病だった[11]。手足の皮膚からが吹き出す凄惨な病で、膿を抑えるために全身をミイラのように包帯でぐるぐる巻きにする。痒くて痛くて寝床でのた打ち回る[4][14]。たまりかねて「もういい、オレを殺してくれ!」と絶叫することも度々だった[14]1931年2年間の休職期間が切れたため大蔵省を退職することとなる[15]。以後、三年間、吉名村の実家で療養生活を余儀なくされた[11]。原因不明の難病に周囲には白い視線を向ける人もいた[16]。冷たい風の中で治療は続いた[16]。栄進への道を絶たれたも同然の池田は失意に沈んだ[11]四国遍路もした[15]。池田とは対照的に出世の階梯を異例のスピードで駆け上がる一期後輩の迫水久常に切歯扼腕する思いを持った[11]

闘病中には看病疲れから直子夫人を狭心症で失っているが、やはり看病に献身した遠縁の大貫満枝との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、生死を彷徨った5年間は池田の人生観に大きな影響を与えた。1934年に奇跡的に病気が完治した[4]。医者も「どうして治ったのか判らぬ」と言っていたといわれる[4]。大蔵省を退職していたため、再び望月の世話を受け日立製作所への就職が内定した[11]。その挨拶と就職の件で上京し、買い物で立ち寄った三越から未練が残っていたのか大蔵省に電話を入れる[11]。電話に出た四期後輩の松隈秀雄が秘書課長の谷口恒二に相談し、二人が池田に復職を薦めた[11]石渡荘太郎主税局国税課長が「生きていたのか。復職はなんとかするから、戻ってこい」と言ってくれた[17]。「税務署の用務員もいといません。よろしくお願いします」と[17]、幹部に引き合わされ同年12月に新規採用という形で玉造税務署長として大蔵省に復職が決まった[11]。玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる[18][19][20]

財政家として基盤の形成[編集]

復職後は病気での遅れもあり、出世コースを外れ、税制関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」と野間清治根津嘉一郎遺産相続時の取り立ては凄まじかったといわれる[21]。当時省内では賀屋興宣石渡荘太郎の二大派閥が対立していたが、池田は同郷の賀屋派に属した[18]。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長、主税局経理課長を経て、賀屋が大蔵大臣を務めていた1941年に主税局国税課長となり、ようやく遅れを取り戻した形となった[22]。本人は後に国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。ここで太平洋戦争下の完全に破綻した国家財政の課税強化等を担当した[23]1942年、同郷の宮澤喜一入省の際の保証人となる[18]。同じ年、主税局の管轄で横浜税関の業務部長になった下村治が挨拶に訪れ会う[24]。病気がちで何度も死線を彷徨った境遇が似ていた[24]1944年、蔵相が石渡荘太郎に交代して構想から外され東京財務局長[23]。一期上で当時満州国の副総理格だった古海忠之が池田の苦境を知って満州に来ないかと誘った[21]1945年2月に主税局長となるが、初の京大出身の局長として新聞記事になったほどの異例の抜擢だった[18]。出世の遅れはここでほぼ取り戻した[18]。同年8月、終戦を告げる玉音放送は大蔵省の庁舎で聞いた。「終戦の詔書」を起草したのは、病床の池田を悔しがらせた当時内閣書記官長に出世していた迫水だった[18]。敗戦後は戦時補償の打ち切りと財産税法創設の問題に精力的に取り掛かる[18]1947年2月、第1次吉田内閣石橋湛山大蔵大臣の下、主計局長だった野田卯一を飛び越す形で大蔵次官に就任。終戦公職追放などによる人事の混乱に加え[25]、池田の政界入りの野心を見てとった石橋の親心も作用した[25][26][27]。これが池田の運のつきはじめといわれる[28]1947年5月片山内閣の発足で、次官会議で運輸事務次官になっていた佐藤栄作と再会[25]。また社会主義の実現を目指す社会党内閣は、戦時中から続いていた経済統制や計画経済の中枢として経済安定本部(安本)の強化を図ったため、必然的に安本に出向くことが増え、ここで安本次官だった同郷の永野重雄と親しくなり財界に強い素地を作る[25]

政治家として[編集]

1949年ジョゼフ・ドッジ(手前右)と
1956年内閣総理大臣石橋湛山(最前列中央)ら石橋内閣の閣僚と

1948年に48歳で大蔵省を退官し、翌1949年第24回衆議院議員総選挙に旧広島2区から出馬し、選挙戦の第一声を出身校の竹原市立吉名小学校の裁縫室であげた[29]演説の話が難しすぎて100人近くの聴衆はポカ~ンで、拍手一つ上がらなかったが初当選を果たす[29]。以降、死去まで選挙は連続7回トップ当選した[30]

新人で大蔵大臣[編集]

自民党は大勝し第3次吉田内閣の組閣は順調に進んだが、大蔵大臣のポストだけがなかなか決まらなかった[31]。この年2月1日にデトロイト銀行頭取でマッカーサーの財政顧問・ジョゼフ・ドッジ公使の資格で来日し、日本のインフレ収束について強力な政策がとられる予想があったからである[31]。今までのような蔵相ではとても総司令部に太刀打ちできそうもない[31]。吉田はマッカーサーとの信頼を築くことに専一で外交は玄人だが[32]、財政経済は素人でほとんど無関心だったため[32]、信頼に足る専門家を見つけ出して任せるしかなかった[31]。吉田には数ヶ月前の前内閣で、池田成彬に凝って泉山三六を蔵相に起用して大失敗した苦い経験があった(国会キス事件[33]。吉田が宮島清次郎に人選を依頼したが、宮島が挙げる候補者はみな公職追放の憂き目に遭っていた[34]。やむなく宮島が桜田武に相談し、桜田が永野重雄から永野の経済安定本部時代の次官仲間だった池田を推薦され、宮島が池田にテストを行った上で、宮島が吉田に池田を推薦した[31][35][36]。当時は財界でも池田の名を知る者はほとんどいなかった[31]。宮島の厳しい質問は、池田の最も得意とする領域で、スラスラ答えたといわれる[31]。池田は記憶力が抜群で数字丸暗記できる特技があり、日本経済の将来像を見抜く力を養い、進むべく方向性を見出していく[37]。こうして選挙後の1949年2月16日林譲治大野伴睦らの党人派の反対を押し切って池田は、1年生議員でありながら第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された[22]。池田は大蔵大臣秘書官として黒金泰美と大蔵省時代に英語が堪能で贔屓にしていた宮澤喜一を抜擢した[32][38]。まもなく黒金が仙台国税局長になったため、後任に固辞する大平正芳を否応なしに秘書官に起用した[39]

占領下の経済政策[編集]

第3次吉田政権は、その後内閣改造を計3回行ったが、いずれの内閣改造でも池田は大蔵大臣に留まった。さらに第3次吉田内閣通商産業大臣を、第4次吉田内閣では経済審議庁長官を兼務した。池田は吉田茂ワンマン首相の絶大な信任を得て、いわば全権委任の形で経済を委された。大蔵大臣としては(後の所得倍増計画に見られる積極策ではなく)引き締め政策を採り、1949年3月1日ジョゼフ・ドッジと会談[40]。6日後の3月7日に共にドッジ・ラインを実施し、インフレを沈静化させ、物資の価格税制も解除し、自由市場経済に復帰させた[32][40][41][42][43]。折衝を通じてドッジと池田は極めて親密な関係となり、それが吉田の池田に対する信頼感を持たせることにも繋がった[44]。また戦後税制3つの転機といわれる所得税中心の税制を確立したシャウプ勧告など占領下の国家予算等、経済政策を一手に引き受ける[45][46][47][48]1950年2月17日から同年4月11日まで通商産業大臣を兼務。当初は白洲次郎総司令部を握り、吉田の懐刀みたいな仕事をしていたが、経済政策が政治・外交と結びついて展開していったため、池田がGHQ経済科学局長だったウイリアム・F・マーカット少将を抑えて、だんだん独自の力を発揮し吉田の右腕になっていく[49]

講和の下交渉[編集]

1950年、生活の圧迫感からドッジ・ラインの緩和を求める声が国民の間でも強くなり、占領政策自体に対する不満に転化する気配が漂い始めた[49]。この年6月参院選も予定されていたことから、世論の悪化を恐れた吉田は、池田を渡米させ財政政策の見通しについてドッジに打診させることを目論んだ[49][50][51]。しかし渡米の最大の使命はこれではなかった[49]。マッカーサーが吉田に講和を薦め[52]、ドッジやマーカット少将からも「講和の交渉に池田をアメリカに行かせたらどうか」という進言があった[52]。こうして表向きは米国の財政金融事情・税制、課税状態の実情の研究として、実際は講和問題の打診、"吉田からの重大な伝言を預かり、これをしかるべき人に、しかるべき場合に伝える"という[51]、重大なミッションを抱えて、同年4月25日、吉田の特使として白洲次郎宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米した[51][52][53]。池田は戦後、日本の閣僚がアメリカの土を踏んだ第一号でもあった[54]。池田はそりの合わない白洲とは別行動をとり、通訳の宮澤とともに役所や工場の視察を重ねたのち、ワシントンD.C.ドッジ・ラインの緩和や輸出入銀行をつくって欲しいなどの話し合いを重ねた[49][52]。当時ワシントンD.C.には日本人が二人しかおらず[52]、安ホテルに泊まっていたため、タイプ印刷そろばんさえなく紙を作る能力がなく、こちらが言ったことを国務省に作ってもらいそれを撒いて議論した[52]。同年5月3日、池田と宮澤が人気のない国務省の一室でジョゼフ・ドッジに吉田からの重大な伝言を口頭で伝えた[51][52]。「吉田首相からの伝言をお伝えしたい。日本政府は早期講和を希望する。講和後も日本及びアジア地域の安全を保障するために、米軍を日本に駐留する必要があるであろうが、もし米軍側が申し出にくいならば、日本側から提案する形をとってもよろしい…」などと[51]、国務省の立場を非常によくする内容の日本側から安保条約的構想のオファーであった[49][51][52]バターワース国務次官がそれを聞き「白洲次郎から聞いていたのとは違う。吉田さんがそういうオファーをするなら、これはアチソン国務長官に伝えよう」と言ってアチソンにそれを伝え、アチソンはそれを持って対日講和を含む議題があったロンドンでの外相会議に出席した[52]。コピーのもう一部はジョン・フォスター・ダレスとマッカーサーに行き、日本側からそういうオファーがあるならと講和の準備が進められた[52]。白洲は池田と宮澤と一緒にアメリカに行ったが、アメリカでは二人とは全くの別行動で、自分勝手に動いており、吉田からの安保構想は聞かされてなかったといわれ[55]、宮澤は「この時の渡米は白洲さんにとってはあまり重要な任務でなかったのではないかと思う」と話している[53]。この年6月ダレスが、講和条約起草という目的を持って来日し、以降吉田との話し合いが進んだ[52]。ダレスと吉田の話し合いは秘密裏に進められ、その内容を知るのは西村熊雄条約局長と岡崎勝男の二人だけだったといわれる[52]1951年9月8日サンフランシスコ講和条約が調印されるが、講和会議に出席した全権団のメンバーで講和条約に関わったのは池田だけである[52]。他のメンバー構成は吉田が仕組んだショーといわれる[56][57]。この全権団入りも一年生議員で、しかも外相でもない池田がメンバーに加わったことに異議を唱える者も少なくなかった[54]

講和・独立後の経済政策[編集]

また1951年設立される政府金融機関第一号・日本輸出銀行を始め、一連の長期金融機関制度を創設[58]。池田は日本輸出銀行の初代総裁には河上弘一日本開発銀行初代総裁には小林中とそれぞれ腹心をあてた[58]。1951年9月、サンフランシスコ講和条約全権委員として渡米し、同条約の調印に参与した他、ジョゼフ・ドッジらと会談も行われ、占領中に生まれた対米債務が主に議論された[49][52][59]

度重なる問題発言[編集]

第3次吉田内閣にて大蔵・通産大臣を務めていた1950年3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」との発言が問題となる。さらに第3次吉田第1次改造内閣にて蔵相を務めていた同年12月7日、「貧乏人は麦を食え」と発言したとして再び問題となる(実際は、参議院予算委員会社会党木村禧八郎の質問に答えた中で、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたい」という発言を当時の新聞が改ざんして報道した言葉)[60][61]1952年、吉田に抜き打ち解散を進言[62]。同年10月30日に発足した第4次吉田内閣では、通商産業大臣と経済審議庁長官を兼務し入閣した。この時、電力の分割民営化を目指す松永安左エ門が、三鬼隆水野成夫工藤昭四郎らの電力統合派と争うが、多勢に無勢で敗北濃厚となり[63]、通産大臣の池田に直談判して来た[63][64][65]。池田は松永の熱意に驚き協力を約束し形勢が逆転、その後分割民営化(九電力体制)が成された[64]。これを切っ掛けに松永が池田を可愛がるようになった[63]。同年11月27日日本社会党加藤勘十の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」とまたまた問題発言をしたため[60][61]、翌日に野党が不信任決議案を提出。吉田政権は与党内に激しく対立する反主流派を抱えており、その一部が採決時に欠席したことにより不信任案が可決された[62]日本国憲法下での唯一の閣僚不信任決議である。閣僚不信任決議に法的拘束力はないが、無視した場合には内閣不信任決議にもつながりかねない状況であったため[注釈 3]、池田は決議に従って大臣を辞任した。このとき、中小企業の育成に尽くしてきたという自負から、池田は発言を撤回しなかった。この不信任案が可決したとき、池田の党人グループが「池田を慰める会」を設け、定期的に会合を開くようになった[66]。この頃から池田は派閥を作ろうという気を持ち、「将来、おれを総理にやるんだ」といい始めた[66]

政界再編成と宏池会の結成[編集]

しかしその後も党・政府の要職を歴任する。1953年自由党政調会長に就任し10月1日、吉田の個人特使の名目で、吉田政権下で三度目の渡米[67]。宮澤と愛知揆一が同行[67]池田・ロバートソン会談再軍備を巡る交渉(MSA協定)を行う[68][69]10月30日に日米共同声明が出るまでの約一ヶ月、日米双方の交渉はまるで日米戦争だったといわれる[67]1954年造船疑獄東京地検は、政治資金が豊かな池田と佐藤栄作に焦点を当てて捜査を進めたが[70]、佐藤が逮捕寸前になった際に、犬養健法相指揮権発動によって逮捕を免れ、事件そのものがうやむやになって池田の関与の有無も判然としないまま終息した[70][71]。この事件で池田は参考人として事情聴取を受けたにも拘らず[72]、5ヵ月後の同年7月26日、佐藤の後任として自由党幹事長(12月29日まで)に就任[66]1955年保守合同に参加することは、鳩山一郎を擁する三木武吉河野一郎岸信介らの軍門に下ることになり吉田派は迷った[73]、池田は当初反対の立場を取っていたが、現実的に判断し吉田派全体を長老の林譲治益谷秀次とともにまとめて、自由民主党に参加する[66]。吉田にも入党を勧めたが佐藤栄作が反対し、吉田と佐藤は無所属になった[66]。1954年12月から1956年12月までの鳩山内閣の二年間は、完全に冷や飯を食わされた状態になる[74]ドッジ、吉田という二人の強力な庇護者が権力を喪失した上、保守合同による新党結成の働きが大であった緒方竹虎という強力なライバルの台頭により、池田は鳴かず飛ばずの状態になった[66]1956年12月の鳩山一郎退陣で池田は石井派の総参謀長になり[75]、岸反対で共通する石橋支持派と石井支持派の一本化に奔走し、石橋派の参謀・三木武夫と二、三位連合の政略を立てた仕掛けが成功[27]石橋湛山が決戦投票で岸を僅差で破り政変が起きた[75]。恩人でもある石橋に恩を返した形となった[27]。同年12月23日に成立した石橋内閣で、石橋首相は積極財政を展開するため蔵相に池田を起用しようとし、党内から猛反発を受けたが「他の人事は一切譲ってもいいから」と池田蔵相に固執しの大蔵大臣を受けるが[76]、同内閣が二ヶ月の短命に終わり1957年2月、第1次岸内閣となり、政敵の岸に抱き込まれ大蔵大臣を引き継ぐ[77]。岸は、金融政策を含め、経済政策を池田任せにした[77]。ここで岸とコンビを組み、政官一体を演出するが[77]1957年7月の内閣改造で、岸が日銀寄りの一万田尚登を蔵相に起用。池田は他ポストへ横滑りを要請されたが「蔵相以外はノー」と蹴飛ばし閣外に出て党内野党に転じる[75][77]。しかしこの雌状期に池田を支える後援組織が整い、政権への道が地固めされていく[78]。それは政治力だけでなく、後の「所得倍増計画」に繋がる池田の政策路線が確立される過程でもあった[78]。すなわち、健全財政と積極主義とを結びつける理論的裏付け、そして世論を取り込む政治的スローガンの獲得であった[78]1957年10月頃には旧自由党の吉田派を佐藤栄作と分ける形で自らの政策集団派閥である宏池会を結成した[注釈 4]。宏池会は経済を旗印にした初めての政策集団であり[79]自民党派閥の原点といわれる[35]。宏池会の政策研究会「木曜会」のメンバーだった下村治をはじめとするエコノミストや官僚系議員たちとともに、この頃から「所得倍増」のもととなる政策構想を練り上げていく[78][80][81]。下村ら研究会の論争は宏池会事務局長・田村敏雄を通じて池田に報告された[82][83]。池田は大蔵省の税務畑を歩き、その実務に通暁していた[82][84]。同時に数字について異常な関心と能力があり、経済現象の予見を可能にした[82][85]。池田の頭の中には、数字で構成された世界ができていた[86]。下村たちの理論が池田の頭脳の中で強い反応を起こして導き出されたのが「所得倍増論」である[82][83][86]。また財界人のバックアップも、この時期強化された[39]。政権を明け渡し大磯に隠遁していた吉田が「池田の将来のため、みんなで応援してくれないか」と財界人に声をかけて作られた「末広会」という財界四天王を中心として集まったものと[63]松永安左ヱ門が池田の支持者を集めて作った「火曜会」などがあり[63][87]、特に池田と同じ明治32年の亥年生まれで集まる小林中ら「二黒会」のメンバーとは親密な付き合いだった[39]。吉田やドッジの庇護から自立しながら政治的地位を引き上げなければならなくなった池田は、異能なブレーンやアドバイザーを多く擁して足場を固めていく[39]。また保守合同をめぐり佐藤との関係が複雑になり、佐藤の実兄の岸が総理になったことで吉田とも距離を置くようになった[88]1958年話し合い解散による同年5月の総選挙では、岸派、佐藤派、河野派、大野派の主流四派から外された池田派は、自民党から公認が得られず、大半が非公認のまま選挙を戦った[89]。自派全ての候補者の応援に回り、のちに夫人が秘書に「あんな強行日程は組まないで欲しい」と言われたほどの昼夜兼行、夜汽車の連続で、ほとんど休息する時間もない強行軍の日程ではあったが、その甲斐もあり、その中から50名の池田派が生まれた[89]。これも池田が政界に飛躍する大きな出来事だった[89]。50名当選という池田派大勝利に第2次岸内閣では、副総理か、幹事長か、総務会長かなと期待したが、組閣が進んでも全く声がかからず。主流四派で組閣を進め、池田には最後に防衛庁長官を提示された[89]。しかし岸政権への協力が政権獲得の近道と見て、無任所の国務大臣を引き受ける[77]。11月 、アメリカシアトルで開催されたコロンボ会議に出席し、アメリカの中間選挙で大勝したアメリカ民主党財務長官・ジョン・W・シュナイダーにお祝いを言った際、後に標語として用いた「寛容と忍耐」という言葉をシュナイダーから聞いたと言われる(別説あり)[90]。反岸を鮮明にし同年12月、岸の警職法改正案の審議をめぐる国会混乱の責任を迫り、池田、三木武夫灘尾弘吉の三閣僚で申し合わせ、揃って辞表を叩きつける前例のない閣僚辞任を画策[20][91][92][93]。岸が辞任を認めないため、今度は反主流派三派、池田、三木、石井らで刷新懇談会を作るなどして岸と主流四派を揺さぶった[75][91]1959年2月22日、郷里の広島に戻り、広島市立袋町小学校の講堂で行われた時局演説会にて、後に歴史的キャッチコピーとも評される「所得倍増計画」「月給倍増論」を初めて口にした[17][94][95]。満員の聴衆に語りかけると聴衆席に爆笑が起こり、いつもの池田の大風呂敷か放言癖としか受け止められなかったが[95]、この演説こそが、経済大国に向け日本が走り出す号砲だった[17]。広島からの帰途、大阪に立ち寄り、100人余りの関西財界人の前で再び「月給倍増論」を唱えたが「春闘を控えて、いたずらに労働者側に甘い期待を抱かせることになる」「月給を二倍にすると、必ずインフレになる。無理に生産力を伸ばせば、輸入が激増し国際収支が大幅赤字になる」といった反対論が噴出した[96]。池田は誤解を解く必要あると思い、帰郷後の3月9日の日本経済新聞朝刊の「経済時評」の欄に「私の月給倍増論」と題する小論を発表した[96]。内容は「いま月給をすぐ二倍に引上げるというのではなく、国民の努力と政策のよろしきをえれば生産が向上する..せっかく力が充実し、国民経済が成長しようとしているのに、これを無理に抑えている..いま日本でインフレの心配は少しもない」のようなものだった[96][97]。同年6月18日第2次岸内閣改造内閣では、岸の使い・田中角栄から「政局の安危は貴方の閣内協力にかかっております。天下のため入閣に踏み切って下さい。そうすれば次の政権は貴方のものです」などと口説かれ[82][98]、やむなく承諾し通産大臣に就任した[20]。保守政界の一方の雄として政治家池田の擡頭を印象付けた[75][77]

内閣総理大臣[編集]

所得倍増計画[編集]

日本全国を争乱の渦に巻き込んだ60年安保で岸政権が倒れると、1960年7月14日自由民主党総裁選挙に立候補して当選し、自民党第4代総裁に就任した(総裁選の詳細は後述[99][100]。5日後の7月19日内閣総理大臣に就任し、第1次池田内閣が発足した。池田は第1次池田内閣で中山マサ厚生大臣に起用し、日本初の女性閣僚が誕生させた[101]。中山は在任5ヵ月だったが、母子家庭への児童扶養手当導入を図った[102]。また安保闘争以来引きずる使を軸とした全保守と全革新の対立で紛糾していた三井三池争議を解決するため、桜田武の進言を受け、労働行政に精通した石田博英労働大臣に起用[103][104][105]経済企画庁長官にはかつて生死を彷徨った5年間にライバル視した迫水久常を起用した[106]。池田は総理となると政治的論争となりうる安保9条問題を極力避け「所得倍増」をスローガンに掲げて経済重視の内政主義を打ち出した[84][107][108][109][110][111]。「所得倍増論」は、はじめは非現実な人気取りと見られ、野党エコノミストマスコミ、一部与党内、また多くの国民の反応は冷ややかで、実現不可能と思われていた[112][113][114]。また実現したとしてもインフレと物価上昇が起こり、実質賃金が上がるわけではない、話がうますぎる、"絵に描いた餅"だなどと懐疑的に見られていた[112][115]。しかし池田は、国際政治経済の大きなうねりや、国内に於いても東京オリンピック開催に向け、大規模なインフラ整備という公共事業が控えていたこと、家電分野を中心にイノベーションが始まっていて、農村を中心とする地方からの勤勉な労働力にも恵まれているといった国内外に於ける成長へのうねりを見据えていた[112][107]。「国民所得倍増論」という言葉は、一橋大学教授中山伊知郎読売新聞に載せた寄稿の見出し「賃金2倍を提唱」をヒントにしたもの("賃金2倍" ではなく、"賃金2倍を提唱" である)で[79][116]、内容以上に見出しの"賃金2倍"の言葉が池田の心を捉えた[96]。"所得倍増"という考えはこれ以前から池田の頭にあったという[96]。多くの政治家、経済学者も中山の寄稿を読んだものと推察されるが[83]、池田唯一人がこれを取り入れようと考えた[83]。また中身は宏池会が結成された1957年頃から、池田の指示を受けた下村治たちが、ケインズ的思想を初めて導入して、日本経済と国民生活がこれからの10年間にどこまで豊かになれるかという潜在成長力の推計を、緻密に、分かりやすく、パソコンのない時代に手回し式のタイガー計算器模造紙に打ち出す作業を大蔵省内の一室で続け、それを池田とその側近である大平、宮澤らで「国民所得倍増論」に昇華させたものであり[20][79][83]、それ以前の第2次岸内閣時代に通産大臣時代の池田を中心に閣議決定する直前までいったが、岸は安保騒動でそれどころでなく[117]、また福田赳夫も似た構想を持っていたのは事実であるが、それは計画としては体をなしていないもので[118]、池田の「所得倍増計画」とは別物である[79][116][118][119]。総理になった直後、全国遊説に出た池田は、演説でユーモアを交えながら具体的な数字を示し、自信がみなぎった態度で「所得倍増論」を説き続けた[112]。池田が演説を始めると、最初は興醒めしていた聴衆の顔色が徐々に聞き入りはじめ、次第に期待を持って耳を傾けるようになった[112]

戦後最高の議席獲得[編集]

1960年11月の総選挙で、池田はテレビスポットCMに出演するという過去に例のない選挙戦術を使った[116]。賛否両論が渦巻いたが気に懸けず「経済のことはこの池田にお任せください。10年で所得を倍にしてみせます。私はウソは申しません」などと力説[116]。また全国遊説やテレビ政見放送などを通じて、大風呂敷と見られていた「所得倍増論」は国民に期待を持って受け入れられ"池田ブーム"が巻き起こった[112][61][120]1960年11月20日の衆議院総選挙で自民党は、繰り上げ当選者を加えると301議席という戦後最高の議席を獲得し大勝した[99][112][113]。国民の自民党離れを阻止したのも大きな功績[102]。日本の奇跡的な高度経済成長経済大国ニッポン自民党黄金時代はここが出発点だった[17][113]。また大蔵省(現財務省)が「官庁の中の官庁」というパワーを確立したのは、池田が大蔵省出身の政治家として戦後初めて首相になった池田政権の時代である[121][122]。池田は「所得倍増計画」を大蔵省出身の側近政治家、大蔵省出身のエコノミスト、大蔵省出身の現役官僚たちとの二人三脚で推し進めた[121]。池田の政策は当たり、国民の所得は着実に伸びて、池田内閣発足から8年後の1968年には日本のGDP(国内総生産)が米国に次いで資本主義国第2位に躍り出た[123]。日本は戦後、驚くほど短期間で一流国家への階段を上っていく[99]

低姿勢・寛容と忍耐[編集]

また国民の怒りを一身に集める結果となった前政権の反省から、池田政権は徹底した「低姿勢」と「寛容と忍耐」を全面に打ち出し、国民との対話を重視する姿勢をとることに務めた[99]。「寛容と忍耐」という言葉の語源にが諸説あり[124]、先述にようにアメリカ民主党財務長官・ジョン・W・シュナイダーが「民主主義の基礎は時の政治的優位者の寛容と忍耐だ」とかつて言われたことを池田が思い出して使ったとする説と[124][125][126][127]。大平が"辛抱"という言葉を出してみたが、どうも貧乏くさく、これが"忍耐"と言い直され[124]、宮澤が得意の横文字から、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の原著にある"tolerance"を思い起こしてと"寛容"をくっつけたとするものがある[124]。宮澤は回顧録で「大平さんが池田さんに、とにかくここは"忍耐"しかないですね、と言ってそんなことから"忍耐"を一つスローガンにする。もうひとつ私が、ジョン・スチュアート・ミルがよく"tolerance"ということを言っていたから"寛容"というのはどうですか、と私が言って、それでスタートした」と話している[128][129][130]。池田は記者会見で「待合ゴルフも行かない」と口にしたため[131]、任期中はほとんど実直に守ったが、池田は本来、「低姿勢」「寛容と忍耐」とは、ほど遠い性格の持ち主であり、これらは池田のブレーンが作り出したものである[128][131]

浅沼追悼演説と自民党政権の安定[編集]

政権発足早々の同年10月12日日比谷公会堂で行われた自民党、民社党、社会党の党首立会演説会の壇上、社会党の浅沼稲次郎委員長が暴漢によって目前で刺殺される浅沼稲次郎刺殺事件が起こった。この事件の直後に池田が衆院本会議で行った追悼演説は今日でも名演説として知られている(後述)。 事件はNHKラジオ第1で生中継され、犯行の瞬間を捉えた映像が何度もテレビで放送され、全国民に計り知れないショックを与えた[132]。この年の政治テロはこれで3件目で、国民には何ともいい知れぬ重い不安感が覆った[132]。この日の夕方、早くも東京都内の各所では池田内閣の責任追及の抗議デモが発生、社会党も池田内閣の総辞職を要求してきた[132]。池田内閣は、この日の夕方「暴力を根絶する」との大平官房長官による政府声明を発表する一方、翌10月13日の臨時閣議で、時の国家公安委員長山崎巌を政治責任をとる形で辞任させるなど、素早い対応をとったが、ことはそれで収まりがつく情勢ではなかった[132]。浅沼が刺された瞬間を産経新聞のデスクのテレビで観ていた池田と極めて親しい記者だった吉村克己が「この事件が政争のネタになったら、まさしく安保闘争の二の舞になる」と危惧し、池田邸を訪れて、数日後に迫る臨時国会を浅沼追悼国会として「池田総理自ら追悼演説をやるのが最良の方策です」と池田に進言[132]。池田はこの進言を受け入れあの追悼演説を行い、世論にある程度の納得を与えて、社会党としても上げた手の降ろしどころがなくなった。またそれまで世間は池田を傲慢だけの男として見ていたが、人間味のあるキチンとして男との印象を持つに至り、池田自身もこのショックを乗り越えたことで、一段と大きさを感じさせるようになった[132]。この浅沼追悼演説は、今日の日本の経済大国に代表される高度成長社会と、初めて政治というものを世論という土俵の上に引き出す切っ掛けになったという点で、戦後社会に別の大きな意味を投げかけた[132]。仮に池田内閣がそれまでの政権同様、高圧的な手法でこの事件に対応していたら、池田内閣はその時点で潰れていた可能性もあり、したがって池田の目指した「所得倍増政策」による奇跡の高度成長社会があったかどうか[132]。或いはそれまでのように政治は政治家だけがやるもの、世論無視で続いてきた政治手法に、以後世論の入る余地があったかどうか、池田内閣が浅沼事件を危機を乗り越え、スタートが切れたことは、日本に初めて民主主義が根をおろしたとも論じられる[132]。池田内閣の初期には、相次ぐテロで政治の暗い裏面を匂わせたが、表面からテロが姿を消し、社会党から民社党が分かれ、野党が多党化すると選挙の際に自民党の追い風になった[131]。経済成長による生活水準の向上もあって、池田内閣時代の4年3ヵ月は、与野党対決といった局面はあまりなく、政局がきわめて安定した時代となった[99][131]朝日新聞世論調査によれば、池田は首相在任中に一度も支持率が不支持率を下回らなかった[133]。こうした例は池田内閣と小泉内閣[要曖昧さ回避]以外にない(2011年まで)[133]

全国総合開発計画(全総)[編集]

第29回総選挙で自民党は60年安保の影響もなく議席数を伸ばし勝利し、同年12月8日第2次池田内閣が発足すると、以前から言及していた「所得倍増」を目指す構想を実行に移し、12月27日所得倍増計画閣議決定をする[60][134][135]。「所得倍増政策」のもと、次々と経済政策を打ち出した[136][137]東京名古屋大阪北九州を繋ぐ「太平洋ベルト地帯」の中間に新たな工業地帯を形成する「全国総合開発計画」(全総)と関連の「新産業都市建設促進法」「工業整備特別地域整備促進法」、これに漏れた地域の発展のために「低開発地域工業開発促進法」が1961年から1964年にかけて[138][139][140]、「農業基本法」「中小企業基本法」「沿岸漁業等振興法」「林業基本法」の四大産業基本法や「海運再建整備法」が任期中に策定された[99][127][136][141][142]。宮澤喜一は1962年第2次池田改造内閣経済企画庁長官に抜擢され初入閣するが[138]、経済企画庁長官としての大きな仕事が物価GATTの問題ともう一つが五全総として今日続くこの年閣議決定した「全国総合開発計画」(全総)の初代長官としての対応だった[138][143]。策定の中心は下河辺淳[138][144]、池田内閣による「所得倍増計画」を推進する地域開発の諸問題解決を目的とするものであったが[138][143][145][146]、拠点開発の指定をめぐり激しい陳情合戦が起こり[145]、結果地元政治家を中心とした自民党の「利益誘導政治の始まり」など批判も多い[147]1961年行政改革についての審議を行う「臨時行政調査会」(第一次臨時行政調査会)を発足させた。

科学技術振興[編集]

「所得倍増計画」の主要目的五つの一つとして科学技術振興を盛り込んだ[135][148][149][150]。特に高度経済成長実現のため、それに即応する技術者を必要とすることを予想し、工科学生の拡充に重点を置いた文教予算を組んだ[151][152]。それまでの文科系学生中心の国庫補助からの転換で、戦後の文教政策のもうひとつの曲がり角ともいわれ、池田内閣によるこの勘案は、その後日本の先進工業国への歩みのなかで特筆される[151]。また研究開発の推進、及び工業化対策の改善を目的に、国内に於ける独創的研究及び開発の推進が望まれ、欧米先進国に追い付くことを基本とした方向が示された[149][150]文部省に於いて理工系学生増員計画が立案され、後の経済成長を支える基盤となった[149][150]。1961年、開発あっせん等の業務を行う新技術開発事業団(現新技術事業団)が設立され、同年産業界の共同研究を推進するため「鉱工業技術研究組合法」が制定[150]、1963年には日本原子力船開発事業団が設立され原子力船むつ』が開発された[150]。1962年に「国立試験研究機関を刷新充実するための方策について」の答申が出され、東京に立地している国立試験研究機関の集中的な移転が提言され[150]、これが茨城県筑波研究学園都市建設の主要なきっかけとなり1963年、筑波地区に国際的水準の研究学園都市を建設することが閣議了解された[150]

農業基本法[編集]

農業林業漁業第一次産業に対して近代化を図り[107][148][153]、1961年、戦後農政の憲法といわれる「農業基本法」を制定した[137][154][155]。「所得倍増計画」による重工業農林水産業からの労働力流入によって、働き手が農業から離れることで海外のように大規模で機械を使った効率的な農業を目指した[154]秋田県八郎潟干拓して誕生した大潟村はその象徴であったが[154]、新しい農業のモデルとされたこの村は、その後国の政策に翻弄された[154]。また他地域でも農地の集約は進まず、その後の減反や、食の洋風化に伴う米余り、農地の時価高騰などで「農業基本法」は日本の農業を強くするという目的は果たすことができなかった[127][154][155]

貿易自由化推進[編集]

池田は貿易自由化推進派で[99][148][156]、自由化はそれ自体が目的なのではなく、日本の貿易拡大の手段であるという考えを早くから持ち[152][157]、日本が先進国入りを果たすには自由化は避けて通れない問題と受け止めていた[158]。歴代首相は誰でも、多かれ少なかれ日本を大国にしたいという意識を持つものだが、池田は特に明確だった[158]。通産省や産業界では国内産業の現実の状況に精通しており、貿易自由化の進展には消極的だったといわれるが、貿易自由化を強く支持[107]、池田内閣誕生後、自由化のスピードが加速した[159]。池田はドゴールの「トランジスタ・ラジオ発言」を気にしていたともいわれる[158]。最初に輸入自由化が問題になったのはレモンだった。当時山手線の初乗りが10円、ラーメン一杯が50円だったが、レモンは1個80円もした[158]。通産省の官僚は国内産業の保護を理由に「時期早尚」と池田に具申したが「経済は君たちより俺の方が詳しい」とはねのけ1964年5月、レモン自由化を実施した[158]。国産レモンの主産地は、池田の選挙区の広島二区が含まれる瀬戸内地方[160]、生産農家を含む関係者が大挙、池田のところへ押しかけ「自由化を強行するなら、次の選挙で反対側に回って当選を阻止する」と脅したが、池田はひるまず、「レモンぐらいで落選する俺ではない、帰れ、帰れ」と追い返した[158]。自由化の実施でアメリカ産サンキストレモンが輸入され、レモンは一個20円まで下落し、広島のレモン農家はたくさん潰れた[159]

在任中のその他施策[編集]

中小企業近代化のため「中小企業基本法」「中小企業支援法」の他[107][148][156]社会保障政策として1961年に国民全てが公的医療保険に加入する「国民皆保険皆年金」を実現させた[99][161]。また民生安定及び文教振興の面で「児童扶養手当法」「老人福祉法」「母子福祉法」「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」「特別児童扶養手当等の支給に関する法律」などを任期中に閣議決定した[99]

所得倍増計画の功罪[編集]

池田は「国民所得倍増計画」を打ち出し、国民総生産(GNP)を「10年以内に26兆円に倍増」させて、国民の生活水準西欧先進国並みに到達させるという経済成長目標を設定し、内政と外交を結びつけることで、完全雇用の達成と福祉国家の実現、国民各層間の所得格差の是正をはかることを目指した[99][107][112][135][148][162][163]。さらに減税社会保障公共投資を三本柱として経済成長を推進させた[99][116]。結果的に民間経済の潜在的エネルギーを巧みにに引き出して、"ジャパンミラクル"といわれる高度の経済成長をとげた[43]en:Japanese post-war economic miracle)。また悪い表現でいえば"エコノミックアニマル"の出発点でもある[83]。池田はアメリカの物質的な豊かさを評価し、それと結びつくことで日本も豊かになる、アメリカは自動車産業が発達して産業を引っ張っている、だから日本もそのために高速道路を造り、自動車産業を伸ばそうと説いた[164]。減税、社会保障、公共投資の拡大は医療製薬建設電機メーカーの発展をもたらした[164]国鉄ディーゼル化複線化を本格化させた[165]。構造を軽工業から重工業に転換させ、それまで日本の主要な輸出産業だった繊維雑貨など軽工業を抑えぎみにして、鉄鋼、自動車、電機などの産業部門に政府資金の財政投融資を集中的に行い振興を図った[107][164][166][167]。「全国総合開発計画」(全総)に於いて「新産業都市」や「工業整備特別地域」を指定し、そこに国から多くの補助金を投入して埋め立て道路を造り、港湾を整備し、重化学工業が工場を誘致しやすい土地を整備する公共事業を行った[164]。工業先導による地域振興を謳い上げたため、地方自治体は工場誘致を血眼にした[164]。既存の四大工業地帯の周辺に、鉄鋼石油精製石油化学火力発電所を結ぶコンビナートを造る構想が出され、四日市を皮切りに全国各地に工業地帯が続々建設された[80][150][164][168]。全総の「工業先導性の理論」は、まず大規模工場を誘致すれば、流通業サービス業は後から付いてくるという理論であった[169]石炭から石油へのエネルギーを転換[43][166][170]エネルギー革命エポックもこの時代だった[104]。国内経済を発展させながら、一方では国際情勢に対応して貿易自由化を計り、開放経済体制へ大胆に移行させた[99]。また雇用の拡大、労働の流動化促進により、農業・中小企業の近代化も図った[116]。こうして日本は欧米諸国とかなり酷似した重機械中心の産業構成に変貌していった[171]証券業界が沸き立ち[151]、これに引きずられて鉄鋼を筆頭に軒並み設備投資に走った[151]カメララジオ自動車バイクなど、日本の「匠」の技が生んだ製品が世界に販路を広げた[43][164]。日本の"輸出大国化"は、後に日米貿易摩擦として政治問題化した[167][172]。1961年の暮れは神武以来の"忘年会ブーム"だった[151]。1962年に一旦景気が失速し、「幻の所得倍増」「破綻する所得倍増」などと池田批判に火の手が上がったが、池田は高度経済成長を維持する有力な武器として、1964年開催予定の東京オリンピックに着目[116]。公共投資の拡大には、国民が納得できる旗印が必要だが「オリンピックをてこに成長に弾みを付ける」という戦略を立て、公共事業や社会保障に積極的に予算を付けていく[116]。池田の戦略は当たり、日本経済は勢いを取り戻し「オリンピック景気」が到来した[116]。「新幹線、東京の高速道路は、なんとしてもオリンピックに間に合わせろ」と厳命[116]、この二つには特に惜しみなく予算を注ぎ込んだ[173]。その他、オリンピック開催に合わせて、各種の公共事業が全国で進められた[116][156]。政府もどんどん金を注ぎ込み、財政主導で日本経済を引っ張っていく[116]。新幹線、高速道路、などのインフラ整備は大きな需要を生み出した[43][99][150][166][174]。近代的なビルディングマンモス団地もこの時期たくさん建設された[175][176]。池田はオリンピックをバネに「所得倍増政策」の仕上げを図った[116]。池田内閣の時代に日本で初めての原子力発電が成功し、東海道新幹線が開業、海外旅行が自由化された[43][105][167][177]。国民の所得水準はその想定を上回るテンポで向上し、人々の暮らしぶりも大きく変貌した[166]。当時「三種の神器」と言われて、一般家庭には高嶺(値)の花だったテレビ電気洗濯機電気冷蔵庫が、驚異的な勢いで普及したのは池田政権の時代だった[115]。最初は本当に「所得倍増計画」が実現するかどうか、国民は疑心暗鬼だったが[116]、投資が投資を呼ぶ好景気と消費ブームが起きた[116]。消費の大型化・高級化・多様化が進み、国民の生活も大きく変えていった[127][166][178][179]。"レジャー"という新しい言葉が、日常の暮らしの中で使われはじめたのもこの頃からで[176][180]旅行ゴルフスキーボウリング広告業界などもこの時期伸びた[151][178][180][181]。この時代に日本人が郷愁を持つのは、ライフスタイルの面で、現代日本の原点だからである[175][182]

反面、「高度成長のひずみ」として物価の上昇第一次産業の激減、大都市一極集中と地方の過疎化、公害問題自然破壊などの多くの問題を生んだ[139][150][177][178][183][184]。終戦から池田登場までの15年は、まだ政治の力が強く、マッカーサーが植え付けた民主主義の思想と仕組みがある程度保たれていたが「所得倍増計画」が持ち込まれて以降、官僚主導体制が強化された[164]。強化された官僚と、自民党の政治家が結びつき、官僚の指導により各業界団体が強化され、金権体質も生まれた[164]。しかしこれが自民党政権の安定にもつながった[164]

政権運営[編集]

池田のブレーンは大蔵官僚を母体としていたため、経済や外交では目覚ましい成果を挙げたが[131]、国会の運営には難があった[131][185]1960年11月20日第29回衆議院議員総選挙で、301もの議席を獲得して大勝したにも関わらず、この時も組閣衆議院議長石井光次郎に断られ、池田が強引に清瀬一郎を起用したが、清瀬は安保国会警官を導入した当の責任者であり、社会党が猛反発[185]、紛糾のまま国会を開かれたものの本会議は流れた。池田が三党首会談を開いたが、社会党が副議長1名を要求してきた。「300名もとっているのに、副議長をわたす法があるのか」と自民党党内が息巻き、「人選が悪い。清瀬をおろせ」という声も出た。益谷秀次幹事長大橋武夫は働かず、保利茂総務会長福田赳夫政調会長も大した働きもなく[185]、責任が一直線に池田に来た[185]。結局先の社会党の要望を飲み、副議長1名を渡し清瀬の衆議院議長は決まったが、翌日の新聞に早くも「池田短命内閣」という見出しが載った[185]。組閣では、安保のとき、岸に協力しなかったことがしこりとなって、それまで冷や飯を食わされていた河野派、三木派から閣僚が入り、挙党態勢、言葉を変えれば、派閥均衡内閣ができた。1961年3月31日の国会で、社会党の代表質問に「弱小国がいかにしようとも、日本は中立主義をとらない」とまた失言を犯し、"弱小"の二字は取り消した。この翌日嶋中事件が起こり、池田の公約でもある農業基本法が紛糾した上、社会党欠席で強引に可決し、社会党は安保国会の再現と批判声明を出した[185]。さらに民主党松野鶴平が「政治的暴力行為防止法案」を持ち込んできた[186]警職法の二の舞を懸念し宮澤や大平は慎重だったが、池田は審議に協力的な民社党のメンツを立てるためと、国会後の訪米を控えてこの法案が不成立なら国際信用が傷つくことを懸念し、側近の反対を聞かず強引に推し進めた[185][186]。政防法案の審議が進むと、また浅沼の刺殺事件の時のように国会議事堂周辺をデモが取り巻き、異常な雰囲気となった[20]。清瀬議長は、議長席を社会党議員が占拠し着席できず、自民党席で議事を進めるという混乱の中で同法案は可決された。しかしその後も大荒れし、政防法は参議院自民党幹部の反対に遭い、継続審議となった[185]。これは反池田派の策謀で、池田は上手くそれに乗せられた。こうした党内からの揺さぶりは続くが、景気の上昇に伴う国民の将来への希望と、池田を中心とする同志の結束がますます固くなり、決定的な影響を受けずに済んだ[185]。また公務員労働基本権を巡って争われたILO87号条約は、野党の抵抗にあって度重なる国会提出にも関わらず審議未了になった[131]。そこで池田は政権後半は他派閥とりわけ河野一郎に接近した[131]。河野は萩原吉太郎永田雅一渡邉恒雄児玉誉士夫といった人脈を持ち[187][188][189]、池田と河野は犬猿の仲だったが[189]、河野は迅速果敢な行動力が持ち味で、建設大臣・オリンピック担当大臣として首都開発を強力に推進し、国民的人気も高まっていた[131]。池田は佐藤にライバル意識を燃やす河野に接近し、佐藤を牽制することで党内バランスを保ったのである[131]。 

外交の展開[編集]

経済政策を円滑に推進した池田は外交でも手腕を発揮した[107][131]アメリカ合衆国東南アジアヨーロッパオセアニアを歴訪。1961年4月、駐日アメリカ大使に日本びいきのライシャワーが赴任した影響もあり、アメリカとも関係が密接になっていく[137][190]。1961年6月19日に占領下から数えて11回目の訪米[191]ジョン・F・ケネディ大統領と会談し[107][192]、米国との「イコール・パートナーシップ」を目指し日米貿易経済合同委員会の設置を決定した[110][193][194][195]。日本の対米輸入額の増加に対して米国政府の協力を要請し、ケネディから「今後も自由貿易政策の維持に全力を尽くす」との回答を得た[196]。池田は米国との協調関係の維持を最も重視し、この関係が維持されてこそ高度経済成長が実現可能になると考えていた[196]。このことが国内的には国民生活の向上・民生の安定に基づく政局の安定をもたらし、対外的には日本の国際的信用・地位を向上させ、また経済面での国際貢献を可能にすると判断していた[196]アメリカ合衆国下院で「こんどは援助の要請にきたのではありません」と演説し、拍手喝采を浴びた[197]。この首脳会談の具体的成果として、ケネディに沖縄での日の丸掲揚を認めさせ[197]、「沖縄と小笠原諸島に対し、日本が潜在主権を保有することをアメリカが認めた」ことも明記され[198]、これが1972年5月の佐藤政権下での沖縄返還協定への含みとなった[191]。当時は安保闘争で日本人の意識はアメリカに対する政治的な嫌悪感と物質的な憧れの矛盾する感情であったが[164]、池田はアメリカが正義であるかどうかを問うことなく、経済的に豊かだという点だけを強調した[164]。池田はアメリカの物質的な豊かさを評価し、それと結びつくことで日本も豊かになる、そのためには日米安保体制が必要だと説き、対米追随を正当化した[164]。また日韓交渉にも力を注ぎ[199]朴正煕国家再建最高会議議長の訪日を要請[199][200]。同年11月11日、非公式で来日した朴正煕と会談し、日韓国交正常化の早期妥結への道を開く[99][199][201][202]。また1957年、親台派岸内閣の発足で、中国は「政経不可分の原則」を持ち出して日中間の貿易を拒んだが[105]、岸の後総理になった池田は「政経分離」の原則のもと、民間貿易で日中間の関係改善を狙い、松村謙三に全権を与え、これがLT貿易協定の締結につながった[105][203]。同年11月16日から東南アジア4カ国(パキスタンインドビルマタイ)を訪問した。このとき台湾を素通りしたと台湾政府から抗議を受けた[204]アジア途上国援助の拡大に1961年3月、借款を扱う海外経済協力基金(OECF)を設立[205][206]。また日本と欧州経済共同体(EEC)との関係を、日本とアメリカとの関係と同様にもっていくという目的を持ち[207]経済協力開発機構(OECD)への加盟を打診し、EECへの接近を計るため、1962年11月4日からヨーロッパ七カ国(西ドイツフランスイギリスベルギーイタリアオランダバチカン)を訪問した[207]。フランスとの首脳会談の際にシャルル・ド・ゴール大統領から「トランジスタラジオセールスマン」と揶揄されながらも[126][208]、イギリスが日本に対し最恵国待遇を保証した日英通商航海条約11月14日に調印するなど成果を挙げる。マクミラン首相との会談の際、マクミランから「インドネシアスカルノ大統領を押さえるのはあなたしかいない」と頼まれたため[207]、翌年第二次アジア訪問を行う[207]。帰国後の時局演説会で「自由陣営は経済的に見て、北米、ヨーロッパ、日本及びアジアの三つの柱に分かれつつある」などと"世界の三本柱の柱の一つ日本"を強調した[207][209]。ヨーロッパの訪問でEECの発展を見て、池田の頭の中にアジアに関する新しい夢が生まれていた。日本だけが孤立しては繁栄しない、アジア各国が資源と労働力と市場を互いに交換し、成長政策が成功すれば、大きな繁栄地帯をつくることができるという考え方がますます強くなっていた[107][210]1963年9月23日から東南アジア(フィリピンインドネシア)・オーストラリアニュージーランドの4カ国を訪問し、東南アジア諸国に於ける戦後補償の解決を目指し、タイ、ビルマ、フィリピン、インドネシア、南ベトナムには補償支払い金を決定し[191][210]、アメリカ政府へガリオアエロア資金両援助の返済にも調印[191]、戦後日本の対外的な負債処理を決着させた[107]

高度経済成長の実現[編集]

池田は貿易自由化を推進、開放経済体制への大胆な移行を果たし、日本の国際的地位も向上させた[99][211][212]1963年2月11日、OECD加盟申し込みを言明し、翌1964年4月28日にOECD加盟を果たした。またそれまでIMFで経済力に不安のある「14条国」として扱われていた日本はこの年、先進国と同等のIMFの区分で「8条国」(国際収支上の理由で為替制限ができない国)へ移行[211]、"世界の奇跡"と称された高度経済成長を実現させた[112]。1960年にスローガンに掲げた「所得倍増計画」は、日本のGNP13兆6000億円を10年で2倍とするとしていたが、この目標は僅か4年で達成された[35]。同年9月7日のIMF東京総会で池田は演説を行い、日本の経済成長を誇り、それを資金面で支えたIMFに対し謝意を示した。OECD加盟とIMF8条国移行により、名実ともに日本が先進国入りしたことを世界各国に印象付けた[112][156][211][213][214]第二次世界大戦の廃墟から被占領国の辛酸をなめて独立、高度経済成長の名のもとに奇跡ともいえる経済再建を成し遂げ、名実ともにともに国際社会への参加を果たしたのである[215]。廃墟の中で日本国民がかすかに抱いた"ジャパニーズ・ドリーム"はようやく現実のものとなった[215]。日本が経済でアメリカやヨーロッパに認められたのは、池田の手腕によるものである[112]。1963年8月14日、部分的核実験禁止条約PTBT)に調印し、1964年6月15日に批准した。1964年10月に開催されたアジア初のオリンピック東京大会は、池田内閣の高度経済成長政策による経済的繁栄を鮮やかに象徴する世紀の大祭典であり、世界に類を見ない奇跡の経済復興を外国に知らしめ日本の威信を著しく高めた[99][115][123][216]

池田政権の時代[編集]

退陣へ[編集]

9月9日国立がんセンター喉頭癌の治療のため入院。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。東京オリンピック閉会式の翌日の10月25日に退陣を表明し、11月9日に後継総裁として佐藤栄作を指名した[217][注釈 5]

その年の12月に退院するが、翌1965年7月29日東京大学医学部附属病院に再入院する。8月4日に手術を受けるものの、9日後の8月13日、術後肺炎により死去。65歳没。

葬儀は自由民主党葬として行われた。葬儀委員長は佐藤栄作。戒名は大智院殿毅誉俊道勇人大居士。墓所は故郷の広島県竹原市と東京都港区青山霊園にある。

評価[編集]

1960年の総裁公選で総裁に就任した池田に秘書の伊藤昌哉は「総理になったら何をなさいますか」と尋ねると、池田は「経済政策しかないじゃないか。所得倍増でいくんだ」と答えた[123][218]。伊藤は池田が本気で「所得倍増計画」に取り組むとは思っていなかった[218]。側近の前尾繁三郎も大平も宮澤も反対した[116][218]。しかし池田は「国民の人心を一新するためには経済政策しかない」との強い使命感を抱いていた[112]。時代は安保闘争で大揺れ[219]。またやるにしても「日本は自由主義経済の国。所得倍増計画の"計画"という言葉は不適当では。別の言い方に変えた方がいいと思います」と大平が進言すると池田は「何を言うか。"計画"と謳うから国民は付いてくるんだ。外すわけにはいかん」と一蹴した[116]武田晴人は「"所得倍増計画"という巧みなレトリックによって、民間企業の投資行動の背中を押すとともに、経済諸政策の立案の焦点を明確化し、高成長の実現を目標として、これを前提として創造的な活動を次々生み出すこととなった」と評している[220]。大胆とも思える数値目標を挙げて次代の日本の姿を示した点が評価される[221]。1960年当時、大内兵衛は「世界は第三次世界大戦をやって人類が滅亡するか、それとも平和共存で行くのかの追分に直面し、日本も昭和56年満州事変のはじまる当時と似ていると表現した時代の転換期[218]。この難局をまさか経済のことで乗り切れると想像する人はいなかった[218]。岸以前の吉田茂・鳩山一郎の関心はもっぱら独立と戦後処理の外交で、内政面での政策はほぼ各省の立案に従っていた[131]。吉田内閣は講和独立、鳩山内閣は日ソ国交回復、岸内閣は安保改定と、歴代内閣はいずれもハイポリティックスのレベルで大きな課題を処理してきたため、池田も当然、政治・軍事を中心とする外交の手腕が問われると考えられていた[218]。今でこそ、経済成長を掲げる首相は珍しくないが[222]、池田まで経済政策を全面に押し出す首相はいなかった[131][211]。池田は政治に経済を持ち込んだ初めての政治家だった[17]。池田は独自のブレーンによって政策を構想し、政権に就任するとそれを実行するスタイルを初めて明確にした[131][223]。池田は「日本らしさ=経済」に変えていく青写真を持ち、軍隊のない日本は、政治よりも経済をアイデンティティーにすべきという明確なビジョンを持っていた[211][218][224]。経済通を自任する池田のもと「政治の季節」は終わりを告げ「経済の季節」が始まった[131][225]。これは戦後史の重大な局面転換であった[218]。池田はそれまでの内閣が必ずしも明示しなかった資本主義社会主義の優劣を政治争点として改めて国民に突きつけ、その選択を迫ったのであるが[107][218]、池田の「所得倍増計画」は肩肘張ったイデオロギー的な議論の対象としてではなく、さしたる抵抗もなく、あっさりと国民の間に浸透した[218]。「所得倍増計画」は、戦後の首相が掲げたスローガンの中で、最もわかりやすく、かつ説得力もあった[226]。誰にでもわかる数字を駆使したことと、池田とそのブレーンたちの演出も効果的だった[218]。池田は発言でも舌渦事件を何度も引き起こすなど、歴代首相の話題性ナンバーワンだった[226]。官僚臭を感じさせない、庶民的でガラガラ声のキャラクターも、安保改定で騒然となった世情を一変させることに役立った[226]。あのガラガラ声とともに時代を強力にリードしたのである[17]。池田はテレビを利用して政策をアピールした最初の首相でもあった[35][227]。『総理と語る』という番組を開始させたり、自ら自民党のテレビCMに登場した[218][227]。国民の関心が専ら生活水準の向上に移っていた頃合いを見逃さなかったともいえる[131]。池田は政治を生活の延長にある祝祭空間と見て、その演出を試みる演出家だったとも評される[131]。池田は首相就任後の参議院予算委員会に於いて、所得を2倍にするのではなく、2倍になるような環境を作るのだと答弁した[228]。すなわち経済の成長は国民自身の努力によって実現するものであり、政府の任務は、かかる成長実現への努力を円滑に働かすことのできる環境と条件を整備することにあると明言した[228]。池田の最大の功績は、日本の国民に自信を与え、すすむべき方向を示したこととも評される[228]。陰に陽に池田の政策をサポートした宮澤喜一は「"所得倍増計画"というのは、ケインズ理論を中心とした政策だが、日本の経済成長、工業化を通じて、完全雇用、高賃金になるという雰囲気をはっきり国民に植え付けて、政策的にそれを誘導したというのが、あの政策の値打ちでしょう。それが池田さんの功績だと思う。池田内閣の時、まさに日本が経済大国になる基礎ができた。戦争が終わって、外地から沢山の人が引き揚げてき、戦後の日本は深刻な失業問題を抱えていた。加えて日本は農業国だったし、この労働力が過剰にあったことが、日本の工業化ひいては所得倍増を可能にした」などと述べている[229]フランスルモンド』は「池田は1960年代に於ける日本の反米エネルギーを経済問題に向かせることに成功した。池田の最大の功績は、日本国民に対して、日本は豊かな社会を実現できる能力を持っていることを教えたことではないか」と記した[132]。『サンケイ新聞』元政治部長の吉村克己は「資源エネルギーもない小さな四つの島国の国民に、やればできるの自信を持たせた功績は、やはり池田ならではのものだった」と述べている[229]日本経済新聞社は、「池田の"所得倍増計画"は、根拠も実現性もさだかでない最近のそれとは好対照の、本物の成長戦略だった」と評している[230]江坂彰は「"月給倍増"なら、その恩恵に与れるのはサラリーマンだけだと思う。しかし"所得倍増"という言葉は、小商工業者農民にも配慮したスローガンであり、そこに国民全体が豊かになるのだという思想が感じられる。"所得倍増"という言葉の響きが格別によかった」[231]、「戦後強兵の道を捨て(あるいは捨てさせられて)経済の基盤固めに一点集中した池田の戦略は、最良の選択だったはずである。日本はよき敗者の道を、別に卑屈にもならず、驕りもせず、着実に歩んでいくことになった」などと評している[231]沢木耕太郎は「所得倍増計画」を「戦後最大のコピー」と評している[35][100][232][233]。「所得倍増計画」は2015年現在でもキャッチコピーとして引用されることも多い[234]。小林吉弥は「第二次大戦後の敗戦経済、虚脱社会の真っ只中で政治家として登場し、日本経済の歴史的勃興期にあたって所得倍増政策を推進、絢爛の高度成長社会"経済大国日本"へのレールを敷くに至る、いわば日本経済革命というべきわが国史上初の歴史的実験の施行者」と表現している[235]。池田の経済優先の発想は今日まで続いており[236]、日本が経済大国を実現できたのも「吉田ドクトリン」というよりも「池田ドクトリン」の所産ともいわれる[111]。1965年、愛弟子・池田の逝去の報を受け、吉田茂は「今日の繁栄は池田君に負うことが多かった」と呟いたといわれる[35]宮澤喜一は「池田は政治に出て死ぬまで16年しかない」と評しており[131]、池田は戦後政治を短期間で駆け抜けた政治家だった[131]。高度経済成長は、池田の後を継いだ佐藤内閣[要曖昧さ回避]の時期に最盛期を迎えるが[237]、その佐藤栄作も池田同様引退後まもなく死去する。両者は1970年代田中角栄福田赳夫1980年代にも穏然たる影響力を持ったのとは対照的である[131]。高度経済成長とともに敗戦と占領の残滓を最終的に清算したのが池田と佐藤といえる[131]。池田と佐藤の時代に自民党政権は安定の中で成熟を遂げた[99]。東京オリンピックと大阪万博による大都市圏の開発、公共事業を通じた国土・列島の整備によって自民党は包括政党の道を進めていく[131]。この戦略は、田中角栄、大平正芳鈴木善幸中曽根康弘ら、その後の内閣にも担われることになる[112][131]。「池田時代に、経済発展を国家目標の中心に置いた政治が始まった。田中角栄はその子である」[237]、「田中の『日本列島改造論』は池田の『所得倍増計画』の延長線上にある」[237]、「『日本列島改造論』は『所得倍増計画』の地方版」[235]、「池田の後に登場した政権の大半はイデオロギーなしの、無定見な高度成長を追い求めていた」などと評される[237]。経済成長による社会の多様化は、自民党内に於いては党内派閥の分散化にとどまり、野党の方が多党化していくことで、自民党支配を維持させていくことになった[131]。この時期に派閥政治が確立し[131]閣僚や国会、党内での主要役職を当選回数によって配分する制度化も進み、議員の個人後援会が普及し、二世議員が増えていく[131]

経済政策での功績が語られることが多い池田であるが、サンフランシスコ講和条約の下交渉から池田・ロバートソン会談、 池田・ケネディ会談まで、池田は今日の日米体制をつくった最大のキーパーソンでもある[67]。宏池会第7代会長・古賀誠は池田を「政治家として今の自民党の基礎を確立させた人」と評している[35]

中曽根康弘は、2008年9月3日付の読売新聞朝刊(13面)に、同年9月1日に辞任会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べ、その例えとして、がんで入院して生命力もないという段階においてぎりぎりまで耐え抜いて後継に佐藤栄作を指名した池田を挙げ、政治家としての最後までの志、執念を持つべき、と記した。

1950年代も終わろうとする1959年12月3日、池田は自身の還暦祝賀会のスピーチで「次にくる日本の10年間は、日本人が一度も味わったことのない豊かな時代になる。日本経済はかつてない飛躍的な成長を遂げるはずだ」と述べた[238]。日本が黄金時代を迎えようとしている時期に政権を握り、自分の手で「黄金の'60年代」をつくり出す場面を本気で胸に描いていた[238]。池田の59年間の軌跡を振り返ると、地獄と天国を行き来するような浮き沈みの激しい人生だった。前半生と後半生はまるで彩りが異なり、前半は不運の悪魔に憑りつかれ、逆に後半は一転して幸運が舞い込み続ける人生航路だった[238]

堺屋太一は、著書『日本を創った12人』で、聖徳太子源頼朝織田信長徳川家康マッカーサー松下幸之助らとともに、唯一の政治家として池田勇人を挙げ、その理由として、「現在われわれが生きている戦後の日本を、経済大国へ導き、実績として経済成長の実現もさることながら『所得倍増計画』の策定によって「経済大国」を日本の理想に据えた点が最重要であると述べている[1]。負の遺産として経済発展に貢献する一方、すべてに金銭が優先する価値観を生むことになり"金権体質社会"を作り出した、池田の果たした役割は、日本社会の理念と倫理を決定する上で、歴代総理の中でも、最も大きかったのではないか、戦後の総理大臣としてよく取り上げられるのは、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作田中角栄の四人で、吉田茂が大きな存在だが、その重要な政治決定はほとんどが占領軍、つまりマッカーサーから出ていた。それに比べて池田は、自らの発想と手腕で今日の日本人の心や生き方、あるいは日本の社会の在り方や動き方に大きな影響を残した」[1]「池田が総理大臣であったのは4年3ヵ月、吉田茂や佐藤栄作よりはずっと短い。しかし、この男の植え付けた経済優先思想と、それを実現する官僚主導の仕組みは、今日も揺るぎなく続いている」と述べている[239]

片岡剛士倉山満は、池田を戦後最高の総理大臣として推している[240]八幡和郎は、著書『本当は偉くない?世界の歴史人物 : 世界史に影響を与えた68人の通信簿」で、"世界史に影響を与えた68人"のうち、東洋人は7人を選び、うち日本人2人を明治天皇とともに池田を選んでいる[241]

語録[編集]

池田勇人の語録には、後世に歴史的失言として記憶されているものや、当時の流行語にまでなった有名な発言などが多い[35][60][126]

貧乏人は麦を食え
第三次吉田内閣で吉田は一年生議員の池田を大蔵大臣に抜擢して世間を驚かせたが、池田は有能な大蔵官僚であっても政治家としては駆け出しで、発言に脇の甘さが目立った。
1950年12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした。この質疑応答を池田は「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくったが、これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていた新聞を刺激した[60]
翌日の朝刊は「貧乏人は麦を食え」という見出しで池田の発言を紹介、これが池田自身の発言のように伝わってしまい、各方面から強い批判を受けることになった[242]

○木村禧八郎君 (略)米価を特に上げる、併し麦とか何とかは余り上げない。こういう食糧の価格体系について大蔵大臣には、何かほかに重要な理由があるのではなかろうか。この点をお伺いしたいと思います。
○国務大臣(池田勇人君) 日本の経済を国際的に見まして立派なものにしたいというのが私の念願であるのであります。別に他意はございません。米と麦との価格の問題につきましても、日本古来の習慣に合つたようなやり方をして行きたい。(略)麦は大体国際価格になつている。米を何としても値段を上げて、それが日本経済再建のマイナスにならないように、徐々に上げて行きたいというのが私の念願であります。ほかに他意はございません。私は衆議院の大蔵委員会に約束しておりますから、ちよつと……、又来ますから……。
○木村禧八郎君 それじや一言だけ……、只今日本の古来の考え方に従つてやるのだという、その点はどういう意味なんですか。
○国務大臣(池田勇人君) 御承知の通りに戰争前は、米一〇〇に対しまして麦は六四%ぐらいの。パーセンテージであります。それが今は米一〇〇に対して小麦は九五、大麦は八五ということになつております。そうして日本の国民全体の、上から下と言つては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります。

1950年(昭和25年)12月7日 参議院予算委員会[243]

中小企業の五人や十人…
2年後の第三次改造内閣で池田は通産大臣になっていたが、1952年11月27日の衆院本会議で右派社会党の加藤勘十の質問に対し、池田は「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」と答弁した[60]
これに対して野党からは「中小企業を倒産させてよいのか」というヤジと怒号が飛び、議場は一時騒然となった。翌日の新聞はまたしても「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」とこれを報道。
これを受けて野党が提出した池田通産相不信任案が自由党反主流派の欠席によって可決されると、池田は辞任に追い込まれた。その後池田は自宅に引きこもってしまったが、宮沢喜一秘書官の証言では「これで終わった。明日は土曜日だな。週末旅行でもするか。」と話して[244]さばさばした様子であった[245]。なおこの辞任記者会見の際に「私は正直すぎた。政治家として終戦以後色々あったが政治家には向いていないのかもしれない。」という政治の道を諦めるかのような発言をしている。
経済のことはこの池田にお任せください
池田は総理となると政治的論争となりうる安保9条問題を早々と棚上げして、国民の目を経済に向けさせるべく街頭演説やテレビ討論会などでこう力説した[110][126]
低姿勢
私はウソは申しません
池田はテレビを本格的に活用しようとした最初の首相である[227]。池田は1960年の総選挙に於いて、ケネディニクソン大統領選でのディベートを模倣して行われた「三党首テレビ討論会」に出演した。これは社会党江田三郎の申し出に対して、泥仕合にならないならという条件で受けたものであったが、1960年11月20日の第29回総選挙に先立っては自ら自民党のテレビCMに登場して、本音しか言えない池田というイメージを逆手に取って「私はウソは申しません」と言い切った[60]。これらいずれもが当時の流行語となり、これが世論を背景にした政権運営という新しいスタイルに先鞭を付けるものともなった[35]。翌1961年には、NHK専務理事の提案により、『総理と語る』[246]を開始した。この番組は、ルーズベルトがおこなった『炉辺談話』というラジオにならって、首相がくつろいだ気分で国民に語りかけることを目的とした番組であった。他にもテレビを意識してメガネを変えるなど、テレビを通じて親しみやすい首相イメージを作り出そうとした[227]
国のためになることなら…
総理就任後「寛容と忍耐」を政治理念に掲げた池田は周囲に「国のためになることなら、電信柱にもお辞儀するつもりで総裁になったんだ」と話した[127][126]
君は…
浅沼稲次郎暗殺事件の発生をうけて池田が衆院本会議場で行った追悼演説は、故人に対して「君」とよびかけ、大正末年に浅沼の友人[注釈 6][247][248]が浅沼のことをうたった詩「沼は演説百姓よ、よごれた服にボロカバン、きょうは本所の公会堂、あすは京都の辻の寺」を引用するなど型破りな演説で、社会党議員が涙を拭うほどだった。池田のこの演説は今日でも国会における追悼演説の傑作のひとつに数えられる名演説として知られている[注釈 7]
国づくりとは人づくりである
第2次池田内閣時代の1962年8月10日国会衆議院本会議に於ける所信表明演説で「国づくりの根本たる人づくりに全力を尽くす」と述べ[111][249][250]、その考えを根幹に同年12月5日、池田の私的諮問機関である「人づくり懇談会」を創設し「期待される人間像」を掲げて、文教政策、児童政策に重点を置くことを指示した[148][251][252][253][254]。敗戦の焼け野原にあって、国民は食うために何でもした。池田の仕事はまず経済の復興になってしまった[255]。これが一応実現し、次に何かと文教の刷新を考え、日本がしっかりした国になるには、経済的独立の奥の精神の独立が必要だと「人づくり」という発想が生まれた[255][256]。また安定成長論で池田を揺さぶる福田赳夫ら党内批判勢力の「池田内閣の所得倍増政策は物質万能主義であり、日本民族精神を荒廃させるもの」とする声に対抗する術でもあった[249]。池田の思いは文教の刷新にあり、占領政策や、それに便乗する日教組の教育方針を正すことではあったが、真の願いは日本人と精神の独立であった[255]。人格育成に重点が置かれたのは、池田が「西欧[要曖昧さ回避]には宗教と結んだ道徳観があるが、日本には戦前は儒教神道にささえられた教育勅語があったが、今はそれがない」と憂いていたためで[257]、当時青少年犯罪が社会問題となりつつあったことも背景にあった[251]。池田内閣の時代に全国的に統一した教育カリキュラムが徹底されている[164]。とかく経済成長のみを重視した印象が強い池田だが、国民道徳の確立にも目を向けていた[258]。ただ「国づくりとは人づくり」という哲学的命題は上手くいかなかったとする評価もある[249][259]

池田はマスコミが面白おかしく発言を曲げても怒らなかった。これがマスコミにも人気を得た理由といわれる[260]池上彰は「わかりやすい言葉で聴衆の心をとらえる抜群の発信力が、池田の魅力のひとつだった」と評している[126]

逸話[編集]

広島県広島市広島城跡に建立された池田像
広島県竹原市に建立された池田像。銘は吉田茂による
神奈川税務署員殉職事件の殉職税務官顕彰碑の碑文は池田の筆によるもの

人物[編集]

  • 旧制五高在学当時、池田は趣味と実益を兼ねてそば屋と一杯飲み屋の屋台を開業することを発案。「池田屋」と称した。しかし友人達にツケで飲ませ自身も一緒に飲むといった放漫経営で、わずか3日でつぶれた[126][261]。のちに自らの派閥「宏池会」を率いる親分肌が表れたエピソードである[126]
  • 旧制五高の学生そのままのバンカラ気風の上、一連の放言癖。英語にも滅法弱く「エチケット」を「エケチット」と"発音"し、周囲を大いにうならせた[191]
  • 首相になると大平に待合ゴルフを禁止させられたが、煙草も酒も大好きで死の直前まで止めなかった。火鉢の灰に林立させる程のヘビースモーカーかつ、酒乱の逸話を多く残す宮澤喜一も苦笑するほどの酒好きであった[262]
  • 池田は宮澤が大蔵省に入った時の身元保証人だったが「池田勇人なんて、当時(昭和16年)誰も将来、出世するとも思っていなくて、どうしてこの人に保証人になってもらったのか」と聞かれたことがあると話していた[263]
  • 苦難の多い前半生もあって、大蔵官僚出身とは思えないほどさばけた気さくな性格だった。池田を「ディスインテリ」という造語で評した宮沢によれば、池田は「(本当はそんなことはないのだが)自分が秀才ではないと思い込んでしまった人」。そのことが、高い地位にあっても、自然に周囲に有能な人物を集めることになった。
  • とにかく家の中は人で溢れていた[264]。朝は6時に郷里広島の人たちが夜行列車で東京に着くとそのまま池田邸に訪ねて来るので、やかん酒とスルメを出して長旅を労った[264]。夕食後には大蔵省や通産省など省庁の人たちと勉強会[264]。入れ替わりに番記者の人たちと夜中1時頃まで懇談が続く[264]。毎日何10人と人が来るので魚屋では間に合わず、娘の紀子が長靴を履いて築地魚河岸に通い箱ごと魚を買って帰り家で捌いてお客さんに出した[264]
  • 池田が最も心を許したのは、同じ明治32年の亥年生まれで集まる亥の「二黒会」のメンバー、小林中水野成夫、小池厚之助、堀田庄三東畑精一で、池田が総理になってからも「おまえ」「おれ」と呼び合う仲であったが、この中でも池田が一番の酒豪であったという[265]

占領下時代[編集]

  • 占領時代に蔵相だった池田は、国家予算などの重要な話し合いをするためGHQを頻繁に訪問。GHQ経済科学局の局長・ウィリアム・フレデリック・マーカット少将に面会するためで、そんな時、まず約束の二時間前に白洲次郎は、マーカット少将の副官で通訳だったキャピー原田中尉に電話をかけ「マーカット少将のご機嫌はいかがなものか」と尋ねる。原田が「今日はあんまり良くないね」と答えると、白洲の横で話を聞いていた池田が電話を横取り、「今からそちらへ伺います。原田中尉、それまでに少将の機嫌を直しておいてください」と頼む。そして1時間前になると、今度は秘書官だった宮澤喜一から確認の電話があり「間もなく大臣はそちらへ伺います。よろしくお願いします」と念を押す。原田はこういう時、マーカットにさり気なく野球の話題を投げかける。往年の大リーグ選手などの話題を持ち出すと、マーカットは機嫌が悪いことも忘れてスイッチが入り、野球の話に夢中になっていく。最高潮に達するとバットを手に持って上機嫌になり、ちょうどその頃、池田がオフィスに現れて、厄介な話もうまく進むというのがお決まりの段取りであった[47]
  • 1949年3月7日ドッジ・ライン実施後の4月2日、ジョゼフ・ドッジが池田に「昭和24年度予算では、輸出入の補給金を大幅に切ったが、その時自分は、1ドル=330円というレートを仮想して計算してみた」と言うので、池田は「仮想であることは分かっているが、現実のレートとして1ドル=330円は非常にきついと思う、また時期としてもドッジ予算の効果が分かるまで、早くても今年の下半期までは待たねばなるまい。レートは自分としては、せいぜい辛く考えても1ドル=350円でしょうか」と答えた。ドッジは「5月にはアメリカへ帰らなければならない」と言って、それ以後この為替レートの話は、ドッジ・池田の親しい仲でも一度も議論にならず、占領軍司令部の中でもタブーとなっていた。だから同年4月23日の朝刊に、UPIのワシントン電として円の対ドル為替レートを360円として4月25日から実施すると出た時は、すべての日本人及び占領軍の人々にとって、まさに青天のへきれきであった。ドッジから話が洩れてスクープになったらしく事実、4月25日から1ドル=360円が突然実現した。この年9月19日に、英国ポンドが4ドル3セントから2ドル80セントへ大幅に切り下げられた。日本側は池田のところへ、通産大臣、経済安定本部長官、日銀総裁などが集まって相談したが、ドッジ・プラン実施以来4、5ヶ月で、思ったより安定効果が現れており、こちらは1ドル=360円でやれるだろうという自信をみんなが持ち始めており、結局1ドル=360円のレートの変更を要望しないことにした[40]
  • 根津嘉一郎が死去した際、故人の遺志で遺産は寄付されることになっていたが、まず相続してから寄付せよとの税務署の意向に、東京国税局長として故人の遺志を尊重させ、それが甲州系の実業家を動かし吉田内閣への蔵相入閣につながった。
  • かつての大蔵省の正門の銘版は昭和39年当時首相であった池田の筆によるものである[266]

閣僚時代[編集]

  • 蔵相時代、いずれも後の総理になる大平正芳、宮澤喜一を秘書官に配し、対外折衝の要衝財務官渡辺武、ブレーンの官房調査スタッフに石野信一下村治らを擁して、磐石の政策決定構造を持った。池田は人の使い方が非常に上手く、この総合戦力で、ドッジ、シャウプ時代を切り抜け、困難な戦後インフレの処理からデフレの調整に至る、最大の混乱時代に対処し、克服したのである[267]
  • 1949年ドッジ・ライン実施については評価の分かれるところではあるが、ジョゼフ・ドッジと真正面から渡り合い、渡辺武財務官、宮澤喜一秘書官の全能力を駆使して闘った。池田は中川順に「自分の考えを主張し、相手に反駁する時にはね、相手の目をみつめ、コブシで卓を叩き、大声で怒鳴るに限る。相手は言葉は分からなくても、その気迫に押されるんだよ。通訳の方を見て話す、なんて無意味だね」と話していたという[268]
  • 日本の戦後税制に大きな影響を与えたシャウプ勧告は、富裕税付加価値税、資産再評価税等々、新しいことばかりの革新的なもので、担当の新聞記者にとって、その解説記事の記述などは至難の業で頭を抱えた。しかし池田は税畑育ち、税は得意の分野でもあり、シャウプ折衝でも、自信満々の態度で、税エキスパートの平田敬一郎主税局長、原純夫税制一課長を駆使して体当たりした。池田の税自慢は有名で、1961年の池田・ケネディ共同声明(日米経済合同委員会の設置)[195][269][270]合意のため渡米するに当たって「ケネディに税制を教えに行ってくるよ」と吹いていたという。大蔵省の省議でも、税の問題で議論を交わす場合、池田の話を理解できるのは平田主税局長だけだったという[271]
  • 池田がアメリカに行ってる時、三木武夫に電話をかけてきて「株の値は?」などと聞いたりするので、経済に疎い三木は、なんで株の値を聞く必要があるのか分からず、野村證券奥村綱雄ら、池田を囲む財界人の勉強会に誘われて参加し必死に勉強したが、分からないことばかりで、子供のようであったという[272]。1963年11月にも、ジョン・F・ケネディ大統領葬儀のために訪米していたとき、夏から急落していた株価を気にして、留守を預かる黒金泰美官房長官に問い合わせた。このエピソードは大蔵省で知らぬ者がいないほどであった[273]
  • 蔵相時代の池田の秘書官を務めていた頃の大平正芳は、陽明学者安岡正篤に歴史上一番偉い秘書官は誰かと質問したところ、安岡は織田信長の草履とりを務めていた間に信長の欠点を知り尽くした豊臣秀吉であると答え、以後、大平は池田の欠点を知り尽くして政治家になるための経験を積んだという[274]
  • 安岡とともに歴代内閣にパイプを持っていた人物に四元義隆がいる。黒幕などと取り上げられる人物であるが、四元が一言「四元です」と電話をかけたら、秘書も側近も用件を聞かずに取り次ぎ、歴代総理が即座に電話に出たといわれる。四元はかつて吉田茂の義父である牧野伸顕を狙ったこともあったが、吉田が何故かかわいがったため、戦後の内閣に影響力を持つようになり、池田が総理のときも、池田邸の人目につかない早朝吉田の内密の手紙を持って来たりした。四元は純粋な右翼で、唯一の事業が田中清玄が設立した神中組という土建会社で、その後三幸建設という社名に変更したが、この会社が経営不振に陥ったとき四元が譲り受け、池田が応援し再建した。四元が池田を揶揄するような記述も見られるが、池田からすれば吉田が四元の話を1時間でも2時間でも熱心に聞くので、我慢して拝聴していただけで「あの人の話は退屈でたまらん」とこぼしていたという[275]
  • 池田が将来の総理という意識を始めた頃、最もライバル視したのは人脈も豊富で政治家としては池田より格上だった緒方竹虎だったが、緒方はそこへ手が届く直前に突然亡くなった[276]

首相時代[編集]

  • 1960年、岸信介総裁が辞任し後継総裁を選ぶ際、岸は自身のイニシアチブによって、候補者を一本化することが好ましいと考えたが、池田、大野伴睦石井光次郎藤山愛一郎松村謙三の5人が立候補の意思を示した[277][278][279]。当時の世相は荒れ、誰がやっても失敗は見えていた[280]。大平と宮澤は総裁公選の立候補には時期尚早と反対していたが[281]、池田は「おれに目には、政権というものが見えるんだよ。おれの前には政権があるんだ」と、己の勝負どきだと直感し、大平の忠告を一蹴した[281][231]。時代が今、はっきり自分という男を必要としていることを、当の池田はしっかり見抜いていたのである[231]。大平の忠告を池田が蹴ったのは次官、蔵相就任に続き三度目だった[281]。宮澤も「高圧的な岸に続いて横柄なイメージを持つ池田が首相になれば、自民党そのものが致命的な打撃を受けかねない」と[281]、人心が鎮静する穏やかな人柄の人(石井光次郎)を主張したという[280]。経済のことなどで世の中を鎮められるとは誰も思っていなかったといわれる[281]。岸は立候補意思を示した5人のうち、池田、大野、石井、藤山の4人に借りがあり(次期総裁を約束した空手形など)、一本化は容易でなかった。池田は公選を主張して頑として応じず、大野と石井は話し合いを主張し党内の動きは混沌。吉田茂が池田支持を明らかにすると、大野石井両派は、2、3位の連合戦線を結成した。池田支持対大野、石井両派の対立が激化したため、川島正次郎幹事長らは、党大会を1960年7月13日に決め、できれば一本化し公選を実施せず、やむを得ない場合は公選を実施することに決めた。岸らにおさえられていた藤山愛一郎も予定通り立候補、松村謙三も「反主流派の代表」として三木・松村派に擁せられて立候補した。岸派は三分裂し、岸、福田赳夫らは佐藤派とともに池田支持、川島正次郎、赤城宗徳らは大野支持、綾部健太郎南条徳男武知勇記らは藤山支持、一万田尚登は石井派だった[277]。大会二日前の7月11日、河野一郎の奔走によって、大野、石井、川島、一万田、高碕達之助正力松太郎の六者が会談し「党人派結集」へ一致、「岸亜流政権反対」「官僚政治反対」を打ち出した[277]。池田支持派の参謀は佐藤栄作、石井支持派の起動力は河野であったが、公選となった場合、池田派、石井派大野派はいづれも自分の陣営が当選するとシミュレーションしていた[93]。7月12日の深更に事態は急転した。大野、石井両派は、2、3位連合を組めば勝算は充分あると踏んでいたが、石井派は参議院議員が池田派に切り崩されて戦える状況になく、石井の指示を受けた灘尾弘吉が大野派の参謀である水田三喜男青木正らと会い「大野派が2、3位連合に期待しても、石井派は期待に応えられる状況にない」と伝えて来た[93]。石井派との2、3位連合にメドが立たないと大野の勝算はない。未明にもかかわらず、川島や河野も駆けつけて大野を中心に大評定が始まり、河野が大野を説得し7月13日の明け方6時半に大野が立候補を辞退した[277][279][282]。松村もこれに応じて出馬を取りやめ、三木・松村派は石井支持を表明し[203]、岸、池田、佐藤の官僚派連合に対抗し、候補者を石井に一本化して党人派連合を組む方針を決定[93]。河野、川島らは党人派を結集するため、党大会を明7月14日まで延期することを申し入れた[282]。会場の産経ホールでの党人派の盛り上がりはすさまじく「池田は負けた」と囁かれた。しかし党人派は策戦を間違えた。予定通りこの日に党人派が「勝った、勝った」と会場に雪崩れ込み、そのまま公選に持ち込んでいたら、石井が当選していたといわれる[277]。ところが産経ホールはこの日の夜、藤原義江リサイタルが予定されていて長くは使えず、このため党人派は1日延期する方を選んだ[282]。この一夜のうち、岸、佐藤らは池田派の体制立て直しをやった。池田と親しくかつ河野一郎をかねてから警戒していた「財界四天王」を中心とする財界主流が、熱心に岸を口説いた[277][282]。これを受け、それまで池田派のとりまとめを佐藤一人に任せていた岸が、岸派60人を集め、もう一度再結集して池田を支持するよう説得[281][283]。この戦略が成功し党人派の産婆役の一人だった川島正次郎も、あっさり仲間を引き連れて池田に支持に回った[284]藤山派は「筋を通す」建て前から、立候補は辞退せず[279]、第二回投票では池田支持という態度を明らかにするなど、池田支持派が一気に巻き返した。池田陣営は財界主流をバックに総額10億円ともいわれる空前の実弾爆弾を仕掛けたとされる[282]。これに対して大野が用意した実弾は3億円だったとされる[284]。後で川島は大野に3000万円返したという[282]。こうして1960年7月14日、会場を日比谷公会堂に移して総裁選挙が行われ、池田が大勝した。保守本流の危機を突破する役割を池田が果しえた主因は、勿論運もあるが、池田の決断とブレーンの後押しにあったといえる[281]。その日の午後、首相官邸における新総裁披露宴の最中、岸はテロに見舞われ重傷を負った[277]
  • 首相になるにあたって、放言癖や前岸内閣で傷ついた政府のイメージを払拭し、親しみやすさをアピールすることに努めた。また池田のエリート臭を消すため、大平が苦心の演出を駆使した[285]。大平と並んで首相官邸の食堂で昼食のカレーライスを食べている写真を新聞各紙に載せさせたり、ダブルの背広が好きだった池田にシングルに改めさせ、金属製のフレーム眼鏡をアメ色の材質に変えさせた[285]。池田の尊大で冷たいといった印象を払拭させるためで、さらに、総理総裁たる者は「徹底的に庶民」にならなければならないとして待合ゴルフが大好きな池田に、絶対に行かないことを約束させ記者会見でこれを発表[286]。池田を大いに悔しがらせた[285]。 
  • 私邸に新聞記者を集めては、経済政策、所得倍増を熱心に語った[287]。当時日経記者で同郷でもあった中川順は著書に池田との思い出にページを割き、多くのエピソードを書いているが、唯一残念なことは、日経の「私の履歴書」が日の目を見なかったことと話している。池田が大蔵大臣就任以来、赫々の"武勲"よろしく男の階段を登り始めて以来、中川は履歴書執筆をねばり強く交渉し続けたが、「総理にでもなればね」と断り続けられ、総理になると繁忙でダメになり、そのまま世を去ってしまった。総理経験者で「私の履歴書」に登場しなかったのは、吉田茂と三木武夫らわずかで、池田は中でも惜しまれる人物であった、と中川は話している。
  • 総理時代の池田が「財界四天王」の小林中桜田武永野重雄水野成夫と会うのは、極秘中の極秘。もう一人小間使いとして同席したのが鹿内信隆であった。池田は総理在任中、約束通り待合には行かなかったが「栄家」と「福田家」だけは利用した[288]。保険法案をつくる場合は、経営者側の負担を0.01%減らすと全国で3000億円違うとか、そういう話が決められた。数字に詳しいのは池田と小林と桜田の3人で、水野は数字に疎かった。特に小林は富国生命の社長で株の操作をやっていたという[289]
  • 第2次池田内閣で高度経済成長政策を批判した政調会長福田赳夫をクビにし、福田及び同調者を池田内閣の続いている間、完全に干し上げた[116][290][291]。安定成長論者である福田とは相容れなかった[116][209]。池田は派閥強化を助長し、派閥による党内抗争は池田内閣になって、その弊害が増幅し、これが力の政治になり、力を得るための金権政治を増長させることになる[292]。福田は池田との対立を機に派閥解消などを掲げた「党風刷新連盟」を結成した[20]。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する[290][293]
  • 田中角栄が頭角を現す切っ掛けとなった1961年池田内閣での自民党政調会長就任、1962年第2次池田内閣での大蔵大臣就任は、盟友関係にあった大平との関係を生かしたもので、田中の成長は佐藤派の参謀でありながら池田の側近でもあったからといわれる[209][294]。特に第2次池田内閣に於ける弱冠44歳、尋常高等小学校卒の田中の蔵相抜擢は、1890年日本の帝国議会開設以来、後にも先にも例がない[209]。田中蔵相と書かれた閣僚名簿を見た池田は「アレは車夫馬丁のたぐいだ。どこの馬の骨かわからん」と一蹴した[209]。ところが大平が「あの男ならやれます」と熱心に説得。渋々池田はこれを了承した[209]
  • 先述のように、池田と会談したフランスのド・ゴール大統領が、池田を「トランジスタラジオのセールスマン」と評したことは良く知られている[126][208]。池田の帰国後、日本で大騒ぎになったほどで[295]、ドゴールが側近にそう漏らしたと反ドゴール派の『フィガロ』が記事にしたものが日本の新聞に紹介され有名になった[207][295]。当時は首脳が経済について語ることが珍しかったため、ド・ゴールも意外に思ったのである。しかし、今日では経済について語ることが出来ない首脳など使い物にならなくなっているし、当のフランス大統領はエアバス機や武器のトップセールスを世界中で行っている。こうした点を捉え、八幡和郎は、池田勇人を「経済重視の首脳の先駆として、世界的な偉人である」としている。
  • 1961年6月の訪米で、ジョン・F・ケネディ大統領と会談する際、夫人がジャクリーン・ケネディ・オナシスなので、こちらも夫人同伴がいいのではないかという話になり、池田の妻・満江が同行した[296]。それまでそんなところに女性が出て行くという習慣はなく、満江は首相夫人が外遊などに同行する先駆けとなった[296][297]。 
  • 1960年代にインドネシアスカルノ大統領と池田をつなぐ仲介役を務めたのはデヴィ夫人という。デヴィ夫人は池田と家族ぐるみの付き合いがあったといい「日本外務省にはこき使われました」と話している[298]
  • 昭和30年代後半に中曽根康弘に対して「やはり日本も、を持たなくては駄目だね」と語った[299]。経済外交としても目覚しい成果を挙げた池田であるが、1962年11月の訪欧時にロンドン英首相ハロルド・マクミランと会談した後、池田はホテルでくつろぎながら、秘書の伊藤昌哉に「日本に軍事力があったらなあ、俺の発言権はおそらく今日のそれに10倍したろう」と慨嘆し、各国首脳との接触を重ねるうちに、経済力の裏付けしかなく軍事力の後ろ盾を欠く外交の弱さを思い知らされていたという[205]
  • 1961年6月、アメリカでケネディと会談した際、ケネディに対し、アメリカが核実験再開に追い込まれた場合、米側の立場を「了解する」と明言したとされ[300]、池田はアメリカからの日本国内への核兵器持ち込みを知っていたとされるが(日米核持ち込み問題[301]、1963年3月の参議院予算委員会で「核弾頭を持った潜水艦は、私は日本に寄港を認めない」と答弁した[301][302]。この発言にライシャワー駐日アメリカ大使が慌てて、大平正芳外相を呼び、大平が核密約(日本国内の基地への核兵器の持ち込み)の内容を確認し、日本国内への核兵器持ち込みを了承したとされる[301][303]
  • アメリカ中央情報局(CIA)が反共政策の一環として、岸信介内閣[要曖昧さ回避]池田勇人内閣[要曖昧さ回避]および旧日本社会党右派に秘密資金を提供し政界工作を行っていたと報じられた[304]
  • 第2次池田内閣時代の1963年5月14日に「全国戦没者追悼式実施要項」が閣議決定し、同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、8月15日が終戦記念日と法的に定められた[305]
  • 1963年11月、暗殺されたケネディ大統領の葬儀参列のため渡米し11月25日、聖マタイ教会での葬儀とアーリントン国立墓地での埋葬式に参列。同行した秘書官の伊藤昌哉に池田はぽつりと「伊藤君、これが政治家の死というものだ。オレもできたら短刀を突き刺され、弾丸のひとつも撃ち込まれて死にたいと思っている」と言ったという[306]
  • 首相在任中の1964年、戦後の歴代総理が果たせなかった生存者叙勲を、太政官布告の運用再開という形で復活させる。国会では石橋政嗣ら日本社会党から異論が出るも、ついに押し切った。再開後最初の叙勲で政治上の恩師吉田茂大勲位菊花大綬章が授与され、親授式後の記念撮影では、満面の笑みを浮かべた両者が最前列中央に立った。「電力の鬼」松永安左エ門は、共に戦後の国内電力事業再編成を実現させて[64][65]、以降懇意であったが、松永に勲一等瑞宝章を打診した際、松永は「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と怒り、これを拒否。困った池田は、松永に可愛がられていた永野重雄に説得を頼み、何とか受勲させたものの、親授式の出席は拒否された[注釈 8]
  • 西武グループの創業者で衆議院議員でもあった堤康次郎は池田と親しく[307]、1964年池田が死去する少し前に亡くなったが、後援会は父の秘書を務めたことのある息子・堤清二に地盤を受け継ぎ政治に出てくれと頼んだ。池田が清二に親父の後を継がないのか」と聞いたら「自分は政治家に向かないと思います。しかし地盤は残っているので、総理から誰か推薦いただければ」と言うので、池田が大蔵省の青山俊を推薦し清二に「口説いてくれ」と頼んだ。しかし青山も清二と同様に政治が嫌いでやはり断わり、青山が山下元利を推薦し、池田も大蔵省時代の部下だった山下を知っていて「山下ならいい」となり、山下が堤康次郎の地盤を継ぐことになった[308][309]。しかしほとんど面識のない山下に地元から不平不満が爆発し、池田も亡くなったため、清二は佐藤栄作総理から田中角栄幹事長を紹介され、田中が滋賀県県議10人を前に料亭の畳に額をこすりつけ、「山下元利を男にしてやってくれ」と頼み込み話がまとまった。田中と山下の師弟コンビをここに始まる[309]。また先の堤康次郎が亡くなった際に清二が家督を継がないと表明したため、弟の堤義明コクド西武鉄道グループを引き継いだが、康次郎は生前、相続税に疑問を持っていて、その対策により相続税が0円になるようにしていた。西武という巨大企業の創業者の遺族が相続税0では世間で通らないと、清二は税の専門家である池田に相談し、池田のアドバイス通り1億円以上の相続税を支払った。しかし40年後、義明が西武鉄道株を他人名義にしていたことが発覚し、西武グループの総帥として君臨していた座から転落した。清二は「あのとき池田さんに名義株のことをきちんと話していれば、西武鉄道グループが、今のような憂き目を見ることもなかった。それが残念でなりません」と話していた[309]
  • 戦後の総理大臣の中で、東京都以外に位置する日本の大学を卒業しているのは池田のみである(宇野宗佑神戸商業大学中退)。

交遊関係他[編集]

  • 池田は各界の著名人を私邸に招いて交遊を図っていた。特に俳優の石原裕次郎を気に入り、石原裕次郎と私邸の風呂に一緒に入浴したこともあったという[310]
  • 郷土広島愛が強く、広島カープ後援会の名誉会長を務め、南海入りが決定的だった山本一義を呼びだし熱心に説得してカープ入りさせたり[311]、カープが負けると腹を立て、水野成夫から国鉄時代の豊田泰光の自宅の電話番号を聞いて電話をかけ、「ワシは池田勇人じゃ。今日はよくもカープを負かしてくれたなあ」と脅したという[312]。豊田は一国の総理が野球の試合結果について電話をかけてきたことにびっくり仰天したが、同時に自身が影響力のある仕事に携わっている喜びがこみあげたと話している[313]。2014年、「カープ女子」という言葉とともにカープ関連の本が多数出版されたが[314][315]、1950年のカープ球団創立から1975年の初優勝までの25年間に出た「カープ本」は1960年、カープ東京後援会の会長だった池田が首相に就任したのを祝い出版された『カープ風雪十一年』(河口豪著・ベースボールマガジン社)一冊のみといわれる[314][316]。同書には巻頭に池田の写真と推薦文が載る。
  • 神奈川税務署員殉職事件の殉職税務官顕彰碑の碑文に筆を寄せるとともに慰霊祭に出席している[317]

栄典[編集]

家族・親族[編集]

池田家[編集]

広島県竹原市東京都

  • 前妻・直子(元伯爵貴族院議員だった広沢金次郎の三女、元参議広沢真臣の孫)
    直子の兄の姻戚には、旧侯爵大隈信常がおり、名門である[318]。地方の素封家の息子でも「学士大蔵官僚」とあれば旧貴族との結婚は、ごくあたりまえのことだった[318]。学士と華族の結びつきは、親たちの名門意識をささえる一つの手段であった[318]
  • 後妻・満枝医師大貫四郎吉の二女、母の従姉妹の娘にあたる)
    満枝は医者の娘で広島の名門山中高女、名古屋の金城女専を出た才女だった[319]。池田の先妻直子が学習院出だからと娘の直子やその妹たちも学習院に通わせた[320]
  • 長女・直子(元近藤商事会長近藤荒樹の長男近藤荒一郎の妻)
    直子の嫁ぎ先は、戦後の“金融王”といわれた近藤荒樹の長男荒一郎[319]。いわゆる庶民金融の草分けで、池田が岸内閣の蔵相として活躍していた昭和32年(1957年)頃は、高額所得番付で全国六位にランクされるほどの資産家だった[319]。この2人の結婚は昭和33年(1958年)1月[319]。当然ながら世間から、“池田は資金源を身内に入れた”と見られた[319]。また、この婚姻で池田家は、荒樹の後妻が元伯爵明治神宮宮司甘露寺受長の長女・績子という関係から旧皇族北白川家までつながり、箔をつけている[321]
  • 二女・紀子(大蔵官僚、政治家池田行彦旧姓粟根)の妻)
    池田家の養子になったことについて池田行彦は「たまたまって感じですね。大蔵官僚は仕事がいそがしいので、女性とめぐり合う機会が少ない。そこで紹介というのが多くなるのですが、たまたまそれが池田の娘だったということですよ」と述べている[322]
  • 三女・祥子(元日本ゴム会長石橋進一の長男で元ブリヂストンタイヤ会長石橋正二郎の甥にあたる石橋慶一の妻)
この結婚で池田家は、さらに閨閥を広げ、鳩山一郎石井光次郎三井財閥の団一族とも“血の連鎖”を結ぶようになった[323]

系図[編集]

 
北白川宮能久
 
満子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
甘露寺受長
 
績子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近藤荒樹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近藤荒一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊久子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
児玉源太郎
 
ツル
 
 
 
 
 
 
来原良蔵
 
 
 
 
 
 
木戸幸一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
和田小六
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寿栄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山尾庸三
 
 
山尾三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千代
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広沢真吾
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広沢真臣
 
広沢金次郎
 
 
直子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池田吾一郎
 
池田勇人
 
 
直子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
紀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池田行彦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
満枝
 
 
祥子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石橋進一
 
石橋慶一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石橋毅樹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浜口儀兵衛
 
邦子
 
 
 
 
 
 
石橋徳次郎
 
 
石橋徳次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鳩山一郎
 
鳩山威一郎
 
 
鳩山由紀夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安子
 
 
鳩山邦夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石橋正二郎
 
 
典子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
多摩子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
啓子
 

著書[編集]

  • 『改正税法に就て』(東京銀行集会所、1942年刊)
  • 『改正税法並びに関係命令に就て』(銀行員同攻会、1942年刊)
  • 『改正税法の解釈:法人関係』(生産拡充研究会編、1942年刊)
  • 『間接税等改正税法解釈:酒税等の増徴等に関する法律解釈』(大蔵財務協会、1942年刊)
  • 『広告税に就て』(日本広告倶楽部編、1942年刊)
  • 『財産税・法人戦時利得税・個人財産増加税の解釈』(日本産業経済新聞社、1946年刊)
  • 『均衡財政‐附・占領下三年のおもいで』(中公文庫〈シリーズ戦後史の証言〉、1999年2月) ISBN 4122033586

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 竹鶴が「私の履歴書」に記したところでは、池田は竹鶴(当時寮長)に対して「こわい」という印象を抱いていたという。
  2. ^ 友人として急速に接近するのは、互いに政界入りしてからである。池田が死亡した際、佐藤が葬儀委員長を務めている(『正伝 佐藤栄作(下)』 42頁)。
  3. ^ 約3か月半後に第4次吉田内閣は反主流派の採決欠席により内閣不信任決議を受け、バカヤロー解散に至っている。
  4. ^ 佐藤は田中角栄松野頼三保利茂愛知揆一橋本登美三郎二階堂進らと周山会を結成する。
  5. ^ 佐藤を「指名」したと言われていることについて、当時、読売新聞社の記者だった渡邉恒雄は自伝『天人天職』のインタビューの中で「抗がん剤の副作用で意識が朦朧としていた池田さんを田中角栄と大平正芳が丸め込んだのではないか」と回想している。ただし、池田は、この際に放射線照射による治療を受けているが、抗がん剤の投与は受けておらず、かつ、佐藤への後継指名は、池田が副総裁川島正次郎と幹事長三木武夫に自民党内の意向を調整するよう指示した上で行われており、この話の信憑性は薄い。
  6. ^ 浅沼稲次郎『私の履歴書』によると、田所輝明。田所輝明『無産党十字街』では、「ある同志」の歌としている。
  7. ^ 1960年10月18日の衆議院本会議の議事録を閲覧。この演説は、池田の「場内がシーンとなる演説を」という注文によって、首席秘書官伊藤昌哉が書いた。「あの演説は五億円か十億円の値打ちがあった。」と池田は述懐している(若宮啓文「忘れられない国会論戦」中公新書 1206 中央公論社 1994年 ISBN 4121012062 C1231)。
  8. ^ 説得にあたり、小田原の松永宅に尋ねた永野は、松永に立ててもらったお茶の懐紙で鼻水をかんだ上、「あなたが叙勲を受けないと、生存者叙勲制度の発足が遅れて、勲章をもらいたくてたまらない人たちに、迷惑がかかる。それに、あなたはどうせ老い先が短い。死ねばいやでも勲章を贈られる。それなら生きているうちにもらった方が人助けにもなりますよ」と、相当失礼な言を吐いて迫った。結局、松永はこれを了承する格好となった(永野重雄著『わが財界人生』ダイヤモンド社(1982年)、167-170頁)。

出典[編集]

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追悼集[編集]

  • 『池田勇人先生を偲ぶ』 松浦周太郎志賀健次郎編(非売品)、1967年-追悼文集
  • 『池田さんを偲ぶ』 岡田幸雄・池田会編、財務出版(非売品)、1968年-追悼文集

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


公職
先代:
岸信介
日本の旗 内閣総理大臣
第58・59・60代:1960年 - 1964年
次代:
佐藤栄作
先代:
稲垣平太郎
高橋龍太郎
高碕達之助
日本の旗 通商産業大臣
第2代:1950年
第7代:1952年
第19代:1959年 - 1960年
次代:
高瀬荘太郎
小笠原三九郎
石井光次郎
先代:
創設
日本の旗 国務大臣(無任所)
1958年
次代:
廃止
先代:
大屋晋三(臨時代理)
一万田尚登
日本の旗 大蔵大臣
第55代:1949年 - 1952年
第61・62代:1956年 - 1957年
次代:
向井忠晴
一万田尚登
先代:
山崎猛
日本の旗 経済審議庁長官
第3代:1952年
次代:
小笠原三九郎
先代:
山田義見
日本の旗 大蔵次官
1947年 - 1948年
次代:
野田卯一
党職
先代:
岸信介
自由民主党総裁
第4代:1960年 - 1964年
次代:
佐藤栄作
先代:
結成
宏池会会長
初代:1957年 - 1965年
次代:
前尾繁三郎
先代:
佐藤栄作
自由党幹事長
第6代:1954年
次代:
石井光次郎
先代:
木暮武太夫
自由党政務調査会長
第6代:1953年 - 1954年
次代:
水田三喜男
57
岸信介
585960
1960年 - 1964年
61
佐藤栄作

伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衛

寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一

濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎

阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王
幣原喜重郎
吉田茂

片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮

三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曽根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹

宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎

安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
菅直人
野田佳彦

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