池田勇人

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日本の旗 日本の政治家
池田 勇人
いけだ はやと
Hayato Ikeda 1962.jpg
生年月日 1899年12月3日
出生地 日本の旗 日本 広島県豊田郡吉名村
没年月日 1965年8月13日(満65歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都
出身校 京都帝国大学法学部(現・京都大学
前職 大蔵省官僚・事務次官
所属政党 民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 正二位
大勲位菊花大綬章
法学士(京都帝国大学)
親族 廣澤眞臣(岳父の父)
廣澤金次郎(岳父)
池田行彦(娘婿・養子)
寺田稔(孫娘の夫)
サイン IkedaH kao.png

日本の旗 第58-60代 内閣総理大臣
内閣 第1次池田内閣
第2次池田内閣
第2次池田第1次改造内閣
第2次池田第2次改造内閣
第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
第3次池田改造内閣
在任期間 1960年7月19日 - 1964年11月9日
天皇 昭和天皇

内閣 第2次岸改造内閣
在任期間 1959年6月18日 - 1960年7月19日

日本の旗 国務大臣(無任所)
内閣 第2次岸内閣
在任期間 1958年6月12日 - 1958年12月31日

日本の旗 第61-62代 大蔵大臣
内閣 石橋内閣
第1次岸内閣
在任期間 1956年12月23日 - 1957年7月10日

日本の旗 第7代 通商産業大臣
第3代 経済審議庁長官(兼任)
内閣 第4次吉田内閣
在任期間 1952年10月30日 - 1952年11月29日

その他の職歴
日本の旗 第55代 大蔵大臣
(1949年2月16日 - 1952年10月30日)
日本の旗 第2代 通商産業大臣
1950年2月17日 - 1950年4月11日
日本の旗 衆議院議員
(1949年1月23日 - 1965年8月13日)
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池田 勇人(いけだ はやと、1899年明治32年)12月3日 - 1965年昭和40年)8月13日)は、日本大蔵官僚政治家位階正二位勲等大勲位

大蔵次官衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第556162代)、通商産業大臣(第2719代)、経済審議庁長官第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第585960代)などを歴任した。

概説[編集]

大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角をあらわし、吉田内閣の外交安全保障経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。19世紀生まれの最後の首相である。

首相としては所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした政治家である[1][2]

生涯[編集]

生い立ち[編集]

広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)にて父・池田吾一郎、母・うめの間に7人兄弟の末っ子として生まれた[3]。わがままに育てられ田舎のガキ大将だった[4]。父は酒造り煉瓦の製造、塩浜の経営、郵便局長などをやり有為転変もあった[5]。生家が造り酒屋というのは、当時の政界進出者の一典型で、地元では素封家ということになる[6]

学生時代[編集]

旧制忠海中学校旧制第五高等学校を経て京都帝国大学法学部卒業[7]

忠海中学校の1年時に陸軍幼年学校を受験するが、近視と背丈の低さで不合格となる[8]。同中学の1年先輩にニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝がおり、池田は寮で竹鶴のふとんの上げ下ろしなどもした。池田と竹鶴の親交は池田が亡くなるまで続き、池田が首相になっても「日本にも美味しいウイスキーがある」と言って、外国の高官に竹鶴のウイスキーを薦めるほど、生涯変わらない友人だった[9][注釈 1]

旧制一高受験の際、名古屋の下宿で偶然に佐藤栄作(のちの首相)と同じ宿に泊まり合わせた[注釈 2]。池田は忠海中学校の同級生2人と、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日、5人は酒を飲み、大騒ぎして別れた[10]。一高受験には2度失敗し、五高に廻された[11][12]

大蔵省時代[編集]

挫折と生命の危機を乗り越え[編集]

京都帝国大学法学部卒業後、高等文官試験をパスし1925年、同郷の政友会代議士望月圭介の推薦を受け大蔵省へ入省[13]。入省同期は山際正道植木庚子郎、田村敏雄など[14]。学歴がものをいう官界の頂点に君臨し、一高東京帝大出身、高等文官試験上位成績パスのルートのものがほとんどという大蔵省の風土は「東大法学部にあらずんば人に非ず」[15][16]五高京都帝大という池田の経歴は傍流中の傍流であり[17]、長く地方廻りをさせられ悪くすると地方の出先機関の局長や税関長までということもありうる、省内においては出世コースから外れた、鉄道の切符になぞらえて三等の"赤切符組"と見做されていた[11]

入省後は相場の通り地方を廻る。1927年、函館税務署長に任命される直前に、望月の秘書だった宮澤裕に勧められ維新元勲広沢真臣の孫・直子と結婚する[13]媒酌は時の大蔵大臣・井上準之助だった[18]1929年から宇都宮税務署長を務めるが、落葉状天疱瘡を発症したため、大蔵省を休職、一転して池田は人生の難局に直面した[13]。当時この病気は不治の病といわれた難病だった[13]。手足の皮膚からが吹き出す凄惨な病で、膿を抑えるために全身をミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされ、痒みと痛みで寝床でのた打ち回り[5]、たまりかねて「もういい、オレを殺してくれ!」と絶叫することもたびたびだった[19]1931年、2年間の休職期間が切れたため、大蔵省を退職することとなる[20]。以後3年間、吉名村の実家で療養生活を余儀なくされた[21]。原因不明の難病に対し、周囲には冷たい視線を向ける者もいる中で治療が続いた[21]。栄進への道を絶たれたも同然の池田は、失意に沈んだ[21]。少しよくなりかけた頃、島四国巡礼をする[22]。池田とは対照的に出世の階梯を異例のスピードで駆け上がる、1期後輩の迫水久常に切歯扼腕する思いを持った[13]

闘病中には、看病疲れから妻の直子を狭心症で失っているが、やはり看病に献身した遠縁の大貫満枝との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、生死を彷徨った5年間は池田の人生観に大きな影響を与えた。1934年に奇跡的に病気が完治した[5]。医者も「どうして治ったのか判らぬ」と言っていたといわれる[5]。大蔵省を退職していたため、再び望月の世話を受けて日立製作所への就職が内定した[13]。その挨拶と就職の件で上京し、買い物で立ち寄った三越から、未練が残っていたのか大蔵省に電話を入れる[13]。電話に出た三年先輩の松隈秀雄が「なに、池田? おまえまだ生きていたのか」と言い、秘書課長の谷口恒二に相談し「復職はなんとかするから、戻ってこい」と二人が池田に復職を薦めた[23]石渡荘太郎主税局国税課長に「税務署の用務員もいといません。よろしくお願いします」と訴え[24]、同年12月に新規採用という形で、34歳にして玉造税務署長として大蔵省に復職が決まった[13]玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる[25]

財政家として基盤の形成[編集]

復職後は病気での遅れもあり、出世コースを外れ、税制関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」と、野間清治根津嘉一郎遺産相続時の取り立ては凄まじかったといわれる[26]。当時省内では、賀屋興宣と石渡荘太郎の二大派閥が対立していたが、池田は同郷の賀屋派に属した[27]。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻るが、重要会議には全く呼ばれず、当分冷や飯を食わされる[17]

1941年、蔵相となった賀屋の下で主税局国税課長となり、ようやく遅れを取り戻した形となった[28]。本人は後に、国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。国税課長時代は国運を賭けた太平洋戦争と重なり、賀屋とともに、日本の歴史上最大増税を行い軍事費の膨張を企てた[29]国家予算のほとんどは戦費で、財源の大部分が国の借金、国家財政は事実上の完全なる破綻に至る[30]1942年、臨時軍事費を捻出するため広告税を導入した(1945年廃止)[31]。同年、同郷の宮澤喜一入省の際の保証人となる[27]。同じ年、主税局の管轄で横浜税関の業務部長になった下村治が挨拶に訪れ会う[32]。病気がちで何度も死線を彷徨った境遇が似ていた[33]

1944年、蔵相が石渡に交代して構想から外され東京財務局長[34]。出世の遅れに嫌気がさし、1期上の飲み仲間で当時満州国の副総理格だった古海忠之に「満州に呼んでくれないか」と頼んで承諾を得たが[35]、母親に猛反対され断念した[36]

1945年2月に主税局長となるが、初の京大出身の局長として新聞記事になったほどの異例の抜擢だった[27]。出世の遅れはここでほぼ取り戻した[27]。同年5月25日の東京大空襲で大蔵省庁舎の一部が焼失したため、必ず狙われる都心を離れ局ごとに建物を分散した[37]。主税局は雑司が谷自由学園明日館に移っており同年8月、終戦を告げる玉音放送は同所で聞いた[37]。「終戦の詔書」を起草したのは、病床の池田を悔しがらせ、当時内閣書記官長に出世していた迫水だった[27]

終戦後池田は戦後補償の担当者だったといわれ[38]軍需会社や民間の会社が大蔵省に殺到した[38]。1945年9月、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) から「日本の租税制度について聞きたい」と大蔵省に呼び出しがあり、前尾繁三郎を伴い第一生命ビルのGHQ本部に出向き、戦後の税制改革の協議がスタートした[39]戦時補償の打ち切りと財産税法創設問題に精力的に取り組み[27]1947年2月、第1次吉田内閣(大蔵大臣・石橋湛山)の下、主計局長だった野田卯一を飛び越えて大蔵次官に就任する。終戦、公職追放などによる人事の混乱に加え[40]、池田の政界入りの野心を見てとった石橋の親心も作用した[41]次官抜擢は別説あり)。これが池田の運のつきはじめといわれる[42]。石橋蔵相下で石橋に協力して戦後の財政再建の実務を担当する[43]1947年5月片山内閣の発足で、次官会議で運輸事務次官になっていた佐藤栄作と再会した[40]。また社会主義の実現を目指す社会党内閣は、戦時中から続いていた経済統制や計画経済の中枢として経済安定本部(安本)の強化を図ったため、必然的に安本に出向くことが増え、ここで安本次官だった同郷の永野重雄と親しくなり、財界に強い素地を作る[40]

1948年に48歳で大蔵省を退官。浪人中に政治家になることを猛反対していた苦労かけた母が亡くなったことが政治家転身を後押しした[44]

政治家として[編集]

1949年第24回衆議院議員総選挙旧広島2区から出馬し、選挙戦の第一声を出身校の竹原市立吉名小学校の裁縫室であげた[45]。演説の話が難しすぎ、100人近くの聴衆はポカーンとして拍手一つ上がらなかったというが、初当選を果たす[45]。以降、死去まで選挙は連続7回トップ当選した[46]

吉田の右腕として[編集]

新人で大蔵大臣[編集]

池田の所属する民自党は大勝し、第3次吉田内閣の組閣は順調に進んだが、大蔵大臣のポストだけがなかなか決まらなかった[47]。この年2月1日にデトロイト銀行頭取でマッカーサーの財政顧問のジョゼフ・ドッジ (デトロイト銀行頭取)が公使の資格で来日し、日本のインフレ収束について強力な政策が執られるとの予想があったからである[48]。それまでのような蔵相ではとても総司令部に太刀打ちできそうもない[49]、吉田はマッカーサーとの信頼を築くことに専一で外交は玄人だが[50]、財政経済は素人でほとんど無関心だったため[51]、信頼に足る専門家を見つけ出して任せるしかなかった[48]。吉田には数ヶ月前の前内閣で、池田成彬に凝って泉山三六を蔵相に起用し大失敗した苦い経験があった(国会キス事件[52]。吉田は宮島清次郎に人選を依頼したが、宮島が挙げる向井忠晴ら候補者はみな公職追放の憂き目に遭っていた[53]。やむなく宮島が桜田武に相談し、桜田が永野重雄から永野の経済安定本部時代の次官仲間だった池田を推薦された[8][54]。実は池田は吉田と宮嶋が仲がよいのを前から知っていて、同郷の中村是公が経営する広尾羽澤ガーデンというすき焼屋に出入りし、宮嶋が来るとの相手をしてごまをすっていた[55]。宮島が池田にテストを行った上で吉田に推薦した[56]。当時は財界でも池田の名を知る者はほとんどいなかった[57]。宮島の厳しい質問は、池田の最も得意とする領域で、スラスラ答えたといわれる[8]。池田は記憶力が抜群で、数字を丸暗記できる特技があり、日本経済の将来像を見抜く力を養い、進むべき方向性を見出していく[58]。こうして選挙後の1949年2月16日林譲治大野伴睦らの党人派の反対を押し切って池田は、1年生議員でありながら第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された[28]。吉田側近の麻生太賀吉根本龍太郎とともに、党内でこの人事に真っ先に賛成したのが田中角栄だったといわれる[59]。最終的には吉田に頼まれた自由党幹事長の大野が反対派をまとめた[60]。池田は大蔵大臣秘書官として黒金泰美と、大蔵省時代に英語が堪能で贔屓にしていた宮澤喜一を抜擢した[61]。まもなく黒金が仙台国税局長に異動したため、後任に固辞する大平正芳を否応なしに秘書官に起用した[62]。1949年6月、大蔵省専売局の分離独立、特殊法人日本専売公社発足の際、初代総裁には民間人の起用に拘り、藤山愛一郎から推薦を受けた大日本製糖の幹部・秋山孝之輔を起用した[63]大蔵次官野田卯一が辞表を出したため、後任に長沼弘毅を抜擢したが、長沼も池田と肌が合わず二年後、「朝から酒飲んでるやつに頭のいいやつがいるわけない」と新聞記者に池田の陰口を叩いたのがゴシップとして記事になり辞表を提出し退官した[64]

占領下の経済政策[編集]
1949年ジョゼフ・ドッジ(手前右)と

初当選の後から広川弘禅が池田邸にしょっちゅう出入りするようになった[65]。これは池田が初当選の頃から既に党内運営や人事に発言力を持ち始めたことを示す[65]第3次吉田内閣は、その後内閣改造を計3回行ったが、いずれの内閣改造でも池田は大蔵大臣に留まった。さらに第3次吉田内閣通商産業大臣を、第4次吉田内閣では経済審議庁長官を兼務した。ワンマンの吉田首相の絶大な信任を得て、いわば全権委任の形で経済を委された。ジャパン・ロビーの有力後援者でディロン・リードの副社長でもあったドレイパー陸軍次官が、トルーマン米大統領から1947年からの二年間限定で日本復興を命じられ、1949年随員の一人としてジョゼフ・ドッジが来日[66]。池田はドッジと協議を重ねた[67]。池田は、後の「所得倍増計画」に見られるような積極財政をプランし、減税公共投資を推し進め、それによって戦後の復興を成し遂げようと考えていたが、占領下ではGHQの指示は絶対で、意に反してドッジの超均衡財政の忠実な執行者を余儀なくされた[68][69]。折角作った予算をドッジにズタズタに切られ、6日後の3月7日ドッジ・ラインを実施[70][71][72][注釈 3]。超均衡予算を押し付けるドッジと、選挙公約の不履行という民自党内部や各党からの批判、「国民生活の窮迫」という国民の非難を浴びながら[73]、1950年度予算は、収支プラス3億円の超均衝予算を成立させる[74]。これを「インフレではない。ディスインフレ政策である」と強調したため、「ディス・インテリ」という渾名を付けられた[75]。この反動で、金づまり(デフレ)の嵐が吹き荒れ、企業合理化による人員整理で失業者が増大し、各地で労働争議が頻発、下山事件など暗い事件も相次いだ[76]。ドッジは特に公務員の大量解雇による人件費削減を池田に強く指示し、これを実行したため、ドッジと池田に非難が集中した[66]。政党、労働組合、産業界、特に中小企業からの集中砲火にさらされたが耐えに耐えた[77]。「池田勇人、鬼よりこわい、ニッコリ笑って税をとる」という戯れ歌が歌われ[78]、池田の憎たらしい面構えの漫画新聞雑誌に掲載された[79]行政は池田とドッジやGHQ担当者との密室で決まり、うっかり公表すればGHQからねじこまれるため報道関係者には一切喋れず、新聞記者からの人気が悪くなった[71][80]シャウプに会った後、記者会見を要求され、無視すると「取材活動を妨害し、国論を軽視する非民主主義的な態度をとった。猛省を促す」という決議を記者クラブから突きつけられた[80]。ついでに「庭先で散歩中、レンズを向けたカメラマンにステッキを振り上げた」などと、新聞に悪口ばかり書きたてられた[80]。不機嫌な池田に、高飛車に出られても、粘りに粘った記者が4、5人ほどいて、それが池田記者・派閥記者の誕生であった[81]中小企業の倒産や、企業主家族の心中が相次いだため、記者たちからの意見を求められた池田は「その種の事件が起こるのは当然のことと見ている」と述べ、国民にショックを与えた[52]。1950年6月の参院選では、吉田から「お前が喋らない方が党のためになる」と選挙応援には来ないでくれと言われた[52]

ドッジ・ラインに従って厳しい金融引き締め政策が実行された結果、1949年4月から6月にかけて日本経済は激しい金融難に見舞われた。超緊縮予算は国庫収支の大幅な引き揚げ超過を伴うため、経済はデフレの傾向を示しはじめ企業は資金不足に悩んでいた。産業を再構築するための産業資金の供給を、政府に求める民間の要請が高まった[82]。1950年6月、池田は民間の住宅資金を供給する住宅金融公庫を設立して政府系金融機関を設ける糸口を付けたうえで[83][84]、手詰まりになっていた産業資金を作るため、財政資金を活用することにし、大蔵省預金部を改組して1951年4月に資金運用部を設立した[83]。これが後年、高度成長政策を進める上での財政上のテコになった財政投融資のハシリである[83]。1950年産業金融のあり方を巡り、一万田尚登日本銀行総裁と大論争が行われ、池田が勝利したことで、政治的あるいは役所間の権限争いに勝ち、大蔵省が日銀に対して圧倒的力を行使するようになった[85]。特に1956年、池田の大蔵省の同期・山際正道が日銀総裁になって以降、池田の影響力が増した[85]。池田は輸出向け金融の制度改革で足腰を強め、重化学工業を中心とする産業の成長を見据ていた[86]。しかし一万田は重工業化政策に反対するなど、池田とは全く逆の財政観を持っていたため、一万田が勝っていたら、高度経済政策は違った形になっていた可能性もある[85]。1950年代は池田と一万田の二人が蔵相を務める時期が長かっため、通産省などはその二つのバランスの上に立ち、名人芸的な政策運営を進めた[85]アメリカ対日協議会(ACJ、ジャパン・ロビーの中枢組織)のドレイパー陸軍次官が池田に「輸出でドル外貨を稼げ」と説得[66]。池田は「ドルがない。綿花を仕入れようにも綿花商人が綿花を送ってくれない」と嘆くとドレイパーが帰国して綿花業者を説得し「日本に綿花を送れ」と指示し、大量に送られた綿花によって日本の繊維産業が急ピッチで発展した[66][87]。繊維製品と日用雑貨製品のアメリカなどへの輸出増大でその振興を目的として1949年5月、商工省を改組して通商産業省(現経済産業省)が発足した[66]

戦後税制3つの転機といわれる所得税中心の税制を確立したシャウプ勧告では、ドッジ予算ほど強い権限がないことに着目し、池田はその内容を柔軟に解釈し、勧告の中で示されている以上の減税が可能であるとの立場をとり、1949年度の補正予算に若干の減税をドッジに認めさせ、歴史上はじめて実質上の歳出増ならびに減税の両方を含む補正予算を示した[88]。占領下の国家予算等、経済政策を一手に引き受け、日本経済の舵を取る[89][90][91]。ドッジ・ラインが成果をあげることによって池田がドッジとアメリカの信用をかちとり、大蔵省を足場にその政治的立場を強化していく[88]。日本経済の拡大均衡への胎動は、池田蔵相全盛時代の幕開けを告げるものだった[82]

講和の下交渉[編集]

1950年、生活の圧迫感からドッジ・ラインの緩和を求める声が国民の間でも強くなり、占領政策自体に対する不満に転化する気配が漂い始めた[92]。この年6月に参院選も予定されていたことから、世論の悪化を恐れた吉田は、池田を渡米させ財政政策の見通しについてドッジに打診させることを目論んだ[93]。GHQの一課長級が平気で日本側の閣僚を呼びつけ、一片の紙切れを「ディレクティブ!」(指令)と称して振り回し、日本の行政を完全にコントロールしていた時代、ワシントンと直に交渉するなど敗者の身としては想像できないことだった[94]。しかし渡米の最大の使命はこれではなかった[95]。ドッジやマーカット少将から「講和の交渉に池田をアメリカに行かせたらどうか」という進言があった[96]。マッカーサーはこの本当の目的を池田の帰国後まで知らず、報告書を読んで激怒したとする文献が多いが[97]、宮澤は後年のインタビューで「マッカーサーが吉田に講和を薦めた」と話している[96]。出発前にマッカーサーが池田を呼びつけ長広舌を振るったとする文献もある[97]。当時、対日占領の経済的負担がアメリカにとって過重となっていて、アメリカ政府の中にも軍事的要求が満足できるなら必ずしも講和に反対しない、という意見が台頭しつつあったといわれる[75]。アメリカは日本を独立させるという条件を提示し、朝鮮戦争に全面的に協力させようと考えていたとする見方もある[98]。日本側の心配をよそに、池田の渡米の許可は難なく下りた[99]。ただしGHQで書類にサインした際に拇印を押さされ「一国の大蔵大臣なのに..」と悔し涙を流さんばかりだった[100]。こうして表向きは米国の財政金融事情・税制、課税状態の実情の研究として、実際は講和安保問題の打診、"吉田からの伝言を預かり[101]、これをしかるべき人に、しかるべき場合に伝える"という[102]、重大なミッションを抱えて同年4月25日、吉田の特使として白洲次郎宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米した[99][103][104]。池田は戦後、日本の閣僚がアメリカの土を踏んだ第1号でもあった[99]

池田はそりの合わない白洲とは別行動をとり[105]、通訳の宮澤とともに役所や工場の視察を重ねたのち、ワシントンD.C.でドッジ・ラインの緩和を要請した[92]。また池田は近い将来の日本経済の飛躍的発展と、その基盤を成す輸出振興のために輸出金庫(日本輸出銀行、輸銀)設立の構想を持っており[106]国際通貨基金 (IMF)総裁を訪ね、日本政府のIMF加盟、国際復興開発銀行世界銀行)加入要請[107]、輸銀創設の要請などの話し合いを重ねた[77][108]。最終的な権限はGHQにあるため、まとまってもそこでは結論は出さずに、形式的にはGHQの決定に委ねる形である[109]。池田と宮澤は、1泊7ドルの安ホテルの2人部屋で、約1ヵ月相部屋生活を送り、夜は柳橋亀清楼の女将が持たせてくれた福神漬にコップ酒を飲み交わした[110]、安ホテルに泊まっていたため、印刷機もタイプそろばんさえなく、資料を自前で作れなかったため、こちらが言ったことを国務省に作ってもらいそれを撒いて議論した[96]5月3日、池田と宮澤が人気(ひとけ)のない国務省の一室でドッジに吉田からの重大な伝言を口頭で伝えた[111]。「吉田首相からの伝言をお伝えしたい。日本政府は早期講和を希望する。講和後も日本及びアジア地域の安全を保障するために、米軍を日本に駐留する必要があるであろうが、もし米軍側が申し出にくいならば、日本側から提案する形をとってもよろしい…条約締結の前提としてアメリカ軍基地の存続が必要だとしても、日本はすぐにでも条約締結の用意があります」などと、16ヶ月後の日米安全保障条約の基礎を成す内容を伝えた[112]。国務省の立場を非常によくする内容の日本側から安保条約的構想のオファーに[113]バターワース国務次官がそれを聞き「白洲次郎から聞いていたのとは違う。吉田さんがそういうオファーをするなら、これはアチソン国務長官に伝えよう」と言ってアチソンにそれを伝え、アチソンはそれを持って対日講和を含む議題があったロンドンでの外相会議に出席した[96]。コピーのもう一部はジョン・フォスター・ダレスとマッカーサーに行き、日本側からそういうオファーがあるならと講和の準備が進められた[96]。なお、2人とは全くの別行動をとっていた白洲は、吉田からの安保構想は聞かされてなかったといわれ[114]、宮澤は「この時の渡米は白洲さんにとってはあまり重要な任務でなかったのではないかと思う」と話している[104]。白洲は財政経済の知識が皆無で池田とは次元が違っていた[98]。吉田から戦後再建の重要な足掛かりとなる対米打診に登用されたことで、池田は単なる数字に強い財政家の枠を超えて吉田に次ぐナンバー2の地位を築く[109]

帰国後、GHQを差し置いて池田が官吏の給与引き上げ、税の軽減などをワシントンに直接伝えたと、渡米中の池田の言動についてGHQ民政局 (GS) のホイットニー准将とGHQ経済科学局 (ESS) 長だったマーカット少将が激怒した[115]。池田がアメリカで話したことは、日本側では極秘に付されていたが、GHQでは皆知っていた。また池田が「GHQが細部にわたって干渉することは適当でない」と司令部の人員削除を提案したことがマッカーサーに通じていてGHQの反感を買っているといわれた[115]。吉田はドッジラインの譲歩などの池田の渡米みやげを翌月に迫る参院選の政治的キャンペーンに利用しようと考えていたが、吉田はマッカーサーと面会の約束が取れず、池田もマーカットに面会を断られたため、池田の渡米みやげは発表できなくなり、やむなく「おみやげはない」という政府声明を出した[115]。このため池田は蔵相辞職、あるいは追放ではという噂が上がった[115]。池田の窮地を救うため吉田がGHQと交渉し、池田が主張した官吏の給与引き上げ、税の軽減、輸銀創設、IMF、世界銀行加盟、小麦協定(MSA協定)への参加などほぼ司令部から了解が得られ、池田の立場も救われた[115]。占領下という極めて困難な条件の下で、国政の要ともいうべき外交と経済を、吉田と池田が長期にわたって分担したという共通の経験と思い出が、二人の関係をいっそう親密なものにした[116]。一方の白洲は帰国後、自身の果たした役割を世に説明することもなく、鶴川に引っ込んで好きな農民生活に戻っていった[109]

この年6月ダレスが、講和条約起草という目的を持って来日し、以降吉田との話し合いが進んだ[96]。ダレスと吉田の話し合いは秘密裏に進められ、その内容を知るのは西村熊雄条約局長と岡崎勝男の二人だけだったといわれる[96]。宮澤は日米安全保障条約の方は実体が誰もよく分からず、党内で話し合われることも勿論草案もなく、西村や岡崎も池田も知らず、アメリカ側と吉田で決められたのではないかと話している[96]1951年9月8日サンフランシスコ講和条約が調印されるが、講和会議に出席した全権団のメンバーで講和条約に関わったのは池田だけである[96]。他のメンバー構成は吉田が仕組んだショーといわれる[117][118]。この全権団入りも1年生議員で、しかも外相でもない池田がメンバーに加わったことに異議を唱える者も少なくなかった[119]。宮澤でさえ「これは、相当の贔屓だな」と思ったという[120]。オペラハウスで対日講和条約が調印された日の夜、吉田は池田らを伴いプレシディオ国立公園内の当時、米国陸軍第六軍の基地として使用されていた下士官用クラブ(米軍将校用の酒場)に出向き、池田に「君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言って、日米安全保障条約を一人で署名した[121][122]。吉田は銃剣を突きつけられてサインさせられたともいわれる[123]。二つの調印に参与した他、ドッジらと会談も行われ、占領中に生まれた対米債務が主に議論された[113][124]

講和・独立後の経済政策[編集]

ドッジ・ラインに従って厳しい金融引き締め政策が実行された結果、1949年4月から6月にかけて日本経済は激しい金融難に見舞われた。超緊縮予算は国庫収支の大幅な引き揚げ超過を伴うため、経済はデフレの傾向を示しはじめ企業は資金不足に悩んでいた。産業を再構築するための産業資金の供給を、政府に求める民間の要請が高まった[82]。1950年6月、池田は民間の住宅資金を供給する住宅金融公庫を設立して政府系金融機関を設ける糸口を付けたうえで[83][125]、手詰まりになっていた産業資金を作るため、財政資金を活用することにし、大蔵省預金部を改組して1951年4月に資金運用部を設立した[83]。これが後年、高度成長政策を進める上での財政上のテコになった財政投融資のハシリである[83]。1950年産業金融のあり方を巡り、一万田尚登日本銀行総裁と大論争が行われ、池田が勝利したことで、政治的あるいは役所間の権限争いに勝ち、大蔵省が日銀に対して圧倒的力を行使するようになった[85]。特に1956年、池田の大蔵省の同期・山際正道が日銀総裁になって以降、池田の影響力が増した[85]。一万田は重工業化政策に反対するなど、池田とは全く逆の財政観を持っていたため、一万田が勝っていたら、高度経済政策は違った形になっていた可能性もある[85]。1950年代は池田と一万田の二人が蔵相を務める時期が長かっため、通産省などはその二つのバランスの上に立ち、名人芸的な政策運営を進めた[85]アメリカ対日協議会(ACJ、ジャパン・ロビーの中枢組織)のドレイパー陸軍次官が池田に「輸出でドル外貨を稼げ」と説得[66]。池田は「ドルがない。綿花を仕入れようにも綿花商人が綿花を送ってくれない」と嘆くとドレイパーが帰国して綿花業者を説得し「日本に綿花を送れ」と指示し、大量に送られた綿花によって日本の繊維産業が急ピッチで発展した[66][126]。繊維製品と日用雑貨製品のアメリカなどへの輸出増大でその振興を目的として1949年5月、商工省を改組して通商産業省(現経済産業省)が発足した[66]

また産業金融システムとして池田が設立したのが政府系金融機関である輸出金庫(日本輸出銀行、輸銀)と日本開発銀行(開銀)である[77][127][128][129]。日本の再興期に於いて、当時の四大重点産業である電力石炭海運鉄鋼など、輸出力のない基幹産業に、当時の民間銀行は資金不足で投資ができず[130]、財政余裕資金を国家要請に基づき、それらの分野に重点的配分し、基幹産業を復活させる目的を持った[131]。本来は1947年に設立された復興金融金庫(復金)が面倒を見るべきであったが、ドッジは復金は超インフレの元凶とみて嘲笑し、GHQの純粋主義者は戦前・戦中の国策会社的なものは一切認めないという態度を崩さなかった[85]。復金は融資を受けていた昭和電工が1948年に事件を起こしたことで(昭和電工事件[128]経済安定本部が監督していた復金を池田が大蔵省指導へ移していた[66]。「どこか他に上手い資金源はないか」と池田が思案し思いついたのがアメリカ国務省からの見返り資金と政府が運営する郵便貯金であった[85]。郵便貯金は明治時代から存続し、大蔵省の預金部資金として集められ、スキャンダルや様々な政治目的のための不正使用の歴史でもあったが、占領期間中、GHQはこの資金の用途を地方債の引き受けに限定していた[85]。インフレが収まると預金者が充分信用してない銀行ではなく、郵便局に預けるようになるにつれ資金量が増えていた[85]。池田はこの二つの資金を重要プロジェクトに利用したいと考え、ドッジと協議に入った[85]。池田は輸銀と事実上復興金融金庫(復金)の再生である新しい機関・開銀の設立を提案[85]、うち輸銀に関しては資本財の輸出促進のため、銀行から通常借りられるよりもっと長期の資金が必要であるという池田の主張をGHQは理解して受け入れ、見返り資金と政府の一般会計からの資金、合計150億円を資本金として1951年2月1日に日本輸出銀行(輸銀)は営業を開始した[77][129][132]

もう一つの開銀の設立は輸銀より難航した[85]。開銀設立は池田が「戦後日本に特殊銀行がなくなり、復金は機能を失い、見返り資金も将来なくなることを考えると、何らか新しい特殊金融機関が必要でないか」とドッジに提案したのが最初[133]。しかし池田のたび重なる要請にもかかわらず、ドッジは開銀は資金運用部資金(郵便貯金)から借り入れることを許さなかった。1951年になってドッジはやっと政府の特別プロジェクトへの郵便貯金特別会計からの支払いを認めた[85]。但しその資本金は見返り資金から100億円を供出したのみで、金融債の発行や外部からの原資の調達は行わない、貸し出しの際も運転資金は取り扱わないなどの厳しい条件をつけた[85]

こうして1951年4月、日本開発銀行(開銀)は設立された[128][134][135]。開銀は調整プールの役割を演じ、業績が好転した産業からの回収金を、資金の欠乏している産業に再貸出した[66][136][137]。両銀行設立にアメリカが見返り資金を提供したのは、アメリカ国務省が朝鮮戦争の演出のため、日本を兵站基地とすべく日本の財閥解体を中止させ、軍需産業の復活を狙っていたためともいわれる[66]。池田が日本輸出銀行の初代総裁には河上弘一日本開発銀行初代総裁には小林中とそれぞれ腹心をあて、小林は池田の指図通りに動いた[138][139]。小林は池田の操り人形だったのである[66]。輸銀と開銀は官僚の直接支配から独立した形での銀行であり、どちらもドレイパーやドッジ、マーカット、つまりアメリカの意向に沿ったもので、どちらも池田の指導・監督下にあり、池田は大手企業にも隠然たる力を発揮できるようになった[66]。産業界への資金供給の主要な役を日銀の一万田総裁から取り上げたため、小林はこれに恩義を感じ、以降"財界池田山脈"の中心的な肝いり役になった[83]。小林は開銀の頭取として民間企業へ見返り資金1400億円を融資し、その謝礼として借り手から保守政治家に対する献金を受け取り、政財界に絶大な影響力を持つようになった[66]。5年以上に及ぶ在職期間中に小林が振るった権力は日銀総裁を凌ぐものだった[66]。朝鮮特需により大企業はこの二つの銀行をフルに利用し、日本経済を大きく飛躍させた[66]。自身の資金源確保という一面もあるにせよ、池田はこの占領下時代に、日本の高度成長期の礎をすでに築いていたのである[66]。輸銀と開銀は行政上は大蔵省の管轄下にあったが、政策面では通産省が支配的な力を振るい、大きな力を持つようになった[85]。1952年には、池田主導のもとに長期信用銀行法が成立し、旧特殊銀行であった日本興業銀行と新設の日本長期信用銀行(以下、長銀)が長期金融を担当する民間金融機関として改めて誕生し、官民ともに長期資金の供給体制が確立した[82][140]。長銀の第二代頭取には池田が日本勧業銀行での権力闘争に敗れた浜口巌根を据えた[141]。これら政府金融機関による融資は、貧弱な社会資本充実のために「国営・準国営事業」や「公共的事業」に対しても行われ、1953年度から財政投融資資金計画として「公社」に再編された国鉄電信電話事業及び帝都高速度交通営団郵政事業特別会計・特定道路整備事業特別会計(のちの日本道路公団)・電源開発株式会社日本航空株式会社などにも投資された[142][143]。池田は税務畑の出身で、本来金融は畑違いだったのだが、苦心のドッジを始めとする対米交渉が実を結び、金融分野で思わぬ業績を挙げたことが得意だったらしく、「大手町界隈は、オレの作った銀行ばかり。池田銀行街になったな」とよく自慢していたという[138]。1949年「従来の一県一行主義に固執することなく、適当と認めるものは営業を許可する方針である」と表明し、この政策転換により1951年から1954年にかけて北海道銀行東北銀行千葉興業銀行東京都民銀行など全国に12の新銀行(戦後地銀)が設立された[144]。この他、戦後の投資信託(投信)復活は、証券業界の要望を受けた池田が1951年に議員立法で投信法を提出し、証券会社が委託会社を兼ねることにGHQは難色したものの成立、同年6月の「証券投資信託法」公布が切っ掛け[136][145][146]野村日興山一大和の四証券会社を皮切りに計7社が委託者登録・投信募集を開始し、これを機に株式投資ブームが興り、このブームを背景に増資ラッシュが起こったといわれる[145][146]。戦後の様々な金融機関の設置はドッジ・ライン下で行われたため、事実上、池田・大蔵省が戦後日本の経済体制の基本を形成した[147]

1950年2月17日から同年4月11日まで通商産業大臣を兼務した。当初は白洲次郎総司令部を握り、吉田の懐刀のような仕事をしていたが、経済政策が政治・外交と結びついて展開していったため、池田がGHQ経済科学局 (ESS) 長だったウイリアム・F・マーカット少将を抑えて、だんだん独自の力を発揮し、吉田の右腕になっていく[92]。池田の自由党とは反目になる1954年の日本民主党結党時の頃の池田の政財界への影響力について椎名悦三郎は「三木さん岸さんを幹事長にしたのは、自由党に財政通の池田君がいて、ずっと表裏の蔵相をつとめて大蔵省を仕切っていたからだ。あの当時は実業界もがらがらと変わり、みんな追放になったから総務部長程度が大幹部に収まっていた。財界といっても、勘定は少し儲かっていたが銭はない。しかし税金は納めねばならない。そこで大蔵省に頼み込み、税金を年賦にしてもらったり、復興金融公庫融資を依頼したりした。財界はみんな池田参りをしてね。どいつもこいつも、池田君に助けられていた。だから財界に対する池田君の力は隠然たるものがあった。こちら側で池田君に対抗する人物は岸さんしかいなかった」と話している[148]。ドッジ・ライン以降、池田が首相として「所得倍増計画」を打ち出すまでの12年間は、一貫してアメリカとの交渉を通じて対米信用を獲得しつつ、日本の経済復興を推進した時期といえる[149][150][151][152]

経済の停滞は続いたが、ドッジ・ラインという劇薬と、1950年6月の朝鮮動乱勃発による特需ブームにより、ようやく戦後の日本経済は不況を脱した[153]。また見返り資金の管理を重要視したドッジが、大蔵省から独立した見返り資金管理官という次官級または大臣級のポストを新設してはどうかと池田に相談し、池田が吉田と相談し大蔵省内に次官クラスの役職として1949年6月に財務官という役職を新設し、初代の財務官には渡辺武を任命した[154]。国内からの反撥を受けながらもドッジ・ラインを実現できるだけの力を示すことで、対米信用を獲得し、政治家としての権力基盤を形成した[88]。ドッジと大蔵省の協議のほとんどに出席したヤング使節団のオービル・マークダイアミドは後年、「ドッジ使節団の成功に最も寄与したのは池田である」と述べた[52]。ドッジやGHQからの池田に対する信頼は厚く、日本の政治家は池田を通さないとドッジと面会できなかったといわれる[88]。それが吉田の池田に対する信頼感を持たせることにも繋がった[155]。1949年6月、大蔵政務次官として部下となった京大の後輩・水田三喜男を可愛がり、後の第1次池田内閣大野派ながら『所得倍増計画』を推進する大蔵大臣に抜擢した[68]

度重なる問題発言[編集]

池田勇人(1952年)

池田は吉田からの信認厚く、その自信過剰のあまり問題発言を連発し、物議をかもすこともあった(詳細は後述)。大蔵・通産大臣(第3次吉田内閣)時代の1950年3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」、さらに12月7日、「貧乏人は麦を食え」と発言していずれも問題となる(後者は実際は、参議院予算委員会木村禧八郎社会党)の質問に答えた中で、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたい」という発言を要約した言葉)[71][156][157][158]。占領軍の権威を傘に着る吉田の、池田はその代弁者ということで攻撃を浴びた[75]。また1年生で蔵相に起用されたことで、与党内はもちろん、野党議員まで反発し、国会でいろいろと意地悪された[159]。池田自身も吉田に目を懸けられ得意気になっており、衆院本会議で質問に答弁しようとする閣僚を制して「これらが、いずれも予算に関係がありますから、私から代わってお答えします」などとのさばり出て、一人で内閣を背負っているような気持になっていた[160]。日頃から「池田というのは若いくせに生意気だ」という空気があったため大問題になった[159]。"貧乏人は麦を食え発言"をやったときには、委員会が騒然となり、「放言だ!」「重大問題だぞ!」と声が上がり、「またやった!」と新聞は大喜びした[160]

1951年日本医師会田宮猛雄会長、武見太郎副会長から請求された健保診療報酬大幅引き上げは、1954年の「医師優遇税制」と形を変え導入された(詳細は後述)。1951年の増田甲子七自由党幹事長起用あたりから、自由党の人事にも関わり、吉田から相談を受けるようになった[161]。1952年1月、戦死者遺族援護費をめぐり橋本龍伍厚生大臣と対立し、橋本が辞任した[162]

1952年8月、吉田と密談を重ねて抜き打ち解散を進言する[163]松野鶴平がこの謀略を指南したとされる[164]。自由党の中でこの解散日を知っていたのは、吉田と池田以外は保利茂官房長官麻生太賀吉の二人のみ[165]。池田が後から二人に伝えたといわれる[166]衆議院議長大野伴睦も自由党幹事長・林譲治さえ知らなかった[167]。選挙資金の準備が整う前に抜き打ち解散をすれば、自由党の圧勝、鳩山一郎一派への大打撃になると池田が読んで吉田に進言したものであるが[165]、自身の選挙も危ないという事情が一番にあった。当時公職追放を解除された恩人の賀屋興宣は東京から出馬することになったが[168]永野護が同じ広島2区から立候補することになり、石橋湛山が当時盛んに池田財政の非を訴え、広島にも乗り込んで煽っていた[169]。講和の下交渉の際に打診していた日本の国際復興開発銀行世界銀行)と国際通貨基金 (IMF) 加盟が認められ、抜き打ち解散に伴う選挙中の9月にメキシコシティで開催された総会に宮澤を伴い出席[170][171]。ユージン・ブラック世界銀行総裁に只見川の電源開発資金(只見特定地域総合開発計画)の借り入れを打診し賛同を得た[170]。またスナイダーアメリカ合衆国財務長官とドッジ国務長官顧問から後にMSA交渉で展開される軍事援助の問題を伝えられた[172]。一本立ちした日本の大蔵大臣として、世界各国の蔵相や中央銀行総裁と、初めて対等の立場で物が言えた[173]。池田は数多い外遊の中でも晩年までこのメキシコ行を懐かしんだという[173]

しかし帰国すると吉田一派と鳩山一派の対立は、手が付けられない状態となっており、やむなく池田と広川弘禅農相とで、吉田批判の元凶と目した石橋と河野一郎除名処分を強引に決め[174]、吉田に進言して実行させた[174]。当時、林譲治益谷秀次大野伴睦の「吉田御三家」といえども、池田、佐藤栄作という新興勢力を抑えられなくなっていた[175]

同年10月30日に発足した第4次吉田内閣では、通商産業大臣と経済審議庁長官を兼務し入閣した。この時、電力の分割民営化を目指す松永安左エ門が、三鬼隆水野成夫工藤昭四郎らの電力統合派と争うが、多勢に無勢で敗北濃厚となり[176]、通産大臣の池田に直談判して来た[177][178][179]。池田は松永の熱意に驚き協力を約束して形勢が逆転、その後分割民営化(九電力体制)が成された[178][180]。これをきっかけに、松永が池田を可愛がるようになった[176]。松永との関係が後の水主火従から火主水従というエネルギー切り替えに繋がった[181]。同年11月27日加藤勘十(社会党)の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」とまた問題発言をしたため[156][157]、翌日に野党が不信任決議案を提出した。吉田政権は与党内に激しく対立する反主流派を抱えており、その一部が採決時に欠席したことにより、不信任案が可決された[182]日本国憲法下での唯一の閣僚不信任決議である。閣僚不信任決議に法的拘束力はないが、無視した場合には内閣不信任決議にもつながりかねない状況であったため[注釈 4]、池田は決議に従って大臣を辞任した。このとき、中小企業の育成に尽くしてきたという自負から、池田は発言を撤回しなかった。

雌伏期から自民党の大物政治家へ[編集]

失言の度に、大衆の反逆に遭ったことから、いかに大衆と結びつくべきかを考え、後の大衆に向けてのサービス精神を養った[183]。この不信任案が可決したとき、池田の党人グループが「池田を慰める会」を設け、定期的に会合を開くようになった[184]。当時は会合に料亭を使うという風習はなく、会合は池田邸でやったという[185]。この頃から池田は派閥を作ろうという気を持ち「将来、おれを総理にやるんだ」といい始めた[184]。また玉置敬三通産事務次官から、白州次郎一派で「永山天皇」として通商産業省権力を振るっていた通産省初代大臣官房永山時雄の追い出しを要請され、退任の際、後任の向井忠晴に永山を辞めさせるよう申し送った[186]。同じ頃、白州が吉田をおおっぴらに批判したため、白州は吉田に嫌われ力を失い、永山も失脚して1953年1月、永山は官房長を外された[186]。白州は1974年8月19日の『ジャパンタイムズ』に記事が載るまでその後は人目につくこともなかったといわれる[186]

「農地法」の制定[編集]

戦後GHQは保守化した農村を共産主義からの防波堤にしようと「農地法」の制定を農林省に命じた[187][188]。与党自由党や農林省は反対したが、GHQと同様の考えを持っていた池田は保守の支持基盤ができると考え、池田の強い働きかけによって同法は1952年7月成立した[187]。「農地法」の制定によって農地改革による零細な農業構造が固定され、規模拡大による農業発展の道は閉ざされた[187]。戦前から有力だった農村の共産主義、社会主義勢力は消滅し、農村は保守化した[187]。池田の狙いは見事に実現し[187]、保守化した農家・農村は農協によって組織化され、農協が自民党の集票基盤になった[187]。農協は自民党政権下で、最大の圧力団体となっていった[187]
その後も党・政府の要職を歴任する。 1953年自由党政調会長に就任。松野頼三は池田の下で政調副会長として鍛えられ、政策通としての素地を作った[159]。松野は「政調会長は権威がないかも知れないけど池田は権威があった。大蔵大臣は何をしているのだろうと思うくらい、全部池田がやっていた」と述べている[189]

池田・ロバートソン会談[編集]

1953年5月、MSA問題が表面化[190][191]。MSAとはアメリカが1951年10月に作った相互安全保障法のことで、対外経済援助とアメリカの世界軍事体制を結合させる役割を担うものだったが、アメリカはこのMSA援助を日本にも適用し、日本の再軍備を促進したいと望んだ[190]朝鮮戦争休戦の結果、過剰となった兵器を日本に渡し、日本の防衛力を増大することは、アメリカにとって一石二鳥の妙案だった[190]。これに対して日本側では、財界朝鮮特需に代わる経済特需をこのMSA援助に期待して乗り気を示していた。ここでは日本再軍備に重点を置くアメリカ側と、経済援助引き出しを狙う日本側の思惑が明らかに食い違っていた[192]ダレス国務長官は同年7月、「保安隊が最終的には35万人に増強されることを必要とするというのが、アメリカの現在持っている暫定的構想である」と述べ[193]、8月来日の際、吉田にこの35万人増強を持ち出したが、吉田はこれに応じなかった[190]。吉田はMSA受け入れの前提として、防衛問題と経済援助で日米間の意見調整をはかる必要があると考え、経済に明るい腹心の池田の派米を決意した[190][191]。その前に日本側の立場を強化するため、再軍備を主張する改進党と協調する必要を認め[190]、池田が大麻唯男とのパイプを使い、吉田と重光葵改進党総裁との会談を実現させた[194][195]。前述のようにアメリカは創設にあたり35万人規模の体制を要求してきたが[196]、吉田は防衛に金をかけたくなく、池田にアメリカ側の主張を値切る理屈を考え出すように命じた[196]。池田は軍事問題には素人のため、当時大蔵省に出入りしていた元海軍嘱託の天川勇に知恵を出させた[197]。この天川の知恵でアメリカ側と折衝し自衛隊は最終的に18万人体制になったといわれる[198]。しかし池田の渡米に対して、国会で不信任を受けた人間をなぜ起用するのかという反発が強く、首相の個人特使という性格の曖昧さも野党から突かれ難航し、当初3月下旬を予定していた渡米は延期されたが[193]、1953年10月1日、吉田の個人特使の名目で、吉田政権下で三度目の渡米[191]。宮澤と愛知揆一が同行[199]池田・ロバートソン会談再軍備を巡る交渉(MSA協定)を行う[200][201]。池田は大蔵省の側近グループと作成した「防衛力五ヵ年計画池田私案」を提示[202]。交渉はまるで日米戦争だったといわれる[199]。当時ワシントンD.C.にいた改進党中曽根康弘は交渉が始まって20日もたった10月20日付けの『産経新聞』に「苦境に立つ池田特使」と題した一文を寄せ「ミッドウェー海戦に於ける日本艦隊のようだ。情勢判断の誤りとそれに基づく準備不足」などと辛辣に批判した[193]。しかしアメリカ側の10師団32.5万人、フリゲート艦18隻、航空兵力800機の要求に対して最終的に、10師団18万人の陸上部隊とフリゲート艦10隻、航空兵力518機を5年間で整備という池田の主張が受け入れられた[191][201][203]。またMSA援助による5000万ドルの余剰農産物を受け入れ、その売上げを産業資金に貸し出すことを定めた[192][204][205][206][207]。憲法、経済、予算その他の制約に留意しつつ、自衛力増強の努力を続けると約束し日米間の合意が成立[208]、アメリカ側も日本の努力を認めて、駐留軍を順次撤退させていった[209]。この会談によって敷かれたレールに沿って1954年3月、MSA関係四協定が調印され、防衛庁新設と、陸上自衛隊海上自衛隊航空自衛隊の三自衛隊を発足させる防衛二法が国会に提出され、6月同協定に伴う秘密保護法と防衛二法の公布により、一連の安全保障体制が完結をみた[191][210]。池田は吉田派内部で新たな指導者として台頭しつつあるとアメリカ政府の注目を浴びた[211]

MSA法は朝鮮戦争に対応した反共軍事同盟の形成を目的としたものであったが、それは友好国のアメリカへの政治的経済的従属を強要するものでもあった[212]。アメリカは1951年のMSA法第550条に農産物取引の一項を加えて新たな余剰農産物輸出機構を創設[212]。MSA法の趣旨は農産物取引条件にも貫徹しており、軍事的性格を持った農産物取引であったが[212]、1954年からこれを日本にも関与してきた。同年3月のMSA協定調印によって日本は小麦60万トンや大麦11万6000トン、脱脂粉乳など総額5000万ドルのアメリカの余剰農産物を受け入れ[192][204][205][206][207]、それを三菱商事兼松日清製粉などに販売しその代金を積み立て(見返り資金)[213][206][214]、4000万ドルはアメリカ側の取り分として日本に対する軍事援助などに使われ、残り1000万ドルが日本側の取り分として経済復興に使われた[192][204][206][215]。先の自衛隊の発足、再軍備化はこのアメリカの余剰農産物を活用したものであった[213]。アメリカとしても将来的に余剰農産物の有力なはけ口としての日本を念頭においての戦略でもあった[213]。このとき受け入れた小麦のことを通称「MSA小麦」と呼び[213]、この小麦を国内で消費するため厚生省は粉食奨励を「栄養改善運動」の柱にして、学校給食ではパンミルクの給食を定着させ、パン食普及に力を入れた[213]。これは終戦直後の食糧難打開のための代用食としての粉食奨励とは違い、積極的に粉食の優位性を説いた運動であり、ここから学校給食のパン食、及び日本の食生活にパン食が入り込み、日本人の食生活が顕著に欧米化した[213][216]。同時に主食がパンとなるとおかず味噌汁漬物というわけにもいかず、どうしても牛乳肉類、油料理、乳製品という欧米型食生活の傾向となるが、これら食材の供給元であるアメリカの狙いもそこにあった[213]。1954年7月、アイゼンハワー米大統領はMSAを改定し、PL480法案(通称:余剰農産物処理法、正式名称:農業貿易促進援助法)を成立させ、余剰農産物処理をさらに強力に推し進める作戦に出て、最も有望な市場と見られたのが日本であった[213]。当時の日本は戦後復興の足がかりとして、愛知用水八郎潟干拓電源開発事業などの大型プロジェクトを実現させる必要に迫られており、この余剰農産物を受け入れた[213]。以後日本の小麦輸入は飛躍的に高まり、安価な外国産小麦の大量輸入で、太刀打ちできない日本の小麦生産農家は生産意欲をなくした[213]。余剰農産物はさらに米10万トン、葉タバコ4000トン、飼料11万トンの購入も強要され[212]、1955年に8500万ドル、1956年に6580万ドル分の余剰農産物を購入させられた[212]。購入代金の多くは在日米軍基地増強に企てられ、日本はアメリカの東南アジア市場支配の一拠点に完全に組み込まれることになった[212]。余剰農産物の輸入は日本の戦後農政に多面的に影響を与えた[212]。日本の米離れ、食料自給率低下もここを始まりとしており[217]、逆にアメリカは自国の農産物を長期的に継続して日本に輸出する道をここから開き、その後の日米間の農産物貿易自由化を推進させたのである[213]

さらに、池田・ロバートソン会談の中で池田が主張したといわれる[211]、「日本政府は教育および広報によって日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任をもつものである」という一文があり[218]、これが戦後の学校教育に大きな影響を及ぼしたといわれる[219][220]1954年の第19回通常国会で「MSA協定」と共に審議可決されたのが、逆コースといわれた政治反動を象徴する「新警察法」と「教育二法」で[221]、「教育二法」は、地方公務員である教職員の政治活動を国家公務員並みに禁止し「教え子をふたたび戦場に送るな」のスローガンのもとに、再軍備反対・平和教育を進めてきた日教組の影響を排除することを狙いとしたもので、その背後には、先の「愛国心と自衛のための自発的精神」を助長する措置の一環といわれた[221]。その後も1958年8月、学習指導要領の改定に先駆けた小中学校に道徳の授業が、1960年10月から高校の社会科の授業に「倫理」という科目が置かれ、1958年、学習指導要領における「日の丸・君が代」条項が新設されるなどした[219][220]。池田・ロバートソン会談は、戦後日本の大きな転換期でもあった[213]

政界再編成と宏池会の結成[編集]

1954年の造船疑獄東京地検は、政治資金が豊かな池田と佐藤栄作に焦点を当てて捜査を進めたが[222]、佐藤が逮捕寸前に犬養健法相指揮権発動によって逮捕を免れ、事件そのものがうやむやになって池田の関与の有無も判然としないまま終息した[222][223]。この事件で池田は参考人として事情聴取を受けたにも拘らず[224]、5ヵ月後の同年7月26日、佐藤の後任として自由党幹事長(12月29日まで)に就任[222]。吉田政権の最後を看取る幹事長になったのは、後のために貴重な経験となった[75]。同年、重光、鳩山一郎三木武吉松村謙三らによる新党結成(日本民主党)の動きを見て、幹事長として自由党丸ごと新党なだれ込みを策したが、吉田退陣を明確にしなければ自由党丸ごとの合流は認めないと拒否され、新党に近づく岸信介石橋湛山を自由党から除名した[195][225]。石橋は恩人ではあるが、反吉田派と吉田派という立場で長く敵対関係にあり[226]、この時点で深い亀裂が生じていた[226]1955年保守合同に参加することは、鳩山一郎を擁する三木武吉や河野一郎、岸信介らの軍門に下ることになり吉田派は迷った[227]。池田は反対グループの中心的存在だったが[228]、現実的に判断し吉田派全体を長老の林譲治益谷秀次とともにまとめて自由民主党に参加する[222][229]。吉田にも入党を勧めたが佐藤栄作が反対し、吉田と佐藤は無所属になった(吉田・佐藤の自民党入党は1957年2月)[222]

1954年12月から1956年12月までの鳩山内閣の二年間は、完全に冷や飯を食わされた状態になる[230]。また鳩山政権下で吉田派は池田と佐藤の両派に次第に割れてゆく[231]。1954年の第1次鳩山一郎内閣から1956年の第3次鳩山一郎内閣まで大蔵大臣を務めた一万田尚登へ、背後から大蔵省に影響力を行使して嫌がらせをした[232]。池田は一万田とは比較にならないほどの政治力を持っていた[232]。但し1956年5月の日比賠償協定締結には、藤山愛一郎に頼まれ、強く反対する大蔵省を抑えるなど協力している[233]。吉田一派は親米嫌ソだったため、日ソ国交回復の際には、池田は「人気取りの思い付き外交、しかも国際的地位を傷つける二元外交」などと激しく反対し[234]、「モスクワに行くなら脱党だ」と息巻いたが、前尾がやっとの思いでなだめ思いとどまらせた[235]ドッジ、吉田という二人の強力な庇護者が権力を喪失した上、保守合同による新党結成の働きが大であった緒方竹虎という強力なライバルの台頭により、池田は鳴かず飛ばずの状態になった[222]。保守合同の過程とこの後の岸内閣期に池田は岸と対立、または妥協したが、それには次期首相への伏線が張られていた[236]

1956年12月の鳩山一郎首相の退陣で池田は石井派に加担し総参謀長になった[237]。石井派は文教や財政の専門家は多いが党務の経験者がおらず、短期間でも自由党幹事長を務めた外様格の池田系が帷幕に入って、諸兵指揮もすれば、票読みもするし、石井の母屋を取るような格好となった[237]。池田は二年ぶりの戦機に興奮、しかし石井を支持するというより、岸・河野に一矢報いたいという怨念の虜になっていた[237]。岸反対で共通する石橋支持派と石井支持派の一本化に奔走し、石橋派の参謀・三木武夫と二、三位連合の政略を立てた仕掛けが成功[41]石橋湛山決戦投票で岸を僅差で破り政変が起きた[238]。第一回投票で池田ら自由党系の支持が厚く二位になると思われていた石井が三位に落ちたことから、二、三位連合で勝てると確信した池田は、石井派の参謀ながら、石橋が二位になるよう自派の票を石橋に流したといわれる[239]。石橋が総理になった方が、自身が蔵相として復帰できるという計算が働いたとされる[239]。土壇場で裏切られた石井は池田の相当な寝業師ぶりに気付き池田を決して許さないと言っていたといわれる[239]。確執も一時はあったが、ここで恩人でもある石橋に恩を返した形となった[41]。池田の石橋支持や石橋の総理就任は、アメリカのコントロール外にあったとされる[240]この時の総裁選挙で、佐藤は石井を擁した池田と別れ、吉田派を池田と争奪しながら実兄岸の戦力となった[241]。もと吉田門下として同根の池田派佐藤派の対立がここから生じ、また岸の下で河野と佐藤の競合もここから始まった[241]

同年12月23日に成立した石橋内閣で、石橋首相は積極財政を展開するため蔵相に池田を起用しようとし[242]、党内から猛反発を受けたが「他の人事は一切譲ってもいいから」と池田蔵相に固執し大蔵大臣を引き受け、石橋・池田コンビは「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出す[243][244][注釈 5]。この「1000億円施策、1000億円減税」というアイデアは、決戦投票後に池田が石橋に伝え、石橋が概ね賛成した[245]。1961年から1964年までアメリカの大統領経済諮問委員会議長を務めたウォルター・ヘラーが後にケネディの減税政策にこのキャッチフレーズを真似たともいわれる[246]。しかし同内閣が二ヶ月の短命に終わり、池田も後継候補に挙がったが党内の抵抗があり[247]、石橋の療養中に臨時首相代理を務めた外相の岸を石橋が後継に指名した[247]

1957年2月、第1次岸内閣となり、政敵の岸[248]に抱き込まれ大蔵大臣を引き継ぐ[249]。岸は、金融政策を含め、経済政策を池田任せにした[249]。ここで岸とコンビを組み、政官一体を演出するが[250]1957年7月の内閣改造で、岸が日銀寄りの一万田尚登を蔵相に起用。池田は他ポストへ横滑りを要請されたが「蔵相以外はノー」と蹴飛ばし閣外に出て党内野党に転じる[251]。しかしこの雌状期に池田を支える後援組織が整い、政権への道が地固めされていく[252]。それは政治力だけでなく、後の「所得倍増計画」に繋がる池田の政策路線が確立される過程でもあった[252]。すなわち、健全財政と積極主義とを結びつける理論的裏付け、そして世論を取り込む政治的スローガンの獲得であった[252]1957年10月頃には旧自由党の吉田派を佐藤栄作と分ける形で自らの政策集団派閥である宏池会を結成した[注釈 6]。宏池会は経済を旗印にした初めての政策集団であり[253][254][255]自民党派閥の原点といわれる[256]。宏池会は1957年10月に機関紙「進路」を発刊し公然と派閥を旗揚げした[257]。これを見た自民党執行部が、岸の意向を受けて「党内の派閥を解消すべきだ」と唱えだした。国民が自民党内の"派閥"の存在を明確な図式として意識するようになったのはこの時からだった[257]

宏池会の政策研究会「木曜会」のメンバーだった下村治をはじめとするエコノミストや官僚系議員たちとともに、この頃から「所得倍増」のもととなる政策構想を練り上げていく[258][259][260]。下村ら研究会の論争は宏池会事務局長・田村敏雄を通じて池田に報告された[261]。池田の"勘"と下村の"理論"を結びつけたのは田村で[262]、三人の独特の結びつきの中から『所得倍増』は生み出されたといわれる[262]。池田は大蔵省の税務畑を歩き、その実務に通暁していた[263][264]。同時に数字について異常な関心と能力があり、経済現象の予見を可能にした[265]。池田の頭の中には、数字で構成された世界ができていた[266]。下村たちの理論が池田の頭脳の中で強い反応を起こして導き出されたのが「所得倍増論」である[267]

また財界人のバックアップも、この時期強化された[62]。池田は大蔵省出身者の集まりは勿論、桜田武永野重雄近藤荒樹小田原大造廿日出要之進といった広島出身者[268]奥村綱雄太田垣士郎堀田庄三堀江薫雄ら、五高や京大の学閥の集まりや支援者を既に持っていた[269]。他に政権を明け渡し大磯に隠遁していた吉田が「池田の将来のため、みんなで応援してくれないか」と財界人に声をかけて作られた「末広会」という財界四天王を中心として集まったものや[270]松永安左ヱ門が池田の支持者を集めて作った「火曜会」などがあり[270][271]、これほどの人脈が参集したケースは歴代内閣でも例を見ないといわれた[17]。特に池田と同じ明治32年の亥年生まれで集まる小林中ら「二黒会」のメンバーとは親密な付き合いだった[272]。経済担当相を歴任した池田は、財界とのつながりが深く、財界も特に戦後の資本主義的再建に果たした池田の手腕を高く買っていた[273]。吉田やドッジの庇護から自立しながら政治的地位を引き上げなければならなくなった池田は、異能なブレーンやアドバイザーを多く擁して足場を固めていく[62][274]。また保守合同をめぐり佐藤との関係が複雑になり[275]、佐藤の実兄の岸が総理になったことで吉田とも距離を置くようになった[276]

1958年話し合い解散による同年5月の総選挙では、岸派、佐藤派、河野派、大野派の主流四派から外された池田派は、自民党から公認が得られず、大半が非公認のまま選挙を戦った[277]。池田は自派全ての候補者の応援に回り、のちに夫人が秘書に「あんな強行日程は組まないで欲しい」と言われたほどの昼夜兼行、夜汽車の連続で、ほとんど休息する時間もない強行軍の日程ではあったが、その甲斐もあり、その中から50名の池田派が生まれた[277]。これも池田が政界に飛躍する大きな出来事だった[277]。岸派57名に次ぐ50名当選という池田派大勝利に第2次岸内閣では、副総理か、幹事長か、総務会長かなと期待したが、組閣が進んでも全く声がかからず。主流四派で組閣を進め、池田には最後に防衛庁長官を提示された[277]。しかし岸政権への協力が政権獲得の近道と見て、無任所の国務大臣を引き受ける[249]。11月、アメリカシアトルで開催されたコロンボ会議に出席し、アメリカの中間選挙で大勝したアメリカ民主党財務長官・ジョン・W・シュナイダーにお祝いを言った際、後に標語として用いた「寛容と忍耐」という言葉をシュナイダーから聞いたと言われる(諸説あり[278]。反岸を鮮明にし同年12月31日大晦日、岸の警職法改正案の審議をめぐる国会混乱の責任を迫り、池田、三木武夫灘尾弘吉の三閣僚で申し合わせ、揃って辞表を叩きつける前例のない閣僚辞任を画策[25][279][280]。岸が辞任を認めないため、今度は反主流派三派、池田、三木、石井らで刷新懇談会を作るなどして岸と主流四派を揺さぶり[281]安保の改定を「二段階論」で考えていた岸政権を潰すため、三木や河野一郎らと謀り、そろって「同時大幅改定」を主張し無理難題をふっかけた[282]。保守合同以来、はじめての自民党分裂の危機だった[283]。岸は安保改定の強硬イメージがあるが、決断力や自主性が乏しく、党内の主流、反主流間の確執を煽り立て[284]、あっちと組んだり、こっちと組んだり、手練手管で政権維持に努めた[285]

1959年2月22日、郷里の広島に戻り、広島市立袋町小学校の講堂で行われた時局演説会にて、後に歴史的キャッチコピーとも評される「所得倍増計画」「月給倍増論」を初めて口にした[286][287][288]。満員の聴衆に語りかけると聴衆席に爆笑が起こり、いつもの池田の大風呂敷か放言癖としか受け止められなかったが[289]、この演説こそが、経済大国に向け日本が走り出す号砲だった[290]。広島からの帰途、大阪に立ち寄り、100人余りの関西財界人の前で再び「月給倍増論」を唱えたが「春闘を控えて、いたずらに労働者側に甘い期待を抱かせることになる」「月給を二倍にすると、必ずインフレになる。無理に生産力を伸ばせば、輸入が激増し国際収支が大幅赤字になる」といった反対論が噴出した[291]。池田は誤解を解く必要あると思い、帰郷後3月9日の『日本経済新聞』朝刊「経済時評」の欄に「私の月給倍増論」と題する小論を発表した[292]。内容は「いま月給をすぐ二倍に引上げるというのではなく、国民の努力と政策のよろしきをえれば生産が向上する..せっかく力が充実し、国民経済が成長しようとしているのに、これを無理に抑えている..いま日本でインフレの心配は少しもない」というようなものだった[292][293]。同年6月18日第2次岸内閣改造内閣では、「悪魔の政治家の下にはつかん」と断言していたが[294]、岸が「陛下が、政局の安定、ひいては内閣の統一を希望している」と持ちかけ、忠臣池田を感動させた[295]、岸と佐藤の使い・田中角栄から「政局の安危は貴方の閣内協力にかかっております。天下のため入閣に踏み切って下さい。そうすれば次の政権は貴方のものです」と口説かれて[296]、あるいは影のブレーン・賀屋興宣が「内閣に入って首相を狙え」と口説かれたともいわれるが[297]、大平は「あの時は、1日に株が30円も下がって、内閣改造がもう1日のびたら岸さんは、これを投げ出すという段階に来ていたから、再入閣は私がすすめた」と話している[298]。大平以外の側近は「たった半年で変節したら世間から何と言われるか」などと猛反対していたが[287][299]、池田自身も後述する理由から無視して通産大臣に就任した[25]。保守政界の一方の雄として政治家池田の擡頭を印象付けたが[249]、ここで岸内閣の閣内にいたことは大きな意味を持った(詳細は後述)。安保闘争が激化した同年6月には、自衛隊治安出動を強く主張した[300][301]。治安出動に強硬だった のは、池田と川島正次郎幹事長だった[302]

内閣総理大臣[編集]

第一次池田内閣

安保闘争と差し違えで倒れた岸内閣の後継として、池田は1960年7月19日に内閣総理大臣に就任、第1次池田内閣が発足する。池田政権はその後、二度の解散総選挙と四度の内閣改造を経て、1964年11月9日まで続く長期政権となった。

池田は安保闘争の時の強硬的な立場から、安保改定を強引に押し通した岸政権の亜流になるのではないかとみられていた。しかし、池田は60年安保を通じて、テレビをはじめとするメディアが大衆の世論形成に影響を与えることを肌で実感し、それを逆に利用する戦略をとる。吉田内閣時代や安保闘争で定着していた自身の反庶民的・高圧的なイメージを払拭することに努め、「低姿勢」、「寛容と忍耐」の信条をテレビを通じて国民に見せ、「庶民派」を演出した。一方、重要政策と見られていた安保・外交や憲法などを封印し、数年来自身のブレーンらとともに懐で温めていた「所得倍増計画」を池田内閣の目玉政策として発表、日本の社会を「政治の季節」から「経済の時代」へ巧みに転換した。更に、内閣総理大臣官房広報室(現・内閣府大臣官房政府広報室)の機能を拡充させ、現在のタウンミーティングのはしり(当時は「一日内閣」と呼称)も行われた。

1960年11月の総選挙では、当初は安保を争点とするつもりであった社会党など野党もあわてて経済政策を前面に出すなど、選挙戦は自民党のベースで進み、結果は戦後最高となる301議席、自民党の圧勝であった。更に、社会党は得意としていた「貧困対策」を自民党の「所得倍増計画」で先取りされ、安保闘争からの党勢拡大の勢いが頭打ちとなり、結局社会党は自民党を議席数で上回ることが一度もなかった。

また、所得倍増政策の一環として、国土計画の第一歩である「全国総合開発計画」(全総)を発表(1962年10月)、太平洋ベルト地帯の形成を始め、政府主導のインフラ設備投資が始まる。後に、自民党の政治家と後援会は選挙区への公共事業の誘導で密接なつながりを形成し、自民党は70年代の派閥政治へと向かってゆく。

通商政策としては、自由貿易が日本の先進国入りには不可欠であるとの認識を持っており。首相在任中に、輸入自由化率を43%から西欧諸国並みの93%にまで引き上げた)。池田は自由化を推し進めるために、選挙区内のレモン農家までを敵に回した。更に、石油の輸入自由化によって石炭は斜陽産業となり、炭労や社会党の打撃となった。その一方で、労働者保護のための社会保障政策の拡充も成し遂げられる。

文部行政としては、それまでの文科系学問の優遇(国庫補助など)を改め、技術革新による経済成長に対応させるために、医学をはじめ理工系を重要視した予算を組んだ。また、高等専門学校(高専)の設置も進んだ。

第一次産業に関しては、1961年に農業基本法を成立させ、遅れていた農業の近代化に取り組んだ。この政策においても、利益団体との癒着が見られるようになる。

退陣、死去[編集]

池田の墓

1964年9月9日国立がんセンター喉頭癌の治療のため入院。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。政治家、とりわけ首相や実力者の病気は政局変動の要因になるため、病気がひた隠しされることが通例であるが、池田の場合も側近が、癌であることをひた隠し通した上で、任期を残して退陣する演出を行った[303]東京オリンピック閉会式の翌日の10月25日に退陣を表明し、11月9日議員総会にて後継総裁として佐藤栄作を指名した[304][注釈 7]。後継総裁選びを、退陣予定の総裁の指名に委ねた戦前・戦後を通じて最初のケースであった(その後も、1987年10月の中曽根裁定の一例があるのみ)。

その後療養に努めたが、翌1965年8月13日死去。享年65。

評価[編集]

政権発足時に秘書の伊藤昌哉が「総理になったら何をなさいますか」と尋ねると、池田は「経済政策しかないじゃないか。所得倍増でいくんだ」と答えた[305][306]。伊藤は池田が本気で「所得倍増計画」に取り組むとは思っていなかった[306]。側近の前尾繁三郎も大平も宮澤も反対した[307]。財界も池田は切り札だから、安保のような状態で泥まみれにして殺してしまうのはまずいと考えていた[161]。しかし池田は「火中の栗を拾う。これで駄目でも結構だ」と腹をくくった[161]。また「国民の人心を一新するためには経済政策しかない」との強い使命感を抱いていた[308]。時代は安保闘争で大揺れ[309]大内兵衛は「世界は第三次世界大戦をやって人類が滅亡するか、それとも平和共存で行くのかの追分に直面し、日本も昭和56年満州事変のはじまる当時と似ている」と表現した時代の転換期[288][306]ブリティッシュコロンビア大学教授・フランク・C・ラングドンも、著書『戦後の日本外交』の中で「日本にとって1960年は、終戦以来最大の危機に陥った年であった」と書いた[310]。池田が首相に就任した時、果たさねばならぬ課題は、恐ろしく難しく、実現不可能とすら思われていた[310]。池田内閣は"岸亜流内閣"になるんじゃないかというのが世間一般の見方だった[311]。池田が岸の裏返しに出てくるとは、誰も考えていなかった[311]。岸とは正反対の政治姿勢を打ち出した池田に、第2次岸内閣 (改造)科学技術庁長官だった中曽根康弘は「安保閣議の際の池田氏の言動からは予想し得なかった」と驚いたと述べている[312]。この難局をまさか経済のことで乗り切れると想像する人はいなかった[306]。貿易自由化を進めて日本を重化学工業の国として高度成長させると提唱しても、当時は日本が欧米先進国に伍して、世界市場で競争しようとするなどということは無謀だと思われていた時代[313]。貿易自由化などは日本市場をいたずらに欧米製品の餌食にするだけで、資本力の弱い日本の産業はすべて欧米の巨大資本に踏み潰され、下請けの部品メーカーになって生き延びられれば上出来と論じられていた[313]。精密な軽工業製品と酪農観光で生きる"東洋のスイス"という、敗戦直後に社会党首班の片山哲内閣が描いたヴィジョンは、まだ根強く生き残っていた[313]藤井信幸は「岸は新安保条約の強行採択で国家と国民の間に対立を生んだが、池田は所得倍増という民間に自由にやらせる開放的な経済政策を打ち出すことで国家と国民を結びつけることに成功しました。強兵なき富国を実現する最善のシステムは資本主義だという思いとともに、戦時を過ごしてきたことからくる『やり返すんだ』というルサンチマンもあったと思います」と述べている[314]萩原延壽は「とりわけ対立するエネルギーが灼熱し、激突した安保闘争のあとであっただけに、言い換えれば、高度に政治的な季節のあとに訪れる"政治"についての倦怠感や疲労感を味わっていたときだけに、池田内閣が"国民所得倍増計画"において提供した"豊かな生活"というイメージは、いっそう新鮮なものとして国民の眼に映ったに違いない」などと述べている[315]。「給料を二倍にする」ー日本の歴代総理大臣でこんなに分かりやすい目標を打ちだした人はいない[316]。何よりも官僚をはじめ民間企業の経営者や労働者たちの気持ちを"成長マインド"に放り込んだことが功績として挙げられる[317]。また社会福祉の増進や農業政策にかなりの予算を振り向けた。それらは個々には批判の余地のあるものであったとしても、やはり強烈な政府指導がそこにあったといえる[317]内田健三は「池田政権こそは、古典的な保守政治支配の方式に、はじめて"管理"の概念を導入した政権だった」と論じている[318]。萩原延壽は「池田内閣の経済優先主義は、統治技術という点からみても、極めて巧妙なものであった。政治の分野における低姿勢にもかかわらず、経済の分野においては、極めて強気な態度をとり続けた。池田は1964年(政権最終年)元日の日経新聞の年頭所感で『日本経済の西欧水準への到達は、かつては遠い将来の夢に過ぎなかったが、今日では"倍増計画"最終年次からほど遠くない時期の可能性の問題に変わりつつある。明治維新以来の日本経済百年の歩みの中で解決できなかったことを、われわれはいま解決しようとしているのである』などと述べた。西欧水準への到達ということをもって、近代日本の歴史に於けるライトモティーフだと考えるならば、池田内閣は、明治維新以来の日本の"進歩的伝統"を継承する正統な嫡子であった」と評している[315]。「所得倍増政策」は、のちに宮澤が「結果として日本は非生産的な軍事支出を最小限にとどめて、ひたすら経済発展に励むことができた」と解説したように、日米安保条約に経済成長の手段という役割を与えることになった。いわゆる「安保効用論」は、安保条約体制も結局は豊かさの追求に従属するものだという安心感を誘い、安保に同意する人々の数を増やす効果を生んだ[317]御厨貴は「安保闘争の後、池田は『所得倍増』をスローガンに経済成長を唱え、それに続く佐藤の長期政権で"富国民"路線が定着した。吉田の弟子・池田、佐藤によって再軍備の問題はほぼ棚上げになった。戦前のように、予算の半分を軍事費に投じてたら、経済成長は簡単には遂げられなかった。日米安保体制の下で、自由な市場経済を守り通してきたことは、自民党の功績」[319]、「あのままいけば自民党も危なかったかもしれないけれど池田勇人政権で変わった。池田・佐藤で12年以上、2人のおかげで自民党は10年で終わるはずが60年も続いた」などと述べている[320]伊藤昌哉は「池田という人は経済を中心に政権に近づいたのですが、政治家と財政家がひとつである、という珍しいケースです。普通この両方は兼備しないものです。ケンカは好きですね。うまいですよ。政治的判断は素晴らしいものがありました。一旦決めたら動かない。それまでは柔軟な姿勢ですがね。あの激動期に頼りになる、それが経済の面でも現れる、財界人でも政界人にもファンができるわけです。『所得倍増政策』を成功させたものは、下村の理論と勉強会と池田の鋭いカンです。政治の上に経済学的な科学性を導入した。それまでの政治はいわば腹芸だった。この科学的な政策によって、池田が革命期とも激動期ともいえる一時代を開き得た。あの頃"所得倍増"なんて誰も信じてませんでしたよ」[17]、「いちばん重要なことはオリエンテイションです。こっちへ行けばいいんだと示した点で、池田は大変大きな仕事をしたと思います。そのことから外交問題を解決する経済力が出てくるわけです。池田は経済合理主義という形で政治というものを変えた。これはそれまでの政治には全然なかったと思います」などと述べている[161]。やるにしても「日本は自由主義経済の国。所得倍増計画の"計画"という言葉は不適当では。別の言い方に変えた方がいいと思います」と大平が進言すると池田は「何を言うか。"計画"と謳うから国民は付いてくるんだ。外すわけにはいかん」と一蹴した[321]武田晴人は「"所得倍増計画"という巧みなレトリックによって、民間企業の投資行動の背中を押すとともに、経済諸政策の立案の焦点を明確化し、高成長の実現を目標として、これを前提として創造的な活動を次々生み出すこととなった」と評している[322]黒金泰美は「"所得倍増計画"というのは空前絶後の選挙用スローガンだった。あの言葉を聞いただけで、なんだかみんな金持ちになれるような気になってしまう。とにかく明るい感じにさせる力がありました」と述べている[323]橋本治は「"所得倍増計画"という、えげつない名前の政策は"新時代の始まり"だった。戦後という貧乏を克服し、その後に訪れる"新しい時代"の素晴らしさを語ろうとする時、"月給が倍になる"は、いたって分かりやすい表現だった。人は、その分かりやすさに魅せられたのだ」と述べている[324]。安保騒動で政治不信に陥っていた日本人一人ひとりに、自らが豊かになる道筋を実感させた[254]。大胆とも思える数値目標を挙げて次代の日本の姿を示した点が評価される[325]

60年安保で高揚した「反体制」「反政府」のエネルギーは、池田内閣のさまざまな施策の前に、なし崩し的に拡散した[310]。「反体制」の闘争が最も激しかった6月から、まだ半年ほどしか経っていない1960年12月、反対運動の理論的支柱の一人と目されていた法政大学助教授松下圭一は『朝日ジャーナル』に「安保直後の政治状況」という論文を書き「池田内閣は"安保から経済成長へと完全に政治気流のチェンジオブペースをやってのけたかのごとき観"がある」と、ある種の無念さを込めて記した[310]。日本中が左翼のようになり、インテリは早く共産主義革命が起きて欲しいと考えていたような時代に[326]、池田が混乱した社会を安定化させようと「所得倍増計画」のような、資本主義のままで年収を二倍にするという政策を打ち出して、本当にそれが実現してしまったので、革命前夜みたいな状況がリアルな革命運動に向かっていかなかったとも論じられる[326]高畠通敏は「池田内閣が安保の教訓を踏まえながら保守党の新しい路線として、戦前への逆コースの夢を捨てる。憲法改正をあきらめ、戦後の新しい現実に即してマイホームという形での私生活解放を認め、その上に立つ繁栄と成長としての自民党という路線を打ち出す。私はそのとき、国内における戦後は、基本的に終わったと思います。そこから戦後のあとの時代が始まった。また60年安保を支えた戦後革新勢力の分解も始まった。池田路線は戦前的な体質を持った佐藤内閣でも実質的には継承された。つまり60年代を通じて持続されたわけですが、その中で国民の私生活の解放、欲望の肯定を経済大国の形成へ編成しなおしていった。戦後民主主義は圧力民主主義に、平和主義はマイホームの平和へと風化し、労働運動春闘の儀式として収斂する。60年代の運動を支えてきた民衆はその中に巻き込まれて分解していった。池田内閣の路線転換に沿って60年代に発展した知識人の特徴的な政治思想現実主義でした」などと述べている[327]。岸以前の吉田茂・鳩山一郎の関心はもっぱら独立と戦後処理の外交で、内政面での政策はほぼ各省の立案に従っていた[328]。吉田内閣は講和独立、鳩山内閣は日ソ国交回復、岸内閣は安保改定と、歴代内閣はいずれもハイポリティックスのレベルで大きな課題を処理してきたため、池田も当然、政治・軍事を中心とする外交の手腕が問われると考えられていた[306]。今でこそ、経済成長を掲げる首相は珍しくないが[329]、池田まで経済政策を全面に押し出す首相はいなかった[330][331]。池田は政治に経済を持ち込んだ初めての政治家だった[290]。池田は独自のブレーンによって政策を構想し、政権に就任するとそれを実行するスタイルを初めて明確にした[330][332]。池田は「日本らしさ=経済」に変えていく青写真を持ち、軍隊のない日本は、政治よりも経済をアイデンティティーにすべきという明確なビジョンを持っていた[331][306][333]。政治から経済成長への"チェンジオブペース"を見事に演出した池田は、日本の経済成長が、日米安保の存在により軽軍備に抑えられていたからこそ可能になったという「日米安保効用論」を打ち出すことによって、安保の問題を経済成長に取り込んだのである[334]

池田はそれ以前の首相にような戦前に政治活動歴がなく[300]、敗戦後に政界に入った政治家としては、最初の首相であり、その意味では厳密な意味での「戦後派首相」第1号である[335]。それまでの歴代首相には多かれ少なかれ、戦前回帰型の発想が見られたが、池田は「所得倍増論」を提起することによって、経済成長中心の「戦後型政治」を軌道に乗せた[336][337]。とかく「ゼニカネのこと」を軽視、蔑視しがちだった、それまでの政治指導者とは、ひと味違った政治目標を掲げたといえる[336]。岸が「政治の季節」を演出したとすれば、池田は「経済の季節」にギアを切り替え、日本が経済的実力を付けるのに貢献した[337][338]。これは戦後史の重大な局面転換であった[306]。自民党がこのように全く違った個性を持つ「総理・総裁」を起用して、国民の批判をかわす「振り子」の手法は金権批判の田中角栄からクリーンイメージの三木武夫へのバトンタッチした時にも使われ、自民党が長期政権を維持したカギの一つといえる[336][339][340]。池田はそれまでの内閣が必ずしも明示しなかった資本主義社会主義の優劣を政治争点として改めて国民に突きつけ、その選択を迫ったのであるが[341][306]、池田の「所得倍増計画」は肩肘張ったイデオロギー的な議論の対象としてではなく、さしたる抵抗もなく、あっさりと国民の間に浸透した[306][337]。池田政権が発足した1960年は終戦からまだ15年しか経っておらず、選挙権を持つ人全員が戦争の時代を直接知っていた。国民の間には、戦争や戦争を主導した政治権力に対する反発感・嫌悪感がまだ強かったにも関わらずである[342]。「所得倍増計画」は、戦後の首相が掲げたスローガンの中で、最もわかりやすく、かつ説得力もあった[343][344]。誰にでもわかる数字を駆使したことと、池田とそのブレーンたちの演出も効果的だった[306]高度経済成長は、1950年代後半から始まっていたが、ここに分かりやすい目標を得たことで一段と活気づいた[345]。政府が強気な成長見通しを明確に示したことで、民間企業は投資を拡大し、現実の高度成長を呼んだのである[345]。池田は発言でも舌渦事件を何度も引き起こすなど、歴代首相の話題性ナンバーワンだった[344]。官僚臭を感じさせない、庶民的でガラガラ声のキャラクターも、安保改定で騒然となった世情を一変させることに役立った[344]。あのガラガラ声とともに時代を強力にリードした[290]。池田はテレビを利用して政策をアピールした最初の首相でもあった[256][346]。国民の関心が専ら生活水準の向上に移っていた頃合いを見逃さなかったともいえる[347]。池田は政治を生活の延長にある祝祭空間と見て、その演出を試みる演出家だったとも評される[330]。池田は首相就任後の参議院予算委員会に於いて、所得を2倍にするのではなく、2倍になるような環境を作るのだと答弁した[348]。すなわち経済の成長は国民自身の努力によって実現するものであり、政府の任務は、かかる成長実現への努力を円滑に働かすことのできる環境と条件を整備することにあると明言した[348]。池田の最大の功績は、日本の国民に自信を与え、すすむべき方向を示したこととも評される[348]。「敗戦国」から高度成長を進め「経済大国」「先進国」に変貌していった日本に、そして日本国民のナショナリズムに居場所を与えた[349]森田実は「ケネディが日本に対しても干渉する考え方を取らなかったため、高度経済成長路線を打ち出した池田内閣の時期が(アメリカの支配を受けない)戦後日本で一番自立していた時期だった」と述べている[123]

宮澤喜一は「池田さんは占領時代にインフレから日本を救う過程で身につけた自由主義的市場経済の信念に加えて、ケインズ乗数理論を具体化して、投資→雇用・所得・消費→投資の循環と拡大を見事に日本経済の中に実現した」[350]、「"所得倍増計画"というのは、ケインズ理論を中心とした政策だが、日本の経済成長、工業化を通じて、完全雇用、高賃金になるという雰囲気をはっきり国民に植え付けて、政策的にそれを誘導したというのが、あの政策の値打ちでしょう。それが池田さんの功績だと思う。池田内閣の時、まさに日本が経済大国になる基礎ができた。戦争が終わって、外地から沢山の人が引き揚げてき、戦後の日本は深刻な失業問題を抱えていた。加えて日本は農業国だったし、この労働力が過剰にあったことが、日本の工業化ひいては所得倍増を可能にした」などと述べている[351]田中六助は「『国民所得倍増論』というのは、綿密な統計や数字に裏打ちされた政策体系であるが、その端緒を知る者としては、池田さんの意がどこにあったかが理解できる。すなわちそれは、戦後の復興が一段落し、新しい日本の行く道をどう考えるか、ということであり、それにはまず社会を繁栄させ、国民の生活を豊かにすることから始めるということである。それは池田さん自身の財政に対する反省でもあった。昭和30年頃の財政は約一兆円の規模だったが、池田さんは大蔵大臣として32年にそれを大きく突き破る一兆三百七十五億円という積極予算を組んだ。しかしその経験などから、国民に何でも与えるだけではだめだ、自分自身で稼ぎ出す所得を倍増する必要があるという思いが生まれたのであろう。『所得』とか『倍増』とか、あるいは詳細に計算された数字などに眩惑されると、経済至上主義とか、物質万能主義のように見えてしまうが、その原点にはモノで測れない『心』があり、政治哲学としての目標があった」と解説している[352]前尾繁三郎は「池田さんの功績は、総理大臣自ら先頭に立って推進したということ。それまで経済問題というのは、非常に抽象的で一般に分かりにくい感じだった。その経済問題を正面から政治問題としてクローズアップさせ、総理自ら数字を使って説明したり論争した。彼は数字に対する記憶力がよかったから、朝書類を見て数字を覚え、それを使って説明するから非常に現実的な感じを与えた。1961年にも不況がきたけど、あの時も強い調子でやったので、国民に自信を持たせた」[353]水田三喜男は「経済を政治問題にして真正面から取り組んだということが池田さんの功績。経済計画というのは吉田さんのときから全部あるんですが、初めて池田さんが自分でマスターして、実行の先頭に立ったというのが特徴です。それまで総理自身がそういう形でやったことがなかったので、当時としては非常に国民に訴えるものがありました」などと述べている[353]中村隆英は「所得倍増計画」の最終年度にあたる1970年の著書で「『所得倍増計画』は技術的に多くの難点を含んではいたけれども、日本の潜在的な成長力についての確信を国民に植え付けた点で画期的な意義を持っていた。企業は強気の投資計画を立て、労働組合資金要求の水準を一挙に引き上げてそれを勝ち取り、消費者生活水準を向上させた。これらの事実は、日本国民が経済成長に対する態度を変えたことを物語っている。日本人はこの時期以後高度成長こそ経済の常識なのだと考えるに至った。ここに現代日本の経済成長を支える基本的な心理的要素があることを忘れてはならない。マイケル・ポスタンは第二次大戦後のヨーロッパの経済成長の背後にあった成長精神を指摘したが、それはわが国の場合、一層強調されるべきなのである」と述べている[354]。池田は若い池田番記者たちに「キミたちが定年を迎えるころ(1985年頃)には、日本の自動車はきっと欧米の市場で歓迎されるようになる。キミたちは日本を過小評価しているが、これだけ勤勉で、これだけ平均的な教育レベルが高く、100年も200年も前から多くの分野で競って高度なことをこなしてきた国民はいない。これだけ優れた日本人を、うまく目標を示して動かすことができれば、必ず日本は欧米に追いつく。それが実証できれば他のアジアの国も続く。アジアがいっせいに集団で欧米を追いかける。それをするのは日本の政治家、アジアの政治家の使命だ」と繰り返し語ったという[313]。池田学校の聴講生だった俵孝太郎たちは、こうして予算書を読んだり、経済統計に注目したりする、それまでにはいなかった政治記者のタイプを身につけていった。俵は「池田の政治家として、一国の宰相としての予知能力と政策的構想力に、舌を巻く思いを禁じえないのである」と述べている[313]高坂正堯は「『所得倍増計画』は驚くほどの成功をおさめ、国民が豊かな生活を求めて努力するという目ざましい状況が出現した。経済発展は国民の間に存在する唯一のコンセンサスであった。経済の問題は計量可能なものが多いため、イデオロギーや価値の対立に煩わされることが最も少ない。言葉を換えれば、経済の問題は価値中立的な技術的な言葉で議論することができる(中略)おそらく1960年からの後の数年間は、二つの楽観主義によって特徴づけられる特異な時期として日本の歴史に残るかもしれない。すなわち、ひとつは経済は発展するものだという楽観主義であり、他のひとつは経済が発展すれば国民生活は幸福なものになるという楽観主義である(中略)池田が内政に対する考慮から経済中心主義をとり、説得の相手を国民としたことは、吉田が成し得なかった程度に、経済中心主義を国民の中に根付かせるという成果を生んだ。池田内閣以後、"経済成長率"や"国民所得"などの言葉は、日本人が政治を語るときの共通の言葉となった。その後の世界に於ける外交の基礎としての内政の重要性を考えるとき、池田の果たした重要性が理解されるであろう。吉田によって国家の政策として据えられた経済中心主義は池田によって定着した。それは日本の新しい国家理性となった(中略)池田は『所得倍増計画』を予想以上に成功させ、それによって、国際政治の中に於ける日本ではないにしても、国際経済の中に於ける日本の位置を確立した。そして急速な経済発展は日本人の自信を回復するのにも大いに役立った」などと論じている[355]若田部昌澄は「『所得倍増計画』は、これまで日本が行った最大かつ最高の経営成長戦略であり、効率化政策と再分配政策をうまく組み合わせたもの。それが裁量的な計画・統制によるものではなかったことは、経済学的知見に一致している。それにより実現したのは、史上もっとも成功した構造改革産業構造の転換、生産性の向上、経営の近代化)であり、二重構造と言われる経済格差の縮小だった。池田にとって、経済成長はそれ自体が目的ではなかった。敗戦を経験した国民が"国としての誇り"を取り戻すための手段、それが池田にとっての経済成長だった」と論じている[356]京極純一は「池田内閣は経済成長、所得倍増、月給二倍というナショナルコンセンサスを確立して安保騒動の混乱を収拾しました。外交、防衛、治安といった天下国家の問題ではなく、所得倍増という経済生活の問題で国民統合を実現したのは、日本の政治の画期的な転換でした。これからあと、日本の政治の中心問題は、高成長か低成長か、赤字財政か財政再建か、といった経済問題に集中します。それは経済テクノクラート主導型政治の開幕でもありました。こうして戦後議会政治の上演するドラマのA、経済成長が定着しました。そして輸出主導型の経済成長にともなってGNPも大きくなり、それとともに財政規模も大きくなります。ここから、一方で財政というチャネルを使い、公共事業費、交付金補助金を活用する、全国的な富と文明の分配が政治ドラマの主題Bとして成立します。『地元の面倒を見ることは職業政治家の仕事である』などの今日の政治常識が確立しました」などと論じている[357]上前淳一郎は「日本の高度成長政策は、池田の自己改造のひとつの産物といえるかも知れない。ひたすら国民から税を取り立てることだけに熱心だった男が、いや、民にはまず与えるべきだと悟る。その結果、所得倍増という桁外れの贈り物ができるようになったのではなかったか(中略)高度成長政策は池田が政治生命を賭けた骨太な日本改造策だった。これほど具体的で、輝きに満ちた政策を引っ下げて登場した首相は、日本の政治史にほかにない。その結実を最後まで見届けずに氏は世を去ったが、もしあの時期に池田勇人を持たなかったら、日本はいまこれほどの成長と繁栄を謳歌していただろうか。むろん、当時の環境と条件の下では、放っておいても日本経済はかなりの成長を遂げたに違いない。しかし、その行方に明確な目標を掲げ、国民の知恵と力を結集して成長をより早く、より大きくしようとしたという意味で、池田勇人の存在は偉大であった」と評している[358]沢木耕太郎は「60年安保をめぐる社会的混乱は、保守合同後の保守が直面しなければならなかった最初で最大の"危機"だった。この"危機"の時代に総理大臣になった池田は、"所得倍増"という言葉が指し示す方向を明らかにすることで"危機"を逆に"蜜月"の時代に転じる離れ業を演じた。"所得倍増"という言葉自体は60年代の半ばを待たずして風化するが、それ以後も時代は依然として"所得倍増"の射程の中にあった。池田以後のどの保守政治家も"所得倍増"を超える現実的で力強い政治経済上の言葉を発見することができなかったのだ(中略)佐藤内閣の政治経済思想は、池田が1960年代前半に遺したものの無定見の"増補版"にすぎない。仮に佐藤栄作が無定見の増補版だったとすれば、田中角栄の"日本列島改造論"は"所得倍増"の壮大な"増補決定版"であったといえるかもしれない。もしかしたら池田の政治的嫡子は、大平正芳でなく田中角栄だったのかもしれない。しかし田中角栄は遅すぎた、だから悲劇的な"決定版"だったといえる(中略)佐藤以降の権力者たちが、政治的シンボルとしての言葉を考えるとき、常に意識しなくてはならない存在は池田勇人であった」と述べ、それは池田時代から一貫して反池田の旗を振り続けてきた福田赳夫においても例外ではなく、『福田赳夫論』の編著者・佐藤雄一が、政権を手にする直前の福田に「保守にとって池田の政治こそ最高だったのではないだろうか。政策、ブレーン、政治姿勢、どれをとってもよかった。福田さんも池田さんから学ぶべきでないだろうか」と語りかけると福田は、ほんのわずかながら頷いたという。沢木はこの微かな肯定の中には、「保守単独政権の崩壊という60年安保以来の大きな"危機"に直面した福田の、かつてその"危機"を乗り切った政治家としての池田に対する、ある種の畏れのようなものが秘められていたのではなかったか」と論じている[359]

フランスル・モンド』は「池田は1960年代に於ける日本の反米エネルギーを経済問題に向かせることに成功した。池田の最大の功績は、日本国民に対して、日本は豊かな社会を実現できる能力を持っていることを教えたことではないか」[236][360]イギリスタイムズ』は「池田の在任4年半に、日本経済の成し遂げた驚嘆すべき成功は、ひとえに池田の功績といわなくてはなるまい。世界の目に、日本の新しいイメージを植えつけた」と評した[360]チャルマーズ・ジョンソンは「池田は戦後日本経済の驚異を生んだ最大の功労者として記録されねばならない」と述べている[85]。『サンケイ新聞』元政治部長の吉村克己は「資源エネルギーもない小さな四つの島国の国民に、やればできるの自信を持たせた功績は、やはり池田ならではのものだった」[361]、「池田の政治的決断は、当時においては思い切った勇気を要する賭けであった(中略)10年後の現在振り返ってみるとき、このような池田的決断は見事な成功をおさめたということができる(中略)成功の主な原因は、やはり池田的構想が当時の日本経済の潜在的成長能力を正しくとらえた点にあると思われる。しかしそれと同時に、計画の発表やそれに対する池田内閣の強力な支持が、人々に成長を前提として行動するという習慣をつけさせたことも無視できない(中略)池田構想の術中に陥った日本経済は、事実的にも心理的にも高度成長の持続を前提とした体質をとるようになった」などと評している[362]日本経済新聞社は「池田の"所得倍増計画"は、根拠も実現性もさだかでない最近のそれとは好対照の、本物の成長戦略だった」[254]、『エコノミスト』は「池田内閣の4年半は、日本資本主義発達史上、一つの大きな画期であった。日本経済が先進国的な高度資本主義への急激な構造転換を加速した時期だったからである。戦後十指をこえる経済計画が立てられたが『国民所得倍増計画』ほど影響を持ったものはない」と評している[363]塩田潮は「池田は戦後復興から高度成長期にかけての日本経済を牽引した人。日本の病弊である官僚主導社会をも醸成しましたが、わが国に経済発展をもたらした功績は大きい」[150]江坂彰は「"月給倍増"なら、その恩恵に与れるのはサラリーマンだけだと思う。しかし"所得倍増"という言葉は、小商工業者農民にも配慮したスローガンであり、そこに国民全体が豊かになるのだという思想が感じられる。"所得倍増"という言葉の響きが格別によかった」[364]、「戦後強兵の道を捨て(あるいは捨てさせられて)経済の基盤固めに一点集中した池田の戦略は、最良の選択だったはずである。日本はよき敗者の道を、別に卑屈にもならず、驕りもせず、着実に歩んでいくことになった」[364]橋本五郎は「政権構想の戦後最大のヒットは、なんといっても池田内閣の『所得倍増計画』でしょう。政治的に行き詰まり、国民がどちらの方向を向いたらいいのか探しあぐねていたときに、生きる希望を与えられたといっても過言ではありません」[365]星浩は「これからはイデオロギーではなく、経済でいくという提示するタイミングが絶妙でした。『所得倍増』というのは具体的で魅力的で、みなが実現可能なスローガンに感じられたのです。そして実際に成し遂げられた」[365]飯尾潤は「池田は政策の優先順位を明確に変えようとした。しかも"安保"を捨てたわけではない。非常にしたたかな計算に基づいて政治の重心の転換を図ったところに大きな意義があります」[365]渡邉恒雄は「池田さんの経済政策が、現在の日本の繁栄を築いたことは間違いないでしょう。池田さん自身、ブレーンを使いながらも、自分自身で高度経済成長政策を考え、財政均衡を考えていたと思うよ(中略)池田さんは口癖のように『私は嘘を申しません』と言っていたけれど、本当に言ったことは守り、実行した人だった」などと評している[347]三宅久之は「政治家が小粒になった。池田勇人は所得倍増を言って、その通りにした。有言実行だ。いまはみんな選挙のことばかり考えている。派閥全盛がなつかしい面もある」と話した[366]塩野七生は「"所得倍増"というネーミングは、国民全体が貧しい時代でしたから非常にインパクトがありました。戦後の一大傑作だと思います」[367]筆坂秀世は「誰の経済政策が優れていたか1人に絞るなら、やはり池田勇人」[368]田原総一朗は「池田内閣の『所得倍増計画』から日本の高度成長が始まった。この高度成長によって、戦後日本の繁栄、そして現在の日本の基礎をつくることができた」[103]池上彰は、池田を「高度経済成長の立役者」と評している[369]。沢木耕太郎は「所得倍増計画」を「戦後最大のコピー」と評している[256][370][371][372]。「所得倍増計画」は2015年現在でも圧倒的知名度を誇り[254]キャッチコピーとしても言葉してもよく引用される[373][374][375]安倍晋三第2次安倍内閣において成長戦略を打ち出すにあたり「『所得倍増計画』に匹敵する目標はないか」と秘書官に指示したとされる[376]。「アベノミクス」という造語の発案者は、子どもの頃、池田の演説を見て政治家を志したという山本幸三といわれる[377] [378][379]。小林吉弥は池田を「第二次大戦後の敗戦経済、虚脱社会の真っ只中で政治家として登場し、日本経済の歴史的勃興期にあたって所得倍増政策を推進、絢爛の高度成長社会"経済大国日本"へのレールを敷くに至る、いわば日本経済革命というべきわが国史上初の歴史的実験の施行者」と表現している[380]。宮澤は「戦後の日本が世界史に残したものは、奇蹟的な経済成長であろう。その象徴である池田首相の『所得倍増計画』は、ただ過ぎ去った歴史であるだけではなく、今日もなお第二の日本たらんとする開発途上国にとって生きている手本である」と述べている[350]。池田といえば、『所得倍増計画』という内政面で語られることが多いが、外交面でも、その後の日本を形作った点も忘れてはならない[151][381]。フランスのド・ゴール大統領から「トランジスタのセールスマン」と揶揄された逸話が有名であるが[151][382][383][384]、これは池田がソニーの最新のトランジスタラジオを首脳会談で売り込んだことで、ドゴールが側近にそう漏らしたと反ドゴール派の『フィガロ』が記事にしたものが日本の新聞に紹介され有名になったもので[385]、池田の帰国後、日本で大騒ぎになり、多くの日本人は嫌な思いをした[381]。しかし八幡和郎は「当時は首脳が経済について語ることが珍しかったためにド・ゴールも意外に思ったもので、その後同じフランスのジスカール・デスタン大統領は、経済を主題にしたサミット(先進国首脳会議)を始めて日本をメンバーにしてくれたし、ミッテランシラクは"エアバスのセールスマン"として何機売ったかを海外訪問の成果として誇った。経済外交重視は世界的にみてもその後の大きな流れになったことから、池田は世界の外交史の中で先駆者であり、世界史的偉人である」と評価している[151][381]。池田の経済優先の発想は今日まで続いており[386]、日本が経済大国を実現できたのも「吉田ドクトリン」というよりも「池田ドクトリン」の所産ともいわれる[236]。1965年、愛弟子・池田の逝去の報を受け、吉田茂は「今日の繁栄は池田君に負うことが多かった」と呟いたといわれる[256]下村治は、池田死去翌日の日経新聞に追悼文を寄せ「池田勇人が果した歴史的な役割は、日本人が内に秘めていた創造力、建設力を『成長政策』という手段によって引き出し、開花させたことである」と記した[345]。「所得倍増計画」は、首相として最大の仕事は経済に在ると明言していた池田と孤高のエコノミスト下村の巡り合わせによって生まれたものであった[387]

宮澤喜一は「池田は政治に出て死ぬまで16年しかない」と評しており[330]、池田は戦後政治を短期間で駆け抜けた政治家だった[330]。池田はドッジライン以来の念願の国内経済産業体制の再編と自由化を、まさに"一内閣一仕事"でやり遂げた[341]。池田内閣以後の自民党政権による政治・外交運営は、池田が築いた国内安定と国際的地位を基盤として展開された[388]。憲法改正を事実上棚上げにし、経済成長と豊かさの追求を最優先したからこそ、池田以降の自民党政権は、それなりに戦後的価値観を共有し、長期政権を維持できたのである[389]。池田は戦後日本の原型を、国内経済政策面でも経済外交面でも創り上げたといえる[341][390]。高度経済成長は、池田の経済政策を踏襲した佐藤内閣の時期に最盛期を迎えるが[391][392]、佐藤政権も池田政権という大きな括弧の中に入るともいわれる[390]。その佐藤も池田同様引退後まもなく死去する。両者は1970年代の田中角栄や福田赳夫が1980年代にも穏然たる影響力を持ったのとは対照的である[330]。高度経済成長とともに敗戦と占領の残滓を最終的に清算したのが池田と佐藤といえる[330][393]。池田と佐藤の時代に自民党政権は安定の中で成熟を遂げた[394]。東京オリンピックと大阪万博による大都市圏の開発、公共事業を通じた国土・列島の整備によって自民党は包括政党の道を進めていく[330]。「55年体制」は成立こそ1955年であったものの、その確立は1960年代前半の池田内閣にあった[395]。日本の国内政治の基本的な枠組みを作り上げたのが池田であった[396]。この戦略は、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸中曽根康弘ら、その後の内閣にも担われることになる[397][398][399][400][401]。「池田時代に、経済発展を国家目標の中心に置いた政治が始まった。田中角栄はその子である」[391]、「田中の『日本列島改造論』は池田の『所得倍増計画』の延長線上にある」[391]、「『日本列島改造論』は『所得倍増計画』の地方版」[380][386]、「『日本列島改造論』や小泉純一郎の『骨太の方針』も、いわば池田の政治手法にあやかったもの[402]、池田の後に登場した政権の大半はイデオロギーなしの、無定見な高度成長を追い求めていた」などと評される[365][391][403]。経済成長による社会の多様化は、自民党内に於いては党内派閥の分散化にとどまり、野党の方が多党化していくことで、自民党支配を維持させていくことになった[404]田中浩は「池田内閣登場以後、日本政治は、ほとんど"事なかれ主義"を旨とする安全運転、無風状態が続き、保守の安定化(資本主義体制確立化)の道をたどっている」と論じている[405]。この時期に派閥政治が確立し[330]閣僚や国会、党内での主要役職を当選回数によって配分する制度化も進み、議員の個人後援会が普及し、二世議員が増えていく[330]宏池会の後輩・古賀誠(第7代会長)は池田を「政治家として今の自民党の基礎を確立させた人」と評している[256]

経済政策での功績が語られることが多い池田であるが、ドッジ・ラインサンフランシスコ講和条約日米安保の下交渉を経て、池田・ロバートソン会談、池田・ケネディ会談まで、池田は今日の日米体制をつくった最大のキーパーソンでもある[199]

中曽根康弘は、2008年9月3日付の読売新聞朝刊(13面)に、同年9月1日に辞任会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べ、その例えとして、がんで入院して生命力もないという段階においてぎりぎりまで耐え抜いて後継に佐藤栄作を指名した池田を挙げ、政治家としての最後までの志、執念を持つべき、と記した。

1959年12月3日、池田の還暦祝賀会が東京丸の内東京會舘で開催されたが、これを主催したのが共同通信の和田清好、産経新聞の吉村克己、毎日新聞の土師二三生、日本経済新聞田中六助で、発起人代表として板倉卓造小汀利得吉田秀雄東畑精一が名を連ねた[406]。案内先は新聞放送出版マスメディアに限り、出席者は400人近くにのぼった。池田の祝賀会であれば財界主体が通常だが、敢えて常識を破る試みであった。政界人のお祝いに、言論界の長老が発起人を引き受けたことも異例だった。吉田内閣以来、とくにマスメディアに不評だった池田の祝賀会にこれだけ集まったことは「岸政権後の池田本命」が世間一般の印象となる契機となり、マスメディアに認知されたことが、池田政権の発場する最大の要件となって生きた[406]

1950年代も終わろうとするこの還暦祝賀会のスピーチで池田は「次にくる日本の10年間は、日本人が一度も味わったことのない豊かな時代になる。日本経済はかつてない飛躍的な成長を遂げるはずだ」と述べた[309][407]。日本が黄金時代を迎えようとしている時期に政権を握り、自分の手で「黄金の'60年代」をつくり出す場面を本気で胸に描いていた[407]。池田の65年間の軌跡を振り返ると、地獄と天国を行き来するような浮き沈みの激しい人生だった。前半生と後半生はまるで彩りが異なり、前半は不運の悪魔に憑りつかれ、逆に後半は一転して幸運が舞い込み続ける人生航路だった[407]

堺屋太一は、著書『日本を創った12人』で、聖徳太子源頼朝織田信長徳川家康マッカーサー松下幸之助らとともに、唯一の政治家として池田勇人を挙げ、その理由として、「現在われわれが生きている戦後の日本を、経済大国へ導き、実績として経済成長の実現もさることながら『所得倍増計画』の策定によって『経済大国』を日本の理想に据えた点が最重要である」と述べている[408]。負の遺産として「経済発展に貢献する一方、すべてに金銭が優先する価値観を生むことになり"金権体質社会"を作り出した。池田の果たした役割は、日本社会の理念と倫理を決定する上で、歴代総理の中でも、最も大きかったのではないか、戦後の総理大臣としてよく取り上げられるのは、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作田中角栄の四人で、吉田茂が大きな存在だが、その重要な政治決定はほとんどが占領軍、つまりマッカーサーから出ていた。それに比べて池田は、自らの発想と手腕で今日の日本人の心や生き方、あるいは日本の社会の在り方や動き方に大きな影響を残した」[408]、「池田が総理大臣であったのは4年3ヵ月、吉田茂や佐藤栄作よりはずっと短い。しかし、この男の植え付けた経済優先思想と、それを実現する官僚主導の仕組みは、今日も揺るぎなく続いている」と述べている[409]

宮内義彦八幡和郎は、池田を日本の歴代最高の総理大臣と評価している[410]御厨貴は「戦後最も成功した首相は池田勇人。吉田茂の果実をうまく育てた。権力を行使していると見せずに行使した」と評している[411]片岡剛士倉山満は、池田を戦後最高の総理大臣として推している[412]。宇治敏彦は「いま呼び戻したい総理は、大平正芳、宮澤喜一ら、最高の側近がいた池田勇人」と述べている[413]。八幡和郎は、著書『本当は偉くない?世界の歴史人物 : 世界史に影響を与えた68人の通信簿」で、"世界史に影響を与えた68人"のうち、東洋人を7人を選び、うち日本人2人を明治天皇とともに池田を選び、「明治日本の成功と戦後の高度経済成長がアジア諸国など欧米以外の国のモデルになったこと」をその理由に挙げている[151][414]

語録[編集]

池田勇人の語録には、後世に歴史的失言として記憶されているものや、当時の流行語にまでなった有名な発言などが多い[71][156][256][382]

貧乏人は麦を食え
第三次吉田内閣で吉田は一年生議員の池田を大蔵大臣に抜擢して世間を驚かせたが、池田は有能な大蔵官僚であっても政治家としては駆け出しで、発言に脇の甘さが目立った。
1950年12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした。この質疑応答を池田は「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくったが、これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていた新聞を刺激した[156]
翌日の朝刊は「貧乏人は麦を食え」という見出しで池田の発言を紹介、これが池田自身の発言のように伝わってしまい、各方面から強い批判を受けることになった[415]。この発言をしたとき宮澤は「ちょっと総理大臣になるのは無理じゃなかろうかなと思った」と述べている[416]

○木村禧八郎君 (略)米価を特に上げる、併し麦とか何とかは余り上げない。こういう食糧の価格体系について大蔵大臣には、何かほかに重要な理由があるのではなかろうか。この点をお伺いしたいと思います。
○国務大臣(池田勇人君) 日本の経済を国際的に見まして立派なものにしたいというのが私の念願であるのであります。別に他意はございません。米と麦との価格の問題につきましても、日本古来の習慣に合つたようなやり方をして行きたい。(略)麦は大体国際価格になつている。米を何としても値段を上げて、それが日本経済再建のマイナスにならないように、徐々に上げて行きたいというのが私の念願であります。ほかに他意はございません。私は衆議院の大蔵委員会に約束しておりますから、ちよつと……、又来ますから……。
○木村禧八郎君 それじや一言だけ……、只今日本の古来の考え方に従つてやるのだという、その点はどういう意味なんですか。
○国務大臣(池田勇人君) 御承知の通りに戰争前は、米一〇〇に対しまして麦は六四%ぐらいの。パーセンテージであります。それが今は米一〇〇に対して小麦は九五、大麦は八五ということになつております。そうして日本の国民全体の、上から下と言つては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります。

1950年(昭和25年)12月7日 参議院予算委員会[417]

中小企業の五人や十人…
2年後の第三次改造内閣で池田は通産大臣になっていたが、1952年11月27日の衆院本会議で右派社会党の加藤勘十の質問に対し、池田は「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」と答弁した[156]
これに対して野党からは「中小企業を倒産させてよいのか」というヤジと怒号が飛び、議場は一時騒然となった。翌日の新聞はまたしても「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」とこれを報道。
これを受けて野党が提出した池田通産相不信任案が自由党反主流派の欠席によって可決されると、池田は辞任に追い込まれた。その後池田は自宅に引きこもってしまったが、宮沢喜一秘書官の証言では「これで終わった。明日は土曜日だな。週末旅行でもするか。」と話して[418]さばさばした様子であった[419]。なおこの辞任記者会見の際に「私は正直すぎた。政治家として終戦以後色々あったが政治家には向いていないのかもしれない。」という政治の道を諦めるかのような発言をしている。
経済のことはこの池田にお任せください
池田は総理となると政治的論争となりうる安保9条問題を早々と棚上げして、国民の目を経済に向けさせるべく街頭演説やテレビ討論会などでこう力説した[420][382]。有名なこのセリフは、世の反発を呼ばず、そのまままかり通っていた[421]
低姿勢
私はウソは申しません
池田はテレビを本格的に活用しようとした最初の首相である[346]。池田は1960年の総選挙に於いて、ケネディニクソン大統領選でのディベートを模倣して行われた「三党首テレビ討論会」に出演した。これは社会党江田三郎の申し出に対して、泥仕合にならないならという条件で受けたものであったが、1960年11月20日の第29回総選挙に先立っては自ら自民党のテレビCMに登場して、本音しか言えない池田というイメージを逆手に取って「私はウソは申しません」と言い切った[156]。これらいずれもが当時の流行語となり、これが世論を背景にした政権運営という新しいスタイルに先鞭を付けるものともなった[256]。翌1961年には、NHK専務理事の提案により、『総理と語る』を開始した[422]。この番組は、ルーズベルトがおこなった『炉辺談話』というラジオにならって、首相がくつろいだ気分で国民に語りかけることを目的とした番組であった。他にもテレビを意識してメガネを変えるなど、テレビを通じて親しみやすい首相イメージを作り出そうとした[346]
国のためになることなら…
総理就任後「寛容と忍耐」を政治理念に掲げた池田は周囲に「国のためになることなら、電信柱にもお辞儀するつもりで総裁になったんだ」と話した[423]
君は…
浅沼稲次郎暗殺事件の発生をうけて池田が衆院本会議場で行った追悼演説は、故人に対して「君」とよびかけ、大正末年に浅沼の友人[注釈 8][424][425]が浅沼のことをうたった詩「沼は演説百姓よ、よごれた服にボロカバン、きょうは本所の公会堂、あすは京都の辻の寺」を引用するなど型破りな演説で、社会党議員が涙を拭うほどだった。池田のこの演説は今日でも国会における追悼演説の傑作のひとつに数えられる名演説として知られている[423][注釈 9]
山より大きな猪…
政治家としての池田はたびたび難局に直面したが、一度も逃げたことはなかった。そのつど周りに「なに、山より大きな猪は出ないよ」と口癖のように言った[12]。どんな大きい猪、つまり難局が向うからやってきても、そいつが普段隠れている山より大きいことは有り得ない、人は猪の勢いだけに気をとられるて怯えるが、大局から見れば大したことはないという比喩で、元は郷里の農夫たちのいいならわしだったとされる[426]。池田は亥年生まれで猪が好きで、自宅の居間にはいつも猪を描いた掛軸を下げていた。池田自身、猪突猛進の積極論者でもあり、この台詞はいかにも池田にふさわしい[426]
国づくりとは人づくりである
第2次池田内閣時代、1962年8月10日所信表明演説(衆議院本会議)で「国づくりの根本たる人づくりに全力を尽くす」と述べ[427][428]、その考えを根幹に同年10月、池田の私的諮問機関である「国づくり懇談会」を[429]、12月5日に「人づくり懇談会」を創設し「期待される人間像」を掲げて、文教政策、児童政策に重点を置くことを指示した[280][430][431]。敗戦の焼け野原にあって、国民は食うために何でもした。池田の仕事はまず経済の復興になってしまった[432]。これが一応実現し、次に何かと文教の刷新を考え、日本がしっかりした国になるには、経済的独立の奥の精神の独立が必要だと「人づくり」という発想が生まれた[433]。また安定成長論で池田を揺さぶる福田赳夫ら党内批判勢力の「池田内閣の所得倍増政策は物質万能主義であり、日本民族精神を荒廃させるもの」とする声に対抗する術でもあった[434]。池田の思いは文教の刷新にあり、占領政策や、それに便乗する日教組の教育方針を正すことではあったが、真の願いは日本人と精神の独立であった[432]。人格育成に重点が置かれたのは、池田が「西欧には宗教と結んだ道徳観があるが、日本には戦前は儒教神道にささえられた教育勅語があったが、今はそれがない」と憂いていたためで[435]、当時青少年犯罪が社会問題となりつつあったことも背景にあった[436]。池田内閣の時代に全国的に統一した教育カリキュラムが徹底されている[437]。とかく経済成長のみを重視した印象が強い池田だが、国民道徳の確立にも目を向けていた[438]。しかし肉付けする役割を持つブレーンたちがこの分野は得手ではなく[429]、この方針は、佐藤、田中両内閣まで引き継がれたものの[439]、「国づくりとは人づくり」という哲学的命題は上手くいかなかったとする評価もある[440][441]

池田はマスコミが面白おかしく発言を曲げても怒らなかった。これがマスコミにも人気を得た理由といわれる[442]池上彰は「わかりやすい言葉で聴衆の心をとらえる抜群の発信力が、池田の魅力のひとつだった」と評している[382]

逸話[編集]

広島県広島市広島城跡に建立された池田像
広島県竹原市に建立された池田像。銘は吉田茂による
神奈川税務署員殉職事件の殉職税務官顕彰碑の碑文は池田の筆によるもの

人物[編集]

  • 旧制五高在学当時、酒代があまりかかるので、趣味と実益を兼ねてそば屋と一杯飲み屋の屋台を開業することを発案[91]、「池田屋」と称した。しかし友人達にツケで飲ませ自身も一緒に飲むといった放漫経営で、わずか3日でつぶれた[91]。のちに自らの派閥「宏池会」を率いる親分肌が表れたエピソードである[382]
  • 同じ造り酒屋の出なのに、池田とは反対に酒をほとんど飲めず、酒席でも打ち解けられなかった佐藤栄作は池田に「そんなに飲んでると家が潰れるぞ」とからかうと池田は「ばかをいえ、味見もせんで人さまに売れるか」とガブガブ飲んだ[443]。旧制五高の学生そのままのバンカラ気風の上、一連の放言癖。英語にも滅法弱く「エチケット」を「エケチット」と"発音"し、周囲を大いにうならせた[444]。粗野で強気で、あちこちに圧力をかけまくることから「圧力釜」という渾名もあった[445]
  • 津島寿一が課長時代、一事務官だった池田と酒を飲んだ席で財政論でケンカになり、池田が大勢のいる前で津島に組み付いて捻じ伏せたが、津島は柔道の大家で逆に押さえつけられた。それでも池田は「体は俺の方が下に捻じ伏せられているが、財政論では俺の方が上だ」とわめき散らした[446]
  • 池田と佐藤栄作の五高で一年先輩だった細川隆元は、その後生涯にわたり親交があった。しかし細川がホストを務めたTBSの『時事放談』で細川が「所得倍増計画」を何度もしつこく批判した[447]小汀利得は池田びいきで「俺はそうは思わぬ」と反論したが、池田に会ったとき「君は最近おれの政策をいろいろと批評しているようだが、やめてくれ。君は財政、経済の知識はゼロだ。おれの財政経済の知識は日本一だ。一度ぼくが君に経済の講義をして聞かせるから家に来い」と言われた[446]。すると細川は「総理大臣ともあろうものが、講義とは何だい。講義抜きで国民が納得するような経済行動をとるのが政治家というものだ」と言い返したため、「これからは君と会う必要はない」「以後絶対に君とは口を利かない」などと喧嘩別れして、そのまま池田が他界するまで絶好状態が続いた。腹が立った細川は『時事放談』で「池田は、人づくり、人づくりといって委員会を作ったが、川口松太郎を入れたのはどういう意味か。彼は本妻のみならず、二号、三号にいろいろ子供を持っているのは周知の事実だ。池田の言う人づくりとは、妾に人をつくらせるという意味か」と批判した[446]。細川は「池田君と言うのは、鼻柱が強く、一度いい出したらテコでも動かぬ自信満々の荒々しい人間であった」と述べている[447]
  • 首相になると大平に待合ゴルフを禁止させられたが、煙草も酒も大好きで死の直前まで止めなかった。火鉢の灰に林立させる程のヘビースモーカーかつ、酒乱の逸話を多く残す宮澤喜一も苦笑するほどの酒好きであった[448]
  • 池田は宮澤が大蔵省に入った時の身元保証人だったが「池田勇人なんて、当時(昭和16年)誰も将来、出世するとも思っていなくて、どうしてこの人に保証人になってもらったのかと聞かれたことがある」と話していた[449]
  • 出世レースに遅れ、苦難の多い前半生もあって、大蔵官僚出身とは思えないほどさばけた気さくな性格だった。その人柄から省内での人気は抜群ではあった[15]。池田のブレーンに大蔵官僚出身者が集結したのはこれが理由の一つである。池田を「ディスインテリ」という造語で評した宮沢によれば、池田は「(本当はそんなことはないのだが)自分が秀才ではないと思い込んでしまった人」と表現している[450]。それが、人の話をよく聞くという非常に優れた能力を作り出した。自分の話をよく聞いてくれるということが、また人のやる気を起こさせ、高い地位にあっても、自然に周囲に有能な人物を集めることになった[450]。宮澤は「それがあの人の将たる器なのかもしれませんが」と話している。しかし1960年の総裁選では、池田は周囲の意見に耳を貸そうとしなかったという[450]。池田をからかった「ディスインテリ」「非インテリ」などの渾名、「池田は書籍は読まない。読むのは書類だけだ」というジョークは宮澤の作といわれている[451]
  • 陰に陽に池田の政策をサポートした宮澤は「この人のためならと思って、一生懸命やったと思う。こんなことは一生に何回もないんで、私はいっぺんでもあったということが幸せだったと思ってるんです。ところが、そう思った人は私ばかりじゃなくて、たくさんいましてね。そう思わせるところが、池田さんの偉いところじゃないですか」などと話している[416]
  • 池田が最も心を許したのは、同じ明治32年の亥年生まれで集まる亥の「二黒会」のメンバー、小林中水野成夫、小池厚之助、堀田庄三東畑精一で、池田が総理になってからも「おまえ」「おれ」と呼び合う仲であったが、この中でも池田が一番の酒豪であったという[452]。池田が亡くなると急に淋しくなり、話が上手な水野が亡くなると集まることがなくなったという[416]
  • 「貧乏人は麦を食え」といった大臣というイメージが付いてまわり、大宅壮一が池田を「没人間味でのし上がった男」「ヒューマニズムというものが全然欠けている」などと表現し、それがマスコミの態度によって増幅され、当時のジャーナリストは池田を毛嫌いする人が多く、池田に好感を持つ人はほとんどいなかった[358]
  • 閣僚時代はとても威張り、新聞記者に対しても見下した態度をとっていたが、総理になるといい方に変わり対等に接するようになった。池田は月に1回か2回、私邸通用門脇に建つプレハブの番小屋にふらりと現れるか、家族用の食堂に番記者を呼び込むかして、ゆっくり懇談する機会を作った[313]。このような首相と若い記者との議論が恒常的にあったのは、空前にして絶後だったといわれる[313]。番記者と酒を呑み交わしながらの話題は当然経済政策である。池田が提唱している所得倍増計画は果たして実現できるのか、日本を重化学工業の国として高度成長させるというが、日本製の自動車や電化製品を外国に輸入しても、うまく売れるものだろうか、農業基本法を制定して選択的拡大を図るというが、それで現在輸入している米が日本で自給できるようになるのか、日本もイギリスのような福祉国家になる条件があるのだろうか、このような若い記者が池田にぶつける疑問は昼間、国会で社会党が執拗に池田に問いただし、論壇で繰り返し述べられている疑問と同じだった。池田は昼も夜も繰り返される同じ質問に対して、実に根気よく、いろいろなデータを挙げながら、自分のいう通りの政策を10年続ければ日本は必ず経済大国になる道が開ける、きっと日本は欧米を凌ぐ高度工業国家になれると説いたのである[313]。特に満江夫人が面倒見がいい人で、記者の名前を全員覚えて、池田邸で記者が御馳走になるとお酒を注いで回った。渡邉恒雄は総理の奥さんでそこまでしてくれた人はいなかったと話している[347]
  • とにかく家の中は人で溢れていた[453]。朝は6時に郷里広島の人たちが夜行列車で東京に着くとそのまま池田邸に訪ねて来るので、やかん酒とスルメを出して長旅を労った[453]。夕食後には大蔵省や通産省などの官僚と勉強会[453]。入れ替わりに番記者と夜中1時頃まで懇談が続く[453]。毎日何十人と人が来るので魚屋では間に合わず、娘の紀子が長靴を履いて築地魚河岸に通い箱ごと魚を買って帰り家で捌いて客に出した[453]
  • 池田は高度経済成長の発案者であり[313]、推進者でもあったから、物質万能主義者でかつ消費型のように思う向きも少なくないが[313]、実は極めて信心深く、倹約家でもあった[313]。ものを粗末にしないという点では、年に二回開かれる首相官邸詰めの記者全員を集めてホテルで開かれるパーティのあと、みなが食べ散らかした後の料理を集めて折り詰めにし、世帯持ちの若い記者に持ち帰らせるのが常だった。ボーイを呼んで料理を分け、折に詰める采配を天下の総理大臣が自ら執った。「キミたちは時たまこうしたパーティにも出る機会があるから、珍しげもなく平気でご馳走を残すが、キミたちの妻子にとってはめったにお目にかかれないものなんだ。家に持って帰れ」と説教した。事実その通りで池田の配慮は、たいていの家庭では喜ばれた。その後の議員の資金集めのパーティなどで、食べ物が山のように残っても誰も怪しまないのが普通になったが、古い記者たちは「今でも池田が生きていてこれを見たら怒号するだろうな」と言葉を交わした[313]
  • 吉田茂の大磯の家に行くと酒を飲んで、吉田に自分の本当の親父と同じような調子で談論風発し、少しの遠慮もない態度でいいたいことを言って、吉田はそれをまたニコニコ笑って聞いているというような間柄だった[454]佐藤栄作は酒を飲んでも池田のように談論風発という形はなく、徹底的に吉田に師事するという、本当に教えを乞うという態度を最後まで崩さなかったという[454]。吉田の選挙の費用は全て池田が面倒をみていて、選挙が異常な金喰い選挙になっていき、迷惑がかけられないと吉田は政界を引退したといわれる[454]。吉田は1960年の衆議院総選挙で最下位だったこともあって、池田が1964年春に復活を予定していた生存者叙勲で、最高位の大勲位菊花大綬章の贈与が予想されたため、落選でもすると最後が傷つくと、1963年の総選挙で池田が引退を勧告し吉田がこれを受け入れた[455]
  • 舌足らずながらも無邪気さに富み、吸い寄せるように人材を集めた[456]。財界を中心に支持者が多く、政治資金にはまったく困らなかったとも[456]、池田ほど金に恵まれた政治家は戦後一人もいないとも[457]、御手洗辰雄が「いまの保守党政治家が束になっても池田にかなうまい」と言ったともいわれる[458]。1952年の抜き打ち解散を吉田に進言した際、急な話でそれに伴う衆院選の選挙資金調達が間に合わないと心配されたが、池田は「選挙資金は心配いらない」(全員の資金を出すという意味)と説明し、同席の保利茂も大賛成したという笑い話がある[165]。自由党が衆院選で立候補を予定していた公認候補は、現職と新人合わせて300数十人であった[459]。日本の戦後史を飾る政治家の中で、田中角栄が最大の利権家であったと多くの学者やジャーナリストが騒ぐが、田中も池田の資金力には到底及ばないとも評される[458]
  • 愛唱歌は、1938年の松竹映画愛染かつら』の主題歌旅の夜風』。出だしと最後の文句が苦闘時代の池田の鬱屈した心理をとらえている。総理になっても酒が入るとこの曲を歌った[460]

占領下時代[編集]

  • 太平洋戦争に敗れた3日後の8月18日、内務省橋本政実警保局長が各府県の長官(県知事)に、占領軍のためのサービスガールを集めたいと全国で慰安婦を募集、当時大蔵省主税局長だった池田の「いくら必要か」という質問に、野本特殊慰安施設協会副理事長が「1億円くらい」と答えると、池田は「1億円で(日本女性の)純潔が守られるのなら安い」と答え、特殊慰安施設協会が8月27日に東京大森で開業し、1360名の慰安婦がそろったとされる[461]
  • 戦災で灰燼に帰した慶應義塾大学医学部の再建に、同大学OBの武見太郎が吉田茂に頼み、一万田尚登と池田を呼んで、「慶應医学部を何とか助けてやってくれ」と頼み、2400万円を貸し付けて再建させたという[462]
  • 石橋湛山1946年第1次吉田内閣で、小汀利得の推薦で大蔵大臣に就任した[463]。石橋は小汀に「君の推薦で大蔵大臣になったが、大蔵省の小役人どものことは一向俺には分からない。だから君は俺の推薦の責任者として誰か次官を選んでくれ。但し俺が頭がいいから、俺の次官はなるべくぼんくらがいい。そして不可欠の要素は、俺と酒を飲んで見劣りのしないようなやつを選んでくれ」と注文を付けた。小汀は「ぼんくらで酒飲みなら大蔵省を見渡しても池田しかいない」と池田を推薦、石橋は即座に池田を大蔵次官抜擢した[446]。石橋と池田は酒が取り持つ縁で大いに共鳴し、毎晩のように酒を食らったという。
  • 占領時代に蔵相だった池田は、国家予算などの重要な話し合いをするためGHQを頻繁に訪問。GHQ経済科学局の局長・ウィリアム・フレデリック・マーカット少将に面会するためで、そんな時、まず約束の2時間前に白洲次郎は、マーカット少将の副官で通訳だったキャピー原田中尉に電話をかけ「マーカット少将のご機嫌はいかがなものか」と尋ねる。原田が「今日はあんまり良くないね」と答えると、白洲の横で話を聞いていた池田が電話を横取り、「今からそちらへ伺います。原田中尉、それまでに少将の機嫌を直しておいてください」と頼む。そして1時間前になると、今度は秘書官だった宮澤喜一から確認の電話があり「間もなく大臣はそちらへ伺います。よろしくお願いします」と念を押す。原田はこういう時、マーカットにさり気なく野球の話題を投げかける。往年の大リーグ選手などの話題を持ち出すと、マーカットは機嫌が悪いことも忘れてスイッチが入り、野球の話に夢中になっていく。最高潮に達するとバットを手に持って上機嫌になり、ちょうどその頃、池田がオフィスに現れて、厄介な話もうまく進むというのがお決まりの段取りであった[89]
  • 1949年の「ドッジ・ライン」実施については、評価の分かれるところではあるが、ジョゼフ・ドッジと真正面から渡り合い、渡辺武財務官、宮澤喜一秘書官の全能力を駆使して闘った。池田は中川順に「自分の考えを主張し、相手に反駁する時にはね、相手の目をみつめ、コブシで卓を叩き、大声で怒鳴るに限る。相手は言葉は分からなくても、その気迫に押されるんだよ。通訳の方を見て話す、なんて無意味だね」と話していたという[464]
  • 「ドッジ・ライン」実施後の4月2日、ドッジが池田に「昭和24年度予算では、輸出入の補給金を大幅に切ったが、その時自分は、1ドル=330円というレートを仮想して計算してみた」と言うので、池田は「仮想であることは分かっているが、現実のレートとして1ドル=330円は非常にきついと思う、また時期としてもドッジ予算の効果が分かるまで、早くても今年の下半期までは待たねばなるまい。レートは自分としては、せいぜい辛く考えても1ドル=350円でしょうか」と答えた。1ドル=360円はドッジ・池田の二人の会談によって調整されたといわれる[65]。ドッジは「5月にはアメリカへ帰らなければならない」と言って、それ以後この為替レートの話は、ドッジ・池田の親しい仲でも一度も議論にならず、占領軍司令部の中でもタブーとなっていた。だから同年4月23日の朝刊に、UPIのワシントン電として円の対ドル為替レートを360円として4月25日から実施すると出た時は、すべての日本人及び占領軍の人々にとって、まさに青天のへきれきであった。ドッジから話が洩れてスクープになったらしく事実、4月25日から1ドル=360円が突然実現した。この年9月19日に、英国ポンドが4ドル3セントから2ドル80セントへ大幅に切り下げられた。日本側は池田のところへ、通産大臣、経済安定本部長官、日銀総裁などが集まって相談したが、ドッジ・プラン実施以来4、5ヶ月で、思ったより安定効果が現れており、こちらは1ドル=360円でやれるだろうという自信をみんなが持ち始めており、結局1ドル=360円のレートの変更を要望しないことにした[465]。池田政権で蔵相だった田中角栄が国会で「なぜ、1ドル=360円なのか」と質問され、「360度でありますから、360円なのです」と答えたことがある[466]
  • 日本の戦後税制に大きな影響を与えた「シャウプ勧告」は、富裕税付加価値税、資産再評価税等々、新しいことばかりの革新的なもので、担当の新聞記者にとって、その解説記事の記述などは至難の業で頭を抱えた。しかし池田は税畑育ち、税は得意の分野でもあり、シャウプ折衝でも、自信満々の態度で、税エキスパートの平田敬一郎主税局長、原純夫税制一課長を駆使して体当たりした。池田の税自慢は有名で、1961年の池田・ケネディ共同声明合意のため渡米するに当たって「ケネディに税制を教えに行ってくるよ」と吹いていたという。大蔵省の省議でも、税の問題で議論を交わす場合、池田の話を理解できるのは平田主税局長だけだったという[464]
  • 1949年8月27日に出された1回目の『シャウプ勧告』の報告書にあった「net worth tax」を「富裕税」と日本語に訳したのは池田だという[467]。内容からいけば"財産税"であるが、1946年に導入された「財産税」が封鎖預金の騒ぎを起こしたため、池田がこれを避けて、辞書で代わりになる言葉を調べ、最初「富有税」としたが、の名前のようなので"有"にあたる字を調べると"裕"を見つけ「富裕税」とした[467]。"裕"という難しい字が常用漢字に残っているのを不思議に思ったが「天皇陛下のお名前の故と思う」と話している。「富裕税」は1950年に導入され1952年に廃止された。
  • 蔵相時代、いずれも後の総理になる大平正芳、宮澤喜一を秘書官に配し、対外折衝の要衝財務官渡辺武、ブレーンの官房調査スタッフに石野信一下村治らを擁して、磐石の政策決定構造を持った[468]。池田は人の使い方が非常に上手く、この総合戦力で、ドッジ、シャウプ時代を切り抜け、困難な戦後インフレの処理からデフレの調整に至る、最大の混乱時代に対処、克服し、高度成長期の素地を培ったのである[469]
  • 根津嘉一郎が死去した際、故人の遺志で遺産は寄付されることになっていたが、まず相続してから寄付せよとの税務署の意向に、東京国税局長として故人の遺志を尊重させ、それが甲州系の実業家を動かし吉田内閣への蔵相入閣につながった。小林中根津美術館建設の税対策担当者として国税課長時代の池田と知り合った[470]
  • かつての大蔵省の正門の銘版は昭和39年当時首相であった池田の筆によるものである[471]

閣僚時代[編集]

  • 1951年日本医師会田宮猛雄会長、武見太郎副会長が健保診療報酬の大幅引き上げを迫って来た[472]。武見は既に実力派で、吉田に働きかけるなどでバリバリ政府を押しまくった。政府側で受けて立ったのが蔵相の池田で、厚生大臣橋本龍伍、池田、田宮猛雄との三者会談が連日のように開かれた。税制のプロ・池田は一点単価18円40銭などとても呑めないと一歩も譲らず、両者の主張には大きな開きがあったが、吉田が「医療は大事な問題だから何とかしてやれ」と池田を説得にかかり、最終局面で池田が決断を下し「わかった。差額は税で措置する。まかせて欲しい」と胸をたたき、日本医師会の要求と池田の主張との間にあった5円90銭分72%、診療報酬の72%までを必要経費として認めたものが「医師優遇税制」として1954年に導入された[159][473]。抵抗の気配を見せた大蔵省の事務当局を池田がピシッと抑えたといわれる[474]。その後「医師税制」を抜本的に見直すような力量を持った大蔵大臣は出ず[159]、不公平税制の代表のようにいわれ続け、1974年の第2次田中角栄内閣 (第1次改造)から、改正に向けて議論が本格化したが、日本医師会の強力な抵抗があって先送りが続き[474]、1979年に収入金額に応じて異なる率を導入する形での改善がなされるまでこの税制が続いた[474]。しかし、72%までを必要経費として認めるという60年以上前に池田が決めた基本制度は、今日まで残っている。なお、武見太郎は著書で上記の交渉を大磯の吉田茂邸で、武見と池田の二人で酒を飲みながら決めたと書いているが[76][474]、当時、厚生政務次官として折衝の一部始終を見たという松野頼三の証言を優先した[159]
  • 池田が1953年自由党政調会長時代に政調副会長として仕えた松野頼三は、池田を「官僚離れした知恵者」だったと評し、その後の自身の政策は「池田さんの行動が自身の念頭にあった」と話している[159]
  • 三木武夫の妻・三木睦子の兄の岳父は旧野村銀行頭取・野村元五郎で[475]、戦後の財閥解体で名前を変えなければならなくなった時に、奥村綱雄の努力で野村の名前が残り、野村の関係者は奥村に敬意を表していた[475]。野村別邸に三木夫妻が招待された際に、奥村の親友池田を紹介され、それから三木と池田は親しく付き合うようになった[475]。池田が自由党政調会長時代には改進党の三木とよく政策調整をやり、1955年の保守合同で同じ自民党になると「おれは自由党の本流、きみは改進党の本流、ともに提携して新しい政治をしよう」とよく秘密に会っていた[231]。その後も共同戦線を張り、池田内閣時代も三木は閣僚・党三役 として池田を支えた[475]第2次池田内閣 (第1次改造)のとき、党近代化を進める党組織調査会の会長に三木を抜擢した。池田が三選なった1964年7月10日の自民党総裁選では、三木政調会長の功績があったことから7月18日に発足した第3次池田内閣 (改造)で、三木を幹事長に抜擢した[476]。他派幹事長のこれがハシリといわれる[476]
  • 蔵相時代の池田の秘書官を務めていた頃の大平正芳は、陽明学者安岡正篤に歴史上一番偉い秘書官は誰かと質問したところ、安岡は織田信長の草履とりを務めていた間に信長の欠点を知り尽くした豊臣秀吉であると答え、以後、大平は池田の欠点を知り尽くして政治家になるための経験を積んだという[477]
  • 安岡とともに歴代内閣にパイプを持っていた人物に四元義隆がいる[478]黒幕などと取り上げられる人物であるが、四元が一言「四元です」と電話をかけたら、秘書も側近も用件を聞かずに取り次ぎ、歴代総理が即座に電話に出たといわれる。四元はかつて吉田茂の義父である牧野伸顕を狙ったこともあったが、吉田が何故かかわいがったため、戦後の内閣に影響力を持つようになり、池田が総理のときも、池田邸の人目につかない早朝吉田の内密の手紙を持って来たりした。鬼塚英昭は、四元は迫水久常から派遣された人物と推察している[479]。四元は純粋な右翼で、唯一の事業が田中清玄が設立した神中組という土建会社で、その後三幸建設という社名に変更したが、この会社が経営不振に陥ったとき四元が譲り受け、池田が応援し再建した。四元が池田を揶揄するような記述も見られるが、池田からすれば吉田が四元の話を1時間でも2時間でも熱心に聞くので、我慢して拝聴していただけで「あの人の話は退屈でたまらん」とこぼしていたという[480]
  • 出光興産が商業者から製造業へ転換する切っ掛けとなった出光興産徳山製油所(1957年竣工)建設のための敷地払い下げは、当初、地元の大勢は、石油精製に実績のある昭和石油に傾いていたが、出光佐三の要請を受けた池田や石橋湛山通産大臣、松永安左エ門らの援助により、出光興産が逆転獲得した[481][482]。また1959年、池田が通産大臣のとき、ソ連との長期貿易協定を結び、出光にソ連からの原油輸入を手引きした[482]
  • 1959年第2次岸内閣改造内閣の通産大臣時代の7月、この年フィデル・カストロとともにバティスタ独裁政権を倒しキューバ革命を成功させたチェ・ゲバラがキューバ特使として7月に来日、池田と帝国ホテルで15分間の会談を行い、ゲバラから「日本にもっと砂糖を買って欲しい」と申し入れられたが「現在の両国貿易は日本側の入超になっている。キューバこそ日本商品をもっと多く買い付けるべきだ」と断った[483]。ゲバラは池田と会見した後、予定になかった広島へ訪問に向かったといわれる[484]
  • 池田が将来の総理という意識を始めた頃、最もライバル視したのは人脈も豊富で政治家としては池田より格上だった緒方竹虎だったが、緒方はそこへ手が届く直前に突然亡くなった[485]

首相時代[編集]

  • 1960年、岸信介総裁が辞任し後継総裁を選ぶ際、岸は自身のイニシアチブによって、候補者を一本化することが好ましいと考えたが、池田、大野伴睦石井光次郎藤山愛一郎松村謙三の5人が立候補の意思を示した[486][487][488]。当時の世相は荒れ、誰がやっても失敗は見えていた[102]安保闘争激化で、池田は自衛隊治安出動を強く主張したこともあって[301]、池田が首相になったら、岸路線を継承すると見る向きが強かった[489]。自民党の長老的存在だった読売新聞社主正力松太郎は「この混乱のさなかに強気一点張りの池田に果たして時局の収拾ができるかどうか」と危惧した[450]。宮澤は朝日新聞論説主幹笠信太郎に呼びつけられ「このような社会が荒れた後は、治者と被治者といった対立をなくすことが必要だと思う。池田さんのような荒武者は、仕事はできるかもしれないが、対立を深める恐れがある。少々仕事はできなくてもいいから、性格の穏健な人に総裁を譲ってもらいたい」と朝日新聞OBの石井光次郎を推薦され、池田に伝えて欲しいと頼まれた[450]。宮澤も「高圧的な岸に続いて横柄なイメージを持つ池田が首相になれば、自民党そのものが致命的な打撃を受けかねない」と考えていたため[490]、笠の進言通り、人心が鎮静する穏やかな人柄の石井を主張した[102]。宮澤も大平も総裁公選の立候補には時期尚早と反対していたが[490]、池田は「おれに目には、政権というものが見えるんだよ。おれの前には政権があるんだ」と、己の勝負どきだと直感し忠告を一蹴した[491]。時代が今、はっきり自分という男を必要としていることを、当の池田はしっかり見抜いていたのである[364]。大平の忠告を池田が蹴ったのは次官、蔵相就任に続き三度目だった[490]。経済のことなどで世の中を鎮められるとは誰も思っていなかったといわれる[490]。岸は立候補意思を示した5人のうち、安保法案を通すために(数を持つ)派閥の長である池田、大野、石井、藤山の4人に次期総裁を約束した空手形を渡しており[280][492]、一本化は容易でなかった。当初は佐藤栄作も立候補を考えていたが吉田茂に「こういう時代の総裁には正直者を先にした方がいい」と、池田が政権を取っても短命を予想し、吉田に総裁選立候補を自重させられ、池田を支持するよう説得させられていた[450]。佐藤派は「池田が首相になると、佐藤の時代が遠のくのではないか」と危惧し、しかし党人派に政権を渡すことは考慮の外でもあり内部は混乱していた[493]。岸もかねがね弟の佐藤を後継にしたいという気持ちを持っていたが、兄の次にすぐ弟というわけにもいかず、ホンネは気心の知れた盟友で人物もいい藤山がよかったのだが[494]、藤山には力がなく、党内の力関係からいっても藤山ではムリと佐藤が判断し、結局佐藤派は池田支持に回った[494]。岸は表向き中立を装ったが吉田と賀屋興宣と相談し、池田支持を決めていたともいわれる[495]。話し合い路線でいけば、副総裁の大野が暫定的に総裁になる可能性があり、それゆえに池田は話し合いを拒み、公選を主張して頑として一切の話し合いには応じず[496]。大野と石井は話し合いを主張し党内の動きは混沌した。7月5日、まず池田が総裁選立候補を正式に表明すると7月8日に大野が、7月1日に岸に「君が立候補したらどうだ」と言われた藤山が小沢佐重喜江崎真澄遠藤三郎らに推され7月10日に立候補を表明し岸に渡すべきものを渡したが[497]、7月12日になって再び岸に「君、立候補をやめて池田を助けてくれないか」と言われた[497]。7月10日、石井と松村も「反主流派の代表」として三木・松村派に擁せられて立候補を表明した[493]。公選を主張する池田の態度は、極めて高姿勢に映り、公選前の数日間、新聞とテレビで「強情なヤツ」などと凄まじく叩かれた[493]。吉田が池田支持を明らかにすると、大野石井両派は、2、3位の連合戦線を結成した。池田支持対大野、石井両派の対立が激化したため、川島正次郎幹事長らは、党大会を1960年7月13日に決め、できれば一本化し公選を実施せず、やむを得ない場合は公選を実施することに決めた。後継選びは党内の派閥対立が前面に出た激しい争いになり、自民党は事実上の分裂状態といわれるほどの混乱に陥った[498]。岸派は三分裂し、岸、福田赳夫らは佐藤派とともに池田支持、川島正次郎、赤城宗徳らは大野支持、綾部健太郎南条徳男武知勇記らは藤山支持、一万田尚登は石井派だった[486]。大会二日前の7月11日、河野一郎の奔走によって、大野、石井、川島、一万田、高碕達之助正力松太郎の六者が会談し「党人派結集」へ一致、「岸亜流政権反対」「官僚政治反対」を打ち出した[486]。しかし党人派の結集は諸刃の剣であった。支持の範囲を広げる効果を持ったものの、主力の河野や三木武夫は安保の採決の本会議を欠席していた[496]。それは安保に政治生命を賭けた岸にとって許しがたい行為であった[496]。岸は特に三木を「世の中で一番嫌いな奴」と異常に嫌っていた[499]。池田支持派の参謀は佐藤、石井支持派の起動力は河野であった。実際に佐藤派を引っ張って池田支持にまとめたのは田中角栄といわれる[494]。田中の政界での栄達は池田内閣を起点とする[500]。佐藤派内では、木村武雄橋本登美三郎愛知揆一松野頼三の4人が反池田であったが、佐藤派の内部が乱れれば、河野にしてやられるという危機感から派内の結集がなった[501]。公選となった場合、池田派、石井派大野派はいづれも自分の陣営が当選するとシミュレーションしていた[280][502]。7月12日の深更に事態は急転した。大野、石井両派は、2、3位連合を組めば勝算は充分あると踏んでいたが、石井派は参議院議員が池田派に切り崩されて戦える状況になく、石井の指示を受けた灘尾弘吉が大野派の参謀である水田三喜男青木正村上勇らと会い「大野派が2、3位連合に期待しても、石井派は期待に応えられる状況にない」と伝えて来た[280]。石井派が崩れたのは、大野の後ろに河野がいると警戒されたからである[501]。石井派との2、3位連合にメドが立たないと大野の勝算はない。未明にもかかわらず、川島や河野、児玉誉士夫も駆けつけて大野を中心に大評定が始まり[501]、河野が大野を説得し7月13日の明け方6時半に大野が立候補を辞退した[488][503]。大野の方が降りたのは、大野派は結束が堅く大野が降りても石井に票を集めることができるが、石井が降りると石井派の票が池田に流れるという見通しになったためである[502]。松村もこれに応じて出馬を取りやめ、三木・松村派は石井支持を表明し[504]、岸、池田、佐藤の官僚派連合に対抗し、候補者を石井に一本化して党人派連合を組む方針を決定[280]。河野、川島らは党人派を結集するため、党大会を明7月14日まで延期することを申し入れた[505]。会場の産経ホールでの党人派の盛り上がりはすさまじく「池田は負けた」と囁かれた。しかし党人派は策戦を間違えた[502]。予定通りこの日に党人派が「勝った、勝った」と会場に雪崩れ込み、そのまま公選に持ち込んでいたら、石井が当選していたといわれる[486]。ところが産経ホールはこの日の夜、藤原義江リサイタルが予定されていて長くは使えず、このため党人派は1日延期する方を選んだ[505]。この一夜のうち、岸、佐藤らは池田派の体制立て直しをやった。池田と親しくかつ河野一郎をかねてから警戒していた「財界四天王」を中心とする財界主流が、熱心に岸を口説いた[506][486]。これを受け、それまで池田派のとりまとめを佐藤一人に任せていた岸が、岸派60人を集め、もう一度再結集して池田を支持するよう説得[490][507]。この戦略が成功し党人派の産婆役の一人だった川島正次郎も、あっさり仲間を引き連れて池田の支持に回った[508]松野頼三は「岸は池田に色々虐められたから池田を快しとしていなかったが、遠縁でもある吉田に『次は池田にしてやってくれ』と頼まれていた」と述べている[509]藤山派は「筋を通す」建て前から、立候補は辞退せず[488]、第二回投票では池田支持という態度を明らかにするなど、池田支持派が一気に巻き返した。池田陣営は財界主流をバックに総額10億円ともいわれる空前の実弾爆弾を仕掛けたとされる[505]。これに対して大野が用意した実弾は3億円だったとされる[510]。後で川島は大野に3000万円返したといわれる[505]。但し宏池会の裏方を任された大平は池田に「"ビタ一文、金を使うようなことは相ならん"と言われ、事実その通り実行した」と述べている[511]。こうして1960年7月14日、会場を日比谷公会堂に移して池田、石井、藤山の3名による総裁選挙が行われ、池田が大勝、激しい権力争いの末、池田が総理の椅子に就いた[512]。保守本流の危機を突破する役割を池田が果しえた主因は、勿論運もあるが、池田の決断とブレーンの後押しにあったといえる[490]。その日の午後、首相官邸における新総裁披露宴の最中、岸はテロに見舞われ重傷を負い、後味の悪い幕切れとなった[501][513]。刺された理由は、先に岸が4人全員に渡していたとされる次期総裁を約束した空手形と関係するといわれる[284]
  • 総裁選に際して、池田は同郷の先輩政治家肥田琢司に協力要請をした。岩淵辰雄は「池田勇人氏を再び岸内閣に迎え、安保条約の成立では、池田氏が身を挺してこれを支持したことであったが、それも肥田さんの努力の賜物であったし、岸内閣のあとに池田内閣が成立したのも肥田さんの力に負うものが大部分であった」と述べており[514]、池田から協力を懇願されてた肥田は人脈を生かした工作に加えて資金面でも大きく貢献した[515]
  • 総理就任を祝い3人の娘のために着物をあつらえた。居間に集められた娘たちは晴れ着のプレゼントと思い声を弾ませたが、畳紙の中から現れたのは喪服。母親から「もしものときのために、いまからあなたたちの分も用意しておけ」と伝えられた[516][517]
  • この総裁選の後、当時、自民党政治家のゴーストライターをやっていた渡邉恒雄に『サンデー毎日』から、大野伴睦の名前で、池田の金権政治に抗議するという内容の手記を書いてくれという注文がきた[518]。大野は鷹揚で「大野さん、『サンデー毎日』から手記を頼まれましたけども、書いていいですか」と渡邉が聞いたら「おう、適当に書いておいてくれ」という調子で、「原稿を見てくれませんか」と言っても「いい、いい、任せた」などと言われた。それで大野の手記の体裁で『サンデー毎日』1960年7月31日号に「陰謀政治は許されない 伴睦ここに大死一番」というタイトルで30枚の記事を書いた。当時の渡邊の原稿料は1枚千円だったが、大野の名前で書いた原稿料は1枚1万円で30万円になった。渡邊の月給は当時2万円だったので、思わぬ大金が入り毎晩後輩記者を飲ませていたら「渡邊が派閥を作っている」と言われたという[518]。なお、大野は池田が一年生ながら大蔵大臣に抜擢された際に、猛反発する党人派を宥めて池田を推したことから、大野と池田は仲が良く、大野が「池田は正々堂々と(?)戦ってくれた。池田に恨みは全くない」と渡邊に「池田に言って衆議院議長を取ってきてくれ」と頼み、渡邊が仲の良い大平に頼んだが、衆議院議長はダメで副総理を予定したが、佐藤栄作が反対し、1962年の第2次池田内閣 (第2次改造)のとき、副総理に就任している[519]
  • 池田は国民の間には「貧乏人は麦を食え、と放言した嫌なヤツ」という強烈な印象が残っていた[17]。岸内閣の安保強行採択で、人心はささくれ立っていて、岸の後に池田と二代も続けて官僚出身の政権が出来ることに辟易していたのが実情だった[17]。このため首相になるにあたって、放言癖や前岸内閣で傷ついた政府のイメージを払拭し、親しみやすさをアピールすることに努めた。池田のエリート臭を消すため、大平が苦心の演出を駆使した[520]。大平と並んで首相官邸の食堂で昼食のカレーライスを食べている写真を新聞各紙に載せさせたり[521]ダブルの背広が好きだった池田にシングルに改めさせ、金属製のフレーム眼鏡をアメ色の材質に変えさせた[520]。池田の尊大で冷たいといった印象を払拭させるためで、さらに、総理総裁たる者は「徹底的に庶民」にならなければならないとして待合ゴルフが大好きな池田に、絶対に行かないことを約束させ記者会見でこれを発表[522]、最初に渡されたときのメモには「芸者の入る宴会とウィークデーのゴルフ」と書いてあったため[523]、池田を大いに悔しがらせた[520]
  • 1960年、広島県人が御所へ行き皇太子に同年8月6日の広島平和記念式典への出席を要請し皇太子が承諾した[298]皇族はそれまで一度も同式典に出席したことがなかったため、アメリカが難色を示して大変深刻な問題となった[298]。この年7月19日に第1次池田内閣が発足し、官房長官となった大平にも圧力がかかった[298]外務省も頭を痛めたため、大平が池田首相に「やめにしたら」と言うと池田は断固として「アメリカに気兼ねはいらん。皇太子が約束された以上、皇太子は行かねばならん」と言ったという[298]
  • 1960年第1次池田内閣の発足で、日本初の女性閣僚として中山マサ厚生大臣に起用したが、1961年4月からの「国民皆保険」導入にあたり[524]日本医師会武見太郎会長が制限診療の撤廃など、素人には難しい要望書を提出してきた[524]。10日後、厚生省に武見が呼ばれ大臣室に出向くと、中山は机の下に隠した役人が用意したメモを読みながら回答を読み始めた。しかも老眼で首をのけぞるように苦心して読む。それに対して武見が反対意見を述べると「わかりました」と返事し、またメモをめくり次の文章を読む。これを繰り返すので話にならないと武見がキレて「あんたね、老眼で苦労して読んでるけどそれじゃ大変でしょう。そのメモを僕に貸しなさい」と言ったら、すんなり寄こし、メモを一読した武見が「これはとんでもない話だ。もう読んだからあなたの話は分かった。このメモはもらって帰る」と大臣室を出た。慌てて森本潔保険局長が追いかけて来て「そのメモを返して下さい」と言うので「返さない。おれはこれから総理のとこへ行く」と池田に直談判に行き「あんなばかなやつを厚生大臣にするなんてどうしたわけですか」と言ったら、池田が「こんど総選挙をするから女の票が欲しい。女性議員でまともなのはいないかと聞いたら、あれが一番良いというから起用したんだ。そんなに怒んなよ」と言われた[524]。池田も閣議で厚生白書の説明について中山に質問したら、答えがしどろもどろだったという[524]
  • 池田内閣時代に中山マサと近藤鶴代と二人の女性閣僚を誕生させたが、その後は中曽根内閣の石本茂まで女性閣僚の就任は約20年空いた[525]
  • 「政治は結論だ。経過は役人だ」と政治家は結論だけ打ち出して、その経過は役人に任せりゃいいという自論を持っていた[526]。役人上がりながら大胆不敵。演説も上手く、一千億円減税を打ち出す際、実際は3年でやるのを「所得倍増!」「一千億円減税!」とバーンとぶち上げた後、小声で「3年で」と言っていたという[526]。また、「みなさんが着ているワイシャツは870円くらいでしょう。これが社会主義国のソ連だと4300円もします。日本の五倍ですよ」「いま日本の国民所得はアメリカの八分の一に過ぎません。西ドイツの三分の一です。せめて西ドイツぐらいにはなりたい。それが出来るんです。日本の経済には、それだけの力がついているのです」「今後10年で実質所得は二倍になる。月給が二倍になるのです。そのときこそイギリスの大思想家ベンタムが唱えた、最大多数の最大幸福、という政治理想が実現すると私は信じるものであります」などと、分かりやすい数字を挙げ、身近な日常品から、経済、景気、政策へ入っていく[527]。池田の街頭演説は大いにうけた[527]
  • 私邸に新聞記者を集めては、経済政策、所得倍増を熱心に語った[528]。当時日経記者で同郷でもあった中川順は著書に池田との思い出にページを割き、多くのエピソードを書いているが、唯一残念なことは、日経の「私の履歴書」が日の目を見なかったことと話している。池田が大蔵大臣就任以来、赫々の"武勲"よろしく男の階段を登り始めて以来、中川は履歴書執筆をねばり強く交渉し続けたが、「総理にでもなればね」と断り続けられ、総理になると繁忙でダメになり、そのまま世を去ってしまった。総理経験者で「私の履歴書」に登場しなかったのは、吉田茂と三木武夫らわずかで、池田は中でも惜しまれる人物であった、と中川は話している[464]
  • 総理時代の池田が「財界四天王」の小林中桜田武永野重雄水野成夫と会うのは、極秘中の極秘。もう一人小間使いとして同席したのが鹿内信隆であった。池田は総理在任中、約束通り待合には行かなかったが「栄家」と「福田家」だけは利用した[529]。保険法案をつくる場合は、経営者側の負担を0.01%減らすと全国で3000億円違うとか、そういう話が決められた。数字に詳しいのは池田と小林と桜田の3人で、水野は数字に疎かった。特に小林は富国生命の社長で株の操作をやっていたという[530]
  • 第2次池田内閣で高度経済成長政策を批判した政調会長福田赳夫をクビにし、福田及び同調者を池田内閣の続いている間、完全に干し上げた[531][532][533]。安定成長論者である福田とは相容れなかった[534]。池田は派閥強化を助長し、派閥による党内抗争は池田内閣になって、その弊害が増幅し、これが力の政治になり、力を得るための金権政治を増長させることになる[535]。福田は池田との対立を機に派閥解消などを掲げた「党風刷新連盟」を結成した[25]。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する[536][532]
  • 福田が池田と仲が悪くなったのは、1948年昭和電工事件で福田が連座された際に、福田が大蔵省の同僚ということから池田のところへ、「自分の立場を理解して欲しい」と頼みに行ったら、池田が「よし、何とかしてやる」と言ったのに何もしてやらなかったのが切っ掛けと松野頼三は話している[537]。池田の後の大蔵次官は福田で当然と省内では言われていたから、池田は「あんな有能な人を、あったかなかったか分からん汚職で失うのは大蔵省の損失だ」と、せっせと裁判所に足を運び福田の弁護を買って出たと書かれた文献もあるので[15]、本当のところはよくわからないが、池田が大雑把で大酒飲みに対して、福田は秀才で酒を嗜まず、心から許して付き合う間柄ではなかったという[15]。池田と福田の確執は、福田と旧制一高の同期だった前尾繁三郎との対立が、池田、福田の抗争にズレ込んだ形跡が強く[15]昭電汚職で出遅れた福田が無所属で政界入りして自由党に一旦入党したものの、そこは池田の勢威が行き渡って福田の入り込む余地がなく、すぐ岸の新党運動に走った。福田は1952年の抜き打ち解散に伴う総選挙で初当選し、池田に唯一自身から挨拶に行ったら、カネを出すから自由党に入れ、のようなニュアンスの事を言われた[538]。当時国会には参議院を含めて24人の大蔵省出身者がいたが、うち23人が池田の子分になっていた[538]。福田は池田の誘いをキッパリ断り、自らこれを「栄えある一議席」と呼んだ[538]。このスタート時点の違いに、すでに陽の池田、陰の福田の政治的位置付けの始まりがあった[15]。岸が何故福田を重用し続け、岸派が空中分解した際も福田派に身を寄せたかといえば、岸はずっと大蔵省との関係に腐心し、大蔵省傍流組である池田派が力をつけていく中、大蔵省本流組である福田を取り込みたいと考えていたからである[539]
  • 田中角栄は政治家デビューして間もない1948年頃の29歳のとき、不当財産取引調査特別委員会委員として大蔵省官僚だった池田と知り合った[540]。池田は当時48歳で、数字を並べてぽんぽん財政の話を繰り出され「大蔵省というところには、大変な人がいるものだな」と圧倒された[540]。池田の財政通ぶりに感心していたため、池田が1949年に政治家としてデビューして大蔵大臣に抜擢された際もいち早く賛成に回った[541]。1955年の保守合同の際には、池田は自由党幹事長として岸信介石橋湛山の自由党からの除名が決めたが、このとき筆頭副幹事長だったのが田中で総務会で恩人・石橋の書類にサインをするとき池田が震えて躊躇していると傍らにいた池田の腕を取ってサインさせた[542]。この幹事長ー副幹事長コンビを組んだころから、田中は池田邸にしょっちゅう出入りするようになった[543]。ざっくばらんに話をする田中を池田は可愛がった[543]。池田も田中も同じ吉田門下であったが、吉田の寵臣として栄華を極める池田を見て田中は、池田につながって出世したいと策を巡らせ、田中の妻はなの連れ子・静子と池田の甥との結婚を仕組んだ[544]。田中は池田と縁戚まで結んで池田に付いていくつもりであったが変心した[545]。1956年12月に鳩山一郎首相の退陣に伴う総裁選があり、旧吉田派(当時は丙申会と呼んだ)[546][547]のうち、池田が石橋湛山を推し、佐藤が実兄岸を推したため田中は佐藤に付いて行った。結婚式は1956年12月5日にあり、その日の夜に丙申会の派として誰を推すのか最終的に決める総会が開かれる予定だった。二つに割れることが予想されたためこの日が吉田派の最後の日でもあった。結婚式が終わり外へ出たところで、池田は田中に「お前、どうしても佐藤の方に行くのか」と言うと田中は顔が上げられず、ようやく顔を上げて「池田さんにはお世話になりました。しかしその一歩前から、佐藤さんにお世話になった義理があるのです」と言った[544]。この義理とはかつて佐藤に長岡鉄道の顧問になってもらったことを指すが、それは本当の理由ではなく、総裁選では岸が勝つ、とすれば日の当たる場所に踊り出るのは佐藤であり、従って佐藤に付く方が自身の出世に有利であるとしたたかに計算したのである[544]。池田は田中の肝の中を見透かし「お前はきついやつだなあ」と言った[544]。田中は策を巡らせ、皮肉にも策が実って親戚になった日に、一度は盟主と仰いだ相手を裏切ったのである[544]。ところが政権を取ったのは佐藤より池田が先だった。1961年池田内閣での田中の自民党政調会長就任、1962年第2次池田内閣での大蔵大臣就任は、先の1960年総裁選での池田の票集めに奔走したことを池田に認められ、池田から抜擢されたもので[548]、田中の成長は佐藤派の参謀でありながら池田の側近でもあったからといわれる[549][550]。特に第2次池田内閣に於ける尋常高等小学校卒の田中、44歳の蔵相抜擢は、1890年日本の帝国議会開設以来、後にも先にも例がない[549]。田中蔵相と書かれた閣僚名簿を見た池田は「アレは車夫馬丁のたぐいだ。どこの馬の骨かわからん」と一蹴した[549]。「高度経済政策」を推進していくにあたって最も重要なポストである蔵相に、いくら池田と親戚関係になっているとはいえ、国家財政に一度も携わったことのない素人をあてることはできない[551]。ところが大平が「あの男ならやれます」と熱心に説得、党内の反発を押し切って池田はこれを了承した[552]。田中と大平の関係が密になるのはここからである[6]。田中の蔵相抜擢を聞いた佐藤は「あいつはおれを売って池田の子分になった」と激怒したといわれる[551]。田中の抜擢は、時として反旗を翻すことのある大蔵省へ池田が打ち込んだ"楔"という見方や[539]、金融や財政に素人の田中を据えて、事実上の実権を裏で池田自身が掌握する、総理と蔵相を自身で兼ねて自ら陣頭指揮を執り、田中を傀儡蔵相に仕立てた池田の策略という説もある[553]。池田と田中には長い因縁があった。野田卯一は「池田に対して田中を強引に蔵相に推薦したのは佐藤」と述べている[554]。岸、池田時代にまさか田中が総理になると思う人は党内にいなかった[554]。田中は石橋の死後一周忌で「池田さんは大蔵次官のとき、石橋さんに拾い上げられて、それからトントン拍子で政界をのしていかれた。うらやましいと思い、私は池田さんにそのように自分を引き立てて欲しいと頼み、そうしてもらいました」と話している[555]。田中は池田内閣で2年4ヶ月大蔵大臣を務めるが、「所得倍増計画」に代表される池田の経済主義路線は、開発政治の旗手である田中に絶好の機会を与えた[556]。田中はこの大蔵大臣就任期間の間に、得意の人心収攬術と政治力で誇り高い大蔵官僚を押さえ込んだといわれる[557]。田中は池田が進めた利益誘導政治の形成・展開に便乗したばらまき財政により政治基盤を固めていった[558]
  • 1961年4月に東南アジアに視察に出かけ、そのまま行方不明になった辻政信は池田と懇意であったことから「池田特使説」がある。池田がケネディに会うことになったので、辻が東南アジアの新しい情報収集を池田に頼まれていたというもの[559]。辻は岸が安保騒動で倒れ、池田が宰相の座につくと、俄然生気を取り戻し「岸とは性格的に合わないが、池田さんはわしの気持ちを分かってくれる男だ」と誉めていたという。池田の秘書・伊藤昌哉は辻の出発の10日ほど前に辻に呼び出され「旅費と現地大使館の便宜を図って欲しい、その代わりに東南アジアの情報をおみやげに持ってこよう」と言われ、池田に報告したら「善意の押し付けだ」と言ったが、せっかくなので辻の申し出を承諾した、しかし池田から頼んだことではないと述べている[559]
  • 1961年6月の訪米で、ジョン・F・ケネディ大統領と会談する際、夫人がジャクリーン・ケネディ・オナシスなので、こちらも夫人同伴がいいのではないかという話になり、池田の妻・満江が同行した[560]。それまでそんなところに女性が出て行くという習慣はなく、満江は首相夫人が外遊などに同行する先駆けとなった[152][561]
  • 1960年代にインドネシアスカルノ大統領と池田をつなぐ仲介役を務めたのはデヴィ夫人という。デヴィは池田と家族ぐるみの付き合いがあったといい「日本外務省にはこき使われました」と話している[562]
  • 首相時代の総務会の宴会で中曽根康弘に対して「やはり日本も、を持たなくては駄目だね」と語った[563][564]。中曽根は「同感だと。政治家として公言はしないが、日本を背負って立つような政治家になるためには、根性を持たなくては駄目だと思っている」と述べている[564]。経済外交としても目覚しい成果を挙げた池田であるが、1962年11月の訪欧時にロンドン英首相ハロルド・マクミランと会談した後、池田はホテルでくつろぎながら、秘書の伊藤昌哉に「日本に軍事力があったらなあ、俺の発言権はおそらく今日のそれに10倍したろう」と慨嘆し、各国首脳との接触を重ねるうちに、経済力の裏付けしかなく軍事力の後ろ盾を欠く外交の弱さを思い知らされていたという[236][565][566]
  • 首相になっても晩酌が進むと「大国である日本はそれにふさわしい核武装をすべきだ」などとぶちだすのが毎度で、その度に、外部に洩れたら大変だと側近はハラハラした[489]。「被爆地広島を選挙区に持つ政治家の発言することではない」と懸命に諫めても池田は聴きいれない。三木武夫と柳橋八百善で会合したとき、その核武装論をぶってしまい、三木がどこかにそれを書き大事になったこともある[489]
  • 1961年6月、アメリカでケネディと会談した際、ケネディに対し、アメリカが核実験再開に追い込まれた場合、米側の立場を「了解する」と明言したとされ[567]、池田はアメリカからの日本国内への核兵器持ち込みを知っていたとされるが(日米核持ち込み問題[568]、1963年3月の参議院予算委員会で「核弾頭を持った潜水艦は、私は日本に寄港を認めない」と答弁した[568][569]。この発言にライシャワー駐日アメリカ大使が慌てて1963年4月4日、大平外相を密かに呼び、大平が核密約(日本国内の基地への核兵器の持ち込み)の内容を確認し、日本国内への核兵器持ち込み(イントロデュース)を了承したとされる[568][570][571]
  • アメリカ中央情報局(CIA)が反共政策の一環として、岸内閣[572]、池田内閣[572]、および旧日本社会党右派に秘密資金を提供し政界工作を行っていたと報じた[572]
  • 第2次池田内閣時代の1963年5月14日に「全国戦没者追悼式実施要項」が閣議決定し、同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、8月15日が終戦記念日と法的に定められた[573][574]。この1963年8月15日は靖国神社で行われ、天皇、皇后両陛下ご臨席の下に池田首相と全閣僚、衆参両院議長が臨席した[455][575]。それまでにも民間で追悼行事は行われていたが、国家が主体となって8月15日に追悼イベントをやることが、この時に初めて打ち出された[573][576]。これが今日まで問題になっている8月15日の首相、閣僚の靖国神社参拝合憲違憲かという論争の発端であるが、このときはさして問題にはならなかった[455]。前年は日比谷公会堂で行われたが、日本遺族会から強い要請があり[455]、自民党内の支持勢力も強く、総裁三選の絡みもあって会場をこの年靖国神社に移した[455]。この件に関して池田は積極的だったという[455]。池田は「戦後わが国の文化と経済の著しい発展は、その底に祖国の栄光を確信して散った多くの人々の願いあったことを忘れてはならない」と式辞を述べた[576]。以後、毎年8月の追悼式の首相式辞において、わが国の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上に築かれているという評価が定着していった[576]。池田政権が戦没者に対する国家としての意味づけを定着させたことは、300万人に及ぶ遺族を保守政権に惹き付けるのに少なからず寄与した[576]
  • 1963年、国鉄総裁の起用に財界人の抜擢に執念を燃やし十河信二を辞任させた上で、綾部健太郎運輸大臣に後任総裁の人選を指示した[577][578]。池田が財界人の起用にこだわったのは、当時池田の対中接近などで政敵になっていた佐藤の国鉄への影響力を絶ち、公共企業体としての明朗な国鉄カラーを取り戻し、国鉄経営に民営色を強め、思い切った経営合理化を実施しようと考えたからであった[579]。それが分かるだけに財界人はよけい尻込みした[580]。また末路はすべて不遇の花道にもならないポストに池田から声をかけられた財界の反応は冷ややかであった[580]松下幸之助中島慶次にも断られ、結局池田から人選を頼まれた石坂泰三が親友の石田礼助に頼み、石田が後任総裁に決まった[578]
  • 1963年11月、暗殺されたケネディ大統領の葬儀参列のため渡米し11月25日、聖マタイ教会での葬儀とアーリントン国立墓地での埋葬式に参列。同行した秘書官の伊藤昌哉に池田はぽつりと「伊藤君、これが政治家の死というものだ。オレもできたら短刀を突き刺され、弾丸のひとつも撃ち込まれて死にたいと思っている」と言ったという[581]
  • 首相在任中の1964年、戦後の歴代総理が果たせなかった生存者叙勲を、太政官布告の運用再開という形で復活させる[455]。国会では石橋政嗣ら日本社会党から異論が出るも、ついに押し切った。再開後最初の叙勲で政治上の恩師吉田茂大勲位菊花大綬章が授与され、親授式後の記念撮影では、満面の笑みを浮かべた両者が最前列中央に立った。「電力の鬼」松永安左エ門は、共に戦後の国内電力事業再編成を実現させて[178][179]、以降懇意であったが、松永に勲一等瑞宝章を打診した際、松永は「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と怒り、これを拒否。困った池田は、松永に可愛がられていた永野重雄に説得を頼み、何とか受勲させたものの、親授式の出席は拒否された[注釈 10]
  • 池田が自民党総裁の三選を目指した1964年の自民党総裁選挙は、池田の出馬を阻止しようとする動きがあったとされるが池田は拒否し、池田vs佐藤の直接対決となった[582]。この総裁選はかつてないほどの"実弾"が飛び交い、"史上最低の選挙"ともいわれた総裁選として知られる[488][583][584]。以後の総裁選には必ずこれに類する裏工作が展開されるのが常識になった[585]。池田薄氷の勝利には二つの大きな流れがあった。一つは田中角栄で、池田派と佐藤派という保守本流同士の争いで、その立場が微妙だったのが当時の大蔵大臣だった田中だった。田中は先の関係から池田シンパで、池田に力を貸していた[586]。佐藤派幹部で池田と口が利けるのは田中だけで[587]、吉田は別として池田と佐藤を繋ぐ者は田中しかいなかった[587]。総裁選の間、田中は佐藤派の事務所にはほとんど姿を見せず、保利茂参謀長ら佐藤派の幹部から「田中はどうした」「田中を呼べ」と声が渦巻いた。一回だけ来て「ヤァ、ヤァ」と挨拶しただけで帰ってしまった[494]。佐藤も田中の立場は知っていて「田中のことは触れるな」と言っていたという[494]。田中が積極的に佐藤側に付いていれば佐藤が勝ったといわれる[494]。もう一つが渡邉恒雄[588]。前述したように渡邊は大野伴睦と親しい間柄であったが、総裁選で激しい党内争いをしていたとき、副総裁だった大野が脳溢血で倒れた。そのとき大野派では、総裁選で池田を推すか佐藤を推すかで派内で大議論の最中だった。渡邉は池田支持だったため、病床の大野に「あなたは佐藤には騙されたことがあるが、池田には騙されたことがない。今回も池田を支持すべきだ」と話したが、大野はかなり容体が悪く返事がない。渡邊は秘書の山下勇や中川一郎と仕掛け、大野が権力を維持するためには、大野が元気で、しっかり意思表示できるという証明がいると、まず面会謝絶にして、大野が毎日俳句を作ってることにしてそれを記者会見で発表した。俳句は多少心得のあった大野の第三秘書が書いた。その後渡邉が大野事務所に行き「大野さんは池田支持に決めた」とみんなに言うと幹部の船田中原健三郎が「大野先生の意向は決まった」と叫び、大野派40名が池田三選支持に回った[588]。こうして7月10日に行われた総裁選挙は、池田が三選したが大野派40名の支持がなければ微妙な戦いだった[488][588]。渡邊はこの功績によって池田に可愛がられるようになり、大野派を継いだ船田番となり、旧大野派の窓口になって池田に直接閣僚人事を交渉したという[589]。田中はこのときは佐藤を裏切った形となったが、池田の近くにいたため、池田が病に倒れた後、池田を見舞い、最も早く池田の病状や胸中を察知でき、池田が「後継を佐藤」と判断しているという認識を佐藤に橋渡しすることで先の総裁選での佐藤への義理を返した[494]
  • 三選後、外国人記者に「池田内閣は来年(1965年)7月で終了し、次期(首相)は佐藤に間違いない」と言われると「オレは長年続けて首相を務める。アデナウアーのように、だ」とぶった[590]
  • 吉田学校の双璧といわれた池田と佐藤栄作は、盟友でもあり最大のライバルでもあった[512][521][591]。両者は協力し合いつつ敵対し、敵対し合いつつ助け合ってきた[592]。親友といわれることもあるが、五高で池田の一年先輩・細川隆元は「表は兄弟のように親しく見えても、性格の相違とはおかしなもので、両方ともお互いにあまり好きでなかった」と述べている[593]。池田は佐藤より2歳年上だが二浪したため五高で佐藤と同級になった。さらに池田は病気で一年落第し、佐藤が先に五高を卒業して東大に入った。佐藤は高文の成績が悪く東大卒業後大蔵省に入れず、定員に満たない鉄道省に入ったが、池田は東大に落ちて京大に行った後、大蔵省に入った[594]。1964年、池田の死で後を継いだ佐藤は、総理大臣として歴代最長の7年8か月の連続在任を記録したが、そのエネルギーは池田への激しい対抗意識があったといわれる[595]。佐藤は池田の三選阻止のため、1964年夏、自民党総裁選挙に立候補した際、記者団に「ソ連には南千島返還を、アメリカには沖縄の返還を積極的に要求する。領土問題が片付かないと"戦後は終わった"とか、日米パートナーシップの確立とか、ソ連との平和外交の推進とかはいえない。池田内閣が沖縄の返還を正式にアメリカに要求したのは聞いたことがないが、私がもし政権を取れば、いずれアメリカに出かけてジョンソン大統領に対して正面からこの問題を持ち出すつもりだ」と話した。佐藤が総理大臣として後世に名を残すほどの業績をあげようとする場合、その選択肢は自ずと限られるという事情があった。内政とくに経済面でいえば、「所得倍増計画」をひっさげて登場した池田に比べてどうしても影が薄い[375][596]。池田の後を引き継いで池田以上の経済成長はしたが、本来佐藤は経済は全くの素人で[597]、蔵相になって経済の勉強を始めたような人で、「経済政策は基本的には池田路線の踏襲」[392]、「新しいものは何もない」[17]、「池田の成長戦略から漏れ出た部分をフォローするような政治」などと評された[598]。池田に比べて国民的人気も低く、池田の向うを張って、どうすれば国民的人気を得られるかに腐心した[599]。外交面でも残る戦後処理案件は、日ソについては、領土問題が絡んで難しく、また反共主義者権化佐藤が、中国北朝鮮の国交正常化に本腰を入れる予測は皆無で、すると残りは沖縄返還しかなかった[600]。これが佐藤が政治生命を賭けて沖縄の施政権返還に取り組むに至った事情である。池田と佐藤は、吉田茂門下という保守本流の基盤の上に長い交遊関係を続けていた[494]。池田ら5人が立候補した1960年の総裁選挙でも、吉田の説得もあり、結局兄の岸と共に同じ官僚出身の池田を支持し、党人派連合を破り、池田内閣をつくり上げた。佐藤には「池田内閣は、おれが作ってやった」という自負があった[601]。池田は1960年7月からの第1次池田内閣では、佐藤の要請を聞いて河野派を締め出し、大野伴睦副総裁帰り咲きも見送りにさせたが、1962年7月からの第2次池田内閣 (第2次改造)では、池田は佐藤の要請を無視し、佐藤とは犬猿の仲の河野一郎を入閣させ、同じく佐藤と犬猿の仲の大野を副総裁に復帰させた。かつては"喧嘩河野"といわれ、敵が多かった河野であったが[594]、入閣すると人が変わったように池田に尽くし、元々一本気な性格が似たところがあって池田も情が移り、佐藤を無視して河野とばかり相談するようになった[594]。これに佐藤は嫉妬し一悶着あり、池田と佐藤は急速に仲が悪くなった[594]。当時、政界では、池田に近い友人(佐藤)から遠い他人(河野)へ馬を乗り替えたという例え話が流行った[602]。佐藤からすれば、池田との間に「次は佐藤」という言外の信頼関係があるという思いがあり、池田再選(1962年7月)のときも、回りから「出馬すべし」の声が強かったが立候補しなかった[494]。ところが4年も経った池田三選のときには、さすがに池田に「俺に譲れ」と迫った。しかし池田が「まだやる」と佐藤の訴えを却下した。吉田を調停役に三者の会談が行われたが池田は譲らない。池田は吉田に会うのも避けるようになった。これで池田と吉田に完全に溝ができた[494]。佐藤はこれを「恩を仇で返す」離反とみなし、こうした両者の激しい対立関係が池田へのアンチテーゼとして佐藤の沖縄問題への傾斜を一層促すことになった。佐藤の時代に日本経済の高度成長期はピークを迎えるが、一般には佐藤独自の政策の効果というよりは、やはり池田からの延長線上の景気拡大と受け止められていた。佐藤は政権担当の前後から、自らの名誉獲得すべてを沖縄の施政権返還に託したのである。それは沖縄問題に突き進む以外の選択肢は見当たらなかったともいえる[601]
  • 西武グループの創業者で衆議院議員でもあった堤康次郎は池田と親しく[603]、1964年池田が死去する少し前に亡くなったが、後援会は父の秘書を務めたことのある息子・堤清二に地盤を受け継ぎ政治に出てくれと頼んだ。池田が清二に親父の後を継がないのか」と聞いたら「自分は政治家に向かないと思います。しかし地盤は残っているので、総理から誰か推薦いただければ」と言うので、池田が大蔵省の青山俊を推薦し清二に「口説いてくれ」と頼んだ。しかし青山も清二と同様に政治が嫌いでやはり断わり、青山が山下元利を推薦し、池田も大蔵省時代の部下だった山下を知っていて「山下ならいい」となり、山下が堤康次郎の地盤を継ぐことになった[604][605]。しかしほとんど面識のない山下に地元から不平不満が爆発し、池田も亡くなったため、清二は佐藤栄作総理から田中角栄幹事長を紹介され、田中が滋賀県県議10人を前に料亭の畳に額をこすりつけ、「山下元利を男にしてやってくれ」と頼み込み話がまとまった。田中と山下の師弟コンビをここに始まる[605]。また先の堤康次郎が亡くなった際に清二が家督を継がないと表明したため、弟の堤義明コクド西武鉄道グループを引き継いだが、康次郎は生前、相続税に疑問を持っていて、その対策により相続税が0円になるようにしていた。西武という巨大企業の創業者の遺族が相続税0では世間で通らないと、清二は税の専門家である池田に相談し、池田のアドバイス通り1億円以上の相続税を支払った。しかし40年後、義明が西武鉄道株を他人名義にしていたことが発覚し、西武グループの総帥として君臨していた座から転落した。清二は「あのとき池田さんに名義株のことをきちんと話していれば、西武鉄道グループが、今のような憂き目を見ることもなかった。それが残念でなりません」と話していた[605]
  • 数字に強いのが売りだったため、城山三郎が「数字の使い方が違う」と新聞に書いたら、池田の秘書から電話が掛かってきて池田の自宅に呼びつけられた。城山が「この数字はおかしい」と言ったら、新しい資料を持って来て「これでどうか」と言うから「やっぱり僕の考え方と合わない」と言ったら「あなた、大学で教えているそうだけど、大学での資格は何だ?」と聞くから、専任講師と答えると「僕を教えられるのは、講師でなく教授だよ」と言われたという[606]
  • 1964年5月、朝永振一郎日本学術会議会長が、人類の起源の解明には霊長類研究が必須だ、という理由から、池田に「霊長類研究の重要性に鑑み、その基礎的な研究をおこなう総合的な研究所を速やかに設立されたい」という主文はわずか1行半の「勧告」を行い、3年後1967年6月に京都大学霊長類研究所が発足した[607]
  • 1964年、病気退陣の直前、戦後初めて日銀総裁に民間人として宇佐美洵を据えるよう佐藤に申し送った[608][609]。これはそれまで歩調を合わせていた大蔵省の同期・山際正道が次第に政策面で折り合わなくなっていたための交代である[610]。宇佐美は三菱銀行頭取のときに、桜田武の斡旋で、岩佐凱実富士銀行頭取、中山素平日本興業銀行頭取の金融トリオとして池田に接近したことに付き合いが始めるが[611]、岩佐、中山が自主調整論の信奉者であったのに対して、宇佐美は自由経済を尊重し、その基盤に立つ成長のバイタリティーを評価する点で、三人の中では池田に近く最も密接な関係があったといわれる[608]
  • 児玉誉士夫が吉田内閣のとき、反吉田運動のテコにしようと池田のスキャンダルを握って暴き立てようとしたら、池田の某側近がやってきて「勘弁してくれ、そいつを暴かれると池田の政治生命が断たれてしまうから」と手をついて頼んできた。しかし児玉が「いや許すわけにはいかん」と居丈高に断ると側近が「いや、実は他にもこれがある、これがある」とみんなペラペラ洗いざらい喋った。児玉の方がびっくりして「これは保守政治全体が危ない」と思案し暴くのをやめたという[612]
  • 池田が大蔵省官僚時代に主税局長に就任したのは1945年2月17日であるが、この頃はもう敗戦色濃く、国民は食うものもなく逃げ惑う状態で、徴税のための税務署の職員も出征や田舎に引き揚げたりで徴税どころでなく、池田本来の仕事はもう無かった[613]。池田は1945年の新春に家族を埼玉県春日部疎開させて、自身は東京信濃町の自宅で単身生活を始めたが[8]、滅多に春日部へは帰って来なかったとされ、この後敗戦までの半年間、何をしていたか。池田の伝記は全て主税局長就任の1945年2月以降の記載がなく、この後は終戦後の活動となっている。陸軍に引き回されていた主計局と違って実は主税局は当時、国有財産管理の仕事があった[613]。池田は敗戦後の8月の先述の特殊慰安施設協会の話と、8月20日頃、1日だけあったとされる庁舎清掃の日は大蔵省内にいたとされる[614]林房雄著の『随筆 池田勇人』のみ、主税局長就任の1ヵ月後の「3月16日に軍需省参与大東亜省交易局参与に任じられた」と記述されているが、具体的にどんな仕事をしていたのかは書かれていない[615]鬼塚英昭は、池田はその後国有財産の管理をやっていたのだろうと推察している[613]。1945年2月からGHQが日本を支配することを想定し、皇室財産担当のマーカット少将を局長とするGHQ経済科学局(ESS)は、天皇家の財産目録の作成にかかり、宮内大臣になっていた石渡荘太郎宮中内に天皇財産管理室を作り、宮内庁の役人にできる仕事でないため、迫水久常からの進言を受け、津島寿一大蔵大臣が数字に強い池田を天皇家の財産管理人として指名、この財産の中の処分仕切れない金塊プラチナダイヤモンドなどを池田が外部に移した、またこれとは別に敗戦二年前に東条英機首相が国民から供出を訴えて集まった、ダイヤモンドなどのうち、工業用には使えないものを集め「日本金銀運営会」を立ち上げ大蔵省の管理下に置いた、この運営は迫水と三浦義一が行ったとする文献が多いが、三浦は一役員で、実際は迫水と池田が共同運営した、戦後贅沢三昧で遺産を食い潰し金を持っていなかった吉田茂に迫水と池田が「金銀運営会」から金を引き出して吉田に渡し、吉田は首相になったのであろうと推察している[613]。林房雄は、吉田ら占領下時代の首相を"牢名主"と表現している[616]。"牢役人"は民政局であり、吉田政権もアメリカの傀儡政権ともいわれる[617][618]。池田は占領下の日本に於いて、ESSのマーカットジャパン・ロビーのドッジやドレイパーらと親しくなっていき、CIAからも見返り資金(通称:キャンデイ)を一番貰い、彼らの要求にも応えた。池田は戦後のドサクサ紛れの隠し金、「天皇マネー」、「日本金銀運営会」(大蔵省外郭団体)、「隠退蔵物資」の管理者との指摘もあり[613]隠退蔵物資事件では世耕弘一から国会で追及を受けている[619]。その他、豊富な献金ルートを持っていてアメリカの要求に応えることが出来た。勿論応えられる実力もあった。アメリカの要求とは、短期的にはドッジによる銀行集団が戦前に日本に投資した金の回収と再投資で、これには数字のエキスパートである池田が必要だった[620]。また長期的にいえば、日本をアメリカ好みにコントロールすること、その基礎は親米であり[621]、権力欲の強い池田とは利害が一致した。異例の出世を遂げた理由も、なぜ戦後の重大な日米交渉を池田がやっているのかもこれで説明できる[613]。池田指名は吉田からではなく、アメリカから出ていたのである[622]。鬼塚は、戦後の日本の政治家で最も力を持っていたのは「天皇マネー」を握った迫水と池田、特に他にも豊富な資金源を持った池田だったと推察している[623]。迫水の方の目的はメディアを通じた天皇信仰がその一つだった[624]。一般に吉田と池田は師弟コンビとして語られるが、鬼塚は経済オンチで経済政策を池田に丸投げした吉田を池田が尊敬するはずがなく[623]、吉田は出世の階段を昇っていく手段としての師で、本当の意味での師は石橋湛山だったと推察している[623]。石橋は大蔵省時代の上司と部下の関係から、戦後お互い政治家となると関係が悪化した。石橋は池田の不信任案に2度賛成し、池田は石橋を2度党から除名した[625]。石橋は池田の政策に何度も異議を唱え、池田は窮地に陥ったこともあるため、これらは出来レースではなく実際に仲が悪かったものと考えられる。しかし石橋が首相になったとき復縁した。石橋は金を持っておらず、池田の資金無くして総裁選を戦えなかった。この取り持ちは松永安左エ門と考えられる[625]。首相になった石橋は組閣人事で「他のポストは全て譲ってもいいから」と池田蔵相にこだわり、ここで師弟コンビが復活した[243][626]。石橋・池田コンビは「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出すが同内閣が二ヶ月の短命に終わってしまった。石橋が3年ぐらい首相をやってその後池田と考えられたので[613]、そうなれば「国民所得倍増計画」に近いものが少し早く実現したかもしれないが、この1957- 58年の段階では、石橋も池田も理論的にはまだ不十分で[627]、このコンビが続いたとしても経済成長政策がどのような形になったかは不明である。
  • 池田は、その死の直前に「自分は国民を甘やかす政治をしてしまった」と言い残したといわれる[628]。池田は自身の公約が着々と実現されていくのを見ながら、憂鬱に囚われていたともいわれる。秘書の伊藤昌哉はこの言葉の意味を「経済を良くしたことで、賃金も労働条件も国民は要求するばかり、国家はそれを聞いてやるばかりになった。国民は国家の一員だということ、国家に対する義務や、国家が国民に期待することを果たす責任も、国民にあることを説明するのが下手だった」「戦後日本の政治は父親の政治ではなく、母親の政治をやってしまった、甘やかすことに長じていて、自分の足で立っていないような国にした」と解説している[628]。伊藤は「池田が残した思いとは、国防を自前でやることと、憲法改正だったと思う」と話している[629][628]
  • 戦後の総理大臣の中で、東京都以外に位置する日本の大学を卒業しているのは池田のみである(宇野宗佑神戸商業大学中退)。

栄典[編集]

家族・親族[編集]

池田家[編集]

広島県竹原市東京都

  • 前妻・直子(元伯爵貴族院議員だった広沢金次郎の三女、元参議広沢真臣の孫)
    直子の兄の姻戚には、旧侯爵大隈信常がおり、名門である[630]。地方の素封家の息子でも「学士の大蔵官僚」とあれば旧貴族との結婚は、ごくあたりまえのことだった[630]。学士と華族の結びつきは、親たちの名門意識をささえる一つの手段であった[630]
  • 後妻・満枝医師大貫四郎吉の二女、母の従姉妹の娘にあたる)
    満枝は医者の娘で広島の名門山中高等女学校、名古屋の金城女子専門学校を出た才女だった[631]。池田の先妻直子が学習院出だからと娘たちも学習院に通わせた[630]
  • 長女・直子(元近藤商事会長近藤荒樹の長男近藤荒一郎の妻)
    直子の嫁ぎ先は、戦後の“金融王”といわれた近藤荒樹の長男荒一郎[631]。いわゆる庶民金融の草分けで、池田が岸内閣の蔵相として活躍していた昭和32年(1957年)頃は、高額所得番付で全国六位にランクされるほどの資産家だった[631]。この2人の結婚は昭和33年(1958年)1月[631]。当然ながら世間から、“池田は資金源を身内に入れた”と見られた[631]。また、この婚姻で池田家は、荒樹の後妻が元伯爵明治神宮宮司甘露寺受長の長女・績子という関係から旧皇族北白川家までつながり、箔をつけている[631]
  • 二女・紀子(大蔵官僚、政治家池田行彦旧姓粟根)の妻)
    池田家の養子になったことについて池田行彦は「たまたまって感じですね。大蔵官僚は仕事がいそがしいので、女性とめぐり合う機会が少ない。そこで紹介というのが多くなるのですが、たまたまそれが池田の娘だったということですよ」と述べている[632]
  • 三女・祥子(元日本ゴム会長石橋進一の長男で元ブリヂストンタイヤ会長石橋正二郎の甥にあたる石橋慶一の妻)
この結婚で池田家は、さらに閨閥を広げ、鳩山一郎石井光次郎三井財閥の団一族とも“血の連鎖”を結ぶようになった[631]

系図[編集]

 
北白川宮能久
 
満子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
甘露寺受長
 
績子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近藤荒樹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近藤荒一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊久子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
児玉源太郎
 
ツル
 
 
 
 
 
 
来原良蔵
 
 
 
 
 
 
木戸幸一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
和田小六
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寿栄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山尾庸三
 
 
山尾三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千代
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広沢真吾
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広沢真臣
 
広沢金次郎
 
 
直子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池田吾一郎
 
池田勇人
 
 
直子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
紀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
池田行彦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
満枝
 
 
祥子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石橋進一
 
石橋慶一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石橋毅樹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浜口儀兵衛
 
邦子
 
 
 
 
 
 
石橋徳次郎
 
 
石橋徳次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鳩山一郎
 
鳩山威一郎
 
 
鳩山由紀夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安子
 
 
鳩山邦夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石橋正二郎
 
 
典子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
多摩子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
啓子
 

著書[編集]

  • 『改正税法に就て』(東京銀行集会所、1942年刊)
  • 『改正税法並びに関係命令に就て』(銀行員同攻会、1942年刊)
  • 『改正税法の解釈:法人関係』(生産拡充研究会編、1942年刊)
  • 『間接税等改正税法解釈:酒税等の増徴等に関する法律解釈』(大蔵財務協会、1942年刊)
  • 『広告税に就て』(日本広告倶楽部編、1942年刊)
  • 『財産税・法人戦時利得税・個人財産増加税の解釈』(日本産業経済新聞社、1946年刊)
  • 『均衡財政‐附・占領下三年のおもいで』(中公文庫〈シリーズ戦後史の証言〉、1999年2月) ISBN 4-12-203358-6

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 竹鶴が「私の履歴書」に記したところでは、池田は当時寮長だった竹鶴に対して「こわい」という印象を抱いていたという(『マッサン』より10倍豪快な竹鶴政孝の「ウイスキー人生」)。
  2. ^ 友人として急速に接近するのは、互いに政界入りしてからである。池田が死亡した際、佐藤(当時首相)が葬儀委員長を務めている(『正伝 佐藤栄作(下)』 42頁)。
  3. ^ その後何度もドッジと池田の交渉が続き、ドッジ予算が可決したのは年度開始日の4月1日、両院通過成立は4月20日(渡辺武『占領下の日本財政覚え書』、191-211、232-234頁)。
  4. ^ 約3か月半後に第4次吉田内閣は反主流派の採決欠席により内閣不信任決議を受け、バカヤロー解散に至っている。
  5. ^ 下村治は「石橋さんは理論的には不十分な展開だったと思う」と述べている(『聞書 池田勇人』、252頁)。
  6. ^ 佐藤は田中角栄松野頼三保利茂愛知揆一橋本登美三郎二階堂進らと周山会を結成する。
  7. ^ 佐藤を「指名」したと言われていることについて、渡邉恒雄(当時、読売新聞社記者)は自伝『天人天職』のインタビューの中で「抗がん剤の副作用で意識が朦朧としていた池田さんを田中角栄と大平正芳が丸め込んだのではないか」と回想している。ただし、池田は、この際に放射線照射による治療を受けているが、抗がん剤の投与は受けておらず、かつ、佐藤への後継指名は、池田が副総裁川島正次郎と幹事長三木武夫に自民党内の意向を調整するよう指示した上で行われており、この話の信憑性は薄い。細川隆元は著書で、細川の五高の一年後輩で、池田と佐藤の同級でもある朝日新聞の佐藤弥(わたる)が池田と面会し、池田から「川島副総裁にも三木幹事長にも言っていないが、佐藤に伝えて欲しい。(1)自分の政策をそのまま踏襲するという声明を出す、(2)来年(1965年7月の参院選)まで大臣を一人も変えない、(3)おれが河野と手を組んだように、これから河野と手を組んでやってもらいたい、この三つの条件を飲むなら佐藤に譲る。飲まないなら河野に渡す」と言われ、すぐに佐藤に伝えるとやはり(3)に難色を示したものの、結局この条件を佐藤が飲み、池田が佐藤を後継に決めたと書いている(細川隆元『男でござる 暴れん坊一代記 龍の巻』、山手書房、194−200頁)。
  8. ^ 浅沼稲次郎『私の履歴書』によると、田所輝明。田所輝明『無産党十字街』では、「ある同志」の歌としている。
  9. ^ 1960年10月18日の衆議院本会議の議事録を閲覧。この演説は、池田の「場内がシーンとなる演説を」という注文によって、首席秘書官伊藤昌哉が書いた。「あの演説は五億円か十億円の値打ちがあった」と池田は述懐している(若宮啓文「忘れられない国会論戦」中公新書 1206 中央公論社 1994年 ISBN 4-12-101206-2 C1231)。
  10. ^ 説得にあたり、小田原の松永宅に尋ねた永野は、松永に立ててもらったお茶の懐紙で鼻水をかんだ上、「あなたが叙勲を受けないと、生存者叙勲制度の発足が遅れて、勲章をもらいたくてたまらない人たちに、迷惑がかかる。それに、あなたはどうせ老い先が短い。死ねばいやでも勲章を贈られる。それなら生きているうちにもらった方が人助けにもなりますよ」と、相当失礼な言を吐いて迫った。結局、松永はこれを了承する格好となった(永野重雄著『わが財界人生』ダイヤモンド社(1982年)、167-170頁)。

出典[編集]

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追悼集[編集]

  • 『池田勇人先生を偲ぶ』 松浦周太郎志賀健次郎編(非売品)、1967年-追悼文集
  • 『池田さんを偲ぶ』 岡田幸雄・池田会編、財務出版(非売品)、1968年-追悼文集

参考文献[編集]