千田貞暁

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千田貞暁

千田貞暁(せんだ さだあき、天保7年7月29日1836年9月9日) - 明治41年(1908年4月23日)は、明治時代県令知事)、貴族院議員、正三位勲一等男爵広島県の県令のち県知事後、新潟県和歌山県愛知県京都府宮崎県知事を歴任した。

略歴[編集]

栄典[編集]

外国勲章佩用允許

経歴[編集]

千田貞暁銅像

広島へ赴任[編集]

千田は前任地の大分県から海路汽船により広島へ県令として赴任した。その際、太田川が運ぶ土砂により遠浅の干潟が続く広島へは、沖合いの宇品島(現在の元宇品)で乗客用の和船に乗り換えたり、貨物は(はしけ)に乗せ変えたりしなければならず、また乗り換えても遠浅の海が潮が満ちるのを待たねばならないことを目の当たりにした。 着任早々市内を巡視した千田は、インフラが藩政時代のままのため方々で物資が渋滞し、それが原因で経済活動が停滞していることに驚いた。そこで港の整備とそこへ続く道路の整備が必要と考え、宇品築港を決意した。

宇品築港計画[編集]

1881年5月末、千田は内務省内務卿松方正義)宛に要請し、お雇い外国人ムルデル(A.T.L.R.Mulder:)に現地を視察させ調査・計画策定させる事となった。ムルデルは内務省嘱託1等工師(技師)である。当時のお雇い外国人の中でオランダ人は土木分野、特に河口近くの平野部で堤防の建設や、川底の掘り下げや分水などを行い、洪水予防をする工事や運河を建設したり港湾の建設といった「低水工事」がお家芸であり高く評価されて雇われていた。太田川デルタ河口の遠浅の海での干拓と港湾建設には適任であるといえる。 ムルデルは現地を視察し、築港計画のみでは太田川の土砂運搬作用により遠からず土砂が堆積し、沿岸流により漂砂として港湾に流れてくると予想した。そこで築港と同時に宇品島(現在の元宇品)と京橋川左岸の間に堤防を築き、干拓地を作ることになった。

まず京橋川左岸の皆実新開と宇品島の間に堤防を築き、宇品金輪島両島の間の海峡を大きな船の停泊場とする。第2の工事として停泊場と広島市街を結ぶ車道を作る。第3の工事は、皆実新開と宇品島の間に新開墾地(干拓地)をつくるというものである。

反対運動[編集]

千田貞暁

千田は広島市内の有志を招集し、築港計画の起工について満場一致の賛同を得た。計画はスタートを切ったのである。ところが、ここに来て大きな反対運動が起こった。 広島では江戸時代の終わり頃より海苔を薄く精製した漉き海苔が西国で初めて作られ、養殖海苔の一大産地であった。また現在も有名である広島の牡蠣養殖も牡蠣筏を使用した養殖ではなく、干潟に直接雑木や竹を立てて養殖していた(孟宗竹を利用した沖合いの牡蠣筏による養殖は昭和30年代より)。また干潟ではアサリの採取も行われており、仁保島村大河など計画地の周辺の住民達は漁場や海苔や牡蠣の養殖場を奪われて生計を失うとして激しい反対運動を開始した。

寺の梵鐘を合図に反対派住民は集まり、賛成派住民の商店からの不買を決議して気勢を上げた。また反対派住民は反対陳情の為千田県令の家に押しかけたが、まるで陳情といった光景ではなく、ムシロ旗を先頭に立て竹槍を携えておりあたりには不穏な空気が漂っていたという。 しかし千田の説得や交渉で、工事用資材の運搬などの人夫に反対派住民を優先して雇用した。この賃金が漁場や養殖場を失うことを十分償うものであると住民も理解したため、反対運動は半年後に収まった。

工費の膨張と左遷[編集]

宇品築港計画は試算によると18万余と言う巨費が必要とされた。そこで経費節減のため工費切り詰めが考えられ、備前岡山の吉備開墾社の干拓堤防等で人造石による工法を確立していた服部長七による人造石工法が検討された。人造石による大規模な工事は初めてであるので県の地質課長に問い合わせ、前述の工事等で未だに修繕が必要ないこととコストの兼ね合いで工事発注となった。また千田は工事に必要な土砂を県が現場に直接現物を運ぶようにし、更に工事費を切り詰め、総工費は8万7000円と見積もられた。

工事費は旧広島藩浅野氏からの士族授産補助金、国庫からの士族授産金と担保として築港埋立地をあてたが、1884年9月に起工したものの災害や潮止め工事の堤防からの漏水による崩壊、労費、資材費の値上がりに常に悩まされた。1886年より広島市近隣では当時の国策事業である海軍の増強に伴う大規模工事での人員不足や、それに伴う資材や賃金の上昇が見られたことも工費の膨張の一因となった。 (1886年5月4日に呉鎮守府設置が定められ用地買収と工事の開始、1886年10月1日より東京築地にあった海軍兵学校江田島への移転工事の開始)。海岸埋立地を宅地として売却、国に対する補助金の申請による2回の国庫からの補助金や千田や服部長七は私財をも投入し1889年11月、5年の歳月と着工時の3倍強の30万円余と言う巨費を費やしてついに宇品築港は完成した。

しかし政府は1889年3月には千田に対し「宇品築港計画ノ粗漏ナリシ為更ニ国庫ノ補助ヲ仰クニ至リタルハ不付合ニ至リタルハ不都合ニ付罰俸年俸十二分ノ一ヲ科ス」との懲戒を科し、更に同年12月、竣功式を前にして千田は新潟県知事に転任させられた。

再評価[編集]

千田貞暁銅像全体

完成した宇品港は広島という地方都市には不釣合いな大規模なもので当初は余り利用されず、工事中から県令の個人的功名心に駆られた工事であるとか大変な失政だとの批評を受けた。当時、琵琶湖疏水工事とともに天下の二大工事と喧伝されたからである。

しかし千田はもとより師団のある広島では、宇品港は一地方の利便にのみに止まらず、広く陸海両軍の兵事にも益を与えるべき事業だと考えており、こうした千田の先見の明は1894年から1895年日清戦争では近代港湾があり、鉄道が整備され、物資の蓄積に便がある大陸に近い最西端の都市であるとして広島に大本営帝国議会が設置され臨時の首都となる事で証明された。更に1904年から1905年日露戦争では引き続き国内の重要拠点として港湾労働者や荷役や輸送、飲食店などに従事するものに雇用を生み官民ともに活況を呈した。また軍港としての役割のみならず、明治後期や大正にかけての時期には大陸航路を初めとして一般港としても賑わうようになった。宇品中央公園にある文部省唱歌」の歌碑はこのころの宇品の賑わいを歌ったものである。

以上のような経緯により、千田は近代広島の発展に寄与したとして再評価され、1898年には男爵を授爵し広島市会から感謝状を送られた。死後、1908年に宇品築港記念碑、1915年に本人の銅像、1925年には千田廟社 (千田神社)が立てられた。これらは併せて千田廟公園として整備され、今に至るまで千田の功績を後世に伝えている。また千田の功績をたたえ、広島市国泰寺村の一部が千田町と改称され現在に至っている。

家族[編集]

長女が古宇田へと苗字が変わったが直系子孫は残っており主に首都圏に在住。また、長女が存命中に産まれた玄孫の男子を含む子孫一同の揃った写真も有る。現存する家系図は千田公長女存命当時の玄孫男子まで記入されている。[要出典]

エピソード[編集]

  • 徳冨蘆花の自伝小説『冨士』(1925年初版)の文中、主人公が1895年3月に広島を訪れる場面に、「宇品に着いた。衆議を排し、私費をまで注ぎ込んで、良二千石千田貞暁の築いた港、日清戦争が裏書きした「信念」の現象である」との文言がある。「良二千石」とは善政を敷く立派な地方長官の意である。

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第6264号、明治37年5月20日。
  2. ^ 『官報』第455号「賞勲」1885年1月9日。
  3. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  4. ^ 『官報』第2254号「叙任及辞令」1891年1月7日。
  5. ^ 『官報』第6466号「宮廷録事 - 恩賜」1905年1月21日。
  6. ^ 『官報』第588号「賞勲叙任」1885年6月18日。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


日本の爵位
先代:
叙爵
男爵
千田(貞暁)家初代
1898年 - 1908年
次代:
千田嘉平