廃仏毀釈

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『開化乃入口』第二編下(1873-1874)に登場する、役人による行政改革の場面
破壊された石仏。川崎市麻生区黒川。

廃仏毀釈廢佛毀釋排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院仏像・経巻(経文巻物)を破毀(破棄)し、仏教(宗教)を廃する現象のこと。「廃仏」は仏(宗教の対象)を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(仏教の開祖)の教えを壊(毀)すという意味。

概要[編集]

中国においては3世紀以来廃仏の動きが強く、韓愈以後の朱子学派の廃仏論が大きな影響力をもった。とりわけ中国仏教史においては三武一宗の法難が有名である[1]

日本国においては、幕末から明治維新にかけての行財政改革を指すことが多い。江戸時代の当時、儒学の発達とその考証性・藩学による学力向上により、幕府の宗教政策であった葬式仏教檀家制度による国民負担に対して、疑義が持たれるようになっていた。また、明治初期の文明開化四民平等政策・国民負担軽減策に当たる神仏分離の経緯もあり、多年にわたる近世の仏教国教化政策に反発した一連の動きを指すことも多い。結果として、近世日本の仏教治国策とも言うべき政策の見直しが行われたが、近代化を目指す仏教側としては、国から寺院への莫大な財産分与(民営化)の恩恵もあり、好条件で民間宗教としての再出発を果たした転換点にあたる[1]

江戸時代前期以前の崇仏論争[編集]

仏教(インド発祥の宗教)が日本に伝来した当初は、『日本書紀』の欽明天皇敏達天皇用明天皇の各天皇記をもとにすると、物部氏が中心となった豪族などによる認知不足・政争となったが、仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなった。

江戸時代前期になると、考証的な儒教の立場から神仏習合を見直し、神仏分離を唱える動きも見られ始めた。この状況により池田光政保科正之などの諸大名は、藩内の行財政改革において仏教と神道を分離して、仏教寺院の削減にあたるなど、地域負担軽減策を採用するようになっていた[2]。特に徳川光圀よって行われた、水戸藩の民事負担軽減策の規模は大きく、およそ領内の半数の寺運営が刷新された[3]

江戸時代後期の崇仏論争[編集]

水戸藩の学力向上によって成立した水戸学(文献史学)から、神仏の判然、神道の尊重、仏教への疑問がより学習されることとなっていた。また徳川斉昭は、政情不安の国情・藩経営の観点から、藤田東湖会沢正志斎らとともに、より高い仏教負担軽減策を施行し始めた。さらに天保年間では、水戸藩は防衛整備近代化の一環(大砲の新造)として、寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院整理にも着手した[3]。これらの経緯と体験は、新政府を形成することになった国際観を持った政治家に、水戸学の有効性を理解させたとされる[2][4]。また同時期に勃興した国学においても、神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。中でも平田派は、明治新政府の最初期の宗教改革に関与することとなったが[4]、近代化への流れの中で次第に衰退した。

明治期の神仏分離と廃仏毀釈[編集]

明治期の廃仏毀釈は、慶応4年3月13日1868年4月5日)に発せられた太政官布告[5](通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日1870年2月3日)に出された詔書大教宣布[6]などの負担軽減策[注釈 1]が転機であり、そして政策の解釈の在り方による民衆の暴徒化から、寺院(宗教施設)の破却となったことを指すものである。

当時、政府の神仏分離令や大教宣布は、あくまでも神道と仏教の分離が目的の行政改革であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として仏像・仏具の破棄といった、廃仏毀釈運動(負担軽減運動)が全国的に発生することとなった。特に長年仏教に弾圧されてきたマイノリティの神職者や民衆は、仏教を非難する契機ともなり、仏像、経巻、仏具の焼却や破却に至った地域も多いとされる[1]。これには、西欧列強の外圧による危機的状況や、平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不信感が、既得権である仏教への非難につながった側面がある。一方の廃仏毀釈の結果としての神道は、いわゆる神祇官復興運動へと結びついてゆき明治維新となったが、伝統的に農耕祭の場であった神社の非宗教化・新たな教派神道の宗教化へと分けて落ち着いたが、近代に即さない神祇官制は結実しなかった。

神仏分離が一斉に廃仏毀釈に至った原因は、国情不安、廃仏思想を背景とするもの、江戸幕府の仏教国教化権益・身分特権に安住した僧侶への反感、地方官が寺院財産の収公を狙ったこと、政治・文化の近代化信教の自由産業革命の影響など、様々な当時の社会的・政治的理由も窺える。政府は、民衆の廃仏毀釈などの行為に対して「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ」ことと、「神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではない」との注意を改めて喚起した。また、一方でこれらの廃仏運動は、江戸時代の特権を寺院が喪失したことにより仏教界への変革となったことで、民間宗教である葬式仏教の近代化に結びついたとする意見もある[1]

廃仏毀釈の地域差[編集]

岐阜県東白川村役場脇にある「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」。苗木藩の廃仏毀釈時に4つに割られて庭石などにされたのち、廃仏毀釈後に破片を集め修復されたもの。中央に割った時の跡が残る

廃仏毀釈の度合いについては、全国一律ではなく地域により大きな差があったが、これは主に藩学の普及と、民衆の学力向上の度合いの差による。

浄土真宗の信仰が強い三河国愛知県東部)や越前国福井県北部)では、廃仏の動きに反発する護法一揆が発生しているが、それを除けば全体として大きな反抗もなく、明治4年(1871年)頃には終息した[8]。また同年、正月5日1871年2月23日)付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が調査・確定となった。

出羽三山については、明治7年(1874年)以降に廃仏毀釈が始まる。出羽三山で神仏分離が実施され、廃仏毀釈が推進されたのは、明治6年(1873年)9月、西川須賀雄が宮司として着任してからのことであった。西川は教部省出仕大講義では、佐賀藩出身の一人だったとされる[9]

伊勢国三重県)では、神宮の鎮座地ということもあって明確な廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100箇所以上が対象となった。特に、神宮がある宇治山田(現:伊勢市)は、明治元年(1868年)11月から翌明治2年(1869年)年3月までに196の寺が閉鎖となったが、これは宇治山田に存在した寺院の4分の3が整理されたことになる[10]

奈良興福寺でも食堂が明治8年(1875年)に整理される他、興福寺の五重塔は再生用資材(当時価格の25円[11])で、行財政改革の対象となっていた。大阪住吉大社の塔は、明治6年(1873年)にはほとんどが整理となっている。また、内山永久寺も廃寺となり、安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持つ阿弥陀寺も廃されたが、これは現在は赤間神宮となっている。

明治維新の舵取りである薩摩藩の改革では、藩内寺院1616寺が対象、僧侶2964人すべてが還俗(当時としては僧侶特権からの分離)とされている。この廃仏毀釈の主たる目的は、寺院の撞鐘、仏像、什器などから得られる金属を再利用し、天保通宝の鋳造をもって近代化を目指した[12]小西孝司によれば、2019年(令和元年)9月時点で鹿児島県内には『宗教年鑑』平成30年版の引用で481寺あるが、国宝や重要文化財の仏像は1点もないとしている[13]。なお、文藝春秋と小西の記事では廃仏毀釈時の寺院の数が異なっている(小西は1066としているが、いつの年月の時点かは記していない)。

美濃国岐阜県)の苗木藩東白川村)では、明治初期に廃仏毀釈が行われ、藩内寺院17の寺すべてが対象となっていた。東白川村では、現在でも仏教の信者はほとんど存在せず、葬式は神式(日本式)で実施されるのが通例である[14]

一方の尾張国(愛知県西部)では、津島神社にあった宝寿院が、仏教に関わる物品を行政から買い取り、存続しているケースもある[15]

対象となった社寺・神塔[編集]

廃仏毀釈による主な対象[編集]

廃仏毀釈により破却された神塔[編集]

廃仏毀釈の対象になった鶴岡八幡宮の大塔(フェリーチェ・ベアト撮影)

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 例えば明治5年4月25日1872年5月21日)、太政官布告第133号「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」など[7]

出典[編集]

  1. ^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 廃仏毀釈 コトバンク
  2. ^ a b 廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは - コトバンク圭室文雄執筆項
  3. ^ a b 圭室文雄水戸藩の撞鐘徴収政策
  4. ^ a b 生涯学習情報提供システム、<えひめの記憶>」- 『愛媛県史』 学問・宗教 第二編宗教 第二章 仏教 第四節 近代仏教界の変革 愛媛県生涯学習センター
  5. ^ 太政官布告・神祇官事務局達・太政官達など
  6. ^ 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』431ページ
  7. ^ 僧尼令について
  8. ^ 尾鍋輝彦『大世界史 第19巻 カイゼルの髭』P.36
  9. ^ 安丸良夫『神々の明治維新』P.149〜
  10. ^ 鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.156-157、文藝春秋、2019年、第4刷
  11. ^ 大屋徳城「奈良における神仏分離」『明治維新神仏分離資料』
  12. ^ 鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.54-56、文藝春秋、2019年、第4刷
  13. ^ 過去の仏教弾圧知って 壊れた仏像など、展示や資料館で”. 朝日新聞デジタル (2019年9月24日). 2022年5月1日閲覧。
  14. ^ 鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.131-132、文藝春秋、2019年、第4刷
  15. ^ 宝寿院の歴史”. 宝寿院 (2008年1月10日). 2012年12月1日閲覧。
  16. ^ 鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.57-58、文藝春秋、2019年、第4刷
  17. ^ 鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.150-161、文藝春秋、2019年、第4刷
  18. ^ 鵜飼秀徳『仏教抹殺』pp.93-97、文藝春秋、2019年、第4刷

参考文献[編集]

関連書籍[編集]

  • 安丸良夫 『神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈』岩波書店岩波新書 黄版103〉、1979年。ISBN 4-00-420103-9 
  • 安丸良夫、宮地正人 編 『日本近代思想大系5 宗教と国家』岩波書店、1988年。ISBN 4-00-230005-6 
  • ジェームス・E・ケテラー 『邪教/殉教の明治 廃仏毀釈と近代仏教』ぺりかん社、2006年。ISBN 4-8315-1129-3 
  • 佐伯恵達 『廃仏毀釈百年 虐げられつづけた仏たち 改訂版』鉱脈社、2003年。ISBN 4-86061-060-1 
  • 羽賀祥二 『明治維新と宗教』筑摩書房、1994年。ISBN 4-480-85670-6 
  • 尾鍋輝彦 『大世界史 第19巻 カイゼルの髭』文藝春秋、1968年。 
  • 岡田荘司 『日本神道史』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4-642-08038-5 
  • 圭室諦成 『廃仏毀釈とその前史 檀家制度・民間信仰・排仏論』書肆心水(新版)、2018年。ISBN 978-4-906917-80-8 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]