中道

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中道(ちゅうどう、: Madhyamā-pratipad, マディヤマー・プラティパッド[1]: Majjhimā-paṭipadā, マッジマー・パティパダー)とは[要出典]仏教用語で、大乗経典では線形的な前後の関係で、ときに二明や三明とともに中道を説く[2][3]阿含経でも無明を縁じて生明とすることを中道としている[4]。日常語では「中道政治」などのように、対立・矛盾する2つの極端な概念や姿勢に偏らないあり方とされているが、中道とセットで用いる二辺(dvaya)とは本来、「複数(の)」「二重(の)」「二種(の)」などの意味である[5]

苦・楽のふたつを「二受」(にじゅ)といい、魂(アートマン)や様々な存在物について恒常的に「有る」(「常見」→依存・安住・固執・堕落)とか、ただ単純に消えてなくなるだけで「無い」(「断見」→虚無主義ニヒリズム)・荒廃)という見解を「二辺」(にへん)というが、そのどちらにも囚われない、偏らない立場を中道という。[要出典]

(なお、有無の「二辺」を避けるために仏教が提示する発想こそが、「縁起」である。あらゆる存在物はそのままの状態として存在し続けることはないが、改変・連鎖を繰り返しながら存在し続ける(輪廻)、したがって良き連鎖を形成・持続できるよう努力し続けよ(そして最終的には修行を完成させて涅槃に到達し、解脱せよ)、というのが仏教の姿勢である。)[要出典]

中道の原義[編集]

中道の「中」を意味するサンスクリットの Madhyamā の語尾 yama は二子(双子)や閻魔ヤマ)を指し[6]、Madhyamā で「中指」「子宮」、Madhyama で「中間」「中間の位置」のほか「媒体・媒介」「仲介・又ぐ」などの意味がある[7]。大乗経典の大般涅槃經は、二辺に依らず中道を歩むことについて、「五陰は即ち是れ仏性であり、金剛三昧及び中道を以って首楞嚴(しゅりょうごん)三昧・十二因縁、第一義空・慈悲平等を説く」とし、中道は十二因縁や第一義空を説く行道とする[要出典][8]

大乗経典では二辺はもちろん、中道を離/出/捨/滅するという記述も多出させ[9][注釈 1]、中道については魔を度すための行道として記述されることがある[10]。佛説阿闍世王經では、「五陰を知る者は以って魔事有ること無し。魔界を度す者は以って中道を作す所に覆蔽(ふくへい)する所無し」とし[10]、中道を「五陰(即是仏性)」を知る過程のうち、魔界を度すための覆蔽(ふくへい)なき行道としている[10]中国ではより具体的に、それを悪鬼境界の前後二辺とし、中道はその(宝の)渚とした経解も出現した[11]

また、遡って天台智顗の『妙法蓮華經文句』を参照すると、「衆生戒を摂する尸波羅蜜(しはらみつ)と共に中道の道を持して度し、魔界を降伏す」と経解しており[12]、覆蔽(ふくへい)する所無しの意味あいも、「衆生戒を摂する」ものとして明示している[12]。なお、「実相の菩提は有無に非ず、亦た二辺無く中道(も)無く、虚空の如き寂静を離相し、三世諸仏が証する所の何かである」とする経論もみられる[13](その何かとは大道心であるとする[14])。

釈迦[編集]

苦楽中道[編集]

たとえば、厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることなどが中道である。[要出典]

釈迦は、6年間(一説には7年間)に亙る厳しい苦行の末、いくら厳しい苦行をしても、これでは悟りを得ることができないとして苦行を捨てた。これを中道を覚ったという。釈迦は、苦行を捨て断食も止めて中道にもとづく修行に励み、ついに目覚めた人(=仏陀)となった。[要出典]

釈迦が鹿野苑において五比丘に対して初めての説法を行った際にも(初転法輪)、この「苦楽中道」を(四諦八正道に先んじて)涅槃とともに真っ先に述べたことが、パーリ語経典相応部の経典などに描かれている[15]。なお、パーリ語経典を捧持する南伝仏教阿羅漢にしかなれない仏教であるとされる[16]

「比丘たちよ、出家した者はこの2つの極端に近づいてはならない。第1に様々な対象に向かって愛欲快楽を求めること。これは低劣で卑しく世俗的な業であり、尊い道を求める者のすることではない。第2に自らの肉体的消耗を追い求めること。これは苦しく、尊い道を求める真の目的にかなわない。
比丘たちよ、私はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、優れた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立つものである。」

初期仏教教団において、釈迦の直弟子の一人であった提婆達多は、僧団の戒律をより禁欲的・苦行的性格が強いものへと変更するよう釈迦に求めた(「五事の戒律」)が、釈迦はこれを拒否した。そのため提婆達多は独自の教団を創設し、仏教教団を出て行くことになった。[要出典]

琴の弦(緊緩中道)[編集]

パーリ語経典の律蔵・犍度・大品(マハーヴァッガ)においては、釈迦が、どんなに精進しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていたソーナという比丘に対して、琴の弦を例えに出して、中道を説いている。

弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。

有無中道[編集]

沙門果経』をはじめとして、初期仏教経典では度々六師外道との思想比較が行われる。

その六師外道の内、

や、唯物論者である

の計4名の思想は、それぞれ魂・運命に関する「常見」と「断見」の「二辺」がもたらす弊害(道徳・努力の欠落・喪失、人心荒廃)や、それゆえの仏教における「有無中道」の重要性を浮かび上がらせる役割を果たしている。

(ちなみに、残る二名の内、ニガンタ・ナータプッタジャイナ教)は、提婆達多と同じく、苦行に執してしまっている存在として、他方のサンジャヤ・ベーラッティプッタ(懐疑論)は、「確定的な論・道」を示せない存在として、仏教と対照され、仏教の立場を浮き彫りにする役割を果たしている。)

流れる丸太[編集]

パーリ語経典相応部のある経典[要追加記述]では、釈迦が中道をガンガー河に流れる丸太に例えて説いている[17]

そこでは、釈迦が丸太を比丘(出家修行者)に例え、その流れる丸太が

  • こちらの岸に流れつかず (六根(六内処)に囚われることなく)
  • 向こう岸に流れつかず (六境(六外処)に囚われることなく)
  • 中流で沈みもせず (悦楽・欲望に囚われることなく)
  • 中州に打ち上げられもせず (自我の妄執に囚われることなく)
  • 人によって持ち去られもせず (社会性・人間関係(付き合い・同情)に囚われることなく)
  • 人でないもの(鬼神)によって持ち去られもせず (神秘主義に囚われることなく)
  • 渦に巻かれることもなく (五感による欲望にまきこまれることなく)
  • 内部から腐敗していくこともない (偽り・欺瞞を隠して生きることがない)

ならば、海(悟り、涅槃)へと到達するであろうと説かれる。

無記[編集]

パーリ語経典中部63経『小マールキヤ経』等で説かれているように[18]、釈迦は、

  • 世界は永遠であるのか、ないのか
  • 世界は有限なのか、無限なのか
  • 生命と身体は同一なのか、別個なのか
  • 修行完成者(如来)は死後存在するのか、しないのか

といった、修行・苦滅に役立たない問いには、どちらであるとも、あえて答えなかった。これを「無記」(むき)と言う。

これも広い意味での中道の1つであると言える。[要出典]

大乗仏教[編集]

中論・中観[編集]

ナーガールジュナ(龍樹)は、説一切有部らを論駁する形で、「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)に象徴される『中論』を著し、釈迦の中道(及び縁起)の概念を独自の形で継承した。

これを引き継ぐ形で、大乗仏教の一大潮流である中観派が生まれた。

天台宗[編集]

ナーガールジュナの『中論』や中観の概念は、中国へは三論宗としてそのまま伝わる一方、天台宗の事実上の始祖である慧文もまた、『中論』に大きな影響を受け、その思想を中諦として引き継いだ。諦とは真理という意味である。

中国で説かれた中庸と同一視されることもあるが、厳密には別のものである。中庸の「中」とは偏らないことを意味し、「庸」とは易(か)わらないこと、と説明されている。中道の「中」とは偏らないことを意味し、「道」は修行を意味するとされる。

関連項目[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 無中道」が格段に多くみられるが、「非有非無中道」のように複雑な文脈で記述されるため出典記述としていない。

脚注・出典[編集]

  1. ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 73頁「中道」。
  2. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『瑜伽師地論 (玄奘譯)』 (T1579_.30.0350a16: ~): 又有三明 當知爲顯於前後中際 斷常二邊邪執。
  3. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句 (智顗説)』 (T1718_.34.0020a13: ~): 破二邊之前後。同『金光明經文句記 (知禮述)』 (T1786_.39.0094b07: ~): 雙非破二邊無明集寂也 説有前後修在一心。同『維摩經義疏 (聖徳太子撰)』 (T2186_.56.0021a06: ~): 二皆違佛深旨倶失中道 所以列之前後二邊也。同『涅槃經遊意 (吉藏撰)』 (T1768_.38.0232b04: ~): 二邊無常者 此二恒倶 豈得除無常明常 但二邊有前後。※短い文中で記述されているものを列挙した。
  4. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『雜阿含經 (求那跋陀羅譯)』 (T0099_.02.0084c29: ~): 離此二邊 正向中道 賢聖出世 如實不顛倒正見所知 所謂縁無明行。諸比丘 若無明離欲而生明。
  5. ^ द्वय (dvaya) - Spoken Sanskrit Dictionary.
  6. ^ यम (yama) - Spoken Sanskrit Dictionary.
  7. ^ मध्यमा (madhyamA), मध्यम (madhyama) - Spoken Sanskrit Dictionary.
  8. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『大般涅槃經 (曇無讖譯)』 (T0374_.12.0559a17: ~): 或説五陰即是佛性 金剛三昧及以中道 首楞嚴三昧十二因縁 第一義空慈悲平等。
  9. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 離中道, 出中道, 捨中道, 中道滅
  10. ^ a b c 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説阿闍世王經 (支婁迦讖譯) 』 (T0626_.15.0390c13: ~): 以知五陰者無有魔事。以度魔界者所作中道無所覆蔽。※経集部所収の顕教の経。
  11. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『觀音義疏記 (知禮述)』 (T1729_.34.0941c14: ~): 即出二邊惡鬼境界 即能達到中道寶渚。鬼義合前後 章前即此章貼文約事 後即第五鬼難章也。
  12. ^ a b 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句 (智顗説)』 (T1718_.34.0007a04: ~): 持中道道共尸波羅蜜攝衆生戒度。魔界降伏。
  13. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説瑜伽大教王經 (法賢譯)』 (T0890_.18.0580a06: ~): 實相菩提非有無 亦無二邊無中道 離相寂靜如虚空 三世諸佛何所證。
  14. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説瑜伽大教王經 (法賢譯)』 (T0890_.18.0580a09: ): 智離取捨觀諸蘊 唯顯眞空大道心。
  15. ^ 『世界の名著 1』中央公論社 pp435-439
  16. ^ 竹村牧男著(講談社現代新書) 『覚りと空』 第3章 大乗仏教の出現。
  17. ^ 『世界の名著 1』中央公論社 pp457-459
  18. ^ 『世界の名著 1』中央公論社 pp473-478