悟り

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悟り(さとり、: bodhi)とは、迷いの世界を超え、真理を体得すること[1]覚悟証得証悟菩提などともいう[1][注釈 1]仏教において悟りは、涅槃解脱とも同義とされる[1]

日常用語としては、理解すること、知ること、気づくこと、感づくことなどを意味する[2]

原語・語義・類語[編集]

インドの仏教では、彼岸行とされる波羅蜜の用法を含めれば、類語を集約しても20種類以上の「さとり」に相当する語が駆使された[3][要検証]

正覚
語頭に"無上"や"等"など何らかの形容語がついたものを含めれば、日本で編纂された三蔵経である大正新脩大藏經に1万5700余みられるが[4]、意味の異なる数種類以上のサンスクリットの単語・複合語の訳として用いられている[5][要ページ番号][要検証]。元となるサンスクリットの原意はその種類によって幅広く、初転法輪にかかわる意味から成仏に近似した意味、智波羅蜜に類した意味にまでに及ぶ[5]
開悟
数種類のサンスクリットの訳として当てられている[6][注釈 2]。サンスクリットの prativibudda の場合、開悟のほかにも「夢覚已」「従睡寤」と漢訳されることがあった[7][要検証]
単独の訳語として用いられる数種類のサンスクリットのうち、日本の仏教で多用される「悟る」もしくはその連用形「悟り」に最も近いサンスクリットの原意は、「目覚めたるもの(avabodha)」という名詞と、「覚された/学ばれた(avabuddha)」という形容詞である[8][要ページ番号][要検証]。これらとは逆に、一つのサンスクリットが複数種類以上の漢訳語を持つケースは珍しくなく、「知」「解」「一致」など数種類の漢訳語を持つ anubodha, saṃvid, saṃjñā などの名詞は「悟」と訳されることもあった[8]
菩提
bodhi の漢訳で、「覚」「道」「得道」などと漢訳される場合もある[9]。大乗経典では「bodhi」を「菩提」と音訳せず「覚」と意訳した新訳があるが、「覚」の訳が当てられたサンスクリットは十種類以上に及ぶ[10][要検証]
阿耨多羅三藐三菩提
大乗経典で多用され[11]、「最も優れた-正しい-知識」「最も勝った-完全な-理解」といった意味あいで[12]、すでに部派仏典に見られる述語である[13]
モークシャ
モークシャには自由の意味があり、最終的な自由を得ることをさす。また、天国地獄を超越した場所として、モークシャを指す場合もある。

各宗教における悟り[編集]

仏教[編集]

釈迦における悟り[編集]

釈迦(しゃか)の辿った道筋は、出家前にすでに阿羅漢果を得ていたとされ[14][要ページ番号]ピッパラ樹(菩提樹)の下で降魔成道を果たし[15]梵天勧請を受けて鹿野苑(ろくやおん)で初転法輪を巡らしたとする[16][注釈 3]

ブッダは当初、自身の悟りは他人には理解できないと考え、自分でその境地を味わうのみに留めようとしたが、梵天勧請を受けて教えを説くようになったと伝えられることから、ブッダの説法の根本は、その悟りの体験を言語化して伝え、人々をその境地に導くことにあったとされる[1]。この悟りに到達することが、後代に至るまで仏教の根本目的であるとされる[1]。釈尊は悟りを四段階で語っていた[18]。四沙門果と呼ばれ、パーリ語聖典や漢訳阿含経に見られる[18]

釈迦は説法の中で自身の過去世を語り、様々な過去の輪廻の遍歴を披露している。

初期仏教[編集]

ブッダの悟りの内容は、初期仏教においては四諦として体系化された[1]。実践の面では八正道三学)が説かれた[1]。悟りは、言語化されて理解される知的側面だけではなく、八正道や三学に示されるような実践を通じて初めて体得できるとされる[1]

初期の悟りについて[編集]

初期に作成された経典において、ゴータマ・シッダッタの悟りの内容が異なった伝わり方をしていて、はっきりと定まっていないのは、ゴータマ自身が自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁や相手に応じ異なった説き方をしたためで[19]、 歴史的人物としてのゴータマは、臨終に際しても仏教というものを説かなかったとされている。また、彼が明示したのは、八正道の実践をする人を「道の人」と呼び、その道はいかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道であり、それはこれまでのインド社会に現れたブッダたちの歩んできた道であったということともされている[20]。 原始仏典の古い詩句では、古来言い伝えられた七人の仙人という観念を受け、ブッダのことを第七の仙人としていた[21]

初期の悟りにおける仏教の位置づけ[編集]

初期においては、ゴータマが説法することを「梵輪をまわす」と呼んでいた。これは古ウパニシャッドからきており、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があるとされる[22]

ウパニシャッドでは、「解脱」とは宇宙原理たるブラフマンと自己との合一を意味していた[23]。しかし、初期仏教では人間の理法を体得して、安心立命の境地に至ることが悟りであるとされている[24]。梵我一如を体得した古仙人たちの歩んできた道を歩んだとされるゴータマには、宇宙の真理を悟った人が説法をするという自覚があったが、その悟りの内容は、四諦という言葉によって体系化されているという状況にあることが示され[25]、大乗仏教に至ると、宇宙の真理(法)と一体になることを悟りとする宗派が生まれてきた[26]

ウパニシャドでは、ブラフマンとは宇宙の最高原理とみなされており、この最高原理が人格的に表象されたものがブラフマーであり、創造神とされていた。善い行いをした人が死後天上界に行くとした場合や、自島明におけるなんらかの主体性などの教説から、自然の中には還元しきれない何ものかを仮定している[27]。梵天勧請の経文には、最高原理の人格的な表象として、この世の主ブラフマー神というものが出てくるので、ゴータマの悟達の境地と宇宙の最高原理を悟るということには、何らかの関係があると見ることができる。また、人格的な表象としての梵天による勧請の一段は、後世の追加とする見解もある[28]。ここにあげられている古い詩句は、心の中での出来事を現わしたものとされ、散文の説明は明らかに後世のものであるとされている[29]

ウパニシャッドの哲学の梵我一如の悟達とゴータマの悟達が大きく異なる点は、梵我一如におけるアートマンの存在が存在しないということである。しかし、この点についても初期の仏教には不確かな部分があり、「アートマン」は存在しないとは説いていないとされている。これは、アートマンを実体視しているウパニシャッドの哲学に対して仏教の側が反対しただけの教説にすぎない、というのがその理由となっている。ゴータマの悟りの内容に関しては、アートマンが存在するかどうかについての返答をゴータマが与えなかったものであるとされている[30]

涅槃について[編集]

涅槃については、無我的な無余涅槃をしりぞけ、たましいの最上の境地としての有余の涅槃にとどまって、活動してゆくことが目的であるとしていたとされる。 小乗仏教の伝統説では無余涅槃に入ることが修行の目的であったが、ゴータマは無余涅槃に入るという見解は偏見であるとして排斥した。「たましい(霊)の最上の清浄の境地」のうちにあって、多くの人々の幸福のために、世間の人を憐れむために、清浄な行いを存続してゆくことが目的であるとした[31]

初期仏教における真人となった我とは[編集]

ゴータマの説法を「梵輪をまわす」と言うときは、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があり、「梵」という語と「ブラフマン」という語は深い関りがあるとされる。[32]ヒンドゥーにおいて世界創造神とされていたブラフマンというのは、当時最高の神と考えられていた。そして、梵天勧請の経文では、その神様がゴータマに説法を始めたとされる。ブラフマンとは、絶対原理であり、宇宙の根本原理のことであるけれども、一般の民衆にはなかなか理解しにくいから、それを人格神(世界の主である梵天)と考えたとする見解もある。[33]また、ブラフマンは大宇宙的概念であり、アートマンは小宇宙的概念とする見方もある[34]ので、後代になって、アートマンの小宇宙的概念が否定されるようになると、真理(ブラフマン)における大宇宙的概念も不明確なものとなったようである。[35]

「仏」は本来「佛」と書くけれども、「弗」という字には否定の意味があり、人間でありながら、人間にあらざる者になるという意味があるとされる。水の例でいうと、水は沸点に達すると、水蒸気になるが、水蒸気というのはもとは水だけれど、水にあらざるものになる、というところが、人と仏との関係に似ているとされている。[36][37]

ゴータマが実践していたのは、「つとめはげむ道」といって、自己を制することにつとめはげんだこととされている。ただ、それによってさとりを得たとかそういうことは書いてなく、自己を制することのうちにさとりがあるとしていたとされる。[38]人が佛となった転換点は、古来から言われている梵我一如の境地として、問われた時には意識にのぼる程度の通過点にすぎないとみなされていたようだ。自己を調御し、悪魔を寄せ付けず、清浄な行いを久しくし続けるということが、さとり「つとめはげむ道」(さとりの道)であるとされた。

初期の悟りの内容[編集]

あるバラモンに語ったとされる経文には、四種の禅定を完成して、明知が生まれたことが記されている。第四禅を成就したままにて生じた第一の明知においては、この宇宙が生成と消滅の幾多の宇宙期の過去を有しているものであることまでを知ることに至った[39]。その第一の明知によって、無明が滅び、暗黒は消滅して、光明が生じたとされている。 第四禅を成就したままにて生じた第二の明知においては、超人的な天眼を用いることが出来るようになり、この世界に生存するすべての衆生が死にまた生まれる様を見ることが出来るようになり、それぞれの生存者の業(内面的な部分)についても明らかに知ることが出来るようになったとされる。さらに、諸々の汚れを滅する智に心を向けたが、その内容については説かれていないとされる[40]。 そして、第四禅を成就したままにて生じた第三の明知においては、「解脱した(悟った)」という智が起こったが、単なる自覚ではなく、第三の明知とされている。

また、過去現在未来にわたる阿羅漢(等正覚者と同じ)については、心に関して、心でもって知ることが出来るとされている[41]

悟りと慈悲[編集]

苦行の7年間慈心を修したという詩句が残されているので、慈悲の体現は当初よりゴータマの修行の中心的位置を占めていたとする見解もある[42]

カッサパは九次第定と六神通とに関してゴータマと等しいとゴータマから認められているとされたという[43]。『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇には、カッサパはアーナンダに対して自らの悟りの内容について確認をしている。そこには、空間の無限性や意識の無限性を超越した境地や、宇宙期、他心通、心の解脱と智慧による解脱とを達成したことが記されている。カッサパはバラモン出身で、ゴータマと出会ってから八日目に開悟したとされる[44]。仏教教団が定住生活に移行した後も、林野に住み、厳しい修行生活(頭陀行)を送っていたとされる。

自覚としての悟りのいろいろ[編集]

サーリプッタが解脱をしたときに、ゴータマが「再びこの存在に戻ることはないと開悟したことを明言したのか」と問うたとき、「内に専心して、外の諸行に向かうときに道が出起して、阿羅漢位に達した」と語ったとされる。他に、「内に専心して、内に向かうと道が出起」、「外に専心して外に向かうと道が出起」「外に専心して、内に向かうと道が出起」という四通りがあるとされる[45]

聖者ごとに解脱の内容がいろいろであり、聖者ごとに解脱の内容はいろいろで、複数あったとされる[46]。ゴーダマが到達したさとりの境地は深遠で、弟子には到達しがたいという反省から、滅後弟子たちの時代になると、さとりの深浅に応じて四向四果の段階が考えられた[47]

在家信者においても師の話を聞いただけで悟ったという経文は多数あり、その中のある女性は、ある遊園に行った帰りに、ゴータマと出会い、「大いなる仙人のことばを聞いて、真実に通達し、まさにその場で、汚れのない真理の教え、不死の境地を体得しました。」と語ったとされる[48]

大乗仏教[編集]

大乗仏教においては、上述のような初期仏教の悟りの観念は小乗的として退けられた[1]。大乗仏教の実践者(菩薩)が求める悟りは、部派仏教教学で固定化した悟りを根源的に捉え直すものであるとされる[1]。大乗仏教における悟りは、そのようなブッダの絶対的な境地に到達することから、成仏ともいわれる[1]。ブッダの悟りに向かおうという菩薩の志向を菩提心という[1]

大乗仏教における悟りに到達するためには六波羅蜜の実践が必要とされ、自利のみでなく利他の精神も説かれた[1]。初期仏教以来の禅定を超える様々な三昧も実践された[1]

大乗起信論[編集]

中国撰述とされる論書、『大乗起信論 』では、阿頼耶識(あらやしき)に不覚と覚の二義があるとし、覚をさらに始覚(しかく)と本覚(ほんがく)とに分けて説明する。我々の心性(しんしょう)は、現実には無明(むみょう)に覆われ、妄念にとらわれているから不覚であるが、この無明が止滅して妄念を離れた状態が「覚」であるという。無明は無始以来のものであるから、それに依拠する不覚に対しては「始覚」といわれるが、われわれの心性の根源は本来清浄な覚りそのもの(「本覚」)であって、それがたまたま無明に覆われているから、始覚といってもそれは本覚と別のものではなく、始覚によって本覚に帰一するに過ぎない、と説明し、誰にでも覚りに至る道は開けており、それに向かっての修行が必要なことを説いている。さらに、覚りは清浄なものであることも説明されている。

煩悩即菩提[編集]
即身成仏[編集]

生きながらにして成仏を遂げるとする密教的な思想にそって、空海即身成仏を果たしたとされる[49]

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山号[編集]

ジャイナ教[編集]

ジャイナ教のシンボル

ジャイナ教では、修行によっての束縛が滅せられ、微細な物質が霊魂から払い落とされることを「止滅」(ニルジャラー)と称する。その止滅の結果、罪悪や汚れを滅し去って完全な悟りの智慧を得た人は、「完全者」(ケーヴァリン)となり、「生をも望ます、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地に到達する。この境地に達すると、生死を超越し、また現世をも来世をも超越する。煩悩を離れて生きることを欲しない、と同時に死をも欲しないのは、死を願うこともまた一つの執着とみるからである。ここに到達した者は、まったく愛欲を去り、苦しみを離脱して迫害に会ったとしても少しも動揺することなく、一切の苦痛を堪え忍ぶ。この境地をモークシャ・やすらぎ(寂静)・ニルヴァーナ(涅槃)、とジャイナ教では称する。

モークシャに到達したならば、ただ死を待つのみである。身体の壊滅とともに最期の完全な解脱に到達する。完全な解脱によって向かう場所を、特に空間的に限定して、この世とは異なったところであるとしている。「賢者はモークシャ(複数)なるものを順次に体得して、豊かで、智慧がある。彼は無比なるすべてを知って[身体と精神の]二種の[障礙を]克服して、順次に思索して業を超越する『アーラヤンガ』」。モークシャは生前において、この世において得られるものと考えられている。このモークシャをウッタマーンタ(最高の真理)と呼んで、ただ“否定的”にのみ表現ができるとしている。

このモークシャを得るために、徹底した苦行瞑想、不殺生(アヒンサー)、無所有の修行を行う。ジャイナ教では、次の「七つの真実」(タットヴァ)を、正しく知り(正知)それを信頼し(正見)実践する(正行)することが真理に至る道であると考えられている。

1. 霊魂(ジーヴァ) 2. 非霊魂(アジーヴァ) 3. 業の流入(アースラヴァ) 4. 束縛(バンダ) 5. 防ぎ守ること(サンヴァラ) 6. 止滅(ニルジャラー) 7. 解脱(モークシャ)

ジャイナ教では、宇宙は多くの要素から構成され、それらを大別して霊魂(ジーヴァ)と非霊魂(アジーヴァ)の二種とする。霊魂は多数存在する。非霊魂は、運動の条件(ダルマ)と静止の条件(アダルマ)と虚空(アーカーシャ)と物質(プドガラ)の四つであり、霊魂と合わせて数える時は「五つの実在体」(アスティカーヤ)と称する。これらはみな“実体”であり、点(パエーサ)の集まりであると考えられている。宇宙は永遠の昔からこれらの実在体によって構成されているとして、宇宙を創造し支配している主宰神のようなものは“存在しない”とする。

霊魂(ジーヴァ)とは、インド哲学でいう我(アートマン)と同じであり、個々の物質の内部に想定される生命力を実体的に考えたものであるが、唯一の常住して遍在する我(ブラフマン)を“認めず”、多数の実体的な個我のみを認める「多我説」に立っていると見なされている。霊魂は、地・水・火・風・動物・植物の六種に存在し、“元素”にまで霊魂の存在を認める。霊魂は“上昇性”を持つが、それに対して物質は“下降性”を有する。その下降性の故に霊魂を身体の内にとどめ、上昇性を発揮することができないようにしていると考えられている。この世では人間は迷いに支配されて行動している。人間が活動(身・口・意)をするとその行為のために微細な物質(ボッガラ)が霊魂を取り巻いて付着する。これを「流入」(アースラヴァ)と称する。霊魂に付着した物質はそのままでは業ではないが、さらにそれが霊魂に浸透した時、その物質が「」となる。そのため「業物質」とも呼ばれる。霊魂が業(カルマン)の作用によって曇り、迷いにさらされることを「束縛」(バンダ)という。そして「業の身体」(カンマ・サリーラガ)という特別の身体を形成して、霊魂の本性をくらまし束縛しているとする。霊魂はこのように物質と結び付き、そして業に縛られて輪廻すると伝えられている。

霊魂に業が浸透し付着して、人間が苦しみに悩まされる根源は外界の対象に執着してはならないとの教えで、あらゆるところから業の流れ(ソータ)は侵入してくるので、五つの感覚器官(感官)を制御して全ての感覚が快くとも悪しくとも愛着や執着を起こさなければ、業はせき止められる。それを、「防ぎ守ること・制御」(サンヴァラ)と呼び、新規に流入する業物質の防止とする。それに対し、既に霊魂の中に蓄積された業物質を、苦行などによって霊魂から払い落とすことを「止滅」(ニルジャラー)と呼ぶ。

霊魂は業に縛られて、過去から未来へ生存を変えながら流転する存在の輪すなわち輪廻(サンサーラ)の中にいる。輪廻は、迷い迷って生存を繰り返すことだと云われる。ジャイナ教は、その原因となる業物質を、制御(サンヴァラ)と止滅(ニルジャラー)によって消滅させるために、人は“修行”すべきであると説く。そのために出家して、「五つの大誓戒」(マハーヴラタ、mahaavrata)である、不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有を守りながら、苦行を実践する。身体の壊滅によって完全な解脱が完成すると「業の身体」を捨てて、自身の固有の浮力によって一サマヤ(短い時間)の間に上昇し、まっすぐにイーシーパッバーラーという天界の上に存在する完成者(シッダ)たちの住処に達し、霊魂は過去の完成者たちの仲間に入るとしている[50]

ヒンドゥー教(バラモン教)[編集]

ヒンドゥー教は非常に雑多な宗教であるが、そこにはヴェーダの時代から続く悟りの探求の長い歴史がある。

仏教に対峙するヴェーダの宗教系で使われる悟り意識の状態で、人が到達することの出来る最高の状態とされる。サンスクリットニルヴァーナ涅槃)に相当する。光明または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。

インドではヴェーダの時代から、「悟りを得るための科学」というものが求められた。それらは特に哲学的な表現でウパニシャッドなどに記述されている。古代の時代の悟りを得た存在は特にリシと呼ばれている。

ニルヴァーナには3つの段階が存在するといわれ、マハパリ・ニルヴァーナが最高のものとされる。悟りと呼ぶ場合はこのどれも指すようである。どの段階のニルヴァーナに到達しても、その意識状態は失われることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナは肉体を持ったまま得るのは難しいとされ、悟りを得た存在が肉体を離れる場合にマハパリ・ニルヴァーナに入ると言われる。

悟りを得た存在が肉体を離れるときには、「死んだ」とは言われず、「肉体を離れる」、「入滅する」、「涅槃に入る」などと言われる。

悟りという場合、ニルヴァーナの世界をかいま見る神秘体験を指す場合がある。この場合はニルヴァーナには含まれないとされ、偽のニルヴァーナと呼ばれる。偽のニルヴァーナであっても、人生が変わる体験となるので、偽のニルヴァーナを含めて、ニルヴァーナには4つあるとする場合もある。

現在でも、ゴータマ・ブッダの時代と同じように山野で修行を行う行者が多い。どんな時代にでも多くの場所に沢山の数の悟りを得た(と自称している)存在に事欠かない。

通常、悟りを得たとする存在もヒンドゥー教、またはその前段階のバラモン教の伝統の内にとどまっていた。しかし、特にゴータマ・ブッダの時代はバラモン教が司祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存在と主張した時で、それに反対してバラモン教の範囲から飛び出している。同時代にはジャイナ教のマハーヴィーラも悟りを得た存在としており、やはり階級制であるカーストに反対してこれを認めず、バラモン教から独立している。

キリスト教[編集]

仏教者鈴木大拙はイエスを妙好人と考証している[51]

福音書における悟りの関連個所[編集]

イエスの認識を全く理解できなかった弟子が、イエスに叱責されるというエピソードが福音書には載っている。その時に、イエスは、あなたがたは今なお、「悟り」がないのか、という語を用いてそのことを指摘したとされている。キリスト教と悟りとの関連が見られる箇所の一つがそこにあると見ることができる。[52]

十字架にかかる以前のナザレのイエスの教えには、心の中の悪に対しての認識を深めることが弟子たちに対しての要求に含まれていた。人の心の中から出てくる行為や想念については、淫行、盗み、殺人、姦淫貪欲悪意、奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別などがあげられている。[53][54]

仏教的な悟達者との関連[編集]

これらの箇所に見えることは、自分の心の中の悪を自覚できるようになることは、一種の悟りであるという自力救済的な教えを、時にイエスは説いていたということである。しかし、ナザレのイエスは悟っていたかもしれないということを裏付けできるような資料はほとんどなく、わずかに『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に仏教的な悟達者との関連があるかもしれないという記述が残っているのみである。

『闘技者トマスの書』に見るナザレのイエスと悟りの関連性[編集]

福音書と同じくイエスの言行を記した『闘技者トマスの書』には、自力救済的な思想が記されている。「自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。」[55]という言葉などにも、心の中の悪を突き詰めていった「悟り」というものにつながっている部分があるようにも見える。『闘技者トマスの書』は、自力救済的な思想でありながらも、同じナグ・ハマディ文書のトマス福音書とは異なり、異端であるとはされなかった。

「人間を救済する自己認識」の信念は異色のものであると言える。こうした自力救済的な思想は、正統的教会にとっては異端として退けられるべきものであると考えられる。しかし、岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』によれば、「闘技者トマスの書」は、正統的教会の、いわば外延をなした修道者に向けて編まれたものと思われるとされていて、その主な内容であるところの、欲望に対する闘争は、キリスト教的な禁欲思想をつらぬくものとされている。[56]

闘技者トマスの書における悟りと関連した信念[編集]
  • 2、イエスの友と呼ばれる人は、自らを測り知らなければならない。
  •  自分が何者なのか、いかにして存在しているのかについて、知らなくてはならない。
  •  自分がいかなる存在になるかを、学び知りなさい。
  •  イエスの兄弟と呼ばれている人は、自分自身について無知であってはならない。
  •  私は真理の知識である。[57]
  •  私が真理の知識であることを、誰もが認識することができる。
  •  今だ自分自身について無知であっても、すでに認識にたっすることはできる。
  • 3、自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。
  • 5、変化するものは滅し、滅びる。肉体が滅びるのと同じように、万物は変化し、滅びてゆく。
  • 6、万物の深遠や真理の知識は、見ることができず、説明することも困難である。
  • 8、欲情や肉欲は肉体に属する火炎である。人の心を酔わせ、魂を混乱させる。人々の霊を焼き焦がす。
  •   真の知恵から真理を求める者は誰でも、自らを翼にして飛翔し、「欲情」から逃れることが出来る。[58]
  • 9、これは完全なる者たちの教えである。もし、あなたたちが完全になろうと思うならば、、あなたたちはこれらのことを守るであろう。[59]
  • 11、幸いだ、賢者は。彼がそれを見出した時に、彼はその上に永遠に安息し、彼を動揺させる者どもを恐れることがなかった。
  • 12、本来的自己の中に安息することは、益になる。そして、それはお前たちにとって善いことなのだ。
  • 22、あなたたちが、身体の苦悩と苦難から離れるとき、あなたたちは、善なる者[60]から安息を受け、王とともに支配するであろう。[61][62]


『トマス福音書』における悟りと関連した信念[編集]

(77)、すべては私から出て、 そしてすべては私に達した。 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう

(4)、・・・日を重ねた老人は生命の場所について7日の幼な子に問うことを躊躇してはならない。 そうすれば彼は生きるであろう。

(5)、あなたの面前にあるものを認識せよ。そうすれば、隠されているものはあなたに明かされるであろう。 明らかにならないまま隠されているものはないからである。

(15)、もしあなたが女から産まれなかった者を見たら、ひれ伏しなさい。彼を拝みなさい。その者こそ、あなた方の父である。[63][64]

イスラム教[編集]

一般のイスラム教には悟りの伝統は含まれていないが、特にイスラム教神秘主義とも呼ばれるスーフィーは、内なる神との合一を目的としており、そのプロセスは悟りのプロセスのいずれかに近い。しかし、神との合一を成し遂げたスーフィの中にはハッラージュ英語版のように「我は真理なり」と宣言して時の為政者に処刑された例がある[65]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 菩提は: bodhiの音写[1]
  2. ^ 「開悟」が仏教伝来以前から中国に存在していた漢語かどうかは不明。
  3. ^ 釈迦が降魔成道を遂げて悟りを開いたとされる蠟月(十二月)八日は、今日でも降魔成道会として仏教寺院の年中行事の一つとなっている[17]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』岩波書店、2002年10月、第二版、370-371頁。
  2. ^ 新村出(編)『広辞苑』岩波書店、1986年10月、第三版、972頁。
  3. ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「悟」 483頁。
  4. ^ 『正覚』 大正新脩大蔵経テキストデータベース
  5. ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「正覚」 687頁、ならびに『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) を対照逐訳。
  6. ^ 『広説佛教語大辞典』 中村元著 (東京書籍) 上巻 「開悟」 180-181頁。
  7. ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) prativibudda 840頁。
  8. ^ a b 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「悟」 483頁、ならびに『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) を対照逐訳。
  9. ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) bodhi 932頁。
  10. ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 「覺」 1062頁。
  11. ^ 阿耨多羅三藐三菩提 がは大正新脩大蔵経に1万3500余回出現するが、阿含部は45回に過ぎない。
  12. ^ 『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) anuttarāṃ 58頁, samyak 1437頁, sambodhiṃ 1434頁。
  13. ^ 阿耨多羅三藐三菩提 (阿含部) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  14. ^ 『四禅‐定』 (禅学大辞典)参照: 釈迦族の農耕祭のときに四禅定を得たとする。同辞典の旧版では農耕祭での相撲のときに四禅の相を現したとしている。
  15. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『大日經疏演奧鈔(杲寶譯)』 (T2216_.59.0414a08: ~): 疏如佛初欲成道等者 按西域記 菩提樹垣正中金剛座。…(中略)… 若不以金剛爲座 則無地堪發金剛之定 今欲降魔成道 必居於此。
  16. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『釋迦譜』 (T2040_.50.0064a08: ~): 佛成道已 梵天勸請轉妙法輪 至波羅捺鹿野苑中爲拘隣五人轉四眞諦。
  17. ^ 清水寺成道会12/8 ※記述内容は各寺共通 - 京都・観光旅行。
  18. ^ a b 藤本晃 (2015年11月). 悟りの四つのステージ. サンガ [要ページ番号]
  19. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P114 中村元
  20. ^ 岩波文庫『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』P291訳注第五章注150 中村元
  21. ^ 過去七仏の観念があらわれ、第七人目の仏がゴータマであるとするようになったのは、後代になってからとされる。(原始仏典Ⅱ相応部第一巻P484第8篇注80 中村元ほか)
  22. ^ ウパニシャッドの言葉であっても、現存パーリ仏典よりも内容や言葉はかなり古いものをうけている。『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P136 中村元
  23. ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P152松本照敬
  24. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P114 中村元
  25. ^ 岩波仏教辞典第二版P371
  26. ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P234松本照敬
  27. ^ 『世界の名著1 バラモン経典 原始仏典』中公バックス 昭和54年 P22 インド思想の潮流の項目 長尾正人 服部正明
  28. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P113 中村元
  29. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P118 中村元
  30. ^ 無我とは、アートマンが存在しないのではなく、我でもないものを我とみなしてはならないという考え方であり、「われという観念」、「わがものという観念」を排除しようとしたのである。(中村元著『佛教語大辞典』より) 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P20無我の項目上村勝彦
  31. ^ ゴータマは無余涅槃を排斥した。『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店1984年 P395注875 中村元
  32. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P136 中村元
  33. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P144 中村元
  34. ^ 『世界の名著1 バラモン経典 原始仏典』中公バックス 昭和54年 P22 インド思想の潮流の項目 長尾正人 服部正明
  35. ^ 悟りというものを宇宙原理たるブラフマンと真の自己との合一という観点から見た場合、小宇宙的概念としての内的世界(真人としての我)が、大宇宙の根本原理と合一すると言い換えることもできそうである。
  36. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P7 中村元
  37. ^ 肉体的な執着から離れた境地となり、意識が調和されるにしたがって、水が水蒸気になって拡大してゆくように、もう一人の我というものが拡大していって宇宙と一如と感じられるようになってゆくことを悟りとする説もある。内的宇宙が拡大して外的宇宙と合一することが佛への転換点であるとされている。『心の原点』P26 1973年 三宝出版 高橋信次
  38. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P113 中村元
  39. ^ この宇宙の前には、幾多の宇宙の生成と消滅があり、それらの幾多の宇宙期における歴史と、そこにおける自らの一々の百千の生涯について思い起こすことができるようになったとされる。
  40. ^ ここで四諦に関連して書いてあることは、後世の付加であるとされている。『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P105 中村元
  41. ^ 『ブッダ最後の旅』 岩波文庫P205注29 中村元
  42. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P95 中村元
  43. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇P616注24  春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  44. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇P396解説  春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  45. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』P596 第1篇注60 春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳
  46. ^ 『ブッダ最後の旅』 岩波文庫P204注28 中村元
  47. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第1篇P600注88  春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳
  48. ^ 『尼僧の告白』1982年岩波書店P36中村元
  49. ^ 悠誘 高野山 高野山の歴史 - 一般社団法人 高野町観光協会。
  50. ^ 渡辺研二 2006.
  51. ^ 鈴木大拙全集第十巻[要追加記述]
  52. ^ マタイ福音書15:16
  53. ^ マルコ福音書7-21
  54. ^ 「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意」までは、複数形で言われており、それらの具体的な行為が意味されている。「奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別」までは単数形。それらで表される心のあり方に主眼点がある。岩波書店「新約聖書」2004年、P31
  55. ^ 『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 説教・書簡』 闘技者トマスの書 3 岩波書店、1998年、 荒井献大貫隆、小林稔、筒井賢治訳 
  56. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』 P380
  57. ^ 自分の霊的な本質を認識していること。(岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』用語解説 P5)
  58. ^ マリア福音書参照
  59. ^ マタイ5:48
  60. ^ 太陽を介し、そのよき従者である光を人間に送る神(岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』P57)
  61. ^ 『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 説教・書簡』 闘技者トマスの書 岩波書店、1998年、 荒井献大貫隆、小林稔、筒井賢治訳 
  62. ^ 闘技者トマスの書参照
  63. ^ トマス福音書参照
  64. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 』トマス福音書1989年 荒井献ほか
  65. ^ イスラム史におけるスーフィズムの意義について(Webpage archive、2012年8月5日) - http://www4.ocn.ne.jp/~kimuraso/ronbun3.html

参考文献[編集]

  • 『漢訳対照梵和大辞典』鈴木学術財団、山喜房佛書林、2012年5月、新訂版。ISBN 9784796308687
  • 中村元『広説佛教語大辞典』東京書籍、2001年6月。NCID BA52204175
  • 大蔵経テキストデータベース研究会『大正新脩大藏經テキストデータベース』、2012年、2012版。
  • 『禅学大辞典』禪學大辭典編纂所、大修館書店、1985年11月、新版。ISBN 4469091081
  • 渡辺研二『ジャイナ教入門』現代図書、2006年。ISBN 4-434-08207-8

関連項目(仏教)[編集]