結 (仏教)

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仏教用語
英語 Fetter, chain, bond
パーリ語 samyojana, saŋyojana, saññojana
中国語 結, 結使, 結纏
日本語
(ローマ字: Ketsu)

(けつ、: saṃyojana, サンヨージャナ)とは、仏教において、衆生輪廻に縛り付ける「束縛」としての煩悩のこと[1]。結のため、人はドゥッカに満ちた生を繰り返すこととなる。

パーリ経典[編集]

パーリ経典経蔵では、以下の十結が挙げらている[2]

五下分結・三結[編集]

衆生を欲界(下分)へと縛り付ける結を、五下分結ごげぶんけつ: orambhāgiya-saṃyojana)と呼ぶ。

  1. 有身見うしんけん: sakkāya-diṭṭhi) - 五蘊自己とみなす見解[1]
  2. : vicikicchā) - 疑い
  3. 戒禁取かいごんしゅ: sīlabbata-parāmāsa) - 誤った戒律・禁制への執着
  4. 貪欲とんよく: vicikicchā)- 五欲に対する欲望・執着
  5. 瞋恚しんに: paṭigha) - 怒り

この5つを絶つことで、不還果へと到達できる[3][4]

この5つの内、1-3の3つを特に三結(さんけつ)と呼び、これらは四向四果の最初の段階である預流果において絶たれる。

五上分結[編集]

衆生を色界無色界(上分)へと縛り付ける結を、五上分結ごじょうぶんけつ: uddhambhāgiya-saṃyojana)と呼ぶ。

  1. 色貪しきとん: rūpa-rāga) - 色界に対する欲望・執着
  2. 無色貪むしきとん: arūpa-rāga) - 無色界に対する欲望・執着
  3. まん: māna) - 慢心
  4. 掉挙じょうこ: uddhacca) - (色界・無色界における)心の浮動
  5. 無明むみょう: avijjā) - 根本の無知

この5つを絶つことで、四向四果の最終段階である阿羅漢果へと到達できる[3][4]

四向四果
(解脱の10ステップ, パーリ経蔵[5]による)

到達した境地(果) 解放された 苦しみが終わるまでの輪廻

預流

1. 有身見 (無我)
2. (教えに対しての疑い)
3. 戒禁取(誤った戒律・禁制への執着)

下分結

最大7回、欲界と天界を輪廻する

一来

一度だけ人として輪廻する

不還

4. の貪り(カーマラーガ
5. 憤怒瞋恚, パティガ)

欲界及び天界には再び還らない

阿羅漢

6. 色貪
7. 無色貪
8. , うぬぼれ
9. 掉挙
10. 無明

上分結

三界には戻らず輪廻から解放

Source: Ñāṇamoli & Bodhi (2001), Middle-Length Discourses, pp. 41-43.


論蔵における十結[編集]

以下が論(アビダンマ)の分類法(: abhidhamma-naya)における「結」である。[1]

  1. 貪欲とんよく: kāma-rāga
  2. 瞋恚しんに: paṭigha
  3. まん: māna
  4. けん: diṭṭhi) - まちがった見解
  5. : vicikicchā
  6. 戒禁取かいごんしゅ: sīlabbata-parāmāsa
  7. 有貪うとん: bhavarāga) - 存在することへの執着
  8. しつ: issā) - ねたみ、嫉妬
  9. けん: macchariya) - けち、物惜しみ
  10. 無明むみょう: avijjā

それぞれの結[編集]

有身見[編集]

有身見: sakkāya-diṭṭhi)とは、sak (存在する) + kāya (身体) + diṭṭhi (ディッティ) であり、五悪見のひとつとされている。

一般的には「各個人の信条」や、単純に「自己視点」とされ、「恒久的な存在、(attā)が存在するという、の信条」である[6]仏教では魂(attā)が存在しないという、無我(アナッター)の立場を取るためである。

パーリ経典では、釈迦は以下のように有身見を記載している。

人々の持つ悪見は、どのように不適切に形成されるのか。...人々はこのように不適切に考える。

  • 私は過去に存在したのか? 昔の私は誰だったのか?
  • 私は将来も存在するのか? 将来の私はどうなっているのか?
  • これは私であるのか? これは私ではないのか?
  • 私は何なのか? 私はどうなっているのか? 私はどこへ行くのか? 

このような間違った方法で考えるものは、これら6つの見(ディッティ)に至る。

  • 私は自己を持っている
  • 私は自己を持っていない
  • 私の自己と知覚しているものは、それが自己である
  • 私の自己と知覚しているものは、それは自己ではない
  • 自己がないので、私の自己は分からない
  • これこそが私であり、私の自己は一貫している

比丘たちよ、これらは見の棘、見の荒野、見の湾曲、見の束縛、見の足枷と呼ばれている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c P.A.パユットー 著、野中耕一 訳『ポー・オー・パユットー 仏教辞典(仏法篇)』、2012年2月、サンガ、p.202-203
  2. ^ These fetters are enumerated, for instance, in SN 45.179 and 45.180 (Bodhi, 2000, pp. 1565-66). This article's Pali words and English translations for the ten fetters are based on Rhys Davids & Stede (1921-25), p. 656, "Saŋyojana" entry (retrieved 2008-04-09).
  3. ^ a b 悟りの階梯 - 藤本晃/日本テーラワーダ仏教協会
  4. ^ a b パオ森林僧院における教えと修行 日本語訳 pp33-34 [リンク切れ]
  5. ^ See, for instance, the "Snake-Simile Discourse" (Majjhima Nikaya 22)
  6. ^ Rhys Davids & Stede (1921-25), pp. 660-1, "Sakkāya" entry (retrieved 2008-04-09). See also, anatta.

関連項目[編集]