瞑想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Swami Vivekananda
Hsuan Hua
Baduanjin qigong
St Francis
Epictetus
Sufis
瞑想の様々な描写。ヒンズー教のヴィヴェーカーナンダ 、仏教のスアン・フア、道教による気功、キリスト教のアッシジのフランチェスコストア派エピクテトス、イスラム教のスーフィズム

瞑想冥想(めいそう、: meditation: contemplation)とは、を静めてに祈ったり、何かに心を集中させること、心を静めて無心になること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすことである。この呼称は、単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者()をありありと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。現代では、健康の向上や心理的治療、自己成長、自己向上などの世俗的な目的をもって、様々な瞑想が行われている[1]

概説[編集]

瞑想する人の像

瞑想と呼ばれるものは非常に多様であり、静かに座って行うものや、一部のヨーガのように様々な体位を取るもの、集団で母音を低い声で続けて発する倍音声明(Overtone chanting)のように声を用いるものもある[2]太極拳スーフィーの旋回舞踊ダーヴィッシュ・ダンスのように動きながら行うものを含むという見解もあり[3]武道舞踊の修行・実践の中に瞑想を見出す人もいる[4][5]。瞑想は数えきれないほどのスタイルが存在し、静止して行うものから積極的な動作があるもの、集中の仕方も、特定の対象に集中するもの(ヨーガ等)、ある対象に注意を向けるが、雑念が生じれば意識をそちらに向け、また元に戻すというやり方のもの(ヴィパッサナー瞑想マインドフルネス等)、特定の対象に注意を向けないもの(等)と多様である[6]。各々の瞑想は宗教や信念、価値観、生き方と深くかかわる歴史を持ち、そうした文脈から瞑想を切り離して単体として考えることは難しく、定義は困難を伴う[7]。瞑想を広い意味での感覚減弱(脱感作)の技法ととらえようとする研究もあるが、明白に瞑想ではない感覚減弱の技法もあり、心身への効果から瞑想を定義することは難しい[8]

精神科医安藤治は、現代的視点から瞑想研究を紹介する『瞑想の精神医学』で、「伝統的により高度な意識状態あるいはより高度な健康とされる状態を引き出すため、精神的プロセスを整えることを目的とする注意の意識的訓練のことであるが、現代においてはリラクセーションを目的としたり、ある種の心理的治療を目的として行われることもある」と定義している[9]。「通常の意識状態、通常の健康よりも優れた」という価値の設定は、現在一般に認められている世界観、考え方の枠組み、科学的世界観をはみ出しており、こういった常識や科学と対立する価値を認めることを避け、瞑想を「変性意識状態」として位置付ける見方もある[10]。上智大学グリーフケア研究所の葛西賢太は、瞑想を「日常生活の諸問題の整理や見直し、再活性化を意図して、日常の時間の中に、一定の時間を区切って、通常とは違う意識状態に自覚的に切り替えること、また、その方法」と定義している[11]。葛西賢太は、通常意識状態と変性意識状態の往来を「意識変容」と呼び、「意識変容を自覚しているマインドフルな状態」を瞑想の基本的な状態(瞑想的意識状態)であると考え、この定義に当てはまるすべての行為を広い意味で瞑想ととらえることを提案している[11]

20世紀初頭のアメリカでは、裕福な階級は精神療法(サイコ・セラピー)を精神病の治療だけでなく精神の健康にも活用していたが、1960年代後半に起こったヒューマンポテンシャル運動では、ゲシュタルト心理学などの人間性心理学と精神療法が結びついて一般に広まり、自己実現や自己成長の手段として重視された[12]。この運動の代表的な人物である禅の研究者アラン・ワッツ英語版は、東洋の宗教における修行と西洋の精神療法とを同様のものと考えて、瞑想が精神療法の文脈の中に取り入れられた[12]。このことが、今日の一般での瞑想の実践や研究に大きな影響を与えていると考えられており、西洋で瞑想は実利的な健康法、セラピーとして広く活用されている[12]。安藤治は、瞑想はセラピーと言われることもあるが、精神的な病の治療を目指す精神療法ではなく、自己超越を促進する方法のひとつであると述べている[13]。治療する病気や人を適切に選べば、瞑想の副次的な効果を臨床において補助的に用いることは大いに有用である可能性がある[13]。精神療法が大衆化し、瞑想がセラピーの場に取り入れられたことで、精神療法・瞑想の語は、元来の意味よりやや大雑把に使われるようになった[12]

西洋では、瞑想による血圧降下作用などの特殊な生理学的効果が注目され、自己コントロールやリラクセーション法として研究されるようになった[8]。瞑想を科学的研究の対象とするために、宗教的側面を整理してそぎ落とし、定義し直したことで、瞑想研究は飛躍的に進んだ[14]

ヒューマンポテンシャル運動を引き継いだニューエイジでは、悪を幻影と見なして障害やネガティブ性を完全に否定し、人間の脳の無限の可能性や脳と宇宙エネルギーとの関係が信じられ、ヨーガ、レイキ太極拳自己啓発セミナー、禅、合気道超越瞑想などが霊的な成長をサポートするセラピーとして行われた[15]超能力を覚醒させることを目指すシルヴァ・マインド・コントロール等、自己啓発セミナーでも瞑想が利用されている[16]

瞑想の具体的効用として、感情の制御、集中力の向上、気分の改善等の日常的な事柄から、瞑想以外では到達不可能な深い自己洞察や対象認知、智慧の発現、さらには悟り解脱の完成まで広く知られる。宗教宗派、あるいは瞑想道場により、瞑想対象や技術が異なる。瞑想による特異な体験として、「変化しやすい強烈な感情、深いリラクセーションと高度の覚醒、知覚の明晰さの高まり、心理的プロセスや心理的移動説への感受性の向上、身体を含めた対象物の知覚に関する変化や流動性の増加(対象恒常性の減少)、精神的コントロールの困難さに対する自覚、特に集中力を失わず、空想に陥らないようにすることのむずかしさの自覚、時間の感覚の変化、変性意識、他者との一体化の体験、防御心の減少、体験への開放性」などがある[17]

「瞑想」という表現[編集]

瞑想に関しては複数の言語間での翻訳の行き来に伴う表現の混乱がある。冥想という言葉は、漢語としては、目を閉じて深く思索するという意味であり、道教に由来する[18]。根源的な真理である大道と一体化するための方法として重視された[18]。瞑想という言葉は、キリスト教の修道制に由来している[19]

スペイン語: meditación英語: meditation という言葉はラテン語: meditatio に由来している。ローマ時代の meditatio は「精神的および身体的な訓練・練習」全般を意味していた[20]

その後、ヨーロッパにおいてはもっぱらキリスト教が発展した。私的な祈りはその形態から、定型の祈りの言葉を声に出して唱える口祷と、心の中で念じる祈り念祷に分けられ、念祷はさらに思弁的な祈りである黙想(meditación、meditation)と、言葉を介さずに真理を直接に「観る」非思弁的な神秘体験観想スペイン語: contemplación英語: contemplation)に分けられた[21]。キリスト教の祈りにおいて、観想が最も高度な段階である[21]

伝統的な仏教では、瞑想という語はほとんど用いられてない[18]。仏教用語のパーリ語の bhāvanā(バーヴァナー)は修習、修行と訳されており、これが瞑想に当たる[22][18]。修行とは、「身体の訓練を通じて「悟り」を目指すこと」を意味する[5]。yoga(ヨーガ、瑜伽)、pratipatti(プラティパッティ、行)、特に密教にて用いられるsādhana(サーダナ、成就法)も瞑想に当たる[18]。また、瞑想で達する心理的状態を表すdhyāna(ディアーナ、禅那)、samādhi(サマーディ、三昧)も、俗に瞑想を指す言葉とされることもある[18]

近代になると、ヨーロッパで仏教が研究されるようになり、チベット仏教の実修、ヨーガなどが、meditation、contemplation と理解され、翻訳された[18]。それらを紹介した欧米の書物がさらに邦訳される際(再輸入される際)、元の仏教用語に相当する日本語ではなく、「瞑想」と訳されたものも少なくない。瞑想の英訳には、meditation と contemplation のどちらかが当てられている[22]

様々な伝統的な瞑想[編集]

インド発祥の瞑想[編集]

瞑想するシヴァ神の巨大像(バンガロール
ジャイナ教徒の瞑想

森林に入り樹下などで沈思黙考に浸る修行形態は、インドでは紀元前に遡る古い時代から行われていたと言われている。バラモン教、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教などインドの諸宗教で実践されている。

ヒンドゥー教における瞑想法は、真我や神との合一体験を目的とした瞑想が主流である。インドの宗教哲学の伝統において、瞑想の対象と一体となり、意識をただ一点に集中させ続けることによって、究極の智慧そのものとなることを目指す伝統的な瞑想として「ヨーガ」がある。この状態は三昧(さんまい、ざんまい、サマタ、サマディー)と呼ばれる。仏教やヒンドゥー教における瞑想法の究極の到達点は一般的には輪廻からの解脱であるが、実践者の悟りや解脱についての認識の違いが、宗教・宗派を区別する根拠の一つとなった。

仏教の始祖である釈迦は、上述のインドの瞑想の技法(あるいはヨーガ)によって悟りを得、彼はその瞑想法をより安全かつ体系的なものに発展させた。それゆえ仏教の諸派の中には、今でもヨーガの瞑想の技法を継承している派もあり、さらに独自に発展させている派もある。(詳細は瑜伽法相宗真言宗天台宗上座部仏教などの項を参照)身体性哲学を研究する山口裕貴は、精神が主体・身体は客体と扱う西洋とは逆に、仏教修行では身体が主であり、瞑想とは、身体にある種の拘束性を加え「型」となし、身体の型に精神を添わせていく作業であるとしている[23]。これにより、日常生活で育った欲望は薄まっていき、心身が合一することで「心身一如」、と呼ばれる境地に至るという[23]。禅では、「調身、調息、調心(姿勢が整えば呼吸が整い、呼吸が整えば心が整う)」とされる[24]

仏教における瞑想法では、人間の心が多層的な構造を持っていることを踏まえ意識の深層段階へと到達することを目的とした手法が組み立てられる場合がある。例えば、大乗仏教における仏教哲学仏教心理学では意識は八識に分類され、その中には末那識阿頼耶識と呼ばれる層があり、仏教の瞑想法はそこへ到達するための方法と言われている。末那識、阿頼耶識は、近代になって西洋心理学で深層心理と呼ばれるようになったものに近いと言われている。一方、上座部仏教においては、瞑想修行の進展に伴い心の変化を九段階に体系化(一般的認識である欲界を超えた後に現れる第一禅定から第九禅定)しており、第一禅定以上の集中力において仏陀によって説かれた観瞑想の修行を行うことで解脱が可能と言われている。

大乗仏教諸派や他の宗教では、三昧による一体感を究極の目的としている場合が多いのに対して、上座部仏教では、三昧の完成を修行の最終目的とせず、三昧に没入できるほどの極めて高い集中力で、今をあるがままに見ることで智慧の完成(悟りの境地)を目指す。仏教心理学では、三昧によって得られる境地を、その内的体験によって第一から第九禅定までに体系化している一方で、ヴィパッサナー瞑想によって得られる境地(悟り)は、これらの禅定とは別の体験としており、これが仏教と瞑想を基本とする他の宗教との違いとなっている[要出典]

キリスト教と瞑想[編集]

キリスト教の伝統においては、特に修道院修道士らの日課には祈りとして瞑想を行う時間が設けられていることが多い。祈りは黙想(瞑想)、観想に分けられる。黙想は、想像力によって聖書の場面を思い描いたり、神学上の重要な教えについて知性によって思弁的に思索をめぐらす[25]。これによって宗教的な感動を覚え、信仰がより深まる[25]。一方観想は非思弁的なものであり、黙想の次の段階に当たる[25]。17世紀には観想が、修得的観想(contemplatio acquisita)と注賦的観想(contemplación infusa)に区別されるようになった[21]。黙想と観想をはっきり区別した十字架のヨハネによると、観想では想像力や知性を用いた観念は一切使うことはなく、「暗く、無分別で、あらゆる個別性を欠いた概念」による「夢相の祈り」を通して、神との合一の認識を得る[25][26]。修得的観想には人間の能動的な態度があるが、神から超自然的に注がれた体験である注賦的観想には人間の自発性はなく、まったく受動的に与えられる注賦的観想によって、神との合一が成就される[21][25]

イエズス会では、修道院などにおいて書籍も何もない場所でじっくりとに関して思いを馳せて祈りを捧げる「霊の体操」のような霊操が行われている。

東方教会においては、「イイススの祈り(絶えざる祈り)」を唱え続けつつ深い瞑想の境地へと入ってゆく方法があり、これは「ヘシカズム英語版(静寂主義)」と呼ばれている[27]

イスラム教[編集]

神道[編集]

神道では瞑想と言う語は使わないが、瞑想に相当する行法が存在し、「御魂鎮め」と呼ばれている。その実態は流派によって様々である。

武道[編集]

武芸の流派が多く誕生した中世日本において、武芸の開祖の多くが宗教家または宗教と深い関係を持っており、また常の勝利を求めるならば身体の鍛錬だけでなく精神的な駆け引きや鍛錬が必要であったことから、戦闘技術だけでなく訓練を通じて人格の向上が目指されるようになった[5]。さらに平和な江戸時代に入ると、武士における実戦技術の重要性は低くなったが、支配者層としての人格の向上が求められるようになり、武士は坐禅などの瞑想修行を積極的に取り入れ、型の修行自体も瞑想的な性格を帯びるようになっていった[5]。武道をよくするフランス文学者の内田樹は、武道で技を決めるもっとも技術的に複雑な瞬間、激しい動きをしながら極めて短時間だけ瞑想状態に入ると述べている[28]

科学的研究[編集]

瞑想は科学か[編集]

瞑想は、研究者や信奉者によってしばしば科学と呼ばれるが、瞑想を科学という場合、それは一般的な意味での科学とは異なっている[29]。「科学」とは一般的に、経験主義的科学を指し、何かが「科学的ではない」と言われる場合、「経験主義的な物質的証拠が提出できていない」という意味である[29]。そのため心理学、精神医学、社会学なども、しばしば「科学ではない」といわれ、瞑想や霊性研究も科学として扱われていない[29]。瞑想研究は非常に困難であるが、あくまで科学の領域の中において「状態特定科学」として、「変性意識状態」という概念に基づいた理解などの成果を上げている研究の方向や、高次の超越的な知の領域があると考えて、科学という名にこだわらずに独創的な研究を行おうという方向もある[29]

研究[編集]

瞑想は東洋・西洋共に行われてきたが、ユダヤ教やキリスト教では宗教的実践の中心に据えられることはなかったため、欧米に広く知られるようになったのは、東洋の瞑想伝統が導入された後のことだと考えられている[30]。当初は懐疑的に捉えられ、とくに精神分析的訓練を受けた専門家たちは強い拒絶感を持ち、「瞑想とは、子宮内の生活状況への心理学的、身体的退行であり…一種の人工的精神分裂症である。」などという意見も見られた[30]。このような学者たちの態度にもかかわらず、1960年代から70年代には欧米の一般社会に様々な東洋的瞑想実践が導入され、広く実践されるようになり、次第に先入観を持たずに評価しようとする心理学者や精神科医も現れるようになり、自ら実践して研究するものもあった[31]。本格的な科学研究は、ベンソンとウォーラスによる瞑想の血圧降下作用に対する研究(1972年)が端緒となって盛り上がったと考えられている[32]。研究が始まった当初はやや熱狂的であり、研究方法にも多くの問題点があった[33]

研究が進むにつれ、リラクセーション法や自己催眠などの他の自己コントロール法でも、瞑想特有と考えられていた様々な生理学的変化が起こることが分かり(ウォーラスの1970年代の超越瞑想の研究では、代謝の著しい減退が見られると主張されたが、対象群を整理したのちの研究で、そうした代謝の変化は瞑想特有のものではないことが示唆されている[34])、研究者も冷静になり、研究方法も次第に洗練された[33]。瞑想研究は多様な観点で行われ、トランスパーソナル心理学とも関連するようになり、学術研究が始まった当初のようなネガティブな見解は減少した[35]

異なる瞑想法を使った研究の結果の一貫性はあまりなく、例えばヨーガの瞑想者、禅の瞑想者、マインドフルネス瞑想者では、脳の活動に大きな違いが見られることが報告されており、同じ人間でも初期と熟達してからでは心理的効果が異なる[36]。研究の対象となる瞑想はさまざまであるため、研究結果については、各種の瞑想の違いを理解し、どのy瞑想の、どの段階の瞑想者を対象にした研究であるかを明確にする必要があると考えられるが、安藤治は、研究者たちは問題意識を持ってはいるが、まだ十分実践できていないと指摘している[37]

アメリカにおける瞑想研究の多くは、超越瞑想を対象としたものであった[38]。なお、日本など東洋諸国では、瞑想研究はほとんど行われてこなかった[39]。心身症を研究する熊野宏昭は、日本にマインドフルネスという概念が紹介された際に、日本の心身医学では「気づきとセルフコントロール」が鍵概念として重視され研究されていたため、何をいまさらという印象を持ったと述べており[40]、安藤治は、日本やインドのように長い瞑想伝統を持つ社会では、瞑想の持つ意味を多くの人が何となく理解していることから、科学的に分析しようという西洋科学の態度がなじまなかったのではないかと指摘している[39]

2001年にマサチューセッツ総合病院のサラ・ラザール(Sara W.Lazar)は、瞑想と経験による神経可塑性に関する実験を行った[41]。募集で集めた瞑想の未経験者の脳をMRIでスキャンした後に、半分の被験者を8週間で1日平均27分間あるがままに観察する瞑想プログラムに参加させ、終了後に再び被験者をMRIでスキャンした。全被験者のプログラム前と後を比較した有意な結果として、瞑想の参加者は学習や記憶に関連する海馬の灰白質密度が高まり、不安やストレスに関連する扁桃体の灰白質密度が低下していた。ラザールの実験は、瞑想が脳の自己認識、思いやり、内省といった分野に比較的急速に生理的変化を生じさせる可能性があることを示した[42]

ペンシルバニア大学アンドリュー・ニューバーグ英語版は、深い瞑想状態や祈りの状態にある者の脳内の神経学的変化を研究した。ニューバーグによると、深い祈りを込めた瞑想は、上頭頂葉後部の活動を低下させ、血流を減少させていた。また瞑想者のメラトニンセロトニン濃度は上昇し、コルチゾールアドレナリン濃度は低下していた。前者2つのホルモンはリラックス時には上昇し、後者2つはストレス負荷により上昇するので、この変化は理に適っているとした。

こうした研究成果は、あくまでも脳と体験に「対応関係」がある事を示すものである。(脳内の変化が体験を生み出すという因果関係を証明するものでは無い。)ニューバーグは、瞑想時における様々な体験が「客観的な現実であるか」と問われた時に、それは「神経学的な現実」であると返している[43]

治癒的な作用[編集]

他のリラクセーション法と同じくらいには健康に良いと考えられている[44]。臨床研究で瞑想の心身への良い影響を示唆する報告が出るようになると、健康管理、心理治療、教育などの分野に応用されるようになった[45]。生理・生化学的研究では、瞑想特有の身体の健康への効果はないようである[46]。臨床的・心理学的な研究には、何をもって客観的であるとするかという問題があるが、概観すると、瞑想は心理学的にみて健康に良い影響があり、不安・恐怖症の改善、依存症の抑制、といった報告があり、知覚の感受性を高めることが示唆されている[47]。また心身医学的な見地から、心筋梗塞後のリハビリテーション、気管支喘息、不眠、高血圧に有効であるかもしれず、また人間関係における信頼や自己評価の改善などに良いという報告もある[48]。これらの研究は瞑想の治癒的な力の可能性を示唆しているが、ただし、安藤治によると、こうした作用は瞑想特有であるとは言えず、研究の質も不十分である[48]

補完医療としての活用も試みられている。うつ病は再発を繰り返しやすく、再発防止のため最低2年間は抗うつ薬治療が推奨されているが、瞑想を取り入れたマインドフルネス認知療法に再発リスク低減効果があるのではないかとされ[49]英国の研究チームが効果があったと報告した。同研究チームでは3度以上うつを繰り返し、抗うつ薬を服用する経験者424人を被験者とし、半数ずつをランダムに分け、2年間にわたりマインドフルネス認知療法をする群と抗うつ薬治療を行い、両群の再発率を比較した。その結果、マインドフルネス認知療法群で再発率が44%、抗うつ薬治療群で再発率が47%となり、両群に統計的に有意な差はなかった。研究チームは双方ともにうつ再発や後遺症、生活の質向上により良い結果をもたらしていたとした[50]

弊害・危険性[編集]

アメリカ国立衛生研究所は、瞑想は一般的に、健康な人にとっては安全であると考えられると報告している[51]。瞑想は経験豊富な優れた指導者の元で、正しい態度で行われる必要がある[52]。精神疾患の既往、身体的な病気がある場合には、始める前に主治医等と相談し、瞑想指導者に病気について知らせることが必要である[53][51]

瞑想が宗教的文脈と切り離され、一般での実践が盛んになると、瞑想によって精神的に不調になり、精神病を患う人も現れるようになった[54]。瞑想の臨床研究が盛んになると、瞑想の弊害も報告されるようになった[45]。一般社会に瞑想や神秘主義が流行しているため、精神科医がそうした事象が引き起こす精神的不調や病気に関する十分な理解、援助の知識を持つ必要があるが、そうした蓄積はいまだ十分ではなく、精神科医の側からも教育と研究の必要性が指摘されている[55]

安藤治は、「そのような報告はまだ数は少ないが、臨床的報告としては非常に重要なものである。というのも、それは、臨床場面で安易に瞑想を適用ないし「処方」したりすることがはらむ大きな危険性を直接的に示すものだからである」、瞑想に不向きな人がおり、様々な瞑想の伝統のように瞑想には十分な準備が必要である可能性がある、と注意を促している[56]。弊害としては、「時折起こるめまい、現実との疎外感、それまでになじみのなかった思考、イメージ、感情などが引き出され、それらに敏感になることによってもたらされる苦痛、また、不安、退屈、ゆううつ感、不快感、落ち着きのなさの増大」などが報告されており、マインドフルネス瞑想によってトラウマ記憶が思い出され、それがうつのきっかけになる恐れもある[57][58]。マインドフルネス瞑想がストレスになって、痛みへの耐性が下がったり、自己コントロール力が低下した例もある[59]

アメリカ国立衛生研究所は、瞑想が不安障害やうつ病のような一種の精神病の人々の症状を引き起こしたり悪化させたという報告は稀だと述べている[51]マインドフルネス瞑想の実践のリスクについては科学的な情報は十分でないが、パニック・うつ・不安の発現・悪化などの報告があり、また稀ではあるが、そう状態・精神症状なども報告されている[53]。マインドフルネス瞑想の長期のリトリート(英:Retreat、集中合宿)では、害の報告は稀であるが、数人の参加者が終了後、数カ月または数年間続く深刻な心理的問題を報告している[53]。ヴィパッサナー瞑想のリトリートでは、1日12時間以上の瞑想を行った人と、2時間以下の瞑想を行った人では体験内容に大きな違いがあることが報告されており、データの集め方が十分とは言えないが、長時間の瞑想者は「身体イメージの変化、エネルギーが湧き上がってくる感覚、通常とは異なる呼吸のパターン、幻覚体験を含んだ奇妙な視覚、聴覚、味覚、嗅覚の変化、喜びや言いようのない幸福感、時間感覚の変化、集中力の変化、対外離脱体験、自然な気づき、スピリチュアルな体験」を報告している[60]

瞑想のリトリートの場合、日常と切り離された環境で長時間の瞑想を行うため、瞑想体験が深まり、意識は内面へ集中し、日常から意識は遠ざかることになる[61]。リトリートから日常生活に戻る際に「現実的な見当識が弱まり、思考プロセスが止まってしまい、自分が何をすべきか、どこへ行くべきかといったことがなかなかできなくなったりする」といった障害が見られることがあり、その症状は精神医学で離人症と呼ばれる症状に極めて似ている[61]。長期瞑想者のほとんどがこの離人症的な障害を体験しているともいわれ、精神科での治療が必要になった例もある[62]。ただし、瞑想による離人症的な障害と離人症が同じものであるのかはわかっておらず、瞑想による離人症的な障害は、薬物投与で悪化するという指摘もある[62]

自我構造の弱さが病理として表れていると考えられる精神病や境界例には、瞑想は有害である可能性がある[13]。臨床研究の中には、瞑想は「精神病や境界例、慢性のうつ病、片頭痛やレイノー病などに対しては安易に適用されるべきではない」ことを示唆するものもある[63]。 マインドフルネス瞑想は、不安、うつ状態、トラウマ、精神疾患の既往のある人には、有害な作用が増強される可能性があり、一方でこれらが改善することも報告されているため、十分なトレーニングを受けた指導者が慎重にスクリーニングを行い、途中経過をモニターしつつ実施することが必要とされる[53]

マインドフルネスの実践は、快適な、不快な、または中立的な体験をもたらすもので、動揺、身体的不快感、眠気、悲しみ、怒りなどの不快な経験も含まれる[53]。多くの場合そうした経験は一時的なものであり、それが生まれて消えていく過程を観察することが学びのプロセスになっているが、ごく一部の参加者は持続的な悪化または長期的なダメージを経験している可能性がある[53]。この問題はまだ十分に研究されておらず、今後の研究が期待されている[53]

運動をする際に、その強度、個人の特性、指導者の質が重要であるように、マインドフルネスなどの瞑想の実践においてもその3点は重要である[53]。マインドフルに食べる、見る、聞くといったごく軽度の実践が有害であるというデータはない[53]。8週間にわたり毎日最大で40分間のマインドフルネスを実践する心理療法マインドフルネスストレス低減法は、強度は中程度であるが、参加者の母集団が明確に定義され指導者が十分に訓練された予備調査では、害の証拠がないことが示唆されている[53]。最も強度の強い実践はリトリートであり、参加者は1日何時間も、時に1週間も沈黙の中で瞑想を続ける[53]。マインドフルネスの悪影響の報告は、ほとんどがこうしたリトリートである[53]

瞑想初期の段階では、実践方法・実践態度が間違っていると、受け流すべき思考に圧倒されて妄想的な思考に陥ったり、不安や心身の不調が現れることがある[64]。瞑想を進めていくと、心理的な防衛のメカニズムが崩され、不快な記憶が思い出されたり、心理的葛藤が起こって不快な気持ちや抗うつ感に悩まされたり、痛みが起きることがよくあり、精神病の既往歴のある人の場合、再発の可能性もある[65]。心理学的な知識のない瞑想指導者が、不調に陥った瞑想者に対し、さらに集中的な瞑想をするべきだと判断して悪化する可能性もあり、このような事態に陥った場合、精神科医等の専門家による介入が必要となる可能性がある[65]

瞑想の実践がある程度進んだ時期(キリスト教においては、念祷に熟達した段階)では、キリスト教の聖者十字架のヨハネが「魂の暗夜」と呼んだ、霊的進歩が停滞し、むしろ後退してしまったように思われ、「生のすべてが意味を失い、深い苦痛や絶望、重苦しい抑うつ感にさいなまれる」状態になることがある[66][25]。通常のうつ病的な状態とは異なり、自殺することはないと言われ、十字架のヨハネの理解によると、魂がより高い次元に足るための一つの過程である[25]。同様の体験をした聖者たちの記録が、魂の暗夜を乗り切るささえとして活用される[66]

多くのスピリチュアルなコミュニティには、現実逃避や、現実の問題に魔術的な解決がもたらされることを期待して、瞑想などのスピリチュアルな実践に熱中している人も少なくない[67]。トランスパーソナル心理学者・精神療法家のフランシス・ヴォ―ンは、瞑想や様々なスピリチュアルな実践に向かう人の態度に見られる問題として、スピリチュアル・アディクション(スピリチュアル中毒、スピリチュアル依存)をあげており、「スピリチュアリティへの強い欲求やこころざしには、本質的に自己の責任の放棄という要素が含まれるため、外的対象に依存しがちになり、アディクション(中毒)に陥る傾向がつねに強く潜在している」と注意を促している[67]。精神医学や心理学が、スピリチュアルな実践を病理的なものと考えたり、疑いの目で見るのは、こうした一部の実践者たちの現実逃避的な態度も影響している[67]。現実逃避的な人が瞑想などのスピリチュアルな実践を行う場合、依存が起きやすく、一度依存してしまうと抜け出しにくい[67]。スピリチュアルな実践を行う自分を特別だと思い上がったり、スピリチュアルなもののみに価値を見出すような生活の破綻が起こることもあり得る[68]。まだ自我が確立されていない場合、スピリチュアルな実践が弱い自分の自己評価を高める道具になってしまう恐れもあり、罪からの解放や浄化を目指す場合には、実践全てが贖いの儀式と化してしまうこともあり得る[68]

瞑想修行がすすみ、集中的瞑想の段階に入ると、新しい心的世界に直面し、様々な心的要素が現れ出でる[69]。多くの瞑想伝統では、こうした現象は悟りに至る過程にすぎず、「副作用」のようなものとみなされているが、瞑想者が受ける衝撃は大きく、道を踏み外す人もおり、病気のような状態になる人もいる[69]。研究の盛んな欧米ではまだこの段階に達している瞑想者は少ないため、こうした現象がどの時期に現れるかよくわかっていないが、初心者にはみられない[69]。感情的・身体的エネルギーの激発(体の一部が突然動く、急に脊髄が燃えるように感じられて体中が熱くなる、身体各部に強烈な痛みを感じる、身体各部の緊張が急に解き放たれる、様々な色の光に襲われる、強いエクスタシーを伴って身体全体が震える、複雑で劇的な身体の動きが数日~数年続く、など)があり、そうした現象が起こった場合、冷静に観察しながら正しい瞑想を続けるが、瞑想をいったん中断して適度な運動や鍼治療、農作業やイメージトレーニングを行うこともある[69][70]ヒンドゥー教で「クンダリニーの覚醒」と言われる状態に当たるものだと思われるが、「クンダリニーの覚醒」自体が、科学的に十分理解されていない[69]

また瞑想集中期には、身体の大きさや重さの感覚に異常が生じたり、自分自身を外から眺める幽体離脱体験することもある[71]。幻聴などの聴覚の変容、絶望感、喜び、深い悲しみ、恐怖といった強い感情に急に襲われたり、感情が強く動きコントロールできなくなることもある[71]。過去世のようなヴィジョンや見知らぬ情景といった古代的・元型的イメージに圧倒されて、精神のコントロールを逸するものもいると言われる[71]。こうした体験を恐れたり強く抵抗すると、禅で「魔境」と呼ばれるように、体験に取り込まれて瞑想が継続不可能になることもあるが、優れた指導者による十分なサポートなしに、体験を受け流すことは難しく、病的な状態に陥り、薬物治療が必要になる危険性がある[71]

集中的瞑想が深まり、次なる段階への入り口に差し掛かると、「すばらしい喜び、至福の感情、魅惑的な恍惚感、強烈な解放感」が湧き上がることがあり、瞑想者がこれを瞑想の最終的な到達点と勘違いすることが少なくない[72]。シュード・ニルヴァーナ(偽涅槃)と呼ばれており、瞑想が深まる過程の正しい一段階であるとみなされているが、強烈な幸福感を伴うため、この体験に夢中になってしまったり、悟りの境地に達したと信じてしまうものもいる[72]。伝統的な瞑想の体系では、こうした体験を指導者がチェックし、瞑想者が正しく認識するよう導くよう体系化されており、このような体験とは距離を取って接するように指導される[72]

また日本のでは、修行の途中で様々な精神的・身体的不調をきたす状態「禅病」があることが、修行者たちの間で知られているが、肯定的な体験ではないため、あまり記録が残されていない[73]。江戸時代の名僧白隠は、若い時に過酷な修行で禅病に悩まされ、経緯や症状、身体の各部分に集中する独特な観想法である「内観の法」「軟酥の法」によって病を克服したことを、『夜船閑話』に書き残している[73]。禅病は、臨済禅公案(師に与えられた非論理的な質問への答えを探し出す修行法)によって引き起こされることが多いと言われる[74]。安藤治は、瞑想が深まった高次の段階で起こる障害は情報が少ないため、白隠の記録は意味深いと評している[74]

さらに深まった洞察的瞑想期の体験については、あまり知られていないが、世界の生成消滅の有様についての洞察をつかむと言われている[75]。なお、瞑想に伴って現れる危機は、必ずしも瞑想の段階と正確な関連があるわけではなく、整理することは困難である[76]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 安藤 2003, pp. 22-23.
  2. ^ 加藤・安本・永沢 2017, p. 337.
  3. ^ 安藤 2003, p. 20.
  4. ^ 岡 2013.
  5. ^ a b c d Bittmann 2008.
  6. ^ 安藤 2003, p. 23.
  7. ^ 安藤 2003, p. 17.
  8. ^ a b 安藤 2003, p. 22.
  9. ^ 安藤 2003, p. 27.
  10. ^ 安藤 2003, p. 26.
  11. ^ a b 井上 2011.
  12. ^ a b c d 安藤 2003, pp. 158-161.
  13. ^ a b c 安藤 2003, pp. 166-167.
  14. ^ 安藤 2003, pp. 17-22.
  15. ^ York 2009, pp. 430-431.
  16. ^ Saliba 2009, pp. 518-519.
  17. ^ 安藤 2003, p. 56.
  18. ^ a b c d e f g 瞑想とは何か 真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺
  19. ^ 葛西 2012.
  20. ^ 羅和辞典』研究社。[要文献特定詳細情報]
  21. ^ a b c d 辻部 2009.
  22. ^ a b 永沢 2017, p. 62.
  23. ^ a b 山口 2012.
  24. ^ 林 2017, p. 188.
  25. ^ a b c d e f g 鶴岡 2011.
  26. ^ キリスト者の祈りと坐禅”. Dai's Home Page. 2018年11月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月17日閲覧。
  27. ^ 久松 1995, pp. 104-116.
  28. ^ 内田 2017, p. 408.
  29. ^ a b c d 安藤 2003.
  30. ^ a b 安藤 2003, p. 15.
  31. ^ 安藤 2003, pp. 15-16.
  32. ^ 安藤 2003, p. 30.
  33. ^ a b 安藤 2003, pp. 31-32.
  34. ^ 安藤 2003, p. 33.
  35. ^ 安藤 2003, p. 16.
  36. ^ 濟木 2017, p. 202.
  37. ^ 安藤 2003, pp. 32-35.
  38. ^ 安藤 2003, p. 35.
  39. ^ a b 安藤 2003, pp. 49-50.
  40. ^ 熊野宏昭 マインドフルネスはなぜ効果を持つのか 熊野宏昭公式サイト
  41. ^ Lazar 2011, pp. 36-43.
  42. ^ ゾッリ、ヒーリー 2013, pp. 174-181.
  43. ^ パーニア 2006, p. 不明.
  44. ^ 安藤 2003, p. 38.
  45. ^ a b 安藤 2003, p. 48.
  46. ^ 安藤 2003, p. 44.
  47. ^ 安藤 2003, p. 45.
  48. ^ a b 安藤 2003, pp. 45-46.
  49. ^ CG123: Common mental health problems: identification and pathways to care (Report). 英国国立医療技術評価機構. (2011-04). Appendix.E-Glossary. https://www.nice.org.uk/guidance/CG123/. 
  50. ^ Kuyken 他 2015.
  51. ^ a b c Meditation: In Depth”. National Center for Complementary and Integrative Health. アメリカ国立衛生研究所 (2016年4月). 2019年6月14日閲覧。
  52. ^ 安藤 2003, p. 114.
  53. ^ a b c d e f g h i j k l Is mindfulness safe?(マインドフルネスは安全か?)”. Oxford Mindfulness Centre(オックスフォード・マインドフルネス・センター). University of Oxford Department of Psychiatry (2016年10月). 2019年6月12日閲覧。 日本語要約
  54. ^ 安藤 2003, p. 112.
  55. ^ 安藤 2003, pp. 112-113.
  56. ^ 安藤 2003, pp. 48-29.
  57. ^ 安藤 2003, p. 28.
  58. ^ 林 2017, p. 194.
  59. ^ 林 2017, pp. 194-195.
  60. ^ 安藤 2003, pp. 53-54.
  61. ^ a b 安藤 2003, pp. 115-116.
  62. ^ a b 安藤 2003, p. 116.
  63. ^ 安藤 2003, p. 49.
  64. ^ 安藤 2003, pp. 113-114.
  65. ^ a b 安藤 2003, p. 115.
  66. ^ a b 安藤 2003, p. 117.
  67. ^ a b c d 安藤 2003, pp. 117-118.
  68. ^ a b 安藤 2003, pp. 117-121.
  69. ^ a b c d e 安藤 2003, pp. 121-126.
  70. ^ 安藤 2003, pp. 149-150.
  71. ^ a b c d 安藤 2003, pp. 124-126.
  72. ^ a b c 安藤 2003, p. 126.
  73. ^ a b 安藤 2003, pp. 127-136.
  74. ^ a b 安藤 2003, p. 143.
  75. ^ 安藤 2003, p. 144.
  76. ^ 安藤 2003, pp. 145-146.

参考文献[編集]

  • 『現代瞑想の世界・総解説 改訂新版』瞑想情報センター、自由国民社、1982年。
  • 久松英二「イエスの祈りの起源について」『エイコーン -東方キリスト教研究-』第14号、新世社、1995年12月。
  • 安藤治『瞑想の精神医学 : トランスパーソナル精神医学序説』春秋社、2003年4月。ISBN 4393361172
  • サム・パーニア『科学は臨死体験をどこまで説明できるか』小沢元彦訳、三交社、2006年5月。ISBN 4879191639
  • Bittmann Heiko「日本武道に見られる思想の研究(その5)日本武道における「修行」の一考察」『金沢大学留学生センター紀要』第11巻、金沢大学留学生センター、2008年3月、 35-42頁、 NAID 110006839886
  • 辻部大介「翻訳 フェヌロン:内面生活についての手紙--修道女シャルロット宛書簡(1696年3月10日)訳と解説」『福岡大学研究部論集 A 人文科学編』第9巻、福岡大学研究推進部、2009年、 23-33頁、 NAID 110007197393
  • 『現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ』クリストファー・パートリッジ英語版 編、井上順孝 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳、悠書館、2009年。
    • Michael York 執筆「ニューエイジの伝統」。
    • John A. Saliba 執筆「シルヴァ・マインド・コントロール」。
  • Lazar, Sara W. “Mindfulness practice leads to increases in regional brain gray matter density”. Psychiatry Research: Neuroimaging (Elsevier) 191 (1). doi:10.1016/j.pscychresns.2010.08.006. 
  • 井上ウィマラ「葛西賢太著, 『現代瞑想論-変性意識がひらく世界-』, 春秋社, 二〇一〇年三月二六日刊 レビュー」『宗教研究』第85巻、日本宗教学会、2011年、 763-770頁、 NAID 110008799203
  • 鶴岡賀雄「近代神秘神学の誕生—近世カルメル会学派の「神秘主義」と「スコラ学」—」『東京大学宗教学年報』第28巻、東京大学文学部・大学院人文社会系研究科、2011年、 1-18頁。
  • 葛西賢太「パネルの主旨とまとめ(瞑想的世界認識と宗教研究,パネル,<特集>第七十回学術大会紀要)」『宗教研究』第85巻、日本宗教学会、2012年、 965-966頁、 NAID 110009439927
  • 山口裕貴「フロー経験がもたらす「自己目的的」なるものの教育学的一考察 : 仕事と遊び及び武道とスポーツの特質解釈の過程で」『桜美林論考. 自然科学・総合科学研究』第3巻、桜美林大学、2012年3月、 51-62頁、 NAID 110009634621
  • 岡千春「修行としての舞踊と場」『人体科学』第22巻、人体科学会、2013年、 65-73頁、 NAID 110009616504
  • アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー『レジリエンス 復活力:あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か』須川綾子訳、ダイヤモンド社、2013年。ISBN 9784478012338
  • Kuyken W, Hayes R, Barrett B, Byng R, Dalgleish T, Kessler D, Lewis G, Watkins E, Brejcha C, Cardy J, Causley A, Cowderoy S, Evans A, Gradinger F, Kaur S, Lanham P, Morant N, Richards J, Shah P, Sutton H, Vicary R, Weaver A, Wilks J, Williams M, Taylor RS, Byford S (2015). “Effectiveness and cost-effectiveness of mindfulness-based cognitive therapy compared with maintenance antidepressant treatment in the prevention of depressive relapse or recurrence (PREVENT): a randomised controlled trial”. Lancet 386 (9988): 63–73. doi:10.1016/S0140-6736(14)62222-4. PMID 25907157. 
  • 『身心変容の科学 瞑想の科学―マインドフルネスの脳科学から、共鳴する身体知まで、瞑想を科学する試み―身心変容技法シリーズ1』鎌田東二 編、サンガ、2017年。
    • 永沢哲 執筆「第1章 瞑想の脳科学の現在 二一世紀の瞑想する脳科学―自己変容のパラダイム」。
    • 林紀行 執筆「第4章 瞑想による身心変容の科学的実践研究の試み 身心変容の科学―マインドフルネスの科学」。
    • 濟木潤 執筆「第4章 瞑想による身心変容の科学的実践研究の試み ニューロフィードバック―自身の脳活動による身心変容」。
    • 加藤雅裕・安本義正・永沢哲 執筆「第6章 瞑想と連関する身体技法 倍音声明の音構造」。
    • 内田樹 講演「第7章 シンポジウム―身心変容の比較宗教学 講演1 身心変容技法としての武道と芸道―合気道と能を中心に」。

関連項目[編集]