釈迦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
この項目に含まれる文字は、オペレーティングシステムブラウザなどの環境により表示が異なります。
Example.of.complex.text.rendering.svg この項目にはインド系文字が含まれています。環境によっては、フォントをインストールしていても、母音記号の位置が乱れたり結合文字が分かれたりします詳細
釈迦
釈迦立像
釈迦立像
生地 コーサラ国カピラヴァストゥ
没地 マッラ国クシーナガラ
弟子 舎利弗摩訶目犍連摩訶迦葉
須菩提富楼那弥多羅尼子
摩訶迦旃延阿那律優波離
羅睺羅阿難

釈迦(しゃか)は、紀元前5世紀ごろの北インドの人物で、仏教開祖である。

名前と呼称[編集]

シャーキャ(サンスクリット語: शाक्य, Śākya)は、元来、釈迦の出身部族であるシャーキャ族またはその領国であるシャーキャ国を指す名称である。「釈迦」はシャーキャを漢訳したものであり、旧字体では釋迦である。

シャーキャムニ(サンスクリット語: शाक्यमुनि, Śākyamuni)はサンスクリット語で「シャーキャ族の聖者」という意味の尊称であり、これを漢訳した釈迦牟尼(しゃかむに)をさらに省略して「釈迦」と呼ばれるようになった。

釈迦の本名はゴータマ・シッダッタ(パーリ語: Gotama Siddhattha)またはガウタマ・シッダールタ(サンスクリット語: गौतम सिद्धार्थ, Gautama Siddhārtha)であり、漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)である。

ゴータマはアンギーラサ族(パーリ語: aṅgīrasa)のリシガウタマの後裔を意味する姓(ゴートラ)であり、この姓を持つ一族のヴァルナバラモンである。したがって、クシャトリアのシャーキャ族である釈迦の姓がゴータマであることは不可解であり、「先祖が養子だった」など諸説ある。[1]

ブッダ(サンスクリット語: बुद्ध, buddha)は、「悟った人」を意味する釈迦の尊称であり、漢訳は仏陀、旧字体では佛陀である。「仏教」という名称や「仏像」などの呼称はこの尊称に由来する。他方で、タターガタ(サンスクリット語: तथागत, tathāgata)は、「そのように行きし者」を意味する釈迦の尊称であり、漢訳は音写の多陀阿伽度と意訳の如来があり、釈迦如来ともいう。バーガヴァーン英語版(サンスクリット語: भगवान्, Bhagavān)は「この世で最も尊い」を意味する釈迦の尊称で、漢訳は世尊である。

仏教ではこれらの呼称・尊称と敬称を組み合わせて、釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼如来としたり、またそれらを省略して、釈迦尊、釈尊や「仏様」、「お釈迦様」と呼ぶ。

歴史学的な成果[編集]

文献[編集]

釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で仏典の神格化された記述から一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。

おびただしい数の仏典のうち、いずれが古層であるかについて、日本のインド哲学仏教学の権威であった中村元パーリ仏典の『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし[2]、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲している。

しかし、釈迦の伝記としての仏伝はこれと成立時期が異なるものも多く、歴史学の常ではあるが、伝説なのか史実なのか区別が明確でない記述もある。

釈迦はインド大陸の北方にあった十六大国時代の一つコーサラ国の部族シャーキャ族の出身であるのは確実で、釈迦自身が、パセーナディ王とのやりとりの中でシャーキャ族をコーサラ国の住民であると語っている[要出典]

アショーカ王の建てた石柱には、ブラーフミー文字で「ブッダ生誕地なのでルンビニでは税を免除する」と刻まれている。

遺跡[編集]

ルンビニ[編集]

1868年、ドイツ人の考古学者アロイス・アントン・フューラー英語版ネパールの南部にあるバダリアで遺跡を発見した。そこで出土した石柱には、ブラーフミー文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれており、同地が仏教巡礼の八大聖地のひとつ、釈迦の生誕地ルンビニだとわかった。

カピラヴァストゥ[編集]

シャーキャの都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、釈迦の死後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教イスラム教にとってかわられ、それらの宗教のもとにあったインドやネパールの国家では釈迦のことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった。

ネパール中南部のティロリコート英語版と、インド側ではネパールとの国境に近いウッタル・プラデーシュ州バスティ県のピプラーワー英語版の両遺跡がカピラヴァストゥと推定され、ネパール側とインド側で、位置を巡って異なった見解が唱えられ論争になっている。

1898年にイギリス駐在官W・C・ペッペが、ピプラーワーから、「ガウタマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」であると書かれた壺を発掘した。ペッペが発見した遺骨の壺は、現在では真の仏舎利として最も信憑性があるとされている[3]。この壺は当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺に納められている[4]

生没年[編集]

まず釈迦の没年の確定についてアショーカ王の即位年を基準とするが、仏滅後何年がアショーカ王即位年であるかについて、異なる二系統の伝承のいずれが正確かを確認する術がない[5]。釈迦に限らず、インドの古代史の年代確定は難しい[6]。日本の宇井伯寿中村元は漢訳仏典の資料に基づき(北伝)、タイスリランカなど東南アジア・南アジアの仏教国はパーリ語聖典に基づいて(南伝)釈迦の年代を考え、欧米の学者も多くは南伝を採用するが、両者には百年以上の差がある。

なお、『大般涅槃経』等の記述から、釈迦は80歳で入滅したことになっているので、没年を設定すれば、自動的に生年も導けることになる。

主な推定生没年は、

等があるが、他にも様々な説がある。

生涯[編集]

誕生から青年期[編集]

十六大国時代のインド(紀元前600年

釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国属国であるシャーキャラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである。2人の間に生まれた釈迦はシッダールタと名付けられた。母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中にルンビニで釈迦を生み、その7日後に死んだ。[7]

誕生に関して「釈迦はマーヤーの脇の下から生まれた」という話と、「生まれてすぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた」という伝説とがある。

シャーキャの都カピラヴァストゥにて、釈迦はマーヤーの妹プラジャーパティーによって育てられた。当時は姉妹婚の風習があった[要出典]ことから、プラジャーパティーもシュッドーダナの妻だった可能性がある。

釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。

なお妃の名前は、他にマノーダラー(摩奴陀羅)、ゴーピカー(喬比迦)、ムリガジャー(密里我惹)なども見受けられ、それらの妃との間にスナカッタウパヴァーナを生んだという説もある。[要出典]

出家[編集]

当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた。

釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、「四門出遊」の故事がある。ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この身には老いも病も死もある、と生の苦しみを感じた(四苦)。北門から出た時に一人の沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。

長男のラーフラが生まれた後、29歳の時に、夜半に王宮を抜け出て、かねてよりの念願の出家を果たした。出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。次にアーラーラ・カーラーマのもとを訪れると、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した。[8]

そしてウルヴェーラーヒンディー語版の林へ入ると、父のシュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて5人の沙門(五比丘)を同行させた。そして出家して6年の間、苦行を積んだ。減食、断食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生のを根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。その際、五比丘は釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてワーラーナシーサールナートへ去った。

悟り[編集]

そこで35歳の釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。ガヤー地区英語版のほとりを流れるリラジャン川英語版沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜布施を受け、気力の回復を図って、インドボダイジュの木の下で、「今、悟りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で瞑想した。すると、釈迦の心を乱そうとマーラが現れ、この妨害が丸1日続いたが、釈迦はついにこれを退け(降魔)、悟りを開いた(正覚)。

仏教ではこれを「降魔成道」といい、この日を記念して「成道会」を行うようになった。また、ガヤー地区は、釈迦が悟ってブッダになったことから、ブッダガヤと呼ばれれて巡礼の対象となった。

この後7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起十二因縁を悟った。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。その結果、「法 (仏教)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。

ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。[9]3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた五比丘に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むワーラーナシーまで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。

ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦は五比丘に対して、法の方法論、四諦八正道を彼らに実践的に説いた。これを初転法輪という。この五比丘は、当初は釈迦は苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちコンダンニャがすぐに悟りを得たので、釈迦は喜んだ。法を説き終えて、釈迦は「世に6人の阿羅漢あり。その1人は自分である。」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。

教化と伝道[編集]

釈迦はワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらを教化した。その後、ウルヴェーラ・カッサパナディー・カッサパガヤー・カッサパの3人(三迦葉)が仏教に改宗した。当時、この3人はそれぞれがアグニを信仰する数百名からなる教団を率いてため、信徒ごと吸収した仏教教団は1000人を超える大きな勢力になった。

釈迦はマガダ国の都ラージャグリハに行く途中、ガヤー山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。

釈迦がラージャグリハに行くと、マガダ国の王ビンビサーラも仏教に帰依し、ピンピサーラは竹林精舎を教団に寄進した。[10]このころシャーリプトラマウドゥガリヤーヤナ倶絺羅マハー・カッサパらが改宗した。

以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハを中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんと帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様々な戒律が設けられるようになった。

これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラアーナンダアニルッダデーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii) などである。成道後14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティー祇園精舎で開かれた。

このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathuraa)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。

死までの1年間[編集]

最晩年の記録[編集]

釈迦の伝記の中で今日まで最も克明に記録として残されているのは、死ぬ前の1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録である。

シャーキャ国の滅亡[編集]

涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道はラージャグリハの竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァストゥに立ち寄り、コーサラ国王プラセーナジットの訪問をうけ、最後の伝道がラージャグリハから開始されることになった。

このプラセーナジットの留守中、プラセーナジットの王子ヴィルーダカが挙兵して王位を簒奪した。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトルを頼って向かったが、城門に達する直前に死んだ。

ヴィルーダカは即位後、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦はまだカピラヴァストゥに残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。しかし、このヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に洪水または落雷によって死んだ。

釈迦はカピラヴァストゥから南下してラージャグリハに着き、しばらく留まった。

自灯明・法灯明[編集]

釈迦は多くの弟子を従え、ラージャグリハから最後の旅に出た。アンバラッティカ(パ:ambalaTThika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(後のパータリプトラ)に着いた。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。

釈迦はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡り、コーティ村に着いた。 次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処三学を説いた。やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。 この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、

比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。[11]

と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。

だから、汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように[12]

と訓戒し、また、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、

では比丘たちが自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?阿難よ、ここに比丘は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassii)、熱心に(aataapii)、明確に理解し(sampajaano)、よく気をつけていて(satimaa)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。[13]
阿難よ、このようにして、比丘はみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とせずにいるのである[14]

として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。

これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。

入滅[編集]

やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ托鉢から戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと神通力について説いた[15]

托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigaama)、アンバ村 (ambagaama)、ジャンブ村 (jaambugaama)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (paavaa) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。

釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをマッラ国クシナガラに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、サーラの林に横たわり、そこで死んだ。仏教ではこの死を入滅、釈迦の入滅を仏滅という。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。

死後[編集]

釈迦の死後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、釈迦の遺骨(仏舎利)を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。

その八大国とは、

  1. クシナーラーマッラ族
  2. マガダ国のアジャタシャトゥル王
  3. ベーシャーリーリッチャビ族
  4. カビラヴァストフシャーキャ族
  5. アッラカッパのプリ族
  6. ラーマ村のコーリャ族
  7. ヴェータデーバのバラモン
  8. バーヴァーのマッラ族

である[※ 1]

弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典律典として維持されてきたのである。

入滅後の評価[編集]

ヒンドゥー教、イスラーム、マニ教から[編集]

釈迦の入滅後、仏教はインドで大いに栄えたが、大乗仏教の教義がヒンドゥー教に取り込まれるとともにその活力を失っていく。釈迦は、ヴィシュヌアヴァターラ化身)として地上に現れたとされた。偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざけるために、敢えて偽の宗教である仏教を広め、人々を混乱させるために出現したとされ、誹謗の対象になった。ただ、逆に大乗仏教の教義をヒンドゥー教が取り込んだため、ヒンドゥー教も仏教の影響を受けていた、と捉えることもできる。

さらにインドがイスラム教徒に征服されると、仏教はイスラム教からも弾圧を受け衰退の一途をたどる。イスラム征服後のインドではカーストの固定化がさらに進む。このなかでジャイナ教徒は信者をヒンドゥー社会の一つのカーストと位置づけその存続を可能にしたが、仏教はカースト制度を否定したためその社会的基盤が消滅する結果となった。元々インド仏教はその存在を僧伽に依存しており、ムスリムによって僧伽が破壊されたことによってその宗教的基盤を失い消滅した。インドで仏教が認められるようになったのは、インドがイギリス領になった19世紀以降である。現在はインド北東部の一部で細々と僧伽が存続する。

釈迦の聖地のある、ネパールでも釈迦は崇拝の対象である。ネパールではヒンドゥー教徒が80.6%、仏教徒が10.7%となっている(2001年国勢調査による)。ネパールでも仏教は少数派でしかないが、ネパールの仏教徒は聖地ルンビニへの巡礼は絶やさず行っている。なお、ルンビニは1997年にユネスコ世界遺産に登録された。また、ネパールでは王制時代はヒンドゥー教を国教としていたが、2008年の共和制移行後は国教自体が廃止されたため、ヒンドゥー教は国教ではなくなった。

仏教は仏滅後100年、上座部大衆部に分かれる。これを根本分裂という。その後西暦100年頃には20部前後の部派仏教が成立した。これを枝末分裂という(ただし大衆部が大乗仏教の元となったかどうかはさだかではなく、上座部の影響も指摘されている)。そして、部派仏教と大乗仏教とでは、釈迦に対する評価自体も変わっていった。部派仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(アラカン 如来十号の一)と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。一方、大乗仏教では、釈迦は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である、等と拡張解釈された。また、後の三身説では応身として、仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。とくに大乗で強調される仏性の思想は、上座部仏教には無かったことが知られている。

マニ教の開祖であるマニは、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。

マルコ・ポーロ[編集]

マルコ・ポーロの体験を記録した『東方見聞録』においては、釈迦の事を「彼の生き方の清らかさから、もしキリスト教徒であればイエスにかしずく聖人になっていただろう」[16]あるいは、「もし彼がキリスト教徒であったなら、きっと彼はわが主イエス・キリストと並ぶ偉大な聖者となったにちがいないであろう」[17]とし、(版や翻訳で文章に差異はあるが)極めて高く評価している。本文中では仏教という言葉は一切登場せず、仏教は他宗教と総称して偶像崇拝教として記述されるが、四門観の場面を描写するなど、釈迦に対する評価である事に間違いない。キリスト教の教義にはいささか反するという矛盾も否定は出来ないが、キリスト教徒としては最上の評価と言ってよいであろう。[独自研究?]

[編集]

精神科医高橋紳吾によると、釈迦は、現代の宗教が説くような「私を信じなければ不幸になる。地獄に落ちる」という類の言説は一切していなかったという[18]。釈迦は当時のバラモンや沙門たちが共有していた文化の中で生きてきたため、確かに仏教は輪廻思想から自由でないが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生の問題の実務的解決だった。苦悩執着によって起きるということを解明し、それらは正しい行ない(八正道)を実践することによってのみ解決に至る、という極めて常識的な教えを提示することだった[18]と、従って人生問題の実際的解決は、釈迦に帰依しなくても実践可能であり、釈迦は超能力者でも霊能者でも、増して「最終解脱者」でもなく、勿論「」のような絶対者でもなかったが、人々のカリスマ的人物を求める煩悶は何時の時代も変わりがなく、死後の釈迦は次第に神格化され、例えば釈迦の骨が崇拝の対象となったり、釈迦の言説とされる経典が信仰の対象となったりするなど、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は回帰した、と高橋紳吾は解説した[18]。そこにあるのは「象徴(シンボル)の病」だ、と[18]。-->

釈迦の像[編集]

入滅後400年間、釈迦の像は存在しなかった。彫像のみならず絵画においても釈迦の姿をあえて描かず、法輪菩提樹のような象徴的事物に置き換えられた。崇拝の対象は専ら仏舎利または仏塔であった。[要出典]

釈迦が入滅した当時のインドでは、バラモン教を始めとする宗教はどれも祭祀を中心に据えており、像を造って祀るという偶像崇拝の概念が存在せず、釈迦自身もそのひとりであった。初期仏教もこの社会的背景の影響下にあり、またそもそも初期仏教は、偶像を作る以前に釈迦本人に信仰対象としての概念を要求しなかった。[要出典]

仏像が作られるようになったのはヘレニズムの影響によるものである。そのため初期のガンダーラ系仏像は、意匠的にもギリシアの影響が大きい。しかし、ほぼ同時期に彫塑が開始されたマトゥラーの仏像は,先行するバラモン教や地主神に相通ずる意匠を有しており,現在にも続く仏像の意匠の発祥ともいえる。

ラホール博物館には苦行する釈迦の像が所蔵されている[19][20]

釈迦の生涯を伝える文献[編集]

注:以下〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のこと。

釈迦を題材にした作品[編集]

小説[編集]

漫画[編集]

映画[編集]

音楽[編集]

脚注・出典[編集]

[ヘルプ]

脚注[編集]

  1. ^ 1898年、ピプラーワーで、イギリスの駐在官ペッペが発見した遺骨の壺は、考古学的な鑑定の結果、現在では真の仏舎利として最も信憑性があるとされている(中村(1970)および外務省HP参照)。この壺は当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺に納められている。参考:外務省HP:日泰寺

出典[編集]

  1. ^ The Life of Buddha as Legend and History, p. 23, - Google ブックス
  2. ^ 中村(1984), 解説より。
  3. ^ 中村(1970) 武田龍1998
  4. ^ 参考:外務省HP:日泰寺
  5. ^ 南北両伝の間には約百年の違いがあるが、これを会通し、万人を納得せしめる結論を導き出すことは、現在としては不可能である。平川(1974), p.33.
  6. ^ 仏滅年代論については、異説がきわめて多く、百種以上ある。中村(1992a), p.107.
  7. ^ 図解仏教成美堂出版14頁
  8. ^ 図解仏教成美堂出版15頁
  9. ^ 図解仏教成美堂出版16頁
  10. ^ 図解仏教成美堂出版17頁
  11. ^ DN II mahāparinibbānasuttaṃ 51 [1], PTS Page 100, 中村元 訳『ブッダ最後の旅』p62 第二章二十五
  12. ^ DN II mahāparinibbānasuttaṃ 52 [2], PTS Page 100, 中村元 訳『ブッダ最後の旅』p63 第二章二十六
  13. ^ DN II mahāparinibbānasuttaṃ 53 [3], PTS Page 100, 中村元 訳『ブッダ最後の旅』p63 第二章二十六
  14. ^ DN II mahāparinibbānasuttaṃ 54 [4], PTS Page 100, 中村元 訳『ブッダ最後の旅』p64 第二章二十六
  15. ^ DN II mahāparinibbānasuttaṃ 55-56 [5], PTS Page 102-103, 中村元 訳『ブッダ最後の旅』p65-66 第三章一~三
  16. ^ ポーロ&月村ほか(1998), p.156. fr.2810写本による。
  17. ^ ポーロ&愛宕(2000), p.206.
  18. ^ a b c d 高橋(1997), pp.215 f.
  19. ^ 籔内佐斗司『仏像礼讃』2015年、大和書房、21頁
  20. ^ ラホール博物館

参考文献[編集]

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]