釈迦
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| 釈迦 | |
|---|---|
釈迦立像
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| 生地 | コーサラ国カピラヴァストゥ |
| 没地 | マッラ国クシーナガラ |
| 弟子 | 舎利弗・摩訶目犍連・摩訶迦葉 須菩提・富楼那弥多羅尼子 摩訶迦旃延・阿那律・優波離 羅睺羅・阿難 |
| 釈迦 | |||||||||||||||||||||
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| 中国語 | |||||||||||||||||||||
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| 中国語 | 釋迦牟尼 | ||||||||||||||||||||
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| 朝鮮語 | |||||||||||||||||||||
| ハングル | 석가모니 | ||||||||||||||||||||
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| ベトナム語 | |||||||||||||||||||||
| クオック・グー | Tất-đạt-đa Cồ-đàm | ||||||||||||||||||||
| タイ語 | |||||||||||||||||||||
| タイ語 | พระพุทธเจ้า | ||||||||||||||||||||
| インドネシア語 | |||||||||||||||||||||
| インドネシア語 | Siddhartha Gautama | ||||||||||||||||||||
| ビルマ語 | |||||||||||||||||||||
| ビルマ語 | ဂေါတမ ဗုဒ္ဓ | ||||||||||||||||||||
| ヒンディー語 | |||||||||||||||||||||
| ヒンディー語 | गौतम बुद्ध | ||||||||||||||||||||
| タミル語 | |||||||||||||||||||||
| タミル語 | கௌதம புத்தர் | ||||||||||||||||||||
釈迦(しゃか)は、紀元前6世紀または紀元前5世紀ごろに北インドにいたとされる人物で、仏教の開祖である。
名前と呼称[編集]
シャーキャ(梵: शाक्य Śākya)は、元来、釈迦の属している種族である釈迦族(シャーキャ族)[1]またはその領国であるシャーキャ国を指す名称である。「釈迦」はシャーキャを音写[1](漢訳)したものであり、旧字体では釋迦である。 [2]
シャーキャムニ(梵: शाक्यमुनि Śākyamuni)はサンスクリット語で「釈迦族(シャーキャ族)出身の聖者たる仏陀」という意味。ムニはインド宗教界で聖者・賢者の尊称として用いられた。これを音写(漢訳)した釈迦牟尼(しゃかむに)となる[3]。その略称が「釈迦」である[1]。
釈迦の姓はゴータマ(梵: Gautama)、名はシッダールタ(梵: Śiddhārtha)で[1]、ゴータマ・シッダッタ[4](パーリ語: Gotama Siddhattha)、ガウタマ・シッダールタ(梵: गौतम शिद्धार्थ Gautama Śiddhārtha)などの呼び方がある。漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)である。
ゴータマはアンギーラサ族(巴: aṅgīrasa)のリシのガウタマの後裔を意味する姓(ゴートラ)であり、この姓を持つ一族のヴァルナはバラモンである。したがって、クシャトリアのシャーキャ族である釈迦の姓がゴータマであることは不可解であり、「先祖が養子だった」など諸説ある。[5]
ブッダ(梵: बुद्ध buddha)は、「目覚める」を意味するブドゥ(budh)を語根として、「目覚めた人」を意味する[4]語。もともとインドの宗教一般において、すぐれた修行者や聖者に対する呼称であったが、仏教で用いられ釈迦の尊称となった[6]。漢訳は仏陀、旧字体で佛陀とも表記する。「仏教」という名称や「仏像」などの呼称はこの尊称に由来する。他方で、タターガタ(梵: तथागत tathāgata)は、「そのように行きし者」を意味する釈迦の尊称であり、漢訳は音写の多陀阿伽度と意訳の如来があり、釈迦如来ともいう。バガヴァント(梵: भगवन्त् Bhagavant)は「この世で最も尊い」を意味する釈迦の尊称で、漢訳は世尊である。ゴータマ・シッダールタがブッダとなり、この結果ゴータマ・ブッダという名称[4]が用いられることもある。
仏教ではこれらの呼称・尊称と敬称を組み合わせて、釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼如来としたり、またそれらを省略して、釈迦尊、釈尊や仏様、お釈迦様と呼ぶ。
歴史学的な成果[編集]
文献[編集]
釈迦の生涯を伝える経典[編集]
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注:以下〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のこと。
- 修行本起経 〔大正・3・461〕
- 瑞応本起経 〔大正・3・472〕 - これらは錠光仏の物語から三迦葉が釈尊に帰依するところまでの伝記を記している。
- 過去現在因果経 〔大正・3・620〕 - 普光如来の物語をはじめとして舎利弗、目連の帰仏までの伝記。
- 中本起経 〔大正・4・147〕 - 成道から晩年までの後半生について説く。
- 仏説衆許摩房帝経 〔大正・3・932〕
- 仏本行集経 〔大正・3・655〕 - これらは仏弟子の因縁などを述べ、仏伝としては成道後の母国の教化まで。
- 十二遊経 〔大正・4・146〕 - 成道後十二年間の伝記。
- 方広大荘厳経(普曜経) - これらは大乗の仏伝としての特徴をもっている。
- 仏所行讃 〔大正・4・1〕(梵:Buddha-carita) 馬鳴著
- Mahavastu
- 遊行経 『長阿含経』中
- 仏般泥洹経 白法祖訳
- 大般涅槃経 法賢訳 - 以上3件は、釈尊入滅前後の事情を述べたもの。
- 『自説経(ウダーナ)』 - パーリ語による仏典。日本語訳:[6]
検証[編集]
釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で仏典の神格化された記述から一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。
おびただしい数の仏典のうち、いずれが古層であるかについて、日本のインド哲学・仏教学の権威であった中村元はパーリ仏典の『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし[7]、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲している。
しかし、釈迦の伝記としての仏伝はこれと成立時期が異なるものも多く、歴史学の常ではあるが、伝説なのか史実なのか区別が明確でない記述もある。
釈迦はインド大陸の北方にあった十六大国時代の一つコーサラ国の部族シャーキャ族の出身であるのは確実で、釈迦自身が、パセーナディ王とのやりとりの中でシャーキャ族をコーサラ国の住民であると語っている[8]。
遺跡[編集]
ルンビニ[編集]
1868年、ドイツ人の考古学者アロイス・アントン・フューラーがネパールの南部にあるバダリアで遺跡を発見した。そこで出土した石柱には、ブラーフミー文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれており、同地が仏教巡礼の八大聖地のひとつ、釈迦の生誕地ルンビニだとわかった。
カピラヴァストゥ[編集]
シャーキャの都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、釈迦の死後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教やイスラム教にとってかわられ、それらの宗教のもとにあったインドやネパールの国家では釈迦のことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった。
ネパール中南部のティロリコートと、インド側ではネパールとの国境に近いウッタル・プラデーシュ州バスティ県のピプラーワーの両遺跡がカピラヴァストゥと推定され、ネパール側とインド側で、位置を巡って異なった見解が唱えられ論争になっている。
1898年にイギリス駐在官W・C・ペッペが、ピプラーワーから、「ガウタマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」であると書かれた壺を発掘した。ペッペが発見した遺骨の壺は、現在では真の仏舎利として最も信憑性があるとされている[9]。この壺は当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺に納められている[10]。
生没年[編集]
釈迦の没年は、アショーカ王の即位年(紀元前268年ごろ)を基準に推定されている。しかし、釈迦の死後何年がアショーカ王の即位年であるかは典拠によって違いがあり、特に北伝仏教と南伝仏教の経典で100年以上の差があるが、いずれが正確であるかを具体的に確認する術はない[注釈 1]。
日本の宇井伯寿や中村元は北伝仏教の経典に基づき、タイやスリランカなど東南アジア・南アジアの仏教国や欧米の学者の多くは南伝仏教の経典(パーリ経典)に基づいて没年を推定している。一方、『大般涅槃経』その他いずれの典拠においても釈迦が80歳で死去したとする記述は共通しているため、没年を決定できれば自動的に生年も導けることになる。
主な推定生没年は、
- 紀元前624年 - 紀元前544年 : 南伝仏教による説
- 紀元前566年 - 紀元前486年 : 北伝仏教の『衆聖点記』による説
- 紀元前466年 - 紀元前386年 : 宇井説
- 紀元前463年 - 紀元前383年 : 中村説
等があるが、他にも様々な説がある[注釈 2]。
なお、2013年にルンビニで紀元前6世紀の仏教寺院の遺構が見付かったと報道された[13]。この遺構の年代が正確であれば、釈迦は遅くとも紀元前6世紀またはそれ以前に存命していたことが確実となり、釈迦の生年を紀元前5世紀とする宇井説や中村説は否定されることになる。
生涯[編集]
誕生から青年期[編集]
釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキャのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである。2人の間に生まれた釈迦はシッダールタと名付けられた。母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中にルンビニで釈迦を生み、産褥熱でその7日後に死んだ。[14]
誕生に関して「釈迦はマーヤーの脇の下から生まれた」という話と、「生まれてすぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた」という伝説とがある。
シャーキャの都カピラヴァストゥにて、釈迦はマーヤーの妹プラジャーパティーによって育てられた。当時は姉妹婚の風習があった[15]ことから、プラジャーパティーもシュッドーダナの妻だった可能性がある。
釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。
出家[編集]
当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた。
釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、「四門出遊」の故事がある。ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この身には老いも病も死もある、と生の苦しみを感じた(四苦)。北門から出た時に一人の沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。
長男のラーフラが生まれた後、29歳の時に、夜半に王宮を抜け出て、かねてよりの念願の出家を果たした。出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。次にアーラーラ・カーラーマのもとを訪れると、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救うことはできないことを悟った。次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した。[16]
そして、ウルヴェーラーの林へ入ると、父のシュッドーダナは、釈迦の警護も兼ねて5人の沙門(五比丘)を同行させた。そして、出家した29歳から仏陀となった35歳までの6年間に様々な苦行行為を積んだ。呼吸をしばらく止める修行、太陽の直射日光を浴びる修行、座ろうとすれば後ろへ倒れ立とうとすれば前に倒れたり片足立ちをするなどの激しい肉体運動など、厳しい修行を行った。減食によって食欲を抑制する断食修行でわずかな水と豆類などで何日も過ごした。断食行為は心身を極度に消耗するのみであり、釈迦の身体は骨と皮のみとなり、やせ細った肉体となっていた。尚、成仏後のブッダは滋養に良いので断食を辞めて肉食も動物の供養後にするようになった。[要検証 ][17]人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って、難行苦行を捨てたといわれている。その際、五比丘は、釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてワーラーナシーのサールナートへ去った。
悟り[編集]
そこで35歳の釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。ガヤー地区のほとりを流れるリラジャン川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜の布施を受け、[18]気力の回復を図って、インドボダイジュの木の下で、「今、悟りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で瞑想した。すると、釈迦の心を乱そうとマーラが現れ、この妨害が丸1日続いたが、釈迦はついにこれを退け(降魔)、悟りを開いた(正覚)。
仏教ではこれを「降魔成道」といい、この日を記念して「成道会」を行うようになった。また、ガヤー地区は、釈迦が悟ってブッダになったことから、ブッダガヤと呼ばれて巡礼の対象となった。
この後7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟った。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。その結果、「法 (仏教)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。
ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。[19]3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた五比丘に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むワーラーナシーまで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。
ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦は五比丘に対して、法の方法論、四諦と八正道を彼らに実践的に説いた。これを初転法輪という。この五比丘は、当初は釈迦は苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちコンダンニャがすぐに悟りを得たので、釈迦は喜んだ。法を説き終えて、釈迦は「世に6人の阿羅漢あり。その1人は自分である。」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。
教化と伝道[編集]
釈迦はワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらを教化した。その後、ウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパの3人(三迦葉)は釈迦の神通力を目の当たりにして改宗した。[20]当時、この3人はそれぞれがアグニを信仰する数百名からなる教団を率いていたため、信徒ごと吸収した仏教教団は1000人を超える大きな勢力になった。
釈迦はマガダ国の都ラージャグリハに行く途中、ガヤー山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。
釈迦がラージャグリハに行くと、マガダ国の王ビンビサーラも仏教に帰依し、ビンビサーラは竹林精舎を教団に寄進した。[21]このころシャーリプトラ、マウドゥガリヤーヤナ、倶絺羅、マハー・カッサパらが改宗した。
以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハを中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんと帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様々な戒律が設けられるようになった。
これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラ、アーナンダ、アニルッダ、デーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii) などである。成道後14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎で開かれた。
このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathuraa)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。
死までの1年間[編集]
最晩年の記録[編集]
釈迦の伝記の中で今日まで最も克明に記録として残されているのは、死ぬ前の1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録である。
シャーキャ国の滅亡[編集]
涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道はラージャグリハの竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァストゥに立ち寄り、コーサラ国王プラセーナジットの訪問をうけ、最後の伝道がラージャグリハから開始されることになった。
このプラセーナジットの留守中、プラセーナジットの王子ヴィルーダカが挙兵して王位を簒奪した。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトルを頼って向かったが、城門に達する直前に死んだ。
ヴィルーダカは即位後、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦はまだカピラヴァストゥに残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。しかし、このヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に洪水または落雷によって死んだ。
釈迦はカピラヴァストゥから南下してラージャグリハに着き、しばらく留まった。
自灯明・法灯明[編集]
釈迦は多くの弟子を従え、ラージャグリハから最後の旅に出た。アンバラッティカ(巴: ambalaṭṭhika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(後のパータリプトラ)に着いた。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。
釈迦はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡り、コーティ村に着いた。 次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処や三学を説いた。やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。 この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、
| “ | 比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。アーナンダよ、如来の教法には、(弟子に何かを隠すというような)教師の握り拳(ācariyamuṭṭhi、秘密の奥義)はない。[22] | ” |
と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。
| “ | アーナンダよ、汝らは、自(みずか)らを灯明とし、自らをより処として、他のもの(añña)をより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とすることのないように[23] | ” |
と訓戒し、また、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、
| “ | ではアーナンダよ、比丘が自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?阿難よ、ここに比丘は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassī)、熱心につとめ(ātāpī)、明確に理解し(sampajāno)、よく気をつけていて(satimā)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。[24] | ” |
| “ | アーナンダよ、このようにして、比丘は自らを灯明とし、自らをより処として、他のものをより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とせずにいるのである[25] | ” |
として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。
これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。
入滅[編集]
やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ托鉢から戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと神通力について説いた[26]。
托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigaama)、アンバ村 (ambagaama)、ジャンブ村 (jaambugaama)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (paavaa) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。
釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをマッラ国のクシナガラに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、サーラの林に横たわり、そこで死んだ。80歳没。仏教ではこの死を入滅、釈迦の入滅を仏滅と言う。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。
死後[編集]
釈迦の死後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、釈迦の遺骨(仏舎利)を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。
その八大国とは、
- クシナーラーのマッラ族
- マガダ国のアジャタシャトゥル王
- ベーシャーリーのリッチャビ族
- カピラヴァストゥのシャーキャ族
- アッラカッパのプリ族
- ラーマ村のコーリャ族
- ヴェータデーバのバラモン
- バーヴァーのマッラ族
である。
弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。
評価[編集]
宗教[編集]
上座部仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。一方、大乗仏教では、釈迦は無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆の仏である、等と拡張解釈された。また、後の三身説では応身として、仏が現世の人々の前に現れた姿であるとする。
釈迦の死後、インドで仏教とヴェーダの宗教は互いに影響を与え、ヴィシュヌ派のプラーナ文献に釈迦はヴィシュヌのアヴァターラとして描写されている。ただし、ヴェーダを否定した釈迦は、神の化身とはいえ、必ずしも肯定的な評価ではない。
この件に関して、20世紀に新仏教運動を興したアンベードカルはヴィシュヌ派による釈迦の扱いを「偽りのプロパガンダ」と呼んで非難している[27]。一方で、新ヴェーダーンタ学派のサルヴパッリー・ラーダークリシュナンは、『法句経』を英訳した際の註釈で、釈迦の思想が極端に誇張されて伝わったのは当時とそれ以降の時代背景のせいで、釈迦の思想はウパニシャッドから派生したもの、と評価している[28]。なお、インド憲法でも仏教はシク教・ジャイナ教と並んでヒンドゥー教の分派のひとつとして扱われている[29]。
マニ教の開祖であるマニは、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。
マルコ・ポーロ[編集]
マルコ・ポーロの体験を記録した『東方見聞録』においては、釈迦の事を「彼の生き方の清らかさから、もしキリスト教徒であればイエスにかしずく聖人になっていただろう」[30]あるいは、「もし彼がキリスト教徒であったなら、きっと彼はわが主イエス・キリストと並ぶ偉大な聖者となったにちがいないであろう」[31]としている。また『東方見聞録』の記述では仏教という言葉は無く、アブラハムの宗教以外の宗教は全て「偶像崇拝教」と記述されているが、その偶像崇拝の起源は、釈迦の死後にその生前の姿を作ったのものとしている。
釈迦の像[編集]
仏像が作られるようになったのはヘレニズムの影響によるものである。そのため初期のガンダーラ系仏像は、意匠的にもギリシアの影響が大きい。しかし、ほぼ同時期に彫塑が開始されたマトゥラーの仏像は,先行するバラモン教や地主神に相通ずる意匠を有しており,現在にも続く仏像の意匠の発祥ともいえる。
ラホール博物館には苦行する釈迦の像が所蔵されている[32][33]。
釈迦を題材にした作品[編集]
小説[編集]
漫画[編集]
映画[編集]
- 『亜細亜の光』 (原題: "DIE LEUCHTE ASIENS" 1925年、ドイツ)
- 『釈迦』 (1961年、大映 釈迦役: 本郷功次郎)
- 『リトル・ブッダ』(1993年、アメリカ 釈迦役: キアヌ・リーブス)
音楽[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d 岩波仏教辞典第2版 1989, p. 376.
- ^ 『宗教のしくみ事典―教えから歴史・系譜・宗派まで早わかり』44頁
- ^ 岩波仏教辞典第2版 1989, p. 380.
- ^ a b c 中村・三枝 2009, p. 53.
- ^ The Life of Buddha as Legend and History, p. 23, - Google ブックス
- ^ 岩波仏教辞典第2版 1989, p. 702.
- ^ 中村(1984), 解説より。
- ^ Oldenburg 1882, p. 393.
- ^ 中村(1970) 武田龍1998
- ^ 参考:外務省HP:日泰寺
- ^ "平川(1974), p.33.
- ^ 中村(1992a), p.107.
- ^ 紀元前6世紀の寺院跡発見、釈迦の生誕時期示す? ネパール
- ^ 『図解仏教』成美堂出版14頁
- ^ 『図解仏教』成美堂出版14頁の釈尊の家族の図参照
- ^ 『図解仏教』成美堂出版15頁
- ^ 『マンガでわかる世界の宗教』57頁
- ^ 『宗教のしくみ事典―教えから歴史・系譜・宗派まで早わかり』45頁
- ^ 『図解仏教』成美堂出版16頁
- ^ 『図解仏教』成美堂出版17頁中段
- ^ 『図解仏教』成美堂出版17頁上段
- ^ DN II mahāparinibbānasuttaṃ 51 [1], PTS Page 100, 中村元 訳『ブッダ最後の旅』p62 第二章二十五
- ^ DN II mahāparinibbānasuttaṃ 52 [2], PTS Page 100, 中村元 訳『ブッダ最後の旅』p63 第二章二十六
- ^ DN II mahāparinibbānasuttaṃ 53 [3], PTS Page 100, 中村元 訳『ブッダ最後の旅』p63 第二章二十六
- ^ DN II mahāparinibbānasuttaṃ 54 [4], PTS Page 100, 中村元 訳『ブッダ最後の旅』p64 第二章二十六
- ^ DN II mahāparinibbānasuttaṃ 55-56 [5], PTS Page 102-103, 中村元 訳『ブッダ最後の旅』p65-66 第三章一~三
- ^ 『22 Vows of Dr. Ambedkar』
- ^ 『The Dhammapada: With introductory essays, Pali text, English translation and notes』
- ^ Constitution of India Part III article 25.
- ^ ポーロ&月村ほか(1998), p.156. fr.2810写本による。
- ^ ポーロ&愛宕(2000), p.206.
- ^ 籔内佐斗司『仏像礼讃』2015年、大和書房、21頁
- ^ ラホール博物館
参考文献[編集]
| 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2011年8月) |
- 『ブッダ最後の旅 - 大パリニッバーナ経 -』 中村元訳注・解説、岩波書店〈岩波文庫 青325-1〉、1980年6月16日。ISBN 4-00-333251-2。
- 『ブッダのことば スッタニパータ』 中村元訳注・解説、岩波書店〈岩波文庫 青301-1〉、1984年5月16日。ISBN 4-00-333011-0。
- 中村元 『ゴータマ・ブッダ 原始仏教1 1』 春秋社〈中村元選集 決定版 第11巻〉、1992年2月。ISBN 4-393-31211-2。
- 平川彰 『インド仏教史』上巻、春秋社、1974年。
- マルコ・ポーロ 『驚異の書 マルコ・ポーロ 東方見聞録』 辻佐保子・樺山紘一・月村辰雄日本版監修、月村辰雄ほか訳、岩波書店、1998年2月16日。ISBN 4-00-008191-8。
- マルコ・ポーロ 『完訳 東方見聞録』第2巻、愛宕松男訳注、平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2000年2月。ISBN 4-582-76327-8。
- 中村元他 『岩波仏教辞典』 岩波書店、1989年、第2版。ISBN 4-00-080072-8。
- 中村元、三枝充悳 『バウッダ』 講談社学術文庫、2009年。ISBN 978-4-06-291973-9。
関連文献[編集]
- 中村元 『原始仏教 その思想と生活』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1970年。ISBN 4-14-001111-4。
- 中村元 『ゴータマ・ブッダ 原始仏教2 2』 春秋社〈決定版 中村元選集 第12巻〉、1992年5月。ISBN 4-393-31212-0。
- 中村元 『釈尊の生涯』 平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2003年9月。ISBN 4-582-76478-9。
- 並川孝儀 『ゴータマ・ブッダ考』 大蔵出版、2005年12月。ISBN 4-8043-0563-7。
- 並川孝儀 『スッタニパータ 仏教最古の世界』 岩波書店〈書物誕生〉、2008年12月18日。ISBN 4-00-028285-9。
- 羽矢辰夫 『ゴータマ・ブッダ』 春秋社、1999年5月。ISBN 4-393-13297-1。
- 羽矢辰夫 『ゴータマ・ブッダの仏教』 春秋社、2003年12月。ISBN 4-393-13514-8。
- 早島鏡正 『ゴータマ・ブッダ』 講談社〈講談社学術文庫〉、1990年4月。ISBN 4-061-58922-9。
- 増谷文雄 『この人を見よ ブッダ・ゴータマの生涯/ブッダ・ゴータマの弟子たち』 佼成出版社〈増谷文雄名著選〉、2006年2月。ISBN 4-333-02193-6。
- 水野弘元 『釈尊の生涯』 春秋社、1985年6月、新装版。ISBN 4-393-13701-9。
- 水野弘元 『原始仏教入門 釈尊の生涯と思想から』 佼成出版社、2009年8月。ISBN 978-4-333-02395-0。 - 『釈尊の生涯と思想』 (平成元年刊) の新装改題版。
- 宮元啓一 『仏教誕生』 筑摩書房〈ちくま新書〉、1995年12月。ISBN 4-480-05653-X。
- 宮元啓一 『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』 光文社〈光文社文庫 グラフィティにんげん謎事典〉、1998年8月。ISBN 4-334-72670-4。
- 宮元啓一 『ブッダが考えたこと これが最初の仏教だ』 春秋社、2004年11月。ISBN 4-393-13520-2。
- 宮元啓一 『仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む』 春秋社、2005年11月。ISBN 4-393-13537-7。
- 渡辺照宏 『新釈尊伝』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2005年8月。ISBN 4-480-08928-4。
- Oldenburg, Hermann (1882). Buddha: His Life, His Doctrine and His Order. Williams and Norgate.
関連項目[編集]
- 灌仏会(花まつり)
- 成道会
- 涅槃会
- ウェーサーカ祭
- 仏舎利
- 八大聖地
- 仏教美術
- 仏陀
- 釈迦十大弟子
- ヒンドゥー教 - ヴィシュヌの十あるアヴァターラのうちの一つ。
- 釈迦頭 - 果物の一つ。
- ヴィパッサナー瞑想
外部リンク[編集]
- 三枝充悳「釈迦」[リンク切れ] - Yahoo!百科事典
- 世界大百科事典 第2版『釈迦』 - コトバンク
- 中央学術研究所 原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究
- The Buddhist's Resource
- 「Buddha」 - スタンフォード哲学百科事典にある「釈迦」についての項目。(英語)
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