釈迦 (映画)

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釈迦
監督 三隅研次
脚本 八尋不二
製作 永田雅一
出演者 本郷功次郎
チェリト・ソリス
勝新太郎
市川雷蔵
山本富士子
中村玉緒
京マチ子
音楽 伊福部昭
撮影 今井ひろし
編集 菅沼完二
製作会社 大映京都撮影所
配給 日本の旗 大映
公開 日本の旗 1961年11月1日
上映時間 日本の旗 157分
世界の旗 139分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
製作費 5億円[1]または7億円[2][3]
配給収入 7億円強[要出典]
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釈迦』(しゃか)は、大映京都撮影所が制作し、1961年(昭和36年)11月1日に大映が封切り公開した三隅研次監督の日本映画。日本初の「70ミリスーパーテクニラマ」による超大作映画である[3]。総天然色、156分。

ストーリー[編集]

紀元前5世紀インドカピラ城釈迦族王子シッダ太子が生まれる。20年後、シッダはスパーフ城で開かれた婿決めの武芸大会で従兄のダイバ・ダッタを打ち負かし、美貌の誉れ高いヤショダラー姫を妻に迎える。しかし、自分の恵まれ過ぎた境遇と、身分差別が生む世の無常に悩むシッダは遂に旅に出て出家する。

出家したシッダを想い嘆き暮らすヤショダラーに邪な愛を抱くダイバは、ある夜、シッダの振りをしてヤショダラーに近づき、彼女を犯す。ヤショダラーは自害し、ダイバは釈迦族を追放される。

荒野や原始林を経て、太子の放浪の旅は続き、やがて菩提樹の下で太子は6年間の瞑想の行に入る。森からは様々な魔羅マーラ)が現れ、悟りの邪魔をしようと太子を誘惑し、攻めてくる。しかし村の女ヤサの力添えにより、ヤショダラーの死をも乗り越え、太子はついに悟りを開いた。ヤサは帝釈天の仮の姿であり、太子はここに「仏陀」となった。

仏陀の許には、全国から教えを乞うて人々が集まるようになる。一方、ダッタは仏陀を倒すため、シュラダ行者の下で神通力を身に付け、マダカ国のアジャセ王子に取り入って、インドラ神を祀ったバラモンの一大神殿都市を建造し、仏教徒を迫害し、処刑を行った。

やがてダッタの行いに疑いを持ったアジャセ王子はブッダの教えを受けて、ダッタから離れた。これを知ったダッタはアジャセ王子に父王殺しの濡れ衣を着せて、建設なったインドラ大神殿でマダカ国王となることを宣言。仏教徒を火刑の生贄にしようとする。

このときついに仏陀の怒りが奇跡を呼び、激しい地震と地割れが大神殿を襲い、たちまち神像は崩れ、ダッタは地割れに呑みこまれていく。自らの非を認め許しを乞うダッタに仏陀の慈愛は差し伸べられ、その命を救う。

それから数年、ブッダの慈愛の教えは全国に広まっていた。やがて入滅の時を迎える仏陀だったが、その教えは人々の中に刻まれ、永遠に継がれていくのだった。

解説[編集]

仏教の開祖・釈迦の生涯を、当時の大映のスターを集めて映画化した作品。総製作費は当時の金額で5億円[1]とも言われる。公称は7億円[2][3][4]である。

本作の制作当時、ハリウッド映画界では、前年の『ベン・ハー』、同年公開の『スパルタカス』と70mmフィルムによる超大作史劇映画が製作され、話題をさらっていた。また前年1960年は日本でもテレビのカラー放送が開始され、テレビ受信契約数も300万台を突破しており、本格的なテレビ時代の到来を前に、日本の映画製作会社は各社こぞって大作主義と二本立て興行に活路を求め始めていた。こうした中で大映は総天然色化を松竹に、シネマスコープ化を東映に先取られていて、他社に先駆ける70mm映画の制作は悲願であった。

熱心な日蓮宗徒として知られた大映社長の永田雅一は、『日蓮と蒙古大襲来』(1958年、渡辺邦男監督)に続く仏教題材の史劇スペクタクルとして、のちに『大魔神』(1966年、安田公義監督)を企画する奥田久司が提出していた『釈迦伝・光は東方より』という企画案に着目。これを基にして、「釈迦」の生涯を70mm大画面の映画として描きだすべく、本作の製作を陣頭に立って号令したのである。

こうして1960年9月に製作が正式決定した本作は、「70mmスーパーテクニラマ」と銘打って公開された、邦画大作主義の象徴ともいえる日本初の70mmフィルム映画となった。撮影カメラは米パラマウント社から購入したビスタビジョン・カメラを、本作のためにロンドン・テクニカラー社に依頼して「アナモフィック・レンズ」を装着可能に改造し、「スーパーテクニラマ方式」のカメラとしたものが使われた。

なお、「スーパーテクニラマ」方式は、「70mm」と銘打ってはいるものの、撮影自体は35mmビスタビジョンのカメラを用い、上映用プリントを作成する際に70mmフィルムに焼き付ける方式であるため、トッドAOスーパー・パナビジョン、あるいはウルトラ・パナビジョン(MGMカメラ65)といった、65mmネガを用いて撮影する方式とは区別する必要がある。ただし、ビスタビジョンは35mmスタンダードの2コマ分を1コマに用いる高品質のフォーマットであるため、スーパー・テクニラマも他の70mmフォーマット同様大判ネガならではの高画質を誇る方式であることに違いはない。

本作のために改造されたこの70mm用ビスタビジョン・カメラや撮影機材は、翌1962年の映画『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(大蔵映画製作・大映配給、小森白監督)の撮影に貸し出されている。これは永田雅一大蔵貢両社長が個人的に懇意であったことから実現したもの[5]

撮影開始日は永田の意志によって、翌年の1961年、釈迦の生誕日である4月8日に決定、クランク・インした。永田は大映京都撮影所に全資力を注ぎ込み、京都府福知山市に広大なオープンセットを建設。自社スターはもちろんのこと、歌舞伎界、新劇界など幅広い分野から俳優を呼びよせるオールスター・キャストでこれに臨んだ。

70mm大画面で描かれるスペクタクル映像には特撮の比重も多く、本作ではシッダルダ太子生誕のほか、太子が弓矢を跳ね返すなどの奇跡場面がアニメーションと作画合成で表現されており、その数は37カットに及んでいる[6]。このアニメーションと作画合成を手掛けたのは、前年1960年に動画会社ピー・プロダクションを発足させたうしおそうじ(鷺巣富雄)と渡辺善夫だった[6]。京都の撮影所はアニメーションを全く信用していなかったため、釈迦の奇跡で花が一斉に咲くシーンは、当初モーターを仕込んだ造花を用意して、機械仕掛けでこれを撮る予定だったという[7][4]。しかしこれがうまくいかず、動画が導入されたのである[7][4]

精巧な作画を実景に合成する「作画合成」は、渡辺が担当した。この「作画合成」は一度撮影したフィルムを現像すること無く、そのまま合成開始の位置までフィルムマガジン内で巻き戻し、作画した絵を写し込んで合成する、「生合成」という手法で撮られた。カットの始めと終わりをきっかけを見ながらストップ・ウォッチで計り、合成開始箇所までフィルムを巻き戻すというこの作業は、完全に勘と熟練した渡辺の職人技で行われるものであり、もし失敗すれば70mm用の膨大なセットをまた別の日に組み直さなければならず、念のために数テイクが撮られたとはいうものの、その責任の重圧は尋常ではなく、渡辺ともども東京から京都に出向して撮影に当たったうしおは、その重圧から幾晩も眠れなかったといい、「途中で東京に帰ろうかと思った」という[7]

当時、70mmフィルムの現像所は日本には無く、特許の関係もあって撮影フィルムはイギリスまで空輸され、ロンドン・テクニカラー社のラボラトリーで1週間ほどかけて現像され、再び日本に空輸された[7][4]。永田は万が一を考え、このプリント空輸に際して、制作費と同額の保険をかけている。また、70mmフィルムの映写機は大阪の「OS劇場」にしか無かったため、スタッフは終演後のOS劇場まで京都からロケバスに乗って出向いて試写を行わなければならなかった[7]。したがって、ひとつのNGが莫大な損害を生むために、撮影スタッフの苦労は並大抵ではなかった。うしおは晩年まで、「この時のロケバスの中でのハラハラドキドキした祈るような気持ちは今でも夢に出る」と語っている[7]。無事本作が完成し、試写が行われた際には、うしおは同席した師匠である東宝円谷英二特撮監督から「よくぞ動画と実写特撮を融合してくれた」として絶賛を受けたという[6]

劇中音楽を担当したのは伊福部昭。録音は京都で行われ、テープはイギリスに空輸され、「ロンドンRCA」でミキシングされた。伊福部によると、濡れ場のシーン[注釈 1]を静かな曲調で作曲したが、イギリスから帰って来たフィルムでは大音量になっていた。これについて伊福部は「アングロサクソンってなんて下品なんだろうと思いました」と苦笑している。

仏陀の行を妨げようとする「マーラ」達は、京都の造形家大橋史典によるもの。無数に登場する醜怪なマーラの一部は、同じ大映京都で大橋が手がけた『赤胴鈴之助 三つ目の鳥人』、『赤胴鈴之助 黒雲谷の雷人』(1958年)の「鳥人」や「雷人」の被り物を改造したものが使われている。

造形で参加した高山良策は、本作品をきっかけに以後『大魔神』など大映の特撮作品へ多く参加している[8][6]

特撮班では、京都撮影所の横田達之[注釈 2]が手に余るとして、東京撮影所の的場徹を京都へ招いている。絵コンテは的場が描き、黒田義之が助手に就いて、特撮シーンの撮影はすべて的場が行っている。タイトルには特撮スタッフとして横田と相坂操一の名がクレジットされているが、実際には両者はノータッチだったという。

福知山のオープン・セットでの撮影では、宮川一夫が一部担当していて、的場は「あれが『釈迦』で一番いいカットじゃないかな」と語っている。

美術監督には、日仏合作映画『忘れえぬ慕情』(1956年、イヴ・シャンピ監督)や、『黒船』(1959年、ジョン・ヒューストン監督)を手掛けた伊藤熹朔が就き、本編と特撮の融合に最大限の注意を払って美術設定が行われた。劇中の広大なオープン・セットは、京都府福知山の自衛隊演習場の敷地内の山を切り崩し、当時で7000万円[注釈 3]かけて組まれ、その規模は2万㎡に及ぶ邦画史上空前のものだった。セット内には28mのインドラ神像を中心に、その正面に幅10mの道路が造られ、両側に5棟の神殿、60mの大橋が40日間かけて建てられた。神殿工事の人夫のエキストラは1万5千人が動員された。

クライマックスの天変地異のシーンは撮り直しがきかない規模であるため、三隅が携帯マイクで号令をかけ、5台のカメラを一斉に回してこれを撮影している。

かくて完成した本作は欧米のバイヤーからも好評を得、公開前から海外興行の話がまとまり、大映に70万ドル(当時)の莫大な外貨をもたらしている。一方、次節に述べる理由で、上映国の中には映画にクレームが集まる結果となっている。

しかしこれは「日本初の70mm超大作映画」としての興行の前に却って宣伝効果を生む結果となった。いざ本作が公開されるや、11月からのロードショー公開で日本の興行記録を塗り替える大ヒット。さらに翌年にまたがるロードショーと一般公開によって、最終的に7億円を超える配給収入を得る超特大ヒットとなり、当該年度の各映画部門の賞を総なめにしている。

史実との違い[編集]

当初本作は、大々的な海外ロケを敢行する予定であった。しかし、企画段階でインド、セイロン(スリランカ)、ビルマ(ミャンマー)、タイ、パキスタン、ラオスの6仏教国から「仏陀を汚し、仏教徒を侮辱している」との猛抗議を受け、不穏当な部分のカットを要求され、海外ロケは中止となった。

なかでも問題となった部分は、ヤショダラーダイバ・ダッタに強姦されるくだりである。脚本を担当した八尋不二は、この部分を「愛する者を奪われた絶望を超克してこそ、寛容と慈悲の高みへと達するものである」と考えて描写した。修正が行われたものの、「強姦」のシークエンス自体は残された。

諸説あるため何を「史実」と見なすかは難しいが、差し換えがされなかった部分で、主に一般的に知られているものとの違いを記す。

  • シッダの母マーヤーがシッダの生後7日で没することなく存命している。
  • シッダとの間に子を生み、後に出家するヤショダラーが子をもうけることなくダイバ・ダッタに強姦された後に自害する。
  • 釈迦の入滅後100年以上経った後のクナラ王子英語版のエピソードが釈迦存命中のことになっている。

スタッフ[編集]

本編
特撮

キャスト[編集]

シッダ太子(釈迦)
演 - 本郷功次郎
釈迦族王子。悟りを開き、仏陀となる。
ヤショダラー
演 - チェリト・ソリス(声:前田敏子
シッダ太子妃。
ダイバ・ダッタ
演 - 勝新太郎
シッダの従兄。ヤショダラーに邪な愛情を抱く。
スッドーダナ
演 - 千田是也
カピラ城主。シッダの父。
マーヤー
演 - 細川ちか子
スッドーダナ妃。シッダの母。
 
村の女ヤサ
演 - 京マチ子
帝釈天が身をやつした姿。釈迦が悟りを開くのを介添えする。
 
ウパリ
演 - 川崎敬三
修行僧。釈迦の弟子となる。
カリティ
演 - 山田五十鈴
子供をさらって殺す夜叉と呼ばれ、村人から恐れられていたが、釈迦に諭され改心する。
 
シュラダ
演 - 東野英治郎
バラモン教の行者。神通力をダイバに授ける。
 
クナラ王子英語版
演 - 市川雷蔵
アショカ王の息子。アショカ王の第一夫人タクシラー英語版からの誘惑を拒んだために彼女の命を受けた武将ブダイに目を潰される。
ウシャナ
演 - 山本富士子
クナラ王子の妃。盲目になったクナラに献身的に尽くす。
タクシラー英語版
演 - 月丘夢路
アショカ王の第一夫人。クナラ王子を誘惑するが拒まれる。
アショカ王
演 - 中村鴈治郎
華子城主。クナラ王子の父。
 
アナン
演 - 小林勝彦
釈迦の弟子。
マータンガ
演 - 叶順子
奴隷の娘。アナンを愛す。
 
アジャセ王
演 - 川口浩
マガダ国王。両親と不仲であるところをダイバにつけこまれ、父王ビンビサーラを幽閉して王位に就く。
オータミー
演 - 中村玉緒
アジャセ王妃。
イダイケ
演 - 杉村春子
ビンビサーラ王妃。アジャセの母。
ビンビサーラ
演 - 市川壽海
マガダ国王。アジャセの父。

受賞歴[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 問題となった「ヤショダラーがダイバ・ダッタに強姦される場面」である。
  2. ^ 大映東京撮影所で戦後「特殊技術研究所」を開設し、「特殊撮影課」を創設させたベテランの撮影技師であるが、京都撮影所には特撮課が創設されなかった。
  3. ^ 通常映画なら当時、数本撮れる予算である。

出典[編集]

  1. ^ a b 『日活五十年史』 日活、1962年ASIN B000JAJRVY 他社(大映)の70耗映画の例として紹介されている。
  2. ^ a b 釈迦”. 日本映画専門チャンネル. 2011年4月23日閲覧。
  3. ^ a b c 『日本特撮・幻想映画全集』 勁文社1997年、136頁。ISBN 4766927060 
  4. ^ a b c d 但馬オサム 「ピー・プロワークス3 アニメ合成」『別冊映画秘宝電人ザボーガー』&ピー・プロ特撮大図鑑』 洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2011年11月14日、85頁。ISBN 978-4-86248-805-3
  5. ^ 『幻の怪談映画を追って』(洋泉社)[要ページ番号]
  6. ^ a b c d 但馬オサム「うしおそうじ&ピープロダクション年表」、『別冊映画秘宝 特撮秘宝』vol.3、洋泉社2016年3月13日、 pp.102-109、 ISBN 978-4-8003-0865-8
  7. ^ a b c d e f vsライオン丸 1999, p. 89.
  8. ^ vsライオン丸 1999, p. 158.

参考文献[編集]

  • 『大特撮』(朝日ソノラマ)
  • 『大映特撮コレクション 大魔神』(徳間書店)
  • 『宇宙船』「伊福部昭インタビュー」(朝日ソノラマ、VOL23~VOL26)
  • 『スペクトルマンvsライオン丸 「うしおそうじとピープロの時代」太田出版1999年6月26日ISBN 4-87233-466-3
  • 『ガメラから大魔神まで 大映特撮映画のすべて』(近代映画社)
  • 『大映特撮映画大全』(角川書店)

外部リンク[編集]