釈迦 (映画)
| 釈迦 | |
|---|---|
| 監督 | |
| 脚本 | 八尋不二 |
| 製作 | 永田雅一 |
| 出演者 | |
| 音楽 | 伊福部昭 |
| 撮影 | |
| 編集 | 菅沼完二 |
| 製作会社 | 大映京都撮影所 |
| 配給 |
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| 公開 |
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| 上映時間 | |
| 製作国 |
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| 言語 | 日本語 |
| 製作費 | 4億9480万円[注釈 1] |
| 配給収入 | 7億円以上 |
『釈迦』(しゃか)は、1961年(昭和36年)11月1日[3][2]に公開された日本映画。製作は大映[2](大映京都撮影所[3])、配給は大映[2]。監督は三隅研次。
総天然色、シネマスコープ(2.35:1)。上映時間は156分[3]。
日本で初めて70mmフィルムによって上映された国産の劇映画作品である[4][3][2]。当時の大映専属スターや、歌舞伎界、新劇界など幅広い分野のオールスター・キャスト総出演により、仏教の開祖・釈迦の生涯が描かれる[3]。
ストーリー
[編集]紀元前5世紀のインド[2]。カピラ城で釈迦族の王子・シッダ太子が黄金の光に包まれて生まれる[2]。20年後、シッダはスパーフ城で開かれた婿決めの武芸大会で従兄のダイバ・ダッタを打ち負かし、美貌の誉れ高いヤショダラー姫を妻に迎える[2]。しかし、自分の恵まれ過ぎた境遇と、身分差別が生む世の無常に悩むシッダは遂に旅に出て出家する[2]。
出家したシッダを想い嘆き暮らすヤショダラーに邪な愛を抱くダイバは、ある夜、シッダの振りをしてヤショダラーに近づき、彼女を犯す。ヤショダラーは自害し、ダイバは釈迦族を追放される。
荒野や原始林を経て、太子の放浪の旅は続き、やがて菩提樹の下で太子は6年間の瞑想の行に入る[1][2]。森からは様々な魔羅(マーラ)が現れ、悟りの邪魔をしようと太子を誘惑し、攻めてくる[1]。しかし村の女ヤサの力添えにより、ヤショダラーの死をも乗り越え、太子はついに悟りを開いた。ヤサは帝釈天の仮の姿であり、太子はここに「仏陀」となった[1][2]。
仏陀の許には、全国から教えを乞うて人々が集まるようになる。一方、ダイバは仏陀を倒すため、シュラダ行者の下で神通力を身に付け、マガダ国のアジャセ王子に取り入って、インドラ神を祀ったバラモン教の一大神殿都市を建造し、仏教徒を迫害し、処刑を行った[1][2]。
やがてダイバの行いに疑いを持ったアジャセ王子はブッダの教えを受けて、ダイバから離れた。これを知ったダイバはアジャセ王子に父王殺しの濡れ衣を着せて、建設なったインドラ大神殿でマガダ国王となることを宣言。仏教徒を火刑の生贄にしようとする。
このとき、ついに仏陀の怒りが奇跡を呼び、激しい地震と地割れが大神殿を襲い、たちまち神像は崩れ、ダイバは地割れに呑みこまれていく[1]。自らの非を認め許しを乞うダイバに仏陀の慈愛は差し伸べられ、その命を救う[1]。
それから数年、ブッダの慈愛の教えは全国に広まっていた。やがて入滅の時を迎える仏陀だったが、その教えは人々の中に刻まれ、永遠に継がれていくのだった。
既知の伝承との違い
[編集]この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
釈迦の生涯における逸話には諸説があるが、主に一般的に知られている伝承と本作の描写との違いを記す。
- シッダの母マーヤーがシッダの生後7日で没することなく存命している。
- シッダとの間に子を生み、後に出家するヤショダラーが子をもうけることなくダイバ・ダッタに強姦された後に自害する。
- 釈迦の入滅後100年以上経った後のクナラ王子のエピソードが釈迦存命中のことになっている。
登場人物
[編集]- 釈迦とその弟子・信徒たち
-
- シッダ太子→釈迦
- コンダンニャ、アッサジ、マハーナーマ、バッディヤ、ワッパ
- のちに「五比丘」と呼ばれる一番弟子たち。
- サリープッタ、モッガラーナ、マハーカッサバ、スッパブッダ、ウパリ
- のちに「十大弟子」と呼ばれる釈迦の高弟たち。
- カルダイ
- ウパリとともに放浪していた男。ともに修行僧となる。
- アナン
- 釈迦の「十大弟子」のひとり。ダイバに操られ、意思に反してマータンガを愛してしまうが許される。
- マータンガ
- 奴隷の娘。乾きのために倒れたアナンに水を与えて介抱し、彼が説く平等の教えに感銘を受け、彼に恋をする。その後釈迦の門下に入る。
- カリティ
- 子供を失った悲しみから、赤ん坊をさらって殺すことを繰り返し、「夜叉」として村人から恐れられていたが、釈迦に諭され改心し、弟子となる。
- スミイ
- 在家信徒の老婆。なけなしの金で油を買って茶碗に入れ、灯明にして奉納する。ダイバが起こした大風でもその火が消えなかった。
- マガダ国の王宮の人々
-
- ダイバ・ダッタ
- シッダの従兄。ヤショダラーに邪な愛情を抱いたために釈迦族を追放され、シッダへの対抗心から神通力を得てマガダ国を乗っ取る。
- アジャセ王子→アジャセ王
- マガダ国の王子を経て、国王。両親と不仲であるところをダイバにつけこまれ、父王・ビンビサーラを幽閉して王位に就くが、仏教徒の処刑を拒んだため、自身も追放される。
- オータミー
- アジャセ王の妃。
- ビンビサーラ
- マガダ国の前王。アジャセの父。釈迦の信徒。ダイバがアジャセに吹き込んだ、彼の出生にかかわる嘘のために幽閉され瀕死となるが、慈悲と忍耐の教えを守って彼を許し、絶命する。
- イダイケ
- ビンビサーラ王の妃。アジャセの母。体に蜜を塗ってビンビサーラと面会することで、彼の飢えを癒やそうとする。アジャセの出生の秘密を明かし、彼の誤解を解く。
- キッショー
- アジャセに仕える従者。両親との和解を進言する。
- ダイバ・ダッタ
- カピラ城の人々
- 華子城の人々
- その他の人々
キャスト
[編集]順はクレジットタイトルに、特記のない限り役名はキネマ旬報映画データベース(KINENOTE[5])に基づく。画面上、主演者は雷蔵、勝、本郷の順で一斉に横並びに表示される。
- サリープッタ:三田村元
- ソーナ(武芸大会の参加者):丹羽又三郎
- ブダイ:島田竜三
- アーラーマ(武芸大会の参加者):鶴見丈二
- カルダイ[注釈 2]:大辻伺郎
- コンダンニャ:北原義郎
- マハーカッサバ[注釈 2]:根上淳
◇
- グリハ(ダイバの弟子[3]):千葉敏郎
- バンダ(武芸大会の参加者):石井竜一
- モッガラーナ:舟木洋一
- 陶物師の翁:花布辰男
- ジーワカ(マガダ国の宰相):丸山修
- ラーヤナ(油屋の主人):嵐三右衛門
- 侍従長:寺島貢
- 番人:阿部脩
- 占者:寺島雄作
- 行者:荒木忍
- キッショー[注釈 6]:清水元
- 老門番:南部彰三
- スッパブッダ:葛木香一
- ワッパ:東良之助
- 牢番甲:水原浩一
- 老人:淺尾奥山
- チュンダ(露店商人):市川謹也
- マハーナーマ:南條新太郎
- バッディヤ:原聖四郎
- アッサジ:伊達三郎
- スパーフ城城主:石原須磨男
- 牢番乙:藤川準
- 群衆乙:玉置一恵
- 番兵A:堀北幸夫
- 群衆甲:横山文彦
- 群衆丙:菊野昌代士
- 群衆丁:越川一
- 油屋の小僧:丸凡太
- 物見:沖時男
- 番兵B:浜田雄史
◇
◇
◇
スタッフ
[編集]- 製作:永田雅一[3]
- 製作補:鈴木炤成
- 監督:三隅研次[3][2]
- 脚本:八尋不二[3][2]
- 撮影:今井ひろし[3]
- 監修:中村岳陵、中村渓男
- 美術監修:伊藤熹朔[3]
- 美術:内藤昭[3]
- 録音:大角正夫[3]
- 照明:岡本健一[3]
- 音楽:伊福部昭[3][2]
- 指揮:上田仁
- 演奏:東京交響楽団
- 衣裳考証:上野芳生
- 装飾考証:高津年晴
- 衣裳作画:中島八郎
- 振付:榊原帰逸
- 衣装・化粧品提供:カネボウ
- 色彩技術:木浦義明
- 編集:菅沼完二[3]
- 装置:梶谷輝雄、三輪良樹
- 音響効果:倉石暢
- 疑斗:宮内昌平
- 助監督 : 井上昭
- 製作主任:橋本正嗣
- 特殊技術:横田達之[3][2]、相坂操一[3][2][注釈 13]
スタッフ(ノンクレジット)
[編集]- 企画:奥田久司[要出典]
- 撮影:宮川一夫[要出典]
- 動画:ピー・プロダクション[要出典]
- 特殊造形:大橋史典[6][2]、高山良策[要出典]
- 移動効果:村若由春[7]
- 装飾:中島竹次郎[7]
- 背景:高橋作次[7]
- 衣裳:伊藤ナツ[7]
- 美粧:小林冒典[7]
- 結髪:石井エミ[7]
- スチール:藤岡輝夫[7]
- 記録:中井妙子[7]
- 演技事務:千賀滝三郎[7]
- 進行:今村喬[7]
- 協力:住江織物[7]
- 特撮スタッフ 進行:田辺満[7]、牧浦地志[7]
製作
[編集]企画
[編集]公開の前年1960年は、日本でテレビのカラー放送が開始されてテレビ受信契約数は300万台を突破し、本格的なテレビ時代の到来を前に、日本の映画製作会社は客足を取り戻すため、各社こぞって二本立て興行に活路を求め始めていた。一方、大映社長の永田雅一は、これとは一線を画すワイドスクリーン・長時間一本立てによる大作主義をとり[8]、『日蓮と蒙古大襲来』(1958年、渡辺邦男監督)などを公開していた[6]。また、アメリカ合衆国のハリウッド映画界でも、1959年の『ベン・ハー』、1960年公開の『スパルタカス』と70mmフィルムによる超大作史劇映画が製作され、国際的に話題をさらっていた[6]。
こうした中で熱心な日蓮宗徒として知られた永田は、『日蓮と蒙古大襲来』に続く仏教題材の史劇スペクタクルとして、奥田久司が提出していた『釈迦伝・光は東方より』という企画案に着目。これを基にして70mm作品を作る企画を発案[9]し、1960年9月に本作の製作を陣頭に立って号令した。翌1961年1月に製作発表記者会見が行われた[8]。企画段階では聖徳太子なども題材の候補に挙がっていた[6]。
美術監督には、日仏合作映画『忘れえぬ慕情』(1956年、イヴ・シャンピ監督)や、『黒船』(1959年、ジョン・ヒューストン監督)を手掛けた伊藤熹朔が就き、本編と特撮の融合に最大限の注意を払って美術設定が行われた。
当初本作は、大々的な海外ロケを敢行する予定であり、撮影開始に先立つ1961年3月にインドでのロケハンが実施され、釈迦ゆかりの旧跡の映像および写真が撮影された[8]。しかし脚本の一部について、仏教徒が多い、または仏教にゆかりがある国々や、日本国内の仏教団体[9]から「仏陀を汚し、仏教徒を侮辱している」との猛抗議を受け、当該部分のカットを要求されたことから、海外ロケは中止となった[6]。中でも問題となった部分は、ヤショダラーがダイバ・ダッタに強姦されるくだりである。脚本を担当した八尋不二は、「愛する者を奪われた絶望を超克してこそ、寛容と慈悲の高みへと達するものである」と考え、この部分を中勘助の小説『提婆達多(でーばだった)』を参考に描写した[9]。八尋のシナリオ原文は『八尋不二シナリオ集』(現代映画社、1961年)[10]として出版されている。
脚本は修正が行われたものの、永田が理解を示したため、シークエンス自体は残されて撮影に入った[9]。このため抗議運動が強まり、国際問題に発展しかけた(後述)。
予算・キャスティング
[編集]永田は大映京都撮影所に全資力を注ぎ込み、京都府福知山市の長田野演習場の敷地内の山を切り崩し、広大なオープンセットを建設した[8][3][2]。当時で7,000万円[注釈 15]かけて組まれ、その規模は2万平方メートル[8][1]に及ぶ邦画史上空前のものだった。セット内には28メートルのインドラ神像を中心に[2]、その正面に幅10メートルの道路が造られ、両側に5棟の神殿、60メートルの大橋が建てられた[1]。
自社スターはもちろんのこと、歌舞伎界、新劇界など幅広い分野から俳優を呼びよせるオールスター・キャストでこれに臨んだ。神殿工事の人夫のエキストラは1万5千人が動員された[3]。
撮影
[編集]撮影には「スーパーテクニラマ70」が用いられた[2]。大映は、総天然色化を松竹に、シネマスコープ化を東映に先取られていて、他社に先駆ける70mmフィルム映画の制作は悲願であった。
撮影には専用のテクニラマカメラが必要であるが日本には無かったことから、パラマウント社から購入した35mmビスタビジョン用カメラを、テクニカラー社に依頼してアナモルフィックレンズが装着できるように改造し、「スーパーテクニラマ方式」のカメラとした変則的な仕様であった[2]。つまり「70mm」と銘打ってはいるものの、撮影自体は35mmフィルム用のカメラを用い、上映用プリントを作成する際に70mmフィルムに焼き付ける方式であるため、トッドAO社の「スーパーパナビジョン70」などの、65mmネガを用いて撮影する方式には及ばないものの、大判ネガを利用することからかなりの高画質であった。
本作のために改造されたこのカメラや撮影機材は、翌1962年の映画『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(大蔵映画製作・大映配給、小森白監督)の撮影に貸し出されている。これは大映の永田雅一と大蔵の大蔵貢両社長が個人的に懇意であったことから実現したもの[12]。
永田の意志によって、1961年4月8日(釈迦の生誕日である)に撮影開始(クランク・イン)した[13]。フィリピンの女優、チェリト・ソリスの来日がずれ込み、ソリスの出演部分は5月15日から撮影された[8]。
福知山のオープン・セットでの撮影は宮川一夫が一部担当していて、的場徹は「あれが『釈迦』で一番いいカットじゃないかな」と語っている[要出典]。クライマックスの天変地異のシーンは撮り直しがきかない規模であるため、監督の三隅研次が携帯マイクで号令をかけ、5台のカメラを一斉に回して撮影している。
仏陀の行を妨げようとする「マーラ」達の造形は、京都の造形家大橋史典によるもの[6]。無数に登場する醜怪なマーラの一部は、同じ大映京都で大橋が手がけた『赤胴鈴之助 三つ目の鳥人』『赤胴鈴之助 黒雲谷の雷人』(1958年)の「鳥人」や「雷人」の被り物を改造したものが使われている。同じく造形で参加した高山良策は、本作品をきっかけに以後『大魔神』など大映の特撮作品へ多く参加している[14][15]。
同年の8月中旬に撮影が終了(クランク・アップ)した[8][注釈 16]。なお、8月21日に永田が武州鉄道汚職事件の容疑で逮捕され、10月10日まで勾留されている[13](のちに無罪判決が確定)。
特殊撮影・編集
[編集]大画面で描かれるスペクタクル映像には特撮の比重も多く、特撮班では、京都撮影所の横田達之[注釈 17]が手に余るとして、東京撮影所の的場徹を京都へ招いている。絵コンテは的場が描き、黒田義之が助手に就いて、特撮シーンの撮影はすべて的場が行っている。タイトルには特撮スタッフとして横田と相坂操一の名がクレジットされているが、実際には両者はノータッチだったという。[要出典]
本作ではシッダルダ太子生誕のほか、太子が弓矢を跳ね返すなどの奇跡場面がアニメーション合成で表現されており[1]、その数は37カットに及んでいる[15]。このアニメーションを手掛けたのは、前年1960年にピー・プロダクションを発足させたうしおそうじ(鷺巣富雄)である[15]。京都の撮影所はアニメーションを全く信用していなかったため、釈迦生誕で花が一斉に咲く奇跡シーンは、当初モーターを仕込んだ造花による機械仕掛けを用意して撮る予定だった[16][17]が、うまくいかず、アニメーションが導入された[16][17]。
精巧な作画を実景に合成する「作画合成」は、渡辺善夫が担当した[15]。この「作画合成」は一度撮影したフィルムを現像すること無く、そのまま合成開始の位置までフィルムマガジン内で巻き戻し、作画した絵を写し込んで合成する、「生合成」という手法で撮られた。カットの始めと終わりをきっかけを見ながらストップ・ウォッチで計り、合成開始箇所までフィルムを巻き戻すというこの作業は、完全に熟練した渡辺の勘と職人技で行われるものであり、もし失敗すれば70mm用の膨大なセットをまた別の日に組み直さなければならず、念のために数テイクが撮られたとはいうものの、その責任の重圧は尋常ではなく、渡辺ともども東京から京都に出向して本作の製作にあたったうしおは、その重圧から幾晩も眠れなかったといい、「途中で東京に帰ろうかと思った」という[16]。
音楽
[編集]劇中音楽を担当したのは伊福部昭。京都で行われた録音テープはイギリスに空輸され、「ロンドンRCA」でミキシングされた。伊福部によると、上述の濡れ場のシーンを静かな曲調で作曲したが、イギリスから帰って来たフィルムでは大音量になっていた。これについて伊福部は「アングロサクソンってなんて下品なんだろうと思いました」と苦笑している。
現像・試写
[編集]9月中旬[8]より現像作業のためのフィルム輸送が開始された。当時、70mmフィルムの現像所は日本には無く、特許の関係もあって撮影フィルムはイギリスまで空輸され、ロンドン・テクニカラー社のラボラトリーで1週間ほどかけて現像され、再び日本に空輸された[16][17]。永田は万が一を考え、このプリント空輸に際して、往復で制作費と同額の7億円の保険をかけている[8][6]。
70mmフィルムの映写機は大阪の「OS劇場」にしか無かったため、スタッフは京都からロケバスに乗り、終演後のOS劇場まで出向いて試写を行わなければならなかった[16]。したがって、一つのNGが莫大な損害を生むために、撮影スタッフの苦労は並大抵ではなかった。アニメーションを担当したうしおは晩年まで、「この時のロケバスの中でのハラハラドキドキした祈るような気持ちは今でも夢に出る」と語っている[16]。
アフレコ前の35mmラッシュを鑑賞した永田は「溝口が生きていてくれたらなあ」とつぶやき、その出来に落胆したとされる[9]。一方、完成フィルムの試写が行われた際には、うしおは同席した師匠である東宝の円谷英二から「よくぞ動画(引用注:アニメーション)と実写特撮を融合してくれた」と絶賛を受けたという[15]。
製作・上映に対する抗議運動
[編集]釈迦の生涯を描く大作映画の制作は国際的な話題となり、アメリカ合衆国の雑誌『タイム』1961年8月11日号では、細かなシノプシスが紹介され、ヤショダラーに関するくだりも記述された[18]。在日ビルマ連邦大使館の一等書記官がたまたま記事を読んで問題視し、一時帰国して当時の首相であるウー・ヌに状況を報告。ヌは大使館にシナリオの各国語への翻訳を命じ、仏教にゆかりのあるアジア各国に配布した。これを受け、セイロン(現:スリランカ)の大使が日本の外務省に抗議を行った[18]。また、ビルマの一等書記官は知己のある全日本仏教会(全仏)の中山理々国際委員長(当時)にも問題を伝えた[18]。
10月22日、東本願寺・西本願寺は教務所を通じて、信徒に対して本作の観覧を見合わせるよう通告した[13]。このほか、全日本仏教婦人連盟、全日本仏教青年会、仏教主義学校連盟などが抗議声明を行った[13]。
公開直前の10月26日、セイロン、ビルマ連邦、インド、タイ王国、パキスタン、ラオスの大使・代理大使が外務省を訪問し、外務大臣・小坂善太郎に対し問題のシーンをカットして上映するか、あるいは上映の中止を大映に要求するよう働きかける申し入れを行った[18][13][19]。また、11月14日から22日までプノンペンで行われた世界仏教徒会議でも本作の是非は議題に上り、公開停止を要求するとともに、国連人権委員会への提訴も視野に入れる旨の決議が行われた[20]。問題を受け、外務省情報文化局は映画倫理規程管理委員会(旧映倫)や大映と折衝を開始した[21]。
10月27日には全仏の幹部が大映本社を訪問し、問題のシーンの修正を求めるべく永田と会談した。永田は「(本作で)世の中をたてなおそうと思ってるんや、わが輩は」と涙ながらに強弁する一方で、先行公開(後述)以降の全国公開用プリントでの「善処」を約束し、全仏の抗議を取り下げさせた[13]。
諸外国による抗議は大映による修正意向を受けて取り下げられたとみられ、同年の映倫管理委員会には「幸に製作者による理に叶った取計いを得て無事を得ました」との議事録が残る[21]。
興行
[編集]試写が欧米のバイヤーから好評を得て、公開前から海外興行の話がまとまり、大映に70万ドルの莫大な外貨をもたらしている[6]。一方、セイロンとビルマ連邦では国家命令で上映禁止となった[20]。
上記撮影技術の採用を受け「70mmスーパーテクニラマ」と銘打って公開された。まず11月1日より70mmフィルム映写機を導入した東京・大阪の2館で先行公開された[4](先行館となった有楽座・南街会館は東宝系の封切館で、配給網を超えた異例の公開となった[22])。70mm公開期間は当初の45日から80日(翌1962年1月19日まで)に延長された[8]。
頓挫したロケ予定国からのクレームが、かえって宣伝効果を生み[8][6]、先行公開館は両館とも興行収入記録を更新する大ヒットとなった[4]ほか、日本の映画興行における1日あたりの興行収入記録・1週あたりの興行収入記録を更新[8](いずれも当時)し、また4週連続で興行収入が1,000万円を突破・1月あたりの興行収入が5,000万円を突破・1日あたりの興行収入100万円以上の日が40日を突破したのは、いずれも日本の映画興行として初となった[8]。
1962年3月[8]より順次35mm版が全国公開された。全国公開では最終的に7億円を超える配給収入を得て[6]、日本の興行記録を塗り替える超特大ヒット[要出典]となった。
本作品の成功を受け、同年内に70mm映画第2弾『秦・始皇帝』の制作が発表され、翌年に公開された[6]。併せて永田は70mm映画を年1、2本制作することを公言していたが、『秦・始皇帝』は本作品ほどのヒットには至らず、第3弾以降の制作は実現しなかった[6]。
受賞歴
[編集]1961年度の各映画賞で、特に撮影、美術ほか技術部門の賞を数多く受賞している[6]。
- 第15回日本映画技術賞
- 第6回映画の日 特別功労賞(伊藤熹朔)[6]
- 第16回毎日映画コンクール 録音賞(大角正夫)[6]
- 第12回ブルーリボン賞 技術賞[6]
- 1961年度キネマ旬報特別賞(永田雅一)[6]
映像ソフト
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 資料によっては、7億円と記述している[1][2]。
- ^ a b c 資料によっては、役名を沙門と記述している[3]。
- ^ 資料によっては、役名をスッドダーナと表記している[3]。
- ^ 資料によっては、役名をラサッタの行者と記述している[3]。
- ^ 資料によっては、役名を予言者と記述している[3]。
- ^ 資料によっては、役名をアジャセの従者と記述している[3]。
- ^ 資料によっては、役名をスジャータと記述している[3]。
- ^ 資料によっては、役名をアジャセの妻と記述している[3]。
- ^ 資料によっては、役名をルシャナと記述している[3]。
- ^ 資料によっては、役名を鬼子母と記述している[3]。
- ^ 資料によっては、役名を老婆と記述している[3]。
- ^ 資料によっては、役名をマガダ王妃と記述している[3]。
- ^ クレジットのみ[要出典]
- ^ 実は特殊技術を担当。[要出典]
- ^ 通常映画なら当時、数本撮れる予算である。
- ^ 資料によっては、9月と記述している[6]。
- ^ 大映東京撮影所で戦後「特殊技術研究所」を開設し、「特殊撮影課」を創設させたベテランの撮影技師であるが、京都撮影所には特撮課が創設されなかった。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 大特撮 1985, pp. 93–96, 「第三章 大いなる崩壊の絵図 2.歴史スペクタクルに見る崩壊の図」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa
- 日本特撮・幻想映画全集 1997, p. 136, 「1960年代」
- 日本特撮・幻想映画全集 2005, p. 144, 「1960年代」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 大特撮 1985, p. 335, 「戦後日本特撮映画作品リスト」
- ^ a b c 『日活五十年史』日活、1962年、118頁。 - 「洋画ロード・ショウで勢威をふるった70粍映画は国内業界にも波及して、大映、東宝が逸早く研究機関をもつにいたった。とくに大映は36年4月に邦画製作界初の70粍作品「釈迦」をスーパー・テクニラマ方式で撮入し、製作予算5億円と6ヵ月の期間を擁して完成した。東京有楽座及び大阪南街劇場で11月初旬にロードショウ公開された同作品は両劇場とも記録を更新する大当りとなった。しかし、現像とプリントの作成をロンドンのテクニカラーリミテッドに依頼せねばならず配給市場も70粍映写設備の普及が進まぬなどのネックがあって、邦画界の70粍映画への移行はなお相当の期間を置くものとみられている」
- ^ 釈迦 - KINENOTE
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 大特撮 1985, pp. 233–238, 「第十二章 躍進編 II 世界にはばたく特撮映画」
- ^ a b c d e f g h i j k l m “釈迦(1961年)”. 一般財団法人 井上・月丘映画財団. 2025年7月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 田中純一郎 1962, pp. 191–197, 「七十ミリ映画に挑む」
- ^ a b c d e 八尋不二「「釈迦」誕生」『百八人の侍 時代劇と45年』朝日新聞社、1965年、215-221頁。
- ^ 「釈迦」『八尋不二シナリオ集』現代映画社、1961年、562-623頁。
- ^ 時代映画1961年11月号
- ^ 『幻の怪談映画を追って』(洋泉社)[要ページ番号]
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- ^ vsライオン丸 1999, p. 158.
- ^ a b c d e 但馬オサム「うしおそうじ&ピープロダクション年表」『別冊映画秘宝 特撮秘宝』vol.3、洋泉社、2016年3月13日、pp.102-109、ISBN 978-4-8003-0865-8。
- ^ a b c d e f vsライオン丸 1999, p. 89.
- ^ a b c 但馬オサム「ピー・プロワークス3 アニメ合成」『別冊映画秘宝 『電人ザボーガー』&ピー・プロ特撮大図鑑』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2011年11月14日、85頁。ISBN 978-4-86248-805-3。
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- ^ 宗教年鑑 1962, p. 38, 「宗教界日誌」.
- ^ a b 宗教年鑑 1962, p. 19, 「宗教界の動き(2)仏教」
- ^ a b 映画倫理規程管理委員会 編「今期の審査について」『映倫管理委員会報告 昭和36年 下半期』、7頁。
- ^ 八尋不二「ヨーロッパ紀行」『百八人の侍 時代劇と45年』朝日新聞社、1965年、222-227頁。
参考文献
[編集]- 田中純一郎『一業一人伝 永田雅一』時事通信社、1962年。
- 文部省 編『宗教年鑑 昭和36年度版』1962年。
- コロッサス 編『大特撮 日本特撮映画史』監修 本多猪四郎(改訂初版)、朝日ソノラマ、1985年1月31日(原著1979年1月31日)。ISBN 4-257-03188-3。
- 『日本特撮・幻想映画全集』勁文社、1997年6月5日。ISBN 4-7669-2706-0。
- 『日本特撮・幻想映画全集』朝日ソノラマ、2005年12月30日。ISBN 4-257-03720-2。
- 『スペクトルマンvsライオン丸 「うしおそうじとピープロの時代」』太田出版、1999年6月26日。ISBN 4-87233-466-3。
- 『大映特撮コレクション 大魔神』(徳間書店)
- 『ガメラから大魔神まで 大映特撮映画のすべて』(近代映画社)
- 『大映特撮映画大全』(角川書店)
- 『宇宙船』「伊福部昭インタビュー」(朝日ソノラマ、VOL23~VOL26)