コンテンツにスキップ

上田仁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上田仁
生誕 (1904-12-04) 1904年12月4日
出身地 日本の旗 日本
北海道大野村
死没 (1966-12-26) 1966年12月26日(62歳没)
学歴 東洋音楽学校
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者ファゴット奏者
担当楽器 ファゴット
共同作業者 東京交響楽団

上田 仁(うえだ まさし、1904年12月4日 - 1966年12月26日)は、日本指揮者ファゴット奏者

略歴

[編集]

1904年、北海道大野村西上町に生れる。1922年、東洋音楽学校ピアノ科を卒業し、1925年、山田耕筰が主宰する日本交響楽協会に入りファゴットを学ぶ。1926年から1943年まで日本交響楽団のファゴット奏者を務めたほか、日本コロムビア東宝映画の演奏にも活躍した。

のちに指揮法ヨーゼフ・ローゼンシュトックに師事し、1945年に東宝交響楽団の指揮者に就任する。1946年5月14日日比谷公会堂で行われた東宝交響楽団の旗掲げ演奏会を指揮し、指揮者として楽壇に登場した。近衛秀麿とともに同団の常任指揮者を務め、1951年に東京交響楽団に改組されたのちも、1964年まで引き続き常任指揮者を務めた。

この間、多くの現代音楽、特にソビエト連邦の作品の初演紹介を行った[1]。こうした活動により、1949年毎日音楽賞を受賞し、1956年にはアルゼンチン国立放送局から特別指揮者として招かれた[2]。また、1958年には、ソビエト文化省より「パチョートナヤ・グラーマタ(Почётная грамота)」を贈られた。 ヴァイオリニスト渡辺茂夫との共演(ピアノ伴奏)の動画(ユーチューブ)が残されている。

1966年12月26日、大阪でピアノ指導中に急逝した。

現在、東京交響楽団より永久名誉指揮者の称号を贈られ、生前の功績が顕彰されている。

主な映画

[編集]
  • 『ムクの木の話』(東宝教育映画部,1947年):指揮
  • 『釈迦』(大映京都,1961年):指揮

脚注

[編集]
  1. ^ 交響曲では、プロコフィエフの第5番~第7番、ショスタコーヴィチの第7番から第12番等を初演した(上田仁/東京交響楽団『ショスタコーヴィチ交響曲第12番』解説書より ユニバーサルミュージック TOGE-11115 2013年)。
  2. ^ 上田がアルゼンチンで指揮棒を振っていた3か月間は、ウィーンからエドゥアルト・シュトラウス2世がやって来て東京交響楽団を指揮していた。

関連項目

[編集]