紀元前544年
世紀 | 前7世紀 - 前6世紀 - 前5世紀 |
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十年紀 |
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年 |
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紀元前544年(きげんぜんごひゃくよんじゅうよんねん)は、西暦(ローマ暦)による年。
紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元210年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前544年と表記されるのが一般的となった。
南伝(上座部仏教)説では、釈迦入滅の年とされ、ミャンマーやスリランカでは、この年を仏滅紀元(仏暦)元年とする[1]。
他の紀年法[編集]
できごと[編集]
ギリシア[編集]
中国[編集]
- 周の景王が即位した。
- 楚で郟敖が即位し、公子囲が令尹となって補佐した。
- 衛の献公が死去し、襄公が即位した。
- 晋の荀盈の主導で斉の高止・魯の仲孫羯・宋の華定・衛の太叔儀・鄭の公孫段らが集まり、杞に城壁を築いた。
- 呉の公子季札が魯に使節としてやってきた。
- 斉の子尾(公孫蠆)と子雅(公孫竈)が高止を燕に追放した。このため高止の子の高豎が盧で反乱を起こした。