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三業 (仏教)から転送)
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(ごう、: कर्मन् karman[注釈 1])とは、行為、所作、意志によるの活動、意志による身心の生活を意味する語[1]仏教およびインドの多くの宗教の説では、またはの業を作ると、因果の道理によってそれ相応の楽またはの報い(果報)が生じるとされる[1][2]。業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある[2]

概説[編集]

仏教以前[編集]

釈迦が成道する以前から、従来のバラモン教に所属しない、様々な自由思想家たちがあらわれていた。かれらは高度な瞑想技術を持っており、瞑想によって得られた体験から、様々な思想哲学を生み出し、業、輪廻宿命解脱認識論などの思想が体系化されていった。この中に業の思想も含まれていた。

バラモン教[編集]

業はインドにおいて、古い時代から重要視された。ヴェーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。

善をなすものは善生をうけ、悪をなすものは悪生をうくべし。浄行によって浄たるべく。汚れたる行によって、汚れをうくべし
善人は天国に至って妙楽をうくれども、悪人は奈落に到って諸の苦患をうく。死後、霊魂は秤にかけられ、善悪の業をはかられ、それに応じて賞罰せられる

— 『百道梵書』 (Zatapathaa-braahmana)

このような倫理的な力として理解されてきた業がやがて何か業というものとして実体視されるようになる。

あたかも金細工人が一つの黄金の小部分を資料とし、さらに新しくかつ美しい他の形像を造るように、この我も身体と無明とを脱して、新しく美しい他の形像を造る。それは、あるいは祖先であり、あるいは乾闥婆(けんだつば)であり、あるいは諸神であり、生生であり、梵天であり、もしくは他の有情である。……人は言動するによって、いろいろの地位をうる。そのように言動によって未来の生をうる。まことに善業の人は善となり、悪業の人は悪となり、福業によって福人となり、罪業によって罪人となる。故に、世の人はいう。人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する。その業にしたがって、その相応する結果がある

— 『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』

インドでは業は輪廻転生の思想とセットとして展開する。この輪廻と密着する業の思想は、因果論として決定論宿命論のような立場で理解される。それによって人々は強く業説に反発し、決定的な厭世の圧力からのがれようとした。それが釈迦と同時代の哲学者として知られた六師外道と仏教側に呼ばれる人々であった。

ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとして無因無業の主張をなし、また他の人は霊魂と肉体とを別であるとし、しかも両者ともに永遠不滅の実在と考え、そのような立場から、造るものも、造られるものもないと、全く業を認めないと主張した。

なおバラモン教における輪廻思想の発生を、従来考えられているよりも後の時代であるとする見解もある。例えば上座仏教では、釈迦在世時に存在したバラモン経典を、三つのヴェーダまでしか認めておらず[注釈 2]、釈迦以前のバラモン教に輪廻思想は存在しなかったとする。もちろん、当時の自由思想家たちが輪廻思想を説いていたことは明白であるが、彼らはバラモン教徒ではなかったことに注意すべきである。

ジャイナ教[編集]

仏教[編集]

概説(仏教)[編集]

業の異名と関連語[編集]

業は果報(報い、果熟)を生じるとなるので、業のことを業因因業ともいう[1][注釈 3]

業による報いを業果業報という[1]。業によって報いを受けることを業感といい、業によるである報いを業苦という[1][注釈 4]過去世に造った業を宿業または前業といい、宿業による災いを業厄という[1]。宿業による脱れることのできない重い病気業病という[1]。自分の造った業の報いは自分が受けなければならないことを自業自得という[1]

分類[編集]

仏教における業は、様々に分類される。

三業[編集]

業は一般に、身・語・意の三業に分けられる[1]説一切有部の解釈によれば、「これこれのことをなそう」と意志したのが意業であり、その意志を身体行動にあらわしたのが身業、言語的表現にあらわしたのが語業(口業)である[1]

  • 身業(しんごう、kāya-kamma) - 身体の上に現る総ての動作・所作のこと。悪業では偸盗・邪淫・殺生(ちゅうとう・じゃいん・せっしょう)など。[要出典]
  • 口業(くごう、vacī-kamma) - 語業ともいう。口の作業、すなわち言語をいう。悪業では妄語・両舌・悪口・綺語(もうご・りょうぜつ=二枚舌・あっく・きご=飾った言葉)など。[要出典]
  • 意業(いごう、mano-kamma) - 意識・心のはたらきで起こすこと。悪業では貪欲・瞋恚・邪見(とんよく・しんい・じゃけん)など。[要出典]

三業としてはたらくものの本体が何であるかについては諸説があり、説一切有部では意業の本体を思(意志)とし、身業と語業の本体を色法であるとする[1]経量部大乗仏教は、三業すべての本体を思(意志)であるとする[1]

思業と思已業[編集]

業は、意志の活動である思業と、思業が終わってからなされる思已業(しいごう)との2つに分けられる[1]。思業は意業であり、思已業は身業語業である[1]

表業と無表業[編集]

説一切有部は、身業と語業には表と無表とがあるとし、これらは表業無表業ともいわれる[1]。表業とは、外に表現されて他人に示すことができるものであり、無表業は他人に示すことのできないものである[1]

意業は心の働いてゆくすがたであるから、他にむかってこれを表示することはできないが、身業と語業は具体的な表現となって現われる[要出典]。この具体的に表現されて働く身業を身表業(しんひょうごう、kaaya-vijJapti-karman)といい、語業を語表業 (vaag-vijJapti-karman) という[要出典]。このように具体的に表面に現われた身語の二業は、刹那的なものでなく、余勢を残すから、身語二業の表業が残す余勢で、後に果をひく原因となるようなもの、それを身無表業・語無表業という[要出典]

身業と意業のそれぞれの表業と無表業に意業を加えて五業という[1]

引業と満業[編集]

総体としての一生の果報を引く業を引業(牽引業、総報業、引因とも)という[1]。これは人間界とか畜生界などに生まれさせる強い力のある業のことを指す[1]。他方、人間界などに生まれたものに対して個々の区別を与えて個体を完成させる業を満業という[1]。引業と満業の2つを総別二業という[1]

共業と不共業[編集]

山河大地(器世間)のような、多くの生物に共通する果報をひきおこす業を共業(ぐうごう)といい、個々の生物に固有な果報をひきおこす業を不共業(ふぐうごう)という[1]無著「大乗阿毘達磨集論」においては、共業による影響は、これを結果に対する増上縁 (adhipati-pratyaya) と考え、直接的な結果、すなわち異熟 (vipāka) とは考えない[3]

三性業[編集]

善心によって起こる善業(安穏業)と、悪心によって起こる不善業(悪業、不安穏業とも)と、善悪のいずれでもない無記心によって起こる無記業の3つがあり、この3つを三性業という[1]

三時業[編集]

業によって果報を受ける時期に異なりがあるので、業を下記の3つに分ける[1]。この3つを三時業という[1]。三時業の各々は、この世で造った業の報いを受ける時期がそれぞれ異なる[1]

  • 順現業(順現法受業、じゅんげんぽうじゅごう、dRSTa-dharma-vedaniiyaM karma[要出典]) - この世で造った業の報いを、この世で受ける[1]
  • 順生業(順次生受業、じゅんじしょうじゅごう、upapadya-vedaniiyaM karma[要出典]) - この世で造った業の報いを、次に生まれかわった世で受ける[1]
  • 順後業(順後次受業、じゅんごじじゅごう、aparaparyaaya-vedaniiyaM karma[要出典]) - この世で造った業の報いを、第三回目以降の世で受ける[1]

三時業は報いを受ける時期が定まっているので定業といい、報いを受ける時期が定まらないものを不定業(順不定業: aniyataavedaniiyaM karma[要出典])という[1]。三時業に不定業を加えて四業という[1]

業因と業果との関係[編集]

善悪の業を造ると、それによって楽や苦の報い(果報、果熟)が生じることを、業因によって業果が生じるという[1][注釈 5]。この業因と業果との関係について諸説がある[1]

説一切有部は、業そのものは三世実在するとし、業が現在あるときにはそれがとなっていかなる未来の果を引くかが決定し、業が過去に落ちていってから果に力を与えて果を現在に引き出すとする[1]

経量部は、業は瞬間に滅び去るとするが、その業は果を生じる種子(しゅうじ)をの上にうえつけ、その種子が果をひきおこすことになるとする[1]

業道[編集]

業がそこにおいてはたらくよりどころとなるもの、あるいは、有情を苦楽の果報に導く通路となるものを業道という[1][注釈 6]。業道には十善業道と十悪業道の2つがある[1]

仏典や宗派ごとの扱い[編集]

増支部経典[編集]

比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。

(Cetanāhaṃ bhikkhave kammaṃ vadāmi)[4]

— 『増支部経典』 (Aṅguttara-Nikāya) Nibbedhika suttaṃ

阿毘達磨[編集]

阿毘達磨では、十二支縁起の第十支の「有」は業を意味するものと解釈されている[1]。これを業有という[1]

浄土教[編集]

一般に、念仏して阿弥陀仏浄土往生しようと願うことを浄業という[1]

密教[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 原語の karman は、サンスクリットの動詞の「クリ」(kR) の現在分詞である「カルマット」(karmat) より転じてカルマンとなった名詞であり[要出典]羯磨(かつま)と音写する[1]
  2. ^ 原始仏典である阿含経典(二カーヤ)において、ウパニシャッドは言及すらされておらず、まったく存在していなかったと考えるからである[要出典]。登場するヴェーダも三つまでである[要出典]
  3. ^ ただし、業因には、煩悩などの「業を起こさせる原因」という意味もあり、因業には「因と業」すなわち「主と助」という意味もある[1]
  4. ^ 業とその苦である報いのことを業苦という場合もある[1]
  5. ^ 非善非悪の無記業は業果を引く力がない[1]
  6. ^ 経量部大乗仏教では、身・語を動初(どうほつ)する思(意志)の種子(しゅうじ)のことを指して業道という場合もある[1]

出典[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 総合仏教大辞典編集委員会(編) 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月
  • 新村出(編) 『広辞苑』 岩波書店、1986年10月、第三版。