ヒッピー

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ヒッピー: hippie, hippy)は、1960年代後半にアメリカ合衆国に登場した、西欧のキリスト教や性規範に対するカウンターカルチャー (en:Counterculture) の一翼を担った若者、及びその運動。

概要[編集]

ヒッピーの女性のヌード。保守的なキリスト教社会に対して、カウンターカルチャーであるヒッピー達は、ヌードや性の解放を主張し自由な社会へと変革した。
マジック・バスにしてサイケデリック・バス

同時代の観察記録である『ヒッピーのはじまり』[1] によれば、ヒッピー(HIPPY)という言葉は1966年ころのサンフランシスコのヘイトアシュベリー地区に住んでいた若者たちを指すものとして使われるようになった。

「HIP」とはその語源がたしかではないが、一説によると、1940年代のアフリカ系アメリカ人の間で流行したジャイブを踊る若者のスラングから転用されたものという説がある。当時、HIPは「飛んでいる、完全に最新のもの」という意でもちいられており、それをビートニクスが採用し一般化するようになった。初期のヒッピーはビートニクスの言葉や価値観を引継いでいた。

作家ノーマン・メイラーは1961年4月27日付の雑誌ヴィレッジ・ヴォイスの記事「J・F・ケネディカストロへの公開書簡」上において、ヒッピーという言葉を使って、ケネディの行動に疑問を呈した。 1961年のエッセーの中で、詩人ケネス・レックスロス英語版は「ヒップスター」と「ヒッピー」という言葉をブラック・アメリカンやビートニクのナイトライフに参加している若者を指すのにつかった。マルコムXの1964年の自伝によると、1940年代のハーレムのヒッピーという言葉は「黒人より黒人らしく行動した」特定のタイプの白人を表現するためにつかわれていた。 アンドリュー・ル―グ・オールダムは、1965年発表のローリングストーンズのLP「ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!」のライナーノートの中で、黒人ブルース/ R&Bミュージシャンをひいて「シカゴのヒッピーたち」と称した。

1967年、サンフランシスコ、ゴールデンゲートパークでの「ヒューマン・ビーイン」集会がおきる。それは同年の夏の爆発的なムーブメント「サマー・オブ・ラブ」へとつながる。以降、ヒッピー文化は急速に普及し、1969年、有名なヒッピーの祭典「ウッドストック・フェスティバル」が開催された。1970年、英国では約40万人の観衆と共に巨大なロックの祭典「ワイト島フェスティバル」、チリでは「ピエドラ・ロハ・フェスティバル英語版」。1971年、30万人ものメキシコのヒッピーたち(ヒピテカス英語版)はメキシコ中部の湖畔アバンダロでのロックフェスティバル[2] につどった。 1973年、オーストラリアでは東部の田舎町ニンビン英語版で「アクエリアス・フェスティバル英語版」と大麻法改革大会、またニュージーランドでは、キャンピングカーに乗って旅をするヒッピーたちが「ナンバサ・フェスティバル英語版」(1976年-1981年)を催し、オルタナティブなライフスタイルを実践し、持続可能なエネルギーをプロモーションした。

1970年、南米チリで行われたロックフェス「ピエドラ・ロハ・フェスティバル」。スペイン語で「赤い石のフェスティバル」の意。北米のみならず、南米でもヒッピー文化は広まった。

こうした北米、南米、英国、オーストラリア、ニュージーランドにおける一連のヒッピーとサイケデリックな文化は、自由への憧れとして、東ヨーロッパの鉄のカーテン諸国において1960年代から1970年代初頭の若者文化に強い影響をあたえた。

当初、アメリカにおいて、彼らの多くはベトナム徴兵を逃れた学生たちであり、そのため主流社会の軍事覇権主義に反対し、父親世代の第二次大戦や原子爆弾への無条件支持の姿勢、ベトナムでの米軍の圧倒的なテクノロジーによる暴力や虐殺などに対して、音楽や麻薬、非暴力によって対抗(カウンター)しようとした。結果、自然平和セックス自由巡礼の旅の愛好家として社会にうけとめられた。彼等は当時、西側の若者の間で流行した毛沢東思想や、コミューンの形成、環境運動や動物愛護、自然食、LSDマジックマッシュルームマリファナ擁護に加えて、ヨガインド哲学ヒンヅー教仏教などの東洋思想に関心をよせた。これまでの欧米の思想にはない概念を東洋からみちびきだすことによって、より平和で調和に満ちたユートピアを夢みた。

実社会の中で、ユートピアが訪れることはなかったが、その憧れは21世紀において、サブカルチャーに留まらず、欧米の主流文化の中でより一般化されたものとなった。Appleをはじめとした米西海岸のコンピューター文化、ロックや美術、文学、舞踏、アニメといった大衆文化、ヴィーガニズム菜食主義などより自然志向の食文化、東洋的な精神への関心は高まりつづけている。

ヒッピーの歴史[編集]

ニール・ヤング。ヒッピー時代のミュージシャン。

ヒッピー的な自然回帰を志向する傾向は、古くから欧米に存在していた。中世の宗教家、アッシジ聖フランシスコ、さらに性の解放を歌ったコレット、フランスの作家セリーヌプルースト、不条理作家フランツ・カフカ、アイルランドの哲学者アイリス・マードック、米国の実存主義作家ソール・ベロー、ユダヤ人作家バーナード・マラマッド[3]、あるいは「森の生活」の著者ヘンリー・デビッド・ソローや19世紀の詩人ウォルト・ホイットマンホビットの冒険」「指輪物語」のJ・R・R・トル―キン、20世紀ではビートニクスギンズバーグバロウズケルアック、また画家ではピカソデ・クーニングベン・シャーンレジェコクトーなどがヒッピーに好まれた[3]

19世紀末から20世紀初頭ドイツのユースカルチャー「ワンダーフォーゲル」は、当時の社会や文化クラブに対するカウンター・カルチャー的な側面をもっていた。また保守的、伝統的なドイツのクラブの形式に反して、民族音楽や歌を愛好し、創造的な服装、アウトドア・ライフを志向した。しかしナチス政権時代には、ワンゲルの若者の一部はナチス支持に流れた。

20世紀にはドイツ人がアメリカに移住し、ドイツの若者文化をアメリカにもたらした。彼らの一部は南カリフォルニアに住み、何軒かの最初の健康食品店がオープンした。若いアメリカ人の中には、ドイツ移民の思想の影響を受けた者もあらわれた。 「ネイチャーボーイズ」とよばれるグループは、カリフォルニアの砂漠で有機食品を育て、自然を愛するライフスタイルを実践した。 ソングライターのエデン・アーベ英語版は健康意識やヨガ、有機食品の普及をすすめた俳優のジプシー・ブーツ英語版からインスピレーションを受け「Nature Boy 」(1947)[4]という曲を書き、ヒットし、ジャズのスタンダードとなった。尚21世紀の日本のワンゲル部は、体育会系の保守的なクラブとの見方もある。

初期ヒッピー/メリー・プランクターズ、サイケデリックなど[編集]

それは新しいことではない。 私たちはプライベートな革命を続けています。 個性と多様性の革命は「私的」でしかない。 集団になると、そのような革命は「参加者」ではなく、「模倣者」に終わってしまうのです。それは本質的にひとりの人間と別の人間との関係を実現するための努力なのです。
ボブ・スタッブス、『Unicorn Philosophy』

メリー・プランクスターズ[編集]

1950年代後半から1960年代初頭にかけて、作家ケン・キージーとそのサイケデリック集団「メリー・プランクスターズ(陽気な悪ガキども)」がカリフォルニアで共同生活をはじめる。メンバーには、ビートジェネレーションのヒーロー、ニール・キャサディスチュワート・ブランドケン・バッブス英語版らがふくまれていた。その生活は作家トム・ウルフの『The Electric Kool-Aid Acid Test英語版』という書籍にまとめられた。

1964年、「メリー・プランクスターズ」はニューヨークで催された世界博覧会をおとずれるため、車体を鮮やかに装飾した「ファーザー号」に乗って、米国横断のサイケデリックバスツアーにでる。旅の道中、彼らは、大麻、アンフェタミン、LSDを服用し、そのバスツアーの様子を録画、映画祭やコンサート上で一般に公開し、臨場感のあるマルチメディア体験をつくりだし、多くの観客を「Turn on(興奮)」させた。のちにグレイトフル・デッドは「メリー・プランクスターズ」のバス旅行について、『That's It for the Other One英語版』という曲をかいている。

メリープランクスターズのサイケデリック・バス「ファーザー号」。このバスに乗って、アメリカを横断し、道中、LSDによるアシッドテストが繰りひろげられた。

この間、ニューヨーク市のグリニッジ・ビレッジとカリフォルニア州バークレーでは「フォークソング」のサーキットがはじまった。バークレーの2つのコーヒーショップ「キャバレー・クリーメリー」と「ジャバウォック」がその演奏をサポートした。 1963年4月「キャバレー・クリーメリー」の共同設立者であるチャンドラー・ラフリン3世は、夜行われる伝統的なネイティブ・アメリカンの儀式をこころみ、50人近い観客とペヨーテによる家族的なアイデンティティーを結んだ。この儀式は最先端のサイケデリック体験と伝統的なネイティブアメリカンの精神価値とを結びつけた。また彼らは、ネバダ州バージニアシティの孤立した旧鉱山街のレッド・ドッグ・サルーン英語版でのパフォーマンスも後援した。

サイケデリック・ロック[編集]

ジェリー・ガルシア。サンフランシスコを代表するバンド、グレイトフル・デッドのギターリスト。デッドは「デッドヘッズ」という熱狂的なファンをもち、結成当初から高い人気を誇った。

1965年夏、ラフリン3世は伝統的なフォークとサイケデリック・ミュージックの融合をさらに推しすすめる若くオリジナリティあふれる才能を募集した。彼とその仲間はそれまで聞いたことのなかったグレイトフル・デッドジェファーソン・エアプレインビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニークイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスザ・シャーラタンズなどレッド・ドッグ・サルーン的で、実験精神に満ちたバンドたちを見いだした。彼らの個性的なスタイルと、ビル・ハム英語版による最初のプリミティブな光のショーが組みあわされ、あたらしいコミュニティー感覚が生まれた。そのライブにはバンドと聴衆の間での明確な線びきはなく、双方の一体感が高まるものだった。 ザ・シャーラタンズのヴォーカリスト、ジョージ・ハンターは19世紀のアメリカ人(またはアメリカ先住民族)の遺産でもある長い髪、ブーツ、アウトレイジなファッションでステージを飾った。 彼らはLSDから生じた「音」を意図せぬままに演奏する最初のサイケデリック・ロック・バンドとなった。

「レッド・ドッグ・サルーン」の参加者ルリア・キャステルらは、サンフランシスコで「ザ・ファミリードッグ(The Family Dog)」という集団をつくった。1965年10月16日、ベイエリアのオリジナルヒッピー約1,000人が出席し、サンフランシスコ初となる「サイケ・ロック」「コスチュームダンス」、および「ライトショー」が組みあわされたライブを行った。ジェファーソン・エアプレインをはじめ、グレート・ソサエティ英語版マーブルズ英語版が出演し、年末までに2つのイベントが続いた。明くる1966年1月21日-23日、サンフランシスコの「ロングショアマンズ・ホール[5]」で「ザ・トリップ・フェスティバル」というさらに大規模なサイケデリックイベントが催された。ケン・キージースチュアート・ブランドらが主催し、チケットはソールドアウトとなり、のべ一万人ものヒッピーが参加した。 1月22日、グレイトフル・デッドとビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニーがステージに参加、約6,000人は観客はLSD入りのパーティードリンクを飲み、その時代はじめて開発されたライトショーの宴に酔った。

1966年2月までに「ファミリードッグ」は主催者チェット・ヘルムスのもとで「ファミリードッグ・プロダクション」となり、のちに有名なプロモーターとなるビル・グレアム英語版との共同作業をはじめ「アバロン・ボールルーム英語版」「フィルモア・ウエスト英語版」でのイベントを進めた。イベント参加者は完全なサイケデリックミュージックを体験することができた。オリジナルの「レッド・ドッグ・ライトショー」を開拓したビル・ハムは、ライトショーと映画投影を組み合わせたリキッドライトプロジェクションの技術を完成させ、それはサンフランシスコの「ボールルーム(ダンスフロア)体験」と同義語になった。彼らのファッションは、サンフランシスコのフォックス・シアターが廃棄した衣装をヒッピーたちが買ったことにはじまり、毎週ミュージカル公演があったことから、自分の好きな舞台衣装でイベント会場を飾ることができた。サンフランシスコ・クロニクルの音楽コラムニスト、ラルフ・J・グリーソン英語版は「彼らは一晩中飲み騒ぎ、自発的かつ自由に踊った」と述べている。

サンフランシスコのヴィクトリア朝アパート。共同生活(ルームシェア)は夢多き学生のスタンダードだった。

最初期のサンフランシスコのヒッピーは州立大学の元学生であり、発展するサイケデリック音楽シーンに興味をそそられていた。これらの元学生は、ヘイト・アシュバリー地区の大規模で安価なビクトリア朝アパートで共同生活しながら、彼らが愛するバンドにくわわった。全米の若いアメリカ人がサンフランシスコにうつりはじめ、1966年6月までに約15,000人のヒッピーがヘイトに移住した。グレイトフル・デッドジェファーソン・エアプレーンビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニークイックシルバー・メッセンジャー・サービスザ・シャーラタンズらはこの時期にヘイトに拠点を移した。活動は、自発的なストリートシアター、アナーキズムアクション、アートイベントをアジェンダの中で組み合わせて「自由都市」を創造するゲリラのストリートシアターグループ「ディガーズ英語版」を中心にされた。1966年後半まで彼らは無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、金をあたえ、無料の音楽コンサートを組織し、政治的なアート作品を披露する店舗をひらいた。

サンセット・ストリップ・ライオット[編集]

1966年10月6日、カリフォルニア州はLSDを規制薬物と宣言し、この薬物を違法にした。サイケデリックスの犯罪化に対応して、サンフランシスコのヒッピーたちは、ゴールデンゲートパークで「ラブ・ページェント・ラリー」とよばれる集会をひらいた。サンフランシスコ・オラクル英語版の共同設立者であるアレン・コーエン英語版によれば、集会の目的は、LSDが違法にされたという事実に注意をはらい、LSDを使用した人々が犯罪者でも精神病患者でもないことを証明することだった。彼は「わたしたちは違法薬物を使用しているのではなかった。超越意識、宇宙の美しさ、存在の美しさを祝っていたのだ」と主張した。

1966年から1970年代初頭にかけて、カリフォルニア州ハリウッド(LA)のサンセット・ストリップでおきた若者と警察との衝突は「ヒッピー暴動英語版」とも呼ばれた。1966年、地区内の住民や事業主は「厳しい門限」(午後10時)と若いクラブ客の混雑に起因する交通渋滞を緩和する法律を推進した。これにたいして、11月12日、ヒッピーたちはその日のデモ招集のフライヤーをくばった。 ロサンゼルス・タイムズ紙によると、ジャック・ニコルソンピーター・フォンダなどの有名人を含む約1000人ものデモ隊が門限の抑圧的行使にたいして抗議し、逮捕された。この事件は、1967年の低予算の十代向け映画「サンセット通りの暴動英語版」のモチーフとなり、バッファロー・スプリングフィールドの名曲「フォー・ホワット・イッツ・ワース」などの複数の曲にインスピレーションをあたえることになった。

1967年/サマー・オブ・ラブとサンフランシスコ[編集]

『ヒューマン・ビーイン』が開かれたゴールデン・ゲート・パーク。広大な敷地をもつことから普段からヒッピーたちはよくここにつどった。
ペンタゴンを警備する兵士に意気揚々と花をさしだすフラワーチルドレンの若い女性。ハットもチューリップハットをかぶり、フラワーなイメージであふれている。

1967年1月14日、アーチストのマイケル・ボーエン英語版が企画したゴールデン・ゲート・パークでの野外フェス『ヒューマン・ビーイン』は、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークに3万人のヒッピーをあつめ、米国内のヒッピー文化の急速な普及をうながした。 ニューヨークでは、3月26日のイースターにあわせた『セントラル・パーク・ビーイン英語版』が催され、ルー・リードイーディ・セジウィックらのロックミュージシャン、モデルとともに10,000人ものヒッピーたちがセントラルパークにつどった。

6月16日から6月18日まで開かれたモントレー・ポップ・フェスティバルでは、ロック・ミュージックが幅広い聴衆に紹介され、いわゆる「サマー・オブ・ラブ」のはじまりとなった。スコット・マッケンジーが歌うジョン・フィリップスの曲「花のサンフランシスコ」はアメリカとヨーロッパでヒットした。彼は「サンフランシスコに行くなら、かならずあなたの髪に花を飾ってください」と歌い、世界中の何千人もの若者たちがサンフランシスコを訪れ、時には髪に花を飾り、通行人たちに花をくばって歩いたりした。やがて彼らは 「フラワー・チルドレン(花の子供たち)」とよばれるようになる。

1967年6月、前述のジャーナリストのハーブ・カーン英語版は、なぜヒッピーがサンフランシスコに引きよせられてゆくのかを「Distinguished Magazine[6]」に寄稿した。 彼はサンフランシスコ・クロニクル紙の紙面にヘイト・アシュベリー地区のヒッピーのインタビュー記事を掲載した。カーンは、彼らはその音楽以外ではストレートな世界を承認することに対して、あまり関心がないと判断した。いっぽうで、カーン自身は、サンフランシスコの街がヒッピーの文化とコントラストをえがくほどストレートだと感じていた[注 1]

7月7日、タイム紙は「ヒッピーたち、サブカルチャーの哲学」の特集記事を組んだ。記事は、以下のようなヒッピー独自の倫理規定にまつわるガイドラインを提供している[注 2]

「あなたがそれをしなければならないとき、あなたがそれを望むとき、いつでもあなた自身のことをしましょう。 すでに、あなたが知っているように、ドロップアウトし、 社会を離れてみる。完全に身をまかせてみる。 あなたのまわりにいるまっすぐな人の心を吹き飛ばしちゃいましょう。 それはドラッグによってではなく、美しさ、愛、正直、楽しさによって―」

1967年の夏に約10万人の若者がサンフランシスコを訪れたと推定される。さまざまなメディアが背景にあり、ヘイト・アシュベリー地区にスポットライトを当て、 ふくらむ関心とともに「ヒッピー」の呼び名を普及させた。 ヒッピーの「愛」と「平和」の理想は支持されたが、一方で「ドラッグとの結びつき」「寛大すぎる性格」については批判された。6月、ビートルズの画期的なアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』がリリースされた。アルバムは色とりどりのサイケデリックな音色のイメージでヒッピーたちにすぐに受け入れられた。

夏の終りまでに、ヘイト・アシュベリー地区の状態は悪化した。絶え間ないメディアの取材と報道に「ザ・ディガーズ」はパレードでヒッピーの「死」を宣言した。詩人スーザン・チャンブレスによると、ヒッピーたちは彼ら自身の人形や肖像を埋葬し、彼らの時代の終焉をマスメディア上で証明した。 同地区は、かぎられた居住スペースから、膨大な若者たちの流入に対応できなかった。多くのヒッピーがストリートに住み、ホームレスやドラッグディーラーをはじめた。栄養失調、病気、薬物中毒の問題が浮上し、犯罪と暴力が急増した。これらの問題のどれも、初期のヒッピーたちが構想したことではなかった。1967年末までに「サマー・オブ・ラブ」をはじめた多くのヒッピーとミュージシャンがうごきだす。ビートルズジョージ・ハリソンはヘイト・アシュベリーを訪れ、そこがドロップアウトの避難場所にすぎないことを知り、若いヒッピーたちにLSDを諦めるように促した。

結果、ヒッピーの文化、特に薬物乱用や寛大すぎる道徳に対する嫌悪感は、1960年代後半アメリカで「道徳的パニック」を助長することとなった。

1960年代末/ヒッピーの反戦思想[編集]

1968年にはヒッピーの影響を受けたファッションが流行した。特に人口の多い「ベビー・ブーマー」世代の若者の一部は、コミューンや実験農場(共同体生活)に住んでいるヒッピーの動きを模倣しようとした。だが当時、ヒッピーファッションとそれらコミューンのヒッピーの間に深い繋がりはみられなかった。これは音楽、映画、芸術、文学などの方面でも同じであり、そして米国だけでなく世界各地でもその傾向があった。

新しいサブカルチャーとしてのヒッピーは様々なメインストリームとアンダーグラウンドのメディアを獲得した。ある意味でヒッピー映画は、1960年代のヒッピーのカウンターカルチャーを搾取するものであり、大麻やLSDの使用、セックス、ワイルドなサイケデリックパーティーなど、ムーブメントと関連した「状況のステレオタイプ」を描いている。例えば『ラブイン』『ジャック・ニコルソンの嵐の青春』『白昼の幻想』などの映画、それ以外のより誠実で評判の高い『イージー・ライダー』や『アリスのレストラン』もそうである。一方でまた、ドキュメンタリーやテレビ番組も、フィクションやノンフィクションの書籍同様今日にいたるまで制作されつづけてきた。 人気のあるブロードウェイ・ミュージカル『ヘアー』は1967年に発表された。

イッピーズの指導者、アビー・ホフマン。東洋的な内面な変革を重要視したヒッピーとは違って、イッピーズはより政治的な運動を活発にした。彼らは強硬な政治にユーモアを以て抗議した。

一般に人々は60年代後半におきた文化的な動きを総じて「ヒッピーの運動」と称するが、そうではないこともある。 実際、ヒッピーは「イッピーズ」こと青年国際党とは対照的に、政治に直接関与していないことが多い。 イッピーズはより政治的な運動に身を投じ、1968年の復活祭に国民の注目をあつめた。そのうちの約3,000人がニューヨークのグランド・セントラル駅を占拠し、結局、61人の逮捕者がでた。 指導者アビー・ホフマンジェリー・ルービンは、1967年10月のベトナム戦争抗議デモで「立ち上がり、きしょいミートボールをやめようぜ!(戦争虐殺の暗喩)」というスローガンを掲げ、花を配り、儀式によって「ペンタゴンを空中浮遊[7]」させようとするなど風刺的(satirical)な劇場型のパフォーマンスで有名になった。また、1968年の民主党全国大会に抗議しようとして 大統領候補選に彼ら自身の候補者としてブタの「ピガスス」を指名し、広くメディアにとりあげられた。しかしながら、彼らは反戦を謳ってはいたものの、実際には米軍と戦う北ベトナムを支持していた。

英国では、毎週日曜日、ヒッピーたちがケンブリッジ公園でパーカッショニストの人々と女性運動をはじめたばかりの女性たちとつどった。米国の一部では、ヒッピー運動は、キャンパスでの反戦抗議運動に関連して「新左翼(ニューレフト)」の一部と見做されはじめた。「新左翼」は、同性愛者、中絶、ジェンダーの役割などの問題に関する幅広い改革を実施しようとした1960年代と1970年代の活動家、教育者、扇動者などを参考に、英国と米国で主に使用された用語だった。

1969年4月、カリフォルニア州バークレーにある「ピープルズ・パーク英語版」が国際的な注目をあつめた。カリフォルニア大学バークレー校は競技場と駐車場を建設するため、キャンパスそばの2.8エーカー(11,000m2)にわたる建物を解体した。ながい遅れののち、数千人のバークレー市民、自営業者、学生、ヒッピーたちが自分たちの手で問題をとりあげ、木々、潅木、花や芝生を植えて、土地を公園にかえた。 1969年5月15日、ロナルド・レーガン知事がその公園を撤去するよう命令をくだし、カリフォルニア州警備隊によって2週間の占拠が行われ、大きな対立がおこった。ヒッピーたちは「1000の公園に花を」というスローガンのもと、非服従する市民の運動に参加し、バークレーの至る所に花を植えた。

1969年8月、ニューヨーク州のベテルでロックの大祭典『ウッドストック・フェスティバル』が開催され、同時代の多くの人たちにとって、ヒッピー文化のベストを証明した。 50万人以上の人たちが、リッチー・ヘヴンズジョーン・バエズジャニス・ジョプリングレイトフル・デッドクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングカルロス・サンタナスライ&ザ・ファミリー・ストーンザ・フージェファーソン・エアプレインジミ・ヘンドリックスなど当時のもっとも有名なミュージシャンの演奏をきくためにあつまった。ヒッピーが唱えた「愛(love)」と「みんな仲良くしよう(human fellowship)」の理想は当時の世界の表情をとらえているようだった。 同様のロックフェスティバルは、アメリカ全域でなされ、広大なアメリカ大陸にヒッピーの理想を広める上で重要な役割を果たした。

1969年12月、サンフランシスコの東約45kmにあるカリフォルニア州オルタモントで、無料のロックフェスティバルが開催された。最初は『ウッドストック・ウェスト』と名づけられ、正式名称は『オルタモント・フリーコンサート』とよばれた。ローリング・ストーンズクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングジェファーソン・エアプレイン[注 3]らをきくために約30万人もの人びとがあつまった。 そこで警備をまかされていた暴走族のヘルス・エンジェルスは、ウッドストックの警備よりもずっと暴力的な警備をした結果、18歳の黒人メレディス・ハンター英語版は、ストーンズのパフォーマンス中に、酔ったヘルス・エンジェルスのメンバーによって殴打された後、刺殺された。

1970s - 現在/ベトナム戦争の終結[編集]

ヒッピーの文化を生んだ1960年代の中心的な人物たち、いわゆる「時代の精神医たち」は1970年代にはいると衰えたかのように見えた。

オルタモント・フリーコンサートの殺人事件はヒッピーや多くのアメリカ人を戸惑わせ、1969年8月にはチャールズ・マンソンと彼のファミリーによってシャロン・テート殺人事件がおき、さらなる衝撃を米国社会にあたえた。にもかかわらず、カンボジアの爆撃やジャクソン州立大学とケント州立大学の国家警備員による銃撃など騒然とした政治的な空気はなお人々を結びあわせていた。この銃撃は、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスの曲『What About Me?英語版』にインスピレーションを与えた。彼は「あんたが人を撃ったとき、オレはオレの数字に追加しつづける」と歌い、同じようにニール・ヤングは「Ohio」でオハイオ州立大学での州兵の発砲による大学生虐殺と、ニクソンのベトナム戦争に抗議した。

ヒッピースタイルの多くは、1970年代初めにはアメリカ主流社会に組みこまれていた。大規模ロックコンサートは1967年、KFRCファンタジーフェアとマジックマウンテンミュージックフェスティバル英語版モントレー・ポップ・フェスティバルを経て、1968年の英国ワイト島フェスティバルで基準となり、その過程でスタジアムロックに発展した。ロックがその規模を大きくする歩みはちょうどヒッピーや反戦デモの盛りあがりと重なっている。ロックにある種の時代の刻印を見るのは、あながち間違ってはいない。反戦運動は、1971年、ワシントンDCでのメーデー抗議集会において、12,000人以上の逮捕者をだし、ピークに達した。ベトナムで空爆を実施していたニクソンは後に失脚する。

1970年代半ばにはサイゴンが陥落し、ベトナム戦争終結と兵役徴集の終わりに伴い、アメリカ建国200周年記念英語版に関連した愛国的感情が高まり、アメリカはゆっくり様変わりしていった。やがて、ロンドンやマンチェスターでパンクが出現し、ニューヨークとロサンゼルスでは主流メディアがヒッピーへの関心を失った。同時に、モッズのリバイバル、スキンヘッズ、テディーボーイズ、ゴシック(ゴス)などの新しい若者文化が登場して、センセーショナルな話題を振りまいた。アシッド・ロックは、プログレッシブ・ロックヘヴィメタルディスコパンク・ロックにまでつながった。ヒッピーの理想は、パンクのアナキズムやそののちの若者のサブカルチャー、特に「セカンド・サマー・オブ・ラブ」に大きな影響をあたえた。

ヒッピー運動の理想を生きようとしたヒッピー・コミューンは社会の流れとは別のところで少しづつ豊かになった。西海岸オレゴン州にはかなりの数のコミューンに住む人々がおり、幾人かは消え去り、幾人かはまだかたちをかえながらもコミューン生活を続けている。多くのヒッピーは長期的なライフスタイルへと取組んだが、ヒッピーは1980年代に「売り切れ」になり、物質主義的消費文化の一部となったと主張する人もいる。実際、ヒッピーの文化は一度もきちんと人々の目に見えていなかったが、ヒッピーやネオヒッピーは大学のキャンパス、コミューン、集会や祭りで見かけることがある。その多くは、平和、愛、そして地域社会の価値観に適応している。もしかするとヒッピーは世界中のボヘミアンの養護施設でも見つかるのかもしれない。

サイケデリックトランスに興じる若者たち。反戦運動なき現代ではヒッピーはテクノロジーと結びつき、むしろファッションや娯楽的な要素が強いサブカルチャーとなっている。

20世紀の終わりに向かって、1960年代のサイケデリックなカウンターカルチャーの特質の幾つかを取り入れた「サイバーヒッピー」の傾向が浮かび上がった。ヒッピー・サブカルチャーはインドのゴア州から生まれたサイケデリック・トランスにもリンクしている。

ヒッピーの特徴[編集]

サンフランシスコのヒッピー文化の前身であるビートニクスはコーヒーハウスやバーに集い、文学、チェス、音楽(ジャズやフォーク)、モダンダンス、伝統陶器や絵画のような工芸や芸術などを愛好していた。これに対してヒッピーたちは全体的にトーンが異なっていた。 60年代後半から80年代半ばまでグレイトフル・デッドのマネジャーだったジョン・マッキンタイア(Jon McIntire[8])はヒッピー文化の大きな貢献は「よろこびの表現」だったと指摘する。比較的にビートニクスは黒く冷たかった。

ヒッピーたちは、それまでの社会の規範から自分自身を解放し、自分で自分の道を選び、人生の新しい意味を見つけることを自発的かつ主体的に追求した。

初期には、その彩り豊かなファッションを通じて互いを認識し、その個性を尊重し合った。彼らは権威に疑問をもっているという意見を臆さずに表し、社会の「まっすぐさ」と「硬さ-スクエア」から距離をおいて「利他主義と神秘主義、正直さ、よろこびと非暴力」という価値を重んじた。

やがて、多くの思慮深いヒッピーは、特にチャールズ・マンソンのようなカルト宗教のリーダーが表面的にヒッピーファッションを取入れ始めたり、警察官がヒッピーをコントロールするために「ヒッピーのような服を着る」ようになったあと、そうしたファッションの概念そのものから離れるようになった。「誰が平和軍隊を必要としている?― Who Needs the Peace Corps?(1968)」という曲などでヒッピー精神を風刺したことで知られているロックミュージシャンのフランクザッパは、自身のライブにおいて「私たちはみな制服を着ているのだ。自分をごまかすんじゃないぜ」と聴衆に忠告した。

アートとファッション[編集]

サンフランシスコのロックバンド、ジェファーソンエアプレインのポスター。ドラッギーに歪んだ文字がこの時代多用され、所謂サイケデリックイメージと結びつく。

アート[編集]

1960年代のサイケデリック・アート運動の主役は、リック・グリフィン英語版ビクター・モスコソ英語版ボニー・マクリーン英語版スタンリー・マウス&アルトン・ケリー英語版、そしてウェス・ウィルソン英語版など、サンフランシスコのポスターアーティストだった。彼らのロック・コンサートのポスターはアールヌーボーヴィクトリアン様式の美術(ビアズレ―など)、ダダイスムポップアートからインスピレーションをうけていた。フィルモア・ウェストのコンサート・ポスターはもっとも注目された。鮮やかなコントラスト、華やかなレタリング、強く対称な構図、コラージュ要素、歪み、ちょっと奇妙な画像、豊かな色彩などがその特徴で、このスタイルはおよそ1966年から1972年の間人気を保った。

彼らの作品はすぐにアルバムのカバーアートに影響を与え、実際、前述のアーティストはみなアルバムカバーをデザインしていた。ライトショーはロックコンサートのために開発された新しい芸術形式だった。オーバーヘッドプロジェクターの大きな凸レンズにオイルと染料を入れた乳液をセットすることで、アーティストは音楽リズムに脈打つような液体のビジュアルをつくりだした。さらにスライドショーやフィルムループとミックスされ、即興の映像芸術をつくりだし、ロックバンドの即興演奏を視覚的に表現、観客にとって異世界へと「トリップ」するような雰囲気を醸しだした。

また「アングラコミック」という新しいジャンルの漫画が生まれた。ザップ・コミックス英語版はそのオリジナルのひとつであり、ロバートクラムS・クライ・ウィルソン英語版、ビクター・モスコソ、リック・グリフィン英語版ロバート・ウィリアムス英語版らの作品を特集した。アングラコミックはハレンチできわどい風刺、ヘンなもののためのヘンなものを追求していたようだった。ギルバート・シェルトン英語版の『ファビュラス・フリー・フリーク・フリーズ・ブラザーズ英語版』は60年代ヒッピーの生活風景を風刺して映しだした。

彼らに先行するビートニクス、すぐ後につづいたパンクのように、ヒッピーのシンボルは意図的に「ローカルチャー」あるいは「プリミティブカルチャー」から取られ、ヒッピーファッションはしばしば「浮浪者スタイル」の反映だった。男も女もジーンズを履き、どちらも長髪だった。サンダルは、やがて裸足へと移行した。スティーヴ・ジョブズも大学生時代は裸足だったという。男性はひげを生やすことが多く、女性は化粧をほとんど、もしくはまったくせず、ノーブラジャー。ほかの白人中産階級のムーブメントと同じようにヒッピーたちは時代の「男女差」に挑戦し、ユニセックスだった。 ヒゲをはやした若者も多かった。ボトムはゆるいベルボトムなのが、この時代のスタンダードだった。

ヒッピーはしばしば明るく鮮やかな色を選び、ベルボトム、ベスト、しぼり染めの衣服、ダシキ(アフリカの民族衣装)、農民風のブラウス、長い丈のスカートなど、当時としては風変わりな服を着た。ネイティブアメリカン、アジア、アフリカ、ラテンアメリカをモチーフとして使用した非西洋的な服飾文化にインスピレーションを受けたデザインも人気があった。ヒッピーの多くは、企業がつくる消費文化に反対して、手づくり、または古着を着た。

男女ともに人気だったアクセサリーは、ネイティブアメリカンジュエリー「ヘッドスカーフ、ヘッドバンド、バンダナ」、ロングビーズネックレスなどだった。ヒッピーの家、車、その他の所有物は、しばしばサイケデリックアートで飾られていた。 1940年代と1950年代のタイトでユニフォーム的な服には、大胆な色彩、手づくり、だぼだぼなルーズフィットで反対した。

また衣服の手づくりは自己肯定感を高め、個性的であると考えられ、企業が主役の消費主義を拒絶していた。

ラブ&セックス―アメリカのセックス革命[編集]

ヒッピーのセックスに対する一般大衆によるイメージは「フリー・セックスを好み、乱脈なセックスを広めている」というイメージだった。ヒッピーたちはセックス革命を主張し、保守的なセックス観に挑戦する立場をとっていた。ジョンとヨーコは平和のためのベッド・イン、ラブ・インで、反戦平和を主張した。 1966年、研究チーム「マスターズ・アンド・ジョンソン英語版」によってセックスの臨床研究 "Human Sexual Response" が出版された。しばらくの小康状態を経て、1969年、精神科医デビット・ルーベン英語版が「あなたがいつも知りたいセックスについてのすべてのこと(でもあなたがきくのを恐れていたこと)―Everything You Always Wanted to Know About Sex (But Were Afraid to Ask))」を出版するとこの話題は突如アメリカでブームなった。これは性に関する一般の人たちの好奇心にこたえるための試みだった。 1972年には、イギリス人科学者アレックス・コンフォート(Alex Comfort)によるセックス・マニュアル『ジョイ・オブ・セックス英語版』が出版され、より素直な「メイク・ラブ(Make Love)」への認識がしめされた。このときまでにセックスの「遊び」や「たのしみ」の側面はこれまで以上に公然と議論されるようになっていた。この啓発的な見解はこれらの本の出版だけでなく、より広く普及したセックス革命によってしばらく前から進行中だった。

ヒッピーたちは、ビート・ジェネレーションから性や愛情に関するさまざまなカウンターカルチャー的見識と実践を受け継いだ。ビートニクスの著述はヒッピーに影響をあたえ、より開かれたセックスをし、罪悪感や嫉妬の感情を減らそうと試みた。当時、登場したヒッピーのスローガンの1つは「もしそれが気持ちが良ければ、それをやろう!」だった。それは多くの場合「あなたがうれしいときはいつでも、あなたが喜べる人とは誰とでも、自由に愛しても構わない」という意だった。

このスローガンは自発的な性行動やその実験を促した。グループセックス、野外セックス、公共の場でのセックス、ドラッグを服用しての同性愛、それ以前にはタブーだった様々なセックスの実験が行われた。彼らはストレートなセックスや一夫一婦制を認めない訳ではなかった。 むしろそれを認めていながらも、オープンな恋愛関係はヒッピーのライフスタイルに受け入れられた。

一人の主要パートナーと恋愛関係をもつことができるが、別の異性の存在が一方を引きつけた場合、一方は暴力や嫉妬に悩まされることなく、別の恋愛関係を探求することが許された。つまり「フリーセックス」と「フリ―ラブ」(性愛の自由)である。

ヒッピーは以下の様な古い時代の急進的な社会改革者が唱えた「自由恋愛主義」のスローガンを受け入れていた。

「自由な愛がすべての愛をつくる。恋愛、結婚、セックス、出産のパッケージは時代遅れのものとなった。愛はもはや一人だけに限られたものではなく、あなたはあなた自身が選んだ人を愛することができる。実際、愛はセックスパートナーだけとのものではなく、だれとでも分けあうことができるものだ」

[編集]

ヒッピーは旅好きだった。お金、ホテルの予約、その他の旅行の必需品を持っていくかどうかはあまり心配せず気ままに旅をした。彼らはファミリーネットワークをもっており、突然の一晩宿泊客を歓迎したので、さまざまな場所への自由な移動が可能となり、お互いのニーズを満たすために協力しあった。このような生活様式は、レインボー・ファミリー英語版グループ、ニューエイジ・トラベラー、そしてニュージーランドの「ハウス・トラッカー(移動住宅生活者)達の間では今でも見られる。

ハウストラッカー。住居が移動できる。

この「フリー&フロー(Free&Float)」なスタイルでの旅行は、一部のヒッピーたちのトラックとバスに派生した。1974年に出版された「Roll Your Own: Complete Guide to Living in a Truck, Bus, Van or Camper」に記述されているように、彼らは遊牧民(ノマド)的な生活習慣を実践するため、トラックやバスの車体を手作りの「移動住宅」に改造した。これらの移動住宅の中には、ベッド、トイレ、シャワー、調理設備を備えた非常に凝ったものもあった。

西海岸では、フィリリス・パターソンとロン・パターソン英語版が1963年に組織したルネッサンス・フェア英語版で独自のライフスタイルが生まれた。夏と秋の間は家族全員が移動住宅トラックとバスで一緒に旅し、カリフォルニア南部と北部の開催地につどい、1週間もの間工芸品を製作、週末はエリザベス風のコスチュームを着用してパフォーマンスに参加、それから会場のブースにて製作したハンドメイドの工芸品を売った。多くの若者たちはこれまでにない特別なハプニングを体験した。このライフスタイルのピークは、1969年8月15日から18日にかけて、ニューヨークのベテル近郊のウッドストックフェスティバルで、40万〜50万人が集まった。

ヒッピーの道[編集]

1969年から1971年の間に数十万人のヒッピーがした旅行は「ヒッピー・トレイル(ヒッピーの道)」と言われた。ほぼ荷物を持たず、少額の現金で、だいたい皆同じルートを辿った。ヨーロッパを越えてアテネとイスタンブールに行き、次にトルコの中心部からエルズルムを経由して列車で、バスでイランへ、タブリーズ経由で、テヘランからマシュハドへ、アフガニスタンとヘラート、南アフガニスタンからカンダハル経由、カブール経由、キーバー・パス経由でパキスタンへ、ラワルピンディとラホール経由でインドのフロンティアに到着した。インドでは、ヒッピーは多くの異なる目的地へいったが、トリヴァンドラム(ケーララ州)のゴアとコバラムのビーチに大量に集まったり、国境を越えたネパールのカトマンズで数ヶ月過ごしたりした。カトマンズでは、ほとんどのヒッピーたちがカトマンズ・ダルバール広場の近くにまだ存在するフリーク・ストリート(Freak Street)という静かな環境の中で時を過ごした。

精神と宗教[編集]

多くのヒッピーたちはカトリックやプロテスタントなどの主流宗教を拒絶し、彼らがより個人的なスピリチュアルな体験ができると考えた仏教ヒンズー教、瞑想などを擁護した。それらの宗教は規則にしばられていないと見なされ、キリストの古い信仰と関連する可能性が低かった。

何人かのヒッピーはネオ・ペイガニズム(復興異教主義)、特に多神教的魔女崇拝の一派「ウイッカ」を信仰していた。ハーバード大学教授の心理学者ティモシー・リアリーは、オカルティストのアリスター・クローリーをヒッピーへの影響として引用している。 1960年代には、ヒンドゥー教とヨガに対する西洋の関心がピークを迎え、西洋人が説く多くのネオ・ヒンズー教の学校が生まれた。

1991年、宗教学者ティモシー・ミラー英語版はその著書「ヒッピーとアメリカの価値(Hippies and American Values)」の中で、ヒッピーの特徴を主流な宗教機関の限界を越えようとする「宗教的運動」と表現していた。 「多くの異なる宗教と同じように、ヒッピーは主流文化の宗教機関に非常に敵対的であり、支配的な宗教がし損なった務めを行うための新しいよりよい方法を見つけようとした」とした。

「ヒッピーの旅(The Hippie Trip)」の著者ルイス・ヤブロンスキードイツ語版は、ヒッピーたちの間でもっとも尊敬されていたのは、その時代にあらわれた霊的指導者、いわゆる 「大司祭」だったと指摘する。それはサンフランシスコ州立大学のスティーヴン・ガスキン英語版教授だった。 1966年にはじまったガスキンの「マンデーナイト・クラス」は最終的に講義ホールにまで膨らみ、キリスト教、仏教、ヒンズー教の教えから導きだされたスピリチャルな価値についてオープンな議論をし、1500人ものヒッピーの信者を集めた。 1970年にガスキンは「ザ・ファーム(The Farm)」というテネシー州コミュニティを設立し、今でも彼は彼の宗教を「ヒッピー(Hippie)」と記入している。

ティモシー・リアリーはアメリカのハーバード大学の教授、心理学者、作家であり、サイケデリックな薬物の擁護者として知られている。 リアリーは1966年9月19日、ドラッグのLSDを「神聖なる聖餐」として宣言する宗教団体「スピリチュアル・ディスカバリー同盟英語版」(略称LSD)」を設立した。信仰の自由に基づいてLSDや他のドラッグを瞑想等にも用いるための法的地位を維持しようとしたが失敗した。ちなみに、このようなサイケデリック体験は、ビートルズのアルバム『リボルバー』に収録の「トゥモロー・ネバー・ノウズ」にインスピレーションを与えている。彼は1967年に「あなた自身の宗教をはじめよう」というパンフレットを発行し、1月14日、サンフランシスコで3万人のヒッピーが集まった「ヒューマン・ビー・イン」に招待され、そこで有名な「Turn on, tune in, drop out」というフレーズを唱えた。

英国のオカルティスト、悪魔崇拝のアリスター・クローリーは、およそ10年もの間ロックミュージシャンだけでなく、新しいニュー・オルタナ・スピリチュアル運動に影響を与えつづけるアイコンとなった。ビートルズは1967年のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のカバースリーブの登場人物の一人として彼を選んだ。1970年代のハードロック・バンド、レッドツェッペリンもクローリーに魅了され、彼の衣服、原稿、儀式物の一部を所有した。 また、ロックバンド、ドアーズもコンピレーション・アルバム『13』の裏表紙でジム・モリスンや他のドアーズのメンバーがクローリーの肖像とともにポーズをとり、ティモシー・リアリーもそのインスピレーションを認めている。

ヒッピー時代の思想家[編集]

  • ティモシー・リアリー

ティモシー・リアリーは60年代の若者に強い影響力を持っていた。カリフォルニア州知事選挙に立候補を表明したこともある。ジョン・レノンが作曲したビートルズの曲「カム・トゥゲザー」は、リアリーの選挙キャンペーンのために書かれた曲だが、結局、リアリーは選挙に出馬することができなかった。

  • ラルフ・ネーダー

ラルフ・ネーダー環境問題や消費者の権利保護運動のリーダーで思想家だった。ヒッピー運動が終わった後も活動を続け、独立系や緑の党の候補として、複数回大統領選挙に出馬している。なお、60年代の若者対象の世論調査で、ティモシー・リアリーやラルフ・ネーダーはベスト10に入ったが、マルクーゼやローザックがベスト10に入ることはなかった。

  • ヘルベルト・マルクーゼ

ユダヤ系ドイツ人のヘルベルト・マルクーゼは1934年ナチス台頭によって、アメリカへの亡命を余儀なくされた。ドイツでフランクフルト学派だったマルクーゼはニューヨークのコロンビア大学で教鞭をとり、資本主義分析と批判を展開し「エロス的文明」(1955)「一次元的人間」(1964)などの著書を出版した。彼の思想は、現代工業社会は人間の「リビドー」や欲望の昇華、性的な本能を低下させ、それらを身体性の残りの部分として鋳型にいれてしまっている。人間の原始的なエロス、欲望や本能、身体性を取りもどさなくてはならないというものである。なお、マルクーゼが影響を与えたのは新左翼であって、ヒッピーに対する影響は小さい。60年代にマルクーゼに影響を受けた人物にはアンジェラ・デイヴィス、アビー・ホフマン、ノーム・チョムスキーらがいた。彼の考えは「セックス革命」と、欧米のカウンターカルチャーに影響をあたえた。

  • セオドア・ローザック

シカゴで1933年に生まれた歴史学者セオドア・ローザックは「カウンターカルチャー」の名付親となった。1969年、書籍 「The Making of a Counter Culture」を出版した。この本で彼は若者がおかれている状況、伝統的なセックス観に縛られた状況などを分析した。更に「サイケデリック体験」は違った意識を「行動の冒険」によって具体化させるものであるとし、LSDなどの幻覚剤はこの目的に対して有用であると考えた。彼は平和主義者、反ベトナム戦争、環境運動、セックス革命などそれまで散在していた多様なグループが、カウンターカルチャーの中で合流していることを分析し、指摘した。若者は「平和」「正義」「自由」の議論をするために大学のキャンパスを占拠し、上から下のコントロールを否定し、これが「カウンターカルチャー」となった。

ユートピア社会主義としてのヒッピー[編集]

フランスの歴史家ロナルド・クレア英語版はヒッピー運動を「ユートピア社会主義」の最後の壮大な復活と考えた。

クレアはヒッピーの特徴を、これまでのような「政治的な革命」や「国によって推し進められた改革の行動」ではなく、現行のシステムの中で、社会主義的な人格がカウンターカルチャーのクリエーションをつうじて「社会の変容」を願うことだとし、これは多かれ少なかれ自由な社会の中で理想的なコミュニティを作り上げようとする欲求だとした[注 4]

ピースマーク。これは元来核軍縮のキャンペーンのロゴだったが、それをベトナム反戦デモの参加者が使用して、世界に広まった。今日では「世界平和」を願う象徴のひとつでもある。

「ピースマーク」は核軍縮キャンペーンのロゴとして英国で開発されたもので、1960年代にアメリカの反戦デモの参加者たちの間でポピュラーになった。ヒッピーは大抵は平和主義者であり、市民権運動、ワシントンD.C.の行進、ドラフトカードの焼却や1968年の民主党全国大会の抗議、反ベトナム戦争デモなど、非暴力的政治デモに参加した。政治的な関与の度合いは平和デモに参加していた人々から、アンチ権威主義的なストリートシアターやデモンストレーションをするヒッピーの政治的サブグループ「イッピーズ」(青年国際党)に至るまで幅広かった。

公民権運動のリーダーでありブラックパンサ―の共同設立者ボビー・シールはイッピーズのリーダーの一人ジェリー・ルービンとイッピーとヒッピーの違いを議論した。ルービンは、ヒッピーがまだ政治的になる必要性を感じていないので、イッピーズがヒッピームーブメントの「政治的な翼」だとし、ヒッピーの政治活動に関して「彼らの多くは「石」を選択するが「平和」を望んでおり、この選択を終わらせたい思っている」と述べた。非暴力的政治デモにくわえて、ヒッピーのベトナム戦争への反対には、戦争に反対する政治的なグループの組織化、軍隊で働くこと、ベトナムの歴史とより大きな戦争の政治的背景を大学キャンパスで教えることなどの「拒否」が含まれていた。

1967年の、スコット・マッケンジーの歌う「サンフランシスコ(花のサンフランシスコ)」はそれ以降にサンフランシスコへ帰国したヴェトナム戦ベテラン兵士たちの帰国歌となった。マッケンジーはベトナムの退役軍人に「サンフランシスコ」という、逆転した意味でのアメリカ市民の思いを捧げ、2002年にはベトナム退役軍人記念館の献辞20周年を祝った。 ヒッピーの政治的表現は、しばしば彼らがもとめていた変化を実行するために、社会的な「ドロップアウト」のかたちを見せた。

ヒッピーに動機づけられ、支えられた政治運動は、1960年代のバック・トゥ・ザ・ランド(農村回帰)運動英語版への企業協力、代替エネルギー、自由出版運動、有機農業などだった。ディガーズ英語版として知られるサンフランシスコのグループは、現代の大衆消費社会へラジカルな批判をくわえた。株式をすて、無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、お金を払って、無料の音楽コンサートを組織したり、政治芸術のパフォーマンスをした。彼らは、中世英国の真正水平派(Diggers)からその名を借りて、お金と資本主義のない「小さな社会」を創造しようとした

これらの運動は、反権力主義的で非暴力的な手段によって行われた。 観察者は「ヒッピーは独自のやり方で、彼らの「平和、愛、自由」という目標に辛辣で抑圧的な階層や権力構造に対抗した。彼らは自分たちの信念を他に強制することはなく、代わりに自分たちの信念を通じて世界をかえようとしたのだ」と言う。

ヒッピーの政治的理想は、アナルコ・パンク、レイヴニューレイヴ・カルチャー、エコロジー政治、マリファナ文化、ニュー・エイジムーブメントなどに影響を与えた。実際、アナルコ・パンクバンド、クラスのリーダー、ペニー・ランボー英語版はインタビューやエッセーのなかで、自らを「最後のヒッピー」と呼んでいる。クラスは1967年にコミューンとして設立されたダイアル・ハウスにそのルーツをもっていた。

一部のパンクスは、ヒッピーの動きに関係していたクラスに批判的だった。クラスのようにヒッピーに影響をうけたデッド・ケネディーズジェロ・ビアフラはヒッピーに批判的な歌を作ったが、実際彼の政治的行動と思想に大きな影響を与えたといわれている。

ドラッグ[編集]

ビートニクスにつづいて、多くのヒッピーは大麻(マリファナ)を使用し「楽しく良性」であると考えた。彼らは魂の薬学としてペヨーテLSD、サイロシビンキノコ、DMT(ジメチルトリプタミン)などの幻覚剤に使用を拡大し、しばしばアルコールを放棄した。

乾燥大麻とパイプ。ヒッピーはマリファナを良性ドラッグとして愛好する一方で、アルコール類を摂取しない者もいた。

ハーバード大学の教授ティモシー・リアリーラルフ・メツナーラム・ダスことリチャード・アルパート英語版らは、米国東海岸で精神療法、自己探求、宗教的精神的使用のための向精神薬を提唱した。 リアリーはLSDに関して「意識を広げ、エクスタシーと啓示を自分の内面に見つけられる」と述べた。

西海岸では、作家のケン・キージーがLSDのレクリエーション利用を促進する重要な人物だった。それは「アシッド」として知られ、彼は「アシッド・テスト―LSD実験」と呼んでいた。キージーはサイケデリック集団「メリー・プランクスター」と共にアメリカ大陸をツアーしメディアの注目を集め、多くの若者をサイケデリックカルチャーへと導いた。グレイトフル・デッド(元々は「ザ・ウォーロック」と呼ばれていた)は「アシッド・テスト」での最初の演奏をした。彼らは「世界を変えるビジョン」を持っていた。コカインアンフェタミンヘロインなどのより効果のきついハードドラッグが使用されることもあった。しかし、これらの薬物は有害で中毒性が強かったため、ヒッピーの間ではしばしば蔑まれていた。

それから[編集]

現在では、一般にすべての年齢の未婚のカップルは、社会的に批難されることなく、自由に一緒に旅行し、一緒に生活することができる。カジュアル・セックスはより一般的になり、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の人の権利や自分をある枠の中だけに分類しないことを選択する人々が増えた。宗教的、および文化的な多様性がより受け入れられるようになった。

協力的な企業や創造的な地域生活の取り決めも以前よりも受け入れられている。 1960年代と1970年代に小さかったヒッピーの自然食品店の中には、ヴィーガニズム、薬草、サプリメントなどの栄養補助食品への関心が高まっている現在、大規模で収益性の高い企業になった店もある。 1960年代と1970年代のカウンターカルチャーはある種の「グルーヴィー」な科学技術を取り入れた。例としては、サーフボードの設計、再生可能エネルギー、水産養殖、及び助産師、出産、女性の健康などのクライアント中心のアプローチがあげられる。作家スチュアート・ブランドジョン・マルコフ英語版は、パーソナルコンピュータとインターネットの発展と普及のなかに、ヒッピー文化によって促進された反権力主義の精神を見つけだすことができると主張している。

ファッションブランドGUCCIのデザイナー、アレッサンドロ・ミケーレ。ロン毛はヒッピー以前ではかなり珍しかったが、現在ではバンドマンを初めとして、一般化されたスタイルとなっている。

彩り鮮やかな外見と服装もまたヒッピーからの直の影響の一つである。 1960年代から1970年代にかけて、綿毛、ひげ、長い髪の毛(ロン毛)が広まり、服装はより鮮やかになり、色々な民族服がファッション界を席巻した。そのとき以来、ヌードを含む、より幅のある個性が現れ、多様な選択肢と衣服のスタイルがより広く受け入れられるようになった。それらすべてはヒッピー時代以前は珍しいものだった。ヒッピーはまた、1950年代から1960年代初頭にかけて男性にとって避けがたいネクタイなどのビジネス衣料品の人気を低下させた。更にヒッピーのファッションそのものは、1960年代から衣服やアクセサリー、とりわけ「平和のシンボル」として長年にわたって普及してきた。

占星術は真剣な研究から個人的な性格に関する気まぐれな娯楽までヒッピーの文化にとってなくてはならないものだった。 1970年代の世代は、ヒッピーと60年代のカウンターカルチャーから影響を受けた。ニューヨークのミュージシャンや観客は、女性、同性愛者、黒人、そしてラテン系のコミュニティにいたるまで、挙ってヒッピーとサイケデリックのいくつかの特色を採った。それらには爆音、フリースタイルな踊り、奇妙な照明、カラフルな衣装、そして幻覚剤が含まれていた。チェンバース・ブラザーズ英語版や特にスライ&ザ・ファミリー・ストーンのようなサイケデリック・スピリットのグループは、アイザック・ヘイズウィリー・ハッチ英語版フィラデルフィア・ソウルのようなオリジナル・ディスコ・ムーブメントに影響を与えた。さらに、ヒッピーの皮肉のないポジティブさや熱心さは、M.F.S.B.のアルバム「Love Is the Message」のような原ディスコ音楽をかたちづくった。

文学におけるヒッピーの遺産には、ケン・キージーの「Electric Kool-Aid Acid Test」のようなヒッピー体験を反映した長く人気を保つ本が含まれる。音楽ではヒッピーの中でも人気のあるフォーク・ロックやサイケデリック・ロックは、アシッドロックワールドビートのようなジャンルに進化した。サイケデリック・トランスは、1960年代のサイケデリック・ロックの影響を受けた電子音楽の一種である。ヒッピー音楽フェスの伝統は1965年のケン・キ―ジ―の「アシッド・テスト」に始まった。グレイトフル・デッドはLSDのトリッピングを体験して、サイケデリックなジャミングを始めた。その後数十年間、多くのヒッピーやニューヒッピーがデッドヘッズ(デッドの熱狂的ファン)コミュニティの一員となり、米国全土の音楽フェスや芸術フェスに参加した。グレイトフルデッドは、1965年から1995年の間、ほとんど中断することなく連続してツアーを行った。ロックバンド、フィッシュ(Phish)とそのファン(フィッシーヘッドとも)は、1983年から2004年の間に同じように連続してバンドをツアーして回った。ヒッピーフェスティバルで演奏する現在のバンドは、1960年代のオリジナルのヒッピーバンドによく似た長いインストを演奏するので「ジャムバンド」と呼ばれている。

グレイトフル・デッドとフィッシュが活動をやめたこと[注 5]によって、夏フェスはヒッピー・トラベラーたちによる盛り上がりを見せている。一番大きなものは、2002年に始まった「ボナルー・フェスティバル [注 6]である。「オレゴン・カントリー・フェア英語版」は、3日間の手作りフェスティバルで、手づくりの工芸品、教育用ディスプレイ、エンターテイメントなコスチュームなどがある。1981年に創設され、毎年開催される「スターウッドフェスティバル英語版」は、メインではない宗教や世界観を探求し、ヒッピーのスピリチュアルな探求を表現する7日間にわたるイベントであり、様々なヒッピーやカウンターカルチャーについての公演や授業を提供している。

2013年のバーニングマンフェスティバル。砂漠で行われる現代のヒッピーたちが集うオルタナティブ文化の祭典であり、LGBTも多く参加している。

バーニングマン」は1986年にサンフランシスコのビーチパーティーで始まり、ネバダ州リノの北東に位置するブラックロック砂漠で開催されている。バーニングマンはヒッピーフェスそのものではないが、ヒッピーの初期イベントと同じ精神でオルタネイティブ・コミュニティーの現代的な表現をしている。この集会は、入念な区画、ディスプレイ、デコラティブな車などからなる一時的な街(2005年には36,500人、2011年には50,000人)になった。大勢の参加者が集まる他のイベントにはレインボーギャザリングの「ギャザリング・オブ・ザ・バイブス英語版」、平和フェスティバル、復活したウッドストックフェスティバルなどがある。

英国では、外からはヒッピーとして見られている多くの「ニュー・エイジ・トラベラー英語版」がおり、彼らは自身のことを「平和コンボイ(Peace Convoy)」と呼んでいる。彼らは1974年に「ストーンヘンジ・フリーフェスティバル」をはじめたが、1985年に自然環境保護機関であるイングリッシュ・ヘリテッジはフェスティバルを禁止し、「ビーンフィールドの戦い英語版」と呼ばれる暴動事件がおきた。現在ではストーンヘンジは祭りの場として禁止されており、毎年グラストンベリー・フェスティバルで新しい時代の旅行者が集まる。今日、イギリスのヒッピーは各地域に散っているが、夏になると田舎の野外フェスに集まる。

ニュージーランドでは、1976年から1981年にかけて、ワイヒとワイキーの周辺の大規模な農場で開かれたフェスティバルに数万人のヒッピーが集まった。「ナンバサ英語版」と名付けられたこのフェスティバルは「平和」「愛」「バランスの取れたライフスタイル」に焦点を当てている。フェスと同時に、オルタネイティブなライフスタイル、自給自足、清潔で持続可能なエネルギーと持続可能な生活を提唱する実践的なワークショップと展示がされた。

英国とヨーロッパでは1987年から1989年の間、かつてのヒッピームーブメントが大規模に復活した。このムーブメントは、主に18歳から25歳の人々で構成され「愛、平和、自由」という初期ヒッピーの理想を称えた。 1988年の夏は「セカンド・サマー・オブ・ラブ」として知られた。その音楽は現代のエレクトロニックミュージック、特にハウスミュージックアシッドハウスだったが、レイブの「チル・アウトルーム」ではオリジナルヒッピー時代の曲を聞くことができた。

2002年、フォトジャーナリストのジョン・バセット・マクレリー(John Bassett McCleary)は、650ページの6000項目もの省略されていないスラング辞書「ヒッピー辞書(The Hippie Dictionary[9])」を出版した。これは1960年代から1970年代の文化的百科事典でもある。この本は改訂され、2004年に700ページに拡大された。マクレリーは、ヒッピーの言葉の多くはビート・ジェネレーションにその源をもち、それを短くして使用法を普及させることにで、英語にかなりの数の単語を追加したと考えている。

50年後のウッドストック[編集]

1969年のウッドストックフェスティバルから50年後の2019年、ウッドストックのオーガナイザーのひとりはメモリアルフェスティバルを企画した。しかし、医療体制や食や水の問題、さらには米国内で頻発する大量銃撃事件に関連して、会場探しが難航し、結局中止となった。1960年代の牧歌的なヒッピーの夢はより暴力的な傾向を強める社会状況という現実に直面せざるを得ない状況になっている。

長年警備に携わってきたニューヨーク市警の元巡査部長は社会構造の変化に伴い、フェスティバルのユートピア感覚は失われ「60年代を知る人々が、同じ経験をすることはもうないだろう」と述べた[10]

日本のヒッピー[編集]

1960年代後半の日本においては、オリジナルのヒッピーという呼び名の他に、新宿を中心に呼ばれた「フーテン」という呼称もあった。

ただし、自らフーテンであったと自称する作家の中島らもは「ヒッピーとフーテンは違う[11]」と述べている。思想を持ち、そのためのツールとしての薬物使用を是とするヒッピーに対し「フーテンは思想がないんよ。ラリってるだけやん[11]」と評価し、ヒッピー・ムーブメントが生んだ文化のみを摂取してスローガンを持たなかった日本のフーテンと、ヒッピーとを同義化する風潮を批判すると同時に「自由ほど不自由なものはないんだよ[11]」と述べ、ヒッピーの思想自体に懐疑的な立場を表明している。

ヒッピームーブメントに関連する項目[編集]

Hippie

地名[編集]

北米
ヨーロッパ
オセアニア
アジア
  • 宇検村うけんそん(日本) - 諏訪之瀬島に住んでいたヒッピーが1973年、東亜燃料工業(後の東燃ゼネラル石油)による宇検村の技手久島の石油備蓄基地建設計画を知り、反対運動に加わるため作ったコミューン「無我利道場」が1989年まで存在した。
  • カーブル(アフガニスタン) - 俗にヒッピー三大聖地の一つ。
  • カオサン通り(タイ) - 重慶大厦とおなじくバックパッカーの聖地として有名。
  • カトマンズ(ネパール) - 俗にヒッピー三大聖地の一つ。
  • 京都きょうと(日本) - ゲーリー・スナイダーら欧米からのヒッピーが多く居住し、ほんやら洞京都大学西部講堂、磔磔などヒッピー文化の本拠地が多くあった。
  • 朽木村くつきむら(日本) - かつてヒッピーコミューンが存在し、2010年代の現在でもかつてのヒッピー文化を彷彿とさせるイベントが開催されている。
  • ゴア(インド西海岸) - 俗にヒッピー三大聖地の一つ、バックパッカーの沈没地、レイヴゴアトランスでも有名。
  • 国分寺(日本) - かつてヒッピーコミューンが存在し「ほら貝」という店は国際的拠点でもあった。現在でもナチュラル系の店舗が多い。
  • 新宿しんじゅく(日本) - 1960年代にヒッピーによく知られた喫茶店風月堂が新宿東口に存在した。
  • 諏訪之瀬島すわのせじま(日本) - 山尾三省ななおさかきやゲーリー・スナイダーら、コミューン「部族」が集団移住し、1960年代末~1970年代にかけてヒッピーの聖地とされた。
  • 重慶大厦チョンキンマンション(香港) - バックパッカーの聖地として知られる。
  • 西荻窪(日本) - 短期間に終わった国分寺コミューンの崩壊後、ヒッピーらは主に中央線沿線各地に散らばっていった。その拠点のうちの一つに西荻窪の「ほびっと村」がある。
  • パンガン島(タイ) - Full Moon Partyが行われ、ヒッピーの聖地とされている。
  • 富士見町ふじみちょう(日本) - 日本のヒッピー文化の発祥の地

文化・芸術・思想・サブカルチャー[編集]

Flower-Power Bus

政治運動[編集]

ヒッピー達の集会

人物・グループ(文化人、思想家)[編集]

この項目では、ヒッピーとして行動した人、ヒッピー・ムーブメントに関わったか、影響を受けた人々、グループを記述している。

人物・グループ(音楽)[編集]

人物(個人のトラヴェラー、その他)[編集]

ヒッピーに関連する主な作品[編集]

映画[編集]

小説[編集]

演劇[編集]

薬物[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ カーンのこの認識は住民と若者の認識の「ズレ」や「ギャップ」のようなもので、当然どこの国にもある問題だとおもわれる。
  2. ^ この倫理規定にはある程度「ニューエイジ思想」の価値観と通底したものがみられる。
  3. ^ 「あなただけを」「ホワイト・ラビット」などがヒットした。
  4. ^ これは1968年のフランスの五月革命と同様の精神(68年精神)であり、いわゆる「男性型」のハードな革命ではなく、「女性型のソフトな変容、ソフトな革命としてとらえるべきなのだろう。
  5. ^ グレイトフル・デッドはバンドのギターリストでカウンターカルチャーの象徴的な存在だったジェリー・ガルシアが1995年に死去したこと、フィッシュは2004年に突然の解散を宣言したことによる。
  6. ^ テネシー州で毎年おこなわれている野外フェス。日本からは2004年に「東京スカパラダイスオーケストラ」が参加している。

出典[編集]

  1. ^ ヘレン・S・ペリー『ヒッピーのはじまり』作品社、2021年。
  2. ^ Usón, Víctor (2017年11月27日). “Avándaro, el festival que cambió la historia del rock mexicano” (スペイン語). El País. ISSN 1134-6582. https://elpais.com/cultura/2017/11/26/actualidad/1511678428_196506.html 2018年9月7日閲覧。 
  3. ^ a b 「カトマンズでLSDを一服」植草甚一、195ページ。晶文社。
  4. ^ “エデン・アーベ Nature Boy by Eden Ahbez” (日本語). Audio-Visual Trivia. http://www.audio-visual-trivia.com/blog/2006/09/nature_boy_by_eden_ahbez.html 2018年9月8日閲覧。 
  5. ^ Longshoremen's Hall | Grateful Dead” (英語). www.dead.net. 2018年9月10日閲覧。
  6. ^ Distinguished Magazine - Premier Lifestyle & Art Coffee Table Magazine | D Mag” (英語). Distinguished Magazine. 2018年9月10日閲覧。
  7. ^ Manseau, Peter. “Fifty Years Ago, a Rag-Tag Group of Acid-Dropping Activists Tried to "Levitate" the Pentagon” (英語). Smithsonian. https://www.smithsonianmag.com/smithsonian-institution/how-rag-tag-group-acid-dropping-activists-tried-levitate-pentagon-180965338/ 2018年9月11日閲覧。 
  8. ^ Jon McIntire 1941 - 2012 | Grateful Dead” (英語). www.dead.net. 2018年9月17日閲覧。
  9. ^ The Hippie Dictionary, about the 60s and 70s” (英語). www.hippiedictionary.com. 2018年9月18日閲覧。
  10. ^ 相次ぐ銃乱射に苦しむ米国、ウッドストック再来は望み薄” (日本語). www.afpbb.com. 2019年8月17日閲覧。
  11. ^ a b c 中島らも『異人伝』(講談社文庫)pp.77-78