モビー・グレープ

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モビー・グレープ
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州 サンフランシスコ
ジャンル サイケデリック・ロック
ガレージロック
ロックンロール
カントリーロック
フォークロック
活動期間 1966年 - 1971年
レーベル コロムビア・レコード
リプリーズ・レコード
ポリドール・レコード(ファイン・ワイン 名義)
(サンフランシスコ・サウンド・レコード マシュー・カッツの再発)
レガシー・レコーディングス
ディグ・レコード
メンバー ピーター・ルイス
ジェリー・ミラー
ボブ・モズレー
スキップ・スペンス
ドン・スティーブンソン

モビー・グレープ(またはモビー・グレイプMoby Grape)は、1960年代後半に活動したアメリカ合衆国バンドサイケデリック・ロック・バンド。1966年カリフォルニア州サンフランシスコにて結成。シングル、オマハ(Omaha)が1967年全米シングルチャート最高88位、のちに有名になる多くのミュージシャンに多大な影響を与えた。メンバーの一人、スキップ・スペンスは1999年に死去したが、他のメンバーは変遷を経て現在も活動を続けている。

ギターのジェリー・ミラーは、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第73位にランクインしていたが、2011年の改訂版では削除された。

概要・来歴[編集]

初期の「ジェファーソン・エアプレイン」でパーカッションを担当し立場の不満から1966年5月頃に退団したカナダ出身のアレックス・スキップ・スペンス( Alex Skip Spence以下「スキップ・スペンス」と略)は再びソロ活動に入り気ままな放浪旅行も楽しんでいた。その後ジェファーソン・エアプレインのマネージメント業務を務め同年8月頃に権利濫用、越権行為を繰り返して職務不履行を理由に解雇されるマシュー・カッツ(Matthew Katz)から勧誘され新規にバンドを結成するプラン助言とその業務協力の申し出に応じることにした。スキップ・スペンスは、かつて渡り歩いた西海岸のフォーク・クラブで一緒になった仲間へ呼びかけ、ジェリー・ミラー(Jerry Miller)、ドン・スティーヴンソン(Don Stevenson) とピート・ルイス(Pete Lewisロレッタ・ヤングの子息)に、ルイスの友人ボブ・モズレー(Bob Mosley)が集った。フォーク畑出身からメンバー全員歌うことが出来、またソングライターという一致があった。

1966年11月4日サンフランシスコのカリフォルニア・ホールでデビュー・ステージを踏み、5人は歌い楽曲作者が次々とリードボーカルをとるブギ、フォークロックのバラッドにギター・パートによってはツイン・リード・ギターを試行するアレンジなどが評判で、大手レコード会社から引き合いが相次ぎ、コロンビア・レコード(Columbia Records)がアルバム4枚制作発表する条件で契約を獲得、1967年3月にプロデューサーデヴィッド・ロビンソン(David Rubinson)のもとでスタジオ入り、6月7日に1stアルバム「モビー・グレープ(Moby Grape)」を発表し、モントレー・ポップ・フェスティバル、6月17日夜の部で参加、これによって人気は頂点に達した。 1stアルバム「モビー・グレープ」にはポスターが添付され、同時に5枚のシングル盤が発売された。発売記念に新人としては異例のプレスを招いたパーティといった宣伝活動が災いし、セールスは振るわなかった[1]。反戦、反体制の時勢では大がかりな販売活動は大手企業の搾取感反感を呼び、発売後に表ジャケットに写った「赤く染まる星条旗」、「ドン・スティーヴンソンの右手中指の様子」が問題視指摘されると未販売分は回収され、ジャケットを差し替えた再発売も販売不振に追い打ちをかけた。

同時代イギリスのバンドザ・ムーブThe Move)が楽曲「Hey Grandma」をカバー(レコードでは未発売)、セミ・プロ時代のロバート・プラントジョン・アンダーソン[要曖昧さ回避]がほかを取り上げるなど、ミュージシャン達から注目されていた[2][3][4]日本のバンド、はっぴいえんどはこのアルバムから影響を受けたことをメンバーは公言している[5]

1968年4月3日2ndアルバム「ワウ(Wow)」発表。初版は「グレープ・ジャム」が付属する2枚組で、表アルバム・ジャケットにはメンバーの姿やバンド名記載が無い奇抜なデザイン(その後ステッカー添付で表示)[6]初回限定ボーナス・トラックスにセッション・アルバム「グレープ・ジャム」同封というという先駆的なパッケージは画期的だった。 斬新なアートワークと内容が不釣り合いな作品で、モビー・グレープの特徴は1stアルバム「モビー・グレープ」にみられるよう[7]一過性流行アレンジのサイケデリックは最小限に留めて、きちんと纏まった一曲を作り上げることを特徴として幻覚追求で長尺曲の多かった他のバンドとは一線を画していたが、前作のセールス失敗からレーベル側制作は楽曲アレンジへ大幅に介入し時代掛ったサイケデリック風味の大袈裟なアレンジ曲を増やし、突然SPレコードの回転数でプレイを求めるLPレコードという仕様にしてしまった。

楽曲は「グレープ・ジャム」を省けば前作同様良作が揃っていたにも関わらず、装飾過多、盛り込みは否めず、アレンジの錯誤から統一感欠くものでアルバムの出来全体を歪め、不本意な内容になった根拠について、後年(1993年発売)の編集盤CD「ヴィンテージ・モビ・ーグレープ (The Very Best of Moby Grape)」、収録の数曲初期テイク(ほかにThe Place and the Timeの未発表バージョンなど )[8]といった原曲の状態、ライナーノーツのボブ・モズレーによる証言がすべてをもの語っている。 「グレープ・ジャム」はスキップ・スペンスの提案だったカントリー・ミュージック中心に据えたものから転じブルース・ロックで統一された。この一環で招聘されたアル・クーパーマイク・ブルームフィールドはのち「スーパー・セッション」で大成功を修め、アル・クーパーはこの「グレープ・ジャム」で発想を得たと後年語っている。

2作目のセールス不振が露見し始めた頃[9]フィルモア・イーストで公演中滞在していたニューヨークのアルバート・ホテル[10]で、スキップ・スペンスが不在のドン・スティーヴンソンを探し、廊下にある消防救命用備品の突入用斧を振り回してドアを打ち破り徘徊する事件が発生した[11]LSD乱用による統合失調症と診断され、麻薬法違反で起訴後、病院に収容されてしまった。

音楽方針の舵取役スキップ・スペンスが不在の4人のまま、4月から11月にかけて収録した「モビー・グレープ'69(Moby Grape '69)」は1969年1月30日に発表、現場をかき乱していたマシュー・カッツと付きまとったレーベルの干渉を排除してバンドの素顔を取り戻した収録だったが、作品は覇気の無い晩秋のような印象の作品だった。アルバム最後を飾る「シーイング(Seeing)」は、前作で行ったスキップ・スペンス中心のラフ・セッション録音をもとに[12]4人はオリジナルテープダビング再構成にその後のセッションから新たなアレンジにハモンドオルガンとコーラスなどを加え、リード・ボーカルをボブ・モズレーに据えて完成させたが詞の内容はバンドの置かれた状況に重なりメンバー達の心境をも表していた。

バンドから離れたスキップ・スペンスは退院後の1968年12月3~12日にかけてコロンビア・レコードのナッシュヴィル・スタジオに入る。スキップ・スペンスの才能を惜しんだデヴィッド・ロビンソンが費用を捻出して制作するソロ作の録音作業で、ギターで弾き語りをする楽曲が多いなか、冒頭一曲目の「Little Hands」など、独りですべての楽器を演奏[13]、3chレコーダーでサンプリングのように音を重ね作り上げたバンド風アレンジの楽曲もあった。翌年5月「オール(Oar)」として発表、販売スケジュールから外れた急遽の発売で、放送局や店舗に配布する新譜告知編集サンプル盤の収録や販売プロモーションは無く、少数の販売に留まった。

1969年2月のヨーロッパ公演を終え帰国すると任意で軍属志願したボブ・モズレーが脱退した。契約スケジュールで4作目の録音に入り、レーベルから低額な録音予算と期日を説明されナッシュビルに移動し、1969年5月27~29日、ボブ・ジョンストンのプロデュースで、現地のセッション・ベーシスト、ボブ・ムーア(Bob Moore)を迎えて収録を完了させた。1969年7月30日に『トゥルーリー・ファイン・シチズン (Truly Fine Citizen)』として発売された。ジャケットは録音スタジオ勤務ガードマンの写真を用い、マシュー・カッツと印税契約をめぐる訴訟問題からソングライタークレジットは架空名義「Tim Dell'Ara」表記という状態だった[14]。同年12月20日のサンフランシスコ、フィルモア・オーディトリアム公演を終えて、とうとうバンドは解散状態になり、ジェリー・ミラーとドン・スティーヴンソンはリズム・デュークス(The Rhythm Dukes)に参加した。

1971年、リプリーズ・レコードReprise Recordsから突然「20グリニット・クリーク(20 Granite Creek)」が発表された。プライベートな仲介で実現した5人による再結成で、同時にフィルモア・イーストなどで数回公演を行い休止した。

その後[編集]

1972年リプリーズ・レコードからボブ・モズレーのソロ・アルバム発表。

現在(2013年)に至るまで様々な名称バンド名を用いて、顔ぶれは入れ変えつ活動を続けている。アルバム発表は1976年にボブ・モズレー、ジェリー・ミラー、マイケル・ビーン(Michael Been)、ジョン・クラヴィオット(John Craviotto) のファイン・ワイン(Fine Wine)名義など。後述の訴訟問題から1980年代以降バンド名称「Moby Grape」の使用制約からメモリアル・バンドと称したり、ボブ・モズレーのみ参加、健康状態に問題があったアレックス・スキップ・スペンスとボブ・モズレーの休養脱落、ジェリー・ミラーやボブ・モズレーのソロ活動延長でかつての楽曲をサポートミュージシャンを得て公演するなどを繰り返している。

付記[編集]

1967年ジェファーソン・エアプレインのアルバム「シュールリアリスチック・ピロウズ( Surrealistic Pillow)」には脱退したスキップ・スペンスの楽曲「My Best Frieds」が収録されている。

混乱続きだった1969年まで活動期間以降も、法廷闘争の渦中に立たされ再発売はおろか、再評価される機会すら奪われた。マシュー・カッツのサンフランシスコ・サウンド・レーベルで権利の一部を持つ二枚をレコードやCDでそれぞれ数度、 1972年コロンビア・レコードから編集盤Great Grape、海外イギリスの再発専門レーベルのエドセル・レーベル(Edsel Records)による1986年の編集盤(「Murder in My Heart for the Judge」)に例外扱いで1stアルバム「モビー・グレープ(Moby Grape)」は曖昧な海外の配給販売権を借出して「版権調整中(Copyright Control)」と記入していた[15]。ロックのレコード再発ブームの中で粗悪な海賊コピー盤「ワウ」が出回る始末だった。マシュー・カッツによる訴訟権濫用から名称「モビー・グレープ」の使用差し止め制限が2006年まで続き、和解したとみられた2007年以降も 再発専門レーベルサンデイズド・レコード(Sundazed Records)から発売された1stアルバム「モビー・グレープ(Moby Grape)」のCDアートワークにたいし権利侵害を申し立て発売停止に追い込み、モビー・グレープにまつわる混乱は収束していない[16]

コロンビア・レコードと契約したイッツ・ア・ビューティフル・デイIt's a Beautiful Day)もブッキングの仲介が不透明でマシュー・カッツを解職したが契約上楽曲版権とアルバムに関する印税契約は継続しヒット曲「White Bird」の扱いからレーベルが仲裁に入った。皮肉にも「White Bird」はマシュー・カッツが押しつけた低賃金の演奏営業活動にバンド・リーダーのデイビット・ラフラム(David LaFlamme)が嘆いた事で生まれた楽曲だった。コロンビア・レコードは原契約条項に無い点を突いて新たな契約を進め、マシュー・カッツは報復で国内で同じ作品を製造販売する権利を押さえやジャケットアートワークの海外販売版権に制約を加えた。開店休業状態のサンフランシスコ・サウンド・レーベルからモビー・グレープとイッツ・ア・ビューティフル・デイの1stアルバムは1970年代後半以降二、三度別企業の資金提供で製造と販売が行われた[17]

メンバー[編集]

作品[編集]

  • Moby Grape (1967年)
  • Wow (1968年)
  • Grape Jam (1968年)
  • Wow/Grape Jam (1968年)
  • Moby Grape '69 (1969年)
  • Truly Fine Citizen (1969年)
  • 20Granite Creek (1971年)
  • Omaha (1971年)
  • Great Grape (1973年)
  • Fine Wine (1976年)
  • Live Grape (1978年)
  • Moby Grape '84 (1984年)
  • Legendary Grape (1989年)
  • Vintage: The Very Best of Moby Grape (1993年)
  • Legendary Grape (2003年)
  • Cross Talk: The Best of Moby Grape (2004年)
  • Listen My Friends! The Best of Moby Grape (2007年)

外部リンク[編集]

  • [1] - 公演日時データ一覧
  • [2] - ボブ・モズレー個人の公式ホームページ

脚注[編集]

  1. ^ ビルボード・アルバム・チャート、最高24位
  2. ^ ほかにオレゴンWhalefeathersが「Omaha」を録音している。
  3. ^ The Very Best of Moby Grape
  4. ^ Columbia/LEGACY C2K 53041 Vintage: The Very Best of Moby Grape。
  5. ^ CBSソニー SRCS-6949/50 ビンテージ・ベスト・オブ・モビー・グレープ 1994年2月21日発売。
  6. ^ 知名度が低いミュージシャンで名義記載が無いものは近隣で1968年3月マザーズ・オブ・インヴェンションウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニーなどがある。
  7. ^ アレンジにフランス民謡「かねがなる(フレール・ジャック)」などを引用している。
  8. ^ The Very Best of Moby Grape
  9. ^ ビルボード・アルバム・チャートで、最高20位とまりだった。
  10. ^ かつてグリニッチ・ヴィレッジに存在し現存しない。2012年現在同地区にあるホテルは異なる建物。
  11. ^ 発生日時に触れた文献は見つからなかった。フィルモア・イーストには1968年5月31日、6月1日に出演している。
  12. ^ この通称「スキップス・ソング」と呼ばれる原曲と4人による録音のデモ・テープ・ヴァージョン「シーイング」がある。
  13. ^ エンジニアマイク・フィガロ(Mike Figlio)との共同作業
  14. ^ バンド名使用権についても争いピート・ルイスによると、この頃マシュー・カッツが仕立てた偽モビー・グレープが出没し演奏活動を行っていたと云う。
  15. ^ アレックス・スキップス・スペンスの「Oar」の再発も行った。折からのオールディーズ再発ブームで、1970年代に一世を風靡したスティッフ・レコードが瓦解し再編で発足したDemon/F-Beat Recoeds傘下で開設した。英米の作品から再発作業が行われ、選択基準の一つには「イギリス国内(もしくは西欧圏)では入手困難度合が高い作品」があり、輸出を前提にしていたカタログにはアメリカ本国では安価な中古盤が入手容易なタイトルも並ぶ特色があった。イギリス視点で吟味されたカタログには非公式にDemon/F-Beat Recoeds所属のレコード収集家で高名なエルヴィス・コステロらが協力しその趣味が反映されていた。アナログLP盤がカタログから外れていた期間に、1985年に再発々売したロン・ウッドThe BirdsThe Actionなど、モッズリバイバルのなか1998年頃に海賊コピーアナログLP盤が出回った。
  16. ^ 2007年からサンデイズド・レコードが行った努力から海賊盤の権利侵害が続いた音源で1966年ウインターランド出演やヨーロッパ・ツアーでオランダのR.A.I.公演といった音源が「Live」「The Great Lost Moby Grape Album」で収録、正規音源として再発されている。
  17. ^ Globe Propagandaによる有名なイッツ・ア・ビューティフル・デイのジャケット・アートはアメリカ国外の再発では、ジャケット差し替えが行われ、コロンビア・レコード合弁企業のある日本では1990年代以降「輸出禁輸品」の注意書きが追加されてオリジナルアートワークで販売されている。マシュー・カッツ関連でオレゴン出身のバンド、トリプシコード(Tripsichordまたはトリプシコード・ミュージック・ボックスTripsichord Music Box)は1969年に契約しシングル盤は発売されたがアルバム盤はバンド解散前後の1971年まで遅れ、その後1985年頃に海賊盤と2001年にAkarmaレコードからイタリア国内向け(許諾無し)が発売された。権利訴訟が国際的に容易になった2000年代にこのイタリアAkarmaレコードと親会社は別件でアメリカのバンドから提訴されている。

参考資料[編集]

  • Columbia/LEGACY C2K 53041 Vintage: The Very Best of Moby Grape 解説(英文)
  • CBSソニー SRCS-6949/50 ビンテージ・ベスト・オブ・モビー・グレープ 解説 
  • ロック百科 vol.2 著フィル・ハーディ/デイブ・ラング 訳 三井徹 サンリオ 1981年
  • ロック・エンサイクロペディア THE ENCYCLOPEDIA OF ROCK1950's-1970's 著フィル・ハーディ/デイヴ・ラング 訳 三井徹 みすず書房 ISBN 978-4-622-07344-4 C0073 2009年11月25日発行