はっぴいえんど
はっぴいえんど | |
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別名 | ヴァレンタイン・ブルー(旧名) |
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旧メンバー |
はっぴいえんど (英語: HAPPY END) は、日本のフォークロック・バンド。
細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂らによって結成されたバンドグループ。日本産ロック史の草創期に活動したグループの一つ。
概要[編集]
はっぴいえんどは、ビートルズを英語で歌うグループサウンズの様な音楽性ではなく、日本語でロックを歌う事を目指した。バンドの作詞担当だった松本隆が、ダブルミーニング等の技法を歌詞に取り入れ、日本語ロックを構築した。松本は後年、ジャックスの楽曲「からっぽの世界」の歌詞に影響を受けた事を公言し、この曲がなければ、はっぴいえんどはなかったかもしれないという趣旨の発言をしている[2]。大瀧詠一と細野晴臣は音楽性を重視していた為、ロックに日本語の歌詞を付けるという、この提案に反対した。また、サウンド面においてはアメリカのバッファロー・スプリングフィールド等に影響されたサウンドだった[注 1]。メンバーは宮沢賢治に影響を受けており、その世界観がバンドの音楽性にまで影響しているようである[3]。全日本フォークジャンボリーの第二回に登場し、第3回全日本フォークジャンボリーにも出演した。
しかし、ブリティッシュロックが人気だった当時の日本において、フォーク、フォーク・ロックの音楽性を標榜したのは、日本のロックを作る為にはアメリカのロックをやらなければならないという考えがあった為である[注 2]。はっぴいえんどが取った方向性は後続のバンドに少なからぬ影響を与え、乱魔堂、センチメンタル・シティ・ロマンス等の後継者を生んだ。
「風をあつめて」は、2003年のアメリカ映画『ロスト・イン・トランスレーション』と2009年の日本映画『おと・な・り』の他、漫画『うみべの女の子』でそれぞれ取り上げられた。
遠藤賢司、岡林信康、加川良、高田渡、小坂忠らのバックバンドとしても、コンサートやスタジオ録音等を行なっている。
評価[編集]
『月刊平凡』1980年6月号に「日本で作詞・作曲家になる方法」という特集があり、この記事で松本隆の紹介に「今をときめくテクノポップ『Y・M・O』の細野晴臣さんや鈴木茂さんと一緒に、"はっぴー・えんど"でドラムをたたいていたのは知っていたかナ?」と書かれている[4]。はっぴいえんどは、1970年代には一般的な知名度がないことは勿論、『月刊平凡』のような影響力の大きな音楽誌の編集部にもバンド名を間違えられるほど知名度が低かったものと見られ、『月刊セブンティーン』1979年8月号のニューミュージック特集「1970年代ニューミュージック年表」にもはっぴいえんどの名前はなく[5]、『月刊明星』1976年12月号「'76フォーク&ロック資料館」の「アーティスト図鑑」にも「決定版 にっぽんフォーク&ロック年表 1968~1976」にもはっぴいえんどの記載はない[6]。『月刊明星』の発行部数は1973年で170万部、1979年で175万部[7]。ロックの専門誌を別にすれば、1970年代の主たるマスメディアからは、はっぴいえんどは、ニューミュージックの世界でもフォークの世界でもロックの世界でも、存在自体がほとんど認識されていなかったものと見られ[4][5][6]、1970年代に於ける日本のフォークやロックの歴史に於いては功績がある存在とは認識されていなかったものと考えられる[4][5][6]。
1970年代は、テレビやラジオを通じて、歌謡曲や演歌、フォークの大ヒット曲が続出した時代であり[8]、ロックより先にフォークがオーバーグラウンドに浮上し、これを契機としてロック色の強いニューミュージックも市民権を得た[8]。はっぴいえんどは全く売れなかったバンドで[8][9]、よっぽどのロックファンしか知らないようなバンドが今日より遥かに情報量の少ない時代に於いて、当時、また後の音楽界や後続ミュージシャン、音楽界にどの程度の影響を与えられたのか分かりにくい部分もある。日本に於けるロックの伝承に関しては、多くのロック・ミュージシャンが影響を受けたと話す沢田研二や西城秀樹などテレビに毎日のように露出して、ロック寄りの楽曲を歌った歌謡曲歌手の影響も無視できない[10]。1970年代後半から、1990年代にデビューしたロックミュージシャンは、それら沢田研二や西城秀樹[10]、キャロル[11]、吉田拓郎、井上陽水などから影響を受けたと話す者も多い[12]。鮎川誠は「フォークの人たちが日本語で歌っているのを見て、自分たちも日本語のオリジナル曲を作ってみた」と話している[13]。
はっぴいえんどは、「日本語ロック論争」を誌面に残せたことで[8][14]、当時日本語ロックをやっていたのは、はっぴいえんどだけかのような印象を与え、1980年代以降に元メンバーの活躍があり、「彼らが昔、日本語でロックをやっていた」と発掘され、『ミュージック・マガジン』を中心とした「はっぴいえんど史観」などの影響で[8][15][16]、先駆者的評価が高まり、音楽評論家にもてはやされるようになったもので[17]、元メンバーの活躍が無ければ、はっぴいえんどの今日的評価は全く違っていたものになっていたと見られる。北中正和が書いた『バラエティ』1978年7月号の内田裕也のインタビューで、北中は内田を「'60年末から'70年代初頭にかけて、日本のロックのムーブメントの中では、はっぴいえんどや吉田拓郎の音楽に対して、海外に通用する英語のロックを主張して"ロック論争"を展開。'75年、'76年とワールド・ロック・フェスティバルをプロデュース...」などと紹介している[18]。内田の仮想敵ははっぴいえんどだけではなかったのである。
つのだ☆ひろ[19]や宇崎竜童[20]、恩蔵茂[21]、近田春夫[22]は「はっぴいえんどはフォーク」と述べている[19][20][21]。当時フォークは普通に日本語で歌っていて、フォークシンガーやフォークグループの中にはロック寄り、フォークロックのような音作りをする者もいて[23][24]、日本語を歌詞に乗せることに関してはフォークの方が先行していた[24]。ザ・モップスの1972年7月リリースのアルバム『モップスと16人の仲間』は、そのコンセプトを基にフォーク系シンガーソングライター16人から楽曲提供を受けたもので[24]、シングルカットされてヒットした『たどりついたらいつも雨ふり』は、吉田拓郎が1960年代のアマチュアロックバンド時代に制作していた日本語ロックのオリジナル曲の歌詞を書き直したもの[24][25]。後に同曲をカバーした氷室京介は「吉田拓郎さんはフォークシンガーと見られているけど、自分の中では吉田拓郎さんはロック歌手。ボブ・ディランとかニール・ヤングとかと変わらない存在」と話している[26]。相倉久人は、1976年6月14日、21日号の「日本読書新聞」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックやソウルにさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」と評している[27]。
つのだひろは「ここ何十年で、日本のロックのルーツがはっぴいえんどだと喧伝しているヤツがいて、評論家でもそれに加担している一派が多いものだから、いつの間にか、日比谷野音(10円コンサート)やニューロックの時代が歴史から消されましたよね。無かったことにされてるんです。僕の中では、はっぴいえんどはフォークでしたよ。彼らは「唄の市」コンサートとかのフォーク・イベントに出ていたバンドで、僕たちロックをやっている仲間にいなかった。これは、ハッキリと言っておきたいですね」と述べている[19]。長戸大幸は「日本のロックの元祖は何かという議論になると、たいていはグループサウンズよりも後に出たはっぴいえんどになっています。しかし、テレビを見ていた少年たちがエレキギターやエレキベースの音を生まれて初めて耳にしたのはグループサウンズです。エレキの音を来た少年たちがその後、イギリスやアメリカのロックを聴くようになっていき、そのうちの何人かが自分たちのバンドを組んで、日本の音楽シーンに入ってきたのです。それが事実です」などと述べている[28]。
メンバー[編集]
- 東京都港区青山出身。
年表[編集]
1969年[編集]
- 3月、“エイプリル・フール”結成。
- 9月27日、エイプリル・フール、アルバム『Apryl Fool』発売。
- 9月、はっぴいえんどの前身“ヴァレンタイン・ブルー”結成。
- 10月、エイプリル・フール解散。
- 10月28日、ヴァレンタイン・ブルー、デビュー・ライブとなる“ロックはバリケードをめざす”(全電通ホール)に出演。
1970年[編集]
- 3月6日、遠藤賢司『niyago』レコーディングに参加。
- 3月、ヴァレンタイン・ブルー、バンド名を“はっぴいえんど”に改名。
- 3月23日、岡林信康『見るまえに跳べ』レコーディングに参加。
- 4月、アルバム『はっぴいえんど』レコーディング。
- 4月12日、“ロック叛乱祭”に出演(文京公会堂)。
- 8月5日、アルバム『はっぴいえんど』発売。
- 8月8日、“第2回全日本フォークジャンボリー”出演。
- 10月、岡林信康とのコンサート・ツアー開始。
- 12月1日、“岡林信康コンサート”をライヴ録音。
1971年[編集]
- 1月16日、高田渡『ごあいさつ』レコーディングに参加。
- 4月1日、シングル「12月の雨の日 / はいからはくち」発売。
- 4月10日、加川良『教訓』レコーディングに参加。
- 4月14日、“加橋かつみコンサート”出演。
- 5月7日、アルバム『風街ろまん』レコーディング開始。
- 8月7日、“第3回全日本フォークジャンボリー”出演。
- 8月21日、“ロックアウト・ロック・コンサート”出演。
- 11月20日、アルバム『風街ろまん』発売。
- 12月10日、シングル「花いちもんめ / 夏なんです」、大瀧ソロ・シングル「恋の汽車ポッポ / それはぼくじゃないよ」同時発売。
1972年[編集]
- 5月6日、“第2回春一番コンサート”出演。
- 6月25日、大瀧、ソロ・シングル「空飛ぶくじら / 五月雨」発売。
- 7月1日、“ラスト・はっぴいえんどツアー”開始。
- 10月、渡米してロサンゼルスでアルバム『HAPPY END』をレコーディング。
- 11月25日、大瀧、ソロ・アルバム『大瀧詠一』発売。
- 12月31日、はっぴいえんど、正式解散。
1973年[編集]
- 2月25日、アルバム『HAPPY END』、シングル「さよならアメリカ さよならニッポン / 無風状態」同時発売。
- 5月25日、細野ソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』発売。
- 9月1日、ベスト・アルバム『CITY ⁄ HAPPY END BEST ALBUM』発売。
- 9月21日、はっぴいえんどラスト・ライブ“CITY-Last Time Around”に出演。
- 9月25日、細野ソロ・シングル「恋は桃色 / 福は内鬼は外」発売。
1974年[編集]
- 1月15日、“CITY-Last Time Around”での模様を収録したライブ・アルバム『ライブ!! はっぴいえんど』発売。
- 6月25日、ベスト・アルバム『SINGLES』発売。
1985年[編集]
- 6月15日、“国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW”に出演。
- 9月5日、“ALL TOGETHER NOW”での模様を収録したライブ・アルバム『THE HAPPY END』発売。
2015年[編集]
- 6月24日、松本隆の作詞家活動45周年記念トリビュート・アルバム『風街であひませう』発売。スペシャル・トラックとして松本と細野晴臣、鈴木茂の演奏で再レコーディングされた未発表曲「驟雨の街」を収録[29]。
- 8月21日・22日、東京国際フォーラムで開催された松本隆作詞活動45周年記念コンサート『風街レジェンド2015』に松本の他、細野と鈴木が揃って出演[30]。
ディスコグラフィー[編集]
シングル[編集]
- 12月の雨の日 / はいからはくち(1971年4月1日)- 7":BS-1366 ※両曲ともアルバムとは別ヴァージョン
- 12月の雨の日
- はいからはくち
- 花いちもんめ / 夏なんです(1971年12月10日) 7":BS-1467
- 花いちもんめ
- 夏なんです
- Bellwood ⁄ KING
- さよならアメリカ さよならニッポン / 無風状態(1973年2月25日 - 7":OF-10
- さよならアメリカ さよならニッポン
- 無風状態
- あしたてんきになあれ(1999年11月26日)- CD:TOCT-22045
オリジナル・アルバム[編集]
- URC
- Bellwood ⁄ KING
ベスト・アルバム[編集]
- Bellwood ⁄ KING
- CITY ⁄ HAPPY END BEST ALBUM(1973年9月1日)- LP:OFL-15
- コーラスに小坂忠参加の「はいからはくち」の別ヴァージョン、第3回全日本フォークジャンボリーのライブ音源の「かくれんぼ」を収録。
- SINGLES(1974年6月25日)- LP:OFL-26
- A面に大瀧詠一と細野晴臣それぞれのシングル、B面にはっぴいえんどのシングル曲を集めたベストアルバム。
ライブ・アルバム[編集]
- ライブ!! はっぴいえんど(1974年1月15日)- Bellwood ⁄ KING LP:OFL-20
- THE HAPPY END(LP:1985年9月5日 CT:1985年11月3日)- CBS/SONY LP:18AH-1933, CT:18KH-11755
- 1985年6月15日国立競技場で行われたイベント“ALL TOGETHER NOW”での再結成ライブを収録。LPは45回転盤。初回特典として「THE HAPPY END パンフレット」という24ページの7/12はっぴいえんど宣言や6/15再結成ライブの座談会などが収録されているブックレットがついている。
- はっぴいえんど GREEEATEST LIVE! ON STAGE(1986年7月15日)
- はっぴいえんど LIVE ON STAGE(1989年8月25日)
- CDでのみ発売。「第2回全日本フォークジャンボリー」(1970年8月9日)、「ロック・アウト・ロック・コンサート」(1971年8月21日)、「加橋かつみコンサート」(1971年4月14日)、「第3回全日本フォーク・ジャンボリー」(1971年8月7日)での演奏を収録。
ボックス・セット[編集]
- はっぴいえんど〜HAPPY END(1993年5月25日)
- レコード各社共同企画の“シンガー・ソングライター・ルネッサンス”の一環として発売された4枚組ボックス・セット。ライブも含めたオリジナル・アルバム4作とブックレット付き。その内『風街ろまん』『HAPPY END』の2枚は、吉野金次によるオリジナル・マルチトラック・マザー・テープを使用したリミックス盤で、発売当時、物議を醸した。またこのリミックス盤については、その内の数曲が細野のボックス・セット『HOSONO BOX 1969-2000』に収録されたのみで以後、再発売されていない。
- はっぴいえんどBOX(2004年3月31日)
- オリジナル・アルバム『はっぴいえんど』『風街ろまん』『HAPPY END』、ライブアルバム『ライブ!! はっぴいえんど』『THE HAPPY END』と、はっぴいえんどがバックで演奏を務めた楽曲を集めた『バッキング音源集』、未発表ライブ音源を多数収録した『ライブ・ヒストリーVOL.1』『同VOL.2』がセットになったボックス・セット。
- はっぴいえんどマスターピース(2014年12月26日)
- 岡林信康withはっぴいえんど 7インチBOX(2018年7月25日)
- はっぴいえんどが岡林信康と共にURC時代にリリースしたシングル盤を収納した限定7インチBOXセット。ボーナス・レコードとして、岡林との最後のスタジオ録音となった「私たちの望むものは」を加えた6枚組。
関連作品[編集]
- はっぴいえんど(1983年6月)
- センチメンタル・シティ・ロマンスによるカバー・アルバム[注 4]。
- はっぴいえんどに捧ぐ(1993年9月9日、再発:2004年11月3日、再々発:2010年12月15日)
- HAPPY END PARADE〜tribute to はっぴいえんど〜(2002年5月22日)
- はっぴいえんどかばあぼっくす(2002年5月31日)
- 5枚組CDボックスセット。はっぴいえんどが現役当時に発表した3枚のスタジオアルバムと1枚のライブアルバム全曲を、本ボックス発売元のOZ disc所属アーティストを中心に、様々なアーティストがカバー。さらにボックス・セット収録の未発表曲までカバーされている。ライブ・アルバム「ライブ・はっぴいえんど」のカヴァーについては、1973年9月21日に行われたライブ「CITY - LAST TIME AROUND」を、2002年1月10日に同じ文京シビックホールにて完全再現またはカバーを行っている。ライブ・アルバム未収録の「CITY - LAST TIME AROUND」参加アーティストの曲もカバー。それらは『-はっぴいえんどかばあぼっくす外伝-素晴らしき船出かな』に収録され、ボックスには未収録。また、「レア・トラックス」と題されたボーナスCDには、はっぴいえんどが当時ライブで演奏していた曲のカバーが収録されている。Oz discで予約注文および注文を行うと、はっぴいえんどのシングル3枚をカバーしたアナログシングル盤3枚と、ベスト盤『CITY』のカヴァーを収録したCD-Rが特典として配布された。
- 風街クロニクル 〜another side of happy end〜(2004年11月3日、MHCL-427)
- 解散後に細野・大瀧・鈴木のいずれかが作曲、松本が作詞を手掛けた各メンバーのソロ、他者提供曲、カバーなどを収録した2枚組コンピレーション・アルバム。
- ひっぴいえんど(2009年2月18日、CD+DVD:COZP-354【初回限定盤】, CD:COCP-35382【通常盤】)
- CITY COVER BOOK(2010年12月15日)
- はっぴいえんどのベストアルバム『CITY』を丸ごとカヴァーしたアルバム。
関連項目[編集]
- 小坂忠
- 鈴木慶一
- ティン・パン・アレー (バンド)
- イエロー・マジック・オーケストラ
- ハックルバック
- 日本語ロック論争
- ニュー・ロック (音楽)
- 奥村靫正
- 野上眞宏
- 吉野金次
- 裕木奈江 - アルバム『-Best Selection- ever green』に『はっぴいえんどメドレー』として「夏なんです〜」(作曲:細野晴臣)、「氷雨月のスケッチ〜」(作曲:鈴木茂)、「かくれんぼ」(作曲:大滝詠一)(いずれも作詞:松本隆、編曲:見岳章)が収録されている。
- 1970年の音楽#デビュー - 同じ年にデビューした歌手
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c Jackson, Leon. Happy End | Biography & History - オールミュージック. 2020年12月12日閲覧。
- ^ 『TJ MOOK 聴け! 伝説の日本ロック1969-79』宝島社、2004年、32頁。ISBN 4-7966-3862-8。
- ^ 劇場アニメ『銀河鉄道の夜』(LD解説書の細野の発言)
- ^ a b c 「日本で作詞・作曲家になる方法」『月刊平凡』1980年6月号、平凡出版、 114頁。
- ^ a b c 「保存版 音を2倍楽しむためのニューミュージック百科」『月刊セブンティーン』1979年8月号、集英社、 32-33頁。
- ^ a b c 「'76フォーク&ロック資料館」『月刊明星』、集英社、1976年12月号、 165-167頁。
- ^ 田島悠来 1970年代の『明星』読者ページにおける 読者共同体 ──「ハローキャンパス」の事例分析を中心に── (PDF) . DOORS(同志社大学図書館).41頁.2021年2月28日閲覧。
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- ^ GOOD OLD ROCK AND ROLL キャロルから始まる、不良の、不良による、不良のためのロックンロール 、横浜銀蝿「中森明菜ちゃん、ピンク・レディーさん、三原じゅん子さん…」今だから話せる80年代秘話、あの伝説のバンド”キャロル”トリビュート、リリース決定!藤井フミヤ、【この人の哲学】鎌田俊哉氏 ギターとレコード抱えて家出、第40回【対談⑪ 大友康平 × DJ OSSHY[前編]】、小堺一機のすうぃんぐ人生 – BS朝日MUSIC TALK「作曲屋」目指した、もどかしい青春 クレイジーケンバンド 横山剣(前編)
- ^ 40年前、吉田拓郎と井上陽水に人生を変えられた若者たちの証言、まだCDがなかった頃…日本で初めてミリオンセラーを達成したアルバムが『氷の世界』だ、桑田佳祐と吉田拓郎との隠された過去。今日までそして明日から。、堂本兄弟、2004年2月29日、【氷室京介】『WOWOW presents KYOSUKE HIMURO 25th Anniversary TOUR、 [https)、完全引退へ!小室哲哉が“負けを認めた”アーティストとは、ハードロック! ROLLY(寺西一雄) 山本恭司 Webマガジン 月刊チャージャー(Internet Archive)、真心ブラザーズ4週連続企画 『YOUNGER THAN YESTERDAY』 - 第3週目
- ^ 【昭和ロックを語る時が来た】鮎川誠が明かす博多に現れた内田裕也さんとの秘話
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- ^ 書評・エッセイバックナンバー | 波 -E magazine Nami-|Shincho LIVE
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