つげ義春

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つげ義春
本名 柘植 義春
(つげ よしはる)
生誕 (1937-10-30) 1937年10月30日(79歳)
日本の旗 日本東京府東京市葛飾区
(現:東京都葛飾区)
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
随筆家
活動期間 1955年 -
ジャンル ガロ系
代表作 李さん一家
紅い花
ねじ式
ゲンセンカン主人
無能の人
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つげ 義春(つげ よしはる、戸籍上は1937年10月30日[1][2]あるいは10月31日[3](実際は4月の生まれ[1]) - )は、漫画家随筆家。デビュー当初はつげ・よしはると表記していた[4]。本名の柘植 義春名義による作品もある。またナカグロを入れてつげ・義春と表記されたこともある[5]。『ガロ』を舞台に活躍した寡作な作家として知られる。

テーマを日常やに置き、をテーマにした作品もある。『ガロ』を通じて全共闘世代大学生を始めとする若い読者を獲得。1970年代前半には「ねじ式」「ゲンセンカン主人」などのシュールな作風の作品が高い評価を得て、熱狂的なファンを獲得した。

漫画家つげ忠男は実弟。妻藤原マキは、唐十郎主宰の劇団・状況劇場の元女優。一男あり。身長175センチ[6]あるいは176センチ[7]

生涯[ソースを編集]

『ねじ式』の舞台となった太海浜

出生[ソースを編集]

1937年岐阜県恵那市の豪農一族の生まれで[8][9][10]東京都伊豆大島の旅館に勤める板前の父・一郎と、同じ旅館のお座敷女中の母・ますの次男として、東京市葛飾区立石の中川べりの船宿[8](母の実父の家)で生まれる[11]。戸籍上は10月30日生まれであるが、実際は同年4月生まれ[12]。つげの出生時、父・一郎は伊豆大島におり、臨月の母が兄を連れ福島県石城郡四倉町(現・福島県いわき市四倉町)から大島(大島町元町)へ引越移動中急に産気づいたため、葛飾の実家に緊急迂回しての出産であった。出産時、産婆の来る前に母がつげを生み落としてしまったので、母の実父が泣き声もあげないつげに人工呼吸を施し、しまいには両足を持って振り回したという[13]

伊豆大島、千葉大原時代[ソースを編集]

つげ義春の父・柘植(つげ)一郎は、腕のいい板前職人で、東京都大島町元町の最も大きく格式も高かった千代屋旅館に勤めていた。職位は板長=総料理長。千代屋は当時、皇族や政府要人が来島の際に必ず泊まる御用達旅館でもあった。また、「南風」「大島を望む」「伊豆大島風景」等を描いた画家・和田三造を始め、昭和初期の著名な画家達が定宿にしていたという記録もある。千代屋旅館の記憶について、つげは「縁の下に大きなイタチが住んでいた記憶がある」と後年回想している。つげが4歳頃まで暮らした伊豆大島は、家族が仲睦まじく経済的にも安定した時期であった。

つげが幼少期に過ごし、原風景ともなったいすみ市大原八幡岬。のちに『海辺の叙景』の舞台として描かれた。

つげ義春にとって伊豆大島は、父が板長として元気に仕事をしていた時代であり、波乱の多い生涯において唯一良い思い出の故郷である。1987年3月、雑誌「COMICばく」(日本文芸社)に発表した、密航を題材にした自伝的作品「海へ」において、大島の「三原山」「あんこ娘」「椿」「大島節」等を背景に、板長の父とあんこ娘姿の母の周りに3人の子(兄の政治と義春と弟の忠男、母の初産であった長女の守子は、つげが誕生する前、3歳時にすでに大島で死亡していた)、幸せだったつげ一家の情景が6カットに亘り描かれている。

1941年、5歳、三男・忠男が生まれた年、母の郷里である千葉県大原(現在のいすみ市)の漁村小浜へ転居。父は東京の旅館へ単身、板前として出稼ぎ。母は自宅で夏は氷屋、冬はおでん屋で生計を立てる。経済的には山をもてるほどの余裕があった。大原町では幼稚園に入園したが、集団生活になじめず、3日で退園。すでに臆病で自閉的な性格があらわれていた。この年、父は病に倒れ東大病院へ入院。

八幡岬からの展望。つげがお気に入りで石子順造ほか多くの知人を案内した。

父・柘植一郎は、自分の病気の悪化に伴い、入院先の東大病院から妻・ます宛に手紙を出している。「…自分の病気(アジソン病)はもう治りそうにない。政治や義春や忠男は元気でいるでしょうか、自分にもしものことがあったら、子供たちのことはくれぐれもよろしくお頼み申し上げます」。母が箪笥の奥にしまっていたこの手紙を偶然見つけ、こっそり読んだのは12〜13歳の頃だったと、つげは回想している[14]

1942年、5歳のとき、父・一郎が前述のアジソン病により42歳で死去。死の直前の父は錯乱状態であり、東京の出稼ぎ先の旅館の布団部屋に隔離され、布団の山の間に逃げ込み、そこで座ったまま絶命した[15]。母はつげとつげの兄を引きずるように父の前に立たせ「お前達の父ちゃんだよ、よく見ておくんだよ」と絶叫したという[15]1943年葛飾区立石に転居。母は軍需工場に就職。一家4人で社宅の4畳半で生活する。[11]。あまり外出せず兄・政治と弟を相手に遊ぶ。貧しい母子家庭で苦労して育つ。

小学校時代[ソースを編集]

1944年葛飾区立本田小学校(当時は国民学校)に入学。この頃から、絵を描いて遊ぶようになる[11]。当時は空襲が激しく、ろくに通学もできなかった。学校嫌いであったつげは空襲で休校になるのがうれしく、毎日空襲があればよいと思っていた[15]。この頃、自宅付近の中川べりで不発弾処理を見学中に近くに被弾した爆弾のために土手から転落、軽症を負う。また、近くにあった高射砲B-29を撃墜し真っ二つにする光景を目撃する[15]1945年3月10日東京大空襲の後、空襲を避けて兄・政治に続き新潟県赤倉温泉学童疎開するが、なれない集団生活からかこの頃より赤面恐怖症を発症する[11]。唯一の楽しみはいつでも温泉へ入れることであった。なお、「葛飾区史」よると葛飾区の学童疎開は5214名で東京都の指導による割り当てで深川区とともに新潟県に決定され、滞在先は中城名香村の10軒の旅館だったが、つげが滞在した旅館は板倉屋、清水屋、和泉屋、香雲閣、豆腐屋のいずれかだろうと推測されている[16]。つげの疎開地で終戦を迎え、10月に兄と共に東京に戻り、葛飾区内で転々と間借り生活を送るようになる。母は、海産物の行商、仕立物の仕事で生計を立てる。

立石駅(2005年11月10日撮影)

1946年、9歳のつげは母のモク拾いなどについて回って過ごしていた。この頃母が再婚するが、養父との折合いが悪く、乱暴な義父の仕打ちにおびえる日々が続く。またこの頃より漫画、書物に興味を覚える。4年生の頃に手塚治虫のマンガに熱中しはじめ、新刊が出ると本屋へ走る日々であった。貧しさのため母に買ってもらうことはできず、3ヶ月に一度くらい帰ってくる泥棒の義祖父を待ちわびて買っていたが、その間に本が売切れてしまうのを案じ手持ちのおもちゃをおもちゃ屋に売ってお金を工面した。それでも手に入らないときは万引きをしようと本屋の前をうろうろするほどであった。義祖父には可愛がられ、しばしばマンガ本を買ってもらう。しかしつげの母は子供のころにこの義祖父の養女となったが過酷な仕打ちを受けていたため、その後窃盗で逮捕され1年間の服役のあと帰ってきて泥棒を廃業し無収入になったときには、義祖父を冷たい態度であしらったという。1947年には、立石駅前の闇市で母が居酒屋を経営するが半年ほどで廃業。さらに、妹が生まれるなど生活は困窮。つげ自身はベーゴマに熱中し、横井福次郎沢井一三郎大野きよしのマンガや南洋一郎冒険小説を読む。1948年には葛飾区立石駅近くの廃墟のようなビルに無断入居。総勢8名の大家族であった。母は千葉から海鮮物を仕入れ行商する一方、義祖父が収入を支え、つげも兄と共に闇市セルロイドおもちゃを売る商売を始め、安価であったためよく売れた[11]。また、義父の発案で立石駅でのアイスキャンデー売りなども経験する[11]。こうした生活で1年休学する[11]1949年、6年生で初めて船員になる夢を抱いている親友Oができ、つげ自身も海が好きであったため、船員になるための勉強を一緒にしたりし将来を誓い合ったりした。Oの家に泊まりこみ帰らない日々が続く。Oの家は中華そば屋であったため、毎日ワンタン作りを手伝う。田端義夫美空ひばりターキーの娯楽映画などを好んでみる。また、手塚、東浦美津夫田中正雄のマンガを読む。一方、自閉・赤面癖・対人恐怖症が進行し、小学6年生の時には運動会で多くの観客の前で走るのを恐れ足の裏をカミソリで切る[11]

小学校卒業後[ソースを編集]

海辺の叙景』のラストシーンに描かれた大原海水浴場(当時とは位置が異なっている。)14才の頃のへの憧れは、せつなさを通り越し夢中になるほどであった。

1950年、親友は中学校に進学し、つげは進学せず兄の勤め先のメッキ工場に見習い工として就職することになるが、残業、徹夜、給料遅配が続く。つげは1991年のインタビューで、「人間の屑っていうか吹き溜まりみたいな所で、非常に乱暴な世界でした。クロムっていうのを日常的に使ってるから癌とかで悲惨な死に方している人も随分いましたね」と回想している[17]。また、手に着いたクロムの黄色い染みを落とすため、つげは塩酸硫酸の原液で毎日手を洗っていたという[17]。メッキ工場での経験は1973年に発表された『大場電気鍍金工業所』に実話に近い形で描かれる事になる。

1951年、14才の頃のへの憧れは、せつなさを通り越し夢中になるほどであった。海で暮らすためには船員になるしかないと思いつめ、海員養成講座を通信教育で受けたり、横浜へ出かけ停泊するを見学したりする。転々としたメッキ工場も労働条件が厳しく、母が製縫業をはじめ、つげも手伝うが義父との生活が苦痛であり、また赤面恐怖症などから鬱屈した心情になり密航を企てる。父親が元気で、家族が幸せだった伊豆大島(大島町)に帰りたい望郷の念も日増しに強まった時期であった。ある日、船員になるつもりで横浜に向かい密航を実行するが、船員に見つかり警察署で一晩を明かす。翌1952年にも横浜港からニューヨーク行きの汽船日産汽船日啓丸10000t)に一日分のコッペパンラムネだけを持って潜入。しかし野島崎沖で発覚し、横須賀の田浦海上保安部に連行されるが、船内ではケーキや冷奴(船内には豆腐製造機もあった)の差し入れを受けたり風呂に入れてもらうなどの厚遇を受ける。日産汽船の重役を乗せた海上保安庁巡視艇へ移され、振り返ると日啓丸の甲板には乗務員がずらりと並び手を振っていた。その瞬間、汽笛が大きく鳴らされた。[18]

密航に失敗した後は家にいるのが気まずく、先の親友Oの中華そば屋で出前持ちとして朝9時から夜2時まで働く[11]。時には赤線への出前もあり、赤線の女にからかわれたりする。この頃、同じそば屋に戦争で両親を失くした同い年の美しい少女が働いており、彼女に誘われ休日に一緒に映画館へ行く。映画館の中では、彼女に手を握られたがつげは決まりが悪くずっと俯いていたという[15]。その後、少女は店に来るやくざ者に騙されて堕落してしまう。

漫画家デビュー[ソースを編集]

1953年、再びメッキ工に戻り兄と共にメッキ工場を経営する夢を抱いたが、赤面恐怖症はひどくなり、一人で部屋で空想したり好きな絵を書いていられる職業として漫画家になることを志す[11]。当時、豊島区トキワ荘に住んでいた手塚治虫を訪ね、原稿料の額などを聞き出し、プロになる決意を強める。その後、メッキ工場に勤めながらマンガを描く。1954年10月、雑誌『痛快ブック』(芳文社)の「犯人は誰だ!!」「きそうてんがい」で漫画家デビューを飾る。その後、一コマ、四コマなどの作品が少年誌に採用され始め[19]、母の反対を押し切ってメッキ工を辞める。自身の作品を持って1週間ほど多くの出版社を回り10軒目の若木書房でようやく採用され、1955年5月に『白面夜叉』で若木書房から正式にプロデビュー。18歳であった。

貸本漫画時代[ソースを編集]

当初は一冊分(128ページ)買取3万円で貸本漫画に数多く執筆していた。この頃、永島慎二遠藤政治と親交を持つようになる。新漫画党の集まりにも度々参加するも人見知りが激しく、トキワ荘系の漫画家とは、それほど交流を持つことはなかったが、トキワ荘へ引っ越す前の赤塚不二夫とだけは、赤塚の部屋に出入りして、漫画論を交わしたり泊まったりしていた[20][21]。手塚治虫の影響を強く受けた『生きていた幽霊』(56)やトリック推理ものである『罪と罰』を契機として江戸川乱歩的なデカダンス風の推理ドラマをはじめ、『四つの犯罪』では初めて作者の温泉への憧憬もうかがわれる。探偵もの『七つの墓場』や『うぐいすの鳴く夜』、『おばけ煙突』、『ある一夜』なども描かれた。これらの作品は、ストーリーとしては完成度が高いもので、『ガロ』時代の旅ものを思わせるユーモアの片鱗をも随所にちりばめられていた。しかしながら『不思議な手紙』などの暗いタッチが主流を占め、当時の貸本マンガの主要読者層だった小学校高学年〜中学生からは不評を買うこととなり、出版社からももっと明るい作風を要求された。翌1956年には早くも創作に行き詰まり、岡田晟の手伝いをするようになり、クラシック音楽コーヒーに傾倒するようになる[11]J.S.バッハ以前の音楽を愛好し、特に宗教曲ルネサンス音楽には造詣が深く、現在に至ってもモンテヴェルディドラランドシャルパンティエタヴァーナーなどをよく聴く。この当時は池袋の「小山」、高田馬場の「らんぶる」などの名曲喫茶へしばしば通っていた。一方で、作品に音楽が登場する場面は意外に少なく、その後の作品を含めても「四つの犯罪」、「やなぎや主人」、「散歩の日々」くらいである[22]

漫画家になって以降も赤面恐怖症はさらに悪化。家族とも顔を合わせるのが苦痛で部屋を仕切ったり、押入れにこもりじっとしたりしていた。通信療法も試すが効果はなかった[11]。「女を知れば度胸が出るかもしれない」と考え、自転車で赤線へ赴く。3つ年上の女に親切にされ外へ出ると急に勇気が出たように思え、嬉しさでを流しながら中川の土手を自転車を走らせたが、数日して彼女に会いに行くと別の客が付いており、胸が張り裂けそうな思いをする。その後、赤線へ行くことはなかった。やがて、家を出て高田馬場に下宿する[11]

1957年錦糸町の下宿に転居。女子美大生との交際や喫茶店「ブルボン」への出入りの中で仕事を怠けるようになり困窮。血液銀行へ通っての売血を経験する[11]。こうした中、大阪から上京した劇画家辰巳ヨシヒロと知り合う。1960年、「コケシ」という渾名の女性と知り合い、大塚のアパートで同棲を始める。精力的に作品を書くようになったが、貸本漫画で2人の生計を立てることは難しく、安保闘争も知らぬまま極貧の生活を送る[11]1961年、主に貸本漫画を描いていた三洋社が倒産し、アパートを追い出されて女性とも別離。1962年には元の下宿に戻ったが、作品はなかなか売れず、下宿の支払いを2年分も溜めたため、自ら望んで食事を1回に減らしてもらい、便所を改造した一畳の部屋に移った(「義男の青春」には、この部屋に閉じ込められて8年間にわたり苦悶の日々を送ることとなった、とあるが、随筆と異なり作品である上に年数も合わない)。家主が経営する装飾店に勤めて、フスマ張り替えなどの仕事を手伝う[23]。同年、アパート睡眠薬ブロバリン」を大量に飲み自殺をはかるが、病院に担ぎ込まれ未遂に終わる[24]。家主の勧めで創価学会に入信させられたが、宗教に興味が無く、不真面目な信者であった[11]

1963年、装飾店が倒産し、再び漫画を描くようになったが、娯楽作品を書くことに苦痛を覚えるようになる。貸本漫画業界自体が衰退していくと辰巳ヨシヒロなどの勧めもあって、従来の時代劇や推理物に加えてSFや青春ものなど様々なジャンルに手を染めるようになり、一方、さいとう・たかを佐藤まさあき白土三平などこの頃の人気漫画家の絵柄を真似ることも要求される。仕事仲間であった深井国がしばらく同居する。1964年、のちに『池袋百点会』(1984年)に「ランボウ」として描かれる喫茶店「ブルボン」通いが続く。

『ガロ』時代[ソースを編集]

白土三平に誘われ宿泊し名作『』や『紅い花』を生むきっかけとなった旅館寿恵比楼
ねじ式』に描かれた太海の漁村

1965年、田端で行なわれた貸本漫画家の集まりで白土三平水木しげると知り合う[11]。『ガロ』創刊当初、社長の長井勝一と三洋社時代に一緒に仕事をしたことのある白土がつげ義春の所在を誌上で尋ね、それに応える形でつげはガロに創作の場を得ることになった。1965年、「噂の武士」で『ガロ』8月号に初登場。

10月、白土はつげを千葉県大多喜旅館寿恵比楼に招待し、また赤目プロのアシスタントであった岩崎稔から井伏鱒二を読むよう勧められる[11]。これらの経験からつげは旅に夢中になり、のちの一連の「旅もの」作品として結実させた。やがて、生活のために水木のアシスタントを1年半ほど務め[25]調布に転居。ガロ誌上でつげを名指しで「連絡乞う」[26]と広告を載せる等、水木本人からの強い要請もあったという。なお、つげは当時『ガロ』や青林堂の存在を知らず、尋ね人の広告は石川球太から教えられて知った[27]

娯楽作品意識から脱却した[11]つげは、1966年2月号の「沼」以降、「チーコ」など作家性の強い短編群を続けざまに発表する。しかし当時の「カムイ伝」目当てでガロを買う読者層には主に「暗い」という理由(当時の読者欄より)であまり評価されなかった。特に「沼」は不評で、マンガ家を廃業して凸版印刷の職工になろうと真剣に考えたこともある[28]

だが、一部マニアックな読者からは高い評価を得、1967年3月創刊の日本初の漫画批評誌『漫画主義』(同人:石子順造山根貞男(当時は「菊池浅次郎」名義)、梶井純権藤晋)は、つげ義春の特集を組んだ。1967年には水木プロの仕事量が増え、右手の腱鞘炎を患う。また、この年には井伏文学からの影響で、4月に友人の立石と秩父房総を、8月には伊豆半島に、また秋には単独で東北湯治場蒸ノ湯温泉岩瀬湯本温泉二岐温泉)などを中心とした旅行をする。その際、旅に強烈な印象をもち、また湯治場に急速に魅かれるようになる。このときの旅の印象はこの年後半から翌年にかけての一連の「旅もの」作品として結実する。また、このころ旅関係の書物や柳田國男などを熱読する。この年にはユーモラスな世捨て人的生活の日常スケッチである『李さん一家』(6月)や、少女が大人になる一瞬を巧みな抒情詩に仕立て上げた『紅い花』(10月)、小さな村の騒動記『西部田村事件』(12月)、そして翌1968年には紀行文学のスタイルを借りた『二岐渓谷』(2月)、『長八の宿』(1月)、『オンドル小屋』(4月)などを立て続けに発表する。しかし、旅は必ずしもつげの心を解放するものとは言えず、群馬県湯宿温泉を訪ねた時には打ち捨てられたような旅館に強烈な孤独と世捨て人の境地を味わい、その経験は仙人のような犬と旅人の心境を綴った物語『峠の犬』や雪国の孤独な旅を描いた『ほんやら洞のべんさん』に結実し、1968年の『ねじ式』と『ゲンセンカン主人』に結実する[要出典]

『ねじ式』[ソースを編集]

ねじ式』の舞台となったといわれる太海は、現在「鴨川ビタミンウォーク絵かきの里コース」の〝終点〝に指定され[29]、機関車が住宅の中に現れるシーンの場所にはこのような看板が掲げられる(「つげ義春」がなぜか「つげ義治」と誤植されている。)

ねじ式』は養老渓谷に近い千葉県の太海を旅行した経験が元になっているが、作風は前衛的でシュールである。つげ本人は「ラーメン屋の屋根の上で見た夢。原稿の締め切りが迫りヤケクソになって書いた」と語っている。こうした作風は、漫画評論誌の『漫画主義』で評価されたが、漫画業界からは異端扱いされて屈辱を味わう。1968年6月頃には『もっきり屋の少女』を描き上げ『ガロ』8月号に発表したが、9月には自分の存在意義に理解できず、精神衰弱に苛まれ、2,3度文通を交わしただけの看護師の女性と結婚するつもりで九州への蒸発を決意したが、10日で帰京。翌、1969年には状況劇場の女優藤原マキと知り合う[11]

『ねじ式』の元になった夢で女医が最上階で開業していた三愛ビル。作品に描かれた金太郎飴ビルとはかなり異なる趣。

おりしも、時代は全共闘紛争のちょうど前夜。劇画ブームも手伝い、大学生や社会人も漫画を読むようになった時代であり、そうした世相を反映しアングラ芸術のタッチも取り入れた『ねじ式』は、漫画が初めて表現の領域を超越した作品として絶賛され社会現象となり、後続の作家たちにも絶大な影響を与えることになった。この作品に関しては多くの精神分析的解釈が試みられたが、つげはそのいずれをも「全然当たっていない」と一笑に付している[30]。つげは、『アサヒグラフ』(朝日新聞社 1969年2月14日号“不条理”なマンガ家 つげ義春)で、この作品にコメントし「時間空間と全く関係のない世界―それはの世界じゃないんだけど―それを自分のものにできたらと思っている。『ねじ式』ではそうした恍惚恐怖の世界・異空間の世界がいくらか出ていると思う」と述べている[31]

『ねじ式』に関しては多くの評論家詩人文化人などがそれぞれの立場から多くの批評を試みた。詩人の天沢退二郎は、「徹底したプライベート視線に貫かれた作品空間がつげ作品の特徴だが、『ねじ式』ではその空間がさらに異様なものになっており、作者そのもののような主人公(一人称)は自らを踏み外して異空間へ入っていき、もはや作者とは思えない主人公が悪夢の中にいる。その主人公とは“悪夢の中のわれわれ”なのだ。つげ作品を読むことは、夢を見ることなのだ」と述べ、つげ作品の根源的コワサにふれ絶賛した。石子順造は“存在論的反マンガ”と呼び「自然人間が同じ位相にあり、つげは日常のただなかにある奈落を見ている。つげの漫画は狂猥な現代の文明状況の中で生まれ死ぬしかないぼくらの生の痛みと深くつながっている」とし、つげ作品を読むことは「恍惚とした恐怖の体験をすること」だとした。白土三平作品が”唯物史観漫画として論議されたのに対し、つげ作品は「意識」「存在」「風景」「時間」といった言葉で盛んに論じられた[31]

当時の生活は、「毎日が空白のつらなり」のようなもので、昼頃目覚め洗顔後、散歩に出ては本屋の店先を冷やかし、喫茶店へ足を運び片隅の暗がりでポツンと座りボーッとする。間が持てないと思うと仕方なく漫画のアイデアを考えることもある。2時ころにはを閉め切ったままの一人暮らしの薄暗い部屋に戻り、座ったり寝転んだりを繰り返し、眠気が来るまでボケっとする。不眠症のため午前3時ころに睡眠薬を飲む。食事は散歩のついでに食堂で済ませ、あるいは喫茶店のモーニングサービストーストで我慢し、夜はパンインスタントラーメンを作る。これが毎日繰り返される。当時は「おそらく日本でいちばん寡作でしょう」と自称するほどで生活費確保のため水木プロダクションの手伝いを月に1週間ほどし「適当に食えるだけ取ればやめてしまう」生活ぶりであった。また、当時「意識がを拒否する意識が自分の中にある」とし、このように発言している「ここにコップがありますね。こういうものが時どき“ものがある”というふうに見えるんです。その時の恍惚とした気持ち。そうなんです。自分自身が<<もの>>になれたらといつも思っているんですよ」。またつげが当時よく見た夢に「山と澄み渡った空、鮮やかな天然色の風景が眼前に広がり輝くほどに明るい。しかしその風景は何ひとつ動かず時間が止まったようで、ぼく自身は風景と断絶しており、まるで客席から映画のスクリーンを見るような関係にある。その風景は、ぼくを恍惚とさせ、同時にすごく恐怖させる」とも発言し、睡眠薬を常用するのはその“悪夢”を見るためでもあったという。(『アサヒグラフ』(朝日新聞社 1969年2月14日号)[31]

1970年、調布市内に転居し、藤原と同居するようになる。ガロにおける最後の作品となった『やなぎ屋主人』では、劇画風のタッチを編み出し再度の変化を見せつけたが、予想外に巻き起こったつげブームにより印税収入が入ったせいもあり、1970年頃からだんだん寡作になっていく[11]

『ガロ』以降[ソースを編集]

同じ年に、『アサヒグラフ』の連載で紀行文を描き、夫婦で旅行をした。これをきっかけに、翌1971年には東北・瀬戸内・奈良・長野・会津へ、1972年には北部九州、1973年には長野の秋葉街道、福島の湯岐二岐温泉を巡る旅行を行なう。この頃から、都会を離れて暮らしたいと思うようになり、千葉の大原付近の土地を物色したり、喫茶店経営を考え家賃が大変に安い六畳一間の住居付きの荻窪駅前に転居したりする。しかし開業しないまま2ヶ月で再び調布に転居。1974年には寡作はさらに進行し、生活が困窮。この頃、注文なしに描いた『義男の青春』を双葉社漫画アクション』へ持ち込むが、75ページの一挙掲載は不可能だから3分割するように、ついては1回24ページごとに物語の切りをつける形に直すようにと注文され[32]ショックを受ける[33]1975年には妻が京王閣競輪でアルバイトをするほどになる。10月には雑誌『太陽』の取材で田中小実昌渡辺克己、編集者有川の4名で城崎温泉湯村温泉などを周遊[34][35]11月19日には長男が誕生し、その約1ヵ月後の12月25日に正式に入籍[11]。昔のマンガ家仲間は、つげについて「あんなやさしいひとは見たことがない。つげさんが結婚したとき軽い嫉妬を感じた」と述懐している[36]

しかし、長男の誕生は、つげにとってむしろ精神的不安定をもたらす。1976年1月24日NHKでドラマ『紅い花』の試写会とその後の『ガロ』に掲載するための鈴木志郎康らを交えた座談会に出席するが、その帰路の電車内で初めてパニック障害様の不安発作に襲われる。3日後の27日にはNHKの佐々木昭一郎より原作料を受け取るが12万円であった。うち5万円は佐々木個人からの謝礼で、NHKの原作料は7万円であった。NHKの謝礼は学歴で決まると聞いていたつげは、自分は小学校卒だからこんなに安いのかと暗澹たる気分になる[37]。同年に酒井荘から近くの富士マンションに転居、『近所の景色』に実名で登場する。翌1977年には弟、忠男の住む千葉県流山市江戸川台に近い柏市十余二の借家に転居、さらに1978年に調布市の多摩川住宅へと転居を繰り返す[38]

外のふくらみ』(1979年)の元になる夢は地下道を逃げまどい、最後は先細りの階段で身動きが取れなくなる。

『ねじ式』によって、つげは芸術漫画家という烙印を押しつけられ、それによって発表の場が限られるようになってしまい、だんだん描きたいものが描けないというジレンマに陥るようになった。当時、徐々に進行しつつあったノイローゼの治療の意味もあって、つげは見たをノートに綴っていく『夢日記』に夢中になり、『夢の散歩』(1972年)という見た夢をそのまま漫画化するような実験を試みる。そして、1976年の『夜が掴む』以降、夢日記の漫画化を本格化。夢のシュールで漠然とした風景を描くために、つげはパースをわざと狂わせた絵を意図的に描くようになる。『アルバイト』(1977年)、『コマツ岬の生活』(1978年)、『必殺するめ固め』、『ヨシボーの犯罪』、『外のふくらみ』(1979年)、『雨の中の慾情』(1981年)などが描かれた。この当時より、女性の肉体をリアルに豊満に描く傾向が強まり、作品に独特のエロティシズムをもたらすようになる。かつてのおかっぱの少女は、若夫婦ものの妻に受け継がれるが、すでにかつてのような神秘性は失われている。これはつげ自身の述懐によれば、女性にかつてのような憧憬をもはや抱かなくなったからである。

1977年、妻がガンにかかり、手術を行なう。結果は良好だったが、心身に不調をきたし、ノイローゼが進行し、1980年には不安神経症と診断される。森田療法を受けるが、病気の深刻さに自殺を決意。しかし、妻子がいることを思い耐える[11]

ふたたび脱漫画家[ソースを編集]

漫画を描くことを苦痛に感じて他に職を求め、1981年古物商の免許を取得。「ピント商会」を設立し、古本屋の経営を目指して古本漫画を収集する[11]。また、中古カメラを質屋で安く仕入れて自分で修理し、マニア向けに転売したところ、思わぬ収入になった。成功の秘訣は、相場よりもかなり安く売ったことである。これは闇市でアイスクリームやおもちゃを安く売り成功した体験が元になっており、つげのしたたかな一面をあらわしている。そこで「中古カメラ屋」に転業を試みたが、翌1982年には安い中古カメラが入手できなくなり、この「商売」は断念した[11]。また、『無能の人』に描かれた「売石業」も、実際に試してみたが、うまくいかなかった。作家として1983年3月から「小説現代」に「つげ義春日記」を発表するが、読み物として若干私事を書きすぎたため妻に怒られ、11月で中断。妻との悶着が続いたことで、ノイローゼは悪化の一途を辿ることになる[11]1984年、季刊漫画雑誌『COMICばく』が創刊され、毎号漫画を描くようになったが[39]、「マイナー意識の強い自分」の作品が主体となったことに困惑する。

これら「駄目人間」としての体験を描いた『無能の人』(1985年)を刊行。つげ独自の暗さやユーモアは健在であり人気を博した。この間も仏教書や水泳での治療を試みたノイローゼだったが、発作性から慢性に移行。1987年春先から強度の不安神経症発作に悩むようになり、3月発表の自伝的密航記『海へ』の後、6月・9月に発表した『別離』をラストに、仕事が一切できなくなる。気晴らしに子供と一緒にファミコンで遊ぶようになり、超高難易度で知られた「スーパーマリオブラザーズ2」をクリア[40]したことが桜玉吉らゲーム業界の人間の中で話題となる。1988年には自己否定の深化から1人山奥で住んだり、乞食になることを夢想するようになり、山梨県秋山村を訪れて場所探しをする[11]。同年、実売5千部だった『COMICばく』は第15号をもって休刊し、事実上の休筆状態に追い込まれる。以降、エッセイや旅行記等の文筆活動は継続するものの、漫画制作はずっと休止しており今日まで新作は発表されていない。翌1988年には自己否定はさらに深化、山奥に隠棲することや乞食になることを夢想、宗教に惹かれながらも同時にどうでもよいとする開き直りの心境も経験[34]

休筆から現在[ソースを編集]

つげが母と幼少期を過ごした大原の漁村(大原漁港
  • 1990年代に入ると、精神衰弱に加え急性虫垂炎中心性網膜炎不整脈耳鳴りなどに次々と罹患、特に目は左目は不治、右目は視力が悪化する[11]。多くは精神不安が原因であった。1990年の虫垂炎の手術後には、自分が血管の中を流れていく奇怪な夢を見る。同年には家族で山梨県の田野鉱泉、嵯峨塩鉱泉を訪れるが、このころより山に強く惹かれるようになる[34]
1991年、つげファンである竹中直人による『無能の人』を皮切りに石井輝男により、『ゲンセンカン主人』『ねじ式』と、代表作が続けて映画化がされ、それに併せて『ガロ』などの誌上インタビューやコメントなどを積極的に寄稿した。さらには若い頃や家族との旅行を綴ったエッセイ集『貧困旅行記』を発表したほか、権藤晋との対談集である『つげ義春漫画術』を刊行。自身の原作を用いた映画に家族全員でゲスト出演するなど、公の場での活動も目立っていた。1990年、長男が高校受験を控えていた当時に『無能の人』の映画化の話が持ち上がり、提示された原作料がちょうど私立高校の学費と同じぐらいだったので契約に同意したという[41]。しかし映画化に伴う雑事や『貧困旅行記』、『つげ義春資料集成』、版画などの仕事をこなした上に団地の役員を1年間務め忙殺される[34]
  • 1992年、4月頃より過労から不整脈が始まる。このため10年間続けていた水泳をやめる。精神安定にために1956年頃よりより好きだったクラシック音楽を聴き始める。主にルネサンスバロック期の音楽が主体。デビュー当時の貸本単行本の復刻『つげ義春とぼく』の文庫化、パルコカレンダーなどを手がける。8月からは『つげ義春漫画術』のための対談を権藤晋と半年以上にわたり続ける。11月には『ゲンセンカン主人』(石井輝男)の映画化が始まり、12月に伊豆のロケに同行[34]。同年のインタビューでは、一ヶ月の生活費は17万円と決めていること、無駄な出費はしないよう昔から肝に銘じていること、団地のローンは月に2万円程度なので親子3人どうにか印税収入で暮らしていけていることを語っている[41]。また、子供を見ると不憫でならず自分の子供を溺愛してしまうこと、子供がひどく内向的になったのも甘やかしすぎた自分の責任だと思っていることも語っている[42]
絶筆後の1988年、つげが家族とともに養老渓谷温泉を訪問した際に養老渓谷沿いに見つけ、隠棲を考えた廃屋
  • 1993年、『ゲンセンカン主人』映画化に伴う雑事、映画化記念版『ゲンセンカン主人』、『つげ義春漫画術』に加え『つげ義春全集』(筑摩書房)の刊行により多忙は続く。6月には転居に伴う家探しとトラブルが発生、心身消耗が著しく9月には腎盂炎を発症、1ヶ月間の病臥に付す。12月には引っ越し準備中に腎臓の衰えが原因のぎっくり腰となり再び1ヶ月間寝込む[34]
  • 1994年、調布市内の一軒家に転居、永年の夢であった田舎暮らしを断念。眼病耳鳴り不整脈腰痛に加え、リウマチを発症し、再び休養することを宣言[11]
  • このころ、藤澤清造『根津権現裏』復刻版の装丁を依頼されたが断った[6]
普段はテレビ新聞など一切見ないつげが阪神淡路大震災には衝撃を受ける。
  • 1995年阪神淡路大震災オウム真理教事件が発生、普段はテレビ新聞など一切見ないつげが阪神淡路大震災には関心を持つ。先年から続く妻と息子の関係悪化が心労となる。息子が自動車運転免許を取得、25万円の中古車を購入、息子とともに多摩方面へのドライブをし気を紛らせる[34]
  • 1996年1月、元『ガロ』編集長の長井勝一死去。同時期に母ますが倒れ、長井の葬儀に参列できず心残りとなる。母はその後痴呆症を発症。気性の激しさが一変、のように穏やかになる[34]
  • 1997年、60歳。4月に妻がスキルス性胃癌を発病。東京医科大学病院にて手術するも全身に転移し不治を宣告される。自宅での療養に切り替え、つげが郵送されてきた薬剤を妻に朝夕2回点滴家事買い物に追われるが頼る者もなく孤立無援状態が続く。テレビ東京にて短編作品が12回放送される。石井輝男による『ねじ式』が公開されるが、協力する余裕もなし[34]
  • 1998年、癌の妻が世田谷区池尻の病院へ転院するが、そこは東京医大で見放されたがん患者の溜り場のようなところであった。入退院を繰り返すもに転移、手術する体力もなく抗がん剤の投与を続ける。息子の運転する車に助けられるも、2人きりの看病は厳しく絶望的になる[34]
  • 1999年1月、母ますが死去。2月には妻・藤原マキが癌により死去。2年間の看病の疲れと虚脱感に襲われる。6月には2階の部屋の窓付近に体長60cmほどのが出現、窓の直下はごみ置き場となっており、ネコカラスなどが多く蛇にとっては危険な場所であり、命がけで2階まで上がってきたのは妻のが蛇に憑依したものと直感する[34]
  • 2000年代に入っても作品の映画化は続いたが、つげは、年齢的、身体的な要因からか、沈黙を守る。一定の期間をおいて書籍の再刊、文庫化、全集の刊行などが続き、印税収入によって生活は支えられている。スーパーを順ぐりに自転車で回って、おかずを買う「主夫」生活は変わらず。「一カ月の電話料が100〜200円しかかからない」という。
  • 2000年、妻と2人で分担していた家庭運営を一人でこなさねばならなくなったことや、息子の精神不安定と引きこもりなどがあり、雑用に追われ忙しくなる。長年続けているファンレターへの返信も依然減ることなく、その内容も依頼、要望の類が多く、3日に1通の返信書きに追われ休む間もなくなる[34]青木正美によるインタビューが『日本古書通信』4月号と5月号に掲載される[6]。「私は本来、マンガ家とか画家とか思われたくないんです。好きな画家も、強いて言えばレオナルド・ダビンチ、もしくはそれ以前の名のない絵の職人さんなんかなんです。私もやがては、ホームレスにでもなって消えてしまえたら、それこそ本望なんです」と発言[6]
  • 2001年、体調不良が続き漢方薬に頼る。息子が大手術を要する重症の腸閉塞で1ヶ月間の入院するが原因は不明。転居後に妻の癌をはじめ災いが多いのが何かの祟りではないかと心配になる[34]。まんだらけの企画で水木プロで机を並べた池上遼一と久しぶりに会う[43]
  • 2002年、息子が2度目の腸閉塞で再び1ヶ月間の入院。原因不明で心因性のものではないかとの疑いで心療内科を紹介される。間もなく息子が強迫神経症を発症。息子のために心理学関係の本を読みあさるが、すべての精神疾患の原因は解明されておらず、多くの治療が危険な投薬医療によるごまかし的なものであることを知り失望する[34]。「蒸発旅日記」(エッセイ)が山田勇男監督によって映画化される。夏にクランクインをするが、調布の撮影所へ見学に行く。嶋中書房よりコンビニ版「つげ義春自選集」刊行始まる。心身不調は続く[43]
  • 2003年にマキの作品『私の絵日記』が文庫化された際に、巻末にロング・インタビュー「妻、藤原マキのこと」が収録され、夫婦の間の葛藤などを赤裸々に語る。アメリカのコミック研究誌「Comics Journal」上に『ねじ式』英訳版が登場。英訳版は『紅い花』(1984年)、『大場電気鍍金所』(1990年)(ともに「Raw」に掲載)に続き3度目。7月には山田勇男監督「蒸発旅日記」が公開される[43]毎日新聞のインタビューにこたえ、電話をひいていないこと、長男つげ正助が病み、社会に出て働くことができないため身の回りの面倒をみていることなどを語る[44]。『つげ義春の温泉』(カタログハウス)発売。講談社からは『つげ義春初期短編集』、『つげ義春初期傑作長編集』計8冊発売。「老後のために過去にこだわらず駄作ばかりを放出」(つげ自身の言葉)する[45]。近所の老乞食と親しくなり、一切の関係を断ち切った乞食こそ最高の生き方と感得する[34]
  • 2004年、『無能の人』がフランスにて発売。日本在住のフレデリック・ボワレに懇願されたものだったが、つげ自身は海外に紹介されることに興味が全くなし。『リアリズムの宿』が、山下敦弘監督により映画化される。親友でつげ漫画の名脇役としてもたびたび登場したT君こと立石慎太郎が死去。寂しさが身に滲みる。ソニーから携帯電話での漫画配信を依頼されるがほとんど収入になるものではなかった[34]
  • 2005年、海外よりの出版依頼が急増するが、交渉や手続きの煩わしさのためすべて断る。息子の体調や家事の忙しさで心身とも疲弊、すべての意欲を喪失[34]
  • 2006年虫歯ではない原因不明の歯痛が続く。9月頃より北冬書房ウェブサイトで古い旅の写真の掲載が始まる。漫画を描く際の資料として撮りだめていたもので、視力と気力の衰えから今後漫画を書くこともないとの判断から放出する[34]
  • 2007年、70歳。夏に熱中症に罹る。体力・気力ともに益々衰え、人に会うのが億劫となり息子同様の引きこもり状態となる。「老いて出しゃばるより隠居すること」が奥ゆかしく感じられる[34]
  • 2009年2010年頃に、水木しげるに最後に会う。場所は地元の神社で、水木がいきなり「つまらんでしょ?」というので、つげも「つまらんです」と答えた。すると「やっぱり!」といわれる。あれだけの成功を収めても人生に思い残すことや物足りなさがあるのだと感じ、つげにとって印象に残る会話となる[46]
  • 2013年 - 12月25日発売の『芸術新潮』2014年1月号(新潮社)紙上にて「大特集 デビュー60周年 つげ義春 マンガ表現の開拓者」が特集され、明治学院大学教授でもある山下裕二を聞き手とした4時間に及んだロングインタビューの内容が掲載された。創刊から60余年の『芸術新潮』がマンガ家を特集するのは、手塚治虫水木しげる大友克洋に続き4人目[47] [48]。このインタビューでも「息子が引きこもりでその世話と家事に追われている」と発言している[49]
  • 2014年 - 『東京人』7月号で川本三郎のインタビューに応じる。この時、障害者年金を受給中の統合失調症の息子の世話に追われていること、息子は父つげ義春の作品を理解できず『ドラえもん』や松本零士の作品などを読んでいることを明らかにしている。食事は1日2回だが、料理の本を何冊か買い込み、和食を中心に献立は野菜を多く摂取し、おかずも3-4品付ける。家事のほか息子の通院や障害年金の手続きで市役所へ行くなど忙しく、自分の時間がとれるのは1日2時間ほどで散歩する余裕もなく仕事はできない状態である。テレビは地デジ対応をしなかったので見ていない。DVDは操作が覚えられずに、最後に息子と観た映画はタル・ベーラ監督の『ニーチェの馬』(2011年)で息子ともども感動する。息子の状態については、20年間他人と関係を持たず友人もなく、会話はよくするものの通じず、現実社会を理解できないため幼稚で現実離れしており、別世界に住んでいるような状態である。しかし、もし息子が健常であればとっくに家を出て、自分は一人で暮らしていかなければならないので、今、息子は自分に親孝行をしていると感じており、高橋和巳著『子は親を救うために「心の病」になる』という本は読んではいないが、読まなくても内容が分かる気がしているそうだ[50]
  • 2015年 - 2月、『水木しげる漫画大全集』第58巻「テレビくん他」に「大人物」と題する解説文を寄稿。その一節に「私は二十数年前に休筆し、そのまま引退してしまった」と記す。6月、『日本美術全集』(小学館)第19巻「拡張する戦後美術」に「ねじ式」の原画が収録される[51]。同全集の刊行を記念する対談での山下裕二の発言によると、つげ義春の現在の収入は年間100万円程度であるという。対談相手の辻惟雄は「文化功労者にして年金をあげるべき」と提案している。

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家族とともに宿泊した養老渓谷温泉「川の家」
1967年には東北大旅行を決行。蒸の湯での体験は名作「オンドル小屋」に結実する。
1969年1月、『アサヒグラフ』の取材で訪問した法師温泉
1969年5月には黒湯温泉を訪問。
千葉県鴨川市太海浜 - 1969年1月、謎の虫に足を刺され、医者を求めさ迷い歩く体験をする。『ねじ式』執筆の翌年であった。
大原へは不動産物色の目的で家族で何度も訪れている。

つげは井伏鱒二の影響もあって国内旅行を好み、を題材とした作品を多く描いている。『初茸がり』を始め『海辺の叙景』、『紅い花』、『西部田村事件』、『二岐渓谷』、『オンドル小屋』、『ほんやら洞のべんさん』、『もっきりやの少女』、『庶民御宿』、『会津の釣り宿』など多くの作品は実際の旅の体験と印象から生まれたものである。

つげが旅を始めたきっかけは、水木しげるのもとでアシスタントを始めた翌年の1965年(昭和40年)頃からで、仕事のし過ぎから腱鞘炎を患い仕事を半年ほど休み暇になったために、友人の立石慎太郎と旅行をし始めた。ただ、無職で収入がないことから立石の車での野宿をしながらの旅であった。当初は立石のオートバイ奥多摩千葉周辺が多く、立石が5万円で中古自動車を買って以降は下仁田鬼石の奥の渓谷、秩父万場方面へ行く。当時は旅行関係の書物も多くはなく、車であったため特に目的地を定めず出かけた。立石は特に旅行好きではなかったが、暇人であったためつげが誘えば車で同行し、親知らずから能登半島一周、さらに飛騨白川郷から高山乗鞍を越えて白骨温泉を通り松本経由で甲州街道で帰るような旅行をしたこともある。途中で喧嘩になったが、その後、立石が旅行に誘う際には「また暗い気持ちになりましょう」と名文句を残した。当時は2人とも独身であり、『北越雪譜』の秋山郷へ行ったり、屋敷温泉にも投宿した。しかし目的地には、いわゆる観光地は含まれず、例えば能登でも輪島朝市などは素通りしている。景勝地を外すのは通俗的だという理由からではなく、初めから興味がないためである。また当初は『文化地理体系』を読み、そこに描かれる生活に関心を持つことが多かった。のちに、つげの旅の気持ちに近いものとして添田知道の『利根川随行』を挙げている。1980年代半ばには、大正昭和初期の文学作品を多く読み、その影響から当時の雰囲気に逆行するような志向の懐古趣味的な旅、それはしかし現実ではありえないために、の中で時間を逆行させるような旅を志向している。また、その頃には奥多摩の小河内よりさらに奥の丹波などのいくつかの集落に関心を持ち、その理由としては「暗い暗い山奥へ入っていきたい」心境であることを挙げ、山奥の粗末な生活や貧しい暮らしに惹かれる心境を語っている。また、山の生活にあこがれを持つと同時に、現代が何も進歩しておらず、ますます不自由になっており、金銭的価値を否定し、「都会の生活はで生きている。価値のひとつもないところで生きているというのは、嘘で固まっているということだ。生命体としての人間にとっては山の生活が一番ふさわしいんじゃないか」と発言している[52]

川本三郎は自著の中で「つげ義春には旅の漫画が実に多い」と述べている[53]。旅そのものを描いた作品でなくても,つげの作品には旅の雰囲気が濃厚なものや旅人の心理が反映されたものがある。鄙びた山村、漁村湯治場宿場町、歴史ある古い町などを好むが、これはつげが内包する隠棲への断ちが思いと無関係ではない。海外へは赴いていないが、国内でも北海道和歌山県島根県山口県宮崎県鹿児島県沖縄県は訪問していない。北海道を訪問していない理由としては『ガロ』1993年8月号収録の『つげ義春旅を語る』に、「北海道はやっぱり歴史が浅いっていうイメージがあってね。あと何となく遠いっていう感じがするんですよね。」と述べているほか2014年の『東京人』7月号誌上で川本三郎とのインタビューに答え「お寺などは別にして、瓦屋根の普通の民家がない」ことなどを挙げている。また九州へは熊本まで行っているが鹿児島は訪れていない。熊本へ行ったのは1968年蒸発するつもりで博多在住のファンの看護士を頼って行ったものである。この際には相手の仕事の都合で翌週まで会えず、杖立温泉湯平温泉あたりをさまよっていた。このとき、目的もなくさまよっている状態に、社会との関連性を喪失し、どこにいようが自分の存在の実感が消滅し、蒸発したようにこの世にいながらいない状態を実感。後年、こうした経験から乞食に関心を持つに至る[54]。寒さは苦手らしく「日本列島が沖縄のあたりに位置していたらよかったと、よく思いますよ」と答えた「ひだまりインタヴュウ」(『点燈舎通信3』)[55]

旅の履歴(1990年まで)[ソースを編集]

「来てよかった。いままでで最高の所だ。」(『颯爽旅日記』)と絶賛した岩瀬湯本温泉[56]
  • 1955年 手伝いをしていた岡田晟に伴い湯河原温泉へ。旅館の女中と親密な仲になる[57]
  • 1958年 当時恋愛関係にあった女子大生のS、その友人ら4-5人で甲府昇仙峡へ。26年後の作品、池袋百点会(1984年12月)のラストシーンに描かれる。
  • 1965年 白土三平の招待で千葉県大多喜の旅館寿恵比楼に滞在。『不思議な絵』を描き上げる[30]
  • 1967年 井伏鱒二の影響で旅に没頭、唯一の友人立石と能登飛騨秩父伊豆千葉などを旅行。秋には一人で東北へ1週間の長期旅行(10月26〜11月2日)。古い本で東北地方の湯治場の写真を見て、あまりに惨めで貧しい雰囲気に強い衝撃と胸騒ぎを覚えたため[58]八幡平の温泉、蒸の湯後生掛温泉角館小安温泉多郎兵衛泊、サービスが悪くチップを出す気にもなれず早々に寝る)、会津から湯野上温泉塔泉閣泊、期待外れだった)、塔のへつり岩瀬湯本温泉二岐温泉などを訪問。特に岩瀬湯元温泉を最高と評価。旅に強い印象を抱くとともに湯治場の雰囲気に魅了される[59]。初めての一人旅であった。この旅の強い印象から『二岐渓谷』、『オンドル小屋』、『もっきり屋の少女』の3作が生まれる。旅に関連した書物や柳田國男宮本常一などを愛読する。
  • 1968年 2月群馬県湯宿温泉新潟十日町から飯山線を経て長野県麻績宿へ旅行。6月には外房の大原に1泊。7月、立石慎太郎と秋山郷屋敷温泉松之山温泉草津温泉花敷温泉尻焼温泉へ旅行[30]。9月、九州方面へ蒸発旅行。自分の存在の実感が消滅し、蒸発したようにこの世にいながらいない状態を実感。
  • 1969年1月、『アサヒグラフ』の取材で大崎紀夫北井一夫湯宿温泉法師温泉へ旅行。2月に藤原マキと知り合う。5月、五能線の八森、鰺ヶ沢黒湯孫六温泉などへ旅行。また水木しげると長野県の明治湯へも旅行[30]。6月 千葉県房総半島太海鴨川、大原へ。太海で謎の虫に足を刺され、医者を求めさ迷い歩く体験をする。『ねじ式』執筆の翌年であった。8月には、藤原マキ夏油温泉から定義温泉北温泉へ。定義温泉は精神科の紹介がないと宿泊できない施設で、門前のそば屋の計らいで「頭が重いのでわざわざ訪ねてきた」ことにして宿泊。押入れを開けて布団を取り出して寝ていると女将さんに激しく怒られ、このエピソードを後に『枯野の宿』にて使用する[60]。この数日後、『アサヒグラフ』の取材で再度、夏油温泉、蒸けの湯、今神温泉へ。暮れには1年半ぶりに作品を描く。
  • 1971年 暇をもてあまし、東北瀬戸内海奈良長野会津などを歴訪。
  • 1972年9月 漫画家としての将来に不安を抱き家賃の心配のない持ち家を物色するために、母の郷里である外房の大原へ妻とともに赴き、国民宿舎大原荘に一泊。しかし不動産屋が見つからず小浜という漁村を歩き、幼少期に住んでいた家を妻に見せ父の墓へ参る。その後八幡岬に登り、水平線を一望、潮風に当たり帰港する漁船を見ているうちに目頭を熱くし、何とかこの地に住みたいと願う。翌日は鴨川から、内房の金谷、上総湊の2つの物件を見る[34]
  • 1972年11月 不動産物件探しのため、再び大原へ。いくつかの物件を見て回り、小浜のの漁村内の古家付き30坪130万円の物件が気に入り、買う気持ちに傾く。幼少期に住んだ家の裏のつげの遠縁が経営する「横山」という民宿に泊まる。そこで母が地元で評判が良くなかったことを聞かされる。5、6歳ころによく遊んだ「松ちゃん」というその家の息子が部屋に現れるが会話は弾まなかった[34]
  • 1975年 友人の立石慎太郎と立石の車で関東平野を旅する。調布から川越桶川へ至り深沢七郎味噌を食べるため立ち寄るが、雨戸が閉まり呼び鈴を押すが反応がなかった。つげが立ち寄りたいと考えていた羽生館林を通過し、足利でそばを食べ佐野へ。宿を探し葛生から栃木へ。川に面した商人宿の「手束旅館」[1]に泊まる。翌朝宿近くの骨董店で欠けた皿やガラス瓶を8000円購入し後悔する。小山、下館、笠間を通り土浦江戸崎布佐のコースを希望するも渋滞のために運転手の立石に否定される。立石はつげの弟のつげ忠男の勤める金物屋へ行きたいというが、今度はつげが否定したため気まずいムードとなる。京葉道路を通り午後8時ころ帰宅。立石はつげに向かって「また、つげさんのふくれっ面を見に来ますよ」と捨て台詞を残し立ち去る[34]
10月には雑誌『太陽』の取材で田中小実昌渡辺克己、編集者有川の4名で城崎温泉湯村温泉などを旅行。ヌード小屋、ぼったくりバーなどで豪遊。田中小実昌の破天荒な遊びっぷりに仰天する。編集者の有川に有名な写真家Sなら100万円くらいかかると聞かされる。余部鉄橋日和山公園海女の実演などを見物[34][35]

その他[ソースを編集]

発言[ソースを編集]

  • 愛煙家だが、「ぼくの煙草は健康のためです。血管が膨張する病気なので、煙草で少し収縮させた方がいいのです」と述べている。[48]
  • 「マンガは芸術ではないと思っている。しかし、どんな芸術も最終的には意味を排除することが目的だと思う。だから意味のない夢を素材にした一連の夢ものを描いたり、夢日記を付けたりした」と述べている[48]
  • 選挙では「毎回入れるとこ(=投票政党)変わる」と言いつつ、『つげ義春日記』の1976年の項では自分は貧乏なので日本共産党に入れたと述べており、2013年の参院選でも「はい、やっぱり共産党に入れましたよ」「保守系に対抗できるのは他にないですから。でも政治思想にはまったく関心ないですね」と語っている[48]
  • 統合失調症を患っている息子がもし健常であれば、とっくに結婚をし家を出、私は一人になってしまう。そうなると、一人では生きていけない。息子は、いま親孝行をしていると思っている。息子が理解できなくなり衝突した時には、買い物で家を出た後帰りたくなくなる。その時には一人で喫茶店へ行くが、ものすごく孤独になる。意識的に隠遁する孤独とは異なり、日常では一人では生きられない[54]

原画[ソースを編集]

「ガロ」以降の作品は、すべてつげ義春自身で保管しているが、『必殺するめ固め』(1979年)だけは川崎市民ミュージアムが購入した。この作品は完成作ではなかったため、下書きや書き損じを雑誌などにはさんで古紙回収に出したものを抜いた者がいて、売りに出されたものを川崎市民ミュージアムが買ったらしい[61]

精神科医、心理学者の見方[ソースを編集]

福島章[ソースを編集]

精神科医で専門は犯罪精神医学の福島章は、つげ作品の時期を5期に分類した[62]

第1期

習作期 - 模倣時代。白土三平手塚治虫などに影響された描法で、彼らを真似ることでつげは漫画家に「なった」。

第2期

初期 - 貸本漫画時代。先人の影響を残しながらも、ストーリー展開や構成にいくらかユニークなものが現れる。しかし、このころまでの作品だけであったなら、読み捨てられ凡百の作家で終わっていた。

第3期

中期 - 貸本漫画時代。『沼』に始まる、つげ独自の世界を構築する時代。この時期の作品が全共闘世代とつげを結び付けた。

第4期

絶頂期 - 『ねじ式』、『ゲンセンカン主人』を頂点とする、きわめて短い、しかし衝撃的な作品を発表した時期。

第5期

弛緩期 - 自己模倣期。自作の傑作の森の贋金作りをしていた。ムンクが『叫び』その他の傑作を、さまざまな形で模倣したがごとく。屈折したアイロニーという魅力があるとはいえ、緊張した迫力は喪失している。自己模倣とは『ゲンセンカン主人』に対する『やなぎ屋主人』、『山椒魚』に対する『蟹』など。

第6期

虚脱期 - 「旅日記」ものや「夢日記」ものなどを主に『夜が掴む』、『退屈な部屋』、『必殺するめ固め』以降の作品で、構成力の低下が著しい。

河合隼雄[ソースを編集]

ユング派河合隼雄は、つげの性格を「内向 - 感覚型」ととらえ、つげが同時代に与えた衝撃を、現代社会の持つ外向的思考、外向的感覚に対するアンチテーゼの提起によると考えた。『沼』を分析することによって、内向 - 感覚型人間の持つ「溶解体験」、「自我同一性の崩壊の危険」を指摘。作中の主人公の青年の沼への発砲を、距離を取り戻すための「儀式」と解釈した[63][64]

主な作品[ソースを編集]

母の郷里でつげ自身も幼児期に住んでいた大原漁港八幡岬周辺

漫画[ソースを編集]

発表順[22]

1954年(昭和29年)

1955年(昭和30年)

1956年(昭和31年)

1957年(昭和32年)

1958年(昭和33年)

おばけ煙突(1958年11月)のモデルとなった千住火力発電所

1959年(昭和34年)

1960年(昭和35年)

1961年(昭和36年)

1963年(昭和38年)

1964年(昭和39年)

1965年(昭和40年)

(1966年2月)のイメージのもとになった夷隅川の淀み。向かって左手に白土三平と滞在した寿恵比楼旅館が建つ。『沼』に登場する少女のモデルとなったのがこの旅館の当時17~18歳の娘であった。

1966年(昭和41年)

1967年(昭和42年)

海辺の叙景(1967年9月)に描かれた房総半島の大原海水浴場。つげは家族で何度もここを訪れている。
「ねじ式」で蒸気機関車が到着する場面に描かれた千葉県太海漁港近くの民家
ねじ式」の舞台となった太海漁港仁右衛門島より)

1968年(昭和43年)

1970年(昭和45年)

1972年(昭和47年)

1973年(昭和48年)

『リアリズムの宿』の舞台となった鰺ヶ沢の町 1980年撮影
「鰺ヶ沢は漁港の町で床屋がやたら多い・・・」(『リアリズムの宿』より)1980年撮影

1974年(昭和49年)

1975年(昭和50年)

1976年(昭和51年)

1977年(昭和52年)

1978年(昭和53年)

1979年(昭和54年)

1980年(昭和55年)

1981年(昭和56年)

1984年(昭和59年)

1985年(昭和60年)

1986年(昭和61年)

1987年(昭和62年)

随筆[ソースを編集]

映像化作品[ソースを編集]

ゲーム[ソースを編集]

詳細はねじ式 (ゲーム)参照のこと。

装画[ソースを編集]

関連書籍[ソースを編集]

高野慎三は著書の中で『猫町紀行』の宿場町が、野田尻宿であったことを看破する。
(上巻)ISBN 4948735183、ISBN 978-4948735187、(下巻)ISBN 4-948-73519-1、ISBN 978-4-948-73519-4

関連人物[ソースを編集]

  • 権藤晋(高野慎三)
  • 水木しげる
  • 夜久弘
  • 岡田晟
  • 竹中直人
  • 石井輝男
  • 佐野史郎
  • 岡田奈々
  • 杉作J太郎
  • 畑中純
  • 石子順造
  • 山下裕二 - 2014年1月号『芸術新潮』誌上にてつげとの4時間ロングインタビューのインタビュアーをつとめる。
  • 井上井月 - 『無能の人』の最終話である第6話「蒸発」に登場。その生き方に共鳴していた。
  • 日野日出志 - 1966年の「チーコ」に大きな衝撃を受け、「つげ義春のようなマンガを描きたい」という思いでマンガを描きつづけたという[67]
  • はるき悦巳 - 「つげ義春がめっちゃ好きやね。今はそう読めなくなったけど、もう、漫画描くのいやになるくらい好きやからね」[68]、「同じ雑誌に載るというだけで、何もつげ義春と机を並べて仕事する訳でもないのだが、「あのつげ義春と共演できる!!」と思うとボーっとなって自分を見失ってしまうのだ」[69]と発言している。
  • 蛭子能収 - 「それまでの旅物とか温泉物は、それ程好きっていう訳ではなくて、『ねじ式』を読んで一変しましたねえ」[70]、「映画の世界では、芸術映画ってたくさんありましたけど、漫画の世界では、そんなことありえないって思ってたんですよ。漫画は、普通のストーリーで進んでいくものだって。でも、つげ義春さんの『ねじ式』っていうのを読んで、ビックリしたんですよ。漫画でもこんな芸術っぽいものが出来るんだ、受け入れられるんだって。強い影響を受けましたね」[71]と発言している。
  • 雁屋哲 - 「つげ義春を一言で表現したいと思ったら「天才」という言葉以外は思い浮かばない」、「つげ義春の作品を、日本人全員は読め、と私は言いたい」と絶賛している[72]
  • 佐藤秀峰 - 高校生の時に初めてつげ義春の作品を読み、最初は意味がわからなかったが、やがて絵の魅力に取り憑かれ、「僕は原稿中のベタの面積が比較的大きい(画面が黒っぽい)漫画家なのですが、これは間違いなくつげさんの影響です。それまで、漫画は線画が基本であると思っていた僕にとって、線じゃなく白と黒という色で表現する漫画があることに驚き、強烈にカッコイイと思いました。絵を眺めるだけでも飽きず、繰り返し読みました。もちろん(?)模写もしまくりましたよ」[73]と発言している。
  • 弘兼憲史 - 影響を受けた漫画家の名に手塚治虫、上村一夫、つげ義春、永島慎二を挙げ、「最初は手塚さんで、それから永島さんの『漫画家残酷物語』で、大学時代はつげさんの『ねじ式』、あと上村さんの『怨獄紅』や『密猟記』『同棲時代』あたりをずっと読んでいました」[74]と発言している。
  • 川上弘美 - 好きな漫画家の名を挙げて「白土三平,手塚治虫に始まり,萩尾望都,大島弓子,山岸凉子,つげ義春につげ忠男,いがらしみきおに諸星大二郎,しりあがり寿」[75]と発言している。
  • 小西康陽 - 「小学校高学年の時に,なんか家庭教師の人が,早稲田の学生さんの人が来てて,その人がいろんないっぱい新しいマンガとか教えてくれて,「ガロ」とか読んでた.つげ義春とか佐々木マキとか好きになって」[76]と発言している。
  • 松本隆 - 1970年はっぴいえんど時代のことを回想し、「ちょうど、つげ義春とか永島慎二とかはやってるころで、しきりに漫画っていうのがすごい先端を行ってるような気がしてたのね。音楽がすごく遅れてるんだってイメージがあって。いまだにコピーばっかりしてるじゃないか、と。英語でやってる限り、人のマネするしかないじゃないか、みたいなことからね」、「だから、ぼくが考えていたのは、とりあえず漫画という表現手段を通じてやってるぐらいのことを、ロックを使ってできないかなってこと。それがひとつの基本テーマだった」と発言している[77]
  • 植芝理一 - 『ねじ式』に影響を受けた独自の作風を持つ。
  • 花輪和一 - 『ねじ式』を読み衝撃を受け漫画家を志す。
  • いしいひさいち - 朝日新聞連載の『ののちゃん2003年7月26日付で「海辺の叙景」の一コマを引用している。
  • 江口寿史 - 好きな漫画家の筆頭につげ義春を挙げ[78]、「ねじ式」のパロディ作品「わたせの国のねじ式」を発表している。
  • よしながふみ - 「わたしは、つげ義春さんのマンガが好きで」と表明[79]。「つげさんのマンガの中で、売ろうとしていた石が全然売れなくて、奥さんがばーんてその石を投げて、もう、こんなのやだーっ、あんたにはマンガしかないのよって言って、後ろに喘息の子どもがうぇーって泣いてて、最後にお寺の鐘がゴーン。あれ、元気出るんです、すっごい。もう何度読んでも、このゴーンてとこで元気が出ます」と発言している[79]
  • 久住昌之 - 高校時代『つげ義春作品集』をきっかけにつげファンとなり、特に『つげ義春とぼく』を「奇跡の一冊」と絶賛している[80]
  • 逆柱いみり - 『ねじ式』を読み漫画家を志す。
  • 鴨川つばめ - 『マカロニほうれん荘』の中で「ねじ式」「李さん一家」をパロディ化している。
  • 鳥山明 - 『Dr.スランプ』に「ねじ式」の機関士に由来する「ねじしきクン」を登場させた。
  • 秋本治 - 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に「ねじ式」の少年を登場させた。

関連項目[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

  1. ^ a b 『つげ義春漫画術』下巻、406頁。
  2. ^ 『文藝年鑑』1984年版、82頁。
  3. ^ 『現代日本人名録』1987年版、1348頁。
  4. ^ 『痛快ブック』1955年4月号
  5. ^ 『奴隷侍』(東京トップ社)
  6. ^ a b c d 『日本古書通信』2000年5月号、青木正美「つげ義春さんと会う(下)」p.30。
  7. ^ 『つげ義春日記』p.136
  8. ^ a b 佐野眞一『人を覗にいく』p.14
  9. ^ つげ義春『流刑人別帳』(パロマ舎、1985年)
  10. ^ 権藤晋『つげ義春漫画術』上巻、p.281。
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 「つげ義春自分史」『つげ義春全集・別巻 苦節十年記/旅籠の思い出』筑摩書房 1994年 ISBN 4-480-70169-9
  12. ^ 権藤晋『つげ義春漫画術』下巻、p.406。
  13. ^ 新版「つげ義春とぼく」188頁(1992年平成4年、6月25日 新潮社発行 ISBN 4-10-132811-0
  14. ^ 「新版 つげ義春とぼく」内、エッセイ「断片的回想記」(148P)
  15. ^ a b c d e つげ義春とぼく」(1977年6月 晶文社
  16. ^ つげ義春漫画術(上巻)」(1995年10月 ワイズ出版
  17. ^ a b 月刊漫画ガロ』(青林堂)1991年7月号「つげ義春特集」p180。
  18. ^ 『ガロ臨時増刊号・つげ義春特集』 青林堂 1968年
  19. ^ 本間正幸『少年画報大全 20世紀冒険活劇の少年世界』少年画報社、2001年、p.51
  20. ^ 石森章太郎『章説トキワ荘・春』風塵社、1996年、p.36
  21. ^ 武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ』文藝春秋、2005年、p.89
  22. ^ a b c d 『月刊漫画ガロ』(青林堂)1993年8月号「つげ義春する!」
  23. ^ 桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった』上巻p.146(東考社1985年
  24. ^ つげ義春「自殺未遂」『夜行』No.10 北冬書房 1981年
  25. ^ 水木しげる『妖怪になりたい』河出文庫、2003年、pp.40、76-77
  26. ^ 『月刊漫画ガロ』(青林堂)1965年4月号、168頁柱に「つげ義晴〔ママ〕・九鬼まこと、両君至急当社に連絡乞う」とある。
  27. ^ 権藤晋『つげ義春漫画術』上巻、p.258。
  28. ^ 佐野眞一『人を覗にいく』p.19
  29. ^ 鴨川ビタミンウォーク ガイドブック「絵かきの里コース」
  30. ^ a b c d e f g つげ義春漫画術』(上・下)(つげ義春、権藤晋著 1993年ワイズ出版)ISBN 4-948-73519-1
  31. ^ a b c アサヒグラフ』(朝日新聞社 1969年2月14日号“不条理”なマンガ家 つげ義春)
  32. ^ 権藤晋『つげ義春漫画術』下巻、p.221。
  33. ^ 『無能の人』あとがき(日本文芸社
  34. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w つげ義春『苦節10年記、旅籠の思い出』(ちくま文庫)
  35. ^ a b 『太陽』1976年1月号「日本温泉旅行」(平凡社、1975年)
  36. ^ 佐野眞一『人を覗にいく』p.12
  37. ^ つげ義春日記』(1983年 講談社
  38. ^ つげ義春を散歩する(調布編) 公式サイト
  39. ^ 夜久弘『「COMICばく」とつげ義春 もうひとつのマンガ史』福武書店、1989年、p.11
  40. ^ 『つげ義春全集』(最終巻、自筆年譜から)
  41. ^ a b 佐野眞一『人を覗にいく』p.11
  42. ^ 佐野眞一『人を覗にいく』p.21
  43. ^ a b c 『つげ義春初期傑作短編集1』雑誌編 上(講談社)2008年10月10日発刊
  44. ^ 「このごろおもうこと」(毎日新聞)2003年12月11日夕刊
  45. ^ 講談社コミックプラス
  46. ^ 朝日DIGITAL 向井理さん、つげ義春さん…悼む声続々 水木さん死去 2015年11月30日21時06分
  47. ^ 2013年12月28日 16:00 (ロケットニュース24)「【必見】アートマガジン『芸術新潮』最新号は「つげ義春特集」だ! 4時間ロングインタビューがスゴイ!!」
  48. ^ a b c d 『芸術新潮』(新潮社)2014年1月号
  49. ^ 『芸術新潮』2014年1月号、p.71-72。
  50. ^ 『東京人』2014年7月号 P30
  51. ^ 『芸術新潮』つげ義春特集刊行記念講座 なぜ、いま「つげ義春」なのか―マンガと美術の危うい関係
  52. ^ 『夜行』14(北冬書房1985年7月7日)
  53. ^ 川本三郎「第四章 つげ義春とその周辺」(『時には漫画の話を』小学館 2012年
  54. ^ a b 東京人』(都市出版)2014年7月号
  55. ^ 「つげ義春を旅マップする」【未訪問県】(高田馬場旅行主義社)
  56. ^ つげ義春に会いに行く「猪苗代の南天栄村の西【前篇】岩瀬湯本
  57. ^ リアリズムの宿(つげ義春「旅」)作品集1983年7月双葉社
  58. ^ 『つげ義春の温泉』(カタログハウス)2003年2月
  59. ^ つげ義春『つげ義春とぼく』(晶文社)P26
  60. ^ つげ義春『つげ義春とぼく』(晶文社)P32
  61. ^ 『つげ義春 夢と旅の世界』(新潮社 2014年9月20日)
  62. ^ 「ユリイカ」1982年3月号(P126-129) “つげ義春再論”
  63. ^ ユリイカ」1982年3月号(P128) “つげ義春再論”
  64. ^ 「現代青年の感性 マンガを中心に」『中空構造日本の深層』、河合隼雄、中公文庫(pp.169-)
  65. ^ 『幻燈』2(北冬書房 2000年1月20日)
  66. ^ 権藤晋『つげ義春漫画術』上巻、p.221-222, 275。
  67. ^ 清水正監修『日本のマンガ家 つげ義春』(日本大学芸術学部図書館、2013年)p.34
  68. ^ 『ぱふ』1980年5月号。
  69. ^ 単行本『日の出食堂の青春』(双葉社)あとがき。
  70. ^ 蛭子能収インタビュー『蛭子能収コレクション ギャンブル編』マガジン・ファイブ。
  71. ^ DISCAS INTERVIEW『TSUTAYA DISCAS』
  72. ^ つげ義春と私 | 雁屋哲の今日もまた
  73. ^ 僕の好きな漫画3「つげ義春」|佐藤秀峰|note
  74. ^ 『学生 島耕作』①巻11.21発売記念! “弘兼憲史×糸井重里”スペシャル対談が本日発売のイブニングに掲載!
  75. ^ 作家 川上弘美さん - 東京弁護士会
  76. ^ FACTORY721 #0041 小西康陽 ロングトーク - フジテレビ
  77. ^ 萩原健太『はっぴいえんど伝説』
  78. ^ 2013年12月25日のツイート
  79. ^ a b 04「元気でるよ」 - ほぼ日刊イトイ新聞
  80. ^ 第2回 『つげ義春とぼく』 - eBookJapan

外部リンク[ソースを編集]