草津温泉

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Hot springs 001.svg草津温泉
Kusatsu-yumomi 2004.jpg
湯もみ
温泉情報
所在地 群馬県吾妻郡草津町
交通 鉄道 - JR東日本吾妻線長野原草津口駅
路線バス - JRバス関東:長野原草津口駅~草津温泉 - 草軽交通軽井沢駅~草津温泉
高速バス - 上州ゆめぐり号東京駅バスタ新宿~草津温泉、渋谷駅~草津温泉
自動車 - 関越自動車道渋川伊香保IC - 上信越自動車道上田菅平ICロマンチック街道利用 - 上信越自動車道信州中野IC国道292利用。積雪期通行不可
泉質 酸性泉
硫黄泉
アルミニウム
泉温(摂氏 温度44.9度(西の河原)~94.5度(万代)
湧出量 約27,000 L/分
(最大時36,000 L/分超)
pH 2.05
液性の分類 酸性
浸透圧の分類 低張性
宿泊施設数 171
総収容人員数 12,531 人/日
年間浴客数 約280万
外部リンク 湯Love草津 - 草津温泉観光協会
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草津温泉(くさつおんせん)は、日本群馬県吾妻郡草津町草津界隈(江戸時代における上野国吾妻郡草津村界隈、幕藩体制下の上州御料草津村界隈〈初期は沼田藩知行〉)に所在する温泉である。草津白根山東麓に位置する。

日本を代表する名泉(名湯)の一つであり、万里集九林羅山日本三名泉の一つに数えた (cf. 1502,1662)。江戸時代後期以降何度も作られた温泉番付格付では、当時の最高位である大関(草津温泉は東大関)が定位置であった (cf. 1817)。

名称[編集]

草津温泉(くさつおんせん)」も古くからの名称であるが、かつては、「草津湯/草津の湯(くさつのゆ)[* 1][1]」、あるいは、上野国の異称である「上州」を冠して「上州草津湯/上州草津の湯」と呼ぶことが多かった。現在でもこれらを踏襲した雅称「草津の湯」「上州草津の湯」は頻用される。また、「上州草津温泉」という名称も現在では用いられるが、この表現は雅称的ニュアンスのほかに、他地域の「草津」や「草津温泉」という紛らわしい地名※「#上州草津と他の草津」節を参照)と明確に区別する意図を含んでいる場合がある。

当地における「草津」という地名の語源は、温泉の硫化水素臭の強いがゆえに、「臭水(くさみず、くさうず、くそうず)」にあるとされる[2][3][4]。また、臭處(くさと)という説もある[4]。草津山光泉寺縁起は、『大般若波羅蜜多経』(通称・大般若経)の一節「南方有名湯是草津湯」が由来であると説いているが[5][3]、大般若経にはこのような節はなく[6]俗説である。同寺には、源頼朝が当地を訪ねた折りに、草を刈ったところ湯が出たという話[7]も伝わっているが、後述するように史実性は疑わしく、民間語源であろう。

なお、草津温泉を、上毛かるたの「」の札で「草津(くさづ)よいとこ薬の温泉(いでゆ)」と歌っているのは、地元で「草津」を「くさづ」と読むからで、温泉水の持つ強い硫化水素臭から「くそうづ」と呼ばれたことが今日の地名の由来であるという説がある[8]

地理・地質[編集]

地理[編集]

北西部には、草津白根山(白根山〈2,160m、湯釜〉、本白根山〈2,171m〉、逢の峰〈2,110m〉)が聳えている(上信越高原国立公園)。

泉質[編集]

草津温泉の湯は基本的には酸性泉(酸性低張性高温泉)である。場所(源泉)によっては硫黄泉なども見受けられる。酸性が強くpHは2前後である。この強酸性のために下流の品木ダムには酸性中和施設がある。適応症は皮膚病神経痛糖尿病ほか。

草津温泉は、草津白根山から東へ流れる地下水に火山ガスが出会って生じていると考えられている。降ってから数ヶ月から数年の比較的新しい地下水が主体となっており、湧出量は直前の降水量の影響を強く受けている。また、白根山の山頂に近いほどpHが低く、含有成分も変わる。

源泉[編集]

源泉は、公的に管理している大源泉が6つ存在するほかホテル等が所有している小源泉も多数存在する。自噴する温泉の湯量は極めて豊富であり、湯温も摂氏50-90度前後と高い[9]。万代鉱源泉はラジエーターを使い高い湯温を下げて配湯している。時間湯では昔から草津節などを唄いながら木の板(湯もみ板と言う)で温泉をかき回し、湯温を下げるのが特徴的な「湯もみ」が行われる(現在も、観光客向けに実演する施設があるほか、2箇所の共同湯では湯治の一環として行われている)。ちなみに、草津節は草津温泉最古の共同風呂「鷲の湯」が発祥の地である。温泉街には、湯畑を始めとする大小さまざまの源泉がある。1975年(昭和50年)に万代鉱源泉の利用および町による管理配湯が始まってからは、多くの小規模源泉が破棄された[10]。なお、湯畑を始めとする草津温泉の各源泉には緑色の湯垢のようなものが散見されるが、これはイデユコゴメ類などの温泉藻である。

主な源泉[編集]

湯畑(ゆばたけ)
温泉街の中心部に湧き、名実ともに草津温泉の中核をなす源泉である。囲いの内側にある湯は、高温すぎる源泉水を加水することなく低温化するための施設であるが[11]湯の花を採集する目的も兼ねている[11]。湯の花の採集は、江戸時代中期にあたる寛政2年(1790年)頃に始められた[12]。採集は年に3回行われている[11]
現在の施設は、周囲はロータリー状に整備されている。1975年(昭和50年)当時の町長の経営するホテルに投宿した芸術家岡本太郎が、地域づくり計画の一環として太郎に手がけてほしいという町長の要請に応じて、デザインと監修を受け持ったものである[13][14]。工事の際、昔の囲いはおおかた撤去されたが、湯滝の周辺に一部が残されている。湯が滝のように湧き出る光景は全国的にも数少なく、2008年(平成20年)冬季からは、2万球に及ぶLEDを使用した行灯型の和風イルミネーション30基による夜間のライトアップで湯畑を演出する催し「湯畑イルミネーション」も期間限定で行われるようになり[15]、観光客の目を楽しませている。木樋を通った湯は最後に滝に到達するが、ここにはかつて「大滝乃湯」(現在は町営温泉施設の名にされている)と呼ばれる共同湯があり、1960年(昭和35年)頃に取り壊されるまでは、草津で唯一、番台のある「滝の湯」があった。
白旗(しらはた)
湯畑から光泉寺という寺院の階段方向に向かった隅に白旗湯畑がある。源頼朝が発見したと言い伝えられている源泉である。湯畑横の共同浴場「白旗の湯」では気軽に入浴を楽しむこともできる。草津の主要源泉で唯一、白濁している(他は無色透明)。
西の河原(さいのかわら、にしのかわら)
温泉街西側の荒原地帯に湧く源泉の総称で、現在では一帯は「西の河原公園」として遊歩道などが整備され、気軽に温泉が湧出する様子を観察できるようになっている。源泉の名称はこの付近の河原の名称から取られており、かつては町の西側にあることから西の河原(にしのかわら)と呼び、ここと地蔵の河原の2箇所を賽の河原(さいのかわら)と表現したようだ[16][リンク切れ]が、現在では西の河原公園内に設置されている看板・案内図等でも西の河原を指して「さいのかわら(SAINOKAWARA)」と記載されている。ここには町営の「西の河原(さいのかわら[* 2])露天風呂」があるが、ここの湯は後述する万代鉱源泉から引いたものである。
西の河原の向かって右の河原には、地元では見た目から「マリゴケ(毬蘚)」と呼ぶところの、鮮やかな緑色でモコモコとした絨毯のようなチャツボミゴケ(茶蕾苔)[* 3]の群生が見られたが、[いつ?]頃の開発の影響によって失われている。なお、奥草津の中之条町六合地区元山にある群馬鉄山鉄鉱石露天掘り跡の窪み(通称・穴地獄)のチャツボミゴケ公園では本州最大の群生を見ることができる[17][18]
地蔵(じぞう)
湯畑から少し入った場所にある。古くから眼病に効くという言い伝えがあり、源泉の脇には名前の通り地蔵堂(目洗い地蔵と呼ばれる)がある。2006年(平成18年)4月に建て替えられた。ここには足湯、共同浴場と共に長期湯治専門の時間湯もある。
煮川(にかわ)
町営の日帰り温泉施設「大滝乃湯」のそばの、湯川の脇に湧出する。大滝乃湯から湯畑方面に伸びる歩道の脇に、茶色のタンクから煙突が伸びたような形状の施設があり、この中に湧出している。宿泊施設には供給されず、供給されているのは源泉のそばの共同浴場「煮川の湯」と、前述の「大滝乃湯」のみ。
万代鉱(ばんだいこう)
1970年(昭和45年)に硫黄鉱山の坑道から噴出した新しい源泉で、標高の高い地域では主にここから湯が引かれている。摂氏90度以上と非常に高温で熱交換により湯温をさげている。このとき生じる高温の真水は温水として各家庭に供給されるとともに、道路の融雪などにも利用されている。「万代持ちますように」との縁起を担いで名付けられた鉱山だが、温泉の噴出を抑制できなかったことや、硫黄鉱山の需要低下[* 4]もあって廃坑となった後は、小殺生地区に垂れ流されていた。
しかしながら近年の技術の進歩と多大な努力により有効に活用されている。現在、草津の町に入ると近隣の山の中腹でジェットの如く高く蒸気を吹き上げている箇所があるが、それが万代鉱の源泉である(犠牲者が出たため源泉地区は立ち入り禁止)。pH1.7で含有する成分も多いが、肌の弱い体質の場合は、体に影響をおよぼす恐れがある。溢れ出た湯は湯川の上流で派手に蒸気を噴き出しつつ投棄されている。

その他の源泉[編集]

綿の湯(わたのゆ)
お好み焼き屋の下より湧き出る源泉で、主に別荘地や近年になって開業した旅館・ホテル等に供給されている。町による集中管理ではなく、草津温泉配湯株式会社(前述のお好み焼き屋も経営)という会社が所有・管理・配湯しており[19]、共同浴場でこの源泉を引湯しているものはない。
熱の湯(ねつのゆ)
湯もみショーが行われる湯小屋の湯船の底に今でも直接湧いているが、現在は白旗源泉を使用している。熱の湯源泉は千代の湯にて使用。
ゆりかご橋
西の河原の上流部に時折湧き出る源泉。近年はほとんど湧出しない。
香草(かくさ)
pH1.0-1.2で有効な含有成分も多く玉川温泉と双肩する強酸性泉で、かつては一井旅館の別館が引湯していた[* 5]が、湧出地点があまりにも奥地でかつ湧出量も僅かであるため現在は使用されていない。川原から今も湧き出ていて野湯ファンが訪れることもあるが、向かうには遊歩道を外れ川や滝を登らなければならない。
エルヴィン・フォン・ベルツが発見したことや、当地での温泉まんじゅう発祥の「さいふ屋」がこの湯でまんじゅうをふかしていたという歴史がある。

温泉街[編集]

草津温泉街(くさつ おんせんがい)は、草津温泉の温泉街外国語表記は、2020年開催予定の東京オリンピックに向けての道路標識等の国際化事業の一環として、2015年(平成27年)2月を境に旧来のローマ字表記「Kusatsu onsengai」から表記の「Kusatsu onsen town」に変更された。日本全国の他の温泉街に先駆けての施行であった。他の温泉街でも同様に変更される予定にある。なお、"onsen" は、2010年代には既に「日本様式の温泉」を指す用語として国際共通語化していたことから、ニュアンスの異なる英語 "spa" に置き換えることなく、英語 "spa town" に倣った「onsen town」が採用された。

温泉地の中央に湯畑を中心とした古風な日本情緒に溢れた温泉街があり、それを取り巻くようにリゾートホテルペンション、大滝の湯・西ノ河原公園・テルメテルメおよび温泉センターなどの温泉関連施設のほか、草津音楽の森国際コンサートホールや草津熱帯圏などの諸施設が位置している。また、草津白根山に面して草津国際スキー場がある。町外れには湯治に来て亡くなった人の無縁仏が多数ある。古いものでは明治年間の墓石もある。

温泉を用いた医療施設として、群馬大学医学部附属病院草津分院が1951年(昭和26年)12月20日に開院されて[20]高血圧喘息リウマチなどの治療に温泉を使用していたが、2002年(平成14年)3月31日をもって閉院した[20]

草津温泉の湯畑に設けられた木製のを利用して行われる湯の花の採集は、江戸時代中期にあたる寛政2年(1790年)頃に始められた[12]。以来、よく知られた土産物としても流通している。現代(2010年代)では、プラスチックのねじ込みの円錐状容器に赤文字で「湯の花」と筆書体で印刷され、1,500円程度で販売されている。2・3ヶ月に一度、わずかな量しか出荷されないことから、すぐに売り切れてしまう場合がある。

  • 関連事象の年表での記載位置 - 1790年、1913年、1951年、2002年、2015年

湯治場[編集]

古来、草津温泉は「万病に吉」と謳われ、多くの湯治客を迎え入れてきた。温泉の保温効果に加えて、草津温泉の強酸性泉による殺菌作用、成分に含まれる硫酸アルミニウムによる収斂作用、皮膚の刺激作用により切り傷から、ハンセン病梅毒皮膚病まで幅広い病の患者を受け入れてきた。

草津温泉が考案した独特の入浴法として「時間湯」がある。これは、湯もみによる低温化と組み合わせたもので、1877年(明治10年)頃に完成した[12]。温度が高すぎて人間の入浴に適さない草津温泉の源泉の湯を、加水することなく適温化するために考え出された方法で、折角の温泉成分が加水で薄まってしまうのを避けることができる。湯もみ板で湯をもみ、湯長の号令で一斉に入浴し、3分間の入浴を行う。最盛期には、熱の湯、白旗の湯、松の湯、千代の湯、鷲の湯、地蔵の湯の6湯で行われていたが、2010年代には、千代の湯、地蔵の湯の2湯で行われるのみとなっている。[21]

内湯めぐり 和風村[編集]

草津温泉の旅館15軒が「和風村」の名前で各旅館の内湯の日帰り入浴サービスを行っている。加盟している旅館で「通行手形」を購入することで利用可能。

  • うららの湯(うららのゆ) つつじ亭
  • 永楽の湯(えいらくのゆ) たむら
  • 延寿の湯(えんじゅのゆ) 松村屋
  • お汲上げの湯(おくみあげのゆ) 奈良屋
  • 君子の湯(くんしのゆ) 大阪屋
  • さい泉の湯(さいせんのゆ) 草津ホテル
  • たぎちの湯(たぎちのゆ) ひのき亭牧水
  • 玉すだれの湯(たますだれのゆ) ての字屋
  • 万代の湯(ばんだいのゆ) 望雲
  • 弁天の湯(べんてんのゆ) 益成屋
  • 薬師の湯(やくしのゆ) 湯元館
  • 安兵衛の湯(やすべえのゆ) 日新館
  • 龍神の湯(りゅうじんのゆ) 群龍館
  • 若の湯(わかのゆ) 山本館
  • 若乃湯(わかのゆ) 草津館

共同浴場[編集]

「瑠璃の湯」
「白旗の湯」
足湯

町中に共同浴場が多く存在している。ただし草津温泉では昔から「めぐり湯」は「してはいけない」と戒められている。

共同浴場名と利用源泉は以下のとおりである。

  • 白旗の湯:白旗源泉
  • 巽の湯:湯畑源泉
  • 翁の湯:湯畑源泉
  • 千代の湯:湯畑源泉
  • 長寿の湯:湯畑源泉
  • 白嶺の湯:湯畑源泉
  • 千歳の湯:湯畑源泉
  • 瑠璃の湯:湯畑源泉
  • 睦の湯:湯畑源泉
  • 喜美の湯:湯畑源泉
  • 関の湯:湯畑源泉
  • 煮川の湯:煮川源泉
  • 地蔵の湯:地蔵源泉
  • 凪の湯:西の河原源泉(以前は凪の湯源泉)
  • こぶしの湯:万代鉱源泉
  • 恵の湯:万代鉱源泉
  • つつじの湯:万代鉱源泉
  • 長栄の湯(旧町営の湯):万代鉱源泉
  • 碧の湯:万代鉱源泉

歴史[編集]

安土桃山時代以前[編集]

ヤマトタケル(日本武尊)[2]行基[4]源頼朝[4]が開湯したとの俗説があるが、同時代の記録碑文文書)に草津温泉を起想させる内容は見られない[* 6]

上州草津の温泉[* 7]について今日まで伝えられている最古の記録は、戦国時代前期の事柄について当時より後世の人物が記したものである。それは文明4年(1472年)、信州西厳寺住職の招きで浄土真宗本願寺派第8世宗主・蓮如越前吉崎(現・福井県あわら市吉崎)の吉崎御坊より来草して布教したというものであるが、係る記録は他の記録と年号が食い違っているうえ、後世に記したものであるため、真偽のほどは定かでない(草津温泉温泉観光士講座より抜粋)。ともかくも、史料として既知で最古の例である。

この頃の上州草津の湯は、すでに全国に名の知れた湯治場となっていたと考えられる。戦国時代には湯本氏が文献に多く登場し、草津の湯治客からとる湯銭を武田配下の真田氏に納めたり、草津や白根で採れる硫黄戦国大名に贈っているほか、豊臣秀吉徳川家康に草津入湯を勧めた書状なども伝わっているからである。真田信之の保養法は、湯治と信濃の自然鑑賞で、療養や江戸詰めの後などにしばしば草津温泉を利用している。効能を熟知していたとみえ、知人らにも勧めて幕臣の島田利正が湯治を計画するや、その面倒をみている[22]太閤豊臣秀吉文禄4年3月(1595年の4月か5月)[* 8]に草津湯治の綿密な計画をたてるほどの温泉好きであった[23]

なお、草津温泉の由緒として「吾妻鏡によると、建久4年8月(1193年9月頃)[* 9]源頼朝浅間山で巻狩りを行った際に、木曾義仲の遺臣で義仲遺児を匿って草津に潜んでいた細野氏を見出し、湯本の姓を与えて草津の地頭とし、以後、湯本氏は温泉経営をもって北条足利に仕えた」とよく云われているが、『吾妻鏡』にそのような記述は無い。近在の人に自分の権利を認めさせるための作り話しであろう。(萩原秋水遺文集より)[要出典]

江戸時代[編集]

嘉永四年板[* 10]諸国温泉功能鑑』(1851年刊行)

江戸時代初期は真田氏沼田藩、その後は天領として江戸幕府の直轄支配を受けている。湯本氏は沼田藩家老として重用されていたが、後に本家は改易処分となる。現在と比べて交通は不便にもかかわらず、湯治客で賑わいは年間1万人を超える数を記録している。近世を通じて60軒の湯宿があり、幕末には「草津千軒江戸構え」といわれるほど栄えていた。この「せんげん」は活火山白根山=浅間(せんげん)の麓に栄えた草津温泉という意味であるとする学説もある。草津温泉は泉質が強烈なため、湯治後に肌の手入れのために入る「草津の上がり湯」なる温泉として、四万温泉沢渡温泉がある。

江戸時代初期は内湯はなく、湯宿は基本的に素泊まりであった。18世紀初頭になると、「かこい湯」「幕湯」という貸し切り湯の習慣ができ、のちに内湯が設けられるようになった。

近代[編集]

明治時代、スウェーデン人文学者アドルフ・エリク・ノルデンショルドは草津訪問記を記し、その中で草津温泉には療養する病人が多く、草津はそれら病人によって成り立っており、病人たちが罹患しているのは梅毒ハンセン病(らい病)脚気である、としている。お雇い外国人として来日したドイツ医師エルヴィン・フォン・ベルツ、および宣教師コンウォール・リーによりハンセン病に効く湯治場としての地位が確立され[24]、草津温泉郷にはハンセン病集落が出来ている。

その後、1931年昭和6年)にらい予防法が制定されると、その直後の1932年(昭和7年)には国立らい療養所栗生楽泉園が開設されている。

大正期には軽井沢から軽便鉄道草軽電気鉄道)が草津まで開通したほか、後に高崎渋川などからバスも乗り入れるようになった。長野原線(現・吾妻線)が長野原駅(現・長野原草津口駅)まで開業したのは1946年(昭和21年)である。

太平洋戦争が終結した後、日本にもハンセン病治療薬「プロミン」が導入され、これが大きな治療効果をもたらした。さらにリファンピシンの登場によってハンセン病はほぼ克服されたため、温泉療法は急速に廃れ、ハンセン病の湯治場として成立してきた草津温泉は方向転換を余儀なくされた。その後は群馬県を挙げて一般観光客を集める温泉観光地としての道を歩むこととなる。

1975年(昭和50年)に湧出量4700L/分の万代鉱源泉の利用が始まり、これを機に草津町による集中管理給湯システムが整えられた。給湯量に余裕ができ、それまで温泉施設の無かった高台にも給湯が可能になったため、一気に草津温泉の規模は拡大した[25]

2006年(平成18年)には草津温泉の土産物店、ホテル、旅館などで売られている『湯の花』の多くが、同温泉で採集されたものではなく、硫黄炭酸カルシウムを混ぜて製造したり、近隣の温泉の湯の花であったことが判明した。これを受けて公正取引委員会は、景品表示法違反(優良誤認)で製造販売した4社に排除命令し、6社には排除勧告を行った[26]。しかしその後も人工の入浴剤がパッケージを変更して販売されているのではないかという指摘がある[27]。なお草津町が販売している湯の花は、発売元が「群馬県草津町」と表示されたプラスチック容器に入ったものである[28]。これは年間約5000個ほどしか販売されていない[27]

上州草津と他の草津[編集]

滋賀県草津市の銭湯「草津温泉」

草津」という地名は当地以外にも存在する。知名度において滋賀県草津市はその筆頭といえよう。東海道五十三次屈指の宿場町である草津宿や、天井川である草津川で、昔から有名な地域である。群馬県の草津町と滋賀県の草津市は、地名を共有する縁をもって、1997年(平成9年)に友好交流協定を締結した。

「草津温泉」と称する銭湯が、滋賀県の草津市にはある(■右の画像を参照)。草津市以外にも、山梨県甲府市にあり、愛知県名古屋市熱田区にもかつてはあった(2012年に廃業)。草津市の銭湯「草津温泉」では、人工湯の花を入れた露天風呂を設けている。甲府市の銭湯「草津温泉」は独自の源泉を使用し、掛け流しで提供している。名古屋市の銭湯「草津温泉」は、草津温泉(群馬県草津町の草津温泉)から取り寄せた湯の花を使用していた。

サッカーと草津温泉[編集]

Jリーグ3部リーグ(J3リーグ)のサッカークラブであるザスパクサツ群馬は、草津町と前橋市を中心とする群馬県全県をホームタウンとしているが、1999年(平成11年)、前身にあたる群馬県社会人サッカーリーグ所属チーム「リエゾン草津」が存続の危機に陥った折、主に地元サッカークラブの協力を得て解体を免れているが、草津町および草津温泉旅館協同組合も手を差し伸べており、草津温泉としては、チームにとどまった4名の選手に草津温泉の宿泊施設などでのアルバイトを斡旋し、雌伏の時を過ごすための雇用環境を整えることなどで支援した。危機を乗り切ったチームは、2002年(平成14年)4月、「ザスパ草津」に改称し、草津温泉湯畑で発足式が催された[29]。その名は、英語で「療養目的の温泉」を意味する「spa(スパ)」とチーム誕生の地である「草津温泉」に由来する。同年8月1日には、チームのマスコット湯友」が誕生したが[29]キャラクター設定上、草津温泉の「熱の湯(ねつのゆ)」から生まれたことになっている。2003年(平成15年)2月5日には、草津町大字草津にて、株式会社草津温泉フットボールクラブ(草津温泉FC)が、群馬県社会人サッカーチーム「ザスパ草津」(現・ザスパクサツ群馬)の運営会社として設立された[29]。チームはその後躍進を遂げて、J2リーグにも所属したことのあるJ3リーグのサッカークラブ「ザスパクサツ群馬」となった。クラブ名に含まれる「草津」の影が薄くなったのは、従来の名称では発祥地である草津の名が目立ちすぎて草津町という狭い地域のみがホームタウンであると誤解される怖れがあるため、これを避け、ホームタウンは群馬県全県であると訴求できるよう考案された新名称であった。なお、草津温泉でのアルバイト雇用は、サテライト(二軍)の選手を対象に続けられている。

  • 関連事象の年表での記載位置(x2=2件あり) - 1999年、2002年(x2)、2003年

年表[編集]

室町時代以前[編集]

  • 4月西暦換算:5月頃[* 11]) - 美濃国鵜沼[* 12]在住の万里集九が、この時、漢詩文集の東国旅行記『梅花無尽蔵』全7巻をまとめ終え、永正3年(1506年)に刊行する。その中に、上州草津の湯を含む日本の最たる名泉について「本邦六十余州 毎州有霊湯 其最者 下野之草津 津陽之有馬 飛州之湯島三処也(口語訳例:我らが60余りの国にはそれぞれに霊湯〈※神憑った効能をもつ温泉〉を有するが、その最たるものは、下野〈※上野国の誤りと思われる〉の草津、摂津有馬飛騨の湯島〈※下呂温泉〉の3箇所である)」とある。有名な林羅山日本三名泉江戸時代前期)は、万里集九の挙げた三名泉の追認・焼き直しと考えられる。
  • 某月某日 - 歌人・宗祇連歌師)の来草・入湯[12]

安土桃山時代[編集]

  • 月日未確認 - 浄土真宗本願寺派第11世宗主・顕如の来草・入湯。
  • 月日未確認 - 徳川家康正室・駿河御前(豊臣秀吉の異母妹・朝日姫)が、病気療養のために来草・入湯。

江戸時代[編集]

  • 寛文2年(1662年 - 儒学者林羅山の死後5年目のこの年、漢詩文集『羅山林先生文集』(現代通称:羅山文集)が刊行される(板元[* 10]は荒川宗長)[30]。そのうちの巻第3に、上州草津の湯を含む日本の最たる名泉について「諸州多有温泉 其最著者 摂津之有馬 下野之草津 飛騨之湯島 是三処也(口語訳例:諸州は温泉を多く有す。その最も著しいものは、摂津有馬、下野〈※上野国の誤りと思われる〉の草津、飛騨の湯島〈※下呂温泉〉、この三箇所である)」とある。これが現在「林羅山の日本三名泉」と呼ばれる件である。しかし、年表上1502年の位置ですでに述べたとおり、万里集九の三名泉との比較で、誤記と思われる箇所まで一致していることから、林羅山の三名泉は万里集九の三名泉を追認・焼き直ししたものと考えられる。
  • 元禄年間(1688-1704年中) - この頃、外湯(共同湯)はまだ5箇所であった。
  • 正徳3年(1713年) - 湯樋事件が起こる/地域で共有されるべき湯水を湯本氏の3家が非常識にも自営の湯屋に引湯して内湯を設けたことに、全村民が怒り、3家の専横を公儀に訴える。結果、3家は内湯へ引湯するための湯樋(湯を流す)の撤去こそ免れたものの、湯屋の客用には外湯のみを当てるよう、制限を受けることとなった。しかし、この事件をきっかけとして湯屋に内湯を設ける傾向が急速に強くなった。
  • 享保2年(1717年) - 江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が、汲み上げさせた草津の湯を江戸城まで運ばせて入浴する[12]
  • 安永9年(1780年) - 漢学者平沢旭山の来草・入湯[12]
  • 寛政2年(1790年) - この頃から、湯畑にて湯の花の採集が始まる[12]
  • 寛政3年(1791年) - 江戸俳人小林一茶が、草津へ数泊の旅をする。
  • 文化5年5月25日1808年6月18日) - 信州柏原(信濃国水内郡柏原村、現・長野県上水内郡信濃町大字柏原)へ帰郷する小林一茶が、草津に立ち寄る。
  • 文化13年(1816年) - 湯畑に「湯滝の灯籠」が設置される/草津温泉に寄贈された常夜灯は湯畑に設置され、優れた景観を生み出している。現存。
  • 文化14年(1817年1817 - 京都にて、現存最古の温泉番付である墨屋小兵衛板[* 10]諸国温泉功能鑑』が刊行される/「上州草津の湯」名義の草津温泉の格付は東大関
  • 文政年間(1818-31年) - 江戸の戯作者十返舎一九が、2度にわたって来草・入湯。
  • 文政8年(1825年) - 殺生河原で硫黄の採掘が始まる[12]
  • 嘉永元年(1848年) - 兵学者佐久間象山松代藩士)が来草・入湯し、『トウ野日記』を著す[12]
  • 安政2年(1855年) - この年、外湯(共同湯)は15箇所を数える/御座の湯、熱の湯、脚気の湯、綿の湯、松の湯、千代の湯、地蔵の湯、鷲の湯、とみの湯、熱川の湯(煮川の湯)、白寿の湯、玉の湯、瑠璃の湯、凪の湯。
  • 慶応2年(1866年) - この年、外湯(共同湯)は20箇所を数える/安政2年の15箇所に、笠の湯、ふちの湯、金比羅の湯、君子の湯、百里の湯が新たに加わっている。

明治時代[編集]

  • これによって当地における旅館業界の世代交代が一気に進むと、草津温泉ではそれまで全国で普通に行われていた湯治場でのハンセン病患者と一般客の混在を廃した[31]
  • その後たびたび訪れることとなるベルツ博士は、草津温泉の温泉治療効果の高さを医学論文として発表し、草津高原の景観の素晴らしさや草津温泉の観光地としての魅力も合わせて、世界に知らしめる[31]
  • 1887年(明治20年) - 湯之沢集落(湯之沢部落)の開村/草津温泉街からハンセン病患者を排除する気運が高まりを見せる中、ハンセン病患者は草津温泉改良会がそれと定めた草津温泉街の東はずれにある谷地自治集落「湯之沢」を開村し、世間から隔離させた「もう一つの草津温泉」が生まれることとなった[31]。湯之沢というのは、「投げ捨て谷」とか「骨ヶ原」などと呼ばれて草津で最も忌み嫌われる地域であった[31]
  • 1890年(明治23年) - エルヴィン・フォン・ベルツ博士が、草津に約6000の土地と温泉を購入し、世界最高水準の理想的な温泉保養地づくりを目指す[31]。しかしこの計画は、地元住民の反対もあって挫折している[31]
  • 1897年(明治30年) - 神山復生病院第3代院長ベルトランが、湯之沢集落を視察/その後、病院を作ろうとしたが、周辺住民の妨害に遭って頓挫する。
  • 1907年(明治40年)3月18日 - 国が癩予防法を制定し、明治を迎えて以降すでにあったハンセン病患者という存在を「先進国にありまじき国辱」と考える世論を強力に補完する[31]

大正時代[編集]

  • 某月某日 - リー女史が、布教と救らい事業のために草津に移住/以来、湯之沢集落に後半生を捧げることとなる[31]
  • 某月某日 - 日本画家川端龍子が、湯畑の「湯滝の灯籠」を画題に『霊泉由来』を描き、出世作となる。
  • 1917年(大正6年)某月某日 - リー女史が、湯之沢集落にて聖バルナバ医院を開院/これによって全国各地からハンセン病患者が集まることとなった湯之沢は大集落になってゆく[31]
  • 1918年(大正7年) - 詩人平井晩村の来草・入湯し、紀行文『湯けむり』を著したが、ここに草津節の元ともいわれる2つの歌「草津よいとこ 白根の雪に 暑さ知らずの風が吹く」と「草津よいとこ 里への土産 袖に湯花の香が残る」を書き残す。
  • 1918年(大正7年)頃[32] - 草津節(草津温泉の民謡で湯揉み唄)が生まれる。[33]
  • 1922年(大正11年)某月 - 作家志賀直哉の来草・入湯[12]

昭和時代[編集]

  • 日付未確認 - 国がらい予防法(旧法)を制定し、全てのハンセン病患者の完全隔離政策を推し進めると、湯之沢集落への国および地方自治体からの圧力がますます強まる[31]
  • 某月某日 - 滝尻原にて、国立ハンセン病療養所の一つである「国立草津療養所(現・国立療養所栗生楽泉園)」の着工。
  • 1932年(昭和7年)11月16日 - 国立草津療養所(現・国立療養所栗生楽泉園)の開所/強制収容患者数は男性3名。[31]
  • 1933年(昭和8年)某月 - 歌人斎藤茂吉が来草・入湯し、「いづこにも湯が噴きいでて流れゐる 谷間えお行けば身はあたたかし」と歌を詠む[12]
  • 1935年(昭和10年)
  • 1936年(昭和11年) - 日本軍国主義の高まりの中、湯之沢集落を物心両面で支えてきた日本聖公会とリー女史が、湯之沢集落における救らい事業の継続を断念する[31]
  • 1941年(昭和16年)5月某日 - 草津聖バルナバ教会にて湯之沢集落の解散式が執り行われる[31]
  • 1942年(昭和17年)
  • 5月某日 - 湯之沢集落から草津療養所(現・栗生楽泉園)へのハンセン病患者の強制移転が完了/収容患者数は1,263名(男性835名、女性428名)。[31]
  • 12月 - 湯之沢集落の消滅。
  • 某月某日 - 万代鉱源泉の利用開始。
  • 某月某日 - 芸術家岡本太郎が、湯治スキーを目的として来草・入湯。当時の草津町町長が経営していたホテルに投宿したが、町長と地域づくりについての話が弾むうち、湯畑周辺のデザインを依頼され、これを受けた。かくして、長方形の平面的・無機質な感じの囲いであった石瓢箪形の有機的造形に変え、囲いの内側にある木の直線的造形と対の関係をもつ、印象的景観の新たな湯畑が誕生した。また、湯畑を一周できる遊歩道「歩道といこいの場」も太郎の設計による。[13][14]

平成時代[編集]

  • 3月31日 - 群馬大学医学部附属病院草津分院の閉院。
  • 4月某日 - 群馬県社会人サッカーチーム「リエゾン草津」(ザスパクサツ群馬の前身)が「ザスパ草津」に改称し、発足式を草津温泉湯畑で開催する/その名は、英語で「療養目的の温泉」を意味する「spa(スパ)」とチーム誕生の地である「草津温泉」に由来する。[29]
  • 8月1日 - ザスパ草津に、マスコット湯友」が誕生/キャラクター設定上では、草津温泉の「熱の湯(ねつのゆ)」から生まれた。
  • 冬季 - 湯畑を夜間のライトアップで演出する催し「湯畑イルミネーション」の期間限定開催が初めて行われる[15]
  • 時期未確認 - 群馬県の嬬恋村地熱発電の計画を浮上させた際、建設予定地が草津温泉の源泉から数kmしか離れておらず温泉に影響が出る可能性があるとして草津町が反対を表明したが、科学的根拠は示されなかった。ただし、影響が出ないという科学的根拠もなかった。
  • 2011年(平成23年)12月20日 - 国道145号八ッ場バイパスの全線開通/上信自動車道の整備により、草津温泉から3時間圏域が拡大した。その効果は草津温泉の観光客数の着実な増加という形で反映され、2013年(平成25年)には280万人を突破した。[40]
  • 2013年(平成25年)4月某日 - 「御座之湯」の新設[41]
  • 2014年(平成26年)7月某日 - イベントスペース「湯路広場」の新設[41]
  • 2015年(平成27年)
  • 2月 - この時を境に、「草津温泉街」の外国語表記が旧来のローマ字表記「Kusatsu onsengai」から表記「Kusatsu onsen town」へ変更される/※詳しくは「#温泉街」を参照。
  • 5月某日 - 伝統の湯揉みを披露する「熱乃湯」の新装オープン[41]
  • 某月某日 - 西の河原露天風呂のリニューアル[41]
  • 7月20日 - 草津町温泉資料館の閉館。
  • 11月3日 - 草津町立図書館が草津町温泉図書館を開館[42][43]
  • 2016年(平成28年)12月24日[44] - 「湯畑イルミネーション」(期間限定)がデザインを一新[45][46]/デザイン担当は面出薫[46]
  • 2017年(平成29年)12月29日 - 観光・旅行業界の専門紙『観光経済新聞』による「第31回にっぽんの温泉100選」で、草津温泉が2017年度の総合第1位を獲得し、15年連続トップとなった[47][41]。第2位は指宿温泉(前回第5位)、第3位は別府八湯(前回第2位)[47]。草津温泉は、泉質部門と雰囲気部門でも第1位、見所・体験の充実部門で第2位(第1位は指宿温泉)、郷土の食文化部門で第3位(第1位は和倉温泉、第2位は指宿温泉)であった[47]
  • 2018年(平成30年)1月23日 - 本白根山草津白根山の主峰)が噴火。草津温泉街は宿泊キャンセルが相次ぐ事態に[48]/草津温泉は新火口から約5~7キロメートルと十分に離れた場所にあるとは言え、不安を感じた宿泊予約客からの問い合わせとキャンセルが相次ぎ、草津温泉旅館協同組合加盟105施設への調査によれば、26日夕方までに少なくとも約5,500件、延べ人数で約2万300人分の宿泊がキャンセルされた[48]。経済損失はこの時点で3億円弱と推計される[48]

交通[編集]

鉄道[編集]

路線バス[編集]

高速バス[編集]

自動車[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「の」は「乃」とも記した。以下同様。
  2. ^ 西の河原露天風呂公式サイトのドメインもsainokawara.com
  3. ^ 学名Jungermannia thermarum Steph. チャツボミゴケ(ツボミゴケ科)の名前の由来を知りたい。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館 (2012年11月27日). 2018年1月29日閲覧。
  4. ^ 石油精製の副産物(硫黄回収装置を参照)から精製できるようになったため、鉱山から採取する意義が薄くなった。
  5. ^ その名残として、旅館までの道路はホテル一井の私道である旨の看板が残っている。営業を終了してからもしばらくは私道のまま放置されていたが、落石や路面の崩落がひどく、立入禁止になっている。
  6. ^ 史書に見られる温泉については、「温泉#温泉の歴史と利用」を参照。
  7. ^ a b 「草津温泉」という語形(地名)の初出というわけではない(編者未確認)。そういう意味での言い回し。
  8. ^ 旧暦の文禄4年4月1日と同年4月30日(同月末日)は、西暦換算するとグレゴリオ暦の1595年4月10日と5月9日。
  9. ^ 旧暦の建久4年8月1日と同年8月29日(同月末日)は、西暦換算するとユリウス暦の1193年8月29日と9月26日。
  10. ^ a b c 当時の版元は「板元」と記した。
  11. ^ 旧暦の文亀2年4月1日と同年4月29日(同月末日)は、西暦換算するとユリウス暦の1502年5月7日と6月4日。
  12. ^ 現・岐阜県各務原市鵜沼、旧・稲葉郡鵜沼町江戸時代鵜沼宿付近。

出典[編集]

  1. ^ 温泉情報の流通からみる江戸後期の「湯治」の変容に関する研究、内田彩、日本観光研究学会機関誌。
  2. ^ a b 角川日本地名大辞典 10 群馬県』, 角川書店, 1988年
  3. ^ a b 尾崎喜左雄, 『日本歴史地名大系 10 群馬県』, 平凡社, 1987年
  4. ^ a b c d 吉田東伍, 『大日本地名辞書 下巻』, 第2版, 冨山房, 1907年, 3334-3335頁
  5. ^ 大桑斉、前田一郎 『羅山・貞徳「儒仏問答」― 註解と研究』 ぺりかん社、2009年、137頁。
  6. ^ SAT大正新脩大藏經テキストデータベース
  7. ^ 布山裕一 『温泉観光の実証的研究』 御茶の水書房、2009年、226頁。
  8. ^ ジャパンナレッジ 「歴史地名」もう一つの読み方 74 草津”. ネットアドバンス (2012年12月21日). 2017年11月30日閲覧。
  9. ^ 【泉質・効能】 - 草津温泉・(草津温泉旅館協同組合)
  10. ^ 温泉の科学-草津温泉の歴史
  11. ^ a b c そうだったのか!湯畑の湯樋”. 草津スカイランドホテル 栖風亭(公式ウェブサイト). 草津スカイランドホテル (2010年12月14日). 2018年1月30日閲覧。
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 歴史”. 湯Love草津. 草津温泉. 2018年1月28日閲覧。
  13. ^ a b 縁のある人物・都市”. 湯Love草津. 草津温泉. 2018年1月30日閲覧。
  14. ^ a b 草津温泉:岡本太郎・湯畑”. 日本三名泉(名湯)・三御湯. 草津湯.com. 2018年1月30日閲覧。
  15. ^ a b 湯畑イルミネーション実行委員会 (2016年9月28日). “草津温泉 湯畑イルミネーション”. 草津温泉旅館協同組合. 2018年1月30日閲覧。 “2008年より冬期間限定で開催しておりました「湯畑イルミネーション」ですが、今シーズン以降は実施しないこととなりました。8年間もの長きにわたり、たくさんの方にご来場いただきまして、誠にありがとうございました。”
  16. ^ http://sainokawara.fubuki.info/kusatu.html
  17. ^ 池田修(吾妻森林管理署 広報広聴連絡官) (2013年8月23日). “チャツボミゴケ公園”. 管内のいちおしスポット. 関東森林管理局. 2018年1月30日閲覧。
  18. ^ 穴地獄とチャツボミゴケ”. 平成23年度 白根開善学校高等部 テーマ学習報告書. 白根開善学校高等部 (2012年2月4日). 2018年1月30日閲覧。
  19. ^ 源泉わたの湯 | 草津温泉 源泉閣」 - 草津温泉配湯株式会社, 2015年9月16日閲覧
  20. ^ a b 久保田―雄(元・群馬大学医学部附属病院草津分院感染内科) (2002年8月1日). “群馬大学医学部附属病院草津分院は閉院しました”. 日本温泉気候物理医学会雑誌 第65巻4号. 日本温泉気候物理医学会. 2013年5月28日閲覧。
  21. ^ 桜花学園大学人文学部 研究紀要 第12号 2010
  22. ^ 宮本義己 『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』 中央労働災害防止協会、2002年、32頁。
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  24. ^ 桜花学園大学人文学部研究紀要。
  25. ^ 温泉の科学-草津温泉の歴史
  26. ^ 草津温泉地区における入浴剤販売業者4社に対する排除命令について - 公正取引委員会(2006年12月14日)
  27. ^ a b 草津温泉「湯の花」御愛顧の皆々様へ - 草津町
  28. ^ 湯の花に係る公正取引委員会の命令に対して - 草津町
  29. ^ a b c d e f 沿革”. ザスパクサツ群馬(公式ウェブサイト). 株式会社草津温泉フットボールクラブ. 2018年1月29日閲覧。
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  40. ^ 草津温泉の観光誘客を後押し!~東京から高速で3時間、草津温泉がより身近に~”. 道路事業 上信自動車道. 群馬県. 2018年1月30日閲覧。
  41. ^ a b c d e 高橋努 (2015年12月29日). “にっぽんの温泉100選 草津温泉、13年連続1位 群馬”. 毎日新聞 (毎日新聞社). https://mainichi.jp/articles/20151229/k00/00e/040/278000c 2018年1月29日閲覧。. 
  42. ^ 資料館・美術館”. 湯Love草津. 草津温泉. 2018年1月28日閲覧。
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  44. ^ 湯畑の新たなライティング♪12月24日点灯式!”. じゃらんnet. リクルートライフスタイル (2016年12月5日). 2018年1月30日閲覧。
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  46. ^ a b 湯畑 夜のライティング”. 草津スカイランドホテル 栖風亭(公式ウェブサイト). 草津スカイランドホテル. 2018年1月30日閲覧。
  47. ^ a b c 第31回にっぽんの温泉100選(2017年度)”. 観光経済新聞. 観光経済新聞社. 2018年1月29日閲覧。
  48. ^ a b c “宿泊キャンセル延べ2万人=名湯温泉街に打撃-草津白根山噴火1週間・群馬”. 時事ドットコムニュース (時事通信社). (2018-01-29). https://www.jiji.com/jc/article?k=2018012900635&g=soc 2018年1月30日閲覧。. 
  49. ^ 草津温泉への直行便を東京駅から定期運行致します(ジェイアールバス関東)

参考文献[編集]

  • 白倉卓夫編 『草津温泉-草津白根火山・気象・微生物・歴史・医学』 草津町温泉研究会・上毛新聞社、1997年ISBN 4-88058-663-3

関連著作・書物[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯36度37分22.1秒 東経138度35分47.9秒 / 北緯36.622806度 東経138.596639度 / 36.622806; 138.596639