堀秀政

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堀秀政
Hori Hidemasa01.jpg
堀秀政像(長慶寺所蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文22年(1553年
死没 天正18年5月27日1590年6月28日
別名 菊千代(幼名)、久太郎(通称)、名人久太郎(渾名)
戒名 高嶽道哲東樹院 釈道哲
墓所

福井県福井市長慶寺[1]
神奈川県小田原市海蔵寺

新潟県上越市林泉寺
官位 従四位下、侍従左衛門督
主君 織田信長豊臣秀吉
氏族 堀氏
父母 父:堀秀重
兄弟 秀政多賀秀種利重三政
秀治親良村上但馬守近藤政成
上茜部城跡堀秀政生誕之地碑(岐阜県岐阜市茜部本郷)

堀 秀政(ほり ひでまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名

生涯[編集]

信長の側近[編集]

天文22年(1553年)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄弟・奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。

最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄8年(1565年)に13歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた(顔が美形だったためとも言われる)。16歳で、室町幕府15代将軍足利義昭の仮住まいの本圀寺普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼福富秀勝・大津長昌・矢部家定長谷川秀一万見重元らがいる。

秀政は次第に奉行職だけでなく戦場でも活躍するようになる。織田軍の主要な合戦である天正3年(1575年)の越前一向一揆討伐に参加。天正5年(1577年)の紀伊雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛・羽柴秀吉らとともに一隊を率いる。翌年の有岡城の戦いでは、万見・菅屋らと鉄砲隊を率いる。天正7年(1579年)の安土宗論のとき菅屋・長谷川らと奉行を務める。翌・天正8年(1580年)、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋・長谷川らと務める。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。

天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱において信楽口からの部隊を率い、比自山城の戦いなどを戦い抜いている。同年、近江国坂田郡に2万5,000石を与えられた。天正10年(1582年)の甲州征伐では信長に従って甲信に入るが、既に織田信忠武田氏を滅ぼした後だったため戦闘には参加しなかった。本能寺の変の直前には、明智光秀徳川家康の接待役を外されたあと、丹羽長秀と共にこれを務めており、この接待を終えた後、備中の秀吉の下へ向かっている。

山崎の戦い[編集]

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こって信長が死去したとき、秀政は秀吉の軍監として備中国にいた。そしてその後は秀吉の家臣となって、山崎の戦いに参陣。中川清秀高山右近らと先陣を務める。

秀政は、光秀の援護にきた従兄弟の明智秀満坂本城に追い込む。敗北を悟った秀満は先祖代々の家宝を秀政の家老・直政に譲る旨を告げ、城に火を放ち自害した。

清洲会議、北ノ庄攻め[編集]

清洲会議により、秀政は丹羽長秀に代わって近江国の佐和山城を拝領し(佐和山は北ノ庄城攻めの恩賞として賜ったという史料もある)、三法師蔵入地代官と守役を承る。

天正10年(1582年)10月20日付の書状には羽柴の名字を使用しており、秀吉の一族以外で初めて羽柴氏(名字)を与えられた、と考えられている[2]。天正11年(1583年)4月、秀吉は越前北ノ庄の柴田勝家を攻めた。家康が秀吉に宛てた書状には「はた又、久太郎(秀政)方砦へ、柴田取りかかり候のところ、すなはち合戦に及び、切り崩され、あまた討捕られ候えば、定めて比類なき儀、心地よく候、云々」と秀政の軍功を褒めている。

戦後、従五位下・左衛門督に叙任。従兄弟の六右衛門が一向宗蓮照寺住職となっていた関係で、本願寺方との交渉をも受け持った。

長久手の戦い〜北ノ庄城主[編集]

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、味方の軍は大敗を喫したが、自軍を三手に分け、余勢を駆った家康方の大須賀康高榊原康政らを待ち伏せし、挟撃して敗走させた。家康本隊とは戦わず退却。

天正13年(1585年)、秀吉が関白になると、秀政は従四位下・侍従左衛門督に叙任。同年の紀州征伐千石堀城の戦い第二次太田城の戦い)や四国平定戦による軍功により丹羽長秀の遺領越前国北ノ庄に18万石を与えられた。与力に加賀小松の村上義明、加賀大聖寺の溝口秀勝が付けられた。天正14年(1586年)には、長谷川秀一とともに昇殿を許された。なお、秀政が各地を転戦している間、佐和山城には城代として父の堀秀重や弟の多賀秀種が在城して統治にあたった[3]

九州平定、小田原征伐[編集]

天正15年(1587年)の九州平定にも参陣。秀政は先鋒部隊を任される。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された[4]

天正18年(1590年)の小田原征伐にも参陣、左備の大将を命ぜられる[5]箱根口を攻め上り、山中城を陥落。小田原早川口まで攻め込み、海蔵寺に本陣を布いた。しかし5月下旬に疫病を患い、陣中にて急死した。享年38。

後を長男の秀治が継いだ。神奈川県小田原市の海蔵寺に一旦葬られたが、髷だけは領内に持ち帰られ、福井県北之庄(福井市)の居館近くの長慶寺に墓が建てられた。のちに堀家が越後国に転封となった際、新潟県上越市春日山城の林泉寺に改葬される。林泉寺は、父秀重と子秀治の墓も建てられ、堀家三代の菩提寺である。

福井県福井市の長慶寺に位牌と墓所のひとつが伝わり、同寺では毎年5月27日に供養祭が行なわれている[1][6]

人物・逸話[編集]

  • 「名人左衛門佐」(『武家事紀[7]・『名将言行録』)、「名人太郎」(『常山紀談』)と呼ばれたが、それは下の者を使う心を用いたため(『常山紀談』)[8]、あるいは天下を指南して落ち度のあるまじき人だったからだという(『名将言行録』)[9]
  • 山崎の戦いの際、天王山を取るため、第一陣の堀尾吉晴がまず山を登り、その後を秀政が続いて登ろうとしたとき、家臣の堀七郎兵衛が「山上の味方がもし敗れたら、必ずや共崩れとなりましょう。道を替えてお登り下さい」と諌めたため、道を替えて登ったところ、果たして堀尾勢は崩れ、秀政はその横から攻め込み、敵将の松田政近を鉄砲で討ち散らしたという(『名将言行録』[10])。堀七郎兵衛は、従兄弟・堀直政の兄・利宗(あるいは道利)と推定され、利宗は、最初は足利義輝に仕え、義輝の死後、織田信長に仕えていた人物。
  • 小牧・長久手の戦いの時に銃声がして、続いて音がしないので不審に思っていると、 田中吉政が一騎でやって来て、「後ろで戦があるから急ぎ備えを詰めよ」と言い捨てて先へ通った。秀政は「その方は旗本の小姓頭だ。そのような使いは単使か若者の務めるべきことで、自ら来る場ではない」と言い、「銃声に続いてがしないのは、味方の敗軍に違いない」と言っていると、果たして味方は敗れ、大須賀・榊原らの敵が掛かってきたという(『名将言行録』[10])。
  • 九州征伐の際、近臣の山下甚五兵衛という者が乱心して、秀政に背後から切りかかった。秀政は振り返りざまに山下を斬ったが、そのとき山下の後ろを歩いていた直政も、山下を背後から斬った。秀政は直政に「自分が先だった」と声を掛けた。事が急だったのに、早くそのような言葉を掛けたことこそがすごいと人は皆言ったという(『名将言行録』)[10]
  • あるとき、奉行の従者と荷を持つ者とが荷物の軽重を争うのを聞いて、秀政は自らがその荷物を背負ってて歩いてみた。そして「自分はあの者より力が勝っているが、一里ばかり背負ったら疲れるだろう。持てないというのももっともだ」と断を下したという(『常山紀談』)[8]
  • あるとき、行軍中に旗持ちが遅れ出し咎められたのを、秀政は自ら旗を背負って試みてみて、「さては自分の馬の脚が良いせいだろう」と言って、脚の弱い馬に乗り替えたところ、旗持ちは遅れなくなったという(『常山紀談』)[8]
  • 上記の堀秀政像(長慶寺所蔵)は秀政自身が描いた自画像だと言われている。

脚注[編集]

  1. ^ a b 戦国の名将堀秀政を供養福井の長慶寺 2009年5月28日中日新聞より。2009年6月14日検索確認。
  2. ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年。
  3. ^ 『新修彦根市史 第1巻(通史編 古代・中世)}』彦根市史編集委員会、2007年1月
  4. ^ 村川前掲論文。
  5. ^ 一番、村上義明、柴田源左衛門勝全、二番、溝口秀勝、堀直政、神子田八右衛門某、この二備、隔日交代で一番手を務める。三番、丹羽長重を右備の大将とし、堀秀政を左備の大将とし、四番、木村常陸介、五番、長谷川秀一、六番、織田秀信らは各機に臨み鉄砲隊を供出する(『寛政重修諸家譜』)
  6. ^ 長慶寺の座標:北緯36度03分15秒 東経136度12分52秒 / 北緯36.054211度 東経136.214472度 / 36.054211; 136.214472
  7. ^ 『武家事紀』巻第十三”. 近代デジタルライブラリー. 2013年10月31日閲覧。
  8. ^ a b c 『常山紀談』巻之十八「堀秀政を名人太郎といひし事”. 近代デジタルライブラリー. 2013年10月31日閲覧。
  9. ^ 『名将言行録』「堀秀政」”. 近代デジタルライブラリー. 2013年10月31日閲覧。
  10. ^ a b c 『名将言行録』「堀秀政」”. 近代デジタルライブラリー. 2013年10月31日閲覧。

参考文献[編集]

  • 堀直敬『堀家の歴史』堀家の歴史研究会、1967年
  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年
  • 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年