甲州征伐

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甲州征伐
Katsuyori died at Mt.Tenmoku 02.jpg
自刃する勝頼主従(月岡芳年画)
戦争:甲州征伐(武田征伐)
年月日天正10年2月3日 - 3月11日
場所:駿河・信濃・甲斐
結果:織田軍の勝利・甲斐武田氏の滅亡
交戦勢力
Oda emblem.svg 織田軍 Japanese Crest Takedabishi.svg 武田軍
指導者・指揮官
織田信忠
滝川一益
河尻秀隆
武田勝頼
仁科盛信
織田信長の戦い

甲州征伐(こうしゅうせいばつ)は、1582年天正10年)、織田信長とその同盟者の徳川家康北条氏政長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領国である甲斐信濃駿河上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。武田征伐とも言われる。

合戦の流れ[編集]

戦いの序章[編集]

甲斐武田氏武田信玄後期に徳川領の遠江三河への本格的侵攻である西上作戦を実行し[1]、それまで同盟関係にあった織田信長は徳川氏の同盟者であったため武田氏と織田氏は手切となり、敵対関係に入った。西上作戦は元亀4年(1573年)に信玄の急死により撤収され、勝頼期には東海方面で徳川家康が反攻を強めた。

天正3年(1575年)5月には三河の長篠城を巡って武田勝頼軍と織田・徳川連合軍との間で長篠の戦いが発生し、武田氏は主要家臣を多く失う大敗を喫し、武田家領国は動揺した。

長篠合戦の後、武田氏の外戚である木曾義昌(武田信玄の娘で勝頼の妹・真理姫の夫)は武田勝頼より秋山虎繁(信友)が守る美濃岩村城の支援を命じられたが、財政的な理由で勝頼に反抗した。虎繁は織田軍に敗れ処刑され美濃方面の橋頭堡を失い、逆に美濃からの織田氏の脅威にさらされることになる。

長篠合戦後に勝頼は外交関係の再構築を試み、北条氏政とは妹の桂林院殿との婚姻によって甲相同盟を固めた。しかし御館の乱を契機に後北条氏を敵に回してしまう。上杉景勝には妹を娶らせて甲越同盟を結ぶも、上杉家は内乱後の深刻な後遺症により上杉領国外への影響力を失っていた。対北条には特に上野戦線では有利に進むも、織田・徳川・北条と三方を敵に囲まれた中で過度の出兵とそれに伴う支出で領国は疲弊を深めていく。

織田氏は畿内や北陸における一向宗との戦い(石山合戦)や西国の毛利氏との戦いに忙殺されていたため、しばらく軍を東へ向けることはなかったものの、信長の同盟者である三河の徳川家康は長篠の戦い以降武田氏に対し攻勢を強め、勝頼はたびたび出兵を余儀なくされた。

そうした窮状の中で信長とは人質として武田家に寄寓していた織田信房を返還し、また常陸国佐竹氏との同盟(甲佐同盟)を通じて和睦を試みるが(甲江和与)、信長との和睦は成立せず、織田・徳川連合軍の武田領国への本格的侵攻が行われることになる。殊に天正9年の高天神城の落城に際し後詰を送れなかった事は、武田氏の信望を致命的に失墜させた。

織田・徳川家などに対する相次ぐ出兵や新府城築城にかかった費用を穴埋めすべく、尋常ならざる割合の年貢賦役を課しており、人心が徐々にではあるが勝頼から離れつつあった。木曾義昌もその1人であるが、勝頼の側も秋山支援に動かなかったため木曾に不信感を抱いており、両者の関係は急速に冷却化しつつあった。天正10年(1582年)2月1日、新府城韮崎市)築城のため更に賦役が増大していたことに不満を募らせた木曾はついに勝頼を裏切り、信長の嫡男信忠に弟の上松義豊を人質として差し出し、織田氏に寝返った。

勝頼は、真理姫から木曾の謀反を知らされるとこれに激怒し、従弟の武田信豊を先手とする木曾征伐の軍勢5,000余を先発として木曽谷へ差し向け、さらに木曾義昌の生母と側室と子供を磔にして処刑。そして勝頼自身も軍勢1万を率いて出陣し、諏訪上原城に入った。

信長は2月3日に武田勝頼による木曾一族の殺害を知ると勝頼討伐を決定、動員令を発した。信長・信忠父子は伊那から進軍。信長の家臣金森長近飛騨方面から、同盟者の徳川家康が駿河方面から、進軍することに決定した。北条氏政へは甲州征伐の詳細は知らされなかった。情報収集の末、氏政は駿豆方面から侵攻を開始した。

織田側の編成[編集]

天正元年(1573年)以降、織田信忠を筆頭に池田恒興森長可河尻秀隆らを主力とするいわゆる「信忠軍団」が編成されており(池田は後に軍団を離脱、摂津へ)、主に東美濃に勢力を張っていた武田の影響を排除する戦いをしていた。武田征伐時には以下のような陣容であった。

この出陣に当たり、信長は「今回は遠征なので連れていく兵数を少なくし、出陣中に兵糧が尽きないようにしなければならない。ただし人数が多く見えるように奮闘せよ」と書状を出している。さらには明智光秀らが朝廷に働きかけ正親町天皇から「東夷武田を討て」との命を出させたことで大義名分を得た出陣であった。

また、後から続く信長直率の軍団は以下のような陣容であった。ルイス・フロイスの『日本史』には、この信長本隊は兵6万を率いる予定だったと書かれている。

武田軍団の崩壊[編集]

天正10年(1582年)2月3日、まず森長可団忠正の織田軍先鋒隊が岐阜城を出陣。若い両将の目付けとして河尻秀隆が本隊から派遣された。2月6日、先鋒隊は森、団の両名は木曽口から、河尻は伊那街道から信濃に兵を進めている。伊那街道沿いの武田勢力は恐れをなし、織田の先鋒隊が信濃に入った同日、岩村への関門・滝沢(長野県下伊那郡阿智村平谷村周辺)の領主であった下条信氏の家老・下条氏長(九兵衛尉)が信氏を追放して織田軍に寝返り河尻の軍勢を戦わずして信濃へと招き入れると、2月14日には松尾城飯田市)主小笠原信嶺も織田軍に寝返った。 2月12日、本隊の織田信忠と滝川一益がそれぞれ岐阜城と長島城を出陣し、翌々日の2月14日には岩村城に兵を進めた。

天正10年(1582年)2月14日に浅間山が噴火。武田家は組織的抵抗が難しくなる。

2月15日には織田信長から一益に「若い信忠をよく補佐せよ」との書状も届いた。2月16日、武田勢は鳥居峠で信長の命を受けた織田一門衆らの支援を受けた木曾義昌勢に敗北を喫した(鳥居峠の戦い)。翌17日に信忠は平谷に陣を進め、さらに翌日には飯田まで侵攻。同日、飯田城保科正直は城を捨てて高遠城へと逃亡(後に投降して戦後に高遠城主となった)、飯田城放棄を聞いた武田信廉(勝頼の叔父)らは戦意喪失。大島城(下伊那郡松川町)での抗戦は不可能とし、大島城から逃亡する。同じ2月18日、徳川家康が浜松城を出発し掛川城に入り、2月20日には依田信蕃が守備する田中城を包囲。2月21日には駿府城に進出した。侵攻初期にあたって投降が相次いだ結果、武田軍はほとんど戦わずして南信濃を失うことになった。

北条氏政は小仏峠御坂峠など相甲国境に先鋒を派遣した後、2月下旬に駿河東部に攻め入る。2月28日には駿河に残された武田側の数少ない拠点の1つである戸倉城三枚橋城を落とし、続いて3月に入ると沼津吉原にあった武田側の諸城を陥落させていった。上野方面では氏政の弟・北条氏邦厩橋城北条高広に圧力をかけ、さらに真田昌幸の領地をも脅かしていった。

高遠城への攻撃[編集]

高遠城の戦い
戦争:武田征伐
年月日:1582年
場所:高遠城
結果:織田軍の勝利
交戦勢力
Oda emblem.svg 織田軍 Japanese Crest Takedabishi.svg 武田軍
指導者・指揮官
Oda emblem.svg 織田信忠
森長可
Japanese Crest Takedabishi.svg 仁科盛信 
Tachi omodaka.svg 小山田昌成 
Tachi omodaka.svg 小山田大学助 
戦力
30,000人 3,000人
損害
約1,500人 約2,800人

2月28日、河尻秀隆は信長から高遠城の攻略のために陣城を築けとの命を受ける。翌3月1日、織田信忠は武田家親族衆で高遠城主の仁科信盛(盛信)の籠城する信濃伊奈郡の高遠城(長野県伊那市高遠町)を包囲する。信盛は勝頼期に越後方面に在城していたが、天正9年(1581年)に高遠城主を兼任している[2]。この際に「盛信」より「信盛」と改名していることが指摘される[3]

また、『甲乱記』によれば、信濃佐久郡内山城(長野県佐久市)の城代小山田昌成大学助も信盛に従い高遠城に入城している[4]。『信長公記』によれば、昌成は「脇大将(副将)であったという[4]。信忠は地元の僧侶を使者とし、信盛に黄金と書状を送り、開城を促した。しかし信盛はこの要求を拒絶、使者の僧侶は耳と鼻を削ぎとられて送り返されたという。一方、『武家事紀』所収の仁科信盛宛織田信忠書状では開城・降伏を勧告し、『加沢記』にはこれに対する籠城衆の返書が伝わっている[2]

『信長公記』によれば、翌3月2日に織田軍30,000は総攻撃を開始し、仁科信盛は譜代家老らとともに籠城し、織田軍と激闘を繰り広げた[2]。織田方も岩倉家出身の織田信家が戦死するなど大きな被害を受けたが、数で勝る織田軍に城門を突破されるに及び、ついに仁科信盛・小山田昌成・大学助、渡辺照諏方頼辰らは戦死ないしは自害し、高遠城は落城した[2]

盛信らの首級は信忠の陣に届けられ、主従の首級は京にて晒し首となった。首を取られ残された遺体は、彼を崇める地元の領民によって埋葬された。そこは今も「五郎山」と呼ばれている。

越中にて反織田勢力が富山城を占拠[編集]

天正10年(1582年)3月、甲州征伐で苦境に立っている武田勝頼に呼応して、魚津城を攻囲中の織田軍の背後を突いて小島職鎮唐人親広と共に富山城を急襲し、神保長職の子・神保長住を幽閉するが、柴田勝家らの織田氏軍に鎮圧された。

勝頼撤退[編集]

3月1日、武田氏一族の穴山梅雪が徳川家康に通じ、織田側に寝返った。徳川軍はあっという間に駿河を制圧した。そのため本国の甲斐が危うくなった武田勝頼は、塩尻峠有賀峠で織田軍を防ぎつつ高遠城に後詰めをするという戦略を諦めて、諏訪上原城から新府城に撤退したが兵の逃亡が相次いで、それまで10000人いた勝頼本軍の兵がわずか1000人まで激減していた。勝頼を追う織田信忠は高遠城陥落の翌日、杖突峠を押さえて本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払い、木曾義昌は信濃の要衝である深志城の攻略に向う。3月4日、家康は梅雪を案内役として甲斐に侵攻を開始した。

翌3月5日、織田信長は安土城を出発、3月6日には揖斐川に到達した。ここで嫡男・信忠から仁科盛信の首が届き、これを長良川の河原に晒した。

『信長公記』に拠れば、3月3日に勝頼は新府城を放棄し、郡内の小山田信茂を頼り逃れる。この時、多くの武士の妻子が取り残されたまま新府城に火が放たれた。また、この時かその以前に保科正直の子息、甚四郎(後の保科正光)は、正直が高遠城で寝返ったために成敗されかけたが、家臣の機転により脱出した。『甲陽軍鑑』に拠れば、勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対し信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)へ逃れることを提案したが、勝頼側近の長坂光堅が信茂の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れるべきと主張したという。一方、『甲乱記』では信勝・昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対して郡内へ逃れることを諮問したとしている。

なお、岩殿城は都留郡北部に位置し小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村(都留市谷村)とは距離があるため、小山田氏の城と見るか武田氏の城と見るかで議論がある。

天目山の戦い[編集]

天目山の戦い
Katsuyori died at Mt.Tenmoku 01.jpg
『天目山勝頼討死図』(歌川国綱画)
戦争:武田征伐
年月日:天正10年3月11日 (1582年4月3日)
場所:天目山付近
結果:織田軍の勝利、武田勝頼・信勝自害
交戦勢力
Oda emblem.svg 織田軍 Japanese Crest Takedabishi.svg 武田軍
指導者・指揮官
Japanese Crest Maru ni tate Mokkou.svg 滝川一益 Japanese Crest Takedabishi.svg 武田勝頼 
Japanese Crest Takedabishi.svg 武田信勝 
戦力
約3,000人 - 4,000人 43人
損害
討死380人,傷500人[5] 壊滅
天目山の崖道にある土屋惣蔵(昌恒)片手切りの史跡碑

3月7日に織田信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出し、これを全て処刑した。この時に処刑されたのは武田信友諏訪頼豊・武田信廉らである。『信長公記』では親族衆の一条信龍の名も記されているが、『家忠日記』によれば、信龍は3月10日に徳川家康を先導した穴山信君に対応するため市川(市川三郷町)へ着陣しており、同日に本拠の上野城(市川三郷町上野)が降伏し、子息の信就とともに処刑されたとされる[6]

新府城を放棄した勝頼とその嫡男の信勝一行は郡内を目指すが、その途上で小山田信茂の離反に遭う。『甲陽軍鑑』では勝頼一行は鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待ったが、3月9日夜に信茂は郡内への入り口を封鎖し、勝頼一行を木戸から招き入れると見せかけて鉄砲を打ちかけたという。『理慶尼記』では信茂の離反を3月7日とし、郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市)としている。一方、『甲乱記』では信茂が離反した日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)から駒飼(甲州市大和町)へ移動する途中で離反を知ったとしている。

いずれにせよ、勝頼一行は岩殿行きを断念し、天目山(甲州市大和町)を目指して逃亡した。なお、天目山は室町時代の応永24年(1417年)に武田家の当主・信満が上杉禅秀の乱に加担して敗走し、自害した地でもある。

3月11日、徳川軍も甲府に入った。家康と穴山梅雪は信忠に面会し、今後についての相談を行った。同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野(甲州市大和町)の地で滝川一益隊に対峙する。勝頼の家臣土屋昌恒小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。また、阿部勝宝も敵陣に切り込み戦死した。勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退した。

しかし衆寡敵せず、3月11日巳の刻(午前11時頃)、勝頼・信勝父子、桂林院殿は自害した。武田信廉の子息とされ勝頼の従兄弟にあたる甲府・大竜寺の住職・大竜寺麟岳もともに死去しており、『甲陽軍鑑』『甲乱記』によれば、麟岳は勝頼から自らの死を見届け、脱出して菩提を弔うことを依頼されるがこれを断り、信勝と刺し違えて死去したという。勝頼に随行した家臣では長坂光堅、土屋昌恒・秋山源三郎兄弟(土屋昌恒・秋山源三郎はともに金丸筑前守(虎義)の子で、それぞれ土屋氏秋山氏を継承した)、秋山紀伊守、小宮山友晴、小原下野守継忠兄弟、木部範虎大熊朝秀らも戦死した(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。いずれにしても『甲陽軍鑑』記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。

これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった『楯無』(武田家代々の家督の証として大切に保管され、現在は甲州市恵山上於曽の菅田天神社に伝来する国宝「小桜韋威鎧」に比定される)を着せて元服式を執り行い、その後父子とも自刃したという悲話が残る。その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。

武田宗家の終焉[編集]

信長は、勝頼自刃の時には信濃国境すら越えておらず美濃国岩村城に滞在していた。

唯一、田中城の依田信蕃だけは抵抗を続けていたが、穴山梅雪の勧告もあって開城した。この時、徳川家康は依田を家臣に誘ったが断られた。

3月14日、浪合(長野県下伊那郡阿智村)に進出していた信長の元に勝頼・信勝父子の首が届いた。同日、依田信蕃は本拠の春日城に帰還している。その後、依田は織田信忠の元に出仕しようとしたが、徳川家康の使者から「信長が処刑を予定している武田家臣の書立(一覧)の筆頭に依田の名前がある」と言われ、密かに家康の陣所を訪れた。そこで家康から徳川領内への潜伏を勧められ、遠江に身を隠した[7]。ちなみに他にも武川衆や後の徳川四奉行といった多くの人材が旧武田家臣で家康に帰参していた成瀬正一のもとに潜伏している。

『信長公記』『甲乱記』によれば、3月12日もしくは16日には武田信豊が勝頼の命により小諸城(長野県小諸市)へ赴き、城代の下曽根浄喜(覚雲斎)に背かれて次郎や生母・養周院とともに自害した。『信長公記』『甲乱記』『甲陽軍鑑』によれば、小山田信茂は織田家に投降を試みたが信忠から「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそは古今未曾有の不忠者」と言われ、3月24日に母と妻子、武田信堯小山田八左衛門、小菅五郎兵衛らとともに甲斐善光寺(甲府市善光寺)で処刑され、郡内領は無主となった。

信玄の次男で盲目ゆえ仏門に入っていた海野信親(竜芳)は、息子の顕了信道を逃した後、自刃した。信道の系統は大久保長安の業績に絡み後世にその血脈を伝えている。

論功行賞と武田残党の追討[編集]

3月21日に織田信長は諏訪に到着し、北条氏政の使者から戦勝祝いを受け取った。3月23日と3月29日には参加諸将に対する論功行賞が発表された。

  • 滝川一益:上野一国、小県郡・佐久郡
  • 河尻秀隆:穴山梅雪本貫地を除く甲斐一国、諏訪郡(穴山替地)
  • 徳川家康:駿河一国
  • 木曾義昌:本領(木曾谷)安堵、筑摩郡・安曇郡
  • 森長可:高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡
  • 毛利長秀:伊那郡
  • 穴山梅雪:本領(甲斐河内)安堵、嫡子・勝千代に武田氏の名跡を継がせ、武田氏当主とすることが認められた
  • 森成利:美濃兼山城(長可の旧居城)
  • 団忠正:美濃岩村城(秀隆の旧居城)

一益は「安土名物」と言われた茶器の「珠光小茄子」を所望していたとも言われ、「茶の湯の冥加が尽きてしまう」と嘆いていたとも言われている。また関東管領、もしくはそれに準ずる権限の役に就いたとも言われている。(『信長公記』では「関東八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」、『甫庵信長記』と『武家事紀』では「関東管領」と呼称されている。以上『信長軍の司令官 部将たちの出世競争』谷口克広:著、中公新書より)。北条氏政は「駿河でひとかどの働きをした」という評価を得たものの、これといった恩賞はなかった。

同時に甲斐・信濃の国掟も出された。

一、関役所、同駒口、取るべからざるの事。
一、百姓前、本年貢外、非分の儀、申し懸くべからざる事。
一、忠節人立て置く外、廉がましき侍生害させ、或ひは追矢すべき事。
一、公事等の儀、能々念を入れ、穿鑿せしめ、落着すべき事。
一、国諸侍に懇に扱ひ、さすが油断なき様、気遣ひすべき事。
一、第一慾を構ふにつきて、諸人不足たるの条、内籍続にをひては、
  皆々に支配せしめ、人数を抱ふべき事
一、本国より奉公望みの者これあらば、相改め、抱へ侯ものゝかたへ相届け、
  其の上において、扶持すべきの事。
一、城々普請丈夫にすべきの事、
一、鉄炮・玉薬・兵粮蓄ふべきの事。
一、進退の郡内請取、道を作るべき事。
一、堺目入組、少々領中を論ずるの間、悪の儀、これあるべからざるの事。
右定めの外、悪き扱ひにおいては、罷り上り、直に訴訟申し上ぐべく候なり。

現代語訳

  • 関所で税を徴収してはならない。
  • 農民から本年貢以外に税を課してはならない。
  • 忠節を尽くしてくる者を取り立てる以外、抵抗してくる侍は自害させるか、追放せよ。
  • 訴訟ごとについては念を入れて糾明し解決しなければならない。
  • 国侍たちは丁重に取り扱うべきだが、油断のないように気を遣うこと。
  • 支配者1人が欲張ると諸人が不満に思うから、所領を引き継いだ際はこれを皆に分け、また(新しく)家臣を召抱えること。
  • 本国(尾張・美濃)の者のうち奉公を望む者がいたら、身元を確かめ、その者を以前召抱えていた家へ連絡した上で奉公させること。
  • 各城は丈夫に普請すること。
  • 鉄砲、弾薬、兵糧を蓄えておくこと。
  • 各人が治める領域内で道を作ること。
  • 所領の境目が入り組んでいて争いになったとしても、憎しみあってはならない。
    • 右の定めの他にもし不都合な事があったら、(信長のところまで)参上して直接訴えよ。

4月に入り信長は甲斐に向かい、その途中の台ヶ原(北杜市)で、生涯初めて富士山を見たとされる。4月3日には、武田氏歴代の本拠である躑躅ヶ崎館の焼け跡に到着した。

一方、信忠勢は武田残党の追討を開始し、残党が逃げ込んだ恵林寺を包囲、残党を引き渡すよう要求したが寺側は拒否した。残党の引渡しを拒んだ事によって恵林寺は長谷川与次津田元嘉関成重赤座永兼の4人に焼き討ちされた[8]

この他、織田では武田方の武将の首を差し出してきた農民に対して黄金を下したため、これを見た農民達は武田方の名のあるものを探して殺し、その首を織田方に献上した。ここでは、武田家一門とその譜代家臣、および甲斐の国衆は厳しく追及・処断されたが、上野・信濃・駿河の国衆についてはあまり追及されなかったようである。例外は、諏訪一族のうち織田氏に抵抗した諏訪越中守ら、跡部勝資と縁戚関係にある朝比奈信置・信良ら、織田・徳川から離反した飯羽右衛門尉・菅沼刑部丞・菅沼伊豆守などである。この事実から、信長は事後の支配のため、武田の本国である甲斐の有力者は滅ぼし、それ以外はおおむねそのまま織田政権に組み込もうとしたと考えられる[9]。なお、『徳川実紀』では「家康は信長の命令にそむいて武田家臣たちをかくまった」と記述されているが、これは信長の出した国掟の内容と矛盾する。

4月8日、武田領の上野、北信濃を支配していた真田昌幸は織田信長から、旧領の一部を与えられ、織田政権に組み込まれ[10]織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となった。また沼田城には滝川益重が入った。昌幸は次男の信繁を人質として滝川一益に差し出した[11]。 4月10日に信長は甲府を出発し、東海道遊覧に向かった。駿河を得た家康から饗応を受けながら、4月13日に江尻(静岡市清水区)、16日に浜松へ到り、21日に安土城に凱旋した。

戦後[編集]

海津城に入った森長可は近隣諸将を鎮撫し、上杉景勝の侵入を防ぎつつ、一方では上杉氏への攻勢を強めていた。5月27日には柴田勝家らの北国勢の支援のために信越国境を越えて、春日山城を指呼の間に望む越後の二本木(上越市)辺りまでに乱入。その報を受けた上杉景勝魚津城救援から春日山城に引き返す必要に迫られることとなった。しかし、本能寺の変織田信長が討たれると、森長可海津城を捨て本領地に逃げ帰り、河尻秀隆天正壬午の乱にて武田旧臣の三井弥一郎により討ち取られた。そのため、武田遺領は一時的に政治的・軍事的空白状態となった。

滝川一益北条氏政のその後の動きは神流川の戦いを、徳川家康、氏政、真田昌幸のその後の動きは天正壬午の乱を参照。

なお徳川家康が召抱えた武田の遺臣達は、天正壬午の乱や軍制再編などで、徳川家に貢献した。特に依田信蕃は信濃・甲斐に家康を手引きし、その占領に貢献している。

武田遺臣のその後の動向については天正壬午起請文参照。

小説[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ なお、西上作戦については上洛を意図を巡って議論が存在する。
  2. ^ a b c d 丸島(2015)、p.549
  3. ^ 丸島和洋「武田勝頼と一門」『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年
  4. ^ a b 丸島(2015)、p.235
  5. ^ 『武田三代軍記』
  6. ^ 柴辻俊六「一条信龍」「一条信就」(柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年)p.99
  7. ^ 以上の依田についての記述は平山優「天正壬午の乱」より、原史料『依田記』による。
  8. ^ 記録によってはこの時、寺の和尚である快川紹喜は「心頭滅却すれば火も自ら涼し…」という辞世を残したとされるが、これは後世の創作と考えられる。詳しくは快川紹喜のページを参照。
  9. ^ 『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』より。処断された者は『甲陽軍鑑』『甲乱記』『信長公記』『当代記』『寛政重修諸家譜』『高野山成慶院過去帳』を参考にしている。
  10. ^ 柴辻俊六「織田政権と真田昌幸」(『日本歴史』566号、1995年)
  11. ^ 丸島和洋「真田弁丸の天正一〇年」(『武田氏研究』52号、2015年)

参考文献[編集]

外部リンク[編集]