小山田信茂

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小山田 信茂
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文8年(1539年)?
天文9年(1540年)?
死没 天正10年3月24日1582年4月16日
改名 藤乙丸、弥五郎、信有(諸説あり)、信茂
戒名 青雲院武山長久居士
墓所 長生寺
官位 左兵衛尉越前守
主君 武田信玄勝頼
氏族 小山田氏坂東八平氏秩父氏
父母 父:小山田信有、母:不詳
兄弟 信有信茂
正室:御宿友綱の妹
某、娘、香具姫(内藤忠興室)

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆。

生涯[編集]

出生から家督相続[編集]

大善寺本堂

郡内地方の国衆・小山田氏当主・小山田出羽守信有の次男として生まれる。小山田氏は坂東八平氏の一流・秩父氏の血を引くとされるが、異説もある。祖母が武田信縄の娘かつ信虎の妹で、信玄の従甥に当たる[1]

信茂の出自は不明瞭が点があり、天文24年9月5日付「柏尾山造営記写」[2]に拠れば、天文19年(1550年)3月中旬に父・出羽守信有は柏尾山大善寺甲州市勝沼町)に参詣した際に惣領の鶴千代丸・藤乙丸の二子を連れ、両人とも「12歳」としている[3]。「鶴千代丸」は「惣領(長男)」と記されているため弥三郎信有に、「藤乙丸」は比定され、両人とも天文8年(1539年)の出生と考えられるが、弥三郎信有は永禄5年(1562年)5月の願文で自身の年齢を「廿三」と記しているため生年は天文9年で、信茂は弥三郎信有の庶兄とも考えられている[4]。『甲斐国志』でも天正10年(1582年)に43歳死去としており、天文9年出生となる[5]。なお、このほかに『甲陽軍鑑末書』では永禄12年(1569年)時点で27歳とし、天文12年出生とする説もある[6]

天文21年(1552年)正月には父の出羽守信有が病死し、後は兄の弥三郎信有が家督を継ぐ。従来、弥三郎信有と信茂は同一人物とされていたが、『町田市史』において両人が別人である可能性が指摘され、高野山引導院供養帳により弥三郎信有は永禄8年に死去しており、信茂とは別人であることが判明した[7]

永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』には相模国後北条氏の「他国衆」として兄の弥三郎と並び「弥五郎」の名が記され、信茂に比定される可能性が考えられている[8]。また、『甲陽軍鑑』「甲州武田法性院信玄公御惣人数事」には御譜代家老衆に属す「御小姓衆」として「小山田弥五郎」の名を記し、250騎を率いたとしている。

永禄8年(1565年)に弥三郎が病死したために家督を継いだ。

信玄期の活動[編集]

甲陽軍鑑』に拠れば武田氏と長尾景虎(上杉謙信)は天文16年(1547年))10月19日に信濃海野平においてはじめて合戦を行ったとし、このとき「小山田左兵衛」が御先(先陣)を務めたとしている。実際には第一次川中島の戦いは天文22年(1553年)9月に北信濃で発生した出来事で、「左兵衛」は信茂の官途名であるが、『甲陽軍鑑』では弥三郎信有を指していることが指摘される[9]

永禄9年(1566年)正月16日には鶴瀬(甲州市大和町)の佐藤与五左衛門に過所を発給しており、これが初見文書とされる。同年3月には信玄に従い上野国群馬県)に出陣しており、帰路に信濃海津(長野県長野市)付近から、郡内の冨士御室浅間神社別当小佐野能秀に対して書状を送っている。翌永禄10年には代替わりの安堵状を多く発給している。また、同年8月7日には武田家における義信事件(嫡男義信の廃嫡事件)に際した起請文下之郷起請文)が提出され、信茂も起請文を記している。

永禄11年12月には武田氏と今川氏の同盟が断絶し、武田氏による今川領侵攻(駿河侵攻)が開始される。『甲陽軍鑑』に拠れば信茂は先陣を務め、駿河江尻(静岡県静岡市清水区)から上原(同市同区)に侵攻したという。翌永禄12年(1569年)、今川領への侵攻は相模後北条氏との甲相同盟の断絶も招き、北条氏との抗争も発生する。『甲陽軍鑑』に拠れば信茂は駿河で合戦を続けていたとしているが、詳細な動向は不明。

同年9月10月、信玄は後北条氏の本拠である相模小田原城神奈川県小田原市)を包囲し、撤兵中の10月6日には相模三増峠(神奈川県愛川町相模原市緑区津久井)において北条方との三増峠の戦いが発生する。『甲陽軍鑑』に拠れば信玄は信茂に対して郡内から武蔵国八王子城東京都八王子市)を攻め、さらに小田原城の支城である滝山城(八王子市)での合流を指示したという。一方、同年9月には信茂が冨士御室浅間神社に奉納した起請文が存在しており、この起請文によれば信茂は御嶽城鉢形城を攻撃し、滝山城下に放火し郡内に帰国したとされ、三増峠の戦いには参加していない可能性も指摘される[10]

今川・北条との争いはその後も続き、元亀元年(1570年)にも駿河・伊豆への出兵が行われているが、信茂の動向は不明。同年8月には伊豆韮山城興国寺城攻めが行われており、信茂は山県昌景武田勝頼とともに韮山城攻めに加わっている。元亀2年に武田氏の駿河支配は確立するがその後も北条氏との抗争は続き、『甲陽軍鑑』では北条との争いにおける信茂の動向を記している。同年12月には第二次甲相同盟が成立し、北条との争いは収束する。

元亀3年(1572年)10月に信玄は尾張の織田信長と断行し、「西上作戦」と呼ばれる軍事行動を開始する。西上作戦では信長の同盟国である三河国の徳川家康の領国である三河・遠江への侵攻を行い、同年12月には徳川方との三方ヶ原の戦いが発生する。『甲陽軍鑑』に拠れば、西上作戦に際して信茂は先陣を務めたとし、三方ヶ原の戦いにおける動向も記している。

なお、三方ヶ原の戦いにおいて信茂は投石隊を率いたとする逸話が知られる。三方ヶ原において武田氏が投石隊を率いたとする逸話は『信長公記』や『三河物語』において記されているが信茂が率いたとする史料は見られず、近世・近代期の戦史資料において誤読され、信茂が投石隊を率いたとする俗説が成立したと考えられている[11]

元亀4年4月12日、信玄は信濃伊那郡駒場で死去し、家督は四男の勝頼が継ぐ。

勝頼期の活動[編集]

元亀4年(1573年)7月1日の文書において、信茂は花押に家印「月定」朱印を重捺する形式から花押のみの形式に転換している。「月定」は出羽守信有が創始した小山田氏の家印で花押とともに重捺する形式は歴代小山田氏の発給文書の基本様式となっていたが、信茂期の変化は武田家の代替わりに伴う転換であることが指摘されている[12]

信玄の死後、織田信長・徳川家康は攻勢を強め、元亀4年7月に家康は三河国長篠城愛知県新城市)攻めを開始し、勝頼はこれに対して後詰を派遣する。『甲陽軍鑑』に拠れば、信茂はこのときに武田信豊馬場信春とともに長篠城に派遣されたという。同年8月には三河国作手の国衆・奥平氏が離反し、同年9月に長篠城は落城する。『甲陽軍鑑』に拠れば信豊ら後詰の兵も帰国したとされ、信茂も帰国したと見られている[13]

天正3年(1575年)4月に勝頼は反攻を開始し、三河足助城(愛知県豊田市)攻めを行う。信茂もこのときに参陣している。同年5月に勝頼は長篠城を包囲すると、これに対して織田信長が出兵し、同年5月21日には武田氏と織田・徳川連合軍の間で長篠の戦いが発生する。『甲陽軍鑑』に拠れば信茂は馬場信春、内藤昌秀、山県昌景、原昌胤らとともに勝頼を諌めたという。また、『甲陽軍鑑』に拠れば信茂は長篠の戦いで徳川勢と競り合ったとしている。長篠の戦いで武田方は大敗し多くの重臣が戦死しているが、信茂は勝頼の身辺を警護し、退却したという。同年6月には信茂の義兄である御宿友綱宛ての漢文体の書状が残されているが、内容は検討の余地が指摘される[14]

天正4年(1576年)4月16日には信玄の葬儀が実施され、信茂は御剣を持ったという。翌天正5年4月3日発給の文書では、他の類例がなく写でのみ知られるが、二重郭の長方形朱印である実名朱印「信茂」を使用している点が注目されている[15]

天正6年(1578年)3月、越後で上杉謙信の没後に上杉景勝上杉景虎の間で家督を巡る御館の乱が発生する。勝頼は甲相同盟に基き、北条家から上杉家に養子に入った景虎支援を要請されて越後へ出兵する。これに対し景勝は勝頼と和睦交渉を試み、勝頼はこれに応じて景勝・景虎間の和睦を仲介する。信茂は景勝との交渉において、勝頼側近の跡部勝資長坂光堅とともに取次を担当している。小山田氏は後北条氏との取次を担当していた点からも景勝・景虎間の調停にも携わっていたと見られている[16]

景勝・景虎間の和睦は一時的に成立するが、同年8月22日に徳川家康が駿河田中城(静岡県藤枝市)攻めを行うと勝頼は越後を撤兵し、そのさなかに景勝・景虎間の和睦は崩れる。天正7年3月には景虎が景勝に攻められて滅亡し、これに甲相同盟も破綻する。勝頼はこれに対して景勝との同盟を強化し、甲越同盟が成立する。信茂は引き続き上杉方との取次を担当している。

信茂の勝頼離反から滅亡[編集]

岩殿城

天正9年12月、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始し(甲州征伐。総大将織田信忠、副将滝川一益)、信濃木曽郡の国衆・木曽義昌が離反する。また、これに伴い相模の後北条氏も武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原(長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日に織田信忠は伊那郡高遠城の仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[17]

勝頼は天正9年に新府城(山梨県韮崎市)を新たに築城し甲府から本拠を移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城を放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城群馬県吾妻町)への退避を提案したが、勝頼側近の長坂光堅が小山田を頼り郡内の岩殿城大月市賑岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。

なお、岩殿城は小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村(都留市谷村)からは距離があることから、岩殿城を小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[18]。なお、天正9年3月20日に岩殿城へ勝頼が在番衆を派遣している事実も注目されている[19]

勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反し、田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、滅亡した(天目山の戦い)。

信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室が御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市・甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和村)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。

甲斐善光寺

一方、織田・徳川方の史料では『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田八左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に八左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。

織田・徳川勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。

『信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田八左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日、甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

妻妾・子女[編集]

千鳥姫という信茂側室の伝説もある。千鳥姫は、織田家の大軍に包囲された岩殿山城から信茂の次男賢一郎と赤子の万生丸を連れ、護衛の小幡太郎らと共に落ち延びたが、万生丸が泣き出したため、小幡太郎は千鳥姫から万生丸を取り上げ、岩殿山城の断崖から投げ捨てたというものである。その場所は稚児落としと呼ばれて伝わっている。

『甲乱記』では信茂とともに処刑された元服前の「八歳ニナル男子」の存在を記し、高野山持明院『十輪院過去帳』ではこれに該当すると見られる「幻朝童子」の存在を記している[20]

信茂には孫娘(養女)の天光院殿がいる。「天光院殿」は追号で、名を「香具姫(香貴姫)」とする説もあるが、確実な史料からは確認されない[21]。天光院殿は信茂娘と教来石左近大夫の間に生まれ、後に信茂の養女となる。天正10年の武田氏滅亡後、信玄の娘の松姫に連れられ勝頼の娘、仁科盛信の娘らとともに、武蔵国横山村(現・東京都八王子市)に落ち延び、松姫により育てられている。のちに磐城平藩内藤忠興の側室となり、嫡男内藤義概(よしむね)らをもうけている。

人物[編集]

  • 武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場ら重臣と共に名を列ねている。
  • 武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。
  • 設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

小説[編集]

  • 山元泰生『小山田信茂』(学陽書房人物文庫・2012年1月)ISBN978-4-313-75274-0

脚注[編集]

  1. ^ 「武田源氏一統系図」『山梨県史』資料編中世6中世3上(県内記録)所載等による。
  2. ^ 「大善寺文書」『山梨県史 資料編4中世1(県内文書)』 - 628号
  3. ^ 丸島(2013)、pp.132 - 133
  4. ^ 丸島(2013)、pp.172 - 173
  5. ^ 丸島(2013)、p.173
  6. ^ 丸島(2013)、p.173
  7. ^ 丸島(2013)、pp.131 - 132
  8. ^ 丸島(2013)、p.173
  9. ^ 丸島(2013)、p.155
  10. ^ 丸島(2013、pp190 - 191
  11. ^ 丸島(2013)pp.210-211
  12. ^ 丸島(2013)、p.216
  13. ^ 丸島(2013)、p.218
  14. ^ 丸島(2013)、p.223
  15. ^ 丸島(2013)、pp.226 - 227
  16. ^ 丸島(2013)、p.230
  17. ^ 丸島(2013)、p.249
  18. ^ 丸島(2013)、pp.243 - 244
  19. ^ 丸島(2013)、pp.242 - 243
  20. ^ 丸島(2013)、p.259
  21. ^ 丸島(2013)、p.290

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]