影武者 (映画)
| 影武者 | |
|---|---|
| 監督 | 黒澤明 |
| 脚本 |
黒澤明 井手雅人 |
| 製作 |
黒澤明 田中友幸 外国版プロデューサー フランシス・フォード・コッポラ ジョージ・ルーカス |
| 出演者 |
仲代達矢 山崎努 萩原健一 根津甚八 油井昌由樹 隆大介 大滝秀治 桃井かおり 倍賞美津子 志村喬 藤原釜足 |
| 音楽 | 池辺晋一郎 |
| 撮影 |
斎藤孝雄 上田正治 |
| 製作会社 |
黒澤プロダクション 東宝映画 |
| 配給 | 東宝 |
| 公開 |
|
| 上映時間 | 179分 |
| 製作国 |
|
| 言語 | 日本語 |
| 製作費 | $6,000,000 |
| 配給収入 |
(1980年邦画配給収入1位)[1] |
『影武者』(かげむしゃ)は、1980年(昭和55年)に公開された日本映画。東宝配給。監督は黒澤明、主演は仲代達矢。カラー、ビスタ、179分。第33回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した[2]。
黒澤が『デルス・ウザーラ』以来5年ぶりに撮った映画で、久しぶりの時代劇となった。彼の作品では唯一、実在の戦国武将にまつわるエピソードを取り上げたスペクタクル巨編で、戦国時代に小泥棒が武田信玄の影武者として生きる運命を背負わされた悲喜劇を描く[2]。外国版プロデューサーとして、黒澤を敬愛するフランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカスが名を連ねた[2]。勝新太郎の降板劇など公開前から話題を呼び、当時の日本映画の歴代映画興行成績(配給収入)1位を記録し、1983年に蔵原惟繕監督の『南極物語』に抜かれるまで破られなかった[2][3]。
目次
あらすじ[編集]
天正元年、その勇猛を恐れられる武田信玄とその軍勢は、東三河で野田城を攻め落とそうとしていたが、ある夜、信玄は城内から狙撃され、上洛の野望叶わずして死す。自己の死は秘匿し、幼い嫡孫(竹丸)が成長するまで3年は動かずに領地を固めてほしい、との遺言を託された信玄の弟武田信廉と重臣らは、信玄の死を内部にも明かさず、死刑寸前のところを信廉が拾ってきた、信玄に瓜二つの盗人を、信玄の影武者として立てることとする。盗人は盗み癖を見せて逃げようとしたため一度は解任されるものの、信玄が死んだこと、かつその死が織田信長や徳川家康の間者にばれたところを目撃すると、以前対面した折に受けた信玄の威厳や、助命の恩義を思い出し、自ら影武者になることを重臣たちに土下座して願い出る。
信玄として屋敷へ戻った影武者は、嫡孫竹丸や側室たちとの対面を危ないところを見せながらも果たし、やがては評定の場においても信玄らしく振舞って収めるなど、予想以上の働きを見せていく。しかし信玄の存命を疑う織田信長や徳川家康は、陽動作戦を展開しだす。それに対し諏訪勝頼は独断で出陣し、武田家内には不協和音がもたらされる。勝頼は側室の子ゆえ嫡男とはみなされず、自身の子、竹丸の後見人とされており、かつ、芝居とはいえ下賤の身である影武者にかしずいて見せねばならぬなど憤懣やる方なかったのだ。
しかしある日、影武者は信玄の愛馬から振り落とされ、川中島で上杉謙信につけられた傷がないことを側室に見られてしまい、ついにお役御免となる。重臣らはやむを得ず、勝頼を武田家の総領とすることを決定するが、功にはやる勝頼は重臣たちの制止を振りきり、長篠で、織田・徳川の連合軍と相対する。三段構えの敵鉄砲隊の前に武田騎馬軍の屍が広がる中、影武者だった男は、槍を拾い上げ、ひとり敵へと突進していく。
戦が終わり、男は致命傷を負いながらも死屍累々の戦場の中を徘徊し、喉を潤すべく河に辿り着いた所で河底に沈む風林火山の御旗を見つけ、駆け寄ろうとして力尽き斃れ、その屍が河に流される所で物語の幕は下りる。
キャスト[編集]
- 武田信玄、影武者:仲代達矢
- 武田信廉:山崎努
- 諏訪勝頼:萩原健一
- 土屋宗八郎:根津甚八
- 山縣昌景:大滝秀治
- 織田信長:隆大介
- 徳川家康:油井昌由樹
- お津弥の方:桃井かおり
- 於ゆうの方:倍賞美津子
- 馬場信春:室田日出男
- 内藤昌豊:志浦隆之
- 跡部大炊助:清水紘治
- 原昌胤:清水のぼる
- 小山田信茂:山本亘
- 高坂弾正:杉森修平
- 武田竹丸:油井孝太
- 森蘭丸:山中康仁
- 竹丸付き老女:音羽久米子
- 丹羽長秀:山下哲夫
- 雨宮善二郎:阿藤海
- 托鉢僧:江幡高志
- 原甚五郎:島香裕
- 傀儡子:田辺年秋
- 温井平次:井口成人
- 塩売り:山口芳満
- 甘利おくら:金窪英一
- 信玄を狙撃した足軽:杉崎昭彦
- 友野又市:宮崎雄吾
- 泥武者:栗山雅嗣
- 酒井忠次:松井範雄
- 伝騎:矢吹二朗
- 石川数正:土信田泰史
- 渡辺隆
- 本多平八郎:曽根徳
- 伊藤栄八
- 宣教師:フランシスコ・セルク
- 梁瀬守弘
- 宣教師:アレキサンダー・カイリス
- 医師付きの小者:加藤敏光
- ポール大河
- 上杉謙信:清水利比古
- 大村千吉
- 田口刑部:志村喬
- 医師:藤原釜足
- 観世流:浦田保利
- 鏑馬武田流司家:金子有隣
※クレジット順
スタッフ[編集]
- 監督:黒澤明
- プロデューサー:黒澤明、田中友幸
- 外国版プロデューサー:フランシス・コッポラ、ジョージ・ルーカス
- アシスタントプロデューサー:野上照代
- 脚本:黒澤明、井手雅人
- 監督部チーフ:本多猪四郎
- アドバイザー:橋本忍
- 撮影:斎藤孝雄、上田正治
- 撮影協力:中井朝一、宮川一夫
- 美術:村木与四郎
- 録音:矢野口文雄
- 照明:佐野武治
- 音楽:池辺晋一郎
- 指揮:佐藤功太郎
- 演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団
- 監督助手:岡田文亮
- 特殊機械チーフ:三輪野勇
- スチール:橋山直巳
- 武家作法:久世竜
- 馬術指導:白井民平
- 騎馬訓練:長谷川敏
- 現像:東洋現像所
- 製作担当者:橋本敏明
- 音響効果:三縄一郎
- 衣裳提供:三松
- 協力:日本航空、上野市(現・伊賀市)・伊賀上野城、熊本市・熊本城、姫路市・姫路城
作品解説[編集]
黒澤明は、ソ連で『デルス・ウザーラ』を撮ったあと、次回作としてシェイクスピア原作の『リア王』を翻案した『乱』の企画を練り上げるが、壮大なスケールの作品ゆえ製作費の調達に難航し、実現出来なくなっていた。黒澤はその間にもドストエフスキー原作の『死の家の記録』やエドガー・アラン・ポー原作の『赤死病の仮面』をもとにした作品のシナリオも書きあげているが、いずれも頓挫している[4]。それに替って企画したのが『影武者』であり、こちらも製作費調達が難航するも、黒澤を師と慕うフランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスの働きかけにより、東宝と20世紀フォックスの共同出資で製作が実現した[5]。撮影は姫路城、熊本城[6]、北海道、富士山麓など全国各地でロケが行われた。
勝新太郎の降板[編集]
当初主演に起用されていた勝新太郎は、撮影開始後に黒澤と衝突し、降板した[2]。直接の原因は、1979年(昭和54年)6月末のクランクイン直後の7月18日、勝が自分の演技を撮影するためのビデオカメラを東宝砧撮影所に持ち込んだことによる[7]。勝はこれを自身の役作りの参考にしようとするつもりであったが、黒澤の許可を得ていなかった。勝が黒澤にビデオカメラの持ち込みを許可するように頼んだところ、黒澤は「演技は監督である自分が見ているので信用してほしい」と言った。勝はこれに納得せず「それは解っているが、こちらはこちらでビデオを撮りたい」と再度頼むも、完璧主義の黒澤は撮影現場に自らの映画のカメラ以外の撮影機材を持ち込むことを許さず「撮影はこっちでやるから大丈夫だ」と断った。このような問答をした後、勝は怒り心頭で撮影現場から出て行った。そして勝は降板した。
これにより、『乱』の主演が内定していた仲代達矢が代役として起用されることとなった(なお、当時の新聞上では仲代の代役が発表される以前に井川比佐志、原田芳雄らの名前が報道されていた)。仲代は独自の影武者像を作り上げたが、劇場公開の際に映画を観た勝は「(映画は)面白くなかった。」「おれが出ていれば面白かったはずだ。」とコメントした。
勝がビデオカメラを撮影現場に持ち込んだ理由として、勝が単に、いわゆる「メイキング映像」を撮りたがっていただけ、とする関係者の証言もある。
黒澤作品の常連脚本家で本作を手がけた井手雅人が語ったところによれば、当初は勝が武田信玄と影武者を、勝の実兄の若山富三郎が信玄の弟信廉役を演じるという、実際の兄弟関係を逆転させた配役の案があったという[8]。しかし、若山は勝と黒澤のトラブルを予期し、それに巻き込まれることを嫌って出演依頼を断ったため、それきりに終わった。なお若山は、「何、黒澤明? そんなうるせえ監督に出られねえよ、俺は」と、出演依頼を断わったその本音を述懐している[9]。
スタッフをめぐるトラブル[編集]
音楽では、『どん底』から『赤ひげ』までコンビを組んできた佐藤勝が15年ぶりに参加したものの、黒澤と対立して降板し[10]、武満徹の推薦で急遽池辺晋一郎が起用されることになった。武満の映画音楽のアシスタントをしていた池辺は『どですかでん』にも関わっており、その後『乱』を除く全作品を手がけることになる。なお、『乱』を手がけたのは武満であるが、この作品でも武満は黒澤と激しく対立し、武満は降板こそしなかったものの黒澤と決別に至っている。
その他、こちらも『羅生門』や『用心棒』などの黒澤作品で担当した撮影の宮川一夫が体調不良(白内障)により降板している[11]。
出演者[編集]
ほとんどの出演者がオーディションで選ばれた。油井昌由樹や隆大介、清水大敬(当時は「清水のぼる」名義)、阿藤海、島香裕など、無名の俳優、新人俳優から演技経験の全くない素人までが数々の重要な役で出演した。
無名時代の電撃ネットワークの南部虎弾(出演者クレジットは南部虎太となっている)、柳葉敏郎、山田五郎(クレジットなし)が、雑兵や死体役などのエキストラとして出演している。当時大学生だった鴻上尚史はオーディションに合格したが、当日の都合で参加できず、石田純一はオーディションで落とされたという。また当時のニュース映像では川谷拓三、大竹しのぶのオーディション参加が確認できた。
かつての勝プロの常務、眞田正典によると、勝の実兄、若山富三郎の出演辞退に伴い、勝サイドは黒澤に勝の物まねショーで日本のみならず東南アジア等でも活躍していた酒巻輝男を推薦し、黒澤、勝両名の見守る中、オーディションとは別枠でスクリーンテストが行われたが、勝本人と並ぶとまるで似ておらず、また演技も全くできなかったためNGとなった。
また黒澤明作品の常連の志村喬と藤原釜足の最後の黒澤明作品出演作となった。
受賞[編集]
第33回カンヌ国際映画祭でグランプリのパルム・ドールを受賞したほか、アカデミー賞では外国語映画賞と美術賞にノミネートされるなど、国内外で数多くの賞で受賞・ノミネートを受けた。また、キネマ旬報ベスト・テンでは第2位に選出され、1999年(平成11年)の「オールタイム・ベスト100 日本映画編」で第82位、2009年(平成21年)の「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇」で第59位に選ばれている[12][13]。
主な受賞・ノミネートは以下の通り
| 賞 | 年 | 部門 | 対象 | 結果 |
|---|---|---|---|---|
| アカデミー賞 | 1980年 | 外国語映画賞 | ノミネート | |
| 美術賞 | 村木与四郎 | ノミネート | ||
| カンヌ国際映画祭 | 1980年 | パルム・ドール | 受賞 | |
| 英国アカデミー賞 | 1980年 | 作品賞 | ノミネート | |
| 監督賞 | 黒澤明 | 受賞 | ||
| 撮影賞 | 斎藤孝雄、上田正治 | ノミネート | ||
| 衣装デザイン賞 | 百沢征一郎 | 受賞 | ||
| セザール賞 | 1981年 | 外国映画賞 | 受賞 | |
| ブルーリボン賞 | 1980年 | 作品賞 | 受賞 | |
| 主演男優賞 | 仲代達矢 | 受賞 | ||
| 新人賞 | 隆大介 | 受賞 | ||
| 毎日映画コンクール | 1980年 | 日本映画大賞 | 受賞 | |
| 監督賞 | 黒澤明 | 受賞 | ||
| 男優演技賞 | 仲代達矢 | 受賞 | ||
| 美術賞 | 村木与四郎 | 受賞 | ||
| 音楽賞 | 池辺晋一郎 | 受賞 | ||
| 日本映画ファン賞 | 受賞 | |||
| キネマ旬報賞 | 1980年 | 助演男優賞 | 山崎努 | 受賞 |
| ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 | 1981年 | 外国監督賞 | 黒澤明 | 受賞 |
| ベルギー映画批評家協会賞 | 1981年 | 監督賞 | 黒澤明 | 受賞 |
外国版と国内版[編集]
外国版では、上杉謙信が信玄の訃報を聞く場面など、日本国内版の一部シーンが日本の歴史を知らない外国人には理解しにくいとの理由でカットされた。それだけではなく、公開時の淀川長治との雑誌対談で黒澤は「国内版は時間がなかったため編集が不十分。もっと切りたかった。外国版は時間が許す限り再編集した。」という主旨の発言をしている。
ドキュメンタリー・関連書籍[編集]
- 1979年(昭和54年)11月2日にNHKの『NHK特集・黒澤明の世界』で、「影武者」製作の舞台裏が放送された。
- シナリオ・絵コンテ集『黒澤明 影武者』(講談社、1979年)がある。
- 『全集黒澤明 第6巻』(岩波書店)、台本他が所収。
脚注[編集]
- ^ 1980年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
- ^ a b c d e 『昭和55年 写真生活』p10-11(2017年、ダイアプレス)
- ^ 『朝日新聞』1983年8月22日付夕刊(東京)、15頁。
- ^ 都築政昭『黒澤明 全作品と全生涯』、岩波書店、2010年3月5日、p.382
- ^ 都築政昭『黒澤明 全作品と全生涯』、岩波書店、2010年3月5日、p.383
- ^ 作品紹介・影武者、くまもとロケーションナビ、2017年3月15日閲覧
- ^ 『影武者』撮影秘話
- ^ 「黒澤明」参謀が明かした「勝新太郎」と大喧嘩の一部始終
- ^ 『仲代達矢が語る 日本映画黄金時代』(PHP新書)P214
- ^ 野上照代氏「影武者」クライマックスシーン「ルーカスは『切れ』と言っていた」
- ^ 宮川 一夫
- ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』、キネマ旬報社、2012年5月23日、p.588
- ^ 「オールタイム・ベスト 映画遺産200」全ランキング公開、キネマ旬報映画データベース、2017年3月15日閲覧
外部リンク[編集]
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