敦煌 (映画)

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敦煌
Dun-Huang
監督 佐藤純彌
脚本 佐藤純彌・吉田剛
原作 井上靖
製作総指揮 徳間康快
出演者 西田敏行
佐藤浩市
柄本明
田村高廣
中川安奈
三田佳子
渡瀬恒彦
音楽 佐藤勝
撮影 椎塚彰
編集 鈴木晄
製作会社 大映電通
配給 東宝
公開 日本の旗 1988年6月25日
上映時間 143分
製作国 日本の旗 日本中華人民共和国の旗 中国
言語 日本語中国語
興行収入 82億円[1]
配給収入 45億円[2]
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敦煌』(とんこう)は、1988年日本中国合作映画。1989年の第12回日本アカデミー賞で複数受賞をした(⇒ #受賞)。原作は井上靖の小説「敦煌」。

あらすじ[編集]

北宋のころ、主人公・趙行徳は科挙の最終試験殿試を受けるため首都開封府にやってきた。行徳に出された問題は「西夏対策を述べよ」であったが、西夏が単なる辺境だと思っていた行徳はまともに答えることが出来ず、受験に失敗する。

次回の科挙は3年後……。失望感のあまり自暴自棄になっていた行徳は、西夏出身の女と知り合ったことから西夏に興味を持ち、西へと旅する。しかし、途中で西夏の傭兵の漢人部隊に捕獲されてその兵に編入されてしまう。しかし、漢人部隊々長の朱王礼は行徳に目を掛け、彼を漢人部隊の書記に抜擢する。辺境だとばかり思っていた西夏は、シルクロードの拠点として仏教文化の華開く砂漠のオアシスだった。西夏軍がウイグルを攻略した際、行徳はウイグルの王女・ツルピアを助けて匿い、やがて彼女と愛し合うようになる。やがてその才能を認められた行徳は、西夏の首都への留学を命じられ、ツルピアの庇護を朱王礼に託して旅立つ。しかし留学期間が延び、ようやく西夏に戻ったときには、ツルピアは西夏の皇太子李元昊のウイグル支配の手段として、強制的に彼の妻となることになっていた。しかし、婚礼の席上、ツルピアは李元昊を殺害しようとするが失敗、そのまま城壁から身投げしてしまう。李元昊に対して反感をつのらせた朱王礼は、李元昊が敦煌を制圧してそこに入城する機をとらえて反乱をおこすが、すんでのところで李元昊を逃してしまい、壮絶な戦闘の後に戦死する。戦乱の中で大混乱に陥る敦煌。行徳は敦煌の文化遺産を戦乱から守ることを決意し、貴重な書籍や経典を敦煌郊外の石窟寺院に運び出していく。

出演[編集]

スタッフ[編集]

製作[編集]

1974年、徳間康快大映を買収し、社長就任の会見で「我が大映としては井上靖先生の『敦煌』と司馬遼太郎先生の『坂の上の雲』を映画化する」と発表をした[3][4]。原作が1959年から『群像』(講談社)で連載されており、徳間は愛読していた[4]。倒産した大映は劇場チェーンを失っており、生きていくためには海外マーケットを狙った大作を作らなければならないという狙いだった[3]。徳間は10年以上かけて買い集めた日本刀コレクションの中から、最も大切にしていた一振を持ち井上を訪ね、それを土産に映画化権獲得を切り出すものの、原作の映画化権は井上の小説『闘牛』のモデル・小谷正一に渡っていた[3]。小谷は小林正樹と製作を進め、小林が既に脚本も完成させていたものの、中華人民共和国(以下、中国)から撮影許可が全く下りず、北海道で撮る計画を立てたりし苦しんでいた[3]。徳間と小谷の共通の友人である東映岡田茂は「徳間は『敦煌』を日中合作で映画化してみせると言っている。やらせてやってくれないか」と小谷を説得し、金銭的な契約は何もなく映画化権は徳間へ移った[3]。小林と打ち合わせを進めながら、徳間は莫大な製作費の用意するため奔走。1972年から日中映画交流に着手し、実現の機会を待った[3]

徳間康快は最も中国との貿易に力を入れていた丸紅へアプローチし、社長の春名和雄に熱弁を振るって5億円の出資を引き出した。電通松下グループなどと交渉を持ち、資金面でも映画化実現に一歩一歩近づいていった[3]。しかし徳間と小林正樹が芸術的な部分で平行線を辿り、共通の友人である佐藤正之を間に立てて、小林を降板させる[3]。「あれだけ『敦煌』の映画化に燃え、人生すら賭けていた小林正樹を切るとは」と徳間は批判された[3]

1974年4月3日、東京銀座の三笠会館で深作欣二のメガホンによる本作の製作発表が行われた[3][5]。徳間・深作のほか、「石橋をたたいてもまだすぐには渡らない」とも言われた東宝松岡功が同席したことで、「本作は本当に出来るようだ」と報道された[5]

松岡功は「1982年夏、全国東宝系170館で公開する」と公言していた[5]。同年に日本で公開された映画『未完の対局』は中国側が徳間康快に「一緒にやらないか」と脚本を示してきたもので、「娯楽性を考えると、これは映画になりにくい」と徳間康快は判断したが、「これをやらなくては『敦煌』への道は開かれない」と意を決し、初の日中合作を実現させた[3]。この成功により[3][4]、中国側も『敦煌』に対して理解をし始め、実現に向けて大きな可能性が生まれた[3]。企画当初は20億円と見られていた予算は、10年間の時を経て、物価の上昇などで35億円にまでハネ上がっていた[3]

深作欣二は『上海バンスキング』を監督する前に、本作の映画化を頼まれ、引き受けた[6]敦煌ロケーションハンティングに行く途中で上海へ寄り、当地の映画撮影所と協力を構築しながら、本作へ繋げられたらと思案[6]。軍馬の手配、夏・秋・冬の雪が大地を覆っているところを三つは撮りたいと考え、『上海バンスキング』がクランクアップした後に本作の準備にとりかかり、朱王礼に千葉真一、趙行徳に真田広之をキャスティングしていた[6]。しかし馬が足りないことや、原作の人肉市場でウイグルの王女が人身売買する個所の歴史的事実があるかないかで徳間康快らと対立[6]。同時期に深作は東映から3ヶ月で映画『火宅の人』を撮らないかというオファーを受ける[6]。本作の準備に時間がかかると踏み、一時的に離れるが、さらにこれが徳間らと気まずくなり、雰囲気を悪化させてしまった[6]。このまま自分が撮ると迷惑がかかると深作は思い、映画『未完の対局』を監督した佐藤純彌なら中国の人たちと信頼関係があるからと、本作をバトンタッチし、「自分が外れるからキャスティングも一新して構わない」と佐藤へ告げていた[6]。降板した深作は「(ロケハン以外にも鎧の手配など)予算を使いすぎて大映へ非常に迷惑を掛けた」と述べている[6]

プロモーション[編集]

関連企業・団体に618万枚の前売り券が配布され[7]、そのうち売上は450万枚に達した[8]

受賞[編集]

第12回日本アカデミー賞(1989年)

脚注[編集]

  1. ^ 歴代ランキング - CINEMAランキング通信” (2016年3月28日). 2016年5月7日閲覧。
  2. ^ 1988年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 石井真人「Making of 敦煌 敦煌の全貌 その(1)」『キネマ旬報』1988年4月上旬号、pp.82–85
  4. ^ a b c 「敦煌 徳間康快インタビュー」『キネマ旬報』1988年4月下旬号、pp.93–98
  5. ^ a b c 石井真人「Making of 敦煌 敦煌の全貌 その(2)」『キネマ旬報』1988年4月下旬号、pp.130–133
  6. ^ a b c d e f g h 深作欣二山根貞男 「第十一章 大作映画の悪戦苦闘」『映画監督 深作欣二』 ワイズ出版(原著2003年7月12日)、第1刷、418 - 420頁。ISBN 978-4898301555
  7. ^ 日本経済新聞』1988年6月23日付夕刊。なお『読売新聞』1988年6月22日付東京朝刊、9頁では610万枚と丸めた数字で表記。
  8. ^ 『読売新聞』1988年6月22日付東京朝刊、9頁。

外部リンク[編集]