敦煌 (映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
敦煌
Dun-Huang
監督 佐藤純彌
脚本 佐藤純彌・吉田剛
原作 井上靖
製作総指揮 徳間康快
出演者 西田敏行
佐藤浩市
柄本明
田村高廣
中川安奈
三田佳子
渡瀬恒彦
音楽 佐藤勝
撮影 椎塚彰
編集 鈴木晄
製作会社 大映電通
配給 東宝
公開 日本の旗 1988年6月25日
上映時間 143分
製作国 日本の旗 日本中華人民共和国の旗 中国
言語 日本語中国語
興行収入 82億円[1]
配給収入 45億円[2]
テンプレートを表示

敦煌』(とんこう)は、1988年日本中国合作映画。1989年の第12回日本アカデミー賞で複数受賞をした(⇒ #受賞)。原作は井上靖の小説「敦煌」。

あらすじ[編集]

北宋のころ、主人公・趙行徳は科挙の最終試験殿試を受けるため首都開封府にやってきた。行徳に出された問題は「西夏対策を述べよ」であったが、西夏が単なる辺境だと思っていた行徳はまともに答えることが出来ず、受験に失敗する。

次回の科挙は3年後……。失望感のあまり自暴自棄になっていた行徳は、西夏出身の女と知り合ったことから西夏に興味を持ち、西へと旅する。しかし、途中で西夏の傭兵の漢人部隊に捕獲されてその兵に編入されてしまう。しかし、漢人部隊々長の朱王礼は行徳に目を掛け、彼を漢人部隊の書記に抜擢する。辺境だとばかり思っていた西夏は、シルクロードの拠点として仏教文化の華開く砂漠のオアシスだった。西夏軍がウイグルを攻略した際、行徳はウイグルの王女・ツルピアを助けて匿い、やがて彼女と愛し合うようになる。やがてその才能を認められた行徳は、西夏の首都への留学を命じられ、ツルピアの庇護を朱王礼に託して旅立つ。しかし留学期間が延び、ようやく西夏に戻ったときには、ツルピアは西夏の皇太子李元昊のウイグル支配の手段として、強制的に彼の妻となることになっていた。しかし、婚礼の席上、ツルピアは李元昊を殺害しようとするが失敗、そのまま城壁から身投げしてしまう。李元昊に対して反感をつのらせた朱王礼は、李元昊が敦煌を制圧してそこに入城する機をとらえて反乱をおこすが、すんでのところで李元昊を逃してしまい、壮絶な戦闘の後に戦死する。戦乱の中で大混乱に陥る敦煌。行徳は敦煌の文化遺産を戦乱から守ることを決意し、貴重な書籍や経典を敦煌郊外の石窟寺院に運び出していく。

出演[編集]

スタッフ[編集]

製作・プロモーション[編集]

製作

原作発表直後から映画化構想があったが、中でも十数年にわたって執念を燃やし、脚本も完成していたのが小林正樹である。しかし、映画化権を獲得した徳間との間で齟齬が生じ、[要出典]深作欣二が映画『上海バンスキング』を監督する前に、本作の映画化を頼まれ、引き受けた[3]敦煌ロケーションハンティングに行く途中で上海へ寄り、当地の映画撮影所と協力を構築しながら、本作へ繋げられたらと思案[3]。軍馬の手配、夏・秋・冬の雪が大地を覆っているところを三つは撮りたいと考え、『上海バンスキング』がクランクアップした後に本作の準備にとりかかり、朱王礼に千葉真一、趙行徳に真田広之をキャスティングしていた[3]。しかし馬が足りないことや、原作の人肉市場でウイグルの王女が人身売買する個所の歴史的事実があるかないかで、大映プロデューサー徳間康快らと対立[3]

同時期に深作は東映から3ヶ月で映画『火宅の人』を撮らないかというオファーを受ける[3]。本作の準備に時間がかかると踏み、一時的に離れるが、さらにこれが徳間らと気まずくなり、雰囲気を悪化させてしまった[3]。このまま自分が撮ると迷惑がかかると深作は思い、映画『未完の対局』を監督した佐藤純彌なら中国の人たちと信頼関係があるからと、本作をバトンタッチし、「自分が外れるからキャスティングも一新して構わない」と佐藤へ告げていた[3]。降板した深作は「(ロケハン以外にも鎧の手配など)予算を使いすぎて大映へ非常に迷惑を掛けた」と述べている[3]

プロモーション

関連企業・団体に618万枚の前売り券が配布され[4]、そのうち売上は450万枚に達した[5]

受賞[編集]

第12回日本アカデミー賞(1989年)

脚注[編集]

  1. ^ 歴代ランキング - CINEMAランキング通信” (2016年3月28日). 2016年5月7日閲覧。
  2. ^ 1988年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  3. ^ a b c d e f g h 深作欣二山根貞男 「第十一章 大作映画の悪戦苦闘」『映画監督 深作欣二』 ワイズ出版(原著2003年7月12日)、第1刷、418 - 420頁。ISBN 978-4898301555
  4. ^ 日本経済新聞』1988年6月23日付夕刊。なお『読売新聞』1988年6月22日付東京朝刊、9頁では610万枚と丸めた数字で表記。
  5. ^ 『読売新聞』1988年6月22日付東京朝刊、9頁。

外部リンク[編集]