シルクロード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
シルクロードの主要なルート(1世紀ごろ)

シルクロード絹の道英語: Silk Road, ドイツ語: Seidenstraße, 繁体字:絲綢之路, 簡体字:丝绸之路)は、東洋西洋を繋ぐ歴史的な交易路であり、それは紀元前2世紀から18世紀の間、経済、文化、政治、宗教において互いの社会に影響を及ぼしあった[1][2][3]

シルクロード貿易は、中国、韓国[4]、日本[2]、 インド亜大陸、イラン、ヨーロッパ、アフリカの角、アラビアにおいて、それぞれの文明において長距離の政治・経済的関係を築くことで、文明発展に重要な役割を果たした[5]。主要交易品は中国から輸出されたシルクであるが、ほかにも宗教(特に仏教)、シンクレティズム哲学、科学、紙や火薬のような技術など、多くの商品やアイデアが交換された。シルクロードは経済的貿易に加えて、そのルートに沿った文明間の文化的交易道であった[6]。ほかにも病気(たとえばペスト)もシルクロードにより伝播した[7]

「シルクロード」の概念は一義的ではなく、広義にはユーラシア大陸を通る東西の交通路の総称であり、具体的には北方の草原地帯のルートである草原の道、中央の乾燥地帯のルートであるオアシスの道、インド南端を通る海の道の3つのルートをいう[8]。狭義には最も古くから利用されたオアシスの道を指してシルクロードという[8]。オアシスの道は中国からローマへは、アルタイ山脈から中国へはが重要な交易品となっていたことから、このルートは「絹の道」あるいは「黄金の道」と呼ばれており、のちに草原の道や海の道が開けるまでは最も合理的な東西の交易路であった[9]。その一部は2014年に初めてシルクロード:長安-天山回廊の交易路網としてユネスコ世界遺産に登録された。

概要[編集]

「シルクロード」という名称は、19世紀ドイツ地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China支那)』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセン(ドイツ語Seidenstraßen;「絹の道」の複数形)として使用したのが最初であるが、リヒトホーフェンは古来中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタンを東西に横断する交易路、いわゆる「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指してシルクロードと呼んだのである。リヒトホーフェンの弟子で、1900年楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが、自らの中央アジア旅行記の書名の一つとして用い、これが1938年に『The Silk Road』の題名で英訳されて広く知られるようになった[10]

シルクロードの中国側起点は長安陝西省西安市)、欧州側起点はシリアアンティオキアとする説があるが、中国側は洛陽、欧州側はローマと見る説などもある。日本がシルクロードの東端だったとするような考え方もあり、特定の国家や組織が経営していたわけではないのであるから、そもそもどこが起点などと明確に定められる性質のものではない。

交易路[編集]

ステップ地帯

「草原の道」[編集]

中国から北上して、モンゴルカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海カスピ海の北側から黒海に至る、最も古いとみなされている交易路。この地に住むスキタイ匈奴突厥といった多くの遊牧民騎馬民族)が、東西の文化交流の役割をも担った。

現在の中国国鉄集二線は、部分的にほぼこの道に沿っている。

モンゴルのツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領が同名の中露蒙経済回廊を提唱していることでも知られている[11][12]

「オアシスの道」[編集]

東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路「オアシスの道」が、リヒトホーフェンが名付けたところの「シルクロード」である。長安を発って、今日の蘭州市のあたりで黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る。ここから先の主要なルートは次の3本である。西トルキスタン[13]以西は多数のルートに分岐している。このルート上に住んでいたソグド人が、シルクロード交易を支配していたといわれている。東トルキスタンの興亡史については、「西域」「楼蘭」「ホータン王国」「中国の歴史」などを参照のこと。

オアシスの道
(ロプノールが干上がると、楼蘭を経由する水色のルートは通行が困難になった。)
西域南道
敦煌からホータンヤルカンドなどタクラマカン砂漠南縁のオアシスを辿ってパミール高原に達するルートで、漠南路とも呼ばれる。オアシスの道の中では最も古く、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされる。このルートは、敦煌を出てからロプノールの北側を通り、楼蘭を経由して砂漠の南縁に下る方法と、当初からロプノールの南側、アルチン山脈の北麓に沿って進む方法とがあったが、4世紀頃にロプノールが干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、前者のルートは往来が困難になった。
距離的には最短であるにもかかわらず、極めて危険で過酷なルートであるが、7世紀玄奘三蔵はインドからの帰途このルートを通っており、楼蘭の廃墟に立ち寄ったと『大唐西域記』に記されているので、前者のルートも全く通行できない状態ではなかったものとみられる。13世紀の都を訪れたマルコ・ポーロは、カシュガルから後者のルートを辿って敦煌に達したとされている。
現在のG315国道は、部分的にほぼこの道に沿って建設されており、カシュガルからホータンまでは、2011年喀和線が開通している。
Silk Road 1992.jpg
天山南路(西域北道)
敦煌からコルラクチャを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至るルートで、漠北路ともいう。西域南道とほぼ同じ頃までさかのぼり、最も重要な隊商路として使用されていた。このルートは、楼蘭を経由してコルラに出る方法と、敦煌または少し手前の安西からいったん北上し、ハミから西進してトルファンを通り、コルラに出る方法とがあったが、楼蘭が衰退して水が得られなくなると、前者は通行が困難になった。
現在トルファンとカシュガルを結んでいる南疆線は、概ね後者のルートに沿って敷設されており、1971年に工事が始まり、1999年に開通した。G314国道も部分的にほぼこの道に沿っている。
天山北路
敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てサマルカンドに至るルートで、紀元後に開かれたといわれる。砂漠を行く上記ふたつのルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均標高5000mとされるパミール高原を越える必要もない。
現在のG312国道蘭新線北疆線は、部分的にほぼこの道に沿っている。

茶馬古道[編集]

赤線が南のシルクロード

四川省からチベットへのルートは南のシルクロードとされ、主な交易品はであったため茶馬古道とも呼ばれる。

「海の道」[編集]

青い線が海の道

中国の南から海に乗り出し、東シナ海南シナ海インド洋を経てインドへ、さらにアラビア半島へと至る海路は「海のシルクロード」とも呼ばれる。海のシルクロードの起点は福建省泉州市

すでにプトレマイオス朝の時代からエジプト紅海の港からインドと通商を行っており、エジプトを征服した古代ローマ共和政ローマローマ帝国)はこの貿易路も継承して、南インドのサータヴァーハナ朝との交易のために港湾都市アリカメドゥ英語版(現ポンディシェリ近郊のポドゥケー遺跡)などいくつかの商業拠点を築き(『エリュトゥラー海案内記』も参照)、絹を求めて中国にまで達したことは中国の史書にも記されている。このルートでセイロン(獅子国)やインド、ペルシアの商人も中国に赴いたのである。しかし、陸のシルクロードが諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのと同様、海のシルクロードも荒天海賊の出没、各国の制海権の争奪などによって撹乱され、必ずしも安定した交易路とはいえなかった。

7世紀以降はペルシアの交通路を継承したイスラム商人(アラブ人ペルシア人等の西アジア出身のイスラム教徒商人)が絹を求めて大挙中国を訪れ、広州などに居留地を築く。中国のイスラム教徒居留地は、末に広州大虐殺黄巣の乱によって大打撃を受け、一時後退した。

代になると再び中国各地(泉州市福州市など)に進出し、代まで続いた。元のクビライ・ハーンは東シナ海、南シナ海からジャワ海、インド洋を結ぶこの貿易路で制海権を握るために日本元寇)や東南アジアに遠征軍を次々とおくった。この時期にはイブン・バットゥータも泉州、福州を通って大都北京)を訪れた。

朝貢貿易しか認めない海禁政策を取り、鄭和艦隊で知られるように、海上交易路を海賊から保護した。鄭和はアフリカのマリンディまで航海している。

鄭和艦隊の進路

その後インド洋は、オスマン帝国マムルーク朝ヴェネツィア共和国が制海権を握っていたが、16世紀喜望峰経由でポルトガルが進出し、1509年ディーウ沖海戦で敗れたため、イスラム商人の交易ルートは衰えた。

1622年イングランド王国サファヴィー朝ペルシア連合軍が勝利した(ホルムズ占領)のを皮切りに、1650年にはヤアーリバ朝(現オマーン)がインド洋の制海権を握り、ポルトガルとスペインの商人が追放された。また中近世以降は、中国から大量の陶磁器が交易商品となったので「陶磁の道」とも称された。

19世紀に、1809年ペルシャ湾戦役の結果、イギリスが制海権を握った。

中華人民共和国真珠の首飾り戦略から制海権を握ることを目指しているとされ、この貿易路を「21世紀海上シルクロード」と呼称している。

宗教の伝播[編集]

シルクロードを経由した中国への仏教伝播は、漢王朝の明帝(58-75)が西洋に派遣した大使の記録によると、西暦1世紀ごろであったという。この時期に仏教は、東南アジア、東アジア、中央アジアに広がり始めた[14]。上座部、大乗、チベット仏教は、シルクロードを経由してアジア中に広がった仏教の3つの主要な宗派である[15]

4世紀以降は、中国の巡礼者がインドにオリジナルの仏典を求めてシルクロードを旅した。中国からインドへ法顕(395-414)、玄奘三蔵(629-644)が渡り、韓国からインドへは慧超が渡った[16]。玄奘三蔵の旅は大唐西域記として記され、後にこれを元に16世紀にフィクション作品西遊記が生まれた。

シルクロードと日本[編集]

日本には、奈良の正倉院に中国製やペルシア製の宝物が数多くあり、天平時代遣唐使に随行してペルシア人李密翳[17](り・みつえい)が日本に来朝したことに関する記録[18]なども残されている。当時の日本は唐代の東西交通路の東端に連なっていたと認識されており、摂津国住吉津(現在の大阪市住吉区)は「シルクロードの日本の玄関」、飛鳥京平城京は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。

シルクロードに関しては近年の日本における学校教育でも取り上げられていたが、歴史やヘディンの著書などに関心を持つ一部の人たち以外には、さほど興味を引く存在ではなかった。しかし、中華人民共和国との文化交流が進む過程でNHK中国中央電視台とともに1980年に共同制作した『NHK特集 シルクロード-絲綢之路-』によって、喜多郎のノスタルジックなテーマ音楽とともに、一躍シルクロードの名が広く知れ渡ることとなった。日本ではシルクロードという語は独特のエキゾチシズムノスタルジアと結びついており、西安や新疆、ウズベキスタンイラントルコなどへの海外旅行情報やツアーの広告には必ずと言ってよいほど「シルクロード」という言葉が記されている。この80年代の「シルクロードブーム」を受け[19]1988年に日中両政府は日中友好環境保護センターの設立を決定した。また、平山郁夫はシルクロードの世界遺産登録をユネスコに中国政府とともに働きかけて平山郁夫シルクロード美術館も設立した[20][21]

現代のシルクロード[編集]

シルクロードが世界遺産に登録されたことを契機に、ユネスコの人文・社会科学局が推進する「異文化間の対話」プログラムにおいて、「シルクロード-対話、多様性、開発」プロジェクトが始まった[22]。これはシルクロードほど多様な人種文化宗教自然環境などが混在する地域はなく、そのことが歴史的には係争の舞台ともなってきたことから、シルクロードを平和の象徴にしようという主旨。

具体的にはユネスコを代表する事業となった世界遺産をシルクロードに広げてゆき、各地域に無形文化遺産記憶遺産生物圏保護区ジオパーク創造都市ネットワークなど(海の道においては水中文化遺産保護条約も)各種ユネスコ事業を総投入展開し、可動文化財少数民族言語の保護にも取り組む。ユネスコ公式サイトでは、「シルクロード・オンラインプラットフォーム」を立ち上げた。

一方で、このプロジェクトの主たる旗振り役が中国であり、中国による一帯一路計画の文化面政策として利用される懸念もある[23]

シルクロードを題材とした作品[編集]

駱駝に乗る西方人の像(中国唐代、陶磁器製〈唐三彩〉。上海博物館

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ Miho Museum News (Shiga, Japan) Volume 23 (2009年3月). “Eurasian winds toward Silla”. 2016年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年4月閲覧。
  2. ^ a b Gan, Fuxi (2009). Ancient Glass Research Along the Silk Road. Shanghai Institute of Optics and Fine Mechanics, Chinese Academy of Sciences (Ancient Glass Research along the Silk Road, World Scientific ed.). p. 41. ISBN 978-981-283-356-3. オリジナルの27 February 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180227164624/https://books.google.com/books?id=MJhpDQAAQBAJ&pg=PA1 
  3. ^ Elisseeff, Vadime (2001). The Silk Roads: Highways of Culture and Commerce. UNESCO Publishing / Berghahn Books. ISBN 978-92-3-103652-1 
  4. ^ Republic of Korea | Silk Road” (英語). en.unesco.org. 2017年2月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月23日閲覧。
  5. ^ Jerry Bentley, Old World Encounters: Cross-Cultural Contacts and Exchanges in Pre-Modern Times (New York: Oxford University Press, 1993), 32.
  6. ^ Jerry Bentley, Old World Encounters: Cross-Cultural Contacts and Exchanges in Pre-Modern Times (New York: Oxford University Press, 1993), 33.
  7. ^ “Ancient bottom wipers yield evidence of diseases carried along the Silk Road”. The Guardian. (2016年7月22日). https://www.theguardian.com/science/2016/jul/22/ancient-bottom-wipers-yield-evidence-of-diseases-silk-road-chinese-liver-fluke 2018年5月18日閲覧。 
  8. ^ a b 武光誠『「地形」で読み解く世界史の謎』PHP文庫、2015年、18頁。
  9. ^ 武光誠『「地形」で読み解く世界史の謎』PHP文庫、2015年、18-19頁。
  10. ^ 訳書は、ヘディン『シルクロード』 西義之訳、白水社、のち中公文庫、2003年。本書は往年のシルクロードに沿った自動車道路建設に向けた調査旅行の顛末に関するものであって、昔日の交易路そのものについて論じた書ではない。
  11. ^ “習近平主席がモンゴル国のエルベグドルジ大統領と会談、両国の全面的な戦略パートナーシップの絶え間な位発展を推進すると強調”. 新華社. (2015年11月11日). http://jp.xinhuanet.com/2015-11/11/c_134805643.htm 2016年5月19日閲覧。 
  12. ^ “習近平主席が中露蒙首脳会議に出席”. 人民日報. (2015年7月10日). http://j.people.com.cn/n/2015/0710/c94474-8918669.html 2016年5月19日閲覧。 
  13. ^ 現在のウズベキスタントルクメニスタンなどを含む地域。
  14. ^ Jerry H. Bentley, Old World Encounters: Cross-Cultural Contacts and Exchanges in Pre-Modern Times (New York: Oxford University Press, 1993), 69, 73.
  15. ^ Anderson, James A. (2009). “China's Southwestern Silk Road in World History”. World History Connected 6 (1). オリジナルの9 February 2014時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140209152743/http://worldhistoryconnected.press.illinois.edu/6.1/anderson.html 2013年12月2日閲覧。. 
  16. ^ Ancient Silk Road Travellers”. 2009年8月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年10月閲覧。
  17. ^ 松本清張歴史小説眩人』でも知られる人物。
  18. ^ 続日本紀』巻第十二 聖武天皇 天平八年(736年
  19. ^ 王坤「中国側から見る日中経済協力 : 1979~1988年の『人民日報』の対中ODA 報道を中心に」OUFCブックレット 3, 313頁, 2014-03-10
  20. ^ 日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2015』pp. 18 講談社、2014年
  21. ^ 日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2005』p. 40 平凡社、2005年
  22. ^ SILK ROADS DIALOGUE, DIVERSITY & DEVELOPMENTUNESCO
  23. ^ 「中国『経済ベルト』戦略 / シルクロード 世界遺産」『読売新聞』2014年6月23日(朝刊)4面

参考文献[編集]

  • ジャン=ピエール・ドレージュ 『シルクロード 砂漠を越えた冒険者たち』長沢和俊監修、吉田良子訳、「知の再発見」双書:創元社、1992年
  • 長沢和俊 『シルクロード』 講談社学術文庫、1992年
  • ジャン=ノエル・ロベール 『ローマ皇帝の使者中国に至る 繁栄と野望のシルクロード』 伊藤晃・森永公子共訳、大修館書店、1996年
  • 宇山智彦 『中央アジアの歴史と現在』 東洋書店、2000年
  • 長沢和俊編 『シルクロードを知る事典』 東京堂出版、2002年
  • 三杉隆敏 『海のシルクロードを調べる事典』 芙蓉書房出版、2006年
  • エドワード・H. シェーファー 『サマルカンドの金の桃 唐代の異国文物の研究』 伊原弘・日本語版監修、吉田真弓訳、アシアーナ叢書2:勉誠出版、2007年

関連項目[編集]