ウディ・アレン

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ウディ・アレン
Woody Allen
Woody Allen
2009年撮影
本名 Allan Stewart Konigsberg
生年月日 1935年12月1日(79歳)
出生地 ニューヨーク州ニューヨークブロンクス区
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 映画監督、俳優、脚本家
配偶者 Harlene Rosen (1956 - 1962)
ルイーズ・ラッサー(1966年 - 1969年)
スン=イー・プレヴィン(1997年 - )
著名な家族 レッティ・アロンソン(妹)
主な作品
アニー・ホール
カイロの紫のバラ
ハンナとその姉妹
ミッドナイト・イン・パリ

ウディ・アレン(Woody Allen, 1935年12月1日 - )は、アメリカ合衆国を代表する映画監督俳優脚本家小説家クラリネット奏者など様々な顔を持つ。アカデミー賞に24回ノミネートされ(史上最多)、監督賞を1度、脚本賞を3度受賞している。身長は160cmと小柄。本名はアラン・スチュアート・コニグズバーグ(Allan Stewart Konigsberg[1]

プロフィール[編集]

少年時代[編集]

ウディ・アレンは、ニューヨークブロンクス区で、ロシア系=オーストリア系ユダヤ人の家庭に生まれた[2]。父親のマーティン・コニグズバーグ(Martin Konigsberg, 1900年12月25日 - 2001年1月13日)と母親のネティー(Netty Cherrie Konigsberg, 1908年 - 2002年1月)はアレンが生まれてから妹のレッティ(Letty, 1943年 - )が生まれる直前まで、ブルックリンを中心に10数回も引越しを繰り返していた。その間、母親の姉妹や、ドイツにおけるナチスの迫害から逃れてきた親類との賑やかな共同生活と、素性の知れない、時に凶悪な面を見せるベビーシッターとの生活を余儀なくされた。

ゆえにアレンの幼年期は主に女性に囲まれた精神的かつ言語的に混沌としたものだった。また、母親は時々アレンに対して激しい叱責(時には手も出る)を行った。妹のレティに対しては、はるかに穏やかな扱いだったので、アレンは「大事にされている、愛されている」という感情が持てなくなった。ひねくれた少年の行く先は現実逃避で、アレンはコミックや映画、ジャズに傾倒するようになっていった。

コニグズバーグ家は正統的なユダヤ教徒だったので、ユダヤ教の様々な儀式を行い、アレンもまた、8年間もの間ヘブライ語学校に通うことになった[3]。これは宗教嫌いに拍車を掛ける結果になった。パブリック・スクール卒業後、1949年にミッドウッド・ハイスクールに入学。生まれつきの赤髪のせいでニックネームは「Red」。アレンはカード・マジックに傾倒した。

16歳の時に、アレンはマジシャンとして初舞台を踏むが、すぐにマジシャンとしての自分に見切りをつけた。同級生の前でマジックを披露しているうちに、「面白いヤツ」という評判が立ち[4]、アレンは徐々にコメディに傾倒(元から喜劇映画はお得意とするところだった)し、その道を志望するようになっていった(アレンと同級生のミッキー・ローズはジョージ・S・カウフマン好きということで意気投合し、後にアレンの初期の映画で共同で脚本を書いている)。

ギャグ・ライター[編集]

1952年、ハイスクール在学中に、アレンはPRの仕事をしている従兄や『ニューヨーク・デイリー・ミラー』、『ニューヨーク・ポスト』などにギャグを送り始めた。この頃から、筆名として「ウディ・アレン」(極短期間「ヘイウッド・アレン」とも)を名乗り始めた。数々のギャグはコラムニストの手によって誌上で紹介され人気を博した。

これが芸能エージェントのデヴィッド・O・アルバーの目にとまり、アレンはアルバーのもとで「ウディ・アレン」として臨時雇いのギャグ・ライターという道を歩むことになった[5]

コメディアンとして[編集]

1953年、アレンはニューヨーク大学教養学部に入学した。映画製作を専攻し、英文学とスペイン語を中心に学んだが、授業の大半をさぼり、試験は一夜漬け、レポートは例の調子でコメディ風といった調子で、中退してしまった[6]ニューヨーク市立大学シティカレッジ映画科に入り直したものの、アレンのさぼり癖はおさまらず、またもや中退。母親のネティーは最初こそ絶望したものの、ギャグ・ライターとしてなんとかならないものかと考えるようになり、親戚のエイブ・バロウズという最強のコネを使って後押した。バロウズはアレンの才能を高く買い、シド・シーザーピーター・リンド・ヘイズなどのテレビ司会者を紹介するとともに、アレンにギャグ・ライターだけではなく、シリアスな芝居とコメディを両立させる事の必要性を説いた。

1955年、同級生の兄ハーヴィ・メルツァーとマネージメント契約を結び、この有能なマネージャーの強烈な推薦で、NBCの放送作家養成プログラムに参加し、アレンはギャグ・ライターと放送作家を並行して行うことになった。シド・シーザーのグループで、ダニー・サイモンメル・ブルックスラリー・ゲルバードらとともに働いた。1958年、アレンとゲルバードは、シド・シーザーの特別番組でシルヴァニア賞を受賞し、同作品はエミー賞にもノミネートされた。『パット・ブーン・ショー』で再びエミー賞にノミネートされ、放送作家としての地位を確固たる物にした。しかし、アレンは放送作家という仕事に興味を持てなくなる一方で、続々舞い込む仕事に心を病み、1959年から精神科への通院を始める。

『パット・ブーン・ショー』が打ち切られた1960年から、アレンはスタンダップ・コメディアンとして活動を始める。『ブルー・エンジェル』での初舞台は散々な評価に終わったが、舞台を重ねるうちに腕をメキメキと上げて、人気を集めていった。1962年8月には、『ニューズウィーク』誌がアレンを「シェリー・バーマンモート・サールレニー・ブルースに次いで現れたコメディアンの中で最も革新的」と評価し、1963年2月には『ニューヨーク・タイム』誌が同様の舞台評を書くまでになった。評判を聞き、映画界からのオファーが飛び込み、アレンはその世界へと身を投じた。

映画監督・俳優として[編集]

生まれ育ったニューヨークの文化や暮らし、人々のメンタリティをテーマにすることが多い、しかもそこに住むユダヤ人のそれを主題とする。ユダヤ人であることの差別とそこから来るコンプレックスや、自己意識などを織り込んだコメディを得意とする。

「監督、脚本、主演の三役をこなして成功することが出来た映画人は、チャールズ・チャップリンオーソン・ウェルズとこのアレンの3人だけだ」と言われている[要出典]。演じる際には自らをカリカチュアライズしたようなユダヤ系の神経質なインテリを演じることが多い。

なお、フランスなどの文化程度の高い先進国を中心とした国外においても非常に高い評価を受けていることでも知られる。また、一部の作品を除いてアメリカ国内における興行成績は決して高くはなく、アレン自体もその事を皮肉った発言を行っている。なお、アメリカ国内より国外での興行成績が高い作品もあるにもかかわらず、後述のように多くの人気俳優女優が競って出演することでも知られている。

またアレンは、ハリウッドに背を向けた映画人としても知られている。『アニー・ホール』(1977年)で、アカデミー監督賞作品賞を受賞した時も、授賞式には出なかった。アレンが唯一アカデミー賞の授賞式に姿を現したのは、2002年の授賞式で特別プログラムとしてニューヨークを舞台にした作品集の紹介を依頼されたときだけ。それは前年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロで犠牲になった人たちに捧げるオマージュとしての企画で、アレンは出演したものの、それが終わると直ちにニューヨークに戻ってしまった。それにも関わらずアレンがアカデミー賞にノミネートされたのは24回、最多の回数である。

小説家として[編集]

1960年代の後半から1970年代にかけて、アメリカの文芸誌である『ニューヨーカー』誌を中心に短篇小説を書いている。そのうちいくつかの作品は映画化された。"The Kugelmass Episode"で1978年にオー・ヘンリー賞を受賞。

クラリネット奏者として[編集]

幼年期のラジオ体験からジャズに傾倒した。最初の妻ハーリーンとはナイトクラブで知り合い、即興演奏(ハーリーンがピアノ、ウディがクラリネット)をすることもしばしばであった。映画監督として大成してからは、テレビショーやミュージック・フェスティバルで吹くことも多い。ニューヨークの「マイケルズ・パブ」のレギュラーバンド「Woody Allen and his New Orleans Jazz Band」の一員として毎週月曜日の夕方にクラリネットを吹くという習慣を数十年続けている。アカデミー賞の授賞式をすっぽかして、いつも通りクラリネットを吹いていたことは、ひとつの伝説となっている。

ドキュメンタリー映画『ワイルド・マン・ブルース』(1998年、監督バーバラ・コップル)では、ニューオーリンズ・ジャズ・バンドを率いてのアレンのヨーロッパ・ツアーの模様が描かれている。また自作の映画の中ではジャズをBGMとして多用することが多い。

家族[編集]

映画で共演したダイアン・キートンと付き合っていたが、長く続かず破綻。その後、ミア・ファローと同居するようになるが、彼女の養子の韓国人女性スン・イー(当時21歳)との交際が発覚し、ミアから訴訟を起こされたこともあった。ウディとスン・イーはその後結婚し、女の子二人を養子に取っている[7]。ダイアン・キートンと『マンハッタン殺人ミステリー』(1993年)では共演しているが、これは本来ミア・ファローの役として話を書いたところを、私生活のごたごたの関係で代わってもらった、とウディ・アレンは語っている[8]

作品[編集]

映画[編集]

作品書籍[編集]

  • Don't drink the water: A comedy in two acts (1967年)
  • Play It Again, Sam (1969年)
  • これでおあいこ Getting Even (1971年)
  • God: A comedy in one act (1975年)
  • 羽根むしられて Without Feathers (1975年)
  • ぼくの副作用 Side Effects (1980年)
  • Lunatic's tale (1986年)
  • Complete Prose of Woody Allen (1992年)
  • ウディ・アレンの浮気を終わらせる3つの方法 Three One-Act Plays (2003年)
  • Writer's Block: Two One Actplays (2005年)
  • "A Second Hand Memory," (a drama in two acts) (2005年)
  • ただひたすらのアナーキー Mere Anarchy (2007年)

著作(日本語訳)[編集]

  • これでおあいこ ウディ・アレン短篇集(伊藤典夫浅倉久志訳、CBSソニー出版、1981年/河出文庫、1992年)
  • 羽根むしられて ウディ・アレン短篇集(伊藤典夫・堤雅久訳、CBSソニー出版、1981年/河出文庫、1992年)
  • ぼくの副作用 ウディ・アレン短篇集(堤雅久・芹沢のえ訳、CBSソニー出版、1981年)
  • ウディ・アレンの浮気を終わらせる3つの方法(井上一馬訳、白水社、2005年)
  • ウディ・アレンの漂う電球(鈴木小百合訳、白水社、2006年)
  • ただひたすらのアナーキー(井上一馬訳、河出書房新社、2008年)
  • ウディ・アレンの映画術(エリック・ラックスと共著、井上一馬訳、清流出版、2010年)

参考・関連文献[編集]

  • ウディ・アレン バイオグラフィー(ジョン・バクスター著、田栗美奈子訳、作品社、2002年)
  • ウディ・オン・アレン 全自作を語る(ウディ・アレン、スティーブ・ビョークマン共著、大森さわこ訳、キネマ旬報社、1995年)
  • ウディ・アレン 映画の中の人生(リチャード・シッケル著、都筑はじめ訳、エスクァイア マガジン ジャパン、2007年)
  • ウディ・アレンのすべて(井上一馬著、河出書房新社、1997年)

受賞歴[編集]

アカデミー賞[編集]

アレンはアカデミー賞の常連にも関わらず、授賞式には一切出席しないことで知られていた。しかし、一度だけ出席している。2002年の授賞式で行われたアメリカ同時多発テロ事件犠牲者の追悼企画での一コマで、アナウンスなしにアレンが登場し、観客の拍手喝采を浴びた。これは、前年のアメリカ同時多発テロ後の、「ニューヨークに関する作品を作る」というプロデューサーの意向を汲んでの出演だった。

  • アカデミー脚本賞候補 『インテリア』、『マンハッタン』 (with マーシャル・ブリックマン)、『ブロードウェイのダニー・ローズ』、『カイロの紫のバラ』、『ラジオ・デイズ』、『ウディ・アレンの重罪と軽罪』、『アリス』、『夫たち、妻たち』、『ブロードウェイと銃弾』、『誘惑のアフロディーテ』、『地球は女で回ってる』、『マッチポイント』
  • アカデミー監督賞候補 『インテリア』『ブロードウェイのダニー・ローズ』、『ハンナとその姉妹』、『ウディ・アレンの重罪と軽罪』、『ブロードウェイと銃弾』

また、アレン作品の出演者もアカデミー賞を数多く取っている。

BAFTA[編集]

アレンは英国映画テレビ芸術アカデミー賞各賞も数多く受賞している。1997年には同協会よりフェロー称号を贈呈された。

  • 1978年 最優秀作品賞『アニー・ホール』
  • 1978年 最優秀脚本賞『アニー・ホール』 (with マーシャル・ブリックマン)
  • 1978年 最優秀監督賞『アニー・ホール』
  • 1980年 最優秀作品賞『マンハッタン』
  • 1980年 最優秀脚本賞『マンハッタン』 (with マーシャル・ブリックマン)
  • 1985年 最優秀脚本賞『ブロードウェイのダニー・ローズ』
  • 1986年 最優秀作品賞『カイロの紫のバラ』
  • 1986年 最優秀脚本賞『カイロの紫のバラ』
  • 1987年 最優秀脚本賞『ハンナとその姉妹』
  • 1987年 最優秀監督賞『ハンナとその姉妹』
  • 1993年 最優秀脚本賞『夫たち、妻たち』
  • 最優秀作品賞候補『ハンナとその姉妹』、『ラジオ・デイズ』、『ウディ・アレンの重罪と軽罪』
  • 最優秀俳優賞候補『アニー・ホール』、『マンハッタン』、『ハンナとその姉妹』
  • 最優秀監督賞候補『マンハッタン』、『ウディ・アレンの重罪と軽罪』
  • 最優秀脚本賞候補『カメレオンマン』、『ラジオ・デイズ』、『ウディ・アレンの重罪と軽罪』、『ブロードウェイと銃弾』 (with ダグラス・マクグラス)

エピソード[編集]

  • 多くの映画作品が地元のニューヨーク、特にマンハッタン周辺を舞台としていることで知られている。しかし、初のヨーロッパロケを敢行した『世界中がアイ・ラヴ・ユー』以降は、海外を舞台とした作品も少ないものの存在する。
  • フランスなど英語圏以外の外国での評価も高く、そのことをストーリー内に組み込んだ『さよなら、さよならハリウッド』など、海外での興行成績の方が高い作品も存在する。カンヌ国際映画祭では44回も上映されているが、一度も会場に姿を現したことはない。
  • 1982年から翌年にかけて西武百貨店が行った「おいしい生活」キャンペーンの広告及びCMに登場。

参照[編集]

  1. ^ Lax, Eric (1991年). “Woody Allen: A Biography”. Woody Allen: A Biography. 2014年2月3日閲覧。 “Woody Allen was born in Brooklyn, New York, in the spring of 1952, When Allan Stewart Konigsberg, who was born in the Bronx on December 1, 1935, settled on the name as a suitable cover.”
  2. ^ The religion of Woody Allen, director and actor”. 2008年1月16日閲覧。
  3. ^ The principal of P.S. 99 was Mrs. Eudora Fletcher; Allen has used her name for characters in several of his films.
  4. ^ Woody Allen : Comedian Profile”. 2008年1月16日閲覧。
  5. ^ Woody Allen: Rabbit Running”. Time (1972年7月3日). 2007年6月8日閲覧。
  6. ^ Famous college drop-outs who became successful businessmen - Non-Traditional College Students - Helium - by Glenda K. Fralin
  7. ^ Woody Allen Ventures Out With Soon-Yi and the Kids”. 2009年9月1日閲覧。 The New York Observer
  8. ^ エリック・ラックス『ウディ・アレンの映画術』(2010年、清流出版)P290

外部リンク[編集]