アルフレッド・ヒッチコック
| アルフレッド・ヒッチコック Alfred Hitchcock | |||||||||||||||||||||||||||
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ヒッチコック(1955年) | |||||||||||||||||||||||||||
| 本名 | アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック | ||||||||||||||||||||||||||
| 別名義 | サスペンスの神様 | ||||||||||||||||||||||||||
| 生年月日 | 1899年8月13日 | ||||||||||||||||||||||||||
| 没年月日 | 1980年4月29日(80歳没) | ||||||||||||||||||||||||||
| 出生地 |
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| 死没地 |
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| 国籍 |
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| 身長 | 170 cm | ||||||||||||||||||||||||||
| 職業 | 映画監督、映画プロデューサー、脚本家、俳優 | ||||||||||||||||||||||||||
| ジャンル | 映画 | ||||||||||||||||||||||||||
| 活動期間 | 1921年 - 1976年 | ||||||||||||||||||||||||||
| 配偶者 | アルマ・レヴィル(1926年 - 1980年)※死別 | ||||||||||||||||||||||||||
| 著名な家族 | パトリシア・ヒッチコック(長女、女優) | ||||||||||||||||||||||||||
| 主な作品 | |||||||||||||||||||||||||||
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『バルカン超特急』 『レベッカ』 『汚名』 『見知らぬ乗客』 『ダイヤルMを廻せ!』 『裏窓』 『知りすぎていた男』 『めまい』 『北北西に進路を取れ』 『サイコ』 『鳥』 | |||||||||||||||||||||||||||
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| 備考 | |||||||||||||||||||||||||||
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大英帝国勲章 ハリウッド名声の歩道 | |||||||||||||||||||||||||||
アルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock, KBE, 1899年8月13日 - 1980年4月29日)は、イギリスの映画監督、映画プロデューサー。1939年からはおもにアメリカで活躍した。スリラー映画で成功し、製作・脚本も手がけた。また、自身の映画に頻繁にカメオ出演することでも、知られている。サスペンス映画の神様とも称される。
目次
生い立ち[編集]
1899年8月13日ロンドンのレイトンストーン生まれ。鶏肉店を経営するかたわら果物の卸売商も営んでいたウィリアム・ヒッチコック[1]と妻のエマ・ジェーン・ヒッチコック(旧姓ウェーラン)の三人の子供の末っ子であった。一家はアイルランドのカトリック教徒であった(イギリスでは少数派)。ヒッチコックはロンドンでカトリックの寄宿学校に入学し、後にヒッチコックは幼年期は孤独であったと語っている(幼年期に父親に「ちょっとのあいだ」だけ留置場に入れられたという話はヒッチコック自身の証言でしか確認できない)。
ヒッチコックが14歳の時に父親が死去し、ヒッチコックは工学を学ぶためセント・イグナチウス・カレッジを去った。学校を卒業した後はケーブル会社(W.T.ヘンリー電信会社)の技術部門(海底電線の電力測定)で働きながらロンドン大学の美術学科で絵の勉強をし、同社の広告宣伝部に異動する。
その後ヒッチコックはアメリカの映画会社フェイマス・プレイヤーズ・ラスキーのロンドン支社に映画のタイトル用イラストを売り込み、採用される[2]。1920年にはイズリントン・スタジオで、サイレント映画のタイトルデザイン(セリフや解説を書いた字幕)を担当した。その後、グレアム・カッツ監督の下で脚本・助監督などを手がけた。2011年には彼がアシスタントを務めた『ザ・ホワイト・シャドー』(1923年)の一部のリールがニュージーランドで発見され、ヒッチコックの携わった現存最古のフィルムとして貴重な資料となった[3]。1925年にはゲインズボロー・ピクチャーズのマイケル・バルコンが、ヒッチコックに処女作の『快楽の園』を監督するチャンスを与えた[4]。
イギリスで[編集]
ヒッチコックは急速に台頭した。ヒッチコックの三作目『下宿人』は1927年に公開された。同作は「切り裂きジャック」をモデルにした作品で、アパートにやってきた新しい下宿人(アイヴァー・ノヴェロ)が殺人犯の嫌疑をかけられる。これが最初の「間違われる男」をテーマとした「ヒッチカニアン」フィルムであった。
1926年にヒッチコックは、アシスタント・ディレクターのアルマ・レヴィルと結婚した。二人の間には1928年に娘のパトリシアが生まれる。アルマはヒッチコックの最も親密な協力者であった。アルマは何本かの脚本を執筆し、ヒッチコックの全ての作品の擁護者であった。
1929年にヒッチコックは十作目の『ゆすり』の制作を始める。撮影中に製作会社は同作を、イギリス最初のトーキー映画にすることを決定した[5]。
1933年には再び、ゴーモン=ブリティッシュ・ピクチャーに移籍していたマイケル・バルコンと共に働く。同社でのバルコンの初の作品は『暗殺者の家』であり、続いて『三十九夜』を制作する。同作は初期の代表作と見なされた。
ヒッチコックの次の成功作は1938年の『バルカン超特急』である。軽快なテンポで展開する同作は、ナチス・ドイツを模した架空の国家ヴァンドリカでのスパイ騒動に巻き込まれた人々を描き、列車内で姿を消した老婦人の行方を捜すという内容のサスペンスでもあった。
ヒッチコックの活躍はハリウッドから注目され、1939年にはデヴィッド・O・セルズニックと組んで、ヒッチコックはアメリカ合衆国で映画製作を行うこととなった[6]。
ハリウッド[編集]
1940年にヒッチコックはアメリカでの初作品『レベッカ』を制作する。同作の企画はイギリスで行われ、原作もイギリスの作家ダフニ・デュ・モーリエによるものであった。作品はジョーン・フォンテイン演じるヒロインが後妻として入ったイギリスの屋敷での出来事を描くサスペンスで、1940年のアカデミー最優秀作品賞を受賞した。
ハリウッド入りする前に、イギリス保守党の二人のプロパガンダ・スペシャリスト(保守党本部広報部長のパトリック・ガワー卿とイギリス映画協会の会長で保守党員だったオリバー・ベル)からイギリスの利益となる映画を作るよう指示を受けている。ヒッチコックは反ナチス活動家のウォルター・ウェンジャーと組んで、アメリカの世論を中立政策からイギリス支援へ転換させるためのプロパガンダ映画であることを承知で、『海外特派員』を制作した。ナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは、この映画をプロパガンダの最高傑作と評した[7]。
ヒッチコックのユーモアはアメリカでの作品群でも発揮され、作風はサスペンスをトレードマークとしていた。セルズニックは長年金銭問題に悩まされており、より大きな映画会社にしばしばヒッチコックを貸し出した。
ヒッチコックの1940年代の作品は非常に多様であった。それはロマンティック・コメディの『スミス夫妻』(1941年)から暗いサスペンス(フィルム・ノワール)の『疑惑の影』(1943年)まで多種に及んだ。
1950年代は、ヒッチコックの黄金時代と言える。さまざまな円熟期の作品が量産された。ヒッチコックは1956年にアメリカの市民権を取得した。
『鳥』(1963年)までは精彩を放っていたが、『マーニー』(1964年)以降は凡庸な作品が目立つようになった。これは『マーニー』の撮影中にティッピ・ヘドレンに関係を迫ったものの断られたことが原因ではないかという説もある。あるいは、『ハリーの災難』以来バーナード・ハーマンが音楽を担当してきたが、『引き裂かれたカーテン』の音楽を巡って対立し、結果ハーマンをこの作品から降板させ、以後は袂を分かっていたことも影響しているのではないかともいわれる。高齢による衰えとの説もあるが、イギリスを舞台に撮影した最後から2番目の作品『フレンジー』(1972年)ではキレのあるサスペンス演出を見せ、ヒッチコック復活を印象付けた。
晩年[編集]
1976年の『ファミリー・プロット』がヒッチコックの遺作となった。バーバラ・ハリス演じるインチキ霊媒師と、ブルース・ダーン演じる彼女の恋人であるタクシードライバーが、犯罪に巻き込まれるという内容であった。
監督業への意欲は一向に衰えず、記者会見で「引退はいつですか?」と聞かれると「上映終了後」と答えたと言う。逆にそうした創作意欲の強さが、弱って行く一方の自分の肉体に対して自暴自棄な気持ちを持たせ、付き添いの看護師の目を盗んでコニャックをガブ飲みしたこともあったという。
次回作として小説家ロナルド・カークブライドのスパイ小説『みじかい夜』の映画化を予定しており、撮影開始直前まで企画が進んでいたが実現することはなかった[8]。
ヒッチコックは1980年1月3日にエリザベス2世よりナイトの称号を授けられたものの、ちょうどその4カ月後に腎不全を起こし、ロサンゼルスで息を引き取った。満80歳。遺体は火葬に付された。
人物[編集]
影響[編集]
ヒッチコックは特にフランスの若い映画監督達から支持された。ヒッチコックは「ヌーヴェルヴァーグの神様」と呼ばれ、クロード・シャブロルやジャン=リュック・ゴダールらに崇拝され、なかでもフランソワ・トリュフォーはヒッチコックを意識した『黒衣の花嫁』を撮ったり、ロングインタビューを敢行し『映画術』のタイトルで出版したりした。
ヒッチコックの作品は非常に高度な映画技法を駆使して作られており、際立った演出手腕を持った映画監督と言える。その映像テクニックは技術本位ではなくあくまで演出上必要であるからこそ使われ、結果的に絶大な効果を上げている。特にスティーヴン・スピルバーグはヒッチコックの演出テクニックを生かした演出を行っているのが有名である(『キネマ旬報』でもシーンを比較する記事が掲載された)。
カメオ出演[編集]
自分の作品のどこかにほんの一瞬だけ必ず姿を出すことで知られる(後姿やシルエットだけのこともある)。もともとこれは、初期の頃予算不足のためエキストラを満足に雇えず、やむなく出演していたという単純な理由だった。しかし恰幅の良い容貌で目立つためファンが探すようになってしまい、いつの間にか恒例になったものだという。理由はともかく、そのおかげでファンは作品がどんなにスリリングで手に汗握るものであれ、監督がいつ画面に登場するかを心待ちにするという稀有な楽しみを与えられた。しかし後年はこの「お遊び」があまりに有名になってしまったため、観客が映画に集中できるよう、ヒッチコックはなるべく映画の冒頭に近いところで顔を見せるように心がけていた。
私生活[編集]
大物監督には珍しいことに、生涯で一度も離婚歴がなく、妻・アルマと最期まで過ごした。
妻の手記によると、ヒッチコック自身の私生活は非常に規則正しかったという。作風からは想像できないが、予期せぬ出来事などといったものは大嫌いだったらしい。大好物であったスフレも作っている間に我慢ができなくなって途中でオーブンの扉を開けてしまうので、中が見える窓のついたオーブンを購入するまでスフレを作るのを禁止している。また、鶏肉が好物だったことから、妻は「だから『鳥』を作ったのではないか」と推理していた。
作品[編集]
監督作品のうちイギリス時代の作品は保護期間終了のため、アメリカ時代の作品は著作権標記欠落や未更新などのためパブリックドメインとなったものが少なくない。
ヒッチコックの初期作品はフィルムの劣化が進んでおり、上映に耐えられない状態となっていたため、2010年には英国映画協会がフィルムが残存している初期サイレント映画9作品を修復しデジタル化するプロジェクトを発足させた[9]。2012年に『快楽の園』『下宿人』『ダウンヒル』『リング』『ふしだらな女』『農夫の妻』『シャンパーニュ』『マンクスマン』『恐喝』の9本が無事修復され、事業は完了している[10]。修復されたこれらのフィルムは「The Hitchcock 9」として各地で上映され、日本でも東京劇場において2017年3月18日から3月24日まで上映された[11]。
主な作品[編集]
※:製作国に於いてパブリックドメイン(保護期間は公開から70年、ただし英国政府製作の映画は公開後50年)
イギリス時代[編集]
| 公開年 | 邦題 | 原題 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1925 | 快楽の園 | The Pleasure Garden | ※ 監督デビュー作 |
| 1926 | 山鷲 | The Mountain Eagle | ※ 6枚のスチール写真を除いては現存せず。 |
| (不明) | (不明) | ※ 企画のみ作られた政治映画。BBFCによる検閲、不許可により未制作。 | |
| 1927 | 下宿人 | The Lodger: A Story of the London Fog | ※ |
| ダウンヒル | Downhill | ※ | |
| リング | The Ring | ※ | |
| 1928 | ふしだらな女 | Easy Virtue | ※ |
| 農夫の妻 | The Farmer's Wife | ※ | |
| シャンパーニュ | Champagne | ※ | |
| 1929 | マンクスマン | The Manxman | ※ |
| 恐喝 | Blackmail | ※ 最初のトーキー作品。サイレント版もあり。 | |
| 1930 | ジュノーと孔雀 | Juno and the Paycock | ※ トーキー作品。原作は ショーン・オケーシーによる。 |
| 殺人! | Murder! | ※ トーキー作品 | |
| エルストリー・コーリング | Elstree Calling | ※ | |
| 1931 | スキン・ゲーム | The Skin Game | ※ |
| メアリー | Mary | ※ 殺人! のドイツ版 | |
| 1932 | 第十七番 | Number Seventeen | ※ |
| リッチ・アンド・ストレンジ | Rich and Strange | ※ | |
| 1933 | ウィンナー・ワルツ | Waltzes from Vienna | ※ |
| 1934 | 暗殺者の家 | The Man Who Knew Too Much | ※ |
| 1935 | 三十九夜 | The 39 Steps | ※ |
| 1936 | 間諜最後の日 | The Secret Agent | ※ |
| サボタージュ | Sabotage | ※ | |
| 1937 | 第3逃亡者 | Young and Innocent | ※ |
| 1938 | バルカン超特急 | The Lady Vanishes | |
| 1939 | 巌窟の野獣 | Jamaica Inn | ※ |
アメリカ時代[編集]
| 公開年 | 邦題 | 原題 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1940 | レベッカ | Rebecca | アカデミー作品賞 |
| 海外特派員 | Foreign Correspondent | ※ | |
| 1941 | スミス夫妻 | Mr. & Mrs. Smith | 日本未公開作品 のちにビデオ化 |
| 断崖 | Suspicion | ||
| 1942 | 逃走迷路 | Saboteur | |
| 1943 | 疑惑の影 | Shadow of a Doubt | ※ |
| 救命艇 | Lifeboat | ||
| 1944 | 闇の逃避行 | Bon Voyage | ※ 英国政府製作のフランス向け国策映画 26分 |
| マダガスカルの冒険 | Aventure Malgache | ※ 上記同様 30分 | |
| 1945 | 白い恐怖 | Spellbound | ※ |
| 1946 | 汚名 | Notorious | ※ |
| 1947 | パラダイン夫人の恋 | The Paradine Case | |
| 1948 | ロープ | Rope | ※ |
| 1949 | 山羊座のもとに | Under Capricorn | ※ |
| 1950 | 舞台恐怖症 | Stage Fright | |
| 1951 | 見知らぬ乗客 | Strangers on a Train | ※ |
| 1953 | 私は告白する | I Confess | |
| 1954 | ダイヤルMを廻せ! | Dial M for Murder | |
| 裏窓 | Rear Window | ※ | |
| 1955 | 泥棒成金 | To Catch a Thief | ※ |
| ハリーの災難 | The Trouble with Harry | ※ | |
| 1956 | 知りすぎていた男 | The Man Who Knew Too Much | |
| 間違えられた男 | The Wrong Man | ||
| 1958 | めまい | Vertigo | ※ |
| 1959 | 北北西に進路を取れ | North by Northwest | ※ |
| 1960 | サイコ | Psycho | ※ |
| 1963 | 鳥 | The Birds | |
| 1964 | マーニー | Marnie | |
| 1966 | 引き裂かれたカーテン | Torn Curtain | |
| 1969 | トパーズ | Topaz | |
| 1972 | フレンジー | Frenzy | |
| 1976 | ファミリー・プロット | Family Plot |
受賞歴[編集]
アカデミー賞[編集]
- ノミネート
- 1941年 アカデミー監督賞:『レベッカ』
- 1945年 アカデミー監督賞:『救命艇』
- 1946年 アカデミー監督賞:『白い恐怖』
- 1955年 アカデミー監督賞:『裏窓』
- 1961年 アカデミー監督賞:『サイコ』
ニューヨーク批評家協会賞[編集]
ゴールデングローブ賞[編集]
- 受賞
- 1970年 セシル・B・デミル賞(功労賞)
アメリカン・フィルム・インスティチュート[編集]
- 受賞
- 1979年 生涯功労賞(ライフ・アチーブメント賞)
テレビ番組[編集]
- 1955年から1962年にアメリカでテレビサスペンス番組『ヒッチコック劇場』(原題:Alfred Hitchcock Presents)を総監修。ヒッチコック自身も数エピソードを監督している。なお本作品を放送した際、自ら進行役を買って出て、番組内の冒頭と終わりにユーモアを交えて解説を行った(ヒッチコックの日本語吹き替えは熊倉一雄が担当)。このシリーズは30分番組だったが、好評につき1962年から1965年まで放送された後続番組『The Alfred Hitchcock Hour』は放送枠が1時間に拡大された(日本での邦題は『ヒッチコック・アワー』『ヒッチコック・サスペンス』『新ヒッチコック・シリーズ』など)。1985年には、オリジナル番組を新スタッフが忠実にリメイクした『Alfred Hitchcock Presents』(日本での邦題は『ヒッチコック劇場’86』『新・ヒッチコック劇場』)が制作されたが、この解説部分はオリジナル版の映像をカラーグラフィック処理したものが放送された(日本では1985年-1987年にテレビ東京で放映。ヒッチコックの吹き替えをオリジナル同様に熊倉一雄が行った)。
監督賞ノミネート5回[編集]
アカデミーに再三ノミネートされたが、当時のハリウッドではサスペンス物は格下に見られ、また、自身がアメリカ人でなかったことや、ハリウッドに住まずサンフランシスコに居を構え、ハリウッドの映画人との交流が少なかったことなどの理由から、監督賞を逃し続けたという説がある[要出典]。
雑誌[編集]
- 「アルフレッド・ヒッチコック・ミステリ・マガジン」(ALFRED HITCHCOCK'S MYSTERY MAGAZINE 通称:AHMM) 1956年に創刊。ヒッチコックの死後も雑誌は続いて、現在も刊行されており、「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」(EQMM)に続く、現存する世界で2番目に古いミステリ専門雑誌である。
- 日本版「ヒッチコックマガジン」も、宝石社から1959年から1963年まで、二冊の増刊を含めて全50号が発行された。創刊編集長は小林信彦。
著書訳書[編集]
伝記文献[編集]
- 植草甚一『ヒッチコック万歳! 植草甚一スクラップブック2』晶文社、1976年、新装版2004年。
- 草川隆『小説 ヒッチコック』秋元書房〈秋元文庫〉、1977年。
- ドナルド・スポトー 『ヒッチコック 映画と生涯 (上・下)』、勝矢桂子ほか訳、山田宏一解説、早川書房、1988年。
- ドナルド・スポトー 『アート・オブ・ヒッチコック 53本の映画術』 関美冬訳、キネマ旬報社、1994年。
- 『アルフレッド・ヒッチコックを楽しむ スリラーの神様』 〈スクリーン・デラックス〉近代映画社、2006年。
- 『ヒッチコックに進路を取れ』 山田宏一・和田誠(装丁も担当)対談共著、草思社、2009年/草思社文庫、2016年。
- エリック・ロメール、クロード・シャブロル 『ヒッチコック』 木村建哉、小河原あや訳、インスクリプト、2015年。
- 山田宏一 『ヒッチコック映画読本』平凡社、2016年
- 『文藝別冊 ヒッチコック 生誕120年』 河出書房新社、2018年
ヒッチコックを扱った映像作品[編集]
- メル・ブルックス/新サイコ(1977年)
- 原題:High Anxiety(アメリカ合衆国のコメディ映画)
- メル・ブルックスによるヒッチコックのパロディで構成されたコメディ映画。
- ドキュメント アルフレッド・ヒッチコック〜天才監督の横顔(1999年)
- 原題:Hitchcock: Shadow of a Genius(アメリカ合衆国のテレビ映画)
- NHKの衛星放送では『ヒッチコック・天才監督の横顔』の邦題で放送された[12]。
- ドゥー・ユー・ライク・ヒッチコック?(2005年)
- 原題:Ti piace Hitchcock?(イタリア・スペイン合作のテレビ映画、日本劇場未公開でDVDスルー)
- ヒッチコックの『裏窓』『見知らぬ乗客』を基にしたホラー映画。
- ザ・ガール ヒッチコックに囚われた女(2012年)
- 原題:The Girl(アメリカ・イギリス・南アフリカ合作のテレビ映画、日本劇場未公開でWOWOWなどで放送)
- ヒッチコックによる女優ティッピ・ヘドレン(『鳥』『マーニー』に主演)に対するセクハラを描いたドナルド・スポトの書籍『Spellbound by Beauty: Alfred Hitchcock and His Leading Ladies』を原作とした伝記映画。ヒッチコックを演じるのはトビー・ジョーンズ。
- ヒッチコック(2012年)
- 原題:Hitchcock(アメリカ合衆国の映画)
- 『サイコ』(1960年)の製作舞台裏を描いた、スティーヴン・レベロのノンフィクション本『アルフレッド・ヒッチコック&ザ・メイキング・オブ・サイコ』を原作とした伝記映画。ヒッチコックを演じるのはアンソニー・ホプキンス。
- ヒッチコック/トリュフォー(2015年)
- 原題:Hitchcock/Truffaut(フランス・アメリカ合作のドキュメンタリー映画)
- フランソワ・トリュフォーがヒッチコックについて綴った書籍『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』を題材としたドキュメンタリー映画。
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参考文献[編集]
- ^ 晩年の映画『フレンジー』撮影中に父親を知っていた青果業者と出会い、彼は喜ぶ。(『フレンジー』映像特典ドキュメンタリーにおける脚本家アンソニー・シェイファーの証言)
- ^ エリック・ロメール、クロード・シャブロル 『ヒッチコック』p11 木村建哉、小河原あや訳、インスクリプト、2015年。
- ^ http://www.afpbb.com/articles/-/2818170 「ヒッチコックの「失われた」映画を発見、ニュージーランド」AFPBB 2011年08月04日 2016年3月3日閲覧
- ^ エリック・ロメール、クロード・シャブロル 『ヒッチコック』p13 木村建哉、小河原あや訳、インスクリプト、2015年。
- ^ エリック・ロメール、クロード・シャブロル 『ヒッチコック』p33 木村建哉、小河原あや訳、インスクリプト、2015年。
- ^ エリック・ロメール、クロード・シャブロル 『ヒッチコック』p72 木村建哉、小河原あや訳、インスクリプト、2015年。
- ^ 菅原出『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社文庫、pp.109-111
- ^ “ノンフィクションW ヒッチコック幻の映画 〜最期に仕掛けたサスペンス〜”. WOWOW. 2018年3月5日閲覧。
- ^ http://www.afpbb.com/articles/-/2750366?pid=6094908&cx_part=pic018&act=all 「ヒッチコックの初期サイレント作品を修復・デジタル化、英国映画協会」AFPBB 2010年08月24日 2017年4月26日閲覧
- ^ http://www.bfi.org.uk/international-touring-programme-hitchcock-9 「International touring programme – The Hitchcock 9」British Film Institute(英国映画協会) 2017年4月26日閲覧
- ^ http://natalie.mu/eiga/news/223813 「ヒッチコックの無声映画9本をデジタル修復版で上映、篠崎誠や深田晃司のトークも」映画ナタリー 2017年3月13日 2017年4月26日閲覧
- ^ “TVM ドキュメント アルフレッド・ヒッチコック〜天才監督の横顔”. allcinema. 2012年10月25日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- アルフレッド・ヒッチコック - allcinema
- アルフレッド・ヒッチコック - KINENOTE
- Alfred Hitchcock - インターネット・ムービー・データベース(英語)
- Hitchcock.tv
- Leytonstone Underground Station: Hitchcock Mosaic
- Alfred Hitchcock Wiki
- Hitchcock EyeGate Collection
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