デヴィッド・O・セルズニック
デヴィッド・O・セルズニック David O. Selznick | |||||||||||||
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生年月日 | 1902年5月10日 | ||||||||||||
没年月日 | 1965年6月22日(63歳没) | ||||||||||||
出生地 | ペンシルベニア州ピッツバーグ | ||||||||||||
死没地 | カリフォルニア州ロサンゼルス | ||||||||||||
国籍 |
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配偶者 |
Irene Mayer Selznick (1930–1948) ジェニファー・ジョーンズ (1949-1965) | ||||||||||||
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デヴィッド・O・セルズニック(David O. Selznick, 1902年5月10日 - 1965年6月22日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ出身の映画プロデューサー・脚本家。
略歴[編集]
ユダヤ系ウクライナ人移民の家庭に生まれ、父親のルイス・J・セルズニックはサイレント映画の監督であった。コロンビア大学で学び、1923年に父親の会社が破産するまでそこで映画製作に携わる。1926年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに入るが2年後にパラマウント映画に移る。その3年後、今度はRKOに移り、『キング・コング』などを制作。1935年に独立し、セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズを設立した。1949年に女優のジェニファー・ジョーンズと再婚。
作品に関しては監督に委任する方針を取らず、『風と共に去りぬ』では、ジョージ・キューカーからヴィクター・フレミングへ交代させた上、サム・ウッドにも分担させた。ヒッチコックは『レベッカ』について「あのオスカー(アカデミー賞作品賞)はプロデューサーのセルズニックに与えられた賞だ」[2]と述べたほどである。
うるさく口出しする方針が嫌われて、監督からも俳優からも疎んじられるようになり、契約を拒まれ、ろくに制作もできなくなるハメになった。最後には多額の負債を抱えて破産寸前にまでなり、精神科医にかかった事もあった[要出典]。
妻であるジェニファー・ジョーンズとの関係は良好だった。ジョーンズは彼と結婚している間の1955年、『慕情』で主役を務めたが、共演者であるウィリアム・ホールデンのことを嫌い「夫が見たらどう思うか」と言っていたという[要出典]。
セルズニックの能力は、映画の絵画的な美しさにおいて強く発揮されたという評価・逸話もある[要出典]。
彼のプロデュース作品の短いテーマ曲は映画音楽の作曲家アルフレッド・ニューマンが担当した。オープニングではそのテーマ曲に乗せて社屋が映し出される。
1939年度のアービング・G・タルバーグ賞を受賞した。
主なプロデュース作品[編集]
- キング・コング King Kong (1933)
- 奇傑パンチョ Viva Villa! (1934)
- 男の世界 Manhattan Melodrama (1934)
- アンナ・カレニナ Anna Karenina (1935)
- 小公子 Little Lord Fauntleroy (1936)
- 沙漠の花園 The Garden of Allah (1936)
- スタア誕生 A Star Is Born (1937)
- ゼンダ城の虜 The Prisoner of Zenda (1937)
- 風と共に去りぬ Gone with the Wind (1939)
- レベッカ Rebecca (1940)
- 断崖 Suspicion (1941)
- 白い恐怖 Spellbound (1945)
- 白昼の決闘 Duel in the Sun (1946) (脚本も書く)
- パラダイン夫人の恋 The Paradine Case (1947) (脚本も書く)
- ジェニイの肖像 Portrait of Jennie (1948)
- 第三の男 The Third Man (1949)
- 終着駅 Stazione Termini (1953)
- 武器よさらば A Farewell to Arms (1957)
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ 白昼の決闘(1946年)受賞 IMDb 2017年7月3日閲覧。
- ^ 定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー (改訂版). 晶文社. (1990年12月10日 1990). p. 121p
外部リンク[編集]
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