RKO

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レイディオ・キース・オーフィアム・エンタテインメント
Radio Keith Orpheum Entertainment
RKO Radio Network logo.jpg
略称 RKO
本社所在地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州 ハリウッド
設立 1928年
事業内容 映画製作・配給事業
映像事業
関係する人物 ジョセフ・P・ケネディ
ハワード・ヒューズ
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RKO(アールケーオー、英語: Radio Keith Orpheum Entertainmentレイディオ・キース・オーフィアム・エンタテインメント)は、かつて存在したアメリカ合衆国映画会社映画スタジオ映画配給会社である。1950年代までは、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーパラマウント20世紀フォックスワーナー・ブラザースと並んで、「ビッグ5」と呼ばれていた一大メジャー映画会社であった。

1981年(昭和56年)にRKOのまだ存続していた子会社の一つが共同製作のためにRKOの名前を復活させ、1989年(平成元年)に多くのRKO映画の商標権とリメーク権を新しい所有者に売却した。現在のRadio Keith Orpheum Entertainment LLCはこの所有者の下で経営されている独立した会社である。

沿革[編集]

RKOは、ハリウッド映画史上、最も複雑な組織変革をたどった映画会社である。

複雑な由来[編集]

母体になったのはミューチュアル・フィルムの配給部門といわれる(異説あり)。1919年、映画製作に興味を持ったイギリスの輸出入会社ロバートソン=コールがこれを併合し、1921年ハリウッドにスタジオを建設して映画製作業を開始した。1922年ハリー・M・バーマン、ジョセフ・P・ケネディらアメリカの映画製作者グループが買収してFBO(Film Booking Office of America、フィルム・ブッキング・オフィス)と改名。フランスのパテ社などからも作品を輸入して上映していた。

トーキー映画開発期には、"Photophone"という独自のシステムを導入する目的で介入してきたRCA(Radio Corporation of America、レイディオ・コーポレーション・オブ・アメリカ)を経営していたユダヤ系アメリカ人のデビッド・サーノフ[1][2]が劇場チェーンのKAO(Keith Albee Orpheum、キース・アルビー・オーフィアム)とFBOを合併させ、1928年、RKO(Radio Keith Orpheum、レイディオ・キース・オーフィアム)が誕生した。

この段階で映画スタジオ、独自の映画配給網と会社専用の映画館(合併当時全米で700館程度あった)を所有していたRKOは、スタジオ・システム成立の一翼を担った。"Radio Pictures"と後ろに続くのは、当時全米の一大ラジオ網を支配していたRCA(合併当時66%の株式を所有していた)の影響である。この会社は映画だけでなくラジオ(後にはテレビ)という、当時の主要メディアをほぼすべて支配していたのである。

最盛期の作品群[編集]

キング・コング』(1933年、メリアン・C・クーパー/アーネスト・シュードサック監督)、『男の敵』(1935年、ジョン・フォード監督)、『市民ケーン』(1941年、オーソン・ウェルズ監督)、『偉大なるアンバーソン家の人々』(1941年、オーソン・ウェルズ監督)、『素晴らしき哉、人生!』(1946年、フランク・キャプラ監督)などのようなハリウッド全盛期の作品を数々と生み出した。

また、RKOは、1930年代にフレッド・アステアジンジャー・ロジャースを起用した人気ミュージカルのシリーズを製作した。その中には、『コンチネンタル/離婚協奏曲』(1934年、マーク・サンドリッチ監督)、『トップ・ハット』(1935年、マーク・サンドリッチ監督)、『有頂天時代』(1936年、マーク・サンドリッチ監督)などがある。

ジョニー・ワイズミュラー主演の『ターザン』シリーズの製作や、ウォルト・ディズニー製作の短編アニメーションや、『白雪姫』(1937年)、『ファンタジア』(1940年)などの長編アニメーションの配給も行った。また、アルフレッド・ヒッチコック監督の『断崖』(1941年)や『汚名』(1946年)もここで製作された。そしてRKOの最大のヒット作は『聖メリーの鐘』(1945年、レオ・マッケリー監督)だった。

また、1940年代、ヴァル・リュートンによる独特の雰囲気を持つ、『キャット・ピープル』、『私はゾンビと歩いた!』などのホラー映画のシリーズものや、1950年代には、ニコラス・レイ監督(『夜の人々』(1949年)、『危険な場所で』(1952年))やフリッツ・ラング監督(『口紅殺人事件』(1956年)、『条理ある疑いの彼方に』(1956年)のような多くのフィルム・ノワールB級映画として同時に製作された。

混迷に満ちたハワード・ヒューズの経営[編集]

ただ、複雑な創立以来の大株主の入れ替わりで、オーナー交代による経営危機は脱することができず、特に、1941年12月以降にアメリカも参戦した第二次世界大戦中での観客動員の落ち込みはひどかった。

1948年には億万長者で実業家のハワード・ヒューズが大株主として会社を買収し、数週間の間にスタジオの従業員を3分の2まで減らし、1949年の半年間スタジオの全従業員の思想信条の徹底調査を行っていたが、その間に映画スタジオが閉鎖された。また完成された映画作品も、特に女優と政治に関してはハワード・ヒューズの鶴の一声で再撮影と再編集が強制されてしまった。また、この期間に過去のRKO作品を売却している(のちにテッド・ターナーの手に渡り、現在はタイム・ワーナーの一部門であるターナー・エンタテインメントが権利を保有)。

1952年には映画スタジオを完全に閉鎖し1953年には、パラマウント判決(→スタジオ・システム)により映画館部門を売却してしまった。1954年には当時の航空会社部門のトランスワールド航空の業績好調により、2400万ドルでRKOの株式をすべて購入して、ハリウッド映画史上初めての個人所有による映画会社とする。しかし半年後の1955年7月には突如全株式を2500万ドルでジェネラル・タイヤ・アンド・ラバー社の子会社であるジェネラル・テレラジオ社に売却する。

スタジオの終焉[編集]

テレラジオ社は、RKOが製作した1948年以前の約700本の映画のテレビ放映権を売却して資金を調達し、破綻したスタジオの復興を試みるが、1957年1月には倒産。撮影所の不動産はルシル・ボールとデジー・アルナズの会社デジールー・プロダクションの手に渡って、これをもって完全にこの名門スタジオは消滅する。

日本法人は日本アール・ケー・オー映画株式会社があり、戦後はディズニー作品の日本に於ける配給を行っていた。米国本社の倒産後にディズニーに売却され、ブエナ・ビスタ映画株式会社となったが、1974年に解散し現存しない。現在のウォルト・ディズニー・ジャパンとは無関係。

現在[編集]

大部分の作品の版権は倒産の前後に売却され、現在は大部分の作品の版権をワーナー・ブラザースが保有する。米国では多くの作品の正規版DVDがワーナー・ホーム・ビデオから発売中だが、日本ではなぜか未発売(サミュエル・ゴールドウィン製作分の版権はメトロ・ゴールドウィン・メイヤー、米国での配給権・DVD発売権は20世紀フォックスが保有、こちらも日本では正規版未発売)。なお、大部分の作品がパブリックドメインとなっていることから、現在、一部の作品は激安DVDで発売中。

1981年にRKOのまだ存続していた子会社の一つが共同製作のためにRKOの名前を復活させ、1989年に多くのRKO映画の商標権とリメーク権を新しい所有者に売却した。現在のレイディオ・キース・オーフィアム・エンタテインメントはこの所有者の下で経営されている独立した会社である。

主な作品[編集]

1930年代[編集]

1940年代[編集]

1950年代[編集]

オープニングロゴ[編集]

アニメーションで回転する地球とモールス信号と雷光を発している大きな鉄塔。その周りに"A RKO Radio Pictures"の文字がかたどられている。

脚注[編集]

外部リンク[編集]