レイモンド・チャンドラー

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レイモンド・チャンドラー
Raymond Chandler
誕生 (1888-07-23) 1888年7月23日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ
死没 (1959-03-26) 1959年3月26日(70歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ラホヤ
職業 小説家
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 (1888–1907, 1956–59)
イギリスの旗 イギリス (1907–56)
活動期間 1933年–1959年
ジャンル 犯罪サスペンスハードボイルド
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レイモンド・ソーントン・チャンドラーRaymond Thornton Chandler, 1888年7月23日 - 1959年3月26日)は、アメリカ合衆国シカゴ生まれの、小説家で脚本家。

1932年、44歳のとき大恐慌の影響で石油会社での職を失い、推理小説を書き始めた。最初の短編「脅迫者は撃たない英語版」は1933年「ブラック・マスク」という有名なパルプ・マガジンに掲載された。処女長編は1939年の『大いなる眠り』である。長編小説は7作品だけで(8作目は後にロバート・B・パーカーが完結させた)、他は中、短編であるが、チャンドラーの長編はほとんど先に書いた中篇が元になっている。『プレイバック』以外の長編はいずれも映画化されている。死の直前にアメリカ探偵作家クラブ会長に選ばれた。1959年3月26日、カリフォルニア州ラホヤで死去[1]

チャンドラーの文体はアメリカ大衆文学に大きな影響を及ぼし、ダシール・ハメットジェームズ・M・ケインといった他の「ブラック・マスク」誌の作家と共にハードボイルド探偵小説を生み出したとされている。彼が生み出した主人公フィリップ・マーロウはハメットのサム・スペードと共にハードボイルド系「私立探偵」の代名詞とされている。ハンフリー・ボガートが映画で両者とも演じているが、チャンドラー自身はマーロウに一番近い俳優としてケーリー・グラントをあげている。

チャンドラーの長編小説の一部は文学作品として重要とされており、特に『大いなる眠り』(1939)『さらば愛しき女よ』(1940)、『長いお別れ』(1953) の3作品は傑作とされることが多い。あるアメリカ犯罪小説のアンソロジーでは『長いお別れ』について「主流文学の中にミステリーの要素を取り入れた作品。ただし、その1番目は20年以上前に出版されたハメットの『ガラスの鍵』である」と評している[2]

生い立ち[編集]

1888年、イリノイ州シカゴで生まれたが、幼少期は両親と(母方の)叔母と叔父といとこと共にネブラスカ州プラッツマスで過ごした。父はアルコール中毒の土木技師で鉄道建設に従事していたが、1895年に家族を捨てて去った。

1900年、母はチャンドラーに最高の教育を受けさせるためイギリスのロンドンに引っ越した[3]。そこで母方の祖母のもとに身を寄せ、アイルランドのウォーターフォードで弁護士として成功していたクエーカーの叔父の支援を受けた[4]

P・G・ウッドハウス[4]セシル・スコット・フォレスターといった出身者のいるパブリックスクールダリッジ・カレッジで教育を受けた。当時、イギリスのカレッジには2つのクラスがあった。「現代クラス」(実業界に進む学生向けクラス)と「古典クラス」(ラテン語とギリシャ語を学んで、オクスフォードケンブリッジに進学する学生向けクラス)である。チャンドラーは「現代クラス」の最上級まで進んでから、「古典クラス」の一番下の学年に移りそちらでも最上級(第六期)まで修了した。[5]夏休みにはウォーターフォードで母方の親族と共に過ごした[6]。17歳で学校を離れた。

大学には進学せずにパリミュンヘンで6か月ずつ過ごし、語学力を磨いた。1907年、叔父によって公務員試験を受けさせられることとなり(チャンドラー自身は作家志望であった)イギリスに帰化し、試験には600人中3番で合格。イギリス海軍本部で職を得て、そこで6か月ほど働いた。最初の詩をこのころ出版している[7]。なお、アメリカの市民権を得たのは1956年のことである[7]

公務員が性に合わず間もなく退職して家族を驚かせ、叔父は激怒した。チャンドラーはブルームズベリーにて生活を始め、「アカデミー」(高級週刊評論誌)や「ウェストミンスター・ガゼット」(夕刊紙)の記者となった。

「ウェストミンスター・ガゼット」の編集をしていた、J・A・スペンダーがチャンドラーに何らかの関心を示した最初の編集者であった。スペンダーはチャンドラーの詩やスケッチを買った。風刺的な内容のものであった。チャンドラーにスペンダーを紹介したのは、ローランド・ポンソンビー・ブレナーハセットという法廷弁護士で、アイルランドの大地主でもあった。ブレナーハセットはチャンドラーをナショナル・リベラル・クラブに入れて、読書室に出入りできるようにした。記事の執筆で週に3ギニーほど得ていた。

また、チャンドラーは「アカデミー」に多くの書評を書いた。書評を書く甲斐のある本を宛がわれることはほとんどなかった。彼にとっていくらか価値のあったのはジェフリー・ファーノルの『ひろいハイウェイ』(Jeffery Farnol ”The Broad Highway”, 1910)だけであった。エリノア・グリン(Elinor Glyn)の書評も執筆した。「アカデミー」での担当編集者は判事のセシル・カウパーという人物であった。カウパーは「アカデミー」をアルフレッド・ダグラス卿から引き継いでおり、1910年から1916年まで同誌の編集者であった。「アカデミー」の編集スタッフは中年の婦人記者とヴィズデリーという名の男であった。このヴィズデリーの兄は「ボヴァリー夫人」の翻訳をアメリカで出版したために猥褻容疑で罪に問われた人物であったという。[8]

ロマン主義の詩を書き続けていた。チャンドラーは後にこのころについて幸福ではなかったと述べている[9]

1912年、23歳の頃にウォーターフォードの叔父から500ポンドを借り、利子をつけて返すことを約束。安定した職を求めアメリカに向かい、叔母と叔父を訪ねた後サンフランシスコに落ち着き、そこで簿記を学ぶ。同年末には母を呼び寄せた。1913年、ロサンゼルスに向かう[10]。道中テニスラケットの弦を張る仕事や果樹園での収穫の仕事などをして金を貯めた。ロサンゼルスに着くと、The Los Angeles Creamery(ロサンゼルス乳業)に就職。1914年、カナディアン・ゴードン・ハイランダースに入隊。ブリティッシュ・コロンビアのヴィクトリアに送られて、訓練を受けた。カナダ軍に志願したのは、扶養家族の手当を貰えたからで、彼はその金を母親に送った。第一次世界大戦が勃発しアメリカが参戦すると(1917年4月6日)、フランスに出征、小隊長になった。1918年にはイギリス空軍(当時はRoyal Flying Corps. 後のR.A.F.)に配属された。終戦時には創成期のイギリス空軍で飛行訓練を受けていた[4]。除隊になると母とともにカリフォルニアに戻った。

1919年にカリフォルニアに到着。あんず農園で働いたり、スポーツ用品の会社で働いたりした。独学で簿記を学んだ。彼は3年の簿記のコースを6週間で済ませた。

休戦が成立するとカナダ経由でロサンゼルスに戻り、間もなく一緒に入隊したゴードン・パスカルの継母で18歳年上のシシイと恋愛関係となった[4]。シシイは1920年に離婚したが、チャンドラーの母はその関係に反対し、結婚を認めなかった。4年間そのような状態が続いたが、1923年9月26日に母が亡くなり、1924年2月6日にはシシイと結婚[4][11]。妻はニューヨークの生まれで、クラレンス・デイの母が出た一家と親類関係にあった。

1922年から Dabney Oil Syndicate という石油会社で簿記係兼監査役として雇われ、1931年には副社長にまで登りつめたが、飲酒が過ぎること、常習的な欠勤、女性従業員との不倫[4]などが原因で翌年には解雇された。最終的には6つの石油会社の役員になった。

作家生活[編集]

大恐慌で経済的に苦しかったため、チャンドラーは文筆の潜在的才能で生計を立てようと決め、E・S・ガードナーペリー・メイスンものからパルプ・マガジンの小説の書き方を独学で学んだ。1933年にハードボイルド探偵小説の揺籃であったアメリカのパルプ・マガジン『ブラック・マスク』に18000語の中篇『脅迫者は撃たない英語版』(”Blackmailers Don’t Shoot”)が掲載され、デビューする。『脅迫者は撃たない』の執筆には5か月費やした。

1939年発表の処女長編『大いなる眠り』で初登場したフィリップ・マーロウは、ハードボイルド派の中で最も有名な探偵といえる。『大いなる眠り』の執筆には3か月かけた。

1950年、イギリスでの版元ハミッシュ・ハミルトンへの手紙で、なぜパルプ・マガジンを読むようになり、さらに書くようになったかを説明している。

パシフィック・コーストを自動車で行き来していたとき、安くて捨てても惜しくないパルプ・マガジンを読むようになった。女性向け雑誌を読む趣味は全くないのでね。(私がそう言ってよければ)それはブラック・マスク誌の黄金時代で、粗野な面もあるものの、その書きっぷりはかなり力強く正直だと気付いた。そして、小説の書き方を学んで同時に小遣いを稼ぐというのはよい方法かもしれないと思いついた。5カ月かけて18,000語の中編を書き上げ、それを180ドルで売った。それからもかなり不安な時期をすごしたが、私は決して振り返らず前進した。[12]

2作目の長編『さらば愛しき女よ』(1940) はそれぞれ別の脚本で3度映画化された。1944年の『欲望の果て英語版』ではディック・パウエルがマーロウを演じた。チャンドラー自身も脚本を依頼されるようになる。ビリー・ワイルダーと共同で脚本を書いた『深夜の告白』(1944) は、ジェームズ・M・ケインの『倍額保険』が原作だった。このフィルム・ノワールの古典は、アカデミー賞脚本賞にノミネートされた。

チャンドラーの単独書き下ろし脚本としては『青い戦慄英語版』(1946) がある。プロデューサーのジョン・ハウスマンによれば、チャンドラーは結末部分を完成させることができず、酒を飲ませてくれたら完成させると約束し、ハウスマンがそれに同意したという。この脚本でもアカデミー賞にノミネートされた。

アルフレッド・ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(1951) でも脚本に参加している。パトリシア・ハイスミスの同名の小説が原作だが、チャンドラーは「ばかばかしいストーリー」と原作を酷評していた[13]。この映画の脚色の際にヒッチコックと衝突し、ヒッチコックをしばしば「あのデブ野郎(that fat bastard)」と、本人に聞こえるように言っていた[14]。ヒッチコックは鼻をつまみながらチャンドラーの草稿脚本を撮影所のゴミ箱に投げ入れたという。しかし、最終的にはチャンドラーの名前が脚本として残っている。

1946年、サンディエゴに程近い海岸沿いのカリフォルニア州ラ・ホヤに引越す。妻シシイは慢性気管支炎で体が衰弱しており、チャンドラーは家事をする合間に執筆していた。『長いお別れ』(1953) を書いた。

1954年12月12日に妻をなくして非常にふさぎ込むようになり、酒におぼれ体調を崩したが、周囲の熱心な支えもあり、1958年に『プレイバック』で復帰する。『プレイバック』はユニバーサル・ピクチャーズのために書いた脚本(映画化されず)が元になっている。さらに翌1959年、『プードル・スプリングス物語』の執筆にとりかかるも、冒頭の第4章まで書いたところで亡くなった。同作は1989年、著名なハードボイルド作家であり、チャンドラーの熱心なファンでもあったロバート・B・パーカーが遺族の承諾を得た上で、続きを執筆し完成させた。パーカーは他に『大いなる眠り』の続編『夢を見るかもしれない Perchance to Dream』(1991年)も書いている。

チャンドラーによるマーロウを主人公とする最後の短編は1957年ごろの "The Pencil" で、日本語では「マーロウ最後の事件」となっている。HBOは1983年から1986年にかけて Philip Marlowe, Private Detective というドラマシリーズを放送しており、「マーロウ最後の事件」も1エピソードの原作として使われた。

晩年と死[編集]

1954年、妻シシイが長い闘病の末、亡くなった。傷心で酒におぼれたチャンドラーは、火葬した遺骨の埋葬を怠り、その骨壷は墓地の貯蔵用ロッカーに57年間放置されていた。

シシイの死後、寂しさからうつ病の傾向が悪化し、長い間飲酒し続け、執筆の質も量も低下した[4]。1955年2月には自殺未遂している。ジュディス・フリーマンは The Long Embrace: Raymond Chandler and the Woman He Loved でそれが「助けを求める叫び声」だっとし、その証拠に彼は事前に警察に自殺するつもりだと電話していたとしている。

チャンドラーの私生活と作家生活は、付き合った女性たちに助けられ、同時に複雑化した。例えば、ヘルガ・グリーン(著作権代理人)、ジーン・フラカッセ(秘書)、ソニア・オーウェル(ジョージ・オーウェル未亡人)、ナターシャ・スペンダー(スティーブン・スペンダーの妻)がいる。特に最後の2人はチャンドラーが潜在的同性愛者だったと証言している[15]

イングランドでの休養後、ニューヨーク病院に入院し、ラ・ホヤに戻った。1959年3月26日、肺末梢血管ショックと腎前性尿毒症で亡くなった。チャンドラーの6万ドルの遺産は、フラカッセが遺書が直筆かどうかで訴訟を起こしたものの、ヘルガ・グリーンが相続することで決着した。

彼はサンディエゴの墓地に埋葬された。Frank MacShane の書いた伝記 The Life of Raymond Chandler によれば、チャンドラーはシシイの隣に埋葬されることを望んでいたという。しかし、実のところシシイは墓に埋葬されておらず、遺書にも埋葬について全く指示を記していなかったため、サンディエゴの墓地に埋葬されることになった[16]

2010年、チャンドラー研究者 Loren Latker は弁護士 Aissa Wayne(ジョン・ウェインの娘)の助力を得て、シシイの遺骨をチャンドラーの隣に埋葬する請願を出した。2010年9月、カリフォルニア高等裁判所はその請願を認める裁定を下した[17]

2011年のバレンタインデー(2月14日)、シシイの遺灰(遺骨)が移され、チャンドラーの墓の隣に埋葬された[18]。その式典には百人ほどの人々が参列した。新たな共有の墓石には『大いなる眠り』の一節 "Dead men are heavier than broken hearts" が刻まれている。ジーン・フラカッセが置いた当初の墓石も側に置いてある。

パルプ小説とチャンドラー[編集]

短編集 Trouble Is My Business (1950) の序文でチャンドラーは、探偵小説の決まりきった枠について考察し、パルプ・マガジンがそれ以前の探偵小説とどう違うのかを考察している。

標準的探偵小説の感情的基盤は、常に殺人が発覚し、正義がなされるということだった。技術的基盤は、大団円へと向かうこと以外は相対的に重視されないということだった。それによって探偵小説を書くということは多少なりとも通り一遍の作業となっていた。大団円が全てを正当化する。一方「ブラック・マスク」型のストーリーの技術的基盤は、プロットよりシーンを重視するという点で、その意味でよいプロットとはよいシーンの連なりでできているものである。理想的なミステリとは、読んでいて結末が読めないものであろう。我々がそれを書くとき、映画製作者と同様の観点に立っている。私が初めてハリウッドに行ったとき、非常に賢いプロデューサーから推理小説を元にして成功する映画を作ることはできないと言われた。なぜなら最も重要な暴露の瞬間が映画ではほんの数秒しかかからず、観客が帽子に手をのばしていたら見逃すだろうと言うのである。彼は間違っていたが、それは間違った種類のミステリを考えていたためだった。

また、パルプ・マガジンの編集者が要求する型に従う際のパルプ作家の苦心を説明している。

私が自分の書いた作品を振り返ったとき、それがもっとよいものならよかったのにと思わないではいられない。しかし、それがもっとよいものだったなら、出版されなかったかもしれない。型枠がもっと柔軟なものだったら、当時の著作物のより多くが世に出ていただろう。我々の何人かはかなり熱心に枠から抜け出そうとしたが、多くは捕まって送り返された。枠を壊さずにその限界を超えることは、絶望した老いぼれ馬以外の全ての雑誌作家の夢だった。[19]

評価[編集]

W・H・オーデンイーヴリン・ウォーイアン・フレミングといった評論家や作家はチャンドラーの散文を高く評価している[4]。ラジオ番組でチャンドラーと対談したフレミングは、チャンドラーの会話文を褒め称えている[20]。素早い展開やハードボイルドなスタイルはダシール・ハメットに触発されたものだが、彼の鋭い叙情的な直喩はオリジナルである。チャンドラーの作品は探偵小説というジャンルを再定義し、"Chandleresque"(チャンドラー的)という形容詞が生まれ、必然的にパロディパスティーシュの的となった。探偵フィリップ・マーロウはステレオタイプなタフガイではなく複雑で、時にはセンチメンタルになり、友人は少なく、スペイン語を若干しゃべり、時折メキシコ人を賞賛し、チェスとクラシック音楽を好む。また、倫理的に問題があると思えばクライアントの金を受け取らない。

今日のチャンドラーの名声とは対照的に、作家として活動していた当時は評論に傷つけられていた。Selected Letters of Raymond Chandler に収録されている1942年3月の Blanche Knopf への手紙で、作風を変えようとすると批判されることに不満を漏らしている。

最近でも彼の作品について批判的な評論が存在する。ワシントン・ポストのインタビューで書評家のパトリック・アンダーソンは、プロットが「よく言っても散漫で、悪く言えば一貫性がない」とし、黒人や女性や同性愛者の登場人物の扱いがひどいと指摘した。それでもアンダーソンはチャンドラーを「おそらく主な犯罪小説作家の中で最も叙情的」と賞賛している[21]

チャンドラーの小説は、1930年代から40年代にかけてのロサンゼルスとその近郊の雰囲気をよく伝えている[4]。ただし地名は変えてある。ベイシティはサンタモニカ、グレーレイクはシルバーレイク、アイドルバレーはサンフェルナンド・バレーにそれぞれ対応する。

チャンドラーはパルプ小説の批評家でもあった。エッセイ「簡単な殺人法」は特に有名である。

長編小説は『プレイバック』を除いて映画化されている。最も有名なのはハワード・ホークス監督でハンフリー・ボガート主演の『三つ数えろ』(1946) である。ウィリアム・フォークナーが脚本に参加している。チャンドラーの脚本や映画化された小説は、フィルム・ノワールというジャンルのスタイルやテーマに少なからぬ影響を与えた。

人物[編集]

  • E・S・ガードナーと親交があった。チャンドラーは1939年5月5日のガードナー宛の手紙に「私たちがむかしの”アクション・ディテクティブ”誌について語っていたとき、エド・ジェンキンスの身がわりのような人物で、ハリウッドの丘に邸をかまえて恐喝に対抗する組織をつくっていた若い女とかかわりになるレックス・ケーンという男について書いたあなたの作品から、私が短篇の書きかたを学んだことを、あなたに話すのを忘れていました。(中略)私はあなたの小説のひじょうにこまかい梗概をつくり、それから書きなおして、できあがったものをあなたのものとくらべ、またもとにもどって、さらに書きなおして、といったことをくり返しました」と書いており[22]、ガードナーの作品を手本のようにしていたようである。
  • 以下、チャンドラーによる作家評は、1949年4月16日にアレックス・バリスに宛てた手紙の内容である。
  1. エリザベス・ホールディングは作品は多くないが堅実に書き続けている個性的なサスペンス作家のナンバーワンである
  2. F・W・クロフツは細かい描写のナンバーワンである
  3. ドロシー・L・セイヤーズはラテン語とギリシャ語の引用のナンバーワンである
  4. フィリップ・マクドナルドはとっつきやすい魅力のナンバーワンである
  5. 怖がらせる作家のナンバーワンはいないが、強いて挙げるならドロシー・B・ヒューズである
  6. マーガレット・ミラーの『目の壁』に登場するMCが最も興味のある人物である

「アシェンデン」はかつて書かれたスパイ物語のどれよりもはるかにすぐれています。……古典はどんな種類のものでも大きなカンバスよりつよく私に訴えます。メリメが書いた「カルメン」、「エロディアス」、「単純な心」、「船長の人形」、「ポセイドンの戦利品」、「ボヴァリー夫人」、「鳩のつばさ」、などなど。(「クリスマスの休暇」を忘れるところでした。)これらはすべて完全です。長篇も短篇も、強烈なものも静かなものも、ふたたび同じようにみごとになされることのない何かをなしとげています。

「推理小説についての覚え書」(1949年執筆)[編集]

  • チャンドラーは1949年に10のブロックから成る「推理小説についての覚え書」を書いている。[23]各ブロックの書き出しのみを以下に示す。
  1. 推理小説は事件発生の状況についても、事件の解決についても、信じうべき裏づけがなければならない。
  2. 推理小説は殺人と捜査解決の方法が常識的でなければならない。
  3. 人物、舞台、環境は現実的でなければならない。
  4. 推理小説は謎の要素からはなれてもストーリーがしっかりしたものでなければならない。
  5. 推理小説はその機会が来たときにたやすく説明できるようなわかりやすい構成を持っていなければならない。
  6. 推理小説は論理的に頭が働く知的な読者を対象から除かなければならない。
  7. 謎がいったん解決されたなら、当然そうなるべきであったと思われなければならない。
  8. 推理小説はすべてのことを一度になそうと試みてはならない。
  9. 推理小説は犯罪者をなんらかの方法で罰しなければならない。
  10. 推理小説は読者に対して論理的に正直でなければならない。

賞賛の言葉[編集]

チャンドラーはスラム街の天使のように書き、ブラインド越しのロサンゼルスの眺めをロマンチックな存在に変貌させた。

レイモンド・チャンドラーはアメリカについて語る新たな方法を発明し、それ以来我々にとってアメリカは全く違ったものとして映るようになった。

その散文はさりげない雄弁さの極みにあり、我々は単なる語り部ではない名文家、ビジョンを持った作家の存在に気付いて興奮を覚える…読者はチャンドラーの誘惑的な散文に魅了される。

ジョイス・キャロル・オーツ, New York Review of Books[24]

チャンドラーは私の好きな作家の1人だ。彼の本は数年ごとに読み返すに値する。その小説はアメリカの過去の完全なスナップショットであり、今は亡きロマン主義の表現は昨日書かれたかのように新鮮だ。

チャンドラーは戦後の夢を発明したようである。タフで優しいヒーロー、危険なブロンド美女、雨で洗われた歩道、遠くの交通(や海)のうなり声…チャンドラーは我々の時代のクラシックで寂しいロマンチックなアウトサイダーであり、彼がいなければアメリカ文学や英文学はもっと貧しいものだっただろう。

主要作品リスト[編集]

長編[編集]

短編集[編集]

  • ヌーン街で拾ったもの、清水俊二(他)訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ(1960年)
  • チャンドラー短編全集1 赤い風、稲葉明雄訳、創元推理文庫(1963年)
  • チャンドラー短編全集2 事件屋稼業、同上(1965年)
  • チャンドラー短編全集3 待っている、同上(1968年)
  • チャンドラー短編全集4 雨の殺人者、同上(1970年)
  • マーロウ最後の事件、稲葉明雄訳、晶文社(1975年)
  • チャンドラー美しい死顔、清水俊二(他)訳、講談社文庫(1979年)
  • ベイ・シティ・ブルース、小泉喜美子訳、河出文庫(1988年)
  • フィリップ・マーロウ、稲葉明雄訳、集英社文庫(1997年)
  • チャンドラー短編全集1 キラー・イン・ザ・レイン、小鷹信光(他)訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(2007年)
  • チャンドラー短編全集2 トライ・ザ・ガール、木村二郎(他)訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(2007年)
  • チャンドラー短編全集3 レイディ・イン・ザ・レイク、小林宏明(他)訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(2007年)
  • チャンドラー短編全集4 トラブル・イズ・マイ・ビジネス、田口俊樹(他)訳、ハヤカワ・ミステリ文庫(2007年)

書簡・エッセイ集[編集]

映画脚本[編集]

受賞歴[編集]

アカデミー賞[編集]

ノミネート
1945年 アカデミー脚本賞:『深夜の告白

著名なチャンドラリアン[編集]

  • 彼のファンのことを俗に「チャンドラリアン」とよぶ。

他国[編集]

日本[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ Chandler, Raymond (1950). Trouble is My Business, Vintage Books a division of Random House, Inc., 1988 pp. "About the Author"
  2. ^ Pronzini, Bill and Adrian, Jack (editors)(1995). Hard-Boiled, An Anthology of American Crime Stories, Oxford University Press, Inc., 1995, p.169.
  3. ^ 1900 US Census, Plattsmouth, Nebraska
  4. ^ a b c d e f g h i Iyer, Pico (2007年12月6日). “The Knight of Sunset Boulevard (paid access only)”. The New York Review of Books: pp. 31–33. http://www.nybooks.com/articles/archives/2007/dec/06/the-knight-of-sunset-boulevard/?pagination=false  - 有償であり、無料で閲覧できる抄録部分には出典となる情報はない。
  5. ^ レイモンド・チャンドラー語る. 早川書房. (1984). 
  6. ^ Raymond Chandler”. Waterfordireland.tripod.com. 2012年7月19日閲覧。
  7. ^ a b アーカイブされたコピー”. 2008年5月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年2月19日閲覧。
  8. ^ レイモンド・チャンドラー語る. 早川書房. (1984). 
  9. ^ Raymond Chandler: Raymond Chandler Speaking (Dorothy Gardiner and Kathrine Sorley Wakker, ed.) p. 24 Houghton Mifflin Company (1962) ISBN 978-0-520-20835-3.
  10. ^ Florence arrives 12/1912 - Passenger Manifest SS Merion
  11. ^ Raymond Chandler's Shamus Town 年表のページなどに公式な記録(死亡診断書、国勢調査、電話帳など)が使われている。
  12. ^ Chandler, Raymond, forward by Powell, Lawrence Clark (1969). The Raymond Chandler Omnibus, Borzoi Book a division of Alfred A. Knopf, Inc., 1969 p. vii
  13. ^ 晶文社映画術 ヒッチコック/トリュフォーフランソワ・トリュフォー著、山田宏一蓮實重彦共訳 P211より
  14. ^ http://www.case.edu/artsci/engl/marling/hardboiled/Chandler.HTM
  15. ^ The Man Who Gave Us Marlowe - The New York Sun”. Nysun.com. 2012年7月19日閲覧。
  16. ^ Hiney, Tom (1997). Raymond Chandler: A Biography, pp. 275-76. Grove Press.
  17. ^ Bell, Diane (2010-09-08). "Ashes of Chandler's wife to join him for eternity". SignOnSanDiego.com. Retrieved 2011-11-26.
  18. ^ Bell, Diane (2011-02-14). "Raymond Chandler and his wife, Cissy, are finally reunited". SignOnSanDiego.com. Retrieved 2011-11-26.
  19. ^ Chandler, Raymond (1950). Trouble is My Business, Vintage Books a division of Random House, Inc., 1988 pp. viii-ix
  20. ^ Chandler/Fleming discussion, BBC Home Service, 10th July 1958
  21. ^ An Interview With Patrick Anderson”. Blogcritics.org (2007年8月2日). 2012年7月19日閲覧。
  22. ^ レイモンド・チャンドラー語る. 早川書房. (1984). 
  23. ^ レイモンド・チャンドラー語る. 早川書房. (1984). 
  24. ^ a b c d e Collected Stories by Raymond Chandler - Praise”. randomhouse.com. 2011年5月14日閲覧。

参考文献[編集]

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  • MacShane, Frank (ed.) (1981). Selected Letters of Raymond Chandler. N.Y.: Columbia University Press.
  • Moss, Robert (2002.) "Raymond Chandler A Literary Reference" New York Carrol & Graf
  • Swirski, Peter (2005). "Chapter 5 Raymond Chandler's Aesthetics of Irony" From Lowbrow to Nobrow. Montreal, London: McGill-Queen's University. ISBN 978-0-7735-3019-5
  • Ward, Elizabeth and Alain Silver (1987). Raymond Chandler's Los Angeles. Woodstock, N.Y.: Overlook Press. ISBN 0-87951-351-9

外部リンク[編集]