イーゴリ・ストラヴィンスキー

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イーゴリ・ストラヴィンスキー
И́горь Страви́нский
RIAN archive 597702 Composer Igor Stravinsky and cellist Mstislav Rostropovich.jpg
ロストロポーヴィチ(左)と(1962年9月1日)
基本情報
出生名 イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー (И́горь Фёдорович Страви́нский)
生誕 1882年6月17日
Romanov Flag.svg ロシア帝国 オラニエンバウム(現・ロモノソフ
死没 1971年4月6日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク
ジャンル 原始主義、新古典主義セリー主義
職業 作曲家指揮者ピアニスト

イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキーロシア語: И́горь Фёдорович Страви́нский[1]1882年6月17日 - 1971年4月6日)は、ロシア作曲家

同じくロシアの芸術プロデューサーであるディアギレフから委嘱を受け作曲した初期の3作品(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)で知られるほか、指揮者ピアニストとしても活動した。20世紀を代表する作曲家の1人として知られ、20世紀の芸術に広く影響を及ぼした音楽家の1人である。ニューヨークで没した。

略歴[編集]

1921年撮影

第一次世界大戦まで[編集]

1882年6月17日サンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウム(現・ロモノソフ)に生まれ、首都のサンクトペテルブルクで育った。ストラヴィンスキー家は16世紀末にさかのぼるポーランド系小貴族で、伝統的にその領地はリトアニア大公国の中にあったが、徐々に没落していった[2]。父のフョードルは三男だったために財産を受け継ぐことはなかったが[3]マリインスキー劇場づきの、当時のロシアを代表するバス歌手として有名だった。

イーゴリは現在のサンクトペテルブルク大学法学部に入学したが、その一方で週に一度音楽理論を学んだ[4]。法学部で知りあったリムスキー=コルサコフの末子であるウラディーミルの勧めによって、1902年夏にリムスキー=コルサコフと会い、個人授業が受けられることになった[5]。同年11月に父が没した。

リムスキー=コルサコフの授業は最初は不定期だったようだが、1905年秋ごろから定期的なレッスンを受けるようになった[6]。大学は1906年4月に学位を取得した。

初期の管弦楽作品としては『幻想的スケルツォ』(1908)と『花火』(1909)が優れているが、リムスキー=コルサコフは1908年6月に没し、これらの曲の初演を聞くことはできなかった。自伝によればバレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフはこの2曲を聞いてからストラヴィンスキーと親密な関係を持つようになったというが[7]、実際のところはよくわからない[8]。ディアギレフから最初に頼まれた仕事はバレエ『レ・シルフィード』のためにショパンのピアノ曲を管弦楽用に編曲することだった。

1910年にはバレエ・リュスのために作曲した『火の鳥』がパリオペラ座で初演され、大成功を収める。翌1911年には、第2作『ペトルーシュカ』が初演され、これも成功を収める。さらに1913年、第3作『春の祭典』がパリで初演される。この上演は楽壇をセンセーショナルな賛否両論の渦に巻き込む。これら3作によってストラヴィンスキーは若手の革命児として名を刻まれる事になった。

ストラヴィンスキーはそれまでも夏をウスティルーフ(現ウクライナ)、冬をスイスで過ごしていたが、1914年第一次世界大戦が勃発するとウスティルーフには帰れなくなり、スイスに居を定めた。1917年に起きたロシア十月革命により故国の土地は革命政府に没収され、ロシアからの収入も得られなくなり、またバレエ・リュスの公演も戦争に妨げられて思うにまかせず、ストラヴィンスキーの生活は苦境に陥った。このころ作曲された曲はロシアの民衆詩や寓話による土俗的な『きつね』、『結婚』、『兵士の物語』などがあり、ストラヴィンスキーの新しい局面を示すが、ほとんどの曲は戦時中には上演する機会がなかった。

両大戦間[編集]

戦後の1920年パリで初演された『プルチネルラ』はまだスイスに住んでいた時に作曲された曲だが、18世紀の音楽の旋律と形式をそのまま使いながら、新しい管弦楽法で音楽に新しい命を吹き込んだもので、1921年以降フランスに落ち着いてから作られるようになる新古典主義音楽のはしりだった。ストラヴィンスキーの新古典主義時代は1951年のオペラ『放蕩者のなりゆき』まで続く。

1920年からフランスに住んだが、住所はカランテックブルターニュ地方)、ギャルシュパリ近郊)、アングレットおよびビアリッツ(南西フランス、1921-1924)、ニース(1924-1931)、ヴォレップ英語版グルノーブル近郊、1931-1934)と、一定しなかった。

ディアギレフとの関係は続いたが、戦前よりも疎遠になり、1923年に初演された『結婚』がバレエ・リュスのために書いた最後の曲になった。ストラヴィンスキーはまたキリスト教に傾倒するようになり、1926年にはロシア正教会に回帰した。1920年代に作曲された主要な曲には『八重奏曲』『エディプス王』『ミューズを率いるアポロ』などがある。この時代、ストラヴィンスキーはピアニストとしてもデビューし、ピアノ用に『ピアノと管楽器のための協奏曲』『カプリッチョ』『ピアノソナタ』『イ調のセレナーデ』などを作曲している。

1929年にディアギレフが没した後は、ヴァイオリニストのサミュエル・ドゥシュキンのために書いた曲や、アメリカ合衆国からの注文で書いた曲が主になる。『詩篇交響曲』『カルタ遊び』『ダンバートン・オークス協奏曲』はいずれもアメリカからの依頼で書いたものである。

1934年にフランス市民権を得てパリに住むが、1938年に長女を結核で失い、翌年には妻と母を失う。当時ナチス政府は前衛的なストラヴィンスキーを快く思っておらず、またフランス人はストラヴィンスキーの新作に興味を持たなくなっていた。

アメリカ時代[編集]

ストラヴィンスキーは1925年にはじめてアメリカ合衆国を訪れ、1935年と1937年にも渡米している。第二次世界大戦開戦直後の1939年9月にハーバード大学からの依頼によって渡米して音楽に関する6回の講義(のちに『音楽の詩学』の題で出版)を行うが、そのまま米国にとどまり、ハリウッドに住んだ。1945年にはアメリカ合衆国の市民権を得た。『3楽章の交響曲』、バレエ『オルフェウス』、『ミサ曲』、オペラ『放蕩者のなりゆき』などがこの時代の代表作である。

アルノルト・シェーンベルクが没した1951年頃より、これまで否定的だった十二音技法を少しずつ採用して新たな創作の可能性を開く。70歳近くになってからの作風の変貌は世間を驚かせた。その後も1966年までの約15年に20曲ほどを作曲している。この時代の作品には『七重奏曲』、『カンティクム・サクルム』『アゴン』『トレニ』『アブラハムとイサク』『J.F.ケネディへの哀歌』などがある。

1959年、来日し、日比谷公会堂フェスティバルホールで演奏会を行う。また日本の若手作曲家の武満徹を見出して世界に紹介する。これはのちにバーンスタインが、ニューヨーク・フィル125周年記念の曲を武満に委嘱するきっかけになった。

1962年キューバ危機のさなかに80歳のストラヴィンスキーはソ連を訪問する。1914年に祖国を離れて以来、最初にして最後の帰郷であった。

1966年を最後として新しい曲は作曲されず(編曲はその数年後まで行った)、1967年後半は胃潰瘍と血栓症で長期間入院した。最晩年はロバート・クラフトの勧めでレコードを聞いて過ごした。作曲家から鑑賞者への立場の変化に不満を持ちつつも、とくにベートーヴェンを好んだ[9]

1969年ニューヨークエセックスハウスに転居し、1971年4月6日に88歳で没する。ディアギレフの眠るヴェネツィアサン・ミケーレ島に埋葬された。のちに、妻ヴェラもイーゴリの隣に埋葬された。

死後、革命により失われたと思われていた『ピアノソナタ嬰ヘ短調』などの初期作品がレニングラード州立図書館から発見され、刊行された。2015年にはリムスキー=コルサコフ追悼のために書いた『哀悼歌』作品5が発見されている[10] 。本作はストラヴィンスキーが生前に『火の鳥』以前に書かれた作品では最高の作品だと述べており、紛失を悔やんでいたものだった[11]

妻子と女性関係[編集]

ストラヴィンスキーは大学を卒業した翌年の1906年に、幼なじみで従姉のエカチェリーナ・ノセンコ(カーチャ)と結婚した。翌年には息子テオドール、翌々年に娘リュドミラを授かった。1910年には後に作曲家・ピアニストになったスリマが生まれた。1913年には娘のマリア・ミレナが生まれている。しかし夫人は長く結核を患い、1938年に長女リュドミラが感染して死亡、翌1939年はじめに夫人自身も死亡した。

一方、ストラヴィンスキーはしばしば他の女性と不倫関係を持ったことが知られている。1916年にアメリカ公演から帰ったバレエ・リュスがマドリードにいるとき、バレエ・リュスの踊り手であるリディア・ロポコワと恋愛関係を結んだのが知られるかぎり最初の浮気である[12]

ココ・シャネルとも一時恋愛関係にあったことが知られている。ココ・シャネルは1920年にパリで家を探すのに困っていたストラヴィンスキーに自分の家を提供したり、マシーンによる『春の祭典』復活上演のために莫大な資金を提供したりしているが、恋愛関係にあったのは短い間に過ぎなかったようだ[13]。2009年の映画『シャネル&ストラヴィンスキー』は『春の祭典』初演後から再演前までにおける両者の不倫を題材にしているが、これはあくまで創作である。

1921年には蝙蝠劇場というロシア系のキャバレーでジェーナ・ニキティナと一時的に恋愛関係を持った。ほかにも不倫の対象はいたかもしれない[14]

セルゲイ・スデイキンとその妻のヴェラにはじめて会ったのはおそらく1920年にパリでプルチネルラを公演したときで[15]、おそらく翌年夏にストラヴィンスキーはヴェラと恋仲になり、バレエ・リュスではふたりの関係は公然と語られた。スデイキンとストラヴィンスキーは険悪な関係になり、1922年にヴェラはスデイキンと離婚している[16]。その後ストラヴィンスキーは南フランスで家族と、パリでヴェラとの二重生活を送った。夫人の没後、1939年にアメリカに移ると、ヴェラを呼び寄せて1940年に再婚している。

作風[編集]

生涯に、原始主義新古典主義セリー主義と、作風を次々に変え続けたことで知られ、「カメレオン」というあだ名をつけられるほど創作の分野は多岐にわたった。さまざまな分野で多くの作品を残しているが、その中でも初期に作曲された3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)が名高く、特に原始主義時代の代表作『春の祭典』は、しばしば20世紀音楽の最高傑作と言われている[17]。また、3大バレエ音楽は全曲演奏でも30~50分の長さということもあり、上演よりも圧倒的にコンサートやレコード、CDで親しまれ続けてきた。

また、オーケストラ作品ではリムスキー=コルサコフ仕込みの管弦楽法が遺憾なく発揮され、さらにそこから一歩踏み込んだ表現力を実現することに成功している。これらの作品によって、ベルリオーズラヴェル、師のリムスキー=コルサコフなどと並び称される色彩派のオーケストレーションの巨匠としても知られるに至っている。

松平頼暁は自著<現代音楽のパサージュ>の中で「20世紀音楽のほとんど[18]のイディオムはすべて彼の発案」と述べたほど、ストラヴィンスキーの持ちこんだアイデアはそのすべてが画期的であった。過去の作品への執着もつよく、「原曲の著作権料がアメリカでは入ってこない」という理由もあって、演奏頻度の高い『火の鳥』以下3曲のバレエ音楽の改訂を行い続けた。アメリカ人が著作権問題を真剣に考えるようになったのも、実はこれも渡米後のストラヴィンスキーの指導によるものである。また、自分の演奏が録音されるチャンスがあるとわかれば、指揮やピアノの録音を残した。

後期は現代音楽界からやや離れた次元で、自分の為の音楽を本当に書くことができたが、この時期の音楽は現在も賛否が割れている。

原始主義時代[編集]

ストラヴィンスキーの作風は大きく3つの時代に分けることができるが、その最初が原始主義時代である[19]。主な作品として、3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)が挙げられる。複調変拍子、リズム主題の援用などが特徴である。『結婚』を最後にこの傾向は終息する。

新古典主義時代[編集]

バレエ音楽『プルチネルラ』以降はストラヴィンスキーの新古典主義の時代とよばれる。この時期はバロック音楽古典派のような簡素な作風に傾倒した。和声の響きは初期に比べてかなり簡明になった。1939年から1940年に行われた講義の内容を基にした著作『音楽の詩学』がこの時代の音楽観をよく表している。その一方で、新古典主義時代ながら『詩篇交響曲』ではセリー的操作を用いている。これは後の研究で明らかにされた。ストラヴィンスキーが他の楽派の音楽語法も常に見張っていたことが良くわかる。

セリー主義(十二音技法)時代[編集]

第二次世界大戦後は、それまで敵対関係であったシェーンベルクらの十二音技法を取り入れ、またヴェーベルンの音楽を「音楽における真正なるもの」などと賞賛するようになった。これには同じくアメリカに亡命していたクシェネクの教科書からの影響もある。ストラヴィンスキー自身は、「私のセリーの音程は調性によって導かれており、ある意味、調性的に作曲している」と語っており、あくまで調性的な要素の強いセリー音楽である。各楽器をソロイスティックに用いる傾向が一段と強まり、室内楽的な響きを多くのセクションで優先するために、初期の豪華な響きの光沢は全く聞かれなくなった。

ストラヴィンスキーが本当にこの時代に追求したことは音列の絡み具合ではなく、諸様式の交配で得られる一種のポリスタイリズム(多様式)的な感覚である。晩年には「レクイエム」と題する作品も2作残しているが、その中でオケゲムのリズム法に十二音を無理やり当てはめたり、楽譜が十字架を描いたりと、より個人的な作風へ化していった。国際派時代に世界中のオーケストラを指揮して威圧するイメージは、もはや聞かれなくなっていたし、ストラヴィンスキー本人がそう願っていたからでもあった。『レクイエム・カンティクルズ』のラストではチェレスタグロッケンヴィブラフォンの三重奏に教会の鐘を想起させる模倣を行っており、晩年になってもさらに新しい音楽を求めていたことが良くわかる。

主要作品[編集]

バレエ音楽[編集]

バレエ以外の舞台作品[編集]

交響曲[編集]

協奏曲[編集]

管弦楽曲[編集]

ピアノ曲[編集]

室内楽曲[編集]

合唱曲[編集]

歌曲[編集]

著作[編集]

  • ストラヴィンスキー 『音楽とは何か』(佐藤浩訳、ダヴィッド社、1955年) 
    • 『音楽の詩学』(笠羽映子訳、転換期を読む:未來社、2012年8月刊)
      ※大学での講義をまとめたもので、原題はPoétique musicale(音楽の詩学)。
  • 『ストラヴィンスキー自伝』(塚谷晃弘訳、全音楽譜出版社、1981年)
    • 『私の人生の年代記 ストラヴィンスキー自伝』(笠羽映子訳、転換期を読む:未來社、2013年3月刊)
  • ストラヴィンスキー談 『118の質問に答える』(ロバート・クラフト編、吉田秀和訳、音楽之友社、1960年)

演奏家としてのストラヴィンスキー[編集]

ストラヴィンスキーは作曲家であるとともに、指揮者、ピアニストとしても知られていた。特に、1950年代から60年代にかけて、コロンビア交響楽団カナダのCBC交響楽団を指揮して主要な自作のほとんどを録音している(CDにして22枚分)。「自作自演」の録音を、彼ほど大量に残した作曲家は絶無である。彼の自作自演盤は、指揮の精度やオーケストラの技術については専門の指揮者による録音に一歩譲るものの、作者自身が想定していた自作のイメージを伝える貴重な遺産となっている。

ストラヴィンスキーは、かつてのドイツやロシアの管弦楽に見られるような不明瞭なアーティキュレーションによる残響を毛嫌いした。『火の鳥』1945年版組曲の最終部の自身の演奏にその特徴が顕著に現れている。

日本訪問[編集]

ストラヴィンスキー夫妻はロバート・クラフトとともに1959年の4月から翌月にかけて日本を訪問した。本来は文化自由会議CIAがひそかに後援する反共音楽団体)のニコラス・ナボコフの立案による東京世界音楽祭に参加するのが目的だったが、音楽祭は1961年に延期された[20]

この来日の際、NHK武満徹の「弦楽のためのレクイエム」(武満の作品は、過去に評論家の山根銀二らに「音楽以前」などと酷評されていた)のテープを聴き彼を絶賛する。ストラヴィンスキーに認められたことで、武満の評価は国内外で上昇の一途を辿る。一方、日本の様々な伝統芸術に触れると同時に、特に興味を示したのが、様々な大衆音楽の猥雑な混合である「チンドン屋」であったと伝えられている。

脚注[編集]

  1. ^ ロシア語ラテン翻字: Igor Fyodorovitch Stravinsky
  2. ^ Walsh (1999) pp.6-7
  3. ^ Walsh (1999) pp.32-33
  4. ^ Walsh (1999) p.57
  5. ^ Walsh (1999) p.61
  6. ^ Walsh (1999) p.79
  7. ^ 自伝 p.37
  8. ^ Walsh (1999) p.122
  9. ^ White (1979) pp.154-156
  10. ^ 100年行方不明のストラビンスキー作品、露音楽院で発見”. AfpBB (2015年9月10日). 2017年2月10日閲覧。
  11. ^ White (1979) p.182
  12. ^ Walsh (1999) pp.265-266
  13. ^ Walsh (1999) pp.318-319
  14. ^ Walsh (1999) p.326,333
  15. ^ Walsh (1999) p.315
  16. ^ Walsh (1999) pp.334-337,343-345,350-351
  17. ^ [1][2][3][4]など
  18. ^ 春の祭典の「リズムクラスター」・火の鳥の「ポリ・コード」・ペトルーシュカの「全編完全引用」・カルタ遊びの「ポリ・カデンツ」・三楽章の交響曲の「ミニマリズム」このすべてが米国の商業音楽の先取りを行っている。
  19. ^ デビュー当初は原始主義を標榜していない。
  20. ^ Vincent Giroud (2015). Nicolas Nabokov: A Life in Freedom and Music. Oxford University Press. pp. 329-330. ISBN 9780199399895. 

参考文献[編集]

  • 深井史郎『ストラヴィンスキイ』(普及書房/1933年)
  • 柿沼太郎『ストラヴィンスキーの音楽と舞踊作品研究』(新興音楽出版社/1942年)
  • エリク・ホワイト『ストラヴィンスキー』(柿沼太郎訳/音楽之友社/1955年)
  • 宗像喜代次、河野保雄『音楽とは何か ストラヴィンスキー論』(垂水書房/1963年)
  • ロベール・ショアン『ストラヴィンスキー』(遠山一行訳/白水社/1969年)
  • ミシェル・フィリッポ『ストラヴィンスキー』(松本勤、丹治恒次郎訳/音楽之友社/1972年)
  • 船山隆『ストラヴィンスキー 二十世紀音楽の鏡像』(音楽之友社/1985年)
  • C・F・ラミュ『ストラヴィンスキーの思い出』(後藤信幸訳/泰流社/1985年)
  • ヴォルフガング・デームリング『ストラヴィンスキー』(長木誠司訳/音楽之友社/1994年)
  • 『作曲家別名曲解説ライブラリー25 ストラヴィンスキー』(音楽之友社/1995年)
  • 遠山一行『「辺境」の音 ストラヴィンスキーと武満徹』(音楽之友社/1996年)
  • ロバート・クラフト『ストラヴィンスキー友情の日々(上下巻)』(小藤隆志訳/青土社/1998年)
  • 黛敏郎 「イゴール・ストラヴィンスキー印象記」 『音楽の友』 1959年7月号、音楽之友社、1959年
  • 山崎浩太郎 「ストラヴィンスキー来日のころ」 『DVD・大阪国際フェスティバル1959』(ライナーノーツ)、TDKコア2004年
  • Mark McFarland. “Igor Stravinsky.” In Oxford Bibliographies Online: Music. Edited by Bruce Gustavson. New York: Oxford University Press, 2011. http://oxfordbibiographiesonline.com.
  • Stephen Walsh (1999). Stravinsky: A Creative Spring: Russia and France 1882-1934. New York. ISBN 0679414843. 
  • Eric Walter White (1979) [1966]. Stravinsky: The Composer and his Works (2nd ed.). University of California Press. ISBN 0520039858. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]