クリント・イーストウッド

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クリント・イーストウッド
Clint Eastwood
Clint Eastwood
本名 Clinton Eastwood Jr.
クリントン・イーストウッド・ジュニア
生年月日 (1930-05-31) 1930年5月31日(87歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州サンフランシスコ
ジャンル 映画(俳優監督製作音楽
活動期間 1954年-
活動内容 1954年:初出演
1967年:製作会社設立
1971年:映画初監督
1992年アカデミー監督賞受賞
2004年:2度目のオスカー受賞
2006年:『硫黄島二部作』監督
配偶者 Dina Eastwood(旧姓Luis)
主な作品
監督兼出演
恐怖のメロディ』『ガントレット
センチメンタル・アドベンチャー
許されざる者
パーフェクト・ワールド
マディソン郡の橋
スペース カウボーイ
ミリオンダラー・ベイビー
グラン・トリノ
監督のみ
バード』『ミスティック・リバー
父親たちの星条旗
硫黄島からの手紙
アメリカン・スナイパー
ジャージー・ボーイズ
出演のみ
ローハイド』『荒野の用心棒
夕陽のガンマン』『真昼の死闘
アルカトラズからの脱出
ザ・シークレット・サービス
ダーティハリー』シリーズ
備考
ハリウッド名声の歩道
カーメル市長(1986年-1988年

クリント・イーストウッド(Clint Eastwood(本名:Clinton Eastwood Jr.(クリントン・イーストウッド・ジュニア)), 1930年5月31日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身の映画俳優映画監督映画プロデューサー作曲家政治活動家。公称身長193 cm(6フィート4インチ)。

俳優として数多くの西部劇アクション映画に出演。自身最大の当たり役であるハリー・キャラハン役を演じた『ダーティハリー』シリーズでスーパースターの地位を不動のものとした。監督としても『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー作品賞アカデミー監督賞を2度受賞するなど、ハリウッドで長年活躍してきた俳優、映画監督である。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

カリフォルニア州サンフランシスコサンフランシスコ記念病院英語版で、クリントン・イーストウッド・シニアとマーガレット・ルースの息子として生まれる。体重が5.16キログラムの大きな赤ん坊だったため、看護師たちから「サムソン」と名付けられた[1][2][3]。イーストウッドはイングランドアイルランドスコットランドオランダの血を引いている[4]。国勢調査の記録によると、父クリントン・シニアは1930年代に西海岸の各地で、セールスマンや探偵などの仕事を転々としながら家庭を養っていたという[5][6][7]。1940年にイーストウッド家はサンフランシスコ州ピートモンドに移住し、イーストウッドが成人するまで同地で生活した[8]。イーストウッドはインタビューで、世界恐慌を引き合いに出して幼少期の生活が苦しかったことを度々示唆しているが、ソンドラ・ロックはこれに対して「彼の家は決して貧しくはありませんでした。イーストウッド家は町の豊かな地区に暮らし、家にはプールがあり、家族一人一人が車を所有しており、カントリークラブにも加入していました」と主張している[9]

イーストウッドは、成績不良でサマースクールに通う必要があったという[8]。彼は運動能力と音楽の才能は高く評価されていたが、成績不振のために転校を余儀なくされている[8]。学校ではバスケットボール選手としての能力を期待されるほどだったが、イーストウッド自身はテニスやゴルフなどの個人競技に興味があり、現在でもこれらを趣味としている[8]オークランド・テクニカル・ハイスクール英語版に転校したイーストウッドは、そこで教師から演劇サークルに参加するように勧められたが、彼は演劇に興味がなかったため断っている。イーストウッドは、この頃は「速い車と簡単な女にしか興味がなかった」と語っている[10][11]。ハイスクールでは自動車整備コースを受講し、自動車と航空機のエンジンの組み立てと航空機のメンテナンスを研究していた[11]。イーストウッドは1949年1月に卒業する予定だったが、実際に卒業したかは不明である[12]。伝記作家のパトリック・マクギリガン英語版は、「卒業記録は厳格な守秘義務に守られている」と述べている[12]。イーストウッドの友人たちも「彼が学校の中で過ごしていたとは思わない。彼は他の場所で楽しい時間を過ごしていた」「彼が卒業したとは思えない」と語っている[12]

1949年にクリント・シニアはシアトルの工場で働き始める。イーストウッドはマリブのハウス・パーティーに参加した際に映画監督のハワード・ホークスジョン・フォードに出会い、その後の彼に大きな影響を与えた[13]。その後、イーストウッドはシアトルに移住し、オレゴン州スプリングフィールドのパルプ工場で父と共に働き始める[14]。また、ライフガードとしても働いている[15]。1951年にアメリカ陸軍に召集されてフォート・オードに派遣され、訓練時のライフガードとして勤務する[16]。同年9月30日、イーストウッドの搭乗していたA-1が、サンフランシスコ近郊の海に墜落する事故が発生した[17][18]。イーストウッドとパイロットは無傷で海岸に辿り着いたが、彼はこの事故を振り返り「死ぬかもしれないと思った。しかし、私は海岸のライトを見ながら泳ぎ続けた」と語っている[19][17]。彼は陸軍に在籍中に、後に俳優として成功するリチャード・ロング英語版マーティン・ミルナーデビッド・ジャンセンと友人になっている[20]

1952年春にシアトルに戻りライフガードの仕事をするが、生活費に乏しく友人もいなかったためロサンゼルスに移住し、ビバリーヒルズでアパート経営をしながら夜間はガソリンスタンドで働いた[21][22][23]。1953年6月にブラインドデートで22歳の秘書マーガレット・ネヴィル・ジョンソンと出会う。二人はクリスマスの直前に結婚し、カーメル・バイ・ザ・シーにハネムーンに向かった[22][24]。その後、イーストウッドは映画に出演する傍ら、短期間ロサンゼルス・シティー・カレッジに通い、住宅用プールの土台を掘る仕事をしながら生活していた[23][25]

俳優人生の出発[編集]

ユニバーサル映画の記録によると、フォート・オードでの撮影中にイーストウッドを見かけたエージェントが、監督に合うように勧めたとされるが、彼の伝記では同地に滞在していたチャック・ヒルという人物がハリウッドに彼を紹介したとされる[26]。ヒルはロサンゼルスでイーストウッドと出会って以降親しい関係となり、彼の才能を見込んでカメラマンのアーヴィング・グラスバーグ英語版に紹介した[26]。グラスバーグは、イーストウッドに対して「伝統的に映画で成功していったハンサムな若者の一種」と好感を抱き、監督のアーサー・ルビン英語版に、イーストウッドのアルバイト先のガソリンスタンドで彼に会うように依頼した[26]。イーストウッドに会ったルビンも、グラスバーグと同様に「背が高く身体が細く、とてもハンサムだ」と好印象を抱いた[27]

ルビンは早速オーディションの手配をするが、「彼は素人だ。どの道に進み、何をするのか分かっていなかった」と述べており、イーストウッドの売り込みにそれほど熱心ではなかった[27]。それでもルビンは希望を持つようにイーストウッドを励ましてドラマの養成コースに参加させ、イーストウッドは1954年4月に週給100ドルでユニバーサルと契約を結んだ[27]。イーストウッドの妻マーガレットを含むハリウッド業界の人間は、「ルビンは同性愛者で、イーストウッドと性的な関係を持っていた」と疑っていた[28]。ユニバーサルとの契約後、イーストウッドは端役として役をこなすが、時にはスタッフの前で全裸で演技をすることもあった[29]。仕事を始めた当初、イーストウッドは素っ気ない演技しかできず、スタッフからの評判は芳しくなかった[30]。俳優仲間のジョン・サクソンは、「一種の干し草のようなもの……薄い喉仏で、台詞を言うのが遅く、非常に不気味だった」と述べている[31]。イーストウッドはユーモアのセンスがあり、女優が出演しない映画では演技できたが、主役に選ばれることはなく、初期の活動の成功には結び付かなかった[31]

駆け出し時代[編集]

1954年5月、イーストウッドは『六つの橋を渡る男英語版』の強盗役のオーディションに参加したが、監督のジョゼフ・ペフニー英語版は彼の演技に感銘を受けず、結果は落選となった[31]。その後、立て続けに『ブリガドーン英語版』『The Constant Nymph』『進め!ベンガル連隊英語版』『七年目の浮気』『異教徒の旗印英語版』『Smoke Signal』『Abbott and Costello Meet the Keystone Kops英語版』のオーディションを受けるが、全て落選している[31]。最終的にジャック・アーノルドの『大アマゾンの半魚人』の続編である『半魚人の逆襲英語版』で端役をもらい映画デビューを果たした[32]。イーストウッドに与えられた役は「研究員ジェニングス」という役で、1954年7月30日にユニバーサル映画第16スタジオで撮影が行われたが、彼が出演しない主要シーンはフロリダ州マリネランドで撮影された[33]。その後、イーストウッドはマーガレットと共にアパートを引き払い、ユニバーサル通りのアパートに引っ越したが、このアパートには女優のギア・スカラ英語版とリリー・カーデルも住んでいた[34]。このアパートにはアニタ・エクバーグが水着の写真撮影を行ったプールがあり、イーストウッドは水泳で身体を鍛えた[34]

1955年2月、イーストウッドはルビンの『Francis in the Navy英語版』に端役として出演して週給が300ドルに上がり、9月には『Lady Godiva of Coventry英語版』に端役として3週間撮影に参加した[35]。その後、再びアーノルドが監督した『世紀の怪物 タランチュラの襲撃英語版』に戦闘機隊長役で出演した[36]。同年5月には『Never Say Goodbye』の撮影に4時間参加し、8月には『Star in the Dust』に牧童役として西部劇映画に初出演した[37]。7月2日にはテレビドラマ『Allen in Movieland』に初出演したが、10月25日にディレクターのロバート・パーマーによってユニバーサル映画から解雇された。イーストウッドはパーマーの仕打ちを忘れず、後にマルパソ・プロダクション英語版を設立した際に、入社を求めたパーマーを門前払いしている[38][39]

イーストウッドは俳優仲間のベティ・ジェーン・ハウワースからの助言を受け、アダム・ウェストやリチャード・ロングの代理人を務めていたマーシュ・エージェンシーの広報担当者に接触した[28]。同時期、イーストウッドはルビンの『The First Traveling Saleslady英語版』に出演している[40]。イーストウッドとルビンの関係はその後も続き、『二人の可愛い逃亡者』や1960年代に彼が製作したテレビドラマに度々出演しているが、彼が俳優として成功した後は疎遠となり、『許されざる者』でオスカーを受賞した時まで再会することはなかった[40]。この時期、ルビンからの出演依頼がイーストウッドの生活を支えていた[40]。1956年1月にはABCのテレビドラマ『Reader's Digest』に出演し、同年後半からはテレビドラマ『ハイウェイ・パトロール』にギャング役で出演している[40]。1957年のテレビドラマ『ウェストポイント』に士官学校生徒役で出演し、同時期に『Wagon Train英語版』『Death Valley Days英語版』にも出演している[41]。1958年に『Navy Log英語版』に海軍士官役で出演し、1959年には『マーベリック』に出演した[41]

この間、イーストウッドはプール工事など複数の仕事をしながらジムに通いトレーニングをしていた[41]。また、ニック・アダムスアイリッシュ・マッカラ英語版ジェイミー・ファー英語版などの俳優仲間と共にジャック・コスリンの主催する演技教室に通い指導を受けた。この頃、イーストウッドは妻や友人たちと共に夕食に出かけた際に、レストランの前で銃を持った強盗に襲われている。友人たちは逃げようとしたが、イーストウッドはその場に留まり、「引き金を引け。その前にお前たちを殺してやる」と威嚇し、強盗を追い払ったという[42]。別の日には、友人とバーにいた際に船乗りのグループと喧嘩になり、「ハリウッドの馬鹿野郎」と罵られたうえに殴られたため、イーストウッドは船乗りたちに反撃して二人を病院送りにしている[42][43]

イーストウッドは『翼よ! あれが巴里の灯だ』の主演オーディションに参加するが、結果はジェームズ・ステュアートが主演に起用され落選した。しかし、彼は『壮烈! 外人部隊英語版』でパイロット役として出演し、『Ambush at Cimarron Pass英語版』では元奴隷キース・ウィリアムズ役として出演した。『Ambush at Cimarron Pass』ではリーガル・フィルムのスタジオで9日間撮影に参加したが、彼はこの映画には不満を感じており、映画が公開された際には「本当に落ち込んだ」と語り、俳優を辞めることを考えたという[44]

TVシリーズ『ローハイド』、そして2人の師との出逢い[編集]

1959年からCBSで放映されたテレビ西部劇ローハイド』で、ロディというカウボーイを演じる。同作品は約7年間にわたり全8シーズン217話が製作された人気シリーズとなり、イーストウッドの知名度と人気は世界的に高まった。1964年にはセルジオ・レオーネ監督にイタリアに招かれ、マカロニ・ウェスタンの嚆矢でありかつそれを代表する作品となった『荒野の用心棒』に出演。その後も『ローハイド』の撮影の合間を縫って『夕陽のガンマン』、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』と都合3作のレオーネ作品に出演した。この3作品で名無しの男を演じたイーストウッドはレオーネを師と仰ぎ、レオーネの逝去まで交友を続けた。これらの映画の人気により、イーストウッドの映画俳優としての評価はヨーロッパが先行し、アメリカに逆輸入された形となった。

マンハッタン無宿』で出逢ったドン・シーゲルと再びタッグを組んだ『ダーティハリー』でイーストウッドは型破りな刑事ハリー・キャラハンを演じた。これはシーゲル作品としてそれまでで最大のヒットとなり、イーストウッド本人もこの作品で人気アクション・スターとしての地位を不動にした。現在においてもイーストウッドの俳優としての代表作として真っ先に挙げられるのがこの作品である。『ダーティハリー』シリーズは、全5作品が製作されている。

監督業の成功[編集]

1968年に映画制作会社マルパソプロダクションを設立。1971年に『恐怖のメロディ』で初監督。俳優業の傍ら『荒野のストレンジャー』『アウトロー』などの作品を立て続けに発表。監督業に進出した他の役者と違い、所謂「大作」や賞レースに関わる作品には出演せず、自らのプロダクションで製作した小規模ともB級とも呼べる作品でのみ主演し、監督業と俳優業を両立しながら地位を確立した。80年代までの監督作の中で『アウトロー』『ブロンコ・ビリー』などでは「壊れた家族」というモチーフ、疑似家族を得ることで人生の輝きを取り戻すストーリー[45]という共通した要素が見いだせる。1987年の第45回ゴールデングローブ賞で、セシル・B・デミル賞を受賞。

1992年、師であるセルジオ・レオーネとドン・シーゲルに捧げた“最後の西部劇”『許されざる者』を監督兼主演で制作。第65回アカデミー賞監督賞作品賞を受賞、第50回ゴールデングローブ賞監督賞を受賞した。この頃から『マディソン郡の橋』『ミスティック・リバー』といった文芸性の高い作品も手がけている。

2004年の『ミリオンダラー・ベイビー』で2度目のアカデミー作品賞アカデミー監督賞のダブル受賞を果たす。74歳という、最高齢での受賞記録を樹立したバイタリティは、アクション映画で培われたものであろうと驚嘆の元に迎えられた。アカデミー主演男優賞はノミネートにとどまったが、「単に監督もできる俳優」ではなく、「アクション映画から文芸映画まで幅広くこなせる、優れた監督兼俳優」という評価を確立した。

2006年に『父親たちの星条旗』・『硫黄島からの手紙』の2部作を発表。これはアメリカがかつての日米戦争において最大級の痛手を受けた「硫黄島の戦い」を、日米双方の視点から2作に分けて描くという方法で製作されている(同じような日米双方の視点による映画には真珠湾攻撃を扱った『トラ・トラ・トラ!』があるが、こちらは1本の映画の中に入れている)。『硫黄島からの手紙』は、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞作品賞・第32回ロサンゼルス映画批評家協会賞最優秀作品賞を受賞し、同年の賞レース最大の目玉として注目を浴びていたが、アカデミー賞では音響編集賞のみの受賞にとどまった。2007年1月、『硫黄島からの手紙』でゴールデン・グローブ賞最優秀外国語映画賞を受賞。

2006年1月ごろ、南京事件 (1937年)を題材とする中国映画『南京・クリスマス・1937』の監督にイーストウッドが抜擢されたという中国官僚の発言が報道されたが、イーストウッド側がすぐに否定するという一幕があった。

今後の俳優活動について[編集]

2008年の『グラン・トリノ』をもって「もう積極的に役は探さない。いまの映画の役は、みんな若い役者向けに書かれているから。」と語り、実質的な俳優引退宣言を行った。今後は監督業をメインに活動するとスポーツニッポンのインタビューで語った[46]

しかし後に日刊スポーツのインタビューでは「演じたい役があれば(俳優に)戻ってくるかもしれない」ので、自身からは“ 引退 ”という発言は積極的に用いないという趣旨の発言もしており、揺れ動く心情を吐露している[47]

2012年には上記の発言を裏付ける様に、『人生の特等席』で老いたメジャーリーグスカウトマン役として、4年ぶりに映画に出演した。(監督兼務ではない出演者としては19年ぶり)

政治[編集]

立場[編集]

1950年代からと、非常に古くからの共和党支持者である。大統領選挙では、1952年にドワイト・アイゼンハワーに投票し、68年と72年にはリチャード・ニクソンを支持し、投票している[48]。現在はカリフォルニア州公認の共和党員で、政府の極小化を主張するリバタリアニズムを支持し、朝鮮戦争(1950-53年)・ヴェトナム戦争(1965年には50万人の大軍を派遣、73年撤退)・テロとの戦いイラク戦争などの外征戦争に反対している。都会人であるので、妊娠中絶同性結婚の選択権も擁護している。成立しなかった、憲法の男女平等修正条項案も支持している。なお、イーストウッドは共和党候補のみを支持してきたわけではなく、2002年には下院議員候補の民主党リベラル・環境保護派のサム・ファーを支持し、1000ドルを寄付している。ライターはイーストウッドのことを、フリードマンとチョムスキーを合わせたような人物と評している。

経歴[編集]

1986年カリフォルニア州西海岸にあるカーメル市市長に当選、1期2年間務めた。また、自ら資金を調達し、かつて支持していた第37代カリフォルニア州知事グレイ・デイヴィス民主党)へ退陣を迫る投票を行い、民主的な政治家の政治への参加を求めるテレビCMを製作した。2003年5月には、当時開戦したばかりのイラク戦争と、開戦を敢行した国家の双方を「極めて重大な過ちを犯した」と批判。同じく政治論争に積極的で『ミスティック・リバー』で主演に起用したショーン・ペンバグダードへ向かうのを説得して止めた。

2008年大統領選挙では共和党ジョン・マケイン候補を支持した。

2012年大統領選挙では、共和党予備選で当選確実となって久しいミット・ロムニーに対して2012年8月3日に支持表明した[49]フロリダ州タンパで行われた共和党大会では、無人の椅子にオバマ大統領が座っているものと見立てて一人芝居を展開した[50]

2016年大統領選挙では、共和党のドナルド・トランプ候補に対して正式な支持を表明しなかったが、民主党のヒラリー・クリントン候補によるオバマ政権の継承を阻止し、現状を打破できる人物と評した[51]。トランプの舌禍については両候補とも問題のある発言をしていると指摘しつつ、メディアの言葉狩りに疑問を呈している。ポリティカル・コレクトネスを強制する風潮について「みんなとても注意深くなっている。今はそんなご機嫌取りの時代だ」「軟弱な時代になった」と批判的にコメントしている[52][53]

叙勲[編集]

2007年2月17日、監督としての功績が認められ、フランス大統領ジャック・シラクからレジオンドヌール勲章を授与された[54]。また2009年4月29日、「春の外国人叙勲」で日本国政府より「映画製作を通じた日本とアメリカ合衆国との相互理解の促進に寄与」とした功績により、旭日中綬章を授与された[54][55]

私生活、その他[編集]

  • 古くは1962年2月21日にも『ローハイド』に一緒に出演したエリック・フレミングポール・ブラインガーと共に来日している。イーストウッドらが東京国際空港(羽田空港。当時、成田空港はまだ開港していなかった)に到着した時のモノクロ映像が現存し、近年でもテレビ番組で紹介された。
  • 1997年にファッションブランド「テハマ」(アメリカ・インディアンの言語で「大自然」の意と宣伝しているが、由来については異論もある)を共同経営者名義で設立。同名のゴルフコースも所有している。
  • 彼が出演した映画作品のチラシは、スティーブ・マックイーンと双璧を成すほど人気が高く、『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』『華やかな魔女たち』『奴らを高く吊るせ!』といった作品の初版チラシに至っては1枚で数十万円単位まで価格が高騰しているものも存在する。
  • 自分の監督作品で、2年連続でアカデミー賞助演男優賞受賞者を輩出した。『ミスティック・リバー』のティム・ロビンス(第76回・2003年)と、『ミリオンダラー・ベイビー』のモーガン・フリーマン(第77回・2004年)である。
  • 「Clint Eastwood」という名前はアナグラムで「Old West Action」(懐かしい西部劇)となる。
  • 1953年に結婚したマギー・ジョンスン(1985年離婚)との間に1男1女をもうけ(兄のカイル・イーストウッドはジャズミュージシャン、妹のアリソン・イーストウッドはモデル・女優)、ほかにフランシス・フィッシャーとの間に1女、二度目の妻ディナ・ルイス(2013年離婚)[56][57]との間に1女、婚外子として1男2女(息子は俳優のスコット・リーヴス)、と合計5人の女性との間に7人の子供がいるとされる。1996年のディナ・ルイスとの再婚の際は、初婚のときに生まれた娘と同年代だということで話題になった。愛人だったソンドラ・ロックから慰謝料を求める訴訟を起こされたり、誹謗に満ちた自伝を出版されたりしたこともマスコミを賑わせた。
  • また健康に関して熱心であり、これまでの人生で映画の役柄以外では一切タバコを吸わない。1970年頃から超越瞑想(TM瞑想)を毎日行っている。また食事では野菜類を用いたダイエットを長年継続しており、スプラウトなど、多種類の野菜や果物や豆腐、その他大豆製品を多く摂ることを心がけているという。
  • 2013年に離婚した二度目の妻であるディナ・イーストウッド(旧姓ルイス)は、父がアフリカ系アメリカ人と日本人の、母がアイルランド・イングランド・ドイツの血を引く。
  • 自分の主演作の試写会へ出かけるのに、招待状を持ったかどうか何度も確認するほどの心配性でもある。
  • カンヌ国際映画祭黒澤明監督の『』の上映の際、会場に入ろうとした黒澤に対し突然群衆の中から現れ、「ミスタークロサワ」と言いながらほおにキスをし、「あなたがいなかったら、今の私はなかった」と感謝の言葉を告げたという。これはデビュー作となった荒野の用心棒用心棒の非公式なリメイクであったことが関係している。
  • 渡辺謙とも親交が深く、2006年ゴールデングローブ賞授賞式において、イーストウッド自身の口から「偉大なる渡辺謙に感謝します」と述べた。
  • 2012年、イーストウッド一家を追ったリアリティ番組Mrs. Eastwood & Companyが放映された[58]
  • ジャズに対する造詣が深く、ジャズの巨匠であるチャーリー・パーカーを題材とした『バード』を監督、プロデューサーとして『セロニアス・モンク ストレート・ノー・チェイサー』を製作している。イーストウッド家は代々ジャズを嗜好しており、クリントの祖母の代から始まり、クリントの息子カイル・イーストウッド]はジャズ・ベーシストとして活躍している。クリント自身クラブでピアノを演奏したこともあり、かつては音楽を勉強しようとシアトル大学に入学したほどだったが、生活費を稼ぐために大学はやめざるを得なかったという[1]
    また彼は、キャリア初期から時折ではあるが、歌手としてレコードを出したり、出演作品の中で、その歌声を披露している。1984年頃からは、彼が作曲したスコアを自身の映画で使用しており、『ミスティック・リバー』、『ミリオンダラー・ベイビー』『父親たちの星条旗』などでは、音楽担当のクレジットにもその名を連ねている。『さよなら。いつかわかること』では初めて音楽のみを担当した。

主な出演、監督、製作作品[編集]

★印はセルジオ・レオーネ監督作品。☆印はドン・シーゲル監督作品。

公開年 日本語題 原題 役職 備考
監督 製作 音楽 出演
1959-1965 ローハイド Rawhide テレビドラマ
1964 荒野の用心棒 A Fistful of Dollars
伊語版 Per un pugno di Dollari
1965 夕陽のガンマン For a Few Dollars More
伊語版 Per qualche Dollaro in più
1966 続・夕陽のガンマン/地獄の決斗 The Good, The Bad and The Ugly
伊語版 Il buono, il brutto, il cattivo
1967 華やかな魔女たち Le Streghe
segment "Una serata come le altre"
オムニバス: 第5話「またもやいつもの通りの夜」
ヴィットリオ・デ・シーカ
1968 奴らを高く吊るせ! Hang 'em High
マンハッタン無宿 Coogan's Bluff
荒鷲の要塞 Where Eagles Dare
1969 ペンチャーワゴン Paint Your Wagon [I]
1970 真昼の死闘 Two Mules for Sister Sara
戦略大作戦 Kelly's Heroes
1971 白い肌の異常な夜 The Beguiled
恐怖のメロディ Play Misty for Me
ダーティハリー Dirty Harry
1972 シノーラ Joe Kidd
1973 荒野のストレンジャー High Plains Drifter
愛のそよ風 Breezy クレジットなし
ダーティハリー2 Magnum Force
1974 サンダーボルト Thunderbolt and Lightfoot
1975 アイガー・サンクション The Eiger Sanction
1976 アウトロー The Outlaw Josey Wales
ダーティハリー3 The Enforcer
1977 ガントレット The Gauntlet
1978 ダーティファイター Every Which Way But Loose
1979 アルカトラズからの脱出 Escape from Alcatraz
1980 ダーティファイター 燃えよ鉄拳 Any Which Way You Can [I] 挿入歌「Beers to You」 レイ・チャールズとのデュエット
ブロンコ・ビリー Bronco Billy [I] 挿入歌「バールーム・バディーズ」 マール・ハガードとデュエット
1982 ファイヤーフォックス Firefox
センチメンタル・アドベンチャー Honkytonk Man [I]
1983 ダーティハリー4 Sudden Impact イメージソング「Go Ahead Make My Day」 (T.G.シェパードとのデュエット)
1984 タイトロープ Tightrope
シティヒート City Heat [I]
1985 世にも不思議なアメージング・ストーリー Amazing Stories : segment "Vanessa in the Garden" TVシリーズ シーズン1 第12話「ヴァネッサの肖像」
ペイルライダー Pale Rider
1986 ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場 Heartbreak Ridge [II]
1988 ダーティハリー5 The Dead Pool
バード Bird
セロニアス・モンク ストレート・ノー・チェイサー Thelonious Monk: Straight, No Chaser セロニアス・モンクの記録映画
1989 ピンク・キャデラック Pink Cadillac
1990 ホワイトハンター ブラックハート White Hunter Black Heart
ルーキー The Rookie
1992 許されざる者 Unforgiven
1993 ザ・シークレット・サービス In the Line of Fire
パーフェクト・ワールド A Perfect World [III]
1995 キャスパー Casper カメオ出演
マディソン郡の橋 The Bridges of Madison County [III]
ヘンリエッタに降る星 The Stars Fell on Henrietta
1997 真夜中のサバナ Midnight in the Garden of Good and Evil
目撃 Absolute Power [III]
1999 トゥルー・クライム True Crime [II] 主題歌「ホワイ・シュッド・アイ・ケア」作曲
2000 スペース カウボーイ Space Cowboys
2002 ブラッド・ワーク Blood Work
2003 ミスティック・リバー Mystic River [IV]
ピアノ・ブルース Piano Blues TVミニ・シリーズ
2004 ミリオンダラー・ベイビー Million Dollar Baby [IV]
2006 父親たちの星条旗 Flags of Our Fathers [II][IV]
硫黄島からの手紙 Letters from Iwo Jima
2007 さよなら。いつかわかること Grace is Gone [II][IV] 音楽・主題歌のみ担当
2008 チェンジリング Changeling [IV]
グラン・トリノ Gran Torino [II]
2009 インビクタス/負けざる者たち Invictus
2010 ヒア アフター Hereafter
2011 J・エドガー J. Edgar
2012 人生の特等席 Trouble with the Curve
2014 ジャージー・ボーイズ Jersey Boys
アメリカン・スナイパー American Sniper [III]
2016 ハドソン川の奇跡 Sully [III]
2017 The 15:17 to Paris タリス銃乱射事件」の映画化
2018 A Star Is Born スター誕生」の4度目のリメイク


端役出演作品[編集]

1954年

  • 半魚人の逆襲/REVENGE OF THE CREATURE』...研究員ジェニングス役(uncredited)◇俳優デビュー <DVD化>

1955年

  • TV.movie『Allen in Movieland』...Orderly役
  • 『Francis in the Navy』...水夫ジョネシー役
  • 『Lady Godiva of Coventry』...サクソン人役(uncredited)
  • 世紀の怪物 タランチュラの襲撃/TARANTULA!』...空軍戦闘機の隊長役(uncredited) <DVD化>

1956年

  • 『Never Say Goodbye』...X線研究所の助手役(uncredited)
  • TV『ハイウェイ・パトロール Season1:#27.Motorcycle A』
  • 『Star in the Dust』...牧童役(uncredited)
  • 最初の女セールスマン/THE FIRST TRAVELING SALESLADY』...兵隊ジャック・ライス役
  • 全艦発進せよ/Away All Boats』軍医兵役(uncredited)
  • TV『Death Valley Days Season5:#07.The Last Letter』
  • 底抜け西部へ行く/PARDNERS』...町の青年役 ◇「夕陽のガンマン」コンビ、リーバン・V・クリーフも脇役出演。

1957年

  • TV『Navy Log Season3:#17.The Lonely Watch』

1958年

  • 壮烈!外人部隊/LAFAYETTE ESCADRILLE』...パイロット役
  • 『Ambush at Cimarron Pass』...キース・ウィリアムズ役

1959年

1962年

受賞[編集]

アカデミー賞
1992年: 監督賞 / 『許されざる者
1994年: アービング・G・タルバーグ賞
2004年: 監督賞 / 『ミリオンダラー・ベイビー』(74歳の史上最年長受賞)
ゴールデングローブ賞
1971年: 世界人気男優賞
1987年: セシル・B・デミル賞
1988年: 監督賞 / 『バード
1992年: 監督賞 / 『許されざる者』
2004年: 監督賞 / 『ミリオンダラー・ベイビー』
NY映画批評家協会賞
2004年: 監督賞 / 『ミリオンダラー・ベイビー』
LA映画批評家協会賞
1992年: 監督賞・男優賞 / 『許されざる者』
カンヌ国際映画祭
1988年: フランス映画高等技術委員会賞 / 『バード』
2003年: ゴールデン・コーチ賞(功労賞)
2008年: 第61回記念特別賞 / 『チェンジリング
2009年: パルム・ドール名誉賞
ヴェネツィア国際映画祭
2000年: 栄誉金獅子賞・特別功労賞
京都国際映画祭
2014年:モスト・リスペクト賞[59]
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞
2014年:監督賞 / 『アメリカン・スナイパー[60]
キネマ旬報ベスト・テン
1993年度(第67回):外国映画監督賞 / 『許されざる者』『パーフェクト・ワールド
1995年度(第69回):外国映画監督賞 / 『マディソン郡の橋
2004年度(第78回):外国映画監督賞・読者選出外国映画監督賞 / 『ミスティック・リバー
2005年度(第79回):外国映画監督賞・読者選出外国映画監督賞 / 『ミリオンダラー・ベイビー』
2006年度(第80回):外国映画監督賞 / 『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』・読者選出外国映画監督賞 / 『硫黄島からの手紙』
2009年度(第83回):外国映画監督賞 / 『グラン・トリノ』『チェンジリング』・読者選出外国映画監督賞 / 『グラン・トリノ』
2014年度(第88回):外国映画監督賞・読者選出外国映画監督賞 / 『ジャージー・ボーイズ[61][62]
2016年度(第90回):外国映画ベスト・ワン、外国映画監督賞・読者選出外国映画監督賞 / 『ハドソン川の奇跡
日本アカデミー賞
2016年度(第40回):最優秀外国作品賞 / 『ハドソン川の奇跡』
毎日映画コンクール
2016年度(第71回):外国映画ベストワン賞 / 『ハドソン川の奇跡』

日本語吹き替え[編集]

日本語吹き替え版ではローハイド出演以降からは山田康雄が専任で担当しており、イーストウッド来日時には本人からフィックスとして公認されており、VHSの吹替も初期から担当していた、これはイーストウッド主演映画の多くを配給するワーナーの吹替制作に山田の所属するテアトル・エコーが関与していたこともあると思われる。しかし、95年に山田が死去し、『パーフェクト・ワールド』が山田の最後の吹き替えとなった。その後、野沢那智がテレビ放送時に山田の後任として『ザ・シークレット・サービス』で吹き替えを務める際、山田の声にそっくり真似てほしいと要求され、困惑したという逸話がある。それからはほとんどの作品で野沢が吹き替えを担当していた。映像ソフトでは、生前山田と親交の深かった小林清志納谷悟朗などが交代で担当していたが、正式な専属吹き替え声優は決められなかった。2010年に野沢も死去し、現在のところイーストウッドの吹き替えは作品ごとに全く異なる声優が担当する状況へとなっている。2009年の『夕陽のガンマン』日本語吹替完声版で山田に声質の似る多田野曜平が作品のテレビ放送時にカットされた部分の代役に抜擢され、以降『続・夕陽のガンマン』、『ダーティハリー』(カット部分がある4作目まで)、『荒野の用心棒』でも起用され、『白い肌の異常な夜』では初めて全編の吹き替えを担当した。

参考資料[編集]

  • McGilligan, Patrick (1999). Clint: The Life and Legend. Harper Collins. ISBN 0-00-638354-8. 
  • Schickel, Richard (1996). Clint Eastwood: A Biography. New York: Knopf. ISBN 978-0-679-42974-6. 
  • Zmijewsky, Boris; Lee Pfeiffer (1982). The Films of Clint Eastwood. Secaucus, New Jersey: Citadel Press. ISBN 0-8065-0863-9. 
  • 『クリント・イーストウッド アウト・オブ・シャドー』ドキュメンタリー作品(ワーナー・ブラザース、監督ブルース・リッカー、2000年)

インタビュー・伝記[編集]

  • 『クリント・イーストウッド レトロスペクティブ』序文はイーストウッド自身、公認本
  • 『クリント・イーストウッド 孤高の騎士 映画作家が自身を語る』イーストウッドの自伝インタビュー
    • マイケル・ヘンリー・ウィルソン編、石原陽一郎訳、フィルムアート社、2008年
  • マーク・エリオット『クリント・イーストウッド ハリウッド最後の伝説』笹森みわこ・早川麻百合訳、早川書房、2010年
  • 中条省平『クリント・イーストウッド アメリカ映画史を再生する男』朝日新聞社、2001年/ちくま文庫、2007年

出典[編集]

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  1. ^ Schickel 1996, p. 21.
  2. ^ guardian.co.uk Gentle man Clint, November 2, 2008.
  3. ^ McGilligan (1999), p. 22
  4. ^ Smith, Paul (1993). Clint Eastwood a Cultural Production. Minnesota: University of Minnesota Press. ISBN 0-8166-1958-1. 
  5. ^ adherents.com The Religious Affiliation of actor/director Clint Eastwood.
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  9. ^ Locke, Sondra (1997). The Good, the Bad, and the Very Ugly – A Hollywood Journey. William Morrow and Company. ISBN 978-0-688-15462-2. 
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  51. ^ C・イーストウッド トランプ氏を「建前」打破できる人物と評価
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  56. ^ Clint Eastwood: Wife of actor-director files for divorce”. Washington Times. 2013年10月24日閲覧。
  57. ^ クリント・イーストウッドさんの妻、離婚を申請”. CNN.co.jp (2013年10月25日). 2014年6月6日閲覧。
  58. ^ なんでOKしたの? クリント・イーストウッドがリアリティ番組出演で私生活を公開”. TV Groove (2011年12月16日). 2014年6月6日閲覧。
  59. ^ “京都国際映画祭開幕!牧野省三賞は木村大作が受賞「あと5年は頑張る」”. 映画.com. (2014年10月16日). http://eiga.com/news/20141016/19/ 2014年10月17日閲覧。 
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  61. ^ 2014年 第88回キネマ旬報ベスト・テン”. KINENOTE. 2015年1月8日閲覧。
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関連人物[編集]

外部リンク[編集]