タイタニック号沈没事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

座標: 北緯41度43分55秒 西経49度56分45秒 / 北緯41.73194度 西経49.94583度 / 41.73194; -49.94583

タイタニック号沈没
Painting of a ship sinking by the bow, with people rowing a lifeboat in the foreground and other people in the water. Icebergs are visible in the background
Untergang der Titanic ("タイタニック号沈没")
ウィリー・ストーワー, 1912
時刻 23:40 – 02:20
日付 1912年4月15日(105年前) (1912-04-15
場所 大西洋
原因 氷山との衝突 1912年4月14日
関係者
結果
  • 1,490 から 1,635 人死亡
  • 航海の安全性の改善
  • 文化的な影響

タイタニック号沈没事故(タイタニックごうちんぼつじこ)は、1912年4月14日の夜から15日の朝にかけて、イギリスサウサンプトンからアメリカ合衆国ニューヨーク行きの処女航海中の4日目に北大西洋で起きた。当時最大の客船であったタイタニック号は、1912年4月14日の23時40分(事故現場時間)に氷山に衝突した時には2,224人を乗せていた。事故が起きてから2時間40分後の翌4月15日の2時20分に沈没し、1,500人以上が亡くなった。これは1912年当時、海難事故の最大死者数であった[1]

事故概要[編集]

ニューヨーク港に向けて航行中に「海氷が存在する」という警告を4月14日中に6件受けていたにもかかわらず、タイタニック号の見張りが氷山に気付いたとき船は最高に近いスピードで進んでいた。回頭は間に合わず、船は右舵方向に斜めからの打撃を受け、16個ある区画のうち5個が海に向かって穴をあけてしまった。

タイタニックは前方の4つの区画が浸水してしまっても浮かぶように設計されていたが、それは充分でなくクルーはすぐにこの船が沈没することに気がついた。クルーは遭難信号灯と無線で助けを呼ぶと同時に、乗客を救命ボートに乗せた。当時の慣行に基づき、タイタニックの救命ボートシステムは近くの救助船まで乗客を運ぶために設計されており、同時に全員を乗せることは考えられていなかった。船体の沈没が速く救助が間に合わなかったことで、乗客とクルーの多数は安全な場所に避難することができないという状態になった。これに加えて、ずさんな避難管理のため多くのボートが定員に満たないまま出発してしまうこととなった。

タイタニック号は1,000人以上の乗客とクルーを乗せたまま沈んだ。海に飛び込んだり、落ちたりした人のほとんどが数分後に低体温症により溺死した。カルパチア号は4月15日の9時15分、沈没の1時間半後に到着して最後の生き残りの人を救助した。衝突してから約9時間半の出来事であった。この災害は、救命ボートの不足、規則の緩さ、旅客等級による避難時の扱いの不平等さについて多くの人の憤慨を引き起こした。これにより救助のあり方が変わり、1914年に海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS)が作られた。これは今も海の安全を守っている。

1912年4月14日[編集]

氷山の警告 (9時00分–23時39分)[編集]

プリンツ・アダルベルト号の乗組員が1912年4月15日に撮影した氷山。タイタニック号が衝突した塊だと考えられている。

1912年4月14日、タイタニック号の無線オペレーターは他の船舶から漂流している氷について6件の警告の通信を受け取っており、タイタニック号に乗船している人々の中にも、この日の午後にそのことを知った者がいた。北アメリカの海における氷の状態は、4月としては過去50年間で最悪であり、このため見張りの者は幅も長さも何マイルもあるような一連の氷山群に突き進んでいっていることに気付いていなかった[2]。こうした警告の通信については、無線オペレーターが全てを中継したわけではなかった。この当時、遠洋定期船の無線オペレーターは全員マルコーニ無線会社に雇われており、船舶のクルーメンバーではなかった。主要業務は乗船客のための通信であり、天気についての報告は二次的な業務であった。

氷山氷原に関する最初の警告は9時00分にRMSカロニア号から届いた[3]。スミス船長はこのメッセージの受取承認を行っている。13時42分にバルティック号がギリシャ船アテニア号から氷山と氷原を目撃したという報告を受け、タイタニック号あてに中継している[3]。このメッセージもスミスに受取承認され、スミスはホワイト・スター・ラインのトップでタイタニックの処女航海に同乗していたJ・ブルース・イズメイにもこれを見せた[3]。スミスは航路を変更させ、南寄りにした[4]

13時45分に、少し南側を航行していたドイツ船アメリカ号が「大きな氷山ふたつを通り過ぎた」という報告をした[5]。このメッセージはスミス船長にも、タイタニック号の船橋にいた他の上級船員にも伝わらなかった。理由は定かではないが、無線オペレーターが機器の不具合を直さねばならなかったため、このメッセージの伝達を忘れたのではないかと言われている[5]

カリフォルニアン号は19時39分に「3つの大きな氷山」を報告、21時40分に汽船メサバ号が叢氷、氷山、氷原の報告をした[6]。このメッセージもタイタニック号の無線室に留め置かれたままになった。無線オペレーターのジャック・フィリップスはニューファンドランド島のケープ岬にある中継局を通して乗客のメッセージを送るのに気をとられていて、この報告の重要性に気付かなかった可能性がある。無線機器が前の晩に壊れていたので、2人のオペレーターはその間に溜まった未処理分のメッセージを片付けようとしていた[5]。最後の警告は22時30分にカリフォルニアン号のオペレーターであるシリル・エヴァンズから受け取ったもので、この船は数マイル先の氷床で一晩足止めを喰らっていた。しかしながらフィリップスはこのメッセージを遮り、「しゃべるな!しゃべるな!ケープ岬と通信中だ!」と答えたという[6]

クルーは近くに氷があることに気付いてはいたが、船は減速せず、最高速度である24ノット(時速44キロメートル、28mph)からたった2ノット(時速3.7キロメートル、2.3mph)遅いだけの22ノット(時速41キロメートル、25mph)で航行していた[5]。氷の報告がある海域でタイタニックが高速で航行していたことはのちに無鉄砲だと批判されることとなったが、これは当時としては標準的な海洋航行の慣習を反映するものであった[7]

北大西洋の定期便では何よりも時間を守ることが最優先事項であり、広告された時刻に必ず到着できるようスケジュールを厳しく守ることになっていた。危険に対する警告を、何らかの行動をとるよう強く要請するものというよりは単なる注意程度のものとして扱っており、最高速度に近い速さで航行せざるを得ないこともあり、氷は大したリスクではないと広く信じられていた。危機一髪で逃れるのも普通で、正面衝突ですら今まで大事故にはなっていなかった。1907年にドイツの定期船SSクロンプリンツ・ヴィルヘルムが氷山に激突して船首が大破することとなったが、それでも航海を終了できた。同年、やがてタイタニック号の船長となるエドワード・スミスは「船の沈没を引き起こすような状況は想像できない。現代の造船はそういうレベルを超えている」とインタビューで宣言していた[8]

「前方に氷山!」 (23時39分)[編集]

衝突[編集]

タイタニック号が致命的な事故に近づく時までに、ほとんどの乗客は眠りについており、船橋の指揮は二等航海士チャールズ・ライトラーから一等航海士ウィリアム・マクマスター・マードックに移管されていた。監視役のフレデリック・フリートとレジナルド・リーはデッキから29メートルの高さのところにある見張り台にいた。気温は氷点下近くまで下がっており、海は完全に静まっていた。事故の生存者であるアーチボルド・グレイシー大佐は「海は鏡のようで、星がはっきり映るくらい水面がなめらかだった」と後に書いている[9]。現在では、このように極めて静かな水面は近くに叢氷があることを示すものだと判明している[10]

空気は澄んでいたが月は見えず、海が静か過ぎて、近くにある氷山の場所の手がかりになるようなものは何もなかった。海がもう少し荒れていたら、氷山にぶつかる波の影響でもっと場所が見えやすくなったであろう[11]サウサンプトンでごたごたがあったため監視役は双眼鏡を持っていなかった。しかしながら、星の光と船自体から出る光以外に光源がない全くの暗闇では双眼鏡は役に立たないとも言われている[12]。それにもかかわらず、ライトラーが他のクルーに氷に対して注意するよう周知していたので、監視役は氷の危険性があることには気付いていた[13]

タイタニック号が氷山と衝突する際の航路を示した図。青が船首の経路、赤が船尾の経路である。

23時30分、フリートとリーは前方の水平線上にかすかな靄があることに気付いたが、これを特に重視しなかった。9分後の23時39分に、フリートはタイタニックの進行方向に氷山があるのを見つけた。フリートは監視鐘を3回鳴らし、船橋に電話して六等航海士ジェームズ・ムーディに知らせた[14]

  • フリート「Is anyone there?(訳:誰かいないか?)」
  • ムーディ「Yes, what do you see? (いるぞ。何か見えるのか?)」
  • フリート「Iceberg rightahead! (右前方に氷山がある!)」
  • ムーディ「Thank you. (報告、感謝する。)」

フリートに感謝したあと、ムーディはメッセージをマードックに中継し、マードックは操舵員のロバート・ヒッチェンスに航路を変えるよう命じた[15]。マードックは船の進路を左方向に変えるべく「(舵輪を)右舷一杯」("Hard a'starboard")と命令したと信じられており、この結果、舵柄が右舷一杯に動かされた[12]。マードックはエンジン命令電信で「全速後進」("Full Astern")をも告げた[4]

四等航海士ジョセフ・ボックスホールによると、マードックはスミス船長に「左舷一杯に(氷山を)回る」("hard-a-port around [the iceberg]")ことを試みると述べていた。これは「左舷旋回」("port around")の操作を試みていたことを示唆する。つまり、船首を回転させて障害物を周り、その次に船尾を回して、船の両側が衝突を回避するように旋回させることである。命令が効力を発揮するまでには遅れがあった。蒸気で動いている操縦システムでは、船の舵柄を回転させるまで30秒かかった[4]。エンジンを逆回転に設定する複雑な作業を行うにも時間がかかった[16]。中央タービンを逆回転させることができなかったため、舵のすぐ前に置かれた中央タービンと中央プロペラスクリューは単に停止しただけになってしまった。このため舵の効きが悪くなり、したがって船が旋回する力が弱くなった(一般に、船は速力が高い方が舵効きが良い)。このことから、マードックがスピードを維持したまま前進しつつ船を旋回させていればタイタニック号は氷山を避けられていた可能性も指摘される[17](とはいえ、それは結果から見た推論に過ぎない)。

こうした中、タイタニック号の前方は正面衝突を避けるのには間に合ったが、方向転換の影響で真正面からではなく斜めに氷山にぶつかった。海面下にある氷山の下部が船の右舷を7秒ほど擦った。氷山の上部から氷の欠片が剥がれて前方デッキに落下してきた[18]。数分後、タイタニック号の全エンジンが停止し、船は北向きでラブラドル海流に漂うことになった[19]

衝突の結果[編集]

氷山に衝突した船体の模式図

氷山の衝撃は船殻に大きな穴をあけたと長く信じられていた[20]。事故後の英国による調査で、ハーランド・アンド・ウルフの船体建築責任者であったエドワード・ワイルディングは、衝突の40分後に前方コンパートメントに起こった浸水量から計算して船殻部分に「12平方フィートくらい」の穴が海に向かって開き、さらにその穴が複数箇所にわたっていた可能性を証言した[21]。調査による発見から損傷は300フィートに及ぶと推定され、これ以降多くの著述家がこの証言に従ってきた。現代の超音波を用いた残骸調査では、損害は6個の狭い穴で、全部で船体の12から13平方フィート (1.1から1.2m²)くらいに過ぎなかったということがわかっている[22]

裂け目は最大のもので39フィート (12 m) くらいの長さであり、船殻プレートに沿っていたようである。このことから、プレートを留めていた鉄のリベットが外れるか飛んで開いてしまい、狭い裂け目を作ってそこから水が入ってきたと想定される。タイタニック号を作ったハーランド・アンド・ウルフのエンジニアは、事故の後にこの想定を英国難破調査委員会に示唆したが、あまり顧みられなかったという[22]。タイタニック号を発見したロバート・バラードは、船が大きな裂け目のため沈没したという憶説について、「大きな船がちょっとした裂け目のため沈没したということは誰も信じられなかったのだろう」と述べている[23]。ただし、船殻プレートのずれによる裂け目が1つの要因に過ぎないという可能性はある。回収されたタイタニック号の船殻プレートの一部は、氷山の衝撃で湾曲することなく破砕されたと見られている[24]

船殻のうち中央部の60%のプレートは軟鋼リベットを3列に打ちつけて接合されていたが、船首と船尾のプレートは錬鉄のリベットを2列にして打ちつけて接合されていた。材料科学者であるティム・フッケ(Tim Foecke)とジェニファー・マッカーティ(Jennifer McCarty)によると、この2列のリベットは衝突の前ですら応力限界に近かった[25][26]。この「ベスト」と呼ばれる三号鉄リベットは多数のスラグ巻き込みを持つもので、このためもっとよく使われる「ベスト・ベスト」と呼ばれる四号鉄リベットよりも脆く、応力をかけられた時、特に非常に寒い時には外れやすくなる傾向がある[27][28]。しかしハーランド・アンド・ウルフを退職したアーキビストであるトム・マクラスキーは、タイタニック号の姉妹船であるオリンピック号は同じ鉄のリベットで打ちつけられていたにもかかわらず25年近く無事故で航行し、英国の巡洋艦との激突を含めた大きな事故を生き延びていると指摘した[29]。オリンピック号がUボートU103と船首で激突してU103が沈没した時にも、船尾のねじれと右舷側の船殻プレートの湾曲が生じたものの、船殻は一体性を保っていた[29][30]

喫水線より上では衝突の痕跡はほとんどなかった。一等船室のスチュワードは震動に気付いたが、プロペラスクリューのブレードが折れたためだろうと思った。乗客の多くが衝突や震動を感じたが、その原因はわからなかった[31]。衝突場所に最も近かった一番低いデッキにいた者は、衝撃をもっとずっと直接に感じた。操機手のウォルター・ハーストは衝撃に目を覚ましたが、「誰もそんなに危険なことだと思わなかった」と回想している[32]。機関助手のジョージ・ケミシュも右舷側で衝突音を聞いたという[33]

船はすぐ浸水し始め、汲み出せる15倍の速さである1秒あたり7ロングトンの速度で水が入り込んできた[34]。二等機関士のJ・H・ヘスケスと主任火夫フレデリック・バレットは第6ボイラー室に噴出してきた冷たい水に打たれ、部屋の防水扉が閉まる直前に逃げた[35]。これは機関部門のスタッフにとって極めて危険な状況であった。ボイラーは未だに高温・高圧の蒸気でいっぱいであり、ボイラー室に入り込んだ冷たい水と接触すれば爆発する危険性も相当あった。火夫と機関助手は火を小さくするとともにボイラーを排気するよう命じられ、大量の蒸気を排気煙突から送り出した。この作業が終わる頃には、火夫たちは腰まで冷たい水に浸かっていた[36]

A line diagram showing Titanic from the side.
解説つきのタイタニック号の図。緑が損害を受けた箇所、船底の機関エリアは青字で注釈がある。図上部記載の縮尺スケールの最小目盛は10フィート (3.0 m)、縮尺スケールの全長は400フィート (120 m)である。

タイタニック号の下部デッキは16のコンパートメントに分かれていた。それぞれのコンパートメントは隣の区画から船の幅をカバーする隔壁で分けられており、全部で15の隔壁があった。それぞれの隔壁は低いものでも水面の約3.4メートル上にあるEデッキの底面まで伸びていた。船首に最も近いふたつと船尾にもっとも近い6つの隔壁はもうひとつ上のデッキまで伸びていた[37]

それぞれの隔壁は防水扉で封鎖することができた。タンクトップデッキのエンジン室とボイラー室には垂直に閉まるドアがあり、これはブリッジから遠隔操作でコントロール可能だったため、30秒程で閉めることができた。クルーがドアに閉じ込められることがないよう、警告のベルと別の避難ルートが用意されていた。タンクトップの上の階層のオーロップデッキ、Fデッキ、Eデッキではドアが水平に閉まり、手動で動くようになっていた。ドア自体を使うか、上のデッキから閉めることができた[37]

防水隔壁は水面より上まで伸びていたが、上部はぴったり止められていなかった。多数の区画が浸水した場合、船首が水に深く潜ってしまい、水はひとつの区画から次の区画へ、製氷皿の仕切りを越えて水が流れるように連続して移動していってしまう。これがタイタニック号に発生した。タイタニック号は船首層タンク、前方の船倉3室、6番ボイラー室の計5室の区画に損害を被った。タイタニックは2区画までが浸水しても浮いていられるように設計されていたが、3区画、4区画に穴が開いても組み合わせによっては沈没することはなかった。しかし、5区画となると、水は隔壁の上部に達し、浸水が留められなくなる[37][38]

沈没のアニメーション

スミス船長は自分の船室にいたときに衝突を感じ、すぐにブリッジに出てきた。状況を知らされた船長は、タイタニック号を建造したトマス・アンドルーズを呼んだ。アンドルーズは船の最初の旅客航海を見守ることになっていたハーランド・アンド・ウルフの一団のエンジニアの1人であった[39]。船は衝突の数分後には右舷に5度傾き、船首は2度下がっていた[40]。スミスとアンドルーズは階下に行き、前方の船荷は持ちこたえているが郵便室とスカッシュコートは浸水しており、一方で第6ボイラー室は既に14フィート (4.3 m)の水深に飲み込まれていることに気付いた。水は第5ボイラー室に溢れ出てきていた[40]。ここにいたクルーのメンバーたちは排水をしようと奮闘していた[41]

衝突から45分で少なくとも13,500英トン (13,700 t)の水が船に入ってきた。タイタニックのバラストや船底のポンプでは対応できない量であった。全ポンプの最大排水量は毎時1,700英トン (1,700 t)であった[42] 。アンドルーズは船長に5つの区画が浸水したと伝え、それゆえタイタニックは沈む運命にあると言った。アンドルーズの推定では、もはやタイタニックは2時間以上耐えられないだろうということであった[43]

衝突から沈没までの間に、少なくとも35,000英トン (36,000 t)の水がタイタニックに入り込み、排水量が48,300英トン (49,100 t)からほぼ2倍の83,000英トン (84,000 t)以上になった[44]。水が侵入した区画の形状の特徴もあり、浸水は一定速度で進んだわけではなく、また船全体で一気に進んだわけでもなかった。最初に右舷方向に傾いてしまったのは、船底の通路を通って水が溢れていって右舷側のみが浸水したことであった[45]。通路が完全に水で塞がれると傾きは修正されていったが、のちに別の方向だけ浸水が進んだため船は左舷に10度ほどまで傾いていくようになった[46]

タイタニック号は衝突後1時間で0度から4.5度まで前傾したが、2時間めにはもっとだいぶゆっくり傾くようになり、5度程度の傾きになった[47]。この影響で救出まで船が浮いていられるのではないかという誤った希望を抱いてしまった乗船者も多数いた。1時30分までには前部の沈没速度は速くなり、タイタニックは10度も傾いていた[46]

1912年4月15日[編集]

船を捨てる準備 (0時05分–0時45分)[編集]

Photograph of a bearded man wearing a white captain's uniform, standing on a ship with his arms crossed.
タイタニック号の船長エドワード・J・スミス(1911)

4月15日の0時05分に、スミス船長は救命ボートをカバーから出すよう命じ、乗客が集合した[38]。船長は無線オペレータに救難信号を送り始めるよう命じたが、この信号により船が氷帯の西側にいると誤解され、救援にきた人々は13.5海里(15.5 mi / 25 km)ほど離れている場所に向かってしまった[2][48]。デッキの下では水が船の最下部の数層に流れ込んでいくようになっていた。郵便室が浸水し、仕分け係はタイタニック号で運搬中だった40万もの郵便物を救おうとしたが、結果としては無駄な努力であった。他の場所では、流入する水の勢いで空気が押し出されていく音を聞くことができたという[49]。タイタニック号には一斉呼びかけを行うシステムがなかったので、上の階では客室係が各室を回って眠っている乗客やクルーを起こし、ボートデッキに行くよう伝えた[50]

集合が徹底できたかどうかは乗客の等級に強く影響された。一等船室の客室係は数室のみを担当していたが、一方で二等と三等担当の客室係は多数の人々をさばかねばならなかった。一等船室の客室係は直接的な支援を行い、担当している人々が服を着るのを手伝い、デッキまで連れて行くこともしていた。ずっと多くの人々に対処せねばならなかった二等と三等の客室係のほとんどはドアを開け放ち、安全ベルトをつけて上に来るよう乗客に伝えるところまでしかできなかった。三等船室では、乗客はおおむねデッキに来るよう言われた後は自分の判断で行動するほかなかった[51]

多くの乗客やクルーは問題が発生したことを信じないか、あるいは刺すような夜の冷気より船の中で暖かくしているほうが良いと思って命令に従いたがらなかった。船が傾いているのに気付いた者も少しはいたが、乗客は船が沈みかけているとは伝えられていなかった[50]。0時15分頃、客室係は乗客に安全ベルトを着用するよう命じ始めた[52]。しかしながら引き続き多くの乗客はこの命令を馬鹿げたことだと受け取った[50]。この頃、甲板に散らばっていた氷の塊で即席のサッカーを始める者までいた[53]

ボートデッキではクルーが救命ボートを準備しており、それにつれてボイラーから出てきた高圧蒸気が煙突の上部の弁から排出される騒音以外にはあまり音が聞こえないような状態になっていった[54]。蒸気の排出音が大きすぎたため、クルーは手でサインを出して意思疎通していた[55]

タイタニック号には全部で20隻の救命ボートがあり、吊り柱に木製のボートが16隻(船の両側に8隻ずつ)、底が木で脇がキャンバスの折りたたみボートが4隻という内訳であった[50]。折りたたみボートは脇を内側に織り込んだ状態で逆さまにして収納されており、組み立ててから進水のために吊り柱に移動させねばならないようになっていた[56]。2隻は木製ボートの下に、他の2隻は上級船員区域の上に縛り付けてあった[57]。それぞれ数トンの重さでボートデッキまで人力で降ろす必要があったため、後者の2隻は置いてあった場所の事情で進水させるのが大変困難だった[58]。救命ボートは1隻あたり平均68名を乗せることができ、全部で1,178名が乗ることができたが、これはかろうじて乗船者の半分程度、船の最大積載人数の3分の1であった。救命ボートの不足は場所やコストが足りなかったからではなかった。タイタニック号は68隻まで救命ボートを載せられるように設計されていた[59]。これは乗客全員を乗せるのに足る数であり、もう32隻救命ボートを買うには1万6,000ドルほどかかるだけで、タイタニック号自体に会社が払った750万ドルに比べればほんのわずかな額であった。緊急時において、当時の救命ボートは乗客を遭難船から近くの船まで運ぶために使われていた[60]。したがって定期船は乗客とクルー全員を乗せるのに必要な数よりはるかに少ない救命ボートしか積み込まないのが普通で、当時イギリスで運行していた 10,000英トン (10,000 t)を超える39の定期船のうち33は、乗客全員を乗せるにはまったく足りないような数しか救命ボート置き場を作っていなかった[61]。ホワイト・スター・ラインは、視線を遮られずに海を見られる広い遊歩デッキを作りたいと考えており、何列も救命ボートを置くとこの妨げになる可能性があった[62]

スミス船長は40年を海で過ごし、そのうち27年は船員を指導する立場にあったという経験ある船乗りであった。もし全ての救命ボートがフルに人を乗せたとしても、千人もの人々が沈没時に船にいる状態になることを理解していたに違いない[38]。これから起こることの重大さを把握しはじめるにつれて、スミスは優柔不断で動けなくなっていったようであった。 乗客とクルーには集合するよう命じたが、上級船員に乗客を救命ボートに乗せるよう指導することができなかった。適切にクルーを組織できず、部下たちに重要な情報を伝えることもできず、時として曖昧で実際的ではない命令を出し、船を捨てろという命令は全く出さなかった。ブリッジに詰めていた船員の中にすら、衝突後しばらくは船が沈みかけていると気付いていない者がいた。四等航海士ジョセフ・ボクソールは1時15分、船が沈没する1時間ほど前になるまでこのことを伝えられていなかった[63]。一方、操舵員のジョージ・ロウは緊急事態に全く気付いておらず、避難が始まった後にブリッジから自分の監視所まで電話して、なぜ救命ボートが出されているのか聞いた[64]。スミスは船員たちに、船が全員を救うに足る救命ボートを積んでいないことを伝えていなかった。救命ボートへの搭乗を監督せず、自分の命令が守られているか確認することもしていなかったようである[63][65]

救命ボート訓練がほんの少ししか行われてなかったため、クルーも同様に緊急時に対する準備ができていなかった。サウサンプトンに停泊していた間に一度だけ、救命ボート訓練を行っただけであった。通り一遍の訓練で、2隻の救命ボートを降ろし、それぞれに船員1人と男性4人を乗せて数分、埠頭を漕いでまわった後に船に戻るというものであった。ボートには緊急用物資が蓄えられているはずであったが、船のパン焼きチーフであったチャールズ・ジョーギンと部下の努力にもかかわらず部分的にしか物資が準備されていなかったことをタイタニック号の乗客は後で知った[66]。救命ボート訓練や火災訓練はタイタニック号がサウサンプトンを出港して以来行われていなかった[66]。救命ボート訓練は船が沈む前の日曜日の朝に予定されていたが、スミス船長により不明な理由で中止されていた[67]

クルーのメンバーを特定の救命ボートステーションに割り振るリストが掲示されていたが、読んだものはほとんどおらず、何をすべきかわかっていた者はほぼいなかったようである。クルーのほとんどは船乗りではなく、ボートを漕いだ経験すら全く無かった者もいた。このような人々がこの時、全部で1,100人にのぼる可能性がある人々を乗せた20隻のボートを船の脇から21メートル協力して降ろすという複雑な業務に直面した[58]。あまりにも避難の段取りが悪かったため、乗客全員分の救命ボートがあったとしても全員救命することはできなかったかもしれないという指摘をする歴史家すらいる[68]

衝突40分後の0時20分頃までには、救命ボートへの搭乗が開始されていた。二等航海士ライトラーは、スミスがトランス状態であるかのように呆然としてブリッジのそばに立ち、海を見やっていたと後で回想している。ライトラーが船長に「女性と子供をボートに乗せた方が良いのではないでしょうか。」 ("Hadn't we better get the women and children into the boats, sir?") と提案したところ、船長は「女性と子供を乗せて降下させよう。」 ("women and children in and lower away.") と答えた[69]。ライトラーは左舷側のボートを担当し、マードックは右舷側のボートを担当した。一等航海士マードックと二等航海士ライトラーはそれぞれ「ウィメン・アンド・チルドレン・ファースト」について異なる解釈をした。マードックはまず女性と子供から乗せると解釈したが、ライトラーは女性と子供だけを乗せると解釈した。そのため、ライトラーは女性と子供が全員乗り込んだのを確認すると、スペースに余裕があっても救命ボートを降ろしたが、マードックは女性と子供の他にわずかだが男性も乗せた[57]。どちらの船員もボートを降ろす時に1隻あたりの安全積載人数を知らず、気をつけすぎていっぱいまで乗せないという過ちを犯した。天気も海の状態も非常に安定していたため、68名いっぱい乗せても充分安全に降ろせたはずであった[57]。もし積載人数いっぱいまで乗せていたら、もう500名ほどの人々の命が救えたであろうと考えられている。これが行われなかったため、救命ボートは多くの空席があるまま進水し、数百名の人々(大部分が男性)が船に取り残された [55][68]

最初は救命ボートに乗ろうとする乗客がほとんどおらず、避難を仕切っている船員は乗客をなかなか説得できなかった。百万長者であるジョン・ジェイコブ・アスターは「あんな小さなボートよりもここにいたほうが安全だ」と言い張った[70]。ボート乗船をきっぱり断る乗客もいた。J・ブルース・イズメイは事態の重大さに気付いて右舷のボートデッキをまわり、乗客とクルーにボートに乗るよう促した。少数の女性、夫婦、独身男性が説得を受け入れて右舷7番救命ボートに乗り、これが最初に降ろされた救命ボートとなった[70]

救命ボート乗船(0時45分–2時05分)[編集]

Illustration of a weeping woman being comforted by a man on the sloping deck of a ship. In the background men are loading other women into a lifeboat.
"The Sad Parting", illustration of 1912

0時45分に7番救命ボートが28名の乗員(定員65名)を乗せ、手漕ぎでタイタニック号から離れていった。次いで左舷の6番救命ボートが0時55分に降ろされた。28名が乗船していたが、この中には「不沈」のマーガレット・"モリー"・ブラウンもいた。ライトラーはこのボートに船乗りが1人(操舵員ロバート・ヒッチェンス)しか乗っていないことに気付き、ボランティアを募った。王立カナダヨットクラブのアーサー・ゴドフリー・ピューチェン少佐が申し出てロープを降り、救命ボートに乗った。少佐は左舷側でライトラーが避難させた唯一の男性乗客であった[71]。このことは、避難時にボートに乗り込める船乗りがほとんどいなかったという重要な問題を浮き彫りにしている。船内通路のドアを開けて乗客に避難を呼びかけるため下に降りたまま、戻らなかった船員もいた。おそらくは下のデッキで上がってくる水にとらわれ、溺死したと考えられる[72]

デッキの下に浸水が進む中、不可欠な作業を続けようとしていたクルーもいた。機関士や機関助手は冷たい水との接触で爆発が起こらないよう、ボイラーから蒸気を逃がす作業をしていた。水流を減らすため余分にポンプを出そうとして防水扉を再び開けたが、これは無駄な試みであった。船の灯りと電力を維持するために発電機を回し続けた。客室係のF・デント・レイは、自分の担当区域とEデッキの三等船室の間の木の壁が崩れた際、あやうく押し流されるところであり、腰まで水に浸かった[73]。浸水した第6ボイラー室のドアが崩れたため、エンジニアだったハーバート・ハーヴィとジョナサン・シェパード(少し前に左足を骨折していた)の2名は0時45分頃に水に巻き込まれて第5ボイラー室で亡くなった[74]

1時20分頃に第4ボイラー室で下から浸水が始まったが、これはおそらく船の下部にも氷山の影響で穴があいていたことを示唆する。水流がすぐにポンプを圧倒し、機関助手や積荷係は前側のボイラー室から避難せざるを得なくなった[75]。さらに船尾側では、機関長のウィリアム・ベルと同僚の機関士たち、数名の志願した機関助手や機関員が浸水していない第1、第2、第3ボイラー室やタービン、往復エンジンのある場所に残っていた。船の灯りやポンプを作動させ、救難信号が送れるよう無線機器に電力を供給するため、ボイラーと発電機を動かし続けた[23]。彼らが最後の最後まで持ち場に留まっていたため、タイタニック号の電気系統は沈んでしまうまで動き続けた。船にいた35名の機関士や電気工は1人も生き残らなかった[76]。船に乗っていた5人の郵便係も生き残らず、浸水した郵便室から避難させた郵便袋を守ろうとしているところを目撃されたのが最後となった。Dデッキのどこかで上がってくる水にのまれたと考えられる[77]。三等船室の乗客の多くは自分たちがいるE、F、Gデッキに入ってくる水に立ち向かうこととなった[78]

救命ボートは数分おきに両側から降ろされていたが、ほとんどはひどく定員に満たない状態っであった。5番ボートは41人しか乗っておらず、3番ボートは32人、8番ボートは39人しか乗らずに船を出た[79]。1番ボートは定員40人であるのに12人しか乗っていなかった[79]。避難は滞りなくは進まず、乗客は事態が進行につれて事故やケガに悩まされるようになった。ある女性は10番救命ボートと船の間から落ちたが、かかとでつかまえられて遊歩デッキに引き上げられ、そこから再び救命ボートに乗ることができた[78][80]。一等船室の乗客アニー・ステンゲルは、太ったドイツ系アメリカ人の医師とそのきょうだいが5番ボートに飛び降りた時に潰されて意識不明になり、肋骨を数本折った[81][82]。救命ボート降下もやはり危険であった。6番ボートは船の側面から出てきた水の影響でほとんど水浸しになったが、なんとか船から離れることができた[79][83]。3番ボートは一時大惨事になりかけた。吊り柱の1本が絡まり、乗客が救命ボートから投げ出されそうになったのである[84]

モールス信号で再現されたタイタニック号の遭難信号

この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。

1時20分までにはデッキの上の乗客も状況の深刻さを感じ取り、夫たちは妻や子を救命ボートまで連れて行って別れを告げ始めた。遭難信号のための発炎筒が、近くを通る船の注意をひくために数分おきに炊かれ、無線オペレータは繰り返し遭難信号CQDを出した。無線オペレータのハロルド・ブライドは同僚のジャック・フィリップスに「使う最後のチャンスになるかもしれないから」と新しいSOS信号を使うよう伝えた。2人の無線オペレータは他の船に救援を求めて接触した。数隻が応答し、そのうちカルパチア号が最も近く、58マイル (93 km)離れたところにいた[85]。カルパチア号はタイタニック号よりだいぶ遅い船で、最高速度でも 17 kn (31 km/h)しか出ず、沈みつつある船に到着するまで4時間かかるということであった[86]。他に応答した船としてはマウント・テンプル号があり、進路を変えてタイタニック号の方向に向かったが途中で叢氷に阻まれてしまった[87]

カリフォルニアン号はもっとずっと近くにおり、数時間前にタイタニック号に氷山の警告をしていた。広がる流氷に自分の船が阻まれてしまったことを知っていたため、カリフォルニアン号の船長スタンリー・ロードは22時00分頃、一晩停止して氷原を出る経路を見つけるため明け方を待つと決めた[88]。タイタニック号が氷山に衝突する10分前の23時30分にカリフォルニアン号の唯一の無線オペレータ、シリル・エヴァンズは無線機器をシャットダウンして寝てしまっていた[89]。ブリッジでは三等航海士チャールズ・グローヴズが右舷方向に10から12mi (16から19km)離れたあたりで大きな船を目撃していた。この船は突然左舷に旋回して止まった。もしカリフォルニアン号の無線オペレータがもう15分長く持ち場にいれば、数百名の命が救えた可能性もある[90]。1時間少々後、二等航海士ハーバート・ストーンが止まった船の上に5回、ロケット信号弾が白く炸裂するのを見た。しかしロケットの意味がよくわからず、ストーンはロード船長を呼んだ。船長は海図室で休んでいてこの目撃報告を受けた[91]。ロードはこの報告については何も対処しなかったが、ストーンは不安になって同僚に相談していた[92]

Image of a distress signal reading: "SOS SOS CQD CQD. MGY [Titanic]. We are sinking fast passengers being put into boats. MGY"
1時40分頃にタイタニック号の無線オペレータ、ジャック・フィリップスからロシアの船であるブリマ号に送信された遭難信号。これはタイタニック号から送られた最後の解読可能な無線メッセ-ジのひとつである。

この頃までにタイタニック号に乗っている人々には、船が沈みつつあり、全員が乗れるだけの救命ボートが無いことは明らかになっていた。最悪の事態は起こらないだろうという希望にまだしがみついている者もいた[93]。後で行くからと言って妻を先に救命ボートに乗せた夫もいた[93]

別れるのを拒んだ夫婦もいた。メイシーズ百貨店の共同経営者イジドー・ストラウスの妻アイダ・ストラウスは、夫と一緒にいたいと誓った[93]。2人は一対のデッキチェアに座って終わりを待った[94]。企業家のベンジャミン・グッゲンハイム救命胴衣セーターからトップハットイブニングに着替え、紳士らしく船と運命を共にしたいと述べた[23]

この時点で、救命ボートに乗った乗客のほとんどは一等船室及び二等船室の乗客であった。船尾の三等船室にいた乗客はほとんどデッキにたどり着けず、通路でうろうろと迷い、三等船室を一等や二等の区域と分けている壁や仕切りに阻まれて動けなかった[95]。この隔離は単なる社会的理由だけではなく、アメリカ合衆国移民法の条件によるものでもあった。この法は、移民をコントロールし、感染症の広がりを防ぐため三等船客を隔離するよう定めていた。大西洋航路の定期船に乗る一等と二等の船客はマンハッタン島の主桟橋で降りるが、三等船室の乗客はエリス島健康診断と手続きを経ねば降りることはできなかった[96]。少なくともいくつかの場所では、タイタニック号のクルーは三等船客の避難を積極的に妨害した。錠がかけられクルーにより見張られた壁もあり、これは明らかに三等船客が救命ボートに殺到するのを防ぐためであった[95]

CからGまでのデッキにある三等船室はデッキの終端部分であったため、乾舷までたどり着くには長く曲がりくねった通路を通る必要があり、救命ボートまで最も遠かった。対照的に一等船室は上甲板にあり、最短であった。このため、救命ボートまでの近さは誰が乗れたかを決める重要要因となった。さらなる困難として、多くの三等船客は英語がわからなかったり、話せなかったりした。生存した三等船客の中で英語を話すアイルランド系の移民が特に多くを占めているのは偶然ではない[97]。生き残った三等船客の多くは三等船室担当の客室係エドワード・ハートのおかげで命を助けられている。ハートは船内で三等船客のグループをボートデッキまで連れて行くことを3回も行った。開いている壁を抜けたり、緊急用の梯子を上って逃げた者もいた[98]

おそらくは状況に圧倒されてしまい、逃げる試みを全くせずに船室にとどまっていたり、三等船室の食堂に集まって祈っていた人々もいた[99]。機関助手長のチャールズ・ヘンドリクソンは、まるで誰かに導かれるのを待っているかのようにデッキの下で三等船客たちがトランクや持ち物を手に集まっているのを目撃した[100]心理学者のウィン・クレイグ・ウェイドはこれを、何世代にもわたり、自分がすべきことを社会的地位が上の者に命じられてきたために培われた「禁欲的受動性」によるものではないかと述べている[77]

最後の救命ボート[編集]

Painting of lifeboats being lowered down the side of Titanic, with one lifeboat about to be lowered on top of another one in the water. A third lifeboat is visible in the background.
15番救命ボートはあやうく13番救命ボートの上におろされるところであった。(チャールズ・ディクソンによる絵).

1時30分までにタイタニック号は前傾の角度を増して船首を沈めつつあり、左舷側にもそれよりわずかに大きく(5度を越えない程度)傾いていた。状況悪化は船から送られたメッセージにも反映された。1時25分には「女性をボートに乗せて降ろしている」、1時35分には「エンジンルーム浸水」、1時45分には「エンジンルームはボイラーまで満水」であった[101]。これはタイタニック号から出た最後の解読できる信号で、船の電気系統がだめになりつつある時に送られた。続くメッセージはごちゃごちゃとして不完全であった。2人の無線オペレータはそれにもかかわらず遭難信号をほぼ最後の最後まで送り続けた[102]

残っているボートは満員近くまで人が乗り、だんだんと人々が殺到するようになった。11番ボートは指定積載人数より5人多い状態だった。降ろす時に船から排出された水でほとんど水浸しになった。13番はかろうじて浸水を逃れたが、乗員が船を降ろすためのロープからボートを離すことができなかった。13番は後ろに押し流され、そこは15番ボートが降りてくる真下であった。間に合うようロープが切られ、ボートは2隻とも無事に船から離れた[103]

40名が乗って降ろされていた左舷側の救命ボート14番に乗客の一団が殺到しようとした時がパニックの最初の兆候であった。ボートを担当していた五等航海士ハロルド・ロウが群衆をコントロールするために3回、空に向けて警告射撃を行ったため、ケガ人は出なかった[104]。16番ボートが5分後に降ろされた。客室係のヴァイオレット・ジェソップが乗っていたが、ジェソップは4年後、第一次世界大戦中にタイタニック号の姉妹船であるブリタニック号の沈没から生き延びた際、同じ経験をすることとなった[105]。デッキのほとんどの人々が船尾に移動していたため、折りたたみボートCは1時40分に既にほぼ人がいなくなったデッキのエリアから降ろされた。ホワイト・スター・ラインの取締役であったJ・ブルース・イズメイがこのボートに乗って船から逃げており、のちにイズメイはタイタニック号の最も物議を醸した生存者となり、その行動は卑怯だと糾弾された[101]

1時45分に2番救命ボートが降ろされた[106]。ライトラーはこのボートにたくさんの男性が乗っているのを見て、「英語を喋る人々ではなかった[107] 」と述べている。リボルバーで脅してこの男性たちを立ち退かせたが、ライトラーはこのボートいっぱいに乗るだけの女性と子供を見つけることができなかった[107]。ライトラーは40人乗せられるボートに25人だけ乗せて降ろした[106]。ジョン・ジェイコブ・アスターは1時55分に4番ボートで妻が安全に避難するのを見送ったが、60席中20席が空いていたにもかかわらず、ライトラーは男性のアスターをボートに乗せなかった[106]

最後に進水したボートは折りたたみボートDで、25人を乗せて2時05分に船を離れた[108]。ボートが降ろされる時に2人の男性が飛び乗った[109]。水がボートデッキにまで達しており、船首楼は水に深く浸かっていた。一等船客イーディス・エヴァンズはボートに乗るのを諦めて結局亡くなったが、一等船室の女性で沈没により死亡したのは彼女を含め4名のみであった。スミス船長は最後にデッキをまわり、無線オペレータと他のクルーメンバーに「今や自分の身を守る時だ」と告げた[110]

乗客とクルーは船尾に向かったが、そこではトマス・バイルズ神父懺悔を聴いて罪の赦しを与えていた。タイタニック号の楽団は体育室の外で演奏していた[111]。タイタニック号は2つの別の楽団を抱えていた。ひとつはウォレス・ハートリー率いる五重奏団で、夕食後や宗教的な礼拝の際に演奏しており、もうひとつは三重奏団でレセプションエリアやカフェレストランの外で演奏していた。2つの楽団はレパートリーもアレンジも異なっており、沈没の前には一緒に演奏したことがなかった。氷山との衝突後30分ほどしてから、2つの楽団はスミス船長の命で一等船室のラウンジで演奏をした。そこにいた乗客の記憶によると、楽団は『アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド』のような明るい曲を演奏していた。2人のピアニストがこの時楽団と一緒にいたかどうかはわかっていない。正確な時間は不明だが、音楽家たちは後でボートデッキのある階に移動し、そこで演奏した後、デッキに出ていった[112]

タイタニック号沈没にまつわる根強い伝説として、音楽家たちは船が沈む時に賛美歌主よ御許に近づかん』を演奏していたというものがあるが、これは疑わしい[113]。この主張は沈没の最初期の報告にも見受けられる[114]。この賛美歌はタイタニック号事故にあまりにも密接に結びつけられているため、この最初の小節がタイタニック号の楽団長で亡くなった犠牲者の1人であるウォレス・ハートリーの墓碑にも刻まれた[115]。1934年にヴァイオレット・ジェソップは事故の回想で、この賛美歌が演奏されているのを聞いたと述べている[113]。対照的に、アーチボルド・グレイシーは沈没直後にこれを強く否定する説明をしており、無線オペレータのハロルド・ブライドはラグタイムの後で『秋』が演奏されているのを聞いたと述べた[116]。これはアーチボルド・ジョイスによる当時人気のあったワルツ『秋の夢』だったのかもしれない。救助にきたカルパチア号の楽団長で生存者とも話したジョージ・オレルは『主よ御許に近づかん』が演奏されていたと聞いたと述べている[117]。グレイシーはデッキが沈む頃まで楽団の近くにいて、「明るい曲」を楽団が演奏していたがどれも聞き覚えのない曲であり、新聞に出てくるように『主よ御許に近づかん』が演奏されていればすぐ気付いたはずだと主張している [118]。船を最後に離れた者のうち、複数の生存者が楽団はデッキの傾斜が急になりすぎて立てなくなるまで演奏を続けたと述べているが、グレイシーは船が沈む遅くとも30分前には演奏をやめたと主張している。一等船客A・H・バックワースなどの乗客がこれを裏付ける証言をしている[112]

ブライドは無線室を離れる時に楽団が演奏するのを聞いていたが、その頃までにはそのあたりは水に浸かっていた。もう1人の無線オペレータ、ジャック・フィリップスも一緒にいた。ブライドによると、フィリップスは安全ベルトを盗もうとした男を打ち倒したところだったという[119]。2人の無線オペレータは反対の方向に行き、フィリップスは船尾へ、ブライドは船首の方にあった折りたたみボートBに向かった[119]

アーチボルド・グレイシーも船尾に向かったが、人の群れに阻まれた[120]。数百人もの三等船客が、最後の救命ボートが出発する瞬間にデッキにとうとうたどり着いたのだ。グレイシーは船尾に向かうという考えを諦め、群衆から離れるため海に飛び込んだ[120]。全く逃げようとしなかった者もいた。船の設計者であるトマス・アンドルーズは、報告によると一等船室の喫煙室で最後に目撃されており、安全ベルトは外して暖炉の上の絵を見つめていたという[105][121]。スミス船長の運命については矛盾する死の報告があり、よくわかっていない。ブリッジの操舵室に入ってそこが水に飲み込まれた時に亡くなったという証言と、ブリッジが沈む直前に水に飛び込み、その後おそらく折りたたみボートBの側で亡くなったという証言がある[122][123][124][125][126][127][128][129]

沈没の最後の瞬間(2時15分–2時20分)[編集]

Cartoon depicting a man standing with a woman, who is hiding her head on his shoulder, on the deck of a ship awash with water. A beam of light is shown coming down from heaven to illuminate the couple. Behind them is an empty davit.
主よ御許に近づかん」(1912年のイラスト)

2時15分頃、デッキのハッチから船の浸水していなかった部分に水が入ってきたことで、タイタニックの水に対する傾き角度は急速に増していった[130]。急に船が傾いていったため、生存者が「巨大な波」と呼ぶものが生じ、ボートデッキの船首方向から船を水が覆っていき多くの人が水にのまれた[131]。首席航海士ヘンリー・ワイルド、一等航海士マードック、二等航海士ライトラー、アーチボルド・グレイシーなど、折りたたみボートAとBを降ろそうとしていた人々は、2隻のボートと共に水にのまれ、ボートBはハロルド・ブライドが下に押し込められたままの状態で逆さまに浮かび、ボートAは脇のキャンバスが立っていない状態で部分的に浸水してしまった。ブライド、グレイシー、ライトラーはボートBまでたどり着いたが、マードックとワイルドは海で亡くなった[132][133]

ライトラーは増える群衆から逃げるため持ち場を離れることを選び、上級船員区域の屋根から水に飛び込んだ。通風シャフトの入り口に吸い込まれたが「恐ろしい熱い爆風」ですっかり吹き飛ばされ、ひっくりかえった救命ボートの脇に浮かび上がった[134]。前方の煙突は自重で崩れ、水に落ちる時に数人をつぶしたが、ぎりぎりで救命ボートにはあたらなかった[135]。 煙突はライトラーをかすめ、波が起こってボートが50ヤード (46 m)ほど沈没船から遠くへ流された[134]。まだタイタニック号の上にいた人々は、強い圧力がかかって船が震えるのを感じた[136][137]

目撃者によると、船首が水に沈み込むにつれてタイタニック号の船尾は空中に高く上がった。角度は30-45度ほどに達していたという[138][139]。多くの生存者が大きな音を聞いており、これはボイラーの爆発によるものと考える者もいた[140][139]。少し経ってから船の灯りが一度点滅し、それを最後に切れてしまい、タイタニック号は完全に真っ暗になった。

Painting of a sinking ship with a lifeboat being rowed away from it in the foreground.
ヘンリー・ロイテルダール「タイタニックの沈没」

タイタニック号は反対の2方向から極端な力をかけられていた。浸水した船首は船を下に引っ張り、一方で空中に上がった船尾は船を海面に保とうとしていた。この2つの力が船の構造上最も弱い場所であるエンジン室ハッチのあたりに集中した。灯りが消えた直後、船は裂けた。浸水した船首は短期間、竜骨で船尾に繋がっていたかもしれず、船尾を高角度で引っ張った後に離れて、船尾は数分長く浮いていた。船尾の前方はすぐさま浸水し、傾いた後に短い間止まったが沈んだ[141][142][143]。船は2時20分、氷山衝突の2時間40分後に見えなくなった[144]

タイタニック号から生還した航海士や多くの著名な生存者は、船はそのままのひとつながりの状態で沈んでいったと証言した。これは英米の災害調査でも裏付けられている[145]。しかしながらロバート・バラードによると、沈む時は既に2つに分かれていたという証言も多数他にある[146]。今では、エンジンはボイラーの大部分と共にそのままの場所にあったことがわかっており、目撃者が聞いた「大きな音」と船尾の一瞬の落ち着きは、おそらく船の建材の緩みやボイラーの爆発によるものではなく、船が裂けたために生じた[147]

水面下に潜ってからたった数分のうちに船首と船尾は3,795メートル (12,451 ft)沈降し、吐き出された重機、何トンもの石炭、内部から生じた大量の瓦礫がその後を追った。船の2つの部分は600メートル (2,000 ft)離れてゆるやかに起伏している海底に落ちた[148]。流線型の船首部分は海面にあった時と同じような角度で下降し続けて、推定25–30mph (40–48km/h)ほどの速さで舳先から浅い角度で海底に衝突した[149]。はずみで海底に深い穴ができ、堆積物の中に20メートル (66 ft)ほど埋まった後急停止した。突然の減速のため、船首部分はブリッジのすぐ前あたりで多少曲がった。船首部分最後尾のデッキは裂けた際に既に弱くなっており、次々と崩れた[150]

船尾部分はほぼ垂直に、おそらく回転しながら沈んでいった[149]。空のタンクとコファダム(タンク間にある、水や油の混ざりを防止するための空間)は降下につれて内側に破裂し、船に穴があいて船尾楼甲板が裂けた[151]。船尾部分は強い力で海底に落ちたため、の部分が15メートル (49 ft)ほど埋まった。デッキは互いに重なった状態でぺちゃんこになって落ち、船殻の外壁は両側に広がった。沈没後も瓦礫が数時間海底に降り続けた[150]

水中の乗客とクルー (2時20分–4時10分)[編集]

Photograph of a brass pocket watch on a stand, with a silver chain curled around the base. The watch's hands read 2:28.
2時28分を指して止まっている、誰かはわからない事故犠牲者の懐中時計

沈没の結果として、数百名の乗客とクルーはすぐさま船の瓦礫に囲まれて冷たい海で死を待つだけの状態に置かれた。タイタニック号が海底に降下しながら分解したため、木の梁、ドア、家具、パネルや隔壁に使われていたコルクなど瓦礫の塊が浮いて海面に急速に上がってきた。この瓦礫によって泳いでいた人々がケガをしたり、おそらく亡くなったりした。浮いているために瓦礫につかまった者もいた[152]

海水は-2℃という温度で、命に危険を及ぼす冷たさであった。二等航海士ライトラーは、海に入ると体に「千本もナイフが突き刺されたように感じた」と述べている[151]循環器官への急激なストレスのため、心臓発作を起こしてほぼすぐに亡くなった人もいたと考えられる[153]。最初はひどい震えがきて、体温が低下するとともに脈拍が遅く弱くなり、意識を失って死亡するという典型的な低体温症が進行していった人もいた[153]。救命ボートに乗っていた人々は、海に落ちた人々の苦しみの声にひどく脅え、大変なショックを受けた[154][155]

Photograph of a moustached middle-aged man in a dark suit and waistcoat, sitting in a chair while looking at the camera
アーチボルド・グレイシーは折りたたみボートBにたどり着いた生存者の1人であった。しかしながらこの災難から回復することはできず、沈没の8ヶ月後に亡くなった。

水中にいた人の中で助かったのはごくわずかであった。アーチボルド・グレイシー、ジャック・セイヤー、チャールズ・ライトラーはそのうちの3人で、ひっくり返った折りたたみボートBにたどり着いた。折りたたみボートBには12人ほどのクルーが上り、出来る限り救出を行ったが35人の男性がひっくり返った船殻に不安定にしがみついた。周りで多数の人が泳いでいたためにボートが浸水する危険があることに気付き、ボート上の人々は、乗せてくれと言いながら泳ぐ何十人もの人々の願いを無視してゆっくり漕いでその場を離れた[156]。おそらく20人かそれを越えるくらいの数の人々が泳いで折りたたみボートAにたどり着いたが、側面がきちんと立てられていなかったため部分的に浸水していた。このボートに乗った人々は浸水した極めて冷たい水の中に足を突っ込んだまま何時間も座って待たねばならず、その夜のうちに多くの人が低体温症で死亡した[122]。 さらに遠いところでは、他の18隻の救命ボートがいた(そのほとんどには空席があった)が、泳いでいる人々を救助するために出来るとしたら何をすべきなのかを乗船者同士で議論しながら漂い続けていた。4番ボートは沈没現場から50メートルほど離れた場所に留まっており、沈没箇所の最もそばにいたボートであった。このため、船が沈む前に2人がボートに飛び降りており、さらにもう1人を海から拾うことができていた[157]。沈没後に7人を海から引き上げたが、2人は後に死んでしまった。折りたたみボートDは降ろされた直後、海に飛び込んでボートまで泳いだ男性乗客を救助した。他の全ボートでは、乗客は結局、ひっくり返されることを恐れて戻らないことに決めた。もっとぶっきらぼうに反対した者もいた。6番救命ボートを指揮していた操舵員ヒッチェンスは自分のボートに乗っている女性たちに、「あそこにはたくさんの死体があるだけ」だから戻っても無駄だと言った[158]

20分ほどたって、泳いでいる者たちは意識を失って死んでいったため、叫びは消え始めた[159]。14番救命ボートに乗っていた五等航海士ロウは叫びが収まってから水中の人々の救出に向かった[160]。5隻の救命ボートを集め、乗船者を移して14番に空きを作った。ロウは7人のクルーと助けを申し出たボランティアの男性客1人を集めて沈没した場所に漕ぎ戻った。これには45分ほどかかった。14番救命ボートが沈没箇所に戻った頃には、水中の者はほぼ皆亡くなり、声はわずかしか聞こえなかった[161]。ロウのクルーは4人の男性がまだ生きているのを見つけたが、そのうち1人は直後に亡くなった。

他のボートでは、救助船が来るのを待つ以外、生存者は何もできなかった。刺すような寒さで、水をかぶったボートもあった。生存者はボートにまったく食べものや飲み水がないと知り、また灯りもほとんどなかった[162]。折りたたみボートBは状況が特に悪く、ひっくり返った船体の裏で少しずつ小さくなっていくエアポケットのおかげでようやく浮いているというような様子であった。夜明けが近づくと風が起こり、海がどんどん荒れるようになったため、折りたたみボートの人々はバランスを保つために立たねばならなくなった。災難に疲れ果て、海に落ちて溺れた者もいた[163]。残った者たちにとっても、波をかぶりながら船殻でバランスを取るのはどんどん難しくなっていった[164][165]。泳いで折りたたみボートAにたどり着いた者の中には、ボートの上に登るだけの体力が残っていなかった者もおり、ボートの脇につかまるしかなかった。夜の間に亡くなった人々の遺体の多くは、生存者の場所を空けるため海に落とされた。

救助と出発 (4時10分–9時15分)[編集]

Photograph of a lifeboat, filled with people wearing life jackets, being rowed towards the camera.
1912年4月15日の朝にカルパチア号から撮影された折りたたみボートD。

タイタニック号の生存者は、4月15日の4時00分頃にカルパチア号によって救助された。カルパチア号は途中で多数の氷山を避けなければならない中、最高速でかなりの危険を冒してやってきた[164]。カルパチア号の灯りは3時30分頃にはじめて目撃され、このおかげで生存者の士気が非常に上がったが、全員がカルパチア号に乗り込むまでにはさらに何時間もかかった[164]。折りたたみボートBに乗っていた30人超の人々は結局他の2つの救命ボートに乗り込むことができたが、移動が済む直前に生存者が1人亡くなった[166]。折りたたみボートAでも問題が起こっていた。ほとんど波に洗われたも同然の状態であったため、かなり多く、おそらくは半分以上の乗船者がその夜のうちに亡くなった[151]。残った生存者の数は不明で、10-11人から20人以上の間くらいの数の男性と、1人の女性と考えられているが、折りたたみボートAから他の救命ボートに移動した。折りたたみボートAには3名の遺体が残り、海に浮かんで漂うままに残された。1ヶ月後、遺体がまだ乗っている状態でホワイト・スター・ラインの船オーシャニック号に発見された[166]

カルパチア号に乗っていた人々は、日の出とともに目撃した氷だらけの海の光景に大変驚いた[167]。カルパチア号のアーサー・ロストロン船長は、200フィート (61 m)以上ある20もの大きな氷山と多数の小さな氷山、浮氷、タイタニックの瓦礫からなる氷だらけの海を目撃した[167]。カルパチア号の乗客には、自分たちの船が大きな白い氷原のど真ん中にいて、遠くには丘に見える氷山が点在しているようだったという[168]

救命ボートがカルパチア号のそばに動き、生存者はさまざまなやり方でカルパチア号に乗った。ロープばしごを登れる体力がある者もいたが、他の者は吊り索で持ち上げられ、子供は郵便袋で持ち上げた[169]。最後に船にたどり着いたのはライトラーの12番救命ボートで、設計では65人乗れるところを74名も乗っていた。9時00分までには全員カルパチア号に乗った[170]。家族や友人が再会して喜ぶ場面もあったが、ほとんどの場合は親しい者を見つけられずに希望が潰えることとなった[171]

9時15分にもう2隻、マウント・テンプル号とカリフォルニアン号が到着した。カリフォルニアン号は無線オペレータが仕事に戻った時にやっと事故を知った。しかしながらこの頃までには既に救助が必要な生存者はいなくなっていた。カルパチア号はオーストリア=ハンガリー帝国フィウメ(現在のクロアチアリエカ)に行く予定であったが、生存者に提供する備蓄も医療設備もなかったため、ロストロン船長は生存者が適切な保護を受けられそうな場所であるニューヨークへ戻る航路を計算するよう命じた[170]。カルパチア号は現場を出て、他の船は最後に2時間捜索を行ったが成果はなかった[172][173]

その後[編集]

嘆きと怒り[編集]

A man wearing a bowler hat and a woman in a shawl embrace among a crowd of people standing in a wooden building
目撃者の報告によると、タイタニック号の生存者がニューヨークで下船した際に「多くの悲しい場面」が見受けられた。

カルパチア号は叢氷、雷雨、荒れた海など困難に見舞われた航海を経て、4月18日の夕方にニューヨークの54番埠頭に到着した[174][175]。カルパチア号その他の船から無線メッセージで報告を受け、事故について注意喚起された人々が波止場に4万人ほど集まっていた。事故の全貌がようやく一般に知られるようになったのはタイタニック沈没の3日後、カルパチア号が波止場に入った後のことであった[175]

カルパチア号がニューヨークに着く前から、遺体を回収するための努力が続けられていた。ホワイト・スター・ラインにチャーターされた4隻の船が328体の遺体を発見し、119体は水葬され、残る209体はカナダノヴァスコシア州ハリファックスの港に持ち帰られた[174]。150体はここに埋葬された[176]。ニューヨーク、ワシントン、サウサンプトン、リヴァプール、ベルファスト、リッチフィールドなど、いろいろな場所に記念碑が建てられた[177]。大西洋の両岸で死者を追悼し、生存者を支援するための資金を募るセレモニーが行われた[178]。タイタニック号の犠牲者の遺体のほとんどは発見できず、73年後に海底の瓦礫の中から死の証拠となるものが見つかっただけであった。靴が1足揃えて置いてあるのが海底で見つかり、遺体が分解されるまではそこにあったことなどが推測される[23]

一般に広く見られた事故への反応はショックと怒りであり、その怒りは多くの事柄や人物に向けられた。なぜこんなに少ない救命ボートしか載せていなかったのか、なぜ他の人々が多数亡くなったのにイズメイは自分の命を救ったのか、なぜタイタニック号は氷原を最高速度で進んでいたのか、などといったものである[179]。生存者自身も少なからず怒りに駆られていた。カルパチア号でニューヨークに向かう途中ですら、ローレンス・ビーズリーその他の生存者たちは海の安全のための啓発活動をすると決めており、「タイムズ」宛てに海事安全法規の改正を訴える公開書簡を書いた[180]

タイタニック号と強い結びつきのあった場所では大変嘆きが深かった。サウサンプトンは699名のクルーの母港であり、多数の乗客の故郷でもあった[181]。愛する人々の死の知らせを聞いたクルーの妻、姉妹、母などからなる女性たちは、泣いてサウサンプトンのホワイト・スター・ライン事業所の外に押しかけた[182][183]。ベルファストでは教会がいっぱいになり、造船所の職員たちが通りに出て泣いていたという。船はベルファストの工業発展の象徴であり、タイタニック号を建造した人々は自分たちにも事故について何がしかの責任があるのではないかと感じていたため、嘆きだけではなく罪の意識もあった[184]

調査と法的措置[編集]

Cartoon of Uncle Sam taking hold of a ship's wheel marked "Navigation Laws" and saying, "By ginger, I'll take a firmer grip on this business hereafter." At his feet is a paper reading "Ragged marine regulations". A worried-looking man in a top hat marked "Steamship Magnate" looks on. In the distant background a ship can be seen sinking.
"Fisher"による"Time to get busy" 、1912年。事故に対する一般の人々の怒りのため、政治家は船舶業界に新しい法規制を行うことにした。

沈没の後、イギリスとアメリカ合衆国で公的調査が行われた。アメリカの調査は、ウィリアム・オールデン・スミス上院議員を議長として4月19日に始まった[185]。イギリスのロンドンでも1912年5月2日に初代マージー子爵ジョン・ビンガムのもとで調査が始まった[186]。どちらの調査も大方同じような結論に至ったが、それは以下のようなものであった

  • 船が積まねばならない救命ボートの数についての規制は時代遅れで不適切だと見なされた[187]
  • スミス船長は氷山の警告に適切な注意を払っていなかったと考えられる[188]
  • 救命ボートへの適切な乗船と人員配置が行われていなかった。
  • 衝突は蒸気船が危険区域をあまりにも高速で航行したことが直接の原因であった[187]
  • カリフォルニアン号のロード船長は、タイタニック号を支援しなかったことで、調査において強く批判された[189]

英米どちらの調査においても、国際海運商事(親会社)やホワイト・スター・ライン(タイタニックの所有者)による過失は原因と認められなかった。アメリカの調査では、関係者は通常の慣行に従っており、事故は「不可抗力」としか言えないものであろうと述べた[190] 。イギリスの調査では、スミスは今までは危険と見なされていなかった長きにわたる慣行に従い、他の人々でも行うようなことをしていただけだと述べた[191]。この調査では、イギリスの船舶は過去10年で73人の命しか失わずに350万人もの乗客を輸送してきたことについて着目していた[192]。イギリスの調査では、タイタニック号で起こった「誤り」が将来も繰り返されたなら、「過失」として扱われることになるであろうという警告も行った[191]

この大事故により、海事法規について新しい安全対策を施行するよう大きな改正が行われた。もっと多くの救命ボートを確実に搭載すること、救命ボート訓練が適切に行われること、乗客のいる船の無線機には24時間スタッフをつけることなどである[193]。国際海氷パトロールが北大西洋の氷山の有無をモニターするために設立され、海事安全規則は海上における人命の安全のための国際条約によって国際的に統一された。双方ともに今日でも実施されている方策である[194]

文化的影響と沈没船の残骸[編集]

2004年6月に撮影された海底に沈んでいるタイタニック号の船首部分。腐食しているのが見て取れる。

タイタニック号の沈没は文化現象となり、沈没直後から現在まで、芸術家、映画作家、作家、作曲家、音楽家、ダンサーによりこれを記念する作品が作られてきた[195]。1985年9月1日には、ロバート・バラード率いるアメリカとフランスの合同遠征隊が海底でタイタニック号の残骸を発見した[196]。船の再発見により、タイタニック号の物語に対する関心が爆発した[197]。残骸を撮影するため多くの遠征が実施され、また瓦礫の散らばる場所から遺物をサルベージすることも行われて議論を呼んだ[194]。再発見された遺物の最初の大きな展示会は、ロンドンの国立海事博物館で1994年から1995年にかけて行われた[198]。1997年にジェームズ・キャメロン監督の映画『タイタニック』が史上初めて興行収入10億ドルを超えた映画となり、映画のサウンドトラックも史上最も売れたサウンドトラックとなった[199]

残骸は現在も腐食を続けている[200]。最終的にはタイタニック号の船体は崩れて、海底にサビの断片が散らばるだけになり、残った船殻のスクラップは、もっと長持ちするプロペラスクリュー、ブロンズの車地、コンパス、テレモーターなどのような備品類と混ざってしまうと考えられる[201]

犠牲者と生存者[編集]

出航直前の乗船キャンセルによって乗客リストが混乱していることや、様々な理由により偽名を使って乗船した人が犠牲者リストに重複して数えられていることなど、いくつかの要因のため沈没による被害者数は正確にはわかっていない。死者数は1,490人から1,635人と見積もられている。下表の数字は、この災害についてイギリス商務省が報告したものである。なお、現在生存者は全員故人となっている。

分類 搭乗者種別 搭乗者数 搭乗者比率 生存者数 犠牲者数 生存割合(分類別) 死亡割合(分類別) 生存割合(全搭乗者) 死亡割合(全搭乗者)
子供 一等船客 6 0.3% 5 1 83% 17% 0.2% 0.04%
二等船客 24 1.1% 24 0 100% 0% 1.1% 0%
三等船客 79 3.6% 27 52 34% 66% 1.2% 2.4%
109 4.9% 56 53 51% 49% 2.5% 2.4%
女性 一等船客 144 6.5% 140 4 97% 3% 6.3% 0.2%
二等船客 93 4.2% 80 13 86% 14% 3.6% 0.6%
三等船客 165 7.4% 76 89 46% 54% 3.4% 4.0%
クルー 23 1.0% 20 3 87% 13% 0.9% 0.1%
425 19.1% 316 109 74% 26% 14.2% 4.9%
男性 一等船客 175 7.9% 57 118 33% 67% 2.6% 5.3%
二等船客 168 7.6% 14 154 8% 92% 0.6% 6.9%
三等船客 462 20.8% 75 387 16% 84% 3.3% 17.4%
クルー 885 39.8% 192 693 22% 78% 8.6% 31.2%
1,690 75.9% 338 1,352 20% 80% 15.2% 60.8%
合計 2,224 100% 710 1,514 31.9% 68.1%

三等船客で生き残った人は半数以下だった。沈没から生き延びた人の中にも、事故後すぐに亡くなった人もいる。怪我や寒さなどに晒されたことで、カルパチア号に乗った後に亡くなった人々もいた[202] 。表に示されたグループのうち、49%の子供と26%の女性乗客、82%の男性乗客、78%のクルーが亡くなった。統計では、タイタニック号の乗客の生存率には船客等級によってはっきりとした差があり、特に女性と子供の乗客では顕著であった。一等船客と二等船客の女性の行方不明者は10%以下であったが、三等船客で亡くなった人は54%である。同じように、一等船客の子供6人のうちの5人と、二等船客の子供全員は生き残った。だが、三等船客の子供は79人中52人が亡くなった[203]。唯一亡くなった一等船室の子供は、2歳のローレン・アリソンである[204]。最も死亡率が高かったのは二等船客の男性で、92%の人が亡くなった。また、乗せられたペットのうち3匹だけが沈没から生き残った。

脚注[編集]

  1. ^ 2017年時点ではドニャ・パス号(異説あり)、ジョラ号(戦没艦を含めるとゴヤ (貨物船))などの犠牲者数が上回っている。
  2. ^ a b Ballard 1987, p. 199.
  3. ^ a b c Ryan 1985, p. 9.
  4. ^ a b c Barczewski 2006, p. 191.
  5. ^ a b c d Ryan 1985, p. 10.
  6. ^ a b Ryan 1985, p. 11.
  7. ^ Mowbray 1912, p. 278.
  8. ^ Barczewski 2006, p. 13.
  9. ^ Gracie 1913, p. 247.
  10. ^ Halpern 2011, p. 85.
  11. ^ Eaton & Haas 1987, p. 19.
  12. ^ a b Brown 2000, p. 47.
  13. ^ Barratt 2010, p. 122.
  14. ^ Lord 2005, p. 2.
  15. ^ Eaton & Haas 1994, p. 137.
  16. ^ Brown 2000, p. 67.
  17. ^ Barczewski 2006, p. 194.
  18. ^ Halpern & Weeks 2011, p. 100.
  19. ^ Halpern 2011, p. 94.
  20. ^ Hoffman & Grimm 1982, p. 20.
  21. ^ Testimony of Edward Wilding”. 2014年10月6日閲覧。
  22. ^ a b Broad 1997.
  23. ^ a b c d Ballard 1987, p. 25.
  24. ^ Zumdahl & Zumdahl 2008, p. 457.
  25. ^ Materials Today, 2008.
  26. ^ McCarty & Foecke 2012, p. 83.
  27. ^ Broad 2008.
  28. ^ Verhoeven 2007, p. 49.
  29. ^ a b Ewers 2008.
  30. ^ Mills 1993, p. 46.
  31. ^ Butler 1998, pp. 67–9.
  32. ^ Barratt 2010, p. 151.
  33. ^ Barratt 2010, p. 156.
  34. ^ Aldridge 2008, p. 86.
  35. ^ Ballard 1987, p. 71.
  36. ^ Barczewski 2006, p. 18.
  37. ^ a b c Mersey 1912.
  38. ^ a b c Ballard 1987, p. 22.
  39. ^ Barczewski 2006, p. 147.
  40. ^ a b Butler 1998, p. 71.
  41. ^ Butler 1998, p. 72.
  42. ^ Halpern & Weeks 2011, p. 112.
  43. ^ Barczewski 2006, p. 148.
  44. ^ Halpern & Weeks 2011, p. 106.
  45. ^ Halpern & Weeks 2011, p. 116.
  46. ^ a b Halpern & Weeks 2011, p. 118.
  47. ^ Halpern & Weeks 2011, p. 109.
  48. ^ Bartlett 2011, p. 120.
  49. ^ Bartlett 2011, pp. 118–9.
  50. ^ a b c d Barczewski 2006, p. 20.
  51. ^ Bartlett 2011, p. 121.
  52. ^ Bartlett 2011, p. 126.
  53. ^ Bartlett 2011, p. 116.
  54. ^ Beesley 1960, pp. 32–3.
  55. ^ a b Bartlett 2011, p. 124.
  56. ^ Lord 1987, p. 90.
  57. ^ a b c Barczewski 2006, p. 21.
  58. ^ a b Bartlett 2011, p. 123.
  59. ^ Hutchings & de Kerbrech 2011, p. 112.
  60. ^ Hutchings & de Kerbrech 2011, p. 116.
  61. ^ Bartlett 2011, p. 30.
  62. ^ Marshall 1912, p. 141.
  63. ^ a b Butler 1998, pp. 250–2.
  64. ^ Bartlett 2011, p. 106.
  65. ^ Cox 1999, pp. 50–2.
  66. ^ a b Mowbray 1912, p. 279.
  67. ^ Aldridge 2008, p. 47.
  68. ^ a b Cox 1999, p. 52.
  69. ^ Lord 2005, p. 37.
  70. ^ a b Lord 1976, pp. 73–4.
  71. ^ Lord 1976, p. 87.
  72. ^ Bartlett 2011, p. 150.
  73. ^ Lord 1976, p. 78.
  74. ^ Halpern & Weeks 2011, p. 126.
  75. ^ Lord 1976, p. 76.
  76. ^ Butler 1998, p. 226.
  77. ^ a b Butler 1998, p. 225.
  78. ^ a b Gleicher 2006, p. 40.
  79. ^ a b c Ballard 1987, p. 24.
  80. ^ Lord 1976, p. 90.
  81. ^ Bartlett 2011, p. 147.
  82. ^ Eaton & Haas 1994, p. 150.
  83. ^ Bartlett 2011, p. 145.
  84. ^ Bartlett 2011, p. 152.
  85. ^ Butler 1998, p. 98.
  86. ^ Butler 1998, p. 113.
  87. ^ http://www.titanicinquiry.org/USInq/AmInq09Moore01.php
  88. ^ Butler 1998, p. 159.
  89. ^ Butler 1998, p. 161.
  90. ^ Butler 1998, p. 160.
  91. ^ Butler 1998, p. 162.
  92. ^ Butler 1998, p. 163.
  93. ^ a b c Lord 1976, p. 84.
  94. ^ Lord 1976, p. 85.
  95. ^ a b Barczewski 2006, p. 284.
  96. ^ Howells 1999, p. 96.
  97. ^ Howells 1999, p. 95.
  98. ^ Lord 1976, pp. 91–5.
  99. ^ Lord 1976, p. 97.
  100. ^ Bartlett 2011, p. 131.
  101. ^ a b Ballard 1987, p. 26.
  102. ^ Regal 2005, p. 34.
  103. ^ Eaton & Haas 1994, p. 153.
  104. ^ Eaton & Haas 1994, p. 154.
  105. ^ a b Eaton & Haas 1994, p. 155.
  106. ^ a b c Ballard 1987, p. 222.
  107. ^ a b Winocour 1960, p. 296.
  108. ^ Testimony of Arthur Bright”. 2014年10月6日閲覧。
  109. ^ Testimony of Hugh Woolner”. 2014年10月6日閲覧。
  110. ^ Butler 1998, p. 130.
  111. ^ Butler 1998, p. 135.
  112. ^ a b Barczewski, Stephanie (2006). Titanic: A Night Remembered. A&C Black. pp. 132–133. ISBN 9781852855000. 
  113. ^ a b Howells 1999, p. 128.
  114. ^ Howells 1999, p. 129.
  115. ^ Richards 2001, p. 395.
  116. ^ Richards 2001, p. 396.
  117. ^ Turner 2011, p. 194.
  118. ^ Gracie 1913, p. 20.
  119. ^ a b Winocour 1960, p. 317.
  120. ^ a b Winocour 1960, pp. 138–9.
  121. ^ Chirnside 2004, p. 177.
  122. ^ a b Bartlett 2011, p. 224.
  123. ^ Ballard 1987, pp. 40–41.
  124. ^ Testimony of Harold Bride at the US Inquiry”. 2014年10月6日閲覧。
  125. ^ Mrs. Eleanor Widener, first class passenger”. 2014年10月6日閲覧。
  126. ^ Shots in the dark”. 2014年10月6日閲覧。
  127. ^ Cries in the Night”. 2014年10月6日閲覧。
  128. ^ Captain Edward John Smith”. 2014年10月6日閲覧。
  129. ^ A Night to Remember. http://books.google.it/books?id=67R5gy-fZhEC&pg=PT87&lpg=PT87&dq=All+right+boys.+Good+luck+and+God+bless+you.+smith+collapsible+b&source=bl&ots=75VhmKWjyv&sig=_qgi4IC9UL-BKepA-lyaUdXsyf8&hl=it&sa=X&ei=quixUObGKo3V4QTl8IHwCA&ved=0CGoQ6AEwCA 2014年10月6日閲覧。. 
  130. ^ Barratt 2010, p. 131.
  131. ^ Lynch 1998, p. 117.
  132. ^ Gracie 1913, p. 61.
  133. ^ Winocour 1960, p. 316.
  134. ^ a b Winocour 1960, p. 299.
  135. ^ Barczewski 2006, p. 28.
  136. ^ Lord 2005, p. 166.
  137. ^ Gleicher 2006, p. 229.
  138. ^ Ballard 1987, p. 202.
  139. ^ a b Beesley 1960, p. 47.
  140. ^ Mowbray 1912, p. 70.
  141. ^ Halpern & Weeks 2011, p. 119.
  142. ^ Barczewski 2006, p. 29.
  143. ^ Titanic Sinking CGI”. National Geographic Channel. 2016年2月17日閲覧。
  144. ^ Ballard 1987, p. 29.
  145. ^ Gracie 1913, p. 58.
  146. ^ Ballard 1987, p. 201.
  147. ^ Kuntz 1998, p. xiii.
  148. ^ Uchupi, Ballard & Lange 1986.
  149. ^ a b Ballard 1987, p. 206.
  150. ^ a b Ballard 1987, p. 205.
  151. ^ a b c Butler 1998, p. 140.
  152. ^ Butler 1998, p. 139.
  153. ^ a b Aldridge 2008, p. 56.
  154. ^ Barratt 2010, pp. 199–200.
  155. ^ Barratt 2010, p. 177.
  156. ^ Gracie 1913, p. 89.
  157. ^ Testimony of Thomas Ranger”. 2014年10月6日閲覧。
  158. ^ Bartlett 2011, pp. 226–7.
  159. ^ Bartlett 2011, p. 228.
  160. ^ Bartlett 2011, p. 230.
  161. ^ Butler 1998, pp. 144–5.
  162. ^ Bartlett 2011, p. 232.
  163. ^ Bartlett 2011, p. 231.
  164. ^ a b c Bartlett 2011, p. 238.
  165. ^ Gracie 1913, p. 161.
  166. ^ a b Bartlett 2011, pp. 240–1.
  167. ^ a b Bartlett 2011, p. 242.
  168. ^ Bartlett 2011, p. 245.
  169. ^ Butler 1998, p. 154.
  170. ^ a b Butler 1998, p. 156.
  171. ^ Butler 1998, p. 155.
  172. ^ Butler 1998, p. 157.
  173. ^ Bartlett 2011, p. 255.
  174. ^ a b Bartlett 2011, p. 266.
  175. ^ a b Lord 1976, pp. 196–7.
  176. ^ Eaton & Haas 1994, p. 235.
  177. ^ Eaton & Haas 1994, pp. 296–300.
  178. ^ Eaton & Haas 1994, pp. 293–5.
  179. ^ Björkfors 2004, p. 59.
  180. ^ Beesley 1960, p. 81.
  181. ^ Barczewski 2006, p. 266.
  182. ^ Butler 1998, p. 173.
  183. ^ Bartlett 2011, p. 264.
  184. ^ Barczewski 2006, pp. 221–2.
  185. ^ Butler 1998, p. 181.
  186. ^ Butler 1998, p. 192.
  187. ^ a b Butler 1998, p. 195.
  188. ^ Butler 1998, p. 189.
  189. ^ Butler 1998, pp. 191, 196.
  190. ^ Barczewski 2006, p. 67.
  191. ^ a b Lynch 1998, p. 189.
  192. ^ Eaton & Haas 1994, p. 265.
  193. ^ Eaton & Haas 1987, p. 109.
  194. ^ a b Eaton & Haas 1994, p. 310.
  195. ^ Foster 1997, p. 14.
  196. ^ Ballard 1987, p. 82.
  197. ^ Bartlett 2011, p. 332.
  198. ^ Portman 12 November 1994.
  199. ^ Parisi 1998, p. 223.
  200. ^ McCarty & Foecke 2012, pp. 196–199.
  201. ^ Butler 1998, p. 235.
  202. ^ Eaton & Haas 1994, p. 179.
  203. ^ Howells 1999, p. 94.
  204. ^ Copping, Jasper (2014年1月19日). “Lost child of the Titanic and the fraud that haunted her family”. The Telegraph. http://www.telegraph.co.uk/history/10581757/Lost-child-of-the-Titanic-and-the-fraud-that-haunted-her-family.html 2014年1月20日閲覧。 

参考文献[編集]

Books

  • Aldridge, Rebecca (2008). The Sinking of the Titanic. New York: Infobase Publishing. ISBN 978-0-7910-9643-7. 
  • Ballard, Robert D. (1987). The Discovery of the Titanic. New York: Warner Books. ISBN 978-0-446-51385-2. 
  • Barczewski, Stephanie (2006). Titanic: A Night Remembered. London: Continuum International Publishing Group. ISBN 978-1-85285-500-0. 
  • Barratt, Nick (2010). Lost Voices From the Titanic: The Definitive Oral History. London: Random House. ISBN 978-1-84809-151-1. 
  • Bartlett, W.B. (2011). Titanic: 9 Hours to Hell, the Survivors' Story. Stroud, Gloucestershire: Amberley Publishing. ISBN 978-1-4456-0482-4. 
  • Beesley, Lawrence (1960) [1912]. “The Loss of the SS. Titanic; its Story and its Lessons”. The Story of the Titanic as told by its Survivors. London: Dover Publications. ISBN 978-0-486-20610-3. 
  • Björkfors, Peter (2004). “The Titanic Disaster and Images of National Identity in Scandinavian Literature”. In Bergfelder, Tim; Street, Sarah. The Titanic in myth and memory: representations in visual and literary culture. London: I.B. Tauris. ISBN 978-1-85043-431-3. 
  • Brown, David G. (2000). The Last Log of the Titanic. New York: McGraw-Hill Professional. ISBN 978-0-07-136447-8. 
  • Butler, Daniel Allen (1998). Unsinkable: The Full Story of RMS Titanic. Mechanicsburg, PA: Stackpole Books. ISBN 978-0-8117-1814-1. 
  • Chirnside, Mark (2004). The Olympic-class ships : Olympic, Titanic, Britannic. Stroud, UK: Tempus. ISBN 978-0-7524-2868-0. 
  • Cox, Stephen (1999). The Titanic Story: Hard Choices, Dangerous Decisions. Chicago: Open Court Publishing. ISBN 978-0-8126-9396-6. 
  • Eaton, John P.; Haas, Charles A. (1987). Titanic: Destination Disaster: The Legends and the Reality. Wellingborough, UK: Patrick Stephens. ISBN 978-0-85059-868-1. 
  • Eaton, John P.; Haas, Charles A. (1994). Titanic: Triumph and Tragedy. Wellingborough, UK: Patrick Stephens. ISBN 978-1-85260-493-6. 
  • Everett, Marshall (1912). Wreck and Sinking of the Titanic. Chicago: Homewood Press. OCLC 558974511. 
  • Foster, John Wilson (1997). The Titanic Complex. Vancouver: Belcouver Press. ISBN 978-0-9699464-1-0. 
  • Georgiou, Ioannis (2000). “The Animals on board the Titanic”. Atlantic Daily Bulletin (Southampton: British Titanic Society). ISSN 0965-6391. 
  • Gittins, Dave; Akers-Jordan, Cathy; Behe, George (2011). “Too Few Boats, Too Many Hindrances”. In Halpern, Samuel. Report into the Loss of the SS Titanic: A Centennial Reappraisal. Stroud, UK: The History Press. ISBN 978-0-7524-6210-3. 
  • Gleicher, David (2006). The Rescue of the Third Class on the Titanic: A Revisionist History. Research in Maritime History, No. 31. St. John's, NL: International Maritime Economic History Association. ISBN 978-0-9738934-1-0. 
  • Gracie, Archibald (1913). The Truth about the Titanic. New York: M. Kennerley. https://archive.org/details/truthabouttitani00grac. 
    • Also published as: Gracie, Archibald (2009). Titanic: A Survivor's Story. The History Press. ISBN 978-0-7509-4702-2. 
  • Halpern, Samuel (2011). “Account of the Ship's Journey Across the Atlantic”. In Halpern, Samuel. Report into the Loss of the SS Titanic: A Centennial Reappraisal. Stroud, UK: The History Press. ISBN 978-0-7524-6210-3. 
  • Halpern, Samuel; Weeks, Charles (2011). “Description of the Damage to the Ship”. In Halpern, Samuel. Report into the Loss of the SS Titanic: A Centennial Reappraisal. Stroud, UK: The History Press. ISBN 978-0-7524-6210-3. 
  • Hoffman, William; Grimm, Jack (1982). Beyond Reach: The Search For The Titanic. New York: Beaufort Books. ISBN 978-0-8253-0105-6. 
  • Howells, Richard Parton (1999). The Myth of the Titanic. New York: Palgrave Macmillan. ISBN 978-0-312-22148-5. 
  • Hutchings, David F.; de Kerbrech, Richard P. (2011). RMS Titanic 1909–12 (Olympic Class): Owners' Workshop Manual. Sparkford, Yeovil: Haynes. ISBN 978-1-84425-662-4. 
  • Kuntz, Tom (1998). The Titanic Disaster Hearings. New York: Pocket Book. ISBN 978-1-56865-748-6. 
  • Lord, Walter (1976). A Night to Remember. London: Penguin Books. ISBN 978-0-14-004757-8. 
  • Lord, Walter (2005) [1955]. A Night to Remember. New York: St. Martin's Griffin. ISBN 978-0-8050-7764-3. 
  • Lord, Walter (1987). The Night Lives On. London: Penguin Books. ISBN 978-0-670-81452-7. 
  • Lynch, Donald (1998). Titanic: An Illustrated History. New York: Hyperion. ISBN 978-0-7868-6401-0. 
  • Marshall, Logan (1912). Sinking of the Titanic and Great Sea Disasters. Philadelphia: The John C. Winston Co. OCLC 1328882. 
  • McCarty, Jennifer Hooper; Foecke, Tim (2012) [2008]. What Really Sank The Titanic – New Forensic Evidence. New York: Citadel. ISBN 978-0-8065-2895-3. 
  • Mills, Simon (1993). RMS Olympic – The Old Reliable. Dorset: Waterfront Publications. ISBN 0-946184-79-8. 
  • Mowbray, Jay Henry (1912). Sinking of the Titanic. Harrisburg, PA: The Minter Company. OCLC 9176732. 
  • Parisi, Paula (1998). Titanic and the Making of James Cameron. New York: Newmarket Press. ISBN 978-1-55704-364-1. 
  • Regal, Brian (2005). Radio: The Life Story of a Technology. Westport, CT: Greenwood Publishing Group. ISBN 978-0-313-33167-1. 
  • Richards, Jeffrey (2001). Imperialism and Music: Britain, 1876–1953. Manchester, UK: Manchester University Press. ISBN 978-0-7190-6143-1. 
  • Turner, Steve (2011). The Band that Played On. Nashville, TN: Thomas Nelson. ISBN 978-1-59555-219-8. 
  • Verhoeven, John D. (2007). Steel Metallurgy for the Non-Metallurgist. Materials Park, OH: ASM International. ISBN 978-0-87170-858-8. 
  • Winocour, Jack, ed (1960). The Story of the Titanic as told by its Survivors. London: Dover Publications. ISBN 978-0-486-20610-3. 
  • Zumdahl, Steven S.; Zumdahl, Susan A. (2008). Chemistry. Belmont, CA: Cengage Learning. ISBN 978-0-547-12532-9. 

Journal articles

News reports

Investigations

外部リンク[編集]