ロマン・ポランスキー
ロマン・ポランスキー Roman Polanski | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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![]() 2013年 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本名 | Rajmund Roman Liebling | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1933年8月18日(87歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出生地 |
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国籍 |
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職業 | 映画監督 脚本家 映画プロデューサー 俳優 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
配偶者 |
Barbara Lass (1959-1962) シャロン・テート (1968-1969) エマニュエル・セニエ (1989-) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『水の中のナイフ』 『袋小路』 『ローズマリーの赤ちゃん』 『チャイナタウン』 『テス』 『戦場のピアニスト』 『ゴーストライター』 『おとなのけんか』 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ロマン・ポランスキー(Roman Polanski, 1933年8月18日 - )は、ポーランド出身の映画監督。
プロフィール[編集]
生い立ち[編集]
ユダヤ教徒のポーランド人の父親とカトリック教徒でロシア生まれのポーランド人の母親の間にフランスの首都パリで生まれる[1][2][3][4]。出生時の名前はライムント・ロマン・リープリンク(Rajmund Roman Liebling)。3歳のとき一家はポーランドのクラクフに引越し、そこで幼少期を過ごした。異父姉弟の姉がおり、のちにアウシュビッツに連行されたが、生き延び、その後、パリで暮らしたという。
第二次世界大戦時はドイツがクラクフに作ったユダヤ人ゲットーに押し込められた。ゲットーのユダヤ人が一斉に逮捕される直前、父親はゲットーの有刺鉄線を切って穴を作り、そこから息子を逃がした。父母はドイツ人に別々に連行された。母親はアウシュビッツでドイツ人に虐殺された。また、母親はこの時、妊娠していたとポランスキーは証言している。父親はドイツ人により採石場で強制労働をさせられ、終戦まで生き残った。
また自身も、ドイツに占領されたフランスのヴィシー政権下における「ユダヤ人狩り」から逃れるため転々と逃亡した。この体験がポランスキーの作品に深く影響を与えることとなった。
俳優[編集]
第二次世界大戦終結後にポーランドへ戻り、生き延びた父親と再会した。その後は映画に興味を持ち、ウッチ映画大学で学んだ後、冷戦下の1950年代にポーランドで俳優として活動を始める。いくつかのポーランド映画に出演後、自由な表現活動を求めてフランスに移った。
映画監督[編集]
1962年に『水の中のナイフ』で監督デビューする。共産党一党独裁体制のポーランドでは黙殺されたが、西側諸国、及びアメリカで絶賛され、ポーランド代表作品初のアカデミー外国語映画賞への出品、及びノミネートも果たした。その評判に惹かれるように1963年にイギリスへ渡り、映画『反撥』と『袋小路』で二年連続ベルリン国際映画祭の銀熊賞 (審査員グランプリ)と最高賞の金熊賞を受賞。更なる評価を高める一方で、アメリカのヒューストンに居を構え、ハリウッド映画『ローズマリーの赤ちゃん』を監督。作品は大ヒットし、ポランスキー自身もアカデミー脚色賞にノミネートされ、ハリウッドの寵児となる。
シャロン・テートとの結婚と悲劇[編集]
イギリスにて製作していた『吸血鬼』に出演した女優シャロン・テートと1968年に結婚する(2度目の結婚)。しかし翌1969年8月9日、テートは友人らとロサンゼルスの自宅でパーティーの最中、チャールズ・マンソン率いるカルト教団に襲われ惨殺された。当時、テートはポランスキーの子を身ごもっており、妊娠8ヶ月だった。
ポランスキーはロンドンで映画の脚本執筆中に悲報を受け、アメリカに帰国した。ロバート・エヴァンズの自伝『くたばれ!ハリウッド(原題The Kid Stays in the Picture)』によると、ポランスキーは憔悴しきっており、医師による鎮静剤の投与が必要だったという。この事件でポランスキーは、当初マスコミの餌食となり、根拠のない中傷を受けた。
しかも、この悲劇は人違い殺人であった。事件が起きた邸宅は、ポランスキー夫妻が借りる前は、ドリス・デイの息子でミュージシャンのテリー・メルチャーが居住していた。ミュージシャン志望だったマンソンがメルチャーを訪ねたが、プロへの道に繋がらず、その逆恨みが襲撃の動機であった。
事件当夜、スティーブ・マックイーン、パラマウントの重役だったロバート・エヴァンズ、ポランスキーの格闘技の師匠であったブルース・リーなどもパーティーに招かれていたが、行かなかったことで惨劇を免れた。
事件後の復活と少女への淫行容疑[編集]
テートの殺害事件により、憔悴しきったポランスキーはロサンゼルスから、ヨーロッパへ戻った。しかし、1974年、『チャイナタウン』の監督を依頼され、アメリカに帰国。脚本家のロバート・タウンとラストをめぐり対立しながらも、完成した映画は高評価を得て、アカデミー監督賞にノミネート。ゴールデングローブ賞 監督賞と英国アカデミー賞 監督賞を受賞した。
ポランスキーはアメリカに絶望するが立ち直り、作品を撮り続けた。しかし1977年にジャック・ニコルソン邸で、当時13歳の子役モデルに性的行為(強姦・アナルセックス)をした嫌疑をかけられ逮捕、裁判では司法取引により法定強姦の有罪の判決(実刑 懲役50年以上という換算)を受ける。ポランスキーは法廷の外では無実を主張し、「これは冤罪であり、本人は少女とその母親による恐喝の対象になっていた」と述べている[5]。
ポランスキーは42日間の勾留後、釈放されている。しかし、事件の担当判事がポランスキーを投獄後、国外追放にすることを示唆、再び収監する旨を地方検事と彼の弁護士に告げた。保釈中に逃亡したことが通説となっているが、正確には釈放後の国外脱出である。
ポランスキーは出廷を拒否。アメリカを捨てることを決意し、有効だったパスポートを手にロンドンへ渡航、その後パリへと移住した。以後、アメリカへ一度も入国していない。しかし、この件はアメリカの司法当局に遺恨を残し、チューリッヒでの身柄拘束に繋がることとなる。
1978年にフランスに移り、市民権を取得した。1979年の作品『テス』で主演をつとめることになるナスターシャ・キンスキーとは、彼女が15歳の頃から性的関係を結んでいた[6][7]。2010年に女優のシャーロット・ルイスが「わたしもロマン・ポランスキーの被害者のひとり。彼は16歳のわたしに最悪の方法で性的虐待を加えた」と記者会見で公表、監督のアパートで虐待を受けたことを明らかにした。1989年に女優のエマニュエル・セニエと3度目の結婚をしている。
2017年、アーティストのマリアンヌ・バーナードは、10歳の時にカリフォルニアの海岸でポランスキーから裸になるよう要求され、淫らな行いをされたと証言した。ポランスキーは証言の内容を否定した[8]。
現在[編集]
アメリカ脱出後は欧州を活動拠点にし、『フランティック』や『赤い航路』『死と処女』『ナインスゲート』など意欲的に作品を発表。2002年公開の『戦場のピアニスト』で第55回カンヌ国際映画祭パルムドール及びアカデミー監督賞を受賞した(上記の問題により逮捕・収監の可能性があるため授賞式には参加せず)。この受賞当時ポランスキーは69歳7ヶ月で、同賞の最年長受賞者となった。この記録はクリント・イーストウッドが74歳で受賞した2005年に破られた。また、自身が墓まで持っていきたい作品を問われ、『戦場のピアニスト』と回答している。
2009年9月、チューリッヒ映画祭の「生涯功労賞」授与式に出席するためスイスに滞在中、前述の少女への淫行容疑に関連してスイス司法当局に身柄を拘束された[9]。アメリカは身柄引き渡しを要求したが、最終的にスイスはこれを拒否、2010年7月12日に釈放を決定した[10]。
2010年には『ゴーストライター』で第60回ベルリン国際映画祭監督賞、ヨーロッパ映画賞では作品賞、監督賞、脚本賞を受賞し、2019年の『アン・オフィサー・アンド・ア・スパイ』では第76回ヴェネツィア国際映画祭審査員大賞を受賞するなど、現在でも世界的な活動を続けている。
2018年5月に前述の性的行為を理由としてビル・コズビーとともに映画芸術科学アカデミーから除名された。[11]
その他[編集]
- ポーランド語、ロシア語、英語、フランス語、スペイン語、イタリア語に堪能。ただし英語には強い訛りがある。
- 日本では慣用的にポランスキーと呼ばれているが、ポーランド語ではPolańskiと綴り[pɔˈlaɲskʲi](ポラィンスキィ)と読む。
- 1976年に香港で開催されたミス・ユニバース世界大会で、バレリーナのマーゴ・フォンテイン、女優のブリット・エクランドらと共に審査員を務めた。
主な作品[編集]
監督[編集]
- タンスと二人の男 DWAJ LUDZIE Z SZAFA / TWO MEN AND A WARDROBE(1958年)…短編(18')
- 水の中のナイフ Nóż w wodzie (1962年)
- 世界詐欺物語 Le plus belles escroqueries du monde (1964年)
- 反撥 Repulsion (1965年)
- 袋小路 Cul-de-sac (1966年)
- 吸血鬼 The Fearless Vampire Killers (1967年)
- ローズマリーの赤ちゃん Rosemary's Baby (1968年)
- マクベス Macbeth (1971年)
- ポランスキーの 欲望の館 What? (1972年)
- チャイナタウン Chinatown (1974年)
- テナント/恐怖を借りた男 The Tenant / Le Locataire (1976年)
- テス Tess (1979年)
- ポランスキーの パイレーツ Pirates (1986年)
- フランティック Frantic (1988年)
- 赤い航路 Bitter Moon (1992年)
- 死と処女 Death and the Maiden (1994年)
- ナインスゲート The Ninth Gate (1999年)
- 戦場のピアニスト The Pianist (2002年)
- オリバー・ツイスト Oliver Twist (2005年)
- それぞれのシネマ To Each His Own Cinema (2007年)
- ゴーストライター The Ghost Writer (2010年)
- おとなのけんか Carnage (2011年)
- 毛皮のヴィーナス La Vénus à la fourrure (2013年)
- 告白小説、その結末 D'après une histoire vraie (2017年)
- J'accuse (2019年)
出演[編集]
- 世代 Pokolenie (1954年)
- マジック・クリスチャン The Magic Christian (1969年)
- 処女の生血 Blood for Dracula (1974年)
- バック・イン・ザ・USSR Back in the U.S.S.R. (1992年)
- 他人のそら似 Grosse fatigue (1994年)
- 記憶の扉 Pura formalità, Una (1994年)
- ラッシュアワー3 Rush Hour 3 (2007年)
受賞歴[編集]
賞 | 年 | 部門 | 作品 | 結果 |
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ヴェネツィア国際映画祭 | 1962年 | 国際映画批評家連盟賞 | 『水の中のナイフ』 | 受賞 |
1993年 | 栄誉金獅子賞 | - | 受賞 | |
2019年 | 審査員大賞 | 『J'accuse』 | 受賞 | |
国際映画批評家連盟賞 | 受賞 | |||
アカデミー賞 | 1963年 | 外国語映画賞 | 『水の中のナイフ』 | ノミネート |
1968年 | 脚色賞 | 『ローズマリーの赤ちゃん』 | ノミネート | |
1974年 | 作品賞 | 『チャイナタウン』 | ノミネート | |
監督賞 | ノミネート | |||
1980年 | 作品賞 | 『テス』 | ノミネート | |
監督賞 | ノミネート | |||
2002年 | 作品賞 | 『戦場のピアニスト』 | ノミネート | |
監督賞 | 受賞 | |||
英国アカデミー賞 | 1962年 | 総合作品賞 | 『水の中のナイフ』 | ノミネート |
1974年 | 作品賞 | 『チャイナタウン』 | ノミネート | |
監督賞 | 受賞 | |||
2002年 | 作品賞 | 『戦場のピアニスト』 | 受賞 | |
監督賞 | 受賞 | |||
ベルリン国際映画祭 | 1965年 | 審査員特別賞 | 『反撥』 | 受賞 |
国際映画批評家連盟賞 | 受賞 | |||
1966年 | 金熊賞 | 『袋小路』 | 受賞 | |
2010年 | 監督賞 | 『ゴーストライター』 | 受賞 | |
ゴールデングローブ賞 | 1968年 | 脚本賞 | 『ローズマリーの赤ちゃん』 | ノミネート |
1974年 | 作品賞 (ドラマ部門) | 『チャイナタウン』 | 受賞 | |
監督賞 | 受賞 | |||
1980年 | 監督賞 | 『テス』 | ノミネート | |
外国語映画賞 | 受賞 | |||
2002年 | 作品賞 (ドラマ部門) | 『戦場のピアニスト』 | ノミネート | |
全米監督協会賞 | 1968年 | 長編映画監督賞 | 『ローズマリーの赤ちゃん』 | ノミネート |
1974年 | 長編映画監督賞 | 『チャイナタウン』 | ノミネート | |
2002年 | 長編映画監督賞 | 『戦場のピアニスト』 | ノミネート | |
フランス映画批評家協会賞 | 1969年 | 外国語映画賞 | 『ローズマリーの赤ちゃん』 | 受賞 |
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 | 1969年 | 外国監督賞 | 『ローズマリーの赤ちゃん』 | 受賞 |
2003年 | 外国映画賞 | 『戦場のピアニスト』 | 受賞 | |
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 | 1971年 | 作品賞 | 『マクベス』 | 受賞 |
ボディル賞 | 1975年 | アメリカ映画賞 | 『チャイナタウン』 | 受賞 |
ニューヨーク映画批評家協会賞 | 1980年 | 外国語映画賞 | 『テス』 | 次点 |
ロサンゼルス映画批評家協会賞 | 1980年 | 監督賞 | 『テス』 | 受賞 |
ボストン映画批評家協会賞 | 1980年 | 監督賞 | 『テス』 | 受賞 |
2002年 | 作品賞 | 『戦場のピアニスト』 | 受賞 | |
監督賞 | 受賞 | |||
セザール賞 | 1980年 | 作品賞 | 『テス』 | 受賞 |
監督賞 | 受賞 | |||
2003年 | 作品賞 | 『戦場のピアニスト』 | 受賞 | |
監督賞 | 受賞 | |||
2011年 | 作品賞 | 『ゴーストライター』 | ノミネート | |
監督賞 | 受賞 | |||
脚色賞 | 受賞 | |||
2012年 | 脚色賞 | 『おとなのけんか』 | 受賞 | |
2014年 | 作品賞 | 『毛皮のヴィーナス』 | ノミネート | |
監督賞 | 受賞 | |||
脚色賞 | ノミネート | |||
2020年 | 作品賞 | 『J'accuse』 | ノミネート | |
監督賞 | 受賞 | |||
脚色賞 | 受賞 | |||
ヨーロッパ映画賞 | 1999年 | 世界的貢献賞 | 『ナインスゲート』 | 受賞 |
2002年 | 作品賞 | 『戦場のピアニスト』 | ノミネート | |
監督賞 | ノミネート | |||
2006年 | 生涯貢献賞 | - | 受賞 | |
2010年 | 作品賞 | 『ゴーストライター』 | 受賞 | |
監督賞 | 受賞 | |||
脚本賞 | 受賞 | |||
2012年 | 脚本賞 | 『おとなのけんか』 | ノミネート | |
2019年 | 作品賞 | 『J'accuse』 | ノミネート | |
監督賞 | ノミネート | |||
脚本賞 | ノミネート | |||
ストックホルム国際映画祭 | 1999年 | 生涯功労賞 | - | 受賞 |
ルネ・クレール賞 | 1999年 | - | - | 受賞 |
全米映画批評家協会賞 | 2002年 | 作品賞 | 『戦場のピアニスト』 | 受賞 |
監督賞 | 受賞 | |||
2010年 | 監督賞 | 『ゴーストライター』 | 3位 | |
脚本賞 | 3位 | |||
カンヌ国際映画祭 | 2002年 | パルム・ドール | 『戦場のピアニスト』 | 受賞 |
サンフランシスコ映画批評家協会賞 | 2002年 | 作品賞 | 『戦場のピアニスト』 | 受賞 |
フォトグラマス・デ・プラータ | 2002年 | 外国語映画賞 | 『戦場のピアニスト』 | 受賞 |
ゴヤ賞 | 2002年 | ヨーロッパ映画賞 | 『戦場のピアニスト』 | 受賞 |
ナストロ・ダルジェント賞 | 2003年 | 外国監督賞 | 『戦場のピアニスト』 | 受賞 |
キネマ旬報ベスト・テン | 2003年 | 外国映画ベスト・テン | 『戦場のピアニスト』 | 1位 |
2011年 | 外国映画ベスト・テン | 『ゴーストライター』 | 1位 | |
リュミエール賞 | 2011年 | 作品賞 | 『ゴーストライター』 | ノミネート |
監督賞 | 受賞 | |||
脚本賞 | 受賞 | |||
2014年 | 脚本賞 | 『毛皮のヴィーナス』 | 受賞 | |
2020年 | 作品賞 | 『J'accuse』 | ノミネート | |
監督賞 | ノミネート | |||
脚色賞 | ノミネート |
脚注[編集]
- ^ The Guardian profile: Roman Polanski | The Guardian | Guardian Unlimited
- ^ The religion of director Roman Polanski
- ^ Roman Polanski | UXL Newsmakers | Find Articles at BNET.com
- ^ Crisis Magazine
- ^ Polanski, Roman (1984). Roman by Polanski. William Morrow & Co.. ISBN 978-0688026219
- ^ Leaming, Barbera Polanski, A Biography: The Filmmaker as Voyeur, New York: Simon and Schuster (1981), p. 155.
- ^ Roman Polanski: Wanted and Desired (directed by Marina Zenovich), HBO in 2008.
- ^ “Roman Polanski accused of sexually assaulting 10-year-old girl in 1975”. ガーディアン (2017年10月23日). 2020年3月1日閲覧。
- ^ “Polanski arrested in connection with sex charge”. 2009年9月27日閲覧。
- ^ “ポランスキー監督釈放、米への移送はスイス拒否” ((日本語)). 読売新聞. (2010年7月13日) 2010年7月13日閲覧。
- ^ “米アカデミー、コズビー氏とポランスキー氏を除名 過去の性的暴行で” (英語). BBCニュース. (2018年5月4日) 2018年6月10日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 公式ウェブサイト(英語)[リンク切れ]
- Roman Polanski - インターネット・ムービー・データベース(英語)
- ロマン・ポランスキー - allcinema
- ロマン・ポランスキー - KINENOTE
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