本多猪四郎

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ほんだ いしろう
本多 猪四郎
本多 猪四郎
1965年
生年月日 (1911-05-07) 1911年5月7日
没年月日 (1993-02-28) 1993年2月28日(81歳没)
出生地 日本の旗 山形県東田川郡朝日村(現・鶴岡市
職業 映画監督脚本家
ジャンル 映画テレビドラマ
活動内容 特撮など
主な作品
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本多 猪四郎(ほんだ いしろう[1]1911年明治44年)5月7日[2][3] - 1993年平成5年)2月28日[4][1])は日本映画監督山形県[出典 1]東田川郡朝日村(現・鶴岡市)出身[6]東宝特撮をはじめとする数多くの映画を演出した。

年生まれの四男であったことから「猪四郎」と命名された[7][8]。名前の読みを「いのしろう」とした書が多く出版されており[9]、また本人もニックネームで「いのさん[3]」「いのしろさん」などと呼ばれることが多かったが、正しい読みは「いしろう」[7][3]。その影響を受けたためか、海外の文献でも"Ishiro"と"Inoshiro"が混在している。

経歴[編集]

山形県鶴岡市湯殿村七五三掛、湯殿山注連寺一山、本多龍傳院(ほんだりゅうでんいん)住職である父・本多芳寛と母・本多みよの末っ子として生まれる。3人の兄と姉がいる。10歳の時に父親が東京都高井戸にある医王寺住職となるため上京し、杉並区立高井戸小学校に転校する[6]。その後神奈川県に引っ越し、攻玉社中学校・高等学校に入学[6]

1931年に新設された日本大学芸術学部映画科の第1期生として入学[6]。22歳の時に同大学の講師である森岩雄の勧めで金曜会に入会[2]1933年8月に卒業目前にPCL東宝の前身)に入社し[出典 2]1934年に大学を卒業。山本嘉次郎成瀬巳喜男の助監督につく[出典 3]。同期で山本門下の黒澤明谷口千吉は親友である[4][3]1939年3月にはスクリプターの山崎きみ(本多きみ)と結婚[6]。入社後には3度徴兵された。

特に最初に入営した歩兵第1連隊では将校が二・二六事件を起こしたことから、事件後の部隊が満洲に送られてしまい、通常2年で済む現役が長引いた。復帰後は軍に再召集され、日中戦争に従軍。終戦は中国で迎え[6]、半年間捕虜となっていた[9]。この間、本多の兄弟はすべて他界していた。1946年、中国から引き上げてきた本多は汽車で帰郷中に原爆で壊滅した広島を目の当たりにし、強い衝撃を受けた。

8年間も軍にいたため[1]、山本門下の3人のうち最も古参だったにもかかわらず、監督昇進は黒澤(1943年姿三四郎』)、谷口(1947年銀嶺の果て』)に先を越される形となっていた。1949年、短編ドキュメンタリー『日本産業地理大系第一篇 国立公園伊勢志摩』で監督デビュー[10]。本作は日本で初めて、本格的な水中撮影が行われた[11]1951年、本多が40歳の時にようやく『青い真珠』で劇映画を初監督する[出典 4]

太平洋の鷲』以降円谷英二とのコンビで多くの特撮映画を監督した[3]1954年の『ゴジラ』は全米で大ヒットを記録したため、一躍世界に名を知られる映画監督となる[2][4]。本多自身も『ゴジラ』を監督していなければ全く違う人生を歩んでいただろうとしている[9]。なお、『ゴジラ』では真夏の海上ロケを敢行したが、巡視船の上で上半身裸となって撮影に挑んだため、日焼けしすぎて背中に水ぶくれができてしまい、後年もその名残の染みだらけであったという[13]

1957年の『地球防衛軍』はMGM配給、1959年の『美女と液体人間』、1959年の『宇宙大戦争』、1961年の『モスラ』はコロムビア映画の配給、1962年の『キングコング対ゴジラ』と1967年の『キングコングの逆襲』はユニバーサル映画配給、1965年の『怪獣大戦争』と1966年の『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』はユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ配給で全米公開されるなど、担当した作品のほとんどが海外で公開された。なお、『キングコング対ゴジラ』では撮影中に斜面を30メートルも滑落してしまったが、負傷した腕を吊りながら撮影を続行したという。

しかしながら、プロデューサーの田中友幸からの評価は低く、1962年の『妖星ゴラス』の際に、「あなたの演出はおとなしすぎるという意見が多く、この作品の監督を任せるについても強い抵抗があった。その辺を十分に考えて返事をしてもらいたい。どうしても、そういう演出が出来ないというなら断ってくれていい。前々からそういう意見があって、私もそれには同感だ」(本多猪四郎の日記より)と辞退を勧められたという[14]

1965年に他の監督に先駆けて東宝専属契約を解除されフリーとなり1967年の『新婚さん』からはテレビシリーズの監督も行うようになる。『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』では、予算の都合などから本編・特撮一般体制となり、本多が特撮監督も兼ねる形となったが、中野昭慶によれば実際には監督 助手の中野が特撮を手掛けており、本多は子役と怪獣が絡む場面のみ担当したという[15]

1971年に東宝を正式退社。円谷との縁から『帰ってきたウルトラマン』や『ミラーマン』などの円谷プロダクション製作によるテレビ作品の監督を務めていた[2][4]

1975年の『メカゴジラの逆襲』を最後に監督作品はなく[12]、その後はゴルフ場で再会した黒澤明の勧めで『影武者』以降の黒澤の映画を演出補佐として支えた[4]。その主な仕事は子役を含めた演技指導やリハーサルの代行。1990年の『』ではそれ以外にB班の監督や特殊効果面の指揮も務めていた。70代を迎え助監督陣と大幅に年齢差が生じた黒澤の、同世代の補佐役として非常に重宝された。

現場への貢献度から『影武者』では共同監督としてのクレジットを黒澤から打診されるも固辞している。

まあだだよ』の撮影終了後、風邪をこじらせ1993年2月28日午後11時30分に呼吸不全のため、東京都世田谷区の病院で死去(享年81歳)[16]。本多の墓には次のような言葉を刻んだ碑が立っている。

「本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした 映画のために力いっぱいに働き十分に生きて本多らしく静かに一生を終えました 平成五年二月二十八日 黒澤明」。

妻のきみは2018年11月3日に死去した(享年100歳)[17]

本多を師とする大林宣彦監督による『漂流教室』と『異人たちとの夏』にカメオ出演したことがある。また、没後には前述の黒澤組にいた関係で交友があった米田興弘監督の『モスラ』と大林監督の『水の旅人 侍KIDS』(本作品は本多に捧げられた特撮映画)の2作品で、主人公の少年の祖父として本多の肖像が出演している。

メキシコ出身のギレルモ・デル・トロ監督が子供のころから慣れ親しんできたゴジラシリーズを含む日本の特撮怪獣映画やロボットアニメへのオマージュを込めた2013年のアメリカ映画『パシフィック・リム』では、エンドクレジットに「THIS FILM IS DEDICATED TO THE MEMORY OF MONSTER MASTERS RAY HARRYHAUSEN AND ISHIRŌ HONDA」(この映画をモンスターマスター、レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎に捧ぐ)との献辞が掲げられている。また、ゴジラ生誕60周年作品である2014年版『GODZILLA ゴジラ』には、監督のギャレス・エドワーズの案により、1954年版の登場人物である芹沢大助と監督である本多猪四郎からそれぞれ名前を引用した、芹沢猪四郎博士(演:渡辺謙)が登場した。

作風[編集]

撮影[編集]

『ゴジラ』のセットで(1954年)左端、半袖シャツが本多猪四郎。その隣で腰に手を当てているのが円谷英二である。その奥でカメラの後ろにいる人物は有川貞昌。

撮影技術、映画効果としての“特撮”に関わり続けた映画監督である一方、メロドラマ、サラリーマン喜劇、歌謡映画など幅広い作品がある。黒澤明が自分の作品に対して予算や時間のオーバーも辞さず、テーマや納得できる映像を追求した芸術家タイプだったのに対して、本多の作品は会社の求める企画を予算や時間を守って仕上げる職人タイプであった。『ゴジラ』もそうした会社から提示された企画の1つである。そんな黒澤と本多の違いを表現した言葉にこんなものがある。「“飯を作れ”というと、黒澤は食べきれないほどのフルコースを用意する。本多は綺麗に重箱に詰めてくる」

器用に何でもこなすことから、「本多ジアスターゼ」とあだ名されていた[18]

演出は概して淡々として破綻がなく堅実である。特撮映画では最大の見せ場である特撮シーンに水を差すことなく、あくまで一歩下がった位置を守っている。本多は、特撮映画では本編と特撮の区分が見分けられないのが理想であるとしており、ドラマは特撮が効果的に生かされるよう仕立てなければならないとしつつも、ドラマ部分をないがしろにしてもならないと述べている[13]

怪獣からの避難者や原住民の踊りなど、群衆シーンにも定評がある[4]土屋嘉男によると、本多の作品での警察官が避難民の交通整理をしているシーンに対して黒澤明は自分が演出するなら「警察官でも真っ先に逃げるようにする」と言ったが、同時に本多の演出を「猪さんの良心」と評し、本多が警察官の立場であれば「絶対に逃げなくて、交通整理をやる」と本多自身の人柄の現れであることを語っていたという[19]。『モスラ』に出演した小泉博は、本多は同作品での橋の上で赤ん坊を助けるシーンに力を入れていたと証言しており、本多の人柄が出ていたと述べている[20]

本多が特撮映画の演出でこだわったのは、超常現象を目の当たりにしての、演技者の目線の統一だった。俳優を決める際には、「子供が見る映画だからといって、真剣に演じられない人は私の映画には出てもらわなくて結構」と述べ、徹底したリアリズムを心がけた。佐原健二によれば、俳優の演技に関しては、特撮主体の映画で見られがちなオーバーアクションを極力避け、あくまで抑えた自然体で演じるよう指導されたという[21]。『メカゴジラの逆襲』などに出演した伊吹徹も、本多の作品では宇宙人でも背景がしっかり描かれ、宇宙人役の俳優にもリアルな人間像を要求していたと証言している[22]。また、伊吹によれば、本多は映画的な表現と舞台的な表現を使い分けていたという[22]

本多を師と仰ぐ大林宣彦によれば、黒澤明の映画『』に出演していたマーティン・スコセッシが、撮影前のメイクの間中「ミスター・ホンダはどこにいる?」と語り、本多との対面を熱望していたという。後日、スコセッシは本多や黒澤と共に撮影現場で記念写真を撮ったとのことである。

『ゴジラ』『ガス人間第一号』『メカゴジラの逆襲』など、特撮映画においても恋愛要素を描いているのが特徴である[12]。また、大林によれば晩年の本多が撮りたがっていた映画は、若い男女の恋愛を描いた映画であったという。

照明技師の高島利雄によれば、本多は地方ロケを好んでおり、旅先での食事について語っていたという[23]。『メカゴジラの逆襲』で助監督を務めた浅田英一は、本多は山中のロケで率先して登っていくなどアクティブな面もあったと証言している[24]

現場では終始にこやかであり、スタッフや俳優を怒ることなどは一度もなかったという[20]。性格のきわめて温厚であることは関係者に異論がない[出典 5]。特技監督の中野昭慶は、子供と動物の扱いもうまかったと証言している[18]。『モスラ』に子役として出演した田山雅充は、本多について第一印象は漫画の悪役のような顔と感じたが、実際には優しかったと述懐している[28]

ゴジラシリーズについては、「ゴジラを東宝チャンピオンまつりの仲間にしていてはいけない」と述べていたといい、ゴジラが初代から変質していったことに悔しさを感じていたという[29]。最後に手掛けた『メカゴジラの逆襲』では、「ゴジラ再生につながる作品にしたい」と語っていた[29]。『メカゴジラの逆襲』で脚本を手掛けた高山由紀子によれば、本多は打ち合わせでゴジラの動きを説明する際に自らゴジラの真似を行っていたといい、高山は本多がゴジラの重厚さを大切にしていることを感じたと述べている[30]

スタッフ[編集]

監督作品は当初は自分自身の手筆だったが中期に入ると脚本家まかせである。そんな本多作品の主な執筆者として馬淵薫村田武雄関沢新一がいる。ただし、クレジットされなくても、監督自身が加筆・修正していた。映画音楽は伊福部昭佐藤勝。晩年の演出補佐作品では池辺晋一郎が担当した。

また、特撮作品では円谷英二有川貞昌中野昭慶らが特殊技術、特技監督としてビジュアルイメージを支えた。円谷とは、本多が助監督を務めた『加藤隼戦闘隊』が最初の出会いであったが、本多は円谷が手掛けた『ハワイ・マレー沖海戦』を観賞していたことから特撮に興味を持ち、作品のことよりも特撮について円谷に質問をしていたという[9]。中野は、日大芸術学部の実習生として参加した『夜間中学』で本多と出会っていたが、特技監督として組んだのは『メカゴジラの逆襲』のみであった[31]。特殊美術の青木利郎によれば、本多はよく特撮の現場を訪れスタッフにも声をかけていたといい、特撮スタッフも大事にしていたという[32]

ほかのスタッフは、一貫して東宝で製作していたことも含めれば、撮影の山田一夫小泉一完倉泰一、美術の北猛夫、録音の矢野口文雄、整音の下永尚、チーフ助監督の梶田興治らが本多作品を支え、演出補佐後はB班撮影の上田正治、監督助手の米田興弘らが支えていた。特に梶田・有川・小泉らとはツーカーの関係であったという[13]

土屋嘉男によれば、本多と黒澤明とは兄弟分のような仲であったという[19]。上記のエピソードのほか、黒澤の誕生日に監督勢が集まった際、本多は『ゴジラ』を撮っていることを恥じる素振りを見せていたが、黒澤は「ゴジラはアメリカの百科事典にも出ている」と褒め称えるなど、本多の仕事を評価していた[19]。また、土屋は黒澤の家に居候していた際も「猪さんの作品なら出てもいい」と言われ、『地球防衛軍』に出演したという[19]。女優の川口節子は、本多が現場にいると普段は怖い黒澤もニコニコしていたと証言している[33]

俳優[編集]

本多は、1951年の『青い真珠』から、1962年の『妖星ゴラス』まで池部良を主役として起用し、1954年の『ゴジラ』から1969年の『緯度0大作戦』までは宝田明を、1953年の『続思春期』から、1970年の『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』までは久保明をそれぞれ起用。佐原健二は『ゴジラ』では記者の役として出演、その後1956年の『空の大怪獣ラドン』から1966年の『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』まで6本の映画で主役を務め、それ以外でも脇役として数多くの作品に出演。その他、高島忠夫(3本)、夏木陽介(2本)。佐原は、自身のデビュー作が本多の監督した『さらばラバウル』で、本多の遺作となった『メカゴジラの逆襲』にも出演したことから、自身の俳優人生は本多によって作られたと述べている[34]

池部、佐原、宝田、久保と共に志村喬も本多作品には不可欠な存在であり、デビュー作『青い真珠』から1965年の『フランケンシュタイン対地底怪獣』、演出補佐作品の『影武者』まで数多くの作品に参加。『ゴジラ』の山根恭平博士を演じたのを機に東宝特撮映画には欠かせない名脇役となった。

『さらばラバウル』で初出演を果たし『ゴジラ』で芹沢博士を演じた平田昭彦はこれを機に本多作品、東宝特撮映画に欠かせない存在となり、『メカゴジラの逆襲』では芹沢博士の正反対の真船博士を演じた。

土屋嘉男は『地球防衛軍』でミステリアンのボスを演じたことで悪役の名をあげ、『怪獣大戦争』のX星の統制官で人気をさらに博す。出演作の大半は悪役を占めている。土屋は、本多について「自由にやらせてくれた」と述べている[19]

演技指導に関しては、積極的に自ら模範演技をしてみせたという。『ゴジラ』などに出演した俳優の宝田明は、本多の説明は懇切丁寧であったと述べている[25]。女優の若林映子は、本多について細かい指示はせずに俳優の資質を引き出すのがうまかったと評している[35]。伊吹徹も、本多は役者の本質を見抜くのが早く、それぞれの個性を丁寧に引き出していたと述べている[22]

小泉博によれば、本多は大部屋俳優にもそれぞれ役をつけるなど東宝の専属俳優を大切にしていたといい、俳優たちからの人気が高かったと証言している[20]。ゴジラなど怪獣のスーツアクターを務めた中島春雄は、特撮セットの飾り付けを待っている間に本多から本編に呼ばれ、目立つところに出演させてくれたと述懐している[36]

毎年正月は、本多の自宅に数十人のスタッフやキャストが招かれパーティを開いていたという[25][37]

主な作品[編集]

映画作品[編集]

公開年 作品名 制作(配給) 脚本 上映時間ほか 役職 ポスター
1949年 日本産業地理大系第一篇 国立公園伊勢志摩 東宝教育映画 本多猪四郎 モノクロ
スタンダード
20分
短編ドキュメンタリー
監督
1950年 砂に咲く花 モノクロ
スタンダード
不明
短編文化映画
1951年 8月3日 青い真珠 東宝 モノクロ
スタンダード
99分
1952年 2月28日 南国の肌 木曜プロダクション
(東宝)
モノクロ
スタンダード
95分
『南国の肌』
11月27日 港へ来た男 東宝 成沢昌茂
本多猪四郎
モノクロ
スタンダード
89分
『港へ来た男』
1953年 7月1日 続思春期 井手俊郎
梅田晴夫
モノクロ
スタンダード
89分
『続思春期』
10月21日 太平洋の鷲 橋本忍 モノクロ
スタンダード
119分
『太平洋の鷲』
1954年 2月10日 さらばラバウル 橋本忍
木村武
西島大
モノクロ
スタンダード
109分
『さらばラバウル』
11月3日 ゴジラ 村田武雄
本多猪四郎
モノクロ
スタンダード
97分
『ゴジラ』
1955年 1月9日 恋化粧 西島大 モノクロ
スタンダード
82分
『恋化粧』
6月7日 おえんさん 西島大 モノクロ
スタンダード
100分
『おえんさん』
7月26日 獣人雪男 村田武雄 モノクロ
スタンダード
95分
『獣人雪男』
1956年 1月22日 若い樹 池田一朗
本多猪四郎
モノクロ
スタンダード
92分
『若い樹』
4月18日 夜間中学 日本大学芸術学部
大映
水木洋子 モノクロ
スタンダード
44分
『夜間中学』
6月28日 東京の人さようなら 東宝 本多猪四郎 モノクロ
スタンダード
61分
『東京の人さようなら』
12月26日 空の大怪獣ラドン 木村武
村田武雄
カラー
スタンダード
82分
『空の大怪獣ラドン』
1957年 2月19日 この二人に幸あれ 松山善三 モノクロ
スタンダード
95分
7月2日 別れの茶摘歌 連合プロダクション
(東宝)
本多猪四郎
竹中弘祐
モノクロ
スタンダード
62分
7月9日 わが胸に虹は消えず 東宝 若尾徳平 モノクロ
スタンダード
第1部:67分
第2部:68分
8月25日 別れの茶摘歌姉妹篇 お姉さんと呼んだ人 連合プロダクション
(東宝)
本多猪四郎
竹中弘祐
モノクロ
スタンダード
67分
12月28日 地球防衛軍 東宝 木村武 カラー
東宝スコープ
88分
1958年 2月11日 花嫁三重奏 若尾徳平 モノクロ
東宝スコープ
87分
6月24日 美女と液体人間 木村武 イーストマン・カラー
東宝スコープ
87分
10月14日 大怪獣バラン 関沢新一 モノクロ
東宝パンスコープ
87分
1959年 1月22日 こだまは呼んでいる 棚田吾郎 モノクロ
東宝スコープ
87分
3月21日 鉄腕投手 稲尾物語 蓮池義雄 モノクロ
東宝スコープ
106分
9月13日 上役・下役・ご同役 沢村勉 モノクロ
東宝スコープ
89分
12月26日 宇宙大戦争 関沢新一 カラー
東宝スコープ
93分
1960年 12月11日 ガス人間第一号 木村武 イーストマン・カラー
東宝スコープ
91分
1961年 7月30日 モスラ 関沢新一 カラー
東宝スコープ
101分
9月12日 真紅の男 間藤守之 カラー
東宝スコープ
89分
1962年 3月21日 妖星ゴラス 木村武 カラー
東宝スコープ
多元磁気立体音響
88分
8月11日 キングコング対ゴジラ 関沢新一 カラー
東宝スコープ
98分
1963年 マタンゴ 木村武 イーストマン・カラー
東宝スコープ
89分
12月22日 海底軍艦 関沢新一 カラー
東宝スコープ
94分
1964年 4月29日 モスラ対ゴジラ カラー
東宝スコープ
89分
8月11日 宇宙大怪獣ドゴラ カラー
東宝スコープ
81分
12月20日 三大怪獣 地球最大の決戦 カラー
東宝スコープ
93分
1965年 8月8日 フランケンシュタイン対地底怪獣 東宝
ベネディクト・プロダクション
(東宝)
馬淵薫 カラー
シネマスコープ
90分
12月19日 怪獣大戦争 関沢新一 カラー
シネマスコープ
94分
1966年 7月31日 フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ 馬淵薫
本多猪四郎
カラー
シネマスコープ
88分
11月20日 お嫁においで 東宝 松山善三 カラー
シネマスコープ
84分
1967年 7月22日 キングコングの逆襲 東宝
ランキン=バス・プロダクション
(東宝)
馬淵薫 カラー
シネマスコープ
104分
1968年 8月1日 怪獣総進撃 東宝 馬淵薫
本多猪四郎
カラー
シネマスコープ
89分
1969年 7月26日 緯度0大作戦 東宝
ドン・シャープ・プロダクション
(東宝)
関沢新一
テッド・シャードマン
カラー
シネマスコープ
89分
12月20日 ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃 東宝 関沢新一 カラー
シネマスコープ
70分
1970年 8月1日 ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣 小川英 カラー
シネマスコープ
84分
1975年 3月15日 メカゴジラの逆襲 東宝映像美術
(東宝)
高山由紀子 カラー
シネマスコープ
83分
1980年 4月26日 影武者 東宝映画
黒澤プロダクション
東宝
黒澤明
井手雅人
カラー
ビスタビジョン
179分
監督部チーフ
1985年 6月1日 グリニッチ・フィルム
ヘラルド・エース
(東宝)
黒澤明
小國英雄
井手雅人
カラー
ビスタビジョン
162分
演出補佐
1990年 5月25日 黒澤プロダクション
ワーナー・ブラザース
黒澤明 カラー
ビスタビジョン
120分
1991年 八月の狂詩曲 黒澤プロダクション
フィーチャーフィルムエンタープライズII
松竹
黒澤明 カラー
ビスタビジョン
97分
1993年 4月17日 まあだだよ 大映
電通
黒澤プロダクション
(東宝)
黒澤明 カラー
ビスタビジョン
134分

テレビ作品[編集]

未制作作品[編集]

  • スペース・モンス(1962年)
  • フランケンシュタイン対ガス人間(1963年)
  • 続 キングコング対ゴジラ(1963年)
  • フランケンシュタイン対ゴジラ(1964年)
  • バットマン対ゴジラ(1965年?)
  • 空飛ぶ戦艦(1966年)
  • シン・ゴジラ(1992年)[注釈 1]

映画の出演作[編集]

著書[編集]

  • 『「ゴジラ」とわが映画人生』(1994年、実業之日本社ISBN 4408394378
    • 1986-87年にかけてのインタビューをまとめたもの。取材者の山本真吾はあとがきで、第一稿をまとめた後にさらに詳しいインタビューを行う予定であったことをのべている。
    • 新版は2010年に、ワニブックス【PLUS】新書ISBN 978-4-8470-6027-4。長男・本多隆司が「新書あとがき」を寄稿。

評伝[編集]

  • 切通理作 『本多猪四郎 無冠の巨匠』(2014年、洋泉社
  • 小林淳 『本多猪四郎の映画史』(2015年、「叢書・20世紀の芸術と文学」アルファベータブックス) ISBN 4865980032
  • 樋口尚文 『グッドモーニング、ゴジラ 監督本多猪四郎と撮影所の時代』(2011年、国書刊行会)。参考文献・下記は旧版

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ NHKBS「イノさんのトランク」で初公開された。2016年の同名作とは無関係である。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e ゴジラ画報 1999, pp. 260–261, 「夢=永遠に!『ゴジラ』の監督・本多猪四郎」
  2. ^ a b c d e f g h 東宝特撮映画全史 1983, pp. 539–540, 「特撮映画スタッフ名鑑」
  3. ^ a b c d e f g 超常識 2016, p. 153, 「Column ゴジラ映画 監督・特技監督人名録」
  4. ^ a b c d e f g h i j ゴジラ来襲 1998, p. 178, 「第5章 東宝・特撮映画主要スタッフ紳士録」
  5. ^ a b 東宝チャンピオンまつりパーフェクション 2014, p. 113, 「東宝チャンピオンまつりスタッフインタビュー1 本多猪四郎」
  6. ^ a b c d e f g h 本多猪四郎 2010, pp. 250–251, 「本多猪四郎略年表」
  7. ^ a b 本多猪四郎 2010, p. 11
  8. ^ biography”. 本多猪四郎オフィシャルサイト. 2015年2月7日閲覧。
  9. ^ a b c d 東宝特撮映画全史 1983, pp. 60–61, 「本多猪四郎 私と特撮映画」
  10. ^ ゴジラと娯楽と文藝と 本多猪四郎の映画世界”. 映画演劇文化協会. 2015年2月6日閲覧。
  11. ^ ゴジラを撮った男・本多猪四郎特集”. 山形国際ドキュメンタリー映画祭. 2015年2月6日閲覧。
  12. ^ a b c ゴジラ大全集 1994, pp. 148–149, 「図説 東宝特撮映画 CHAPT.9 本編撮影-本多組-」
  13. ^ a b c 東宝特撮映画全史 1983, pp. 62–63, 「本多猪四郎 私と特撮映画」
  14. ^ 本多猪四郎と戦争・ゴジラ・原水爆/中島紳介”. www.ishirohonda.com. 2020年12月1日閲覧。
  15. ^ 東宝チャンピオンまつりパーフェクション 2014, p. 96, 「東宝チャンピオンまつりスペシャルインタビュー 中野昭慶」
  16. ^ 「「ゴジラ」世に出した監督・本多猪四郎さん死去」読売新聞1993年3月1日夕刊19面
  17. ^ [1] 映画算法少女広報twitter2018年11月5日tweetより
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出典(リンク)[編集]

参考文献[編集]

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  • 鶴田義久 『黒沢映画の美術』学研、1985年。ISBN 4051016994 
  • 樋口尚文 『グッドモーニング、ゴジラ ―監督 本多猪四郎と撮影所の時代』筑摩書房、1992年5月。ISBN 4480872051 
  • 井上英之 『検証・ゴジラ誕生―昭和29年・東宝撮影所』朝日ソノラマ、1994年。ISBN 4257033940 
  • テレビマガジン特別編集 誕生40周年記念 ゴジラ大全集』構成・執筆:岩畠寿明(エープロダクション)、赤井政尚、講談社、1994年9月1日。ISBN 4-06-178417-X 
  • 坂井由人、秋田英夫 『ゴジラ来襲!! 東宝特撮映画再入門』KKロングセラーズ〈ムックセレクト635〉、1998年7月25日。ISBN 4-8454-0592-X 
  • 宝田明 『ニッポン・ゴジラ黄金伝説』(扶桑社、1998年8月) ISBN 4594025358
  • 『ゴジラ画報 東宝幻想映画半世紀の歩み』(第3版)竹書房、1999年12月24日 (原著1993年12月21日)。ISBN 4-8124-0581-5 
  • 竹内博 『本多猪四郎全仕事』朝日ソノラマ、2000年4月。ISBN 4257035927 
  • 『円谷英二特撮世界』勁文社、2001年8月10日。ISBN 4-7669-3848-8 
  • 佐原健二 『素晴らしき特撮人生』小学館、2005年。ISBN 4-09-387597-9 
  • 東宝ゴジラ会 『特撮 円谷組 ゴジラと東宝特撮にかけた青春』洋泉社、2010年10月9日。ISBN 978-4-86248-622-6 
  • 本多猪四郎 『「ゴジラ」とわが映画人生』ワニブックス〈ワニブックス【PLUS】新書〉、2010年12月25日。ISBN 978-4-8470-6027-4 
  • 別冊映画秘宝(洋泉社)
    • 『別冊映画秘宝 モスラ映画大全』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2011年8月11日。ISBN 978-4-86248-761-2 
    • 別冊映画秘宝編集部 編 『<保存版>別冊映画秘宝 東宝特撮女優大全集』洋泉社、2014年9月24日。ISBN 978-4-8003-0495-7 
    • 友井健人 編 『別冊映画秘宝 昭和メカゴジラ鋼鉄図鑑』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2019年4月6日。ISBN 978-4-8003-1628-8 
  • 本多きみ『ゴジラのトランク 〜夫・本多猪四郎の愛情、黒澤明の友情 』(宝島社、2012年12月)ISBN 4800205646
  • 電撃ホビーマガジン編集部 編 『ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション』KADOKAWAアスキー・メディアワークス)〈DENGEKI HOBBY BOOKS〉、2014年11月29日。ISBN 978-4-04-866999-3 
  • 『ゴジラの超常識』[協力]東宝、双葉社、2016年7月24日 (原著2014年7月6日)。ISBN 978-4-575-31156-3 

外部リンク[編集]