バートン・フィンク
バートン・フィンク | |
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Barton Fink | |
監督 | ジョエル・コーエン |
脚本 |
ジョエル・コーエン イーサン・コーエン |
製作 | イーサン・コーエン |
出演者 |
ジョン・タトゥーロ ジョン・グッドマン |
音楽 | カーター・バーウェル |
撮影 | ロジャー・ディーキンス |
編集 | ロデリック・ジェインズ |
配給 |
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公開 |
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上映時間 | 116分 |
製作国 |
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言語 | 英語 |
製作費 | $9,000,000 |
興行収入 | $6,153,939[1] |
『バートン・フィンク』(原題: Barton Fink)は、1991年のアメリカ映画。コーエン兄弟製作。出演はジョン・タトゥーロ、ジョン・グッドマン。
ストーリー[編集]
1941年、ブロードウェイで高い評価を受けた新進気鋭の劇作家バートン・フィンクは、ハリウッドの大手プロダクション“キャピタル映画社”から専属契約のオファーを受ける。
その後、ハリウッドに辿り着いたバートンは、ロサンゼルスのとあるホテル“Hotel Earle”に宿泊する。バートンの部屋は異様に蒸し暑く、壁紙が剥がれかけ、壁には砂浜に座る水着の女の絵が飾ってあった。ハリウッドは砂漠気候で乾燥した地域にも関わらず、部屋には蚊が飛んでいた。
翌日、キャピタル映画社を訪れたバートンは社長のリプニックと面会する。サタデー・イブニング・ポストから買い付けたウォーレス・ビアリー主演のレスリング映画のシナリオを依頼される。映画に詳しくないバートンは、特に得意ジャンルもないため、その依頼を引き受け、社長から週末までに進捗を聞かせてほしいと告げられる。その日からバートンはホテルで脚本執筆に取掛かるが、部屋の壁が薄く、隣室の不気味な笑い声が気になって集中できない。フロントにクレームをつけると、すぐに隣室の滞在客がバートンの部屋に謝罪に訪れる。彼はチャーリー・メドウズと名乗り、保険の外交員であった。かねてより労働者階級の人間に親近感を持っていたバートンは、チャーリーと意気投合する。
翌日も執筆は捗らず、途方にくれるバートンは偶然、尊敬する小説家であり同じくハリウッドの脚本家でもあるW・P・メイヒューに出会う。映画のアドバイスを乞うため、後日メイヒューと会食する。しかし、尊敬していた彼がアルコール依存症で、秘書兼愛人のオードリーに暴言・暴力をふるう自堕落な人間だと知って失望する。
その後もバートンの脚本は一向に進まない。毎夜チャーリーだけはバートンを励ましてくれるのだったが、本部でトラブルがあったため、ニューヨークに行くことになったと聞き、気を落としてしまう。とうとう週末になり、追い詰められたバートンは、オードリーに救いを求める。バートンの部屋を訪れたオードリーと、映画のアイデアについて話し始めるも、突如彼女に誘惑され、そのままベッドを共にしてしまう。
その翌朝、目を覚ました彼が目にしたのは、自分の隣りで無残に殺害されたオードリーの死体だった。取り乱したバートンはチャーリーに助けを求め、チャーリーは驚きつつも、死体をどこかに片付ける。結局バートンは何のアイデアも持たぬまま、リプニックの邸宅を訪ねるが、完成前のシナリオの中身を途中で打ち明けるのは不都合がある等と伝え、その場は何とかやり過ごす。
ホテルに戻ると、チャーリーは旅支度を整え、ニューヨークに発とうとしていた。死体の事は忘れて脚本に集中するよう励まされ、帰ってくるまで預かっていてほしいと、小包みを渡される。チャーリーが部屋を出たのち、引き出しに入っていたギデオンの聖書を手にしたバートンは、突然ひらめき、ストーリーを書き始める。
ある日、ホテルに二人の刑事が現れ、バートンは事情聴取を受ける。隣室の滞在客であったチャーリーが実は、カール・ムントという指名手配中の連続殺人犯であることを聞かされる。ムントは被害者を射殺してから首を切断するという癖があり、その日の前日に同じ手口(M.O.)で殺害された白人女性の胴体が、ホテルの近くで見つかったことも告げられた。刑事が去ったあと、バートンは一気にストーリーを書き上げ、脚本“The Burlyman”を完成させる。彼は脚本の完成を自ら祝福するため、ダンスホールに出かける。
ダンスホールから戻ると、部屋には先の二人の刑事がいた。刑事から手渡されたその日の朝刊には、メイヒューの首なし死体が見つかったという一面記事が載っていた。刑事に血まみれのベッドを見られたバートンは、手錠を掛けられ、チャーリーの行方を問い詰められる。するとそこへ、ニューヨークから戻ってきたチャーリーが現れる。突然6階のフロアが炎に覆われる中、チャーリーは二人の刑事を射殺する。チャーリーは手錠の掛けられたベッドのフレームを力尽くで破壊し、バートンを逃がした後、炎に包まれた自分の部屋に戻る。バートンは小包みとシナリオだけを持って、ホテルを脱出する。
その後、バートンは再びキャピタル映画のオフィスを訪れる。太平洋戦争が開戦し、リプニックは陸軍予備役の大佐に任命され、軍服を纏っていた。バートンは、リプニックに脚本は却下したと告げられ、厳しく叱責される。契約下であるため、町に留まるよう言い渡される。
バートンは、小包みを持って浜辺にやってきた。座って海を眺めていると、水着を着た女が現れ、砂浜に腰を下ろした。それは、ホテルの絵と同じ光景だった。
キャスト[編集]
※()内は吹替キャスト。左側がVHS版(日本コロムビア)、右側がDVD版(ユニバーサル・ピクチャーズ)。
- バートン・フィンク
- 演 - ジョン・タトゥーロ(三ツ矢雄二・桐本琢也)
- ニューヨークの劇作家。
- チャーリー・メドウズ
- 演 - ジョン・グッドマン(玄田哲章・辻親八)
- バートンの隣室の宿泊客。保険外交員。カンザスシティ (ミズーリ州)で働いていたことがある。
- ジャック・リプニック
- 演 - マイケル・ラーナー (飯塚昭三・稲葉実)
- キャピタル映画社の社長。 ミンスク出身。ニューヨークに居たことがある。
- ルー・ブリーズ
- 演 - ジョン・ポリト(峰恵研)
- キャピタル映画社の重役。かつてはキャピタル映画の株を取得しており、経営権を持っていた。
- ベン・ガイズラー
- 演 - トニー・シャルーブ (谷口節・千田光男)
- キャピタル映画社のプロデューサー。
- W・P(ウィリアム・プレストン)・メイヒュー
- 演 - ジョン・マホーニー(藤本譲・小島敏彦)
- バートンの尊敬するハリウッドの小説・脚本家。アルコール依存症。妻のエステルは精神病で、ファイエットビルに住んでいる。
- オードリー・テイラー
- 演 - ジュディ・デイヴィス(小宮和枝・佐藤しのぶ)
- メイヒューの秘書で、愛人。
- (メイヒューの叫び声)
- 演 - ウィリアム・プレストン・ロバートソン(声優)
- エンドロールで「the Golden Throat of...」とクレジットされている。
- ガーランド・スタンフォード
- 演 - デイヴィッド・ワリロフ
- 演 - ニューヨークの、バートンのエージェント。
- デレク
- 演 - I・M・ホブソン
- ブロードウェイのプロデューサー
- リチャード・セント・クレア
- 演 - ランス・デイビ
- デレクと会食していた男性。
- ポッピー・カーナハン
- 演 - ミーガン・フェイ
- デレクと会食していた女性。
- チェット
- 演 - スティーヴ・ブシェミ(荒川太郎・青山穣)
- ホテルのフロントクラーク。フロントの地下で靴磨きをしている。
- ピート
- 演 - ハリー・ブーギン
- ホテルのエレベーターボーイ。
- マストリオノッティ刑事
- 演 - リチャード・ポートナウ
- ロス警察の刑事。イタリア系。
- ドイチュ刑事
- 演 - クリストファー・マーニー
- ロス警察の刑事。ドイツ系。
公開[編集]
映画は1991年8月21日に北米で公開され、約600万ドルの興行収入を挙げた[1]。然しながら、興行的には『ミラーズ・クロッシング』に引き続き赤字となった。
評価[編集]
1991年度のカンヌ国際映画祭でパルム・ドール、監督賞、男優賞を受賞した。同年度のアカデミー賞では助演男優賞、美術賞、衣装デザイン賞の3部門で候補になったが、受賞には至らなかった。カンヌでは上述のように主要3部門を制覇したが、これは映画祭の歴史上初めてのことである。カンヌ国際映画祭は伝統的に一つの映画に対し複数の賞を与えないようにしていたが、これ以降その規定がはっきりと明文化されることになった。本作は公開後批評家たちから絶賛された。観る者によって様々な深読みが可能な作品であり、多くの批評家たちが彼ら独自の観点からこの映画を語っている。著名な映画評論家であるロジャー・イーバートは、映画の美術デザインや主演のジョン・タトゥーロの演技を賞賛したものの、カンヌ国際映画祭で賞を総なめにしたことについては懐疑的な評価を下した。同時に彼は若干躊躇しながらも、1930年代から40年代にかけてのファシズムの台頭が、映画の重要な主題の一つとなっている可能性を示唆した[2]。ワシントン・ポストの批評家リタ・ケンプリーは、本作品をその年で最高の映画の一つで、最も魅力的な作品であると絶賛した。彼女は映画のテーマについて、コーエン兄弟が感じているハリウッドからの疎外感を扱った自画像的な作品であると指摘した[3]。同じくワシントン・ポストの批評家であるデソン・ハウは、不吉な予兆と寓意に満ちたこの映画が、ヨーロッパから見た醜悪な新世界そのものであるように思えると述べた[4]。
作品解説[編集]
- コーエン兄弟が製作した四作目の映画で、2012年現在ではコーエン兄弟のキャリアを代表する作品だと認識されている。作家が陥るスランプを扱った本作品であるが、その構想は前作の『ミラーズ・クロッシング』製作中にコーエン兄弟が脚本執筆に苦心した体験に基づいているとされる[3]。
- 映画の舞台は1941年12月に設定されている。ベン・ガイスラーの指示でバートンが観ていた公開前のフィルム"Devil on the Canvas"には、カチンコに撮影日1941年12月9日と書かれていり、アメリカが日本に宣戦布告した翌日である。
- 映画のクレジットには「ロデリック・ジェインズ」なる人物が編集としてクレジットされているが、これはコーエン兄弟の変名であり、実際にはそのような人物は存在しない[5]。
- 前三作で撮影監督を担当したバリー・ソネンフェルドが多忙であったため、コーエン兄弟は代わりにロジャー・ディーキンスを起用した。この作品から『ノーカントリー』まで、ディーキンスはコーエン兄弟の映画全てにおいて撮影監督を担当している。
- 制作背景に関わるインタビューにおいて、映画制作時にオットー・フリードリックの著書"City of Nets(1986)"を読んでおり、トーマス・マンやウィリアム・フォークナーについて言及している。また空虚なホテルの舞台設定については、ジム・トンプスン (小説家)の"A Hell of a Woman"(1954年)などの影響も受けていると語っている。[6]
- 一部の批評家は、映画の後半はバートンの妄想・夢だと推測しているが、監督はインタビューで否定している。「映画の後半はすべて夢に過ぎないと考える人がいますが、決してそういう意図はありません。私たちが不条理なストーリー展開を目指していたのは事実です。映画の雰囲気に主人公の心理状態を反映させたかったのです。(Some people have suggested that the whole second part of the film is nothing but a nightmare. But it was never our intention to, in any literal sense, depict some bad dream, and yet it is true that we were aiming for a logic of the irrational. We wanted the film s atmosphere to reflect the psychological state of the protagonist.)」[7]
- 劇中では、最後までオードリーを殺害した犯人が示されていないが、コーエン監督はインタビューで以下のように述べている。「誰がオードリーを殺したのかは誰にも分かりません。バートンは何度も無実を訴えていますが、私たちは彼が犯人である可能性を削りたくなかったのです。観客にできるだけ長く偽の手掛かり示すのは、典型的な犯罪映画の慣習の1つです。つまり、映画の最後までそれを曖昧なままにしておきたかった。しかしこれが意味するのは、犯人は彼の隣人であるチャーリーだということです。(No one knows what has killed Audrey Taylor. We did not want to exclude the possibility that it was Barton himself, even though he proclaims his innocence several times. It is one of the conventions of the classic crime film to lay out false trails as long as possible for the viewer. That said, our intention was to keep the ambiguity right to the end of the film. What is suggested, however, is that the crime was committed by Charlie, his next-door neighbor.)」[8]
関連項目[編集]
- ベラスコ劇場・・・冒頭、バートンの演劇"Bare Ruined Choirs"が上演されていたブロードウェイの劇場。
- ロウアー・イースト・サイド・・・バートンが映画脚本で舞台としているマンハッタンの地区。当時、移民や労働者階級が住む貧民街であり、テネメントという集合住宅が多数存在した。
- フルトン・ストリート(マンハッタン)・・・バートンの実家で、両親と伯父が住んでいる。かつてはフルトン魚市場があり、ブルックリンのフルトン・ストリートとは、フェリーで繋がっていた。
- ウォーレス・ビアリー・・・ハリウッド黄金期に数多くの映画に出演し、アカデミー賞も受賞した俳優。カンザスシティ (ミズーリ州)出身。
- 「Slave Ship(奴隷船)」・・・1937年のウォーレス・ビアリー主演の実在の映画。メイヒューのバンガローの扉に、執筆中の映画タイトルとして掲げてあった。脚本はウィリアム・フォークナー。原作はGeorge S. Kingの「The Last Slaver」(1933)。[9]
- ネブカドネザル・・・メイヒューがサインしてバートンに渡した自著のタイトル。旧約聖書のダニエル書に登場するバビロニアの王で、ユダヤ人を迫害した。フォークナーの「アブサロム、アブサロム!」がモチーフとされている。[10]
- George Pappas・・・アメリカの哲学者・大学教授。ジョージ・バークリーの哲学研究が専門で、認識的正当化に関する著書のほか、Marshall Swainとゲティア問題についての共同著作などを出版している。メイヒューの著書の出版元「Pappas & Swain , New York」のモチーフとなっている。[11]
- ソルト・シェーカー・・・会食時に、メイヒューが自著を放り投げたところに置いてあった銃弾のようなものは、ベークライト製のアール・デコの塩コショウ入れ。第二次大戦時、ベークライトは金属の代替素材として民生品用途として普及した。[12][13]
- オールド・ブラック・ジョー・・・スティーブン・フォスターの1860年の歌曲。劇中でメイヒューが立小便をしながら歌っていた。コットン農園で働く黒人奴隷ジョーのために書かれた。
- フォード・ロードスター1939・・・カンザスシティーで撮ったというチャーリーの写真に映っていた車。当時、フォード創業者のヘンリー・フォードは、反ユダヤ主義であり、ヒトラーは自宅の居間にフォードの写真を掲げていた。
- ロス・フェリズ・・・刑事がバートンを訪ねる数日前、耳鼻科医(ENT)のバラバラ死体が見つかったという場所。保険金殺人がテーマの映画「深夜の告白(1953)」の舞台になっている。
- チャベス渓谷・・・メイヒューの首なし死体が発見されたとされる場所。
- ジャック・オーキー・・・チャーリーがファンだと言っていた実在の映画俳優。ミズーリ州出身で、幼少期はカンザスシティにも暫く住んでおり、学校に通いながら地元紙の新聞配達をしていた。
- ヘンリー・モーゲンソウ (政治家)・・・リプニックの友人で、大佐に任命したとされる、当時のアメリカ財務長官。
- USO(米国慰問協会)・・・第二次世界大戦中にアメリカ軍兵士の慰問活動を行っていたNPO団体。バートンは脚本完成後に、USOの劇場でダンスしていた。
- カール・ムント(Karl Earl Mundt)・・・サウスダコタ州の上院議員。 下院非米活動委員会(HUAC)のメンバーであり、1948年にスミス・ムント法の制定と、ボイス・オブ・アメリカの成立に重要な役割を果たした。コーエン兄弟は、「Old Fink」という続編の制作に関心を示しており、2009年のインタビューでは以下のように語っている。舞台は「シリアスマン」と同じ1967年で、「その年はサマー・オブ・ラブ(ヒッピー・ムーブメント)が巻き起こり、バートンはバークレー校で教鞭を執っていた。そして彼は、HUACに多くの仲間を売った。」「彼はジョージ・カウフマンと同じ髪型だが、白髪になっている」「バートンはメダルを付けている。」1960年にバークレー校の学生らが起こした暴動事件についてHUACが公聴会を行ったが、これに対して学生や一部の教授陣は反発し、その後のフリースピーチ・ムーブメントに繋がった。[14]
- ドイツ系アメリカ人協会・・・かつてアメリカに存在した反ユダヤ主義・ナチズムの右翼団体。ドイツ系アメリカ人によって構成され、本部は85丁目 (マンハッタン)にあった。1941年12月8日に、HUACによって解体された。
- クリフォード・オデッツ・・・ブロードウェイの劇作家。バートン・フィンクのモデルの一人。かつて共産党に所属しており、HUACの公聴会で証言させられたことで、ハリウッド・ブラックリスト入りを免れた。
- ウィリアム・フォークナー・・・ピューリッツァー賞、ノーベル文学賞を受賞した20世紀アメリカ文学の巨匠。W・P・メイヒューのモデルの一人。
- 「The Life of the Mind (Vom Leben des Geistes)」・・・バートンとチャーリーのこの台詞は、ドイツの哲学者ハンナ・アーレントが1977年に発表した同名の著書(翻訳版:「精神の生活」,岩波書店,1994)があり、多くの映画評論でその関連が指摘されている。
脚注[編集]
- ^ a b “Barton Fink (1991)” (英語). Box Office Mojo. 2011年2月25日閲覧。
- ^ Roger Ebert、“Barton Fink”、1991年8月23日。(参照:2009年3月21日)
- ^ a b Rita Kempley、“Barton Fink”、The Washington Post、1991年8月21日。(参照:2009年4月7日)
- ^ Desson Howe、“Barton Fink”、The Washington Post、1991年8月23日。(参照:2009年4月7日)
- ^ Jada Yuan、“Roderick Jaynes, Imaginary Oscar Nominee for ‘No Country’”、New York Magazine、2008年1月22日。(参照:2009年4月7日)
- ^ http://thehollywoodinterview.blogspot.com/2008/02/coen-brothers-hollywood-interview.html
- ^ https://cinephiliabeyond.org/barton-fink-the-coen-brothers-meta-way-of-dealing-with-writers-block/
- ^ https://cinephiliabeyond.org/barton-fink-the-coen-brothers-meta-way-of-dealing-with-writers-block/
- ^ https://www.nytimes.com/1966/06/14/archives/dr-george-s-king-dead-at-88-li-physician-and-a-novelist.html Dr King's NY Times obituary
- ^ https://brindoporeso.files.wordpress.com/2018/11/01-barton-fink.pdf
- ^ The Cinema of the Coen Brothers: Hard-Boiled Entertainments, p. 184.
- ^ https://picclick.com/Vintage-Early-Plastic-Salt-Pepper-Shakers-Art-233468433364.html
- ^ https://picclick.com/Vintage-Bakelite-Salt-Pepper-Shakers-Art-Deco-112421748992.html
- ^ https://web.archive.org/web/20130525043057/http://moviesblog.mtv.com/2009/09/21/coen-brothers-want-john-turturro-to-get-old-for-barton-fink-sequel-old-fink/
外部リンク[編集]
- バートン・フィンク - allcinema
- バートン・フィンク - KINENOTE
- Barton Fink - オールムービー(英語)
- Barton Fink - インターネット・ムービー・データベース(英語)
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