熊本城

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熊本城
熊本県
2016年熊本地震被災前の熊本城(2009年撮影)
2016年熊本地震被災前の熊本城(2009年撮影)
別名 千葉城(出田氏)、隈本城(鹿子木氏、菊池氏、城氏、佐々氏、加藤氏半国期)、銀杏城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 連結式望楼型3重6階地下1階(非現存・1600年築)
外観復元(RC造 1960年再)
築城主 出田秀信(千葉城)、鹿子木親員(隈本城)
築城年 1469年1487年
主な改修者 加藤清正
主な城主 加藤氏、細川氏
廃城年 1874年
遺構 櫓・門・塀、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財:櫓11棟、門1棟、塀1棟
国の特別史跡:熊本城跡
再建造物 外観復元:大小天守・平櫓・馬具櫓
木造復元:西大手門・数奇屋丸二階広間・南大手門・西出丸戌亥櫓・未申櫓・元太鼓櫓・飯田丸五階櫓・本丸御殿大広間
位置 北緯32度48分21.7秒
東経130度42分21.23秒
座標: 北緯32度48分21.7秒 東経130度42分21.23秒
地図
熊本城の位置(熊本市内)
熊本城
熊本城
熊本城の位置(熊本県内)
熊本城
熊本城
熊本城の位置(日本内)
熊本城
熊本城

熊本城(くまもとじょう)は、現在の熊本県熊本市中央区に築かれた安土桃山時代から江戸時代日本の城。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」。

加藤清正中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後の江戸時代の大半は熊本藩細川家の居城。明治西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、現在の天守は1960年の再建である[1]。宇土櫓などの現存する櫓・城門・塀13棟は国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。

天守閣内部には熊本市立熊本博物館の分館としての展示があり、公式には熊本城の再建天守閣内部は「熊本市立熊本博物館分館」となっている。

2016年4月の熊本地震の際に、現存石垣をはじめ宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元・復興建築が被災した[2]

概要[編集]

大天守・小天守

熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。

中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築いた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある[3]

細川氏の居城となった後も盛んに改築が行われ、明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の改築による変遷の痕跡をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている(2012年現在で512,300.52平方メートル)。昭和時代中期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。

サクラの名所としても知られており、日本さくら名所100選に選定されている。

熊本城の管理者[編集]

  • 熊本城が所在する熊本城公園の敷地は国の土地であり、財務省九州財務局の管轄下にある。敷地は熊本市に無償貸与され、熊本市が管理及び整備を担っている。園内に所在する文化財のうち特別史跡熊本城跡、重要文化財熊本城諸櫓及び近く指定を予定されている公有の地域については、文化財保護法に基づき熊本市が管理団体に指定されている。天然記念物藤崎台のクスノキ群の指定地域については熊本県が直接管理を行っている[4]。また園内にはこの他に県有施設および市有施設が所在しているが、各施設の敷地は県および市が管理を行っている。
  • 1951年10月、文化財保護法第113条の規定に基づき、熊本市が特別史跡熊本城跡の管理団体に指定された。
  • 1959年7月および1962年3月、文化財保護法第32条の2の規定に基づき、熊本市が重要文化財熊本城(13棟)の管理団体に指定された[5]

歴史・沿革[編集]

千葉城・隈本城時代[編集]

清正の重臣・大木舎人が写生し、文久年間にさらに模写されたという肖像

文明年間(1469年 - 1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城(ちばじょう、現在の千葉城町)を築いたのが始まりである。

その後、出田氏の力が衰え、大永・享禄年間(1521年 - 1531年)に菊池氏は代わりに託麻・飽田・山本・玉名4郡に所領を持つ鹿子木親員(寂心)に隈本城(くまもとじょう、現在の古城町)を築かせて入れた。寂心は藤崎八旛宮の遷宮を行い、1529年(享禄2年)に後奈良天皇綸旨1542年(天文11年)には勅額の下賜を得ている。1550年(天文19年)、豊後守護大友義鑑が家臣の謀反により殺されると、義鑑の弟で菊池氏を嗣ぎ、かつ義鑑と敵対していた守護菊池義武が隈本城に入り、寂心の孫・鹿子木鎮有はこれを迎え入れた。しかし、義鑑の子・大友義鎮により追われ、以後は大友氏に協力した城親冬が居城とした。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐に際し、薩摩島津氏に属していた親冬の孫・城久基は城を明け渡し筑後国に移った。秀吉の御伽衆大村由己の『九州御動座記』には「此所は肥後の府中なり、城十郎太郎(久基)と云者相踏候、数年相拵たる名城なり」と記す。また、秀吉が一柳直末に送った朱印状の中で「肥後は然るべき国に候間、羽柴陸奥守(佐々成政)おかせられ候、熊本名城に候間、居城として御普請仰せ付けられ候」と述べている。

新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こす。この時隈本城は国人衆による猛攻を受けたが、城代の神保氏張が死守して落城は免れている。1588年(天正16年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5,000石の領主となり隈本城に入った。

熊本城時代[編集]

江戸期の熊本城

加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめた。1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。

1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入った。このとき忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所とした。

加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊やお家騒動により、城の修理もままならない状況であった。細川家が肥後入部時には、熊本城は現在の本丸周辺のみ整備されていて二の丸の一部と三の丸の大半は未開発であった。 このため細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修繕を幕府に申し出ている。この修繕は建築物の修理に留まらず、本丸の増築(二様の石垣に跡が見られる)・二の丸の整備にもおよんで居る。更に上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として順次現三の丸や壺川地域(江戸中期まで三の丸扱いされていた)の開発が進められ、最後に西端の段山(現在の段山町周辺)の郭が完成したのは明治維新まで30年を切った天保年間である。この時点で城内の櫓は焼失した森本櫓を除き62を数えていた。熊本城は細川氏の治世下で江戸時代を通じて拡張され続けていた。

明治年間[編集]

明治初期(1874年)の熊本城、富重利平の撮影による

幕末の熊本藩には学校党・実学党・敬神党の3つの勢力があったが、維新後の1870年(明治3年)進歩的な実学党が政権を握り、「戦国の余物」「無用の贅物」であるとして熊本城の解体を新政府に願い出た。これは諸藩の改革を促進したい新政府の意向を受けたもので、願い出は聞き届けられた。しかし、作業開始当日になって解体の方針は凍結されることになった。藩知事細川護久の主導で進められた方針に対し、前藩知事で保守派の細川韶邦が不満であるなど、藩内に意見の相違があったためといわれる。代わりに、城内は天守を含めて一般に公開されることとなった。

軍都熊本の名前もあるが、終戦前は陸軍が使用していた。熊本空襲では一部(将校集会所)[6]を除き、焼失を免れた。

1871年鎮西鎮台が設置された。二の丸を中心に1875年歩兵第13連隊、1925年、熊本陸軍教導学校、1943年、熊本予備士官学校ができた。またその近くの現在監物台樹木園の場所に熊本陸軍幼年学校ができた。(1897年9月1日-1927年3月31日)。この施設は軍縮により廃止、その後清水町に再建された。二の丸と古城の間は、江戸時代は大名屋敷であったが、明治4年、鎮西鎮台病院、その後陸軍病院となり、それは1945年より国立熊本病院、その後国立病院機構熊本医療センターとなっている。1871年(明治4年)廃藩置県後は熊本県の県庁が二ノ丸に置かれ、同年に花畑邸鎮西鎮台(後に熊本鎮台に改められた)が置かれた。

この時の熊本鎮台司令であった桐野利秋は老朽化した櫓、多重櫓の破却を指示し、特に西出丸は石垣を取り崩し、郭自体を破却している。西南戦争前には天守・本丸御殿を中心とした本丸主要部のみ保存されていた。

1876年(明治9年)の神風連の乱のときには反乱士族が鎮台司令官種田政明などを襲い城内の砲兵営を制圧したが、1日で鎮圧されている。

西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で大小天守などの建物(同時に30日間の米、城下の民家約千軒)を焼失した。現時点で西南戦争での焼失が確認されているのは以下の建造物である。大天守・小天守・本丸御殿・本丸東三階櫓・月見櫓・小広間櫓・小広間西三階櫓・長局櫓・耕作櫓門・三之櫓門・東櫓門。焼失を免れた建造物は現存のものを除くと西竹之丸脇五階櫓・飯田丸三階櫓・札櫓門・六間櫓・書物櫓・堀預り櫓が確認されているが、西南戦争後から大正期までに陸軍により順次破却されている。

政府軍と西郷軍の間には田原坂(たばるざか)の戦いを含む激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え、ついに撃退に成功した。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったという。「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と、西郷が嘆いたというエピソードが伝わっている。

1884年 城内に午砲台が設置され、空砲による報時業務が始まる(1941年廃止)。

1888年(明治21年)には、熊本鎮台を母体とする陸軍第6師団の司令部が天守台に置かれた。

大正から昭和年間[編集]

本丸御殿(木造復元)

1917年大正6年)本丸に陸軍第6師団司令部の新庁舎が落成。

1933年昭和8年)熊本城の現存建築が「熊本城」(種別:城郭 - 宇土櫓、監物櫓など計13棟)として旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される[7]。同年、城跡は「熊本城跡」として国の史跡に指定される。

1945年(昭和20年)7月1日、市街地の20%を焼失した熊本大空襲など度々空襲に襲われるも、奇跡的に焼失を免れる。戦後は、古城に熊本県立第一高等学校が移転した。同年12月、戦災を受けた熊本大学医学部基礎教室が一時的に二の丸の兵舎を利用した(1962年3月移転)[8]

1946年(昭和21年)米軍が城内に施設を作った際、車両通行の妨げになるとして、竹之丸門が破却された。同年3月、古京町無番地輜重隊跡に、化学及血清療法研究所京町研究所が設置された(1973年閉鎖)。

1955年(昭和30年)「熊本城跡」として国の特別史跡に指定された。

1957年(昭和32年)加藤神社が新堀町から西出丸の櫨方曲輪に、熊本県護国神社が花岡山から藤崎台に遷祀。

1960年(昭和35年)の熊本国体開催と築城350年を期に、熊本市は一般からの寄付も募り1億8000万円の費用をかけ外観復元で大小天守と平櫓、塀などを再建し、本丸一帯を公園として整備し入場を有料化した。天守は鉄筋コンクリート造りで、内部は熊本市立熊本博物館の分館として史料等が展示され、最上階は展望スペースとなっている。また、二の丸に水泳競技用の県営プール、三の丸藤崎台に藤崎台県営野球場が整備された。そのほかこの年は、二の丸に各種官庁が入る合同庁舎も設置された。

1962年(昭和37年)熊本大学医学部基礎教室が移転。建物をそのまま利用して熊本県立第二高等学校を開校したが、1968年(昭和43年)熊本県立第二高等学校が移転。1967年(昭和42年)、跡地を整備し、二の丸公園として開園。

1976年(昭和51年)二の丸跡の一角に熊本県立美術館設置。

1978年(昭和53年)三の丸に熊本市立熊本博物館設置。

平成年間[編集]

1993年平成5年)旧細川刑部邸を三の丸に移築。

1997年(平成9年)熊本市は 「熊本城復元整備計画」を策定。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(92番)に選定された。

2007年(平成19年)築城400年に際して、本丸御殿をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門などの建造物を数年かけて復元された[9]。なお、いまだ復元工事中や、工事未着手の建物もいくつかある。

2011年3月5日には観光施設桜の馬場 城彩苑が開業。

熊本地震[編集]

地震後の熊本城の様子。手前の平左衛門丸石垣や大小天守の屋根瓦の一部が崩落、鯱も失われている。
本震から1年後の熊本城の様子。大天守に修復中の足場となる鉄骨が貫かれてる。

2016年(平成28年)4月14日21時26分以降発生している最大震度7の熊本地震の前震と本震など、相次ぐ揺れで被災した[10]

朝日新聞は2016年4月15日の記事で、4月14日発生の地震の被害は石垣の一部が6箇所の崩落のほかに石垣石の落下が複数個所で確認、重要文化財の長塀が長さ100メートルにわたって倒壊[11]。天守・櫓の屋根瓦や鯱も落下[11]と報じた。また本震の発生した2016年4月16日未明の被害については、産経WESTは2016年4月16日11時30分の記事に、熊本城総合事務所談として余震のため状況確認ができていないが東十八間櫓と北十八間櫓が倒壊した模様、との様子を掲載し[12]、朝日新聞は2016年4月16日10時44分の記事で、その櫓の一部が隣にある熊本大神宮境内建物の屋根を突き破った、と報じた[13]

2016年(平成28年)6月10日の熊本市議会で石垣の被害について報告があった。熊本城の全石垣約7万9000平方メートルのうち、50カ所の約2万3600平方メートル、517面で石垣の崩落、膨らみ、緩みがあった。そのうち、崩落は50カ所、229面におよんだ。建物は前震のあった4月14日の時点では重要文化財建造物10棟に被害が確認され、その内長塀は80メートルの倒壊、瓦・外壁落下など9棟であったが、本震のあった4月16日の時点で、倒壊2棟、一部倒壊3棟。他は屋根・壁破損など、重要文化財建造物での被害は13棟となった。 そのほかに、復元建造物の被害は20棟におよび、そのうち倒壊は5棟。他は建物下部の石垣崩壊や屋根・壁の破損などの被害が報告された[2]。石垣の大きな崩壊の原因の一つとして、石垣の上に樹齢50-100年の大木が立っていたことを環境建築研究者の岡田好勝は指摘している。樹木は地上の部分の方がよりも重く、の広がりもあって、根は揺れによるモーメントを根回りの土壌に逃がそうとする作用が働き、その反作用で根が埋まっている周辺の石垣に相当な圧力をかけたため崩落を助長したとする主張である[14]

文化庁の試算では石垣の撤去や積み直しなどの作業に伴って、1平方メートル当たり150万円かかると見込んおり、総修復費用に約354億円を要するとした試算を明らかにした。今回の報告は石垣のみで、瓦が落下した天守や倒れた櫓・塀などはまだ被害の全容が分かっておらず、これらの修復費用の試算はされていないという[要出典]

熊本市の大西一史市長は2016年7月26日、天守閣の修復を3年で、また全体の修復を20年で終える目標を明らかにしている[15]

構造[編集]

熊本城の空中写真。1975年。上方が北。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
主要部のステレオ写真はこちら
長塀と坪井川

城郭の形式は、梯郭式平山城。広さは約98ヘクタール(約98万m2)、周囲は約5.3kmある。南西の古城と北東の千葉城を取り込み、それらを出丸としている。

南東を流れる白川を外堀に見立て、これに合流していた坪井川井芹川を切り離して内堀としているため城内にある水堀は飯田丸の西にある備前堀1つのみである。本丸は丘陵の東の最も高い部分に造り全面石垣積みとし、西へゆるやかに下る二の丸・三の丸は重点箇所のみに石垣を築き、経費を抑えた。搦手口のある北は他の方面に比べ、内郭に近接しているので一般的に弱点とされるが、断崖と空堀(現在は道路)に仕切られており突破は困難である。これに対し西は開けており、多少なりとも傾斜も緩い。そのため、西出丸・二の丸・三の丸で区画し防備を固めているが、城郭西端の先に独立した小丘として段山(だにやま)がある。兵力の関係で総構えを放棄した西南戦争ではこの段山を巡る戦いが行われた。

石垣[編集]

清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。熊本城で使用されている武者返しは慶長の役の際に朝鮮に築かれ、難攻不落と呼ばれた蔚山倭城(うるさんわじょう)に使用した築城技術を元にしたものである。上益城郡山都町(旧・矢部町)にある通潤橋は、江戸時代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。江戸幕府の仮想敵であった薩摩藩に対する備えとして建造されているため、南側が非常に堅固(その分北側がかなり手薄)な構造になっている。この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐことができた要因の一つとなっている。熊本市役所前の石垣は、長さとしては日本最長である。

2016年の熊本地震の際には石垣の約3割が崩落する被害を受けたが、その際、崩落した石の側面から建設時に石工が祈念や地鎮のために描いたとみられる「人形(ひとがた)」と呼ばれる人物の線刻画が発見された[16]

天守[編集]

左より小天守、宇土櫓、大天守

天守は、連結式望楼型、大天守は3重6階地下1階、「一の天守」とも呼ばれる。小天守は3重4階地下1階、「二の天守」とも呼ばれ、「御上(おうえ)」という夫人のための建物である。

大天守は、一般に5重の天守として見られているが、2重目にあたる部分と4重にあたる部分のものは屋根ではなくとするので、正確には3重6階地下1階の天守である。萩城天守と同じように天守台から少し張り出す「張出造(はりだしづくり)」で、張り出し部分には石落しが設けられていた。現在、観光出口となっている付櫓は元は階段櫓でそのまま多聞櫓が本丸御殿へ繋がっていた。又更に、闇り櫓門、地蔵櫓門の3階部分を通じて数寄屋丸五階櫓、数寄屋丸櫓門へと外から一度も見られること無く西出丸へ出ることが出来た。

ちなみに、城の北東に清正が建立した豊国廟跡(立田山中腹)と、城の南西の妙解寺跡(花岡山麓)にある細川家の霊廟の2つを結ぶ直線上に天守があるという。 本丸御殿は、南北に分かれた本丸にまたがって建つため、闇り通路(くらがり通路)と呼ばれる地下通路がある。この通路が御殿への正式な入り口ともなるという類を見ない建物である。

小天守の天守台は大天守に被さるように造られており大天守の天守台石垣の勾配より急角度であり、また天守台と建築物の間には、名古屋城天守と同様に60cm程の「忍び返し」という鉄串が刺してあり、再建とはいえ各所に大天守との建築時期の相違を確認できるという。これには、以下の説がある。

大天守が1601年に竣工し、10年後、文禄・慶長の役で中断されたのちに増築された[17]
1594年ごろに計画した際、櫓が重なり合って景観のバランスが悪いということから[1]、現在の位置に変更され、細部でも意匠が異なっている。
『肥後宇土軍記』によると関ヶ原の戦いの翌年、加藤清正は宇土城の縄張に不満のあるところを改修し、竣工後には自身の隠居城とすべく定めたが、この時宇土城の天守を解体して熊本城へ運び、3層だったことから小天守と名付け、城内へ移築したと記されている。

大天守北側は、創建時には小天守がなく城の北東入り口である不開門(あかずもん)より本丸西隣の平左衛門丸へと続く通路であった。再建天守の観光入り口の橋下を望むと旧通路の階段が門扉も枡形もなく、直に小天守入り口に続く構造を確認することができる。現在は非公開だが、この階段を下ると裏五階櫓跡と小天守の間に旧通路をふさぐように石垣が築かれている。石垣下部には、高さ1m程の石門という通り道があり、不開門へと続く北帯曲輪へ出ることができた。石門は堀や帯郭の清掃のための通用口として利用されていたが、過去には抜け穴や水抜き穴との説があった。[3]。また、石門を抜けた左手にも同じ造りの石垣があり、こちらは宇土櫓へと続く犬走りへ出ることができた。

[編集]

建物は、漆喰壁に柿渋塗りの下見板張りの黒い外観が特徴である。天守以外の櫓や門の屋根には反りが少なく破風には直線かむくりが付けられている。多重櫓はすべて望楼型である。

五階櫓[編集]

五階櫓(ごかいやぐら)は、3重5階の三重櫓である。往時には現存する宇土櫓のほかに、裏五階櫓、数寄屋丸五階櫓、飯田丸五階櫓、西竹之丸脇五階櫓の4基、本丸東五階櫓は後に三階櫓に改築されたが、大小天守を除く合わせて6基の五階櫓があった[18]。これらの五階櫓は他城の天守の規模に相当した。これらは慶長年間に毛利藩が作成した熊本城略図に記載のない櫓(数寄屋丸五階櫓、西竹之丸脇五階櫓、本丸東五階櫓)もあり、一国一城令後に肥後藩領内にあった南関・佐敷・内牧城の天守を移築したものではないかとの説がある。

宇土櫓
宇土櫓(現存)
飯田丸五階櫓と櫓台の2段石垣
宇土櫓
五階櫓の中でも「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓(うとやぐら)は、3重5階地下1階で、熊本城では大小天守を除いて最大の櫓である。高さ約19mあり、近世以前に建造された天守や櫓との比較では姫路城松本城松江城に次いで4番目の高さである。破風はむくりを持ち、諸櫓と同じ仕様で造られているが、最上階に外廻縁を持つ。清正の創建した初代天守ではないかという見方もある。宇土城の天守を移築したものと伝えられ、明和9年(1772年)に森本一端が記した『肥後国誌』(下巻)によって通説化したが[19]、昭和2年(1927年)の解体修理の際には移築の痕跡が見られず、城戸久などがこの説を否定した[20]。また、平成元年(1989年)の修理の際、2重目と3重目で建築方法の違いと3階部分の増設が判明している。
宇土櫓に関して記された最も古い文献である別井三郎兵衛の『御城分間』寛文6年(1666年)には「御天守西ノ御丸 五階御矢蔵」とあり、同じ寛文年間に作成された熊本城絵図には「平左衛門丸五階櫓」との記載がある。平左衛門丸には加藤平左衛門の屋敷があり、小西氏の家臣であった者の管理をする施設も併設されていたため、平左衛門丸に建てられていた櫓には「宇土三階櫓(平左衛門丸二重櫓)」などのように「宇土」を冠していたことが享保から延享期成立の『肥後録』にある。熊本城の諸櫓の再建に携わっている北野隆(熊本大学教授)は宇土櫓も同様の由来で名づけられたとしている[21]
西竹之丸脇五階櫓
西竹之丸脇五階櫓(にしたけのまるわきごかいやぐら)は別名「独立櫓」ともいわれる[22]。現在の櫓台の石垣は郭から孤立しており入口がないが、往時は、札櫓門を通じて塩櫓・飯田丸三階櫓と繋がっていた。防衛面で見ると竹之丸から飯田丸へのS字型の連続枡形虎口中心部にあり、通路を櫓の南・西・北面に通し飯田丸三階櫓と挟撃し札櫓門で侵入を防ぐ南側の重要拠点であった。西南戦争の罹災を免れていたが、その戦後にまとめて陸軍により破却されている。
飯田丸五階櫓
飯田丸五階櫓(いいだまるごかいやぐら)は、飯田丸の南西隅にあった櫓である。櫓台の石垣は2段に築かれており、かつては1段目にL字型の要人櫓を配し、より立体的に攻撃できるようになっていた。なお、石垣は元々段差がなく、後に五階櫓の櫓台に1段目を被せるように造ってある。この痕跡は元札櫓門へのクランク左側の石垣に旧石垣の反りを確認できる。防衛面では竹の丸門(現、櫨方門)周辺と西出丸へと続く南坂への攻撃や指揮所として役割があった。西南戦争前に陸軍により破却されていたが、平成17年(2005年)に木造復元によって再建されている。
裏五階櫓
裏五階櫓(うらごかいやぐら)は本丸北端にあった櫓である。1重目に対し2・3重目の逓減率の大きい初期望楼型で1重目東面が西面より半間長い台形状になっている。また、熊本城の初代天守や隈本城の旧天守との説がある(宇土櫓にも同様の説がある)。北帯曲輪や不開門を見下ろす位置にあり、厚みのない北側の拠点である。かつて北帯曲輪が平左衛門丸へと続く通路であった際、通路から本丸への入口を櫓の南隣の本丸埋門に通しており、本丸北口の守りの要でもあった。西南戦争前に陸軍により破却されている。再建計画はあるものの、前述の入口の石段は破却されたままで、現在、櫓跡地には公衆便所がおかれている。
数寄屋丸五階櫓
数寄屋丸五階櫓(すきやまるごかいやぐら)は数奇屋丸の南西隅にあった櫓である。かつては数奇屋丸二階櫓や続櫓を通じて長櫓上三階櫓に接続していた。1階平面は8間×10間半で五階櫓の中でも最大であり、他の五階櫓に比べるとやや平べったい重厚な造りであった。防衛面では飯田丸の西櫓門を見下ろす位置にあり、南坂を上ってきた敵の迎撃や指揮所として役割があった。五階櫓の中で最初に取り壊されており古写真が極めて少ない。

三階櫓[編集]

往時には小広間西三階櫓、月見櫓、本丸東三階櫓、飯田丸三階櫓、長櫓上三階櫓、戌亥櫓、未申櫓、櫨方三階櫓、森本櫓の9基の三階櫓があった。構造は小広間三階櫓を除き2重3階の二重櫓であった。

小広間西三階櫓
小広間西三階櫓(こひろまにしさんがいやぐら)は本丸南西隅にあった櫓である。他の三階櫓と異なり、唯一3重3階の造りになっている。上記の熊本城略図に記載がなく、細川忠利入部時に増設された石垣の上(二様の石垣)に建てられており細川氏が新設した可能性がある。櫓の形状は小広間二階櫓の西端に望楼部を増設したような一体構造となっており、本丸御殿とは東西2棟の続櫓で繋がっていた。明治期に西南戦争で焼失するまでは鎮台司令部が置いてあり、内部は御殿造りであったようである。
月見櫓
月見櫓(つきみやぐら)は本丸南東端にあった櫓である。内部2階の櫓に望楼を乗せた造りであった。望楼部は宝形造の屋根を持つ正方形で、総塗込めに大きい窓を備えるなど、名称の通り観月に適した軍事色の低い櫓である。本丸御殿には南北2棟の続櫓で繋がっていた。西南戦争で焼失している。
本丸東三階櫓
本丸東三階櫓(ほんまるひがしさんがいやぐら)は本丸東端にあった櫓である。享保19年(1734年)に作成された「肥州録」には三之門五階櫓と記されているが、明和6年(1769年)の「城内御絵図」には三階御櫓と記されている。この35年の内に三階櫓へと改築されたようであるが、現時点では改築の理由や正確な年月については不明である。東竹之丸より本丸東口の防衛拠点であり他の櫓から独立していたが本丸御殿とは三之櫓門で繋がっていた。西南戦争時の火災で焼失している。
飯田丸三階櫓
飯田丸三階櫓(いいだまるさんがいやぐら)飯田丸の南口にあった櫓である。竹之丸から天守方面を望むと天守正面に位置するところに建っており、札櫓門を通じて塩櫓・西竹之丸脇五階櫓と繋がる南側の重要拠点であった。西南戦争の罹災を免れていたが、その戦後にまとめて陸軍により破却されている。
長櫓上三階櫓
長櫓上三階櫓(ながやぐらうえさんがいやぐら)は数寄屋丸の西面にあった櫓である。数寄屋丸五階櫓から数奇屋丸櫓門への多聞櫓上に、望楼部を増設したような一体構造となっていた。南大手門を攻撃する敵を横撃する位置にたっており宇土櫓と並び本丸西面の重要防衛拠点であった。鎮西鎮台が城内に司令部を置いた後、数寄屋丸五階櫓と一緒に他の櫓に先駆けて破却されている。
戌亥櫓
戌亥櫓(いぬいやぐら)は西出丸北西隅にあった櫓である。構造は未申櫓と同一で、同時期に建設されたものと思われる。安永8年(1779年)に修復が行われた際に、棟札に慶長7年(1602年)完成、当時の名称は「大黒矢倉」と記載されてあったとの記録が残っている。鎮西鎮台が城内に入った後、司令であった桐野利秋の指示により西出丸は石垣ごと取り崩され、戌亥櫓も破却されている。平成15年に未申櫓と一緒に木造で復元された。
二の丸駐車場出入口付近より未申櫓(右手前・復元)と元太鼓櫓(左奥・復元)を望む
未申櫓
未申櫓(ひつじさるやぐら)は西出丸南西隅にあった櫓である。構造は戌亥櫓と同一で、同時期に建設されたものと思われる。鎮西鎮台が城内に入った後、司令であった桐野利秋の指示により西出丸は石垣ごと取り崩され、未申櫓も破却されている。平成15年に戌亥櫓と一緒に木造で復元された。
櫨方三階櫓
櫨方三階櫓(はぜかたさんがいやぐら)は西出丸北東隅にあった櫓である。西出丸の他の三階櫓と異なりL字型の櫓の中心部に望楼を載せた形状となっている。名称は、細川藩政期に西出丸の当櫓のある一角に、櫨方会所(藩の専売品である蝋を取扱う部署)が置かれたことに由来する。西南戦争前に鎮台により破却されている。
森本櫓
森本櫓(もりもとやぐら)は三の丸北西にあった櫓である。本丸からは最も離れたところにある多重櫓で、西に向かって広い熊本城のほぼ西端にある重要拠点である。名称は加藤清正重臣の森本一久に由来し、古くには「森本義太夫預かり三階櫓」と呼ばれていた。明和7年(1770年)に城下からの火災に類焼し、その後再建されずに明治を迎えた。

遺構[編集]

東竹之丸の櫓群 手前から源之進櫓(L字形平面)、四間櫓、十四間櫓
東十八間櫓
東十八間櫓
十四間櫓(右は七間櫓)
十四間櫓(右は七間櫓)
田子櫓(右)、七間櫓(左)
田子櫓(右)、七間櫓(左)
源之進櫓
源之進櫓

宇土櫓をはじめ監物櫓(長岡図書預櫓)、平櫓、五間櫓、北十八間櫓、東十八間櫓、源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓の各櫓、長塀(全長約242m)、不開門の13棟の遺構は現存し、それぞれ国の重要文化財に指定されている。

現存する建物のほかに、飯田丸五階櫓・南大手門・未申櫓・戌亥櫓・西出丸長塀などが復元され、また、平成19年(2007年)の清正による築城400周年にあたり、12月末に本丸御殿大広間の復元工事がほぼ完了し、2008年4月20日から一般に公開されている。ほかの多重櫓などの復元も長期に計画されている。 また、外観復元されていた馬具櫓が木構造部分が老朽化したため、木造で改めて復元される。

天守閣内には御座船「波奈之丸」の居間部分があり、「細川家舟屋形」として国の重要文化財に指定されている(所有者は永青文庫)。

  • 平左衛門丸
    • 宇土櫓(古外様櫓、二階櫓を含む)
  • 東竹の丸
    • 田子櫓
    • 七間櫓
    • 十四間櫓
    • 四間櫓
    • 源之進櫓
    • 東十八間櫓(2016年の熊本地震で倒壊[23]
    • 北十八間櫓
    • 五間櫓
    • 平櫓
    • 不開門
  • その他
    • 監物櫓(監物台樹木園)
    • 長塀(坪井川端)

城下町[編集]

城下町は西南戦争における戦闘で焼失し、その跡には一般的な市街地が形成されたため、現在ではほとんど面影は残されていない。しかし、辛島町から熊本駅までの一帯には城下町の町割りのまま道路が敷かれているほか、呉服町、魚屋町、古大工町[要曖昧さ回避]紺屋町といったかつての職人町の地名が数多く残っている。

特記事項[編集]

復元された昭君之間
本丸御殿(復元)

加藤氏にかかわる話[編集]

御幸橋南詰にある「清正公」像

江戸時代、熊本藩の歴史の大半を占めたのは細川氏であったが、西南戦争で天守が焼失する様を地元の人は「清正公(せいしょこ)さんの城が燃えている…」と悲しんだといい、西南戦争の際、官軍の守る熊本城を攻め落とすことができなかった西郷隆盛「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と言ったという。[要出典]このように、熊本城には加藤氏・加藤清正にかかわる話がある。

大銀杏
銀杏の木
「銀杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられた銀杏(いちょう)の木である。これは、篭城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正がこの銀杏を植えたという。朝鮮出兵での蔚山城籠城戦で食料不足に苦しんだ経験を生かしているといわれているが、この銀杏の大木は雄木なので実はならず、城内を知らない者が後世創った俗説と考えられる。また、清正は「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう。」とつぶやいたという言い伝えがある。明治時代、清正が植えた銀杏の木は天守とほぼ同じ高さになっていたが、明治10年に西南戦争が起こり、熊本の城下が戦場となった。
また、同様に篭城時の食料の確保に関して、清正は城内の建物の土壁に干瓢(かんぴょう)を塗篭め、畳床には食用になる里芋茎を用いて備えたという[24]
替えの建材
細川家の治世中に、ある櫓の柱が腐ってしまった。交換のため櫓の解体をしたところ、「この柱はどこそこの池に替えの木材を沈めている」と書いてあり、指定の池を調べたところ、果たして木材が出てきて清正の準備のよさに驚いたとの逸話がある。いつ、どの櫓、どこの池というのが全く伝わっていない類の話ではあるが、城の管理者が細川家に移っても清正にかかわる話が創られていたことが伺える。
井戸
清正は水においても設計は手堅かった。朝鮮出兵における蔚山城籠城戦で、特に水で苦労したことから、城内に120箇所の井戸を掘り、籠城に備えている。どの井戸も規模が大きくて深く、しかも水量が豊かであった。これらは江戸時代を通じ、そして西南戦争で官軍が籠城した際にも使われ、官軍の勝因の一つとなった。
昭君之間
本丸御殿の最深部には、中国の故事に登場する王昭君の絵画(襖絵とも屏風絵ともいわれる)のある「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋があった。この部屋には鶯張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったといい、藩主の居間として使われていたようだが、一説によると、豊臣家の有事に際し秀吉の子秀頼を密かに匿うために造られた部屋であるといわれている。“しょうくん”=“しょうぐん”(将軍)の意とする説がある(当時は濁点を打たないので、仮名で書けば同一になる)。表面上は天下人の徳川家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を示しているのだという。
二の丸
重臣の屋敷や後に藩校も置かれた二の丸はそれらの間を縫うように街道(薩摩街道)を通らせる構造であった。江戸時代の最初期には島津家の大名行列もこの街道を利用していた。隣地とのこともあり加藤家と何かと反目していた当時の薩摩藩主、島津家久は他藩である熊本城内をを立てて通る示威行為を行った。すると、すかさず街道沿いのすべての銃眼の戸を開き、銃口を向けて鑓を伏せさせたという話が残っている。島津家の大名行列は、後に領内より船で大坂へ渡るルートへと変更されたのでこの後、互いの領内でのトラブルはなくなったが、関ヶ原の戦い後の緊張感と熊本城の主な目的が伝わる逸話である。
石垣作り
江戸幕府の開初期、家康より江戸城の石垣普請で浅野家(浅野長晟)と加藤家は当時、沼地であった桜田から日比谷辺りに至り隣合って石垣工事を命じられた。浅野家は、早速工事にとりかかり期限より大分早く石垣を築き上げた。一方、加藤家は森本一久の進言によって予定地一面にアシなどのカヤを敷かせ、その上に砂利や土を被せて近所の10歳から14歳までの子供に開放して遊ばせた。その様子を他藩の人々は笑ったという。そうして、期限いっぱいかけて石垣を築き上げた。家康は、浅野家のすばやい工事を褒め、浅野家の工事責任者には褒賞を与えた。ところが、翌、慶長19年(1614年)の大雨時に浅野家の工事区間の石垣は基底部から脆くも崩れたのに対し、隣の加藤家の工事区間の石垣はビクともせず、浅野家は再工事の出費がかかる上、恥をかくことになった、という逸話がある。この話は2代忠広の時のこととされている。[25][26]
平成20年(2008年)に再建された本丸御殿の地質調査時に、この逸話を裏付ける調査結果が出た。現在の熊本城の本丸は版築による増築部があることが判明した。

焼失の原因[編集]

本丸御殿再建に伴う発掘調査で西南戦争の火災で焼けた様々な出土品が出たが、同時に焼失したとされた兵糧米500石分の痕跡が見つからなかった。通常、大量の米が焼失すると中心部は炭化米として残るが大量の出土品の中から炭化米はついに出なかった。また、今まで城域すべてがこの火災で焼失されたと伝えられていたが実際の罹災範囲は上記、概要にあるように現在の本丸部分と東竹之丸の櫓門1つだけに限定されたものであった。この火災原因には様々な説があり、今までは鎮台の自焼説は篭城兵糧を失った点に問題があると指摘されていた。

熊本城公式サイトでは「時代遅れの天守閣を焼き、兵に籠城を覚悟させるため、司令長官の谷干城(たにたてき)が命じ、参謀の児玉源太郎(こだまげんたろう)が火を付けたという説が現在では有力」と記されている[27]

現地情報[編集]

2016年4月の熊本地震の熊本城被災により、熊本市は公園の有料区域全域の公開を中止し、一部地域を除いて立ち入りを禁止している。

熊本市熊本城総合事務所は2016年4月27日付の報道資料[28]で立ち入り禁止区域を伝えた。

公益財団法人日本城郭協会は2016年6月14日に公式サイト[29]で熊本城の立ち入り禁止区域変更について、「熊本城」公式ホームページを示して[30]一部解除されたことを伝えた。

熊本城総合事務所は、2016年8月1日12時(正午)より市道宮内1号線の交通規制解除とそれに伴う三の丸第2駐車場の共用開始を「熊本城」公式ホームページを通じて伝えた[31]

交通[編集]

熊本城の位置(熊本市内)
熊本城
熊本城
熊本駅
熊本駅
熊本城の位置(熊本市)

熊本城築城400年祭[編集]

一口城主[編集]

熊本城に対して一定額以上の寄付を行った人を一口城主として認定し、天守内に城主として認定を受けた寄付者名の書かれた札がかけられる。寄付された寄付金は復元整備事業などに使われる。

城域一帯の施設[編集]

熊本城を取り扱った作品[編集]

関連人物[編集]

  • 加藤清正
  • 横手五郎 - 伝説上の刺客。清正と戦って敗死した武将・木山弾正の遺児で、熊本城築城に際して人夫として潜り込んだが失敗、殺されたとされる。平左衛門丸には、花岡山から彼が運んだと伝えられる首掛け石がある。
  • 谷干城 - 熊本鎮台司令長官。西南戦争にて熊本城篭城戦を指揮。千葉城に近い高橋公園に銅像がある。
  • 谷村計介 - 熊本鎮台所属の伍長。西南戦争にて包囲された官軍を救うべく、敵中突破し援軍を呼び寄せた功績で知られる。銅像が熊本城天守入口にある。
  • 富重利平 - 日本の写真術の草分け。軍部の依頼で焼失前の熊本城を撮影した。Category:Kumamoto Castleを参照のこと。
  • 藤岡通夫 - 建築史家。熊本城天守の復元考証を行った。
  • 坂口主税 - 第17代熊本市長。熊本城天守の復元計画に携わった。小天守閣1階の「再建工事銘板」に彼のレリーフがある。
  • 松崎吉次郎 - 投資家。熊本城天守復元に際し建設予算の4分の1にわたる5000万もの大金を寄付した。同じく「再建工事銘板」にレリーフがある。

脚注・出典[編集]

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  1. ^ a b 平井聖監修『城 〔8〕(九州沖縄・火燃ゆる強者どもの城)』毎日新聞社、1996年
  2. ^ a b 速報「熊本城の地震被害」 熊本城調査研究センター 2016年6月10日(PDF)
  3. ^ a b PHP研究所編『名城を歩く 10 熊本城』PHP研究所、2003年。
  4. ^ 熊本城の管理に関する取扱要領 平成19年12月改正 熊本市教育委員会 (PDF)”. 熊本市. 2016年10月8日閲覧。
  5. ^ 昭和34年7月15日文化財保護委員会告示第54号、及び、昭和37年3月31日文化財保護委員会告示第12号
  6. ^ 松本利徳陸軍曹長 西部第61部隊内務係「まず将校集会所が火に包まれた。兵舎は異常なし」in 熊本大空襲について(1999) 鹿子木敏範 落葉集 p645 桜ケ丘病院 熊本 偕行社である。
  7. ^ 国宝保存法における「国宝」(「旧国宝」)と文化財保護法における「重要文化財」とは同等のものである。
  8. ^ 熊本大学医学部百年史,通史(1998) p116-121, 熊本大学医学部、熊本市
  9. ^ 御殿などの落成で2008年度の入場者数は、全国第1位(約222万人)となった。2009年8月にガイド本『名城をゆく1 熊本城』が、小学館ビジュアル新書で刊行され、細川家当主細川護熙も寄稿している。
  10. ^ “火の国、中枢もマヒ 断水、停電、病院も損傷”. 西日本新聞 (西日本新聞社). (2016年4月16日). オリジナル2016年4月17日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160417025725/http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/238699 
  11. ^ a b “熊本城、天守閣のしゃちほこ落下か 重文の塀も壊れる”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2016年4月15日). http://www.asahi.com/articles/ASJ4H3CM5J4HTIPE026.html 2016年4月15日閲覧。 
  12. ^ “【熊本地震】重文「阿蘇神社」楼門が全壊 熊本城の被害も拡大”. 産経WEST (産経デジタル). (2016年4月16日). http://www.sankei.com/west/news/160416/wst1604160046-n1.html 2016年10月8日閲覧。 
  13. ^ “熊本城の櫓が倒壊 加藤清正の築城当初から残る国重文”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2016年4月16日). http://www.asahi.com/sp/articles/ASJ4J3CCJJ4JTIPE01L.html 2016年10月8日閲覧。 
  14. ^ 月刊エクステリアワーク - 原因は『樹木』だった?熊本城石垣の崩落の盲点 環境建築研究者 岡田好勝
  15. ^ “熊本城天守閣、3年で修復 市長が表明、城全体は20年”. 朝日新聞. (2016年7月26日). http://www.asahi.com/articles/ASJ7V44B3J7VTLVB00W.html 2017年3月19日閲覧。 
  16. ^ “熊本城石垣から400年前の人物画 地震による崩落で発見”. 西日本新聞 (西日本新聞社). (2016年7月13日). オリジナル2016年7月13日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160713160113/http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/258512 2016年7月15日閲覧。 
  17. ^ 中井均・三浦正幸監修『よみがえる日本の城 12 熊本城』学習研究社 2005年
  18. ^ 西ヶ谷恭弘「第一部 熊本城を訪ねる」PHP研究所編『名城を歩く 10 熊本城』PHP研究所
  19. ^ 小野将史・北野隆「加藤忠広による熊本城の改修と熊本城小天守について-加藤氏時代の熊本城に関する研究(その3)-」『日本建築学会計画系論文集』第576号 157-162 2004年2月
  20. ^ 城戸久「熊本城宇土櫓造営年次私考」『建築学会論文集』第30号 昭和18年9月(1943年)
  21. ^ 北野隆「熊本城の宇土櫓について」『日本建築学会論文報告集』第308号 昭和56年10月(1981年)
  22. ^ 栗原寛志(文)、小田崎智裕(写真)著『熊本城 フォトグラフ』熊本日日新聞社、2008年、ISBN 978-4-87755-312-8
  23. ^ “熊本城で国の重文「東十八間櫓」が完全に倒壊”. NHK NEWS WEB (日本放送協会). (2016年4月16日). オリジナル2016年4月16日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160416060613/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160416/k10010483501000.html 
  24. ^ 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年
  25. ^ 三浦正幸著『城のつくり方図典』小学館 2005年
  26. ^ 新人物往来社編『将軍の城「江戸城」のすべて』新人物往来社 1997年
  27. ^ 歴史ドラマ 天守閣炎上”. 熊本城公式サイト. 2016年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月8日閲覧。
  28. ^ 熊本城域の立入禁止区域について”. 熊本市熊本城総合事務所. 熊本市 (2016年4月27日). 2016年10月8日閲覧。
  29. ^ 熊本城の立ち入り禁止区域、一部解除。”. 公益財団法人日本城郭協会 (2016年6月14日). 2016年10月8日閲覧。
  30. ^ 熊本城の見学について”. 「熊本城」公式ホームページ. 熊本城総合事務所. 2016年10月8日閲覧。
  31. ^ お知らせ 市道宮内1号線の規制解除について”. 「熊本城」公式ホームページ. 熊本城総合事務所. 2016年10月8日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]