韮崎市

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にらさきし
韮崎市
TakedahatimanguuDVC00241.JPG
Flag of Nirasaki Yamanashi.JPG
韮崎市旗
山梨県韮崎市市章.svg
韮崎市章
1955年9月21日制定
日本の旗 日本
地方 中部地方甲信越地方
甲信静地方関東地方
都道府県 山梨県
団体コード 19207-4
面積 143.69km²
総人口 31,099
推計人口、2015年5月1日)
人口密度 216人/km²
隣接自治体 南アルプス市北杜市甲斐市
市の木 こぶし
市の花 レンゲつつじ
市の鳥 ちょうげんぼう
韮崎市役所
所在地 407-8501
山梨県韮崎市水神一丁目3番1号
北緯35度42分31.9秒東経138度26分46.1秒
Nirasaki City hall.JPG
外部リンク 韮崎市

韮崎市位置図

― 市 / ― 町 / ― 村

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韮崎市(にらさきし)は、山梨県の北部に位置する

地理[編集]

七里岩台地先端部付近の空中写真(1976年撮影)
韮崎の地名の由来となった、ニラの葉に似た形状であることが分かる。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

県北西部に位置し、甲府盆地北西端に属する。やや横長の市域で、東西は南アルプス国立公園県立南アルプス巨摩自然公園に属する山地や丘陵地となっている。西部は赤石山系に属する巨摩山地で最西部の鳳凰三山などがあり、東部は茅ケ岳丘陵に属する。

市域中央には釜無川、塩川の両河川が南流し、かつての氾濫原であった平坦地に沿って市街地となっている。

市名は近世の韮崎宿に由来し、「韮崎」の地名は、長く伸びる七里岩ニラ(韮)の葉のように見え、その先端(崎)に宿場町が位置しているから、あるいはニラの群生地であったことに由来するなどの説がある。

市西部の「清哲町」(せいてつまち、北巨摩郡清哲村)は、特殊な合成地名の例として、地理・地名関連の書籍で取り上げられることがある(「上」(さんずい)と「木」で「清」、「居」と「樋」で「哲」と、合併した各村の漢字の一部分を合成して作られた)。

県外などでは「宮崎」などと同じように二文字目にアクセントを付けた「にさき」と発音されることが多い(中央本線の特急あずさの車内放送・中央高速バスの車内放送など)が、県内では「高崎」などと同様の平坦な「にらさき」と発音される(「韮崎市」と発音するときの「にらさき」と同じである)。

主な山・河川[編集]

隣接している自治体[編集]

歴史[編集]

先史・古代[編集]

市域では縄文時代早期からの遺跡が分布している[1]。縄文中期には遺跡数が増加し、特に七里岩や穂坂丘陵には遺跡が濃密に分布し、山梨県における考古学史上においても重要な坂井遺跡などが存在する[2]弥生時代には藤井平を中心に遺跡が分布し、藤井平駒井の宮ノ前遺跡は弥生前期の水田遺構が検出されたことで知られる[3]古墳時代には坂井南遺跡において古墳前期の方形周溝墓郡が見られ、古墳後期には中小の円墳が分布する[4]

古代の律令制下には巨麻郡余戸郷に属し、官牧である穂坂牧が存在していた[5]平安時代後期には宝荘厳院領甘利荘が成立した。

中世[編集]

平安後期には常陸国から配流された源義清清光親子が入府し、その子孫は甲斐源氏となる[6]。義清・清光親子は当初は甲府盆地南部の市河荘に拠ったが、巨摩郡北部に勢力を伸ばし、市域にも影響力を及ぼしたという[7]。市域の神山町武田は中世の「武田郷」に否定され、清光の子・信義は当地に居住して武田氏を称したという。市域には信義が勧請したと伝わる武田八幡宮や氏寺の願成寺、要害の白山城など、信義に関わる伝承を伝える寺社や城郭などが分布している[8]

一方で、武田姓の名乗りについては源義清が常陸国武田郷(茨城県ひたちなか市)に居住して「武田冠者」を称したことを始まりとする説もある[9]

武田氏をはじめ甲斐源氏の一族は治承4年(1180年)に源頼朝の挙兵に応じて各地で活躍するが頼朝による粛清を受け、信義の子一条忠頼も謀殺される[10]。鎌倉時代には忠頼の弟・信光が惣領となり、鎌倉時代には甲斐守護職二階堂氏へ移るものの、鎌倉期を通じて甲斐源氏の盟主として甲斐国内へ勢力を広げた[11]

室町時代から戦国時代には甲斐国では逸見氏穴山氏跡部氏ら有力国人が台頭し、守護・武田氏の内訌や駿河国今川氏相模国後北条氏、信濃国の諏訪氏・小笠原氏ら対外勢力の動向と関係して、乱国状態となった[12]。武田氏は信虎の頃に甲斐統一を進めるが、享禄4年(1531年)には市域で武田信虎大井氏今井氏らの甲斐国人勢力に信濃国諏訪領主の諏訪氏が荷担した河原辺合戦が起こる。同合戦では信虎が国人連合軍を撃破し、武田氏により国内統一が進む。

武田晴信(信玄)のころには家臣団の中に市域を発祥とする氏族がおり、甘利虎泰は譜代家老として活躍し、『甲陽軍鑑』によれば武田家における最高職位の「両職」を務めたという[13]。虎泰は永禄10年(1548年)の上田原の戦いにおいて戦死し、甘利氏の一族では虎泰の子・昌忠(信忠)・信康の活動が見られる。旭町上条北割の大輪寺は甘利氏の居館跡と伝わる[14]。また、市域を発祥とする青木氏は甲斐北西部の地域武士団・武川衆の一員として活躍し、駒井郷を発祥とする駒井氏からは駒井高白斎が信玄側近として活躍した[15]。ほか、水上郷に居館を構えた水上宗富は信濃深志城(長野県松本市)の留守居役を務めた。

天正9年(1581年)、武田家当主の武田勝頼は織田・徳川勢の侵攻に備えて中田町上条・藤井町駒井に新府城を新たに築城し、甲府からの府中移転を試みた[16]。勝頼は天正10年(1582年)3月の織田・徳川勢の甲斐侵攻により新府城を蜂起して郡内へ向かい、その途中で滅亡した[17]

同年6月の本能寺の変により武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、市域は三河国徳川家康相模国北条氏直との合戦の舞台となる[18]。天正壬午の乱において両軍は八ヶ岳南麓・七里岩台上に布陣して対峙し、北条氏直が北杜市須玉町若神子の若神子城に布陣して北杜市域の城砦に布陣したのに対し、徳川家康は甲府から新府城に本陣を移転し、能見城白山城をはじめとする市域の城砦にも布陣した。

同年10月29日には徳川・北条同盟が成立すると後北条氏は撤兵し、甲斐は家康が領する。青木氏や米倉氏、越水氏や入戸野氏、山寺氏ら市域を発祥とする氏族も多くは家康に従い、天正18年(1590年)の家康の関東移封に伴い甲斐を離れている。

近世[編集]

近世には38か村が成立し、九筋二領では釜無川以西の20か村が巨摩郡武川筋に、釜無以東・塩川以西の10か村と塩川以東の2か村を加えた12か村が同郡逸見筋、東部の6か村が同郡北山筋に属する。全村が近世初期には幕府直轄領で、徳川義直領、徳川忠長領と変遷し、旗本領も存在した。甲府藩領を経て、享保9年(1724年)に甲斐一国が幕領化されると、全村が再び幕領となる。享保9年以降在方は三分代官支配となるが、市域の村々は甲府代官支配に属し、一部は川田上飯田市川の各代官支配に属した時期があったと考えられている。また、御三卿・田安家領も存在し、韮崎宿のある河原部村には陣屋も存在した[19]

龍岡将棋頭

市域東西は山麓・台地で乏水地帯であるため生業は畑作が中心であったが、近世には市域東部の茅が岳山麓で穂坂堰楯無堰が、市域西部の山麓地域では徳島堰など用水路の開削が実施され、新田開発も行われた[20]。米麦栽培のほか、木綿煙草の栽培も行われる[21]

また、戦国時代末期から近世初頭にかけて治水事業が行われ、御勅使川治水では竜岡町下条南割に将棋頭が設置された[22]

韮崎は甲斐、信濃、駿河を結ぶ諸街道が交差する要衝であり、近世初頭には甲州街道(甲州道中)や駿州往還、塩川沿いの佐久往還など諸街道が整備され、河原部村には宿場町である韮崎宿が成立した[23]

釜無川沿いの河原部村舟山には、天保14年(1843年)に公認された河原部河岸が設置され、甲斐北西部や信濃方面からの廻米(かいまい)輸送も行われた[24]。なお、河原部河岸の廻米輸送には釜無川下流の鰍沢河岸青柳河岸富士川町)から反発を受けた[25]

近現代[編集]

1874年(明治7年)から1875年(明治8年)にかけて町村合併が続き、韮崎市域には河原部村、祖母石村、更科村、駒井村、下条村、中田村、穴山村、円野村、清哲村、神山村、旭村、大草村、龍岡村、穂坂村、三之蔵村の15か村が成立する[26]1878年(明治11年)には郡区町村編制法が施行され、全村が北巨摩郡に属し、河原部村には同郡の郡役所が設置された[27]1889年(明治22年)には組合村が結成され、河原部村と更科村・祖母石村や、神山村と清哲村、下条村と駒井村がそれぞれ組合村を結成した[28]

1892年(明治25年)には河原部村が町制を施行して韮崎町となり、1937年(昭和12年)には祖母石村と更科村が韮崎町に編成される。1940年(昭和15年)には駒井村と下条村が合併して藤井村となり、昭和29年には韮崎町と藤井村を中心に10か村が合併して韮崎市となる[29]1958年(昭和33年)には北巨摩郡双葉町(甲斐市)との間で境界変更が行われる[30]

近代にも韮崎市河原部の韮崎宿が交通・流通の拠点となり、商圏は山梨県北西部一帯から長野県の佐久・諏訪・伊那に及んだという[31]1879年(明治12年)の『河原部村職調』によれば市域では米問屋が多く、ほか塩や馬宿、荷物中車稼などが多く、米と馬を中心に発展した[32]。明治20年代の山梨日日新聞紙上では韮崎市の「カネボシ穀店」の穀物相場が掲載されていた[33]

1903年(明治36年)には中央線が韮崎まで開通し、1904年(明治37年)には富士見(長野県富士見市)まで延長され、韮崎は通過地となった[34]。これにより韮崎は交通・流通の要衝地としての機能を低下させ、人口も停滞する[35]。大正時代には自動車路線バスの発達により七里岩の急勾配の坂上に位置する鉄道駅の利用が避けられたため、再び交通の要衝地となる[36]

1923年(大正12年)には山梨県立韮崎中学校(現・山梨県立韮崎高等学校)が開校し、さらに1932年(昭和7年)には山梨県の地方事務所も開設され、北巨摩地域の行政や文教の中心地となった[37]太平洋戦争末期には七里岩崖下の一ツ谷・祖母石両区に隧道が掘られ、地下工場を建設する計画が実施されたが(韮崎七里岩地下壕群)、工事中に終戦を迎えた。

戦後には御勅使川工業団地の造成も行われる[38]。1982年(昭和57年)には中央自動車道・韮崎インターチェンジが開設する[39]

また韮崎は全国高等学校サッカー選手権大会の常連で5回の準優勝を誇る山梨県立韮崎高等学校や選手権大会の出場経験がある山梨県立韮崎工業高等学校を擁するサッカーの街でもあり、市内にはサッカー場がいくつも存在する。同時に日本プロサッカーリーグヴァンフォーレ甲府の設立当初からの主要ホームタウンおよび大株主でもあり、市内にはチームのクラブハウスも存在する。

沿革[編集]

人口[編集]

Demography19207.svg
韮崎市と全国の年齢別人口分布(2005年) 韮崎市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 韮崎市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
韮崎市(に相当する地域)の人口の推移
1970年 27,267人
1975年 27,334人
1980年 27,343人
1985年 28,175人
1990年 29,766人
1995年 32,097人
2000年 32,707人
2005年 33,801人
2010年 32,483人
総務省統計局 国勢調査より

行政[編集]

  • 市長
    • 小野修一(1998年11月28日~2006年11月27日)
    • 横内公明(2006年11月28日~2014年11月27日)
    • 内藤久夫(2014年11月28日~)

姉妹都市・提携都市[編集]

海外[編集]

地域[編集]

教育[編集]

小学校[編集]

  • 穂坂小学校
  • 甘利小学校
  • 韮崎北西小学校
  • 韮崎北東小学校
  • 韮崎小学校

中学校[編集]

高等学校[編集]

交通[編集]

韮崎駅

鉄道[編集]

バス[編集]

高速バス[編集]

一般路線バス[編集]

道路[編集]

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事[編集]

出身有名人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『山梨県の地名』、p.602
  2. ^ 『山梨県の地名』、p.602
  3. ^ 『山梨県の地名』、p.602
  4. ^ 『山梨県の地名』、p.602
  5. ^ 『山梨県の地名』、p.602
  6. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  7. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  8. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  9. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  10. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  11. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  12. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  13. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  14. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  15. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  16. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  17. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  18. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  19. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  20. ^ 『山梨県の地名』、p.603
  21. ^ 『山梨県の地名』、pp.603 - 604
  22. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  23. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  24. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  25. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  26. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  27. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  28. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  29. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  30. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  31. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  32. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  33. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  34. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  35. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  36. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  37. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  38. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  39. ^ 『山梨県の地名』、p.604
  40. ^ 村岡花子の「生家」、「教会」の隣に移築へ読売新聞、2014年09月07日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]