宮沢賢治

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宮沢 賢治
(みやざわ けんじ)
Miyazawa Kenji.jpg
誕生 宮澤 賢治
1896年8月27日
日本の旗 日本岩手県稗貫郡里川口村
(現・花巻市
死没 1933年9月21日(満37歳没)
日本の旗 日本岩手県花巻町
(現・花巻市)
職業 詩人童話作家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 盛岡高等農林学校(農学得業士[1]
(現・岩手大学農学部
活動期間 1918年 - 1933年
ジャンル
童話
主題 童話短編小説
代表作 注文の多い料理店』(1924年)
雨ニモマケズ』(1931年)
銀河鉄道の夜』(1933年)
風の又三郎』(1934年)
処女作 春と修羅』(1924年)
親族 宮澤清六(実弟)
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生家跡
盛岡高等農林在学時の宮沢賢治(後列右)
羅須地人協会に使われた建物(花巻農業高校内)
宮沢賢治歌碑(比叡山延暦寺

宮沢 賢治(みやざわ けんじ、正字宮澤 賢治1896年明治29年)8月27日[2] - 1933年昭和8年)9月21日)は、日本詩人童話作家

概説[編集]

郷土岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた[3]

生前に刊行されたのは『春と修羅』(詩集)と、『注文の多い料理店』(童話集)だけであったため、無名に近い状態であったが、没後に草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった。

年譜[編集]

  • 1896年(明治29年)8月27日、岩手県稗貫郡里川口村(のちの行政区再編により花巻川口町花巻町を経て、現花巻市)において、古着商を営む宮澤政次郎(1874年 - 1957年)とイチ(1877年 - 1963年)の長男として生まれ、同年8月1日付戸籍上の出生届がなされた。弟に清六(1904年 - 2001年)、妹にトシ(1898年 -1922年)、シゲ(1901年-1987年)、クニ(1907年 - 1981年)がいる。
    • 生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に発生した三陸地震津波による震災が、県内に多くの爪痕を残した中での誕生であった。また誕生から5日目の同年8月31日には秋田県東部を震源とする陸羽地震が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡稗貫郡地域に大きな被害をもたらした。この一連の震災の際に、母・イチは賢治を収容したえじこ(乳幼児を入れ守る籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという[4]
    • 家業が質店の息子であった賢治は、農民がこの地域を繰り返し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに家財道具などを売って当座の生活費に充てる姿にたびたび接し、この体験がのちの賢治の人格形成に大きな影響をもたらしたとされている。
  • 1903年(明治36年)、花巻川口尋常高等小学校に進学。マロの『家なき子』などの童話を好み、昆虫を採集し、綴り方に長じていた。鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」や「石こ賢さん」などと呼ばれた。浄土真宗門徒である父祖伝来の濃密な仏教信仰の中で育った影響から、父と有志が始めた「我信念」と題する仏教講話に参加。
  • 1909年(明治42年)、旧制盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に進学、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮した。同学在学中にも鉱物採集に熱中。「HELP」のあだ名がつく[5]岩手山南昌山などの山登りにも熱中し、南昌山では寄宿舎で同室の藤原健次郎(賢治より1学年上。1910年没)と水晶を採集する。哲学書を愛読。在学中に短歌の創作を始める(学校の先輩である石川啄木の影響が推測されている)。家庭の方針で進学の見込みがほぼなかったためか、教師への反抗的態度をみせ、1913年(大正2年)、寄宿舎の新舎監排訴の動きにより退寮となり、盛岡の寺院に下宿する。
  • 1914年(大正3年)、盛岡中学校を卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。この時、看護婦に恋心を抱くが片想いに終わる。また看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける[6]
  • 1915年(大正4年)、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で進学[7]。関豊太郎教授の指導の下で地質調査研究を行う。1917年(大正6年)、小菅健吉保阪嘉内河本義行と同人誌『アザリア』を創刊し、短歌・小文などを発表する。
  • 1918年(大正7年)、3月、得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し卒業[1]。4月、同学の研究生となる。卒業で徴兵猶予の特典が無くなったため、徴兵検査を受けて第二乙種合格となる(当時は、第二乙種には兵役は課せられなかった)。 この間、『アザリア』同人の保阪嘉内が同誌に掲載した文章が原因で研究生を退学処分となり、以後数年間にわたって保阪との親交を深める。家族の証言等からこの年から童話の創作が始まったと推定される。 同年肋膜炎を患い、医師の診断を受ける。このとき河本義行に「自分の命もあと15年はあるまい」と述べたとされる。
  • 1919年(大正8年)、前年末に日本女子大学校生の妹トシが病気となり母とともに東京で看病する。この滞京中に盛岡中学同窓の友人阿部孝(当時東京帝大文学部在学、後に高知大学学長)の下宿で萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会い感銘を受ける。近角常観の求道学舎にも訪れている。また、東京での人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。トシ回復とともに岩手に戻る。
  • 1920年(大正9年)、研究生を卒業。関教授からの助教授推薦の話を辞退。10月国柱会に入信。自宅で店番をしながら、信仰や職業をめぐって父と口論する日々が続く。保阪嘉内には国柱会の入信を手紙で強く勧めたが決裂(7月18日)。
  • 1921年(大正10年)、1月23日家族に無断で上京し鶯谷の国柱会館を訪問。本郷菊坂町に下宿する。学生向けの謄写版制作の職に就きながら、盛んに童話の創作をおこなう[8]。また、国柱会の街頭布教にも参加。夏にトシ発病のため岩手に帰る。11月、稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)教師となる。
  • 1922年(大正11年)、11月27日、よき理解者であった妹トシ病死。
  • 1923年(大正12年)、8月、教え子の就職斡旋の名目で樺太を訪問。この旅行をモチーフとした多くの詩を作る。
  • 1924年(大正13年)、4月、心象スケッチ『春と修羅』を自費出版。辻潤が同詩集を賞賛。農学校生徒と演劇を上演、一般公開。12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。
  • 1925年(大正14年)、7月から草野心平と書簡を通じた親交を開始。草野編集の文芸誌『銅鑼』に詩を発表。12月、花巻の北上川で発見したバタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査(東北帝国大学早坂一郎教授)に協力。翌年発表された早坂の学術論文にて名前を挙げて感謝の意が記載される。
  • 1926年(大正15年)、3月末で農学校を依願退職。花巻町下根子桜の別宅にて独居自炊。羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。12月に上京し、タイピングエスペラントオルガンセロを習う。このとき、フィンランド公使ラムステットの「北アジア」についての講演(日本語)に参加し、ラムステットと会話を交わした。また人文主義者として労働農民党の岩手県での有力献金者であった。以降、農業指導に奔走。
  • 1927年(昭和2年)、『銅鑼』『盛岡中学校校友会雑誌』に詩を掲載。3月、羅須地人協会の活動に関して警察の聴取を受けたことから協会の活動を停止。花巻温泉に勤めていた教え子を通して、温泉の遊園地に自らがデザインした花壇を造成する。
  • 1928年(昭和3年)、『聖燈』に詩を掲載。湯本村伊藤庄右衛門主催の農事講演会に出講。6月、農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。この旅行を題材にした詩群『三原三部』『東京』を制作。夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。この間、療養生活を綴った詩群『疾中』などを創作。
  • 1931年(昭和6年)、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり、石灰肥料(厳密には肥料ではなく酸性土壌の中和剤)の宣伝販売を担当。9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。その傍ら文語詩を初めとする創作活動も行った。11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。
  • 1932年(昭和7年)、『児童文学』に「グスコーブドリの伝記」、『岩手詩集』『女性岩手』『詩人時代』に詩、『鴉射亭随筆』附録に「石川善助を弔む」を掲載。
  • 1933年(昭和8年)吉田一穂編『新詩論』吉野信夫編『詩人時代』『日本詩壇』(日本書房)『現代日本詩集』(詩人時代社)『女性岩手』『北方詩人』に詩を『天才人』に童話を掲載。9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯独身であった。死の前日、農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。
    • この年3月3日に「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると宮澤清六は指摘している[9]。地震直後に詩人の大木実1913年-1996年)へ宛てた見舞いの礼状[10]には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている[11]

作品と評価[編集]

生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある。また、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品も少ないながら存在する(『やまなし』『グスコーブドリの伝記』など)。ただし、賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪渡り』で得た5円だけであったといわれる。

しかし生前から注目されていた経緯もあり、死の直後から、主に草野心平の尽力により多数の作品が刊行された。最初の全集は(作品全体からは一部の収録ではあるものの)早くも死去の翌年に文圃堂より刊行され、続いて文圃堂から紙型を買い取った十字屋書店がそれに増補する形で1939年から1944年にかけて出版した。戦後は筑摩書房から(文庫判も含め)数次にわたり刊行されている(主な作品は次項参照)。

広く作品世界を覆っているのは、作者みずからの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神である。また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。その主な契機としては浄土真宗暁烏敏らの講話・説教が挙げられるが、特に18歳の時に同宗の学僧島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより賢治は後に国粋主義の法華宗教団国柱会に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素はこれらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は以後の作品に特有の陰影を加えた。

なお、特筆すべきは作者の特異で旺盛な自然との交感力である。それは作品に極めて個性的な魅力を与えた。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性を抜きには説明できない。

また、童話作品においては擬声語(オノマトペ)を多用し、作品によっては韻文にも近いリズム感を持った文体を使用したことも大きな特徴である。賢治の童話は同時代に主流とされた『赤い鳥』などの児童文学作品とはかなり異質なものであった[12]

賢治の作品には世界主義的な雰囲気があり、岩手県という郷土への愛着こそあれ軍国的要素や民族主義的な要素を直接反映した作品はほとんどみられないが、賢治は24歳に国柱会に入信してから、時期によって活動・傾倒の度合いに差はあるものの生涯その一員であり続けたので、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時のファシズム的風潮との関連も議論されている。また、当時流行した社会主義思想(親友・保阪嘉内など)やユートピア思想(「新しき村武者小路実篤)」、「有島共生農場(有島武郎)」、トルストイ徳富蘆花、「満州王道楽土農本主義者・加藤完治や、国柱会の石原莞爾)」など)の社会思潮の影響を考えるべきであるという見解も見られる。晩年には遺作『銀河鉄道の夜』に見られるようにキリスト教的な救済信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている[13][14]

戦後は賢治の生き方や作品にみられる人文主義平和主義的側面が注目され、特に近年は環境運動思想とも関連づけられて高く評価されることが多い。

賢治は、いったん完成した作品でも徹底して手を加えて他の作品に改作することが珍しくなかった。この点から賢治は「最終的な完成」がない特異な創作概念を持っていたという見方があり、自身が書き残した『農民芸術概論綱要』においても「永久の未完成これ完成である」という記述がある。多くの作品が死後に未定稿のまま残されたこともあり、作品によっては何度もの修正の跡が残されて全集の編集者が判読に苦労するケースも少なくなかった。そうした背景から、原稿の徹底した調査に基づき逐次形態をすべて明らかにする『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房、1973~77年)が刊行され、作品内容の整理が図られた。
これらの草稿調査によって賢治の遺稿はほぼ調べ尽くされたと見られていたが、生家の土蔵から未発表の詩の草稿1枚(地形図の裏に書かれたもの)が発見されたことが2009年4月に公表された[15]

賢治は音楽に深い関心を持っており、自身が作詞作曲の歌がいくつか残されている(生涯で8曲の歌曲を作った)。 代表作「星めぐりの歌」は賢治ゆかりの作品等を通じて現在でも親しまれている。 この歌は知人の採譜によって譜面化されたものであり、直筆の譜面は存在しない。

賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である[16]

恋愛のエピソード[編集]

上記の通り賢治は生涯独身であった。しかし、性に対して無知であったわけではなく、性科学者エリスの主著を原著で揃えるなど[17]、当時の性に関する科学的知識を持っていた。知人の結婚を助力したことも伝えられている。独身を貫いた背景として、高等農林の研究生時代に肋膜炎で医師の診断を受けたあと「自分の命もあと15年ほどしかない」と友人に語ったこともあり[18]、賢治自身が長生できないと認識していた可能性も指摘されている(実際の没年も15年後であった)。

盛岡中学校卒業後に岩手病院で看護婦に恋心を抱いた。農学校退職後の「羅須地人協会」時代に賢治に敬意を抱いた高瀬露は、彼女の没後の1970年代にその名前も含めて公になった。1928年6月に伊豆大島で農業指導をした伊藤七雄の妹である伊藤チヱは、密かに見合いの相手と目されていたともいわれている(同年春に兄妹で花巻を訪れて賢治とは面識があった)。ところが、いずれのケースも「男女交際」には至らずに終わっている。

盛岡高等農林学校在籍時に出会った一年後輩の保阪嘉内との間で、互いに「恋人」と呼び合うような親しい間柄になり、嘉内に宛てた書簡類では、親密な感情の表出、率直な心情の吐露が認められ、手紙に記された文面はときにあたかも恋人に宛てたような表現になった。嘉内からは情緒的にも思想的にも強い影響を受け、とりわけ『銀河鉄道の夜』の成立には、20代の頃に嘉内と二人で登山し共に語り合って夜を明かした体験が濃厚に反映され、登場人物の「ジョバンニ」を賢治自身とするなら、「カムパネルラ」は保阪嘉内をあらわしていると考える研究者もいる[19][20]

2000年代以降、農学校勤務時代やその後の闘病生活において、関心を寄せていた可能性のある女性の存在が、複数研究者よりあげられている[21]

食生活と菜食主義[編集]

法華経信仰に入った後、1918年(大正7年)5月19日付で友人の保阪嘉内に宛てた手紙で「私は春から生物のからだを食うのをやめました」と書き、その考え方は童話「ビジテリアン大祭」に垣間見ができる。菜食主義として伝わる。研究者(堀尾青史)による年譜では1918年4月頃から菜食生活を開始し、以後5年間続けたと記されている[22]

上記の書簡からは、動物性食品を摂ることを避けようとする意思を確認できる。同時にあくまで肉食をネガティブにつかむ文脈の中ではあるが「けれども先日社会と連絡をとるおまじないにまぐろのさしみを数切食べました。また茶碗むしをさじでかきまわしました。」と記している[23]。また、1921年(大正10年)8月11日付の関徳弥宛の手紙にて「7月の初め頃から二十五日頃へかけて、一寸肉食(豚の脂、塩鱈の干物など)をしたのです。それは第一は私の感情があまり冬のやうな工合になってしまって燃えるような生理的の衝動なんか感じないように思われたので、こんな事では一人の心をも理解し兼ねると思って断然幾片かの豚の脂、塩鱈の干物などを食べた為にそれをきっかけにして脚が悪くなったのでした。然るに肉食をしたって別段感情が変るわけでもありません。今はもうすっかり逆戻りをしました」と記しており、上記の期間においても肉食の体験があったことが窺知できる[24]。ただし、1918年暮れに妹トシの看病のため上京した際には、宿泊先の旅館で菜食主義の賢治のために精進料理を出してくれたという伝記の記述もあり[25]、書簡における言及に鑑みても、上記の期間における肉食は例外的なものであったとみられる。

農学校教師時代(堀尾青史の記述に従うならば1923年以降)は菜食主義を止めており、吹張町7-17に店を構える「やぶ屋」のえび天そばが好物で、三ツ矢サイダーとともに注文していた。当時はよく「ブッシュに行くぞ」と言って、生徒を「やぶ屋」へと連れ出していた(「藪(やぶ)」を英語やドイツ語に訳すと「ブッシュ」)。「やぶ屋」は現存しており(店舗は当時の建物ではない)、同店のホームページに賢治の逸話が掲載されている[26]
双葉町にあった「嘉司屋」(かじや)の鶏肉南蛮を好んでいた[27]。店の告知で「宮沢賢治さんが愛した柏南蛮」[28]店内メニューで「賢治さんが愛した かしわ南蛮」[29]と書かれているように、鶏肉が入った蕎麦も好んでいたことが紹介されている[30]ほか、店の経営者から宮沢賢治は臨終の月(1933年9月)にも、病床より蕎麦を出前で求め、おいしそうに食べた、という件を聞くことができる。
吹張町5-19に店を構える寿司と鰻の店「新ばし」(しんばし)[31]のウナギも好物であり、宮沢賢治の親戚にあたる関徳弥の話に「しん橋のウナギを食べたりするときは相好をくずした」という逸話がある[32]。また、新ばしの店の紹介では「賢治の大好物は花巻の料亭「新ばし」のソバが五銭のころの五十銭の鰻丼で、いつも大ニコニコ顔で、食べていました」とも記されている[33]

研究者の板谷栄城は、賢治が飲酒や喫煙をしていたこともあるという証言も踏まえた上で、「賢治の名高い菜食主義が生涯を通じてのものではなく、時には平気で肉食をしたことや、すすめられれば盃も手にした」と記し、「賢治を論ずるのに、『一日に玄コメ4合』だの『生涯を通じての菜食主義』だのといった話をもち出す必要はありません」と結論づけている[34]

ただ、農学校を退職した後の独居自炊時代は菜食主義を研究し[35]、粗食をしていたことが複数の人物によって証言されている[36]。賢治の伝記研究をおこなった堀尾青史は「菜食主義が体力の回復をはばんだといえるだろう」と、早世した原因の一つが食生活にあったことを指摘している[37]

その他のエピソード[編集]

  • 尋常小学校2年の時、同級生が川に流され亡くなった。 賢治は暗闇の中、橋の上から子供を捜索する船の明かりを見つめていたと伝えられている[38]
  • 尋常小学校時代、罰として、水を満杯にした湯呑を持って立たされていた生徒を見かねた賢治は、辛かろうと言ってその場で水を飲み干してしまった[39]
  • 1916年春、寮の親睦会で寸劇が企画され、室長であった賢治は「全知の神ダークネス」役を演じた[40]、その迫真の演技は評判となり、しばらくからかいの対象となった。
  • 賢治は熱心な音楽好きであり、暇を見つけてはレコードを買っていた。賢治が頻繁にレコードを買っていくため、地方の店の割に新譜レコードが多く売れるとして、行きつけの楽器店がイギリスに本社を置くポリドール・レコードから感謝状を贈られたという[41]
  • 蓄音機の竹針を炒め、音質を高める針を発明したこともある。 米国ビクター社にサンプルを送り、製品化には至らなかったものの、その発想は高く評価された[42]
  • 浅草オペラのファン(ペラゴロ)で、上京した際には、しばしば観劇した。当時の浅草オペラの役者だった田谷力三らの名前を織り込んだ詩「函館港春夜光景」も残している。
  • 妹トシ(とし子)をこよなく愛し、彼女が亡くなったときは押入れに顔を入れて「とし子、とし子」と号泣した[43]。亡骸の乱れた髪を火箸で梳いた[44]

作品一覧[編集]

童話[編集]

※は生前発表作品

賢治が自作の童話の題名を列記したメモが多数残っている(自選の作品集を構想していたとも言われている)が、そのうちの数点で、上記の4作品が「少年小説」あるいは「長篇」として一括りにされている。

[編集]

題名が〔〕で括られているものは、原稿の最終形が無題のため、冒頭の1行を題名の代わりにしているものである。また、題名の前の漢数字は、賢治が原稿に記載していた作品番号である。

  • 心象スケッチ 春と修羅』所収
    • 『序』
    • 『屈折率』
    • 『春と修羅』
    • 『真空溶媒』
    • 『小岩井農場』
    • 『岩手山』
    • 『高原』
    • 原体剣舞連
    • 『永訣の朝』
    • 『無声慟哭』
    • 『青森挽歌』
  • 「春と修羅 第二集」所収
    • 一六 五輪峠』
    • 一九 晴天恣意』
    • 一六六 薤露青』
    • 三一三 産業組合青年会』
    • 三一四 〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕』(逐次形態での題は『業の花びら』)
    • 三八四 告別』
  • 「春と修羅 第二集補遺」所収
    • 『葱嶺(パミール)先生の散歩』
  • 「春と修羅 第三集」所収
    • 七〇九 春』
    • 一〇〇八 〔土も掘るだろう〕』
    • 一〇八二 〔あすこの田はねえ〕』
    • 一〇二〇 野の師父』
    • 一〇二一 和風は河谷いっぱいに吹く』
    • 一〇八八 〔もうはたらくな〕』
  • 「口語詩稿」所収
    • 『第三芸術』
    • 『火祭』
    • 『牧歌』
    • 『地主』
    • 『夜』
  • 「疾中」所収
    • 『病床』
    • 『眼にて云う』
    • 『〔丁 丁 丁 丁 丁 〕』
    • 『〔風がおもてで呼んでいる〕』
    • 『〔疾いま革まり来て〕』
    • 『〔手は熱く足はなゆれど〕』
    • 『夜』
  • 「補遺詩篇I」所収
  • 「文語詩稿 五十篇」所収
    • 『〔いたつきてゆめみなやみし〕』
    • 『〔水と濃きなだれの風や〕』
  • 「文語詩稿 一百篇」所収
  • 「文語詩未定稿」所収
  • 星めぐりの歌
  • 『精神歌』
  • 『ポラーノの広場のうた』
  • 『双子の星』

水彩画[編集]

『日輪と山』
『ケミカル・ガーデン』
  • 『日輪と山』
  • 『月夜のでんしんばしら』
  • 『手の幽霊』(仮題)または『ケミカル・ガーデン』(仮題)
  • 『ミミズク』(仮題)
  • 『ネコ』(仮題)
  • 『赤玉』(仮題)

その他[編集]

映像作品[編集]

動画
※作品を映像化したものについては、該当作品の項目を参照。
その他
  • イーハトーヴォ物語』 - (スーパーファミコン用ゲームソフト、1993年)「貝の火」「カイロ団長」「虔十公園林」「土神と狐」「グスコーブドリの伝記」「オツベルと象」「セロ弾きのゴーシュ」「雪渡り」「銀河鉄道の夜」のストーリーをモチーフに賢治の手帳を探し集める旅をする。随所にその他の作品のキャラクターや固有名詞も登場する。

出典・脚注[編集]

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  1. ^ a b 官報 1918年03月19日 「盛岡高等農林学校 第13回得業証書授与式」 (左ページ左下隅)
  2. ^ 戸籍上は8月1日
  3. ^ 岩手の歴史的仮名遣いである「いはて」に由来するとされるが、異説もある。詳細は「イーハトーブ」の項を参照。
  4. ^ 堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』中公文庫、1991年、P26。また、賢治の没後に誕生日が「8月27日」と特定されたときには、この地震と出生日の関係も大きな判断材料となった(小倉豊文「二つの『誕生』」『四次元』No.12(1950年))
  5. ^ 自筆の伝記メモに「Helpと呼ばる」との記載があり、1910年に友人(後述の藤原健次郎)宛に書かれた現存最古の書簡にも「Help閣下」という署名がある。
  6. ^ 『年譜 宮澤賢治伝』P61、79
  7. ^ 2年進級時に農学第2部(農芸化学専攻)でただ一人の特待生に挙げられた。 官報 1916年03月22日 「特待生選定 盛岡高等農林学校」 (左ページ下欄)
  8. ^ 同じ謄写版印刷所に、戦後釜石市長となった鈴木東民がおり、当時の模様を「筆耕のころの賢治」(筑摩書房版宮澤賢治全集別巻『宮澤賢治研究』、1958年)として書き残している。
  9. ^ 「兄賢治の生涯」(『兄のトランク』収録)
  10. ^ 詩人大木実あて書簡 宮沢賢治学会・会報31号”. 宮沢賢治学会. 2006年2月7日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年11月10日閲覧。
  11. ^ 2010年7月に発売された「文藝 月光 2」(勉誠出版)に掲載されている。
  12. ^ 『赤い鳥』を主催した鈴木三重吉は、寄稿を試みた賢治の作品を全く評価しなかったと伝えられている(『年譜 宮澤賢治伝』P240 - 241)。
  13. ^ 「宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか 正木晃
  14. ^ 「『銀河鉄道の夜』と法華経」定方晟
  15. ^ 「宮沢賢治の詩草稿見つかる」産経新聞2009年4月8日
  16. ^ [1] 宮沢賢治・自訳エスペラント詩集(このサイトには公表状態でなく、校訂された作品が掲載されている)
  17. ^ 「宮沢賢治とハヴロック・エリス」信時哲郎
  18. ^ 『年譜 宮澤賢治伝』P146。
  19. ^ 『宮沢賢治の青春』
  20. ^ 『二人の銀河鉄道』
  21. ^ 澤口たまみ『宮澤賢治 愛のうた』(盛岡出版コミュニティー、2010年)では農学校時代の近在の女性教員、澤村修治『宮澤賢治と幻の恋人 - 澤田キヌを追って』(河出書房新社、2010年)では稗貫農学校の教え子の姉、大八木敦彦「看護婦と賢治」(宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報No.41、2010年[2])では1928年からの闘病時代の看護婦について言及されている。
  22. ^ 『年譜 宮沢賢治伝』p96
  23. ^ [3]
  24. ^ [4]
  25. ^ 『年譜 宮沢賢治伝』p137
  26. ^ [5]
  27. ^ 現在の東町の店舗は戦後に移転したものである。
  28. ^ [6]
  29. ^ [7]
  30. ^ [8]
  31. ^ [9]
  32. ^ [10]
  33. ^ [11]
  34. ^ 板谷栄城『素顔の宮沢賢治』1992年、平凡社(参考外部リンク:森松幹治「宮沢賢治と、食を考える」)
  35. ^ 千葉恭「羅須地人協会時代の賢治(二)」『イーハトーヴォ』復刊5号、宮沢賢治の会、1955年。千葉は岩手県穀物検査所花巻出張所に勤務していた時代に賢治と知り合い、賢治の誘いを受けて、賢治の農学校退職後の一時期寝食を共にしていた。千葉によると賢治の菜食主義は「バターや大豆などの脂肪蛋白は摂取していた。しかし魚や肉は食べなかった」というもので、「まことに粗食であった」と述べている。
  36. ^ 『年譜 宮沢賢治伝』p302 - 308
  37. ^ 『年譜 宮沢賢治伝』p459
  38. ^ 扶桑社『宮沢賢治エピソード313』p6
  39. ^ 小西正保著『わたしの宮沢賢治論』p231
  40. ^ 『校本宮沢賢治全集第14巻』472項
  41. ^ 宮沢清六「兄とレコード」『兄のトランク』筑摩書房、1987年(執筆・初出は1954年)。原子朗編の『新 宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍、1999年)の「レコード」の項では「ポリドールの社長からレコードがよく売れるので、花巻の高喜商店に問い合わせがあり、町一番のコレクター賢治の名をあげたところ、社長から賢治あてに感謝状がきた」とある。
  42. ^ 扶桑社『宮沢賢治エピソード313』p112
  43. ^ 『年譜 宮澤賢治伝』P166
  44. ^ 『年譜 宮澤賢治伝』P208

関連項目[編集]

地理関係[編集]

人物[編集]

その他[編集]

外部リンク[編集]