毛利秀頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
毛利秀頼 / 毛利長秀
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文10年(1541年[1]
死没 文禄2年閏9月17日1593年11月9日
改名 毛利長秀→秀頼→羽柴秀頼 / 豊臣秀頼
別名 長秀、毛利河内、羽柴河内侍従
通称:河内守
墓所 長久寺長野県飯田市諏訪町
官位 河内守侍従
主君 織田信長信忠豊臣秀吉
氏族 斯波氏→毛利氏(尾張)
父母 実父:斯波義統、養父:毛利十郎[2]
兄弟 斯波義銀津川義冬秀頼 (長秀)、ほか
秀秋
女(万里小路充房室)[3]、女(京極高知室)

毛利 秀頼(もうり ひでより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名信濃飯田城主。

諱は初めは長秀(ながひで)で、史料では毛利河内守長秀との署名が多数残る。その後、豊臣政権になって侍従の官位と豊臣の姓羽柴の氏を下賜されたため、天正15年の九州の役の頃[1]か同16年の聚楽第行幸の頃より羽柴河内侍従豊臣秀頼と名乗るようになった[4]

略歴[編集]

『系図概要』によると、尾張守護斯波義統の子で、津川義冬の弟であるという[4]。『信長公記』によれば、天文22年(1554年)、義統は織田信友坂井大膳、河尻左馬丞が起こした謀反によって暗殺されるが、嫡男の斯波義銀(津川義近)は脱出して信長に庇護され、二百人扶持を与えられた。もう1人の男子を毛利十郎[2]が保護して那古屋に送り届けたとある。長秀が義統の遺児だと仮定すると、毛利十郎が養育した義統の遺児の成長した姿が長秀であるとも考えられる[4]

永禄3年(1560年)、十郎と長秀(毛利河内)は桶狭間の戦いに参加して戦功をあげた。『信長公記』には、毛利新介今川義元の首級を上げることができたのは、先年に清洲城で守護が攻め殺されたときに毛利十郎が幼君を1人保護して助けた冥加のおかげだ、と噂されたという話がある[6]ので、2人は近親者であると考えられる[4][7]。この頃、赤母衣衆に抜擢され[8]、信長の馬廻衆となった。

永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めに従軍するが、この際の身分は尺際廻番衆。元亀元年(1570年)、野田城・福島城の戦いに従軍して、石山本願寺勢との戦いで活躍した。

将軍・足利義昭と信長の対立により、松永久秀が1度目の謀反を起こして、天正3年(1573年)に降伏した後に差し出された多聞山城の受け取り役を、佐久間信盛福富秀勝と務めて、以後の城番も一時期務めている。この頃、尾張・美濃衆で軍団を編成した織田信忠の配下となり、以後は信忠に従う。同年の信忠による岩村城攻めに参加して武田軍を撃破した。

天正6年(1578年)、斎藤利治神保長住への援軍として越中国へ派遣され、月岡野の戦い河田長親率いる上杉軍を撃破した後、その援軍して越中に派遣された。

天正10年(1582年)2月の甲州征伐にも従軍。信濃大島城在番。伊那郡高遠城攻めに加わって功があった。武田氏の滅亡後の論功行賞で、信長からこの信濃伊那郡を与えられ、信濃国衆・坂西氏の居城であった下伊那郡の飯田城主とされた。

短期間で終わった長秀の伊那統治に関する史料は少ないが、伊那の安養寺・文永寺に狼藉を働いた事件を起こし[9]、また信長の命で信濃松尾城小笠原信嶺の暗殺を試みたと伝わる[10]

同年6月、本能寺の変が勃発し信長が横死すると、武田氏の旧臣などによる反乱の恐れから所領を放棄して尾張国に帰還し、飯田城は下条頼安に掌握された。

以後は羽柴秀吉に家臣として仕え、小牧・長久手の戦い九州平定に従軍。帰還後の秀吉の参内に随行して太刀代を献じた[1]

天正13年(1585年)10月に侍従に叙任されて昇殿。天正16年(1588年)、豊臣姓羽柴氏を下賜された。後陽成天皇聚楽第行幸にあたり関白・秀吉の牛車に供奉して、起請文の22名の大名に名を連ねる。

天正18年(1590年)、前田利家の組に属して小田原の役に参陣して軍功を挙げたため、再び伊那郡・信濃飯田城主として返り咲いた[12]。知行は初めは7万石で、太閤検地後に10万石に加増された。文禄元年(1592年)からの文禄の役では肥前名護屋城の普請に加わり、在陣するものの、渡海はしなかった。

文禄2年(1593年)死去。享年53[1]。遺領10万石の内の1万石だけが長男の秀秋に与えられ、大部分は秀頼の娘婿の京極高知淀殿の従弟にあたる)が継承した。『野史』では嗣なしとして外孫が継いだとする[11]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d 岡田 1999, p.255
  2. ^ a b 毛利十郎は、天文16年に稲葉山城攻めで戦死した毛利敦元の子[5]。桶狭間の戦いの前哨戦で、前田利家らと共に敵の首級を上げて信長に見せて来て、打ち棄ての方針を説明されている。
  3. ^ 岡田 1999, p.176
  4. ^ a b c d e 谷口 1995, p.445
  5. ^ 谷口 1995, p.444
  6. ^ 太田牛一; 中川太古 『現代語訳 信長公記』 (Kindle版) 中経出版〈新人物文庫〉、2013年 ASIN B00G6E8E7A近藤瓶城編 国立国会図書館デジタルコレクション 『信長公記』第19巻 近藤出版部〈史籍集覧〉、1926年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/77 国立国会図書館デジタルコレクション 
  7. ^ 少なくとも『信長公記』では、毛利河内、毛利十郎、毛利新介の3名は書き分けられており、同一人物と見なすことは難しい。
  8. ^ 『高木文書』[4]
  9. ^ 信濃史料
  10. ^ 『勝山小笠原家譜』
  11. ^ a b 大日本人名辞書刊行会編 国立国会図書館デジタルコレクション 『大日本人名辞書』下巻 大日本人名辞書刊行会、1926年、2418頁http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879535/489 国立国会図書館デジタルコレクション 
  12. ^ 『野史』にはこのとき「伊奈侍従」を号したとある[11]

参考文献[編集]

関連項目[編集]