太田牛一

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太田牛一
時代 安土桃山時代、江戸時代
生誕 大永7年(1527年
死没 慶長18年(1613年
改名 天正9年(1581年)まで「信定」を名乗る。
別名 通称又助(又介)あるいは和泉
墓所 仏日寺(大阪府池田市)
官位 和泉守
幕府 織豊政権
主君 斯波義統柴田勝家織田信長丹羽長秀丹羽長重豊臣秀吉豊臣秀頼
大田小又助、大田又七郎牛次(子孫の加賀大田家では「大田」を名乗る。)
特記
事項
著作 『信長公記』他多数

太田 牛一(おおた ぎゅういち / うしかず / ごいち)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将官僚。『信長公記』などの軍記と伝記の著者。官位は和泉守。通称は又助(又介)あるいは和泉を用いた。

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天正9年(1581年)までの文書では「信定」と署名しているのが確認できる。その後の書状では、年代の確実なもので古いものは天正17年(1589年)から「牛一」と署名して、晩年までこれを続けた。そのため信長の死んだ天正10年(1582年)前後に諱を変えたのではないかと言われている。また平家語り一方流琵琶法師が名乗りの一文字の末尾に「一」を付けるので、それに倣ったという説もある[1]

生涯[編集]

大永7年(1527年)、尾張国春日井郡山田荘安食村(現・名古屋市北区)の恐らく土豪の家に生まれる[2]成願寺において僧侶をしていたが、還俗し斯波義統の家臣となる[3]。 天文23年(1554年)7月12日の義統殺害の後、那古野城の織田信長の保護を求めた遺児の斯波義銀に付いて織田家に行った可能性がある[3]

天文23年(1554年)、信長の家臣・柴田勝家に仕え足軽衆となる。同年7月18日、安食の戦いに参加する。義統弔い合戦の意味もあったと思われる[3][4]。弓の腕を認められ、信長の直臣となり弓3人鑓3人の「六人衆」の一員となり近侍衆となる。永禄7年(1564年)、美濃斎藤氏堂洞城攻略では二の丸の門近くの建物の高い屋根から弓を射て活躍し信長に褒められ知行を増やされる[5]

その後は近習の書記となる。後には安土城下で屋敷を持ち、信長に近侍する官僚(吏僚)として、永禄12年(1569年)から天正10年(1582年)にかけて丹羽長秀の与力として[6]、京の寺社との間の行政を担当する。同時代の『賀茂別雷神社文書』には、同社から牛一にがしばしば贈られた記録が見える。他に筆を贈られているのは長束正家やその弟直吉といった吏僚仲間であることから、牛一も賀茂社から筆を贈るにふさわしい人物として認識されており、この筆を用いて『信長公記』の元になる記録を付けていたとも想像される[7]本能寺の変後は長秀に2,000石で仕え柴田勝家との戦いのため坂本城に長秀に従い参陣する。後に天正13年(1585年)の長秀没後は丹羽長重加賀国松任で仕えるが、公務は息子に譲り同地で一時隠居する[8]

しばらくして豊臣秀吉に召し出され、天正17年(1587年)から洛南の行政官僚となり再度寺社行政と検地なども担当し、この年から山城国加茂六郷を検地する。天正18年(1588年)には淀城を拠点にし、南山城と近江国浅井郡の代官も兼任する。天正20年(1590年)、肥前国名護屋へ秀吉に従軍し、道中の人足や馬を配分する奉行に就く。名護屋では名護屋城の建築工事の差配をする。文禄元年(1592年)の文禄の役では城の留守番衆として詰める。文禄3年(1594年)、大阪に戻る。文禄5年(1596年)5月9日、豊臣秀頼の初の上洛に供奉する。この時に後陽成天皇に『太閤御代度々御進発之記』を献上する。慶長3年(1598年)3月15日の醍醐の花見では秀吉の側室・三の丸殿の警護を務めた。同年3月17日、醍醐寺三宝院門跡義演から信長から秀頼までの記録を書いたと紹介され一部暗誦もした。

同年9月18日の秀吉の没後は豊臣秀頼に仕えた。慶長6年(1601年)までに『関ヶ原合戦双紙』を徳川家康に献上し、11月7日中井宗茂にも進上する。慶長11年(1606年)、南禅寺金地院河内真観寺領の代官になる。慶長12年(1607年)頃、『関ヶ原合戦双紙』奥書で自分の著作をまとめて「五代之軍記」と名付ける。慶長16年(1611年)3月28日、秀頼の家康との京都二条城での会見への上洛に供奉する。

非常に長寿で壮健で慶長15年(1610年)、84歳時の書も残っている[9]。しかし、感冒で重体となり、体力が低下したが回復する。隠居しないまま大阪城東南の重臣の屋敷地区の大坂玉造慶長18年(1613年)に病死する[10]大阪府池田市佛日寺に子孫が立てた墓がある。


記録作者として優れ、信長・秀吉・秀次、秀頼、家康の軍記・伝記を著述したが、信長の一代記である『信長公記』が、その綿密さと史料性の高さから特に有名である。戦記としても軍事的に正確で研究対象となっている。江戸時代の通常の編纂物や軍記物とは一線を画している。長篠の戦いを描いた屏風『長篠合戦屏風』は地形は前後に縮小されているが概ね、『信長公記』通りでありその信憑性を高めている。人の行為、戦争や生死に対しては、天道が定めているという運命論者であり、信長の虐殺も淡々と事実を描くが批判はしない[11]。他には安土城についても細部まで正確に記録していたことが、上層の絵の位置が一部入れ替わっているが加賀藩伝来の天守指図の発見で裏付けられた。

子孫[編集]

嫡男の又七郎牛次は秀頼家臣の青木一重に仕え、大坂夏の陣の豊臣氏滅亡後は津藩藤堂高虎に仕えるが、摂津麻田藩の青木家に戻り、以来、麻田藩士として続いた。子息の小又助は丹羽家織田信雄、豊臣秀吉に仕え、その孫の宗古が浪人後、寛永18年(1641年)より前田利常に仕え、以来、加賀藩士として続いた。「信長公記」の写本は現在子孫の太田直憲が所有しており、「信長公記」成立の過程を解明できるものとして研究が進められている。

著作[編集]

  • 信長公記』(「信長記」、「安土記」、「安土日記」)
  • 大かうさまくんきのうち』(「太田牛一雑記」)
  • 関ヶ原合戦双紙[12](「太田和泉守記」、「内府公軍記」)
  • 『高麗陣日記』[13]
  • 『関東軍記』[14]
  • 『別本御代々軍記』[15](「太田牛一旧記」)
  • 『太閤御代度々御進発之記』
  • 『豊国大明神臨時御祭礼記録』
  • 『今度之公家草紙』(「猪熊物語」)慶長15年
  • 『新門跡大坂退散之次第』[16]

脚注[編集]

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  1. ^ 小島広次「牛一本「信長記巻首」の性格について」『清須町史』 1970年(金子拓(2009)pp.41-42)。
  2. ^ 谷口克広 『信長軍の司令官―武将たちの出世競争』 中公新書、2005年、p.27。
  3. ^ a b c 末裔の摂津太田家伝来の『信長記』写本(太田家本)の巻1奥書に、斯波義統の家臣を示す「尾張国、武衞臣下」の記述があり、その首巻の中でも義統を「武衞様」遺児の義銀を「若武衞様」と記している(金子拓 『織田信長という歴史 『信長記』のかなたへ』 勉誠出版、2009年、pp.88-94)。
  4. ^ 斯波家臣として戦った者は「武衞様内由宇喜一」と記され区別がある。
  5. ^ 本段『信長公記』首巻参照。
  6. ^ 長秀家臣さらに右筆との見解もある(染谷光広の説(金子(2009))。
  7. ^ 金子拓 『戦国もてなし時代 信長・秀吉の接待術』 淡交社、2017年、pp.144-149。
  8. ^ 摂津太田家「太田系図」(金子(2009)p.109)。
  9. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂掛編 国立国会図書館デジタルコレクション 『古文書時代鑑 続編 下』 東京帝国大学文学部史料編纂掛、1927年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1939504/26 国立国会図書館デジタルコレクション 
  10. ^ 加賀大田家「系図帳」(金子(2009)p.108)。
  11. ^ 藤本(1993)pp.59-66。
  12. ^ 太田牛一自身の書状でのこの本の呼び名(金子(2009)p.120)。
  13. ^ 国立国会図書館蔵書検索。金子(2009)p.122の著作リストにはない。
  14. ^ 国立図書館デジタルコレクション。金子(2009)p.122の著作リストにはない。
  15. ^ 太田牛一の呼び名は『御代々軍記』(金子拓 『「信長記」と信長・秀吉の時代』 勉誠出版、2012年)。
  16. ^ 大谷大学博物館所蔵の写本の写真掲載(長浜市長浜城歴史博物館編 『顕如教如一向一揆:信長・秀吉・本願寺』 サンライズ出版、2013年、pp.41-43,107)。

参考文献[編集]

  • 藤本正行 『信長の戦国軍事学 戦術家・織田信長の実像』 JICC出版局、1993年
    • 改題文庫化『信長の戦争『信長公記』に見る戦国軍事学』 講談社学術文庫、2003年
  • 金子拓 『織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ』 勉誠出版、2009年

関連項目[編集]