堂洞城

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堂洞城(どうほらじょう)は美濃国中濃(岐阜県加茂郡富加町夕田)にあった日本の城平山城)。別名、堂洞山城、堂洞掻上城。濃尾平野の北で、加治田城から目と鼻の先にある。

概要[編集]

創築者・築城年は不明。蜂屋頼隆織田信長に内心してから、天文永禄の頃には岸信周が城主であった。

信長の中濃攻略阻止のために築かれた城で、加治田城佐藤忠能関城長井道利、堂洞城・岸信周の中濃三城で盟約を結んだが、佐藤忠能が信長に内心し、堂洞城を中心とした堂洞合戦の後、落城。そのまま廃城となった。本能寺の変後、混乱に乗じて斎藤利堯森長可による加治田・兼山合戦の際、堂洞城跡は森長可の加治田攻城戦の本陣として使用された。

城郭[編集]

一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪・北の曲輪・大手曲輪・出丸曲輪・池曲輪・長尾丸があった。又、平段丘の城周りには池が多くあった。

堂洞掻上城の名の通り、土を掘り、盛り上げ土の地形を生かした城である。

本丸には、天守構えがあったと軍記物に記述がある。天守に類似した建物の存在を推測必要があるとも指摘されている[1][2]

堂洞城は、北の加治田城に開けており、加治田城を見張り、攻撃の付城として臨時に築城された城である。

現在[編集]

  • 本丸、長尾丸、二の丸跡、土塁、堀が残り、本丸には石碑が建っており「南無阿弥陀佛」と刻まれている。城の米蔵跡からは黒く焦げた焼米が今でも出る。本丸にある岩場は岸信周が酒宴を催した岩で、八畳岩と言われている。
  • 城域は富加町夕田、羽生、美濃加茂市蜂屋辺り。跡地の大部分がゴルフ場となっている。岐阜県の史跡に指定されている。
  • かつて、ゴルフ場が出来る前は、盛土と堀が深く、曲輪の周りを囲んでいた。本丸より、石段の道も繋がりあった。美濃加茂市富加町中学校組合立双葉中学校が出来る前は、小高い小山であり、堂洞城出丸があり、石塁が多くあったと云われている。
  • 堂洞城南道からの登山道入口(蜂屋方面)には、「堂洞城入口石碑」がある。
  • 本丸と八畳岩には、木で作られている「堂洞城由来」の説明版があり、文字は習字で書かれている。今では文字が読みにくくなっている。八畳岩にも看板があり、「八畳岩 岸勘解由」と書かれて置かれている[3]
  • 富加町郷土資料館に「堂洞城絵図」と、「堂洞城戦記絵図」、「富加町堂洞城・加治田城位置関係地図」がある[4]

説明版[編集]

「堂洞城は蜂屋の領主岸勘解由のたてこもった砦であります。 天下平定を目指して尾張から美濃に攻め入った織田信長は、永禄八年(1565年)八月にこの砦を攻撃して落城させました。 初め信長は、勘解由の武勇を惜しんで投降を勧告しましたが、主君である斎藤氏との義を重じた。勘解由はこれを固く拒んだため戦いとなり、信長は八月二十六日高畑山に本陣を構え、先に信長に通じていた加治田城主佐藤紀伊守と共に夕田・蜂屋の両面より堂洞城の攻撃を開始しました。 勘解由の城兵と共に信長軍を迎え撃ち、辰の刻午前八時から申の刻午後四時までの八時間にわたって抗戦しましたが、長男信房は討死し、敵兵が内に乱入するに及び、城に火を放って妻と共に自害して果てました。 ここにあります岩は、八畳岩と言い勘解由や城兵たちがこの岩の上で月見の宴を催したと伝えられています。」[5]

登山道[編集]

  • 富加町夕田、美濃加茂市蜂屋方面の三か所から本丸近くまで車で移動できる。ただしそこに至る道は狭い。

脚注[編集]

  1. ^ 信長公記
  2. ^ 夕雲の城 三岸勘解由信周と堂洞城 14頁
  3. ^ 富加町教育委員 「誰が書いたのか、寄付・ボランティアかは分かっていないが、手作りである。」
  4. ^ 富加町歴史資料館所蔵
  5. ^ 堂洞城由来

資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]