加治田城
加治田城 (岐阜県) | |
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別名 | 却敵城 加治田山城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | (麓には御殿屋敷城) |
築城主 | 佐藤忠能、佐藤忠康 |
築城年 | 1558年 - 1570年 |
主な改修者 | 斎藤利治、斎藤利堯 |
主な城主 | 佐藤氏、斎藤氏、森氏 |
廃城年 | 1583年 |
遺構 | 曲輪、石積(石垣)、土塁、堀、畝状竪堀、切岸、虎口、岩場跡(旗立て穴、米置場)、総構え(川浦川・津保川内)等 |
指定文化財 | 富加町史跡(清水寺を含む) |
再建造物 | 清水谷公園、登山道 |
加治田城(かじたじょう)は、美濃国(現在の岐阜県加茂郡富加町加治田)にあった日本の城。別名、却敵城・加治田山城。また、山の名前としては、加治田山や古城山と呼ばれた。 [1]。
美濃国と飛騨国の入口(現:下呂市金山町)の道をつなぐ重要な街道で中濃に位置し、西濃(岐阜城)・東濃(苗木城)・奥美濃(郡上八幡城)の中間位置としての要所であった[2]。濃尾平野の北に位置する。
目次
歴史[編集]
加治田城は、築城時期は不明であるが、戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)には、美濃佐藤氏の居城であった。佐藤忠能・忠康父子が築城したとも伝えられている。
佐藤氏は初め美濃斎藤氏に従っていたが、のちに尾張国の織田氏に内応。そのため永禄8年(1565年)に、堂洞合戦や関・加治田合戦において斎藤氏に攻め込まれるが、織田氏の支援も得ていずれも撃退している。しかし、関・加治田合戦において佐藤忠康が戦死したため、織田信長の命により斎藤道三の末子・斎藤利治が城主となった。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変において利治が死去すると、斎藤利堯が跡を継ぎ織田信孝の家老となった。しかし、同年7月には東美濃での勢力拡大を狙う森長可との間で加治田・兼山合戦が起こり、奮闘し城を死守。しかし、その後(1582年~1583年)、利堯の城主としての活動が見えなくなり、その所領は森氏が統合した[3]。
その後、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した森氏は、領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考慮し加治田城を廃城にした。廃城後、城下町は宿場町として昭和初期まで栄えた。
現在[編集]
一の丸、二の丸、三の丸、四の丸まであり、石積み(石垣)、土塁、竪堀、横掘、切岸、虎口が残る。城域(総構え)が梨割山から津保川、川浦川辺りまであった(衣丸や捨掘、馬場、出丸、御殿、武家屋敷も含む)。(加治田・兼山合戦に至る加治田城改築最大規模まで。)
東公民館辺りが城主屋敷跡。絹丸(衣丸)の神社の横道より山に登る道があり、上まで行くと見晴らしがいい岩がある。昔はそこまで馬車で兵糧米を運び、そこから城へ人間が担いで運んでいた。岩は狼煙台としても使われていた。三徳岩は今でもあり、旗を立てていた穴が空いている。
東海環状自動車道で通過するトンネルの真上が加治田城跡になり、向側のトンネルは長尾丸山(堂洞城長尾丸)の真下を通り、そこは佐藤忠能の娘・八重緑が串刺しにされた場所である。(正確には、富加町役場東児童館(旧わかくさ保育園)の真北に堂洞城長尾丸がある。)
金華山、恵那山、御嶽山、伊吹山、白山、中央アルプス、南アルプス、鳩吹山、各務原アルプス、鈴鹿山脈、飛騨山脈、板取川源流高賀山方面、名古屋の駅ビル(JRセントラルタワーズ)等と遠くは伊勢湾まで見え[4]、中濃全域(濃尾平野・美濃国)が一望できる。現在でも城下町の面影が残る。富加町の龍福寺・郷土資料館・役場に城の資料が保管されている。
地形・構造[編集]
古城山(海抜270m)では尾根に沿って至る所に曲輪や土塁・堀・石積(石垣)・虎口が設けられており、急斜な山を中心に北は津保川、南は川浦川の天然の堀(川)に囲まれている。
山と川の間である南の平地には飛騨国(国府)からの重要な街道があり、街道に沿って町場(上町・中町・下町)、町場の北には、上之屋敷、殿屋敷(屋敷城)、新沢屋敷、東には小山(現天神山)に三徳砦で堅固な櫓、西の砦は旧加治田小学校辺り、さらに西には衣丸と捨堀、郷が洞、米取岩(場)やのろし場、この他にも、清水滝口・東の清水口・捨堀口・鳥帽子岩・霊雅山・小屋洞・田洞・石拾い・木戸外・馬場があり、龍福寺や清水寺も麓にあった。北の山では急斜面な岩場が多く、麓は津保川が流れて「北の難所」と言われており、登るのは困難である。加治田山(現梨割山)全域で城の道が繋がっており、至る所に曲輪や砦があり、山全体が城でもあった。
景観が中濃全域、北濃、西濃、東濃の一部、遠くは尾張(現名古屋駅(JRセントラルタワーズ))や、晴れていれば伊勢湾まで遠望でき、中濃の真中の場にあった(支城の毛利山城(牛ヶ鼻砦)、一柳城(大洞城)も視認できる)。支城以外では、岐阜城・金山城・土田城・米田城・鉈尾山城・明智城・ 猿啄城・迫間城・関城・堂洞城等、他にも多くの城跡場を見渡せる(愛知県では名古屋城・小牧城・清州城・犬山城等である)。 城下町も街道の賑わいがたえず重要な城であった。
山は湧水が幾つかの場所で湧き出ており、本丸や山頂からは城下町や城域までが一望でき、敵の行動がよく分かり、地形より、守りやすく、攻め難い城であり難攻不落[5]。
城郭・遺構[編集]
- 主郭・天守・本丸
- 古城山頂に分布し、一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪・四の曲輪があり、大手曲輪、横堀、堅堀、堀切、土塁見張台が加治田山の峰や尾根に続く。主要な主郭曲輪入口や難所には虎口があった。本丸には、物見櫓、見張櫓、隅櫓、主郭の住居(天守)があり、織田信長の中濃侵攻戦時は、櫓(二重櫓)があった。加治田城最大規模改築(加治田・兼山合戦)においては三重櫓以上となる。主郭と虎口の施設には今でも石垣や石積み、岩跡が残っている。本丸には加治田城の表示がある。
- 中腹屋敷・城主屋敷城
- 加治田城本丸・本城と城下町・御殿屋敷城の中腹(山腹)にあった屋敷城[6]。
- 東櫓・西櫓
- 東の小山(天神山)には、堅固な櫓で三徳櫓、西の小山(元加治田小学校裏山)に砦があった(東は家老長沼三徳、西は古参の西村治郎兵衛が守備)。三徳櫓には、旗を立てる大岩(三徳岩)がある。この砦は加治田城御殿屋敷を囲むように位置し、加治田城山頂本丸へつづく道を挟んでいる。(こちらが本来の登山道であり、登るのが困難なジグザグの本城登山道となっており、今も整備されており途中、厳しいところには登山用ロープが用意されており、ロープで登ることが可能である。)
- 御殿屋敷・家臣団屋敷・龍福寺
- 上之屋敷とも言い、城主の居館伝承地がある。東公民館(旧加治田村小学校、加治田村役場跡)が跡地となっており、公園がある。山沿いへ西に行くと、菩提寺「龍福寺」がある。この山縁の場に家臣団屋敷があった。
- 衣丸(出丸)
- 川浦川にある絹丸橋の北、加治田山麓の絹丸神社の南にあり、捨堀に囲まれ柵が二重三重であり、櫓や家臣の石垣でつくられた屋敷もあった。街道が加治田村(絹丸村)の東で飛騨路として加治田の出入口、西は関市、岐阜方面、北は加治田山を登り、武儀郡、郡上八幡、敦賀方面、南は勝山から木曽川を下り、伊勢神宮への街道が衣丸にて分かれており、重要な曲輪であった(関・加治田合戦においても長井道利勢を衣丸で防ぎ切り、加治田城下町や本城への侵入を防いでいることや、湯浅新六等、主要な将を配置している)[7]。
- 馬場
- 街並の南裏・川裏側の北に、駅馬があり、駅家郷があった。
- 木戸外
- 加治田城下町西のはずれで、付近は駅の出入口の柵があった。
- 米取場・狼煙台・見張台
- 衣丸より、北街道の絹丸神社の横道を行くと加治田山途中に大きな岩山がそびえたつ。その岩山が米取場(米置場)として使用され、そこまでは馬車で運び、米取場からは、本城まで人が担いで城まで運んでいた。岩山は景観がよく、狼煙台・見張台や砦としても使用されていた。北の津保川と南の衣丸から同じ距離になり、東の本城へ続く道もあり、重要視された。
- 東清水口
- 白華山清水寺の入口砦で、南は川浦川、大洞川があり、入口は狭く侵入が難しい場所である。白華山清水寺より加治田城本丸への道がつづいているが、本丸の周りを回りながら登城しなければならない。
- 清水滝口
- 白華山清水寺の裏手の砦であり、滝がながれている。川口が深く道が狭い場所で守りやすく攻めにくい。
- 郷が洞
- 絹丸神社裏頂上山に位置し砦があった。
- 鳥帽子岩・霊雅山
- 龍福寺の北、西の頂上の山。ここにも砦があった。
- 小屋洞・田洞・石拾い
- 加治田衆の武将と農民・町民の領民が組織した部隊が集まる砦があった。
- 北の難所
- 北は津保川が流れている麓から梨割山頂上までは急斜面の崖で岩肌が多く、登るのは至難の場所であった。唯一、衣丸から加治田山の米取場を通り、武儀郡へ出る道が西にあるが、北の入口は津保川が流れており、入口は砦があり急で狭く侵入が難しい。また、山の丘の登り降る傾斜が多く難を極めた。
- 梨割山山頂
- 北の難所の頂上で加治田城本丸より奥にある。加治田城下町より中大手道から城主の中腹屋敷を通り、西大手道→西見張台→堀切から東が本丸への道と大手門があり、北へ搦手曲輪→搦手道→梨割山山頂へと続いていた。山頂はひらけており、北側の景観を一望できる。また、麓の城下町は見えないが南方の遠くまで見渡せる場所で見張台、狼煙台、砦があった。
- 加治田川小牧
- 北側の平地。津保川沿いに町屋や佐藤氏親族屋敷が並んでいた。又、川の瀬が深い事も有、川舟の流通も兼ねている[8]。
城下町[編集]
- 城域内南側に町場(上町・中町・[[[下町]])と現在では片町も含めての中心城下町が形成されていた。[9]。
- 梨割山の北側では津保川沿いに美濃斎藤佐藤氏一族の屋敷が並び、街道と繋がっている[10]。
- 他には、現在の美濃加茂市伊深町・三和町や富加町栃洞地区の部落や街道沿い町屋があった[11]。
登山道[編集]
- 白華山清水寺より北川の上り路もしくは、寺院内の北側より、加治田城本丸のまわりを周り迂回しながらの登山となる。
- 絹丸神社の真横の街道より岩場がそびえ立つ旧米取場を通り、梨割山山頂をぬけ、加治田山の加治田城本城への山道。
- 絹丸神社内の東側にも山道があり、山の神の石碑の横を通り、岩場である米取場を通る道もある。
- 北の難所の加治田川小牧地区より、本城への道もある。
- 正式の旧本城登山道は、加治田東公民館の公園のさらに横の道より、本城への道があり整備されているが、途中難攻不落の由縁でもある難所があり、急な場所にはロープを利用して登る必要がある。
- 加治田龍福寺より、本城へ上る道もあるがとても険しく登山用の準備が必要である。
- 加治田北東の大洞川源泉地域よりからも登山できる旧道がある。
逸話[編集]
- 攻城戦において敵を全て退けていることから却敵城と呼ばれる。
- 戦国時代では、却敵城が通称の城名であった[12]。
- 多くの合戦があったが一度も落城が無く、地形的と美濃国中心位置にあり、飛騨国出入口交通の要所の場にあり、濃尾平野を見わたせ、地形と天然の掘(川浦川・津保川)に守られ、坊城にも勝れた地形と共に歴史ある霊地(白華山)にあり、飲み水も絶え間なく有、却敵城の名の通り、全国でも屈指の難攻不落の城である。
- 「美濃攻めに苦心していた当時の織田信長に加治田衆が協力したことで信長本人がその御礼のため立ち寄り宿泊した」という話が残っている[13]。
- 織田信長が、加治田城に一泊してから美濃国を視野に全国への「天下布武」の構想を考え始めたと云われている[14]。
- 忠能の子信氏が関・加治田合戦で討死後、斎藤道三の婿である信長は、近親で道三の末子である利治を斎藤家跡取りとして取り立て、佐藤忠能の養子として美濃国の要所である加治田城の城主としたとある(利堯も加治田城留守居)。
- 加治田城内の城下町は廃城後、宿場町や経済、文化全てに渡ってこの地方の中心を成して昭和初期まで栄えた。現在も城下町として残っている[15]。
- 加治田城廃城後、本丸の石垣(石類)や砦・天守・櫓などの建築物は、加治田城下町に使用された。城下町の御殿屋敷跡にある石垣は、加治田城のままの石垣も含まれている。
- 水が絶えることない水豊かな城下町でもある。
資料[編集]
「加治田城跡、現在城山加治田城跡(海抜270m)と呼ばれるこの山城は、戦国時代は却敵城(きゃくてきじょう)とも呼ばれていました。桶狭間の戦いで今川氏を破った織田信長にとって…(中略)…城主を継いだ斉藤新五は信長の家臣として各地の戦闘に参加し、天正10年(1582年)本能寺の変で戦死するまで、その一生を信長の天下統一に捧げました。その後の加治田城は天正10年(1582年)の加治田・兼山合戦を斎藤玄蕃を大将としてしのぎましたが、玄蕃の死後に兼山城主森長可(ながよし)の領地となり廃城になったといわれています。」 (「平成十二年十一月 富加町史を一部改変 富加町教育委員会」より)
書籍[編集]
- 『岐阜の山城 ベスト50を歩く』、 三宅唯美・中井均 編
- 『掠世の女(ひと)』、佐藤隆
- 『夕雲の城』 富加町教育委員会、渡辺浩行
現地案内[編集]
所在地[編集]
- 〒501-3301 岐阜県加茂郡富加町加治田
交通アクセス[編集]
イベント・観光コース[編集]
- 富加町観光ウォーキングマップ 歴史満喫コース 距離10キロ 所要時間 2時間45分 富加町役場→富加町郷土資料館→絹丸橋→絹丸村(出丸城下町)(加治田城衣丸)→龍福寺→東公民館(旧加治田村立加治田小学校跡)→光宗寺→松井屋酒造場資料館→伊和神社→加治田跡山道入口・白華山清水寺参道→加治田城跡→梨割山頂上→米取場→加治田城跡山道出口(絹丸神社)→旧絹丸村墓地→川浦川新橋→富加町役場
脚注[編集]
- ^ 『富加町史』「現在の富加町加治田上之屋敷に在り。古城山と言う。海抜270m、一名却敵城とも言う。屋敷城はその麓にあった。」
- ^ 『金山町誌』、金山町誌編纂委員会、下呂市、84頁「加治田が飛騨路の要衝」「古来から加治田は町場としての要地であった」「加治田を飛騨路の駅に想定した理由」
- ^ 利堯は7月に『堂洞軍記』では病死、『兼山記』では討ち死したとされているが、実際には加治田城陥落後も生存が確認されている。(斎藤利堯の項参照)
- ^ 『夕雲の城』資料編26頁「山の稜線から南を見ると晴れていれば名古屋駅前の高層ビルや伊勢湾も見えます。」
- ^ 『通史編』「加治田城は二百七十メートルの頂上に築いた城。北方は山深く続き、東西の両面は尾根続きで、ただ南面が開いて、田野の彼方二キロの所に堂洞山を望む。南麓一帯の地を上之屋敷と称し、山ふところに城主、家臣の屋敷が立ち並んでいた。その屋敷の東の小山に三徳櫓、西の小山にも砦があった。山下には津保川の支流にあたる川浦川が西に流れ、山との間の平地には町場があり、上町、中町、下町と言う」
- ^ 「現在の加治田郵便局の裏側北山中腹に位置する」
- ^ 『富加町史』『加治田兼山合戦要図地図』『関・加治田合戦』
- ^ 「川小牧の意味と水量が多くあることで、富加町において旧水力発電所が建設されている」
- ^ 関城が落城し、斎藤利治の領地後は代官が置かれ関市城下町も含まれる事となった
- ^ 「加治田川小牧地域」
- ^ 「旧飛騨街道」
- ^ 軍記物では、却敵城と書かれており、加治田城や加治田山城との名はない。又、加治田の城と言う言い方や、加治田却敵城との記載がある。現在では加治田城と呼ばれているが、その時代においては、却敵城が正式名称である。「一名却敵城」
- ^ 加治田城下町麓の名氏松井屋酒造場逸話
- ^ 加治田城方が味方になるまでは、父の織田信秀の花押しを使用していたが、この時味方になった佐藤紀伊守と加治田衆より、信長が自分自身の花押しを行うようになった
- ^ 『扇の傳』「加治田を通る飛騨街道は、中仙道と郡上街道の脇往還道として多くの人々が往来・終着した」
参考文献[編集]
- 『堂洞軍記』
- 『米田庄・肥田軍記』
- 『南北山城軍記』
- 『永禄美濃軍記』
- 『信長公記』
- 『岐阜県史』
- 『富加町史』
- 『金山町誌』、金山町誌編纂委員会、下呂市、2005年復刻
- 『加治田城復元イラスト(永禄八年(1565年)想定』 香川元太郎 富加町教育委員会 富加町郷土資料館 半布里文化遺産活用協議会