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城下町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
波賀城と城下町(兵庫県宍粟市
犬山城の城下町(愛知県犬山市
和歌山城の城下町(和歌山県和歌山市

城下町(じょうかまち)とは、日本における都市の形態の一つ。領主居城を中心に成立した都市である。

概要

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江戸時代以降は、必ずしも城が中心とは限らず、戦闘を想定しない行政施設としての陣屋を中心とした陣屋町もあるが、広義ではそれらも含めて城下町と呼ぶ。

城下(じょうか)とも呼ばれ、近世以前はこの呼称が一般的であった。

歴史

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成立は戦国時代に始まる。の防衛施設としての機能と、行政都市・商業都市としての機能を持つ。近世城下町発展の最大の功労者は織田信長で、本格的な兵農分離を意図し武士を城下に強制移住させるとともに、市街に楽市・楽座を設けて商工業の発達を活発にした[1]。一方で信長の兵農分離については疑問視する指摘もある[2]

豊臣秀吉大坂城の築造にあたって自治都市であった平野から商人を強制移住させ、大坂城から四天王寺にかけての城下町である平野町を築造し、富の集積地となって殷賑を極めた。大坂の陣を経て平野町から船場に都心が移ったが、江戸時代に入っても全体として大坂は商業の中心地であり続け天下の台所と言われた。

世界各国の大半の城郭都市は、城壁に囲まれた中にと街が存在する。それに対し、日本では寺内町のような土塁で囲まれた都市や町は早くから存在していたものの、初期の城下町では領主の居城のみが堀と城壁に囲まれ、街自体は城壁には囲まれていなかった。しかし、日本においても城下町が発展すると、経済的および政治的価値が上昇し、それにともない城下町を戦乱から防護する必要性が生じた。そのため町を堀と塁壁で囲む総構えの構築が増加してゆき、次第に城郭都市化していく傾向をみせた。

江戸時代になると、防衛都市としての色合いが薄くなり、幕府による政治経済の中心としての色が濃くなった。江戸時代を通じて戦争がなかったことと、大半の藩主家が領主の交代を経験しており、(石高は別として)土地自体への執着が薄かったことが理由として挙げられる。また、城砦としての防衛能力を重視した場所は必ずしも交通の便が良いところではなく、交易都市の色彩を強めるにつれ城が放棄され陣屋などに行政中心が移ったケースも多い。

約300ほどあった城下町も人口の規模は様々で金沢仙台藩のように武士町人合わせて約12万の大規模城下もあれば、東北亀田藩のように4千人程度の小城下までと多様で、多くの場合、1万人前後である[3]

明治以降、城下町を基盤とする都市では、鉄道の導入に伴って商業中心が旧来の中心街から駅周辺へ移る一方、城郭内外には県庁官公庁軍施設が置かれ、城下町の構成を引き継ぎながら近代都市へ再編されていった[4][5]。そのため、現存都市の大きな部分や府県庁所在地の3分の2以上が城下町を基盤としており、現在の市街地構造にも城下町由来の空間構成が残るとされる[4]。 現在の日本では、人口十万以上の都市の半分以上は城下町を起源としている。

それらの城下町は大火や戦災、その後の開発などで姿が変わり、往時を偲ぶことのできる城下町は減少しており、全域の区画が現存する城下町は極めて少ない。しかし全域ではないにしろ、多くの旧城下町では城下町時代の区画の痕跡を残しており、下記のように敵の侵攻を妨ぐように道が区画されていた場合、現在では自動車交通に支障を来していることが多い。また、城下町時代の町人地だった場所が現在でもその都市の中心街としての機能を保っていたり、城下町時代からの祭りや風習を残していたりといった形で、城下町時代の痕跡が残っていることは多い。

構造

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姫路古地図

付近を通る幹線道路のコースを、城下に通じるように付け替えることにより往来が城下を通り、商工業を活性化させる効果を狙っている。ただし、幹線道路は、地形上の有利不利を問わず、権力者の威光を示すために、城の裏に当たる搦手側は通さず、表に当たる大手側を通した。

城下町には、都市防衛の工夫が随所に見られる。敵の侵攻を妨ぐために、川など地形を巧みに利用するとともに、堀を掘り、土塁や石垣を築き、要所には時として枡形のような強固な城門を設けることもあった。城下に入ると幹線道路の両脇に家屋を隙間なく配置させることで城を見え難くして、道を鍵形に曲げたり袋小路を設けるなどすることで、城への到達距離を延長した。また、町割ごとに木戸を設けて、夜には門を閉めて門番を立たせるなど、不審者の侵入を阻んでいた。堀は運河としても使われ物流にも大きな役割を果たしていた。

城下町の立地は、東日本では川の流域である「河岸段丘」に多く、西日本では海に面した「河口デルタ」が多いが、これに加え、彦根膳所諏訪藩などは湖に接しており、湖や沼に面した「湖沼型」もある[3]

町割りは城を中心に、侍町、足軽町、町人、寺町などが配された。侍町とは、家臣の屋敷いわゆる侍屋敷が建ち並ぶ町であり、基本的には身分の高い家臣ほど、城に近い位置に屋敷を持った[3]。現在の地名で、山下(さんげ)・上屋敷町・下屋敷町などがこれに当たる。足軽など軽輩の者は、町人地の外側に配されることも多く、現在に残る地名で、番町・弓之町・鉄砲町などがこれにあたることが多い。

町人地は、侍町の外側に配された商人や職人の町である。付近の村落を城下に移転させたり、商人や職人を職種ごとに分けて強制移住させた。現在に残る地名では、呉服町・油屋町・大工町鍛冶町紺屋町などがこれに当たる。町人地は侍町よりも世帯当たりの面積が狭く、街道沿いに隙間なく建ち並んだ。このため、家屋は間口が狭く奥行きが長い、いわゆる「鰻の寝床」であり、二階建てとなっていた。ただし、二階を生活の場とすると大名を見下ろすことになるので、物置として活用された。

さらに、寺町は、城下町の外郭に配されて広い寺院が建ち並び、都市防衛強化の一翼を担った。

城下町の一覧

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場所によって藩が統治している時期と江戸幕府が統治している時期がある城下町は主だったものを記載している。陣屋町も掲載。市町村合併等によって市域が広大になったり、広域地名瑞祥地名を使用している自治体も多く城下町であった場所が分かりづらいため合併前の市町村を記載している場合がある。こちらを参照[6]

江戸時代以前の区画が残る町の多くは、小京都と呼ばれる。また、近年では、江戸時代の面影が残る街を小江戸と呼ぶこともある。

面影を残す城下町の例

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小京都

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東北地方
中部地方
近畿地方
中国地方
九州地方

小京都以外

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東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
九州地方

脚注

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  1. 脇田修『織田信長―中世最後の覇者』(中央公論社、1987年6月)ISBN 978-4121008435
  2. 池享『日本の時代史 (13) 天下統一と朝鮮侵略』(吉川弘文館、2003年6月)ISBN 978-4642008136
  3. 1 2 3 大岡敏昭『武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景』(角川ソフィア文庫、 2014年) p.28.
  4. 1 2 田中, 映、新谷, 洋二「近世城下町の都市的変貌過程に関する研究」『土木史研究』第21巻、2001年、159-168頁、doi:10.2208/journalhs1990.21.159
  5. 松浦, 健治郎、日下部, 聡、横田, 嘉宏、山口, 庸介、浦山, 益郎「近世城下町を基盤とする府県庁所在都市における明治・大正期から昭和初期までの官庁街の都市デザイン手法」『日本建築学会計画系論文集』第70巻第588号、2005年、87-94頁、doi:10.3130/aija.70.87_1
  6. 野間,晴雄、山近,博義、矢野,司郎、関口,靖之、石坂,澄子「47都道府県・城下町百科」、https://www.maruzen-publishing.co.jp/book/b10122289.html

参考文献

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  • 三浦正幸『城のつくり方図典』 (小学館、 2005年)

関連項目

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外部リンク

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